■日本書記による仏教伝来記述
◆第29代欽明天皇(538年~571年)13年目(552年)に伝来
・百済の聖明王の使者が
⇒欽明天皇に釈迦仏の金銅像一軀、幡蓋若干、経論若干巻と共に、
⇒仏教信仰の功徳を賞賛した上表文を献上し、
⇒仏教が伝わってきた。
尚、上記公伝以前に渡来人による仏教伝来はあった。
【欽明天皇時代(飛鳥時代)の主な政治的課題】
・ヤマト王朝(2世紀~3世紀)時代から続く「中央集権的な統一国家(中国南朝梁の武帝モデル)」への建設途上
⇒古墳時代(2世紀~3世紀)に成立した古代日本の政治及び軍事勢力で、大和盆地や河内平野を本拠地にしていた。
⇒この時代、有力な豪族が政治連合を形成し、大王(天皇)と縁戚関係を結ぶことで王権を支えていた。
⇒政略結婚も頻繁に行われ、豪族との連携によってヤマト王朝は成立し、後世の律令国家にかけても、機内豪族との連合による全国支配(4世紀)が続いた。
◆富雄丸山古墳からの出土品
・4世紀後半のヤマト王権の有力豪族の古墳と推定されている
出典:https://www.ktv.jp/news/feature/230126-2/ 8カンテレ
・仏教導入については慎重なアプローチを採用
⇒崇仏派(=グローバルスタンダード重視)の大臣 蘇我稲目(そがのいなめ)と廃仏派(日本ファースト重視)の大連 物部尾輿(のものべのおこし)が仏教導入に関して対立した。
⇒献上された仏像は欽明天皇より蘇我稲目の管理下に委ねられたのは
⇒百済王朝・渡来人等からもたらされる海外情報(仏教を取り込んで「中央集権的な統一国家」を形成していく動向)を考慮した結果だと思われる。
⇒仏教の政治的利用が既に萌芽しており、ヤマト王朝の進むべき方向性も示唆していたと思われる。
⇒その為、仏教導入の明確な意思表示を行わなかったが、
⇒導入の環境作りをし、ハイブリッド型の解決策を示した。
尚、両者の子である蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)の二世の代になると更に対立が激化し、丁未の乱(ていびのらん:587年)が起き、物部守屋が滅ぼされた。
【歴史的背景(1):国内】
百済の聖明王と欽明天皇の関係:聖明王は日本との外交関係や仏教伝来において重要な役割を果たした。
- 新羅との連携と対抗:聖明王は梁(中国南朝)と結び、新羅との連携を図り、高句麗に対抗しようとした。しかし、529年に高句麗の安臧王に敗れ、2000人の死者を出した。
- 任那復興会議:541年には新羅討伐を名目とする「任那復興会議」を開催し、ヤマト王権(日本)の介入を要請した。欽明天皇からの援軍は547年以降に送られた。
- 新羅との戦闘と最期:聖明王は新羅との戦闘を続けたが、554年に新羅の大群に包囲されて戦死した。
尚、『広開土王碑』には、日本が391年に百済を服従させていたことが記されている。
注)任那(三マナ)とは:4世紀から6世紀頃に朝鮮半島南部に存在した日本(倭)の領有地域を指す。日本書記によれば、日本は楽浪・帶方郡時代(前108年から後313年)に朝鮮半島と交渉を行っていたことが確認されている。
出典:https://www.youtube.com/watch?v=vDPg2mVmkSk(【ゆっくり歴史解説】任那の誕生『朝鮮半島にあった倭人の国』)
尚、任那(三マナ)について諸説があり、歴史的評価が定まっていない。ユーラシア大陸(主に中国:朝鮮半島を含む)との交流の中継地だったかもしれない。
注)広開土王碑:高句麗の第19代国王である広開土王(好太王)功績を讃えるために、息子の長寿王によって414年の建立さらた石碑。現在は中国吉林省集安市の大王陵の近くにあり、高さ6.4メートルの凝灰岩で造られた不整形の方柱に約1,800文字が刻まれている。
この碑文には、高句麗を中心とした朝鮮半島の秩序化の理念を示しており、百済と新羅がもともと高句麗の朝貢国であったにもかかわず、倭軍が侵略してこれらを臣民としたため、現状回復するということが百済親征の理由とさている。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91 Wikipedia
注)蘇我氏と物部氏について:古代日本において有力な氏族。
・蘇我氏は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀から7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣を出していた豪族。彼らは欽明天皇の時に百済から伝わった仏教を積極的に導入し、仏教興隆を促進した。
⇒蘇我馬子は父の代から続く物部氏との対立に決着をつけるために、聖徳太子や他の豪族らと挙兵し、物部守屋を攻め滅ぼし、飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建立した。
尚、聖徳太子は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたるため、蘇我氏とは血縁関係にあった。
⇒政治の表舞台に登場してくるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで飛鳥の地を本拠地にしていたとみられる。当時、先進的な知識や技術をもっていた渡来人を掌握することによって躍進を遂げた。
尚、飛鳥地方には当時、東漢(やまとのあや)氏などといった朝鮮半島の百済から渡来した人達が多く住みついていた。朝鮮半島の国々と交流をするための情報や語学、農具、武器等に目をつけたのが蘇我氏。
⇒稲目、馬子、蝦夷、入鹿と4代にわたり、蘇我氏の独占体制は受け継がれた。その強大な権力は後に起こる乙巳の変(いっしのへん:645年)で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏を滅ぼした。
尚、蘇我入鹿の兵によって、聖徳太子(574年~622年)没後の643年、斑鳩宮の山背大兄王が襲撃され、聖徳太子の血を引く上宮王家(じょうぐうおうけ)一族は絶えた。
・物部氏は、古来の神々を重んじて外国の宗教導入に反対する一派で、蘇我氏と対立していた。物部守屋(ものべのもりや)は蘇我氏との対立で敗北し、攻め滅ぼされた。
注)大化の改新:日本史上初の本格的な政治改革であり、645年に中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって推進された。
この改革は、蘇我氏の独裁を終わらせ、天皇中心の政治体制を築ることを目指していた。具体的な政策として、元号の使用、男女の法の制定、鍾匱の制の開始、仏法興隆の詔の発布、国博士および内臣・左大臣・右大臣の新設、私地私民の売買の禁止などが実施された。
日本政治体制の重要な変革をもたらし、律令国家の基盤を築くる一助となった。
出典:https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/secure/4309/syoutokutaishi.pdf
【歴史的背景(2):東アジア】
■中国生まれの儒教(紀元前)とその後に伝わったインド生まれの仏教(後1世紀頃)
◆儒教
・孔子を始祖とする中国を代表する思想であり、実践的な道徳の理論体系を指す。
⇒孔子は紀元前の中国で活動し、彼の教えは東アジア各国で2000年以上にわたり強い影響力を持ち、孔子の没後も弟子たちによって発展的に伝承され、前漢によって国教とされた。
- 儒教は、五常(仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の関係を維持することを教える。
- 仁(人を思いやること)、義(利己心に囚われず正しい行動をすること)、礼(社会規範や習俗を守ること)、智(学問と道徳的判断力)、信(言明を違えないこと)などが重要な教え。
- 儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸で構成されており、これらの経典は、儒教の教義や社会規範を示す重要なテキスト。
⇒社会の調和と適切な行動を重視し、教育と道徳を通じて調和のとれた社会を実現することを目指す。
⇒礼儀と儀式を重視している。
⇒社会の改善と人間関係の発展を重視する。
⇒良性の政府の政策と人間は本質的に善であるという哲学を提唱し、封建制の中国で正統なイデオロギーとなった。漢代以降、王権祭祀が儒教式に再編され、中国の王権を支える役割を果たしていた。
⇒中央集権国家形成において、儒教は統治の基盤となり、君主と臣民の関係、倫理観、教育制度などに影響を与えた。
◆仏教
・紀元前6世紀にインドで生まれ、創始者である釈迦(しゃか)は、
⇒人生の苦しみから解放される方法を求め、悟りを開いたとされている。
⇒仏教は「四諦(しち)」と呼ばれる教えを中心に展開されており、四諦は「苦諦(くたい)、集諦(しゅうたい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)」のことであり、人々が苦しみから解放されるための道を示している。
⇒また、輪廻転生の概念や八正道(正見、正思想、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)などの修行法も重要な教えである。
尚、四諦八正道とは『悟』りを得る実践。
・原始仏教の実践的認識の最初に直面した問題:「苦」-万物は移ろうゆえに
⇒人生は苦に満ちている。
⇒「苦」とは、自分の思いどおりにならないことを指す。
⇒人は絶えざる不安のうちにあり、苦しみにとりつかれている。
⇒人間はどこにあっても、またいかなるものに頼っても、苦しみから脱することはできない。
⇒「生も苦であり、老も苦であり、病も苦であり、死も苦である。愛せざるものに会うことは苦であり、愛するものと離れることは苦であり、欲するものを得ざることも苦である。
⇒要約していうならば、五つの執着によるあつまり(五取蘊ごしゅうん)は苦である(「ダンマバダ」)
⇒これらの苦は無明からきていると釈尊は認識した。
注)無明とは:無知を指す。具体的には、法(真理)に暗い状態を意味する。
・この認識(概念:コンセプト)は、世界が無常であり、無我であることについての無知を指す。
⇒無明は『苦しみ』の根源であり、無明の状態であるが故に煩悩が生まれ、思い悩み、苦しみが生じる。
⇒釈尊(お釈迦様)は、悟りを得てブツダになった際に、この世の中に絶対に変えられないルール(真理)に気づき、
⇒私達が人生思い通りにならないことが多いくて苦し思いをするのは、
⇒このルールに気づいておらず、ルールに反して生きていこうとするからである。
⇒無明(無知)を解決すれば、安からな世界になると釈尊は言った。
・無明を滅する四段階と八の実践法
⇒「四諦(しち)八正道」を実践して悟りを得てブツダになった。(6年間の修行を積み35歳の時)
・中国に仏教が伝来
⇒仏教は後漢時代(25年~220年)に中国に伝来した。
⇒仏教は、個人の精神的な成長と救済を重視し、儒教とは異なる視点を提供しました。
⇒特に北魏時代(386年~535年)以降、仏教は中国の社会に浸透し、宮廷や一般市民の間で広まりました。
・仏教が中央集権的な統治機構に組み込まれる
- 国家の保護と支援:
- 後漢時代から北魏時代にかけて、仏教は貴族層や国家によって保護され、繁栄した。特に北魏では国家仏教として重視さて、皇帝の保護を受けていた。
- 仏教は、国家の安定と繁栄に寄与するとされ、その教義や僧侶たちの修行が社会的・宗教的な安定に寄与すると認識されていました。
- 政治的利益:
- 仏教は、国家の統治や社会秩序に影響を与える力を持っていたため、政府は仏教を利用しました。仏教寺院は、国家の法律や秩序を維持する場としても機能していました。
- 仏教は、国家の権威と結びついており、政治的な利益を追求するためにも支援されました。
- 文化的交流:
- 仏教はインドから中国に伝わり、中国文化と融合しました。仏教は、中国の伝統的な宗教や思想と交流し、新たな価値観や宗教的実践をもたらしました。
- 仏教は、中国文化の一部として受け入れられ、国家の文化的アイデンティティに組み込まれました。
⇒宗教的、政治的、文化的な要因が絡み合って国家と一体化した。
出典:雲崗石窟 第11窟内部の仏像 北魏時代(386年~535年)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E5%B4%97%E7%9F%B3%E7%AA%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Side_wall_statues_Yungang.jpg
◆インドを訪問した僧侶たち ~法顕、玄奘、義浄 陸路か海路か~
・法顕(337頃~422頃)は、
⇒東晋の僧侶です。399年に長安を出発し、戒律の原典を探す旅にでた。
⇒行きは陸路で西域を通ってグプタ朝インドにたどり着いた。
⇒帰りはスリランカから海路で中国に戻つた。
・玄奘三蔵(602年~664年)は、
⇒唐代の中国の訳経僧で、鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とされている。
⇒玄奘三蔵は629年にシルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院(精舎)などへ巡礼や仏教研究を行い、645年経典657部や仏像などを持って帰還した。
⇒帰国後、仏典の漢訳に努め、法相宗という宗派を開いた。また、自らの旅行記を『大唐西域記』にまとめた。
出典:https://www.youtube.com/watch?v=_4VUaJ8b6x4&t=16s インドお釈迦様の聖地を玄奘三蔵法師と辿る Part1
・義浄(635~713)は
⇒唐の僧侶です。671年に広州から海路でインドに赴いた。
⇒ナーランダー僧院で学び、仏典を収集した。
⇒その後南海諸国を経由して東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国に滞在したあと、
⇒695年に海路で帰国し、230巻にのぼる仏典の漢訳を果たした。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E5%83%A7%E9%99%A2 ナーランダ僧院遺構(仏教の学問所 世界初の全寮制大学)
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BC%9D%E6%92%AD
◆中国大陸と朝鮮半島の関係
・百済の聖明王(在位:540年 – 576年)の統治の特色
⇒中国南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、
⇒仏教を統治機構に積極的に利用した。
⇒彼は仏教を国家の宗教として奨励し、寺院を建立し、仏教僧侶を官僚として登用し、法制度や教育にも仏教の教義を取り入れた。
⇒聖明王の時代には仏教文化が発展し、国内外との交流も盛んで日本にも仏教を伝えた。
注)冊封(さくほう)とは:主に東アジアの君主制において、君主が臣下に対して爵位や名号を与える事を指す。具体的には、何を与えるかを記した詔書も授けられる。これを「柵文」と略して「柵」と呼ぶ。
⇒通常、受封された者はその爵位や封号に基づいて国内の地位を確立し、君臣関係が形成される。
注)中国南朝梁(502年~557年)は、江南に存在した国で、武帝の治世に仏教を保護した。建都は建康(現在の南京)で、3,000以上の寺院と8万人以上の僧尼がいたと伝えられている。
◆インドにおける仏教の発展と衰退
【発展】
・マウリヤ朝のアショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)が出て、インド全体をほぼ統一し、古くからのバラモン教的遺制を除去するために、仏教を保護し、その布教に尽力した。
⇒それによって仏教は国教ともいうべき地位を占め、インド全体に広まった。
⇒アショーカ王は、仏教の普及と人々の幸福を追求するため法(ダルマ)に基づく政策を推進した。
◆アショーカ王の柱には下記のような碑文
- 生き物を大切にし無駄に殺さないこと
- 宗教対立しないこと
- 親の言うことを良く聞くこと
- 年上は敬うこと
- 礼儀正しくすること
- 嘘をつかないこと
- 僧侶や精神的探求者に敬意を払うこと
- 弱い者イジメしないこと
出典:https://jp.mangalamnepal.com/2020/08/Ashoka-the-Great.html
<法(ダルマ)について>
・ダルマは仏教の中心的概念であり、私達の信仰と人生に大きな影響を与える。
- 仏陀の教え:
- ダルマはブッダ(釈尊)の教えを指す。
- 真理と法則:
- サンスクリット語の「dharma」は「保つこと」「支えること」を意味し、それより「法則」「正義」「真理」「最高の実在」「宗教的真理」の意味にもなる。
- ダルマは、人生と宇宙の法則を示し、私たちが歩むべき道を指します。
- 浄土真宗の視点:
- 浄土真宗では、ダルマは阿弥陀如来のご本願であり、私たちが歩むべき道を示しています。
- 阿弥陀如来の慈悲に包まれ、念仏を称えることで、私達は如来の智慧の光に照らされて、安らぎを得ることができるとの視点。 (注)中国の善導大師(613年~681年):称名念仏を中心として浄土思想を確立した。特に「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏を広め、浄土の荘厳を絵図にして教化し、庶民の教化に専念し、『観経疏』等の著作を通じて、浄土宗(法然上人:1133年~1212年)や浄土真宗(親鸞:1173年~1262年)に多大な影響を与えた。
尚、同王は他の諸宗教も援助した。
【衰退】
・7世紀にムスリンのイスラム帝国(カリフ国)が中央アジアに侵入
⇒同地域の仏教は衰退し始めた。
⇒一神教であるイスラム教により仏教及び寺院等は徹底的に破壊され、大半が消滅した。
⇒一方、道教及び儒教の国である中国文化が進歩的に仏教を吸収し、非常に独自性の強い中国仏教(=大乗仏教)が発展し、その影響下の日本も今日まで継承している。
⇒また、スリランカ経由で南アジア諸国(ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス等)に伝播した上座部仏教は今日まで継承されている。
⇒この宗派は釈迦の教えを大切に守る伝統的な宗派であり、涅槃仏はその中で特別な位置を占めている。
注)涅槃仏は、釈迦の最後の瞑想として亡くなりの姿を象徴している。
出典:https://rcreation.jp/stockphoto/vn470/
■仏教を再定義してみるアップローチ:中村元先生の見解を確認する
◆今日の日常におけれる仏教観
⇒仏教は空気のようなもので、その存在を日常生活の中で意識する事は非常に少ないのではないか。
⇒仏教は歴史的にも文化的にも、我々日本人にとって非常に大切なものです。
⇒では、「仏教とは何か」とあらためて問われるとき、私達はどう答えたらよいのか。
⇒その意味で中村元先生が
⇒仏教を「ブッダ(釈尊)の説いた教え」と「ブッダ(覚者)となるための教えをいう」としめされている事は、実はたいへん意義深いことなのです。
⇒つまり仏教は、唯一絶対の神で世界を創造したとするキリスト教やイスラムの神のような、
⇒人間を超越した神の教え(命令)を人びとに説き聞かすという形式の宗教ではなく、
⇒あくまでも人間釈尊が、自らの努力によって到達した心の絶対的安堵(悟り)の体験を人びとに示し、
⇒また、その精進への至る道筋を自らの言葉で語ったものであるというわけです。
⇒ですから、釈尊自身は、多くの弟子たちの悟りへの到達、つまり悟りの完成をお認めになりました。
⇒したがって、仏教教団には大勢の覚者(ブッダ)が存在しました。
⇒理論上は、誰でも精進によって仏陀になれるからです。
⇒仏教とは「人間がブツダ(覚者)になれるための教え」である。
(上記転記先(=出典先)中村元が説く 仏教のこころ 中村元 保坂俊司 補説 麗澤大学出版会)
出典:https://www.kannon-museum.jp/about/ 長谷寺 観音ミュージアム (館内フラッシュによる写真撮影が禁止されていた。2024年6月26日訪問)
◆中央主権的国家観に相反する『老子』の道教
・老子
⇒中国の春秋時代(紀元前770年~紀元前453年:大国「晋」が韓・魏・趙の三国に分裂し、秦の始皇帝による統一の紀元前221年に至るまで)における哲学者であり、諸子百家の一派である道家の創始者とされている。
⇒老子の思想は、後に道教に発展し主な考えは以下。
- 無為自然の理念: 老子は「無為自然」を重視した。これは、人々が自然の流れに従って行動すべきであり、無理に干渉しないことを意味する。統治者が無為自然の原則に従い、自然の法則を尊重することで、国家の調和と平和を実現できると考えた。
- 小国寡民の理想: 老子は「小国寡民」を理想の国家像とした。彼は、政府が簡素であり、人々が自然に生きることを重視すべきだと説いた。統治者は権力を抑制し、人々の自由を尊重すべきであると考えた。
- 反権威主義的な業績: 老子は権威主義に反対し、人々の自由と個性を尊重する立場を取った。この思想は、統治者が専制的でなく、人々の幸福を追求することにつながった。
◆釈尊(ブッダ)と老子の親近性の一例と仏教が中国に受け入れられた下地を想像する
・概ね紀元前6世紀から4世紀頃に活躍し、『非排除・共存型の教え』である一例を紹介
自己というものを考える際、
我々は色々な複雑な人間関係の中に置かれて生きているわけで、周囲から切り離されて生きるということはできない。
また、人間は周りの自然環境に決して対立するのでなく、融合しているものだとそこまで思いをはせれば、
自己がどう生きるていったらいいかていうことを考えると、生きるべき道というものが明になってくる。
宇宙の波長に自分を合わせて生きていく。
出典:仏教の心を語る 3 汝自身を知れ 中村元 奈良康明 (両氏の対談より一部抜粋)
■02歴史展示の具体的内容 歴史ストーリ テーマストリー <東アジア文化の受容と変容> 語り部 南淵請安(遣隋使):奈良県資料の転記
出典:https://www.pref.nara.jp/secure/61525/02-5.pdf 02歴史展示の具体的内容 歴史ストーリ テーマストリー <東アジア文化の受容と変容> 語り部 南淵請安 (奈良県)
■日朝交流の『中継地』としての任那(みまな)
◆任那に関する歴史的評価が定まらないのが現状下でのイメージ
明治以降、日本の商社が海外の優れた製品を求め、現地支店や現地提携店等を設け、商流を活発化するべく、各種情報・技術・社会動向等にも注意を払い、日本の近代化の一翼を担ったイメージかもしれない。
・飛鳥時代に中国、朝鮮半島から渡来した人々は
⇒日本には無い、多くの新しい技術をもたらした。
⇒文字を読み書きする技術、稲作のための灌漑工事技術と暦、馬の飼育法、鉄を生産する技術等が含まれている。
⇒また、仏教伝来や遣隋使・遣唐使を通じて、中国大陸から最先端の技術がもたらされ、日本の社会が大きく変わっていった時代でもあった。
・出雲たたら製鉄と朝鮮半島の関係
⇒古代の出雲王国と朝鮮半島との繋がりを探る。
- 朝鮮半島から近い出雲地域:
- 出雲地方は、朝鮮半島から日本列島への交通ルートに近い場所。
- 船で航行する際、朝鮮半島南部から出雲岩見にかけての沿岸部(島根県の北西沿岸部)へ向かう方が、北九州に向かうよりも早く航行できたことがあった。
- 古代の航行技術により、潮流や天候を読み、航海が可能であったと考えられている。
- 交易と文化の結びつき:
- 出雲周辺の遺跡から、朝鮮半島との交易の痕跡が見つかっている。
- 縄文時代から弥生時代前期にかけて、朝鮮半島南部で使われていた土器と同型の物が出雲地域で発見されている。
- 出雲大社近くの唐川地区には、韓竃神社(かまじんじゃ)という神社があり、製鉄のための溶鉱炉であったと推測されている。
- たたら製鉄の起源:
- 「たたら製鉄」は日本独自の製鉄法で、砂鉄を原料に木炭を燃やして溶けた鉄を取り出す技術。
- 出雲地方は森林資源が豊富で、良質の砂鉄も採れる場所だった。
- 朝鮮半島から製鉄集団がやって来たことが考えられている。
◆たたら製鉄
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%82%89%E8%A3%BD%E9%89%84