■大乗仏教の『空』の観念
もろもろの事象が
相互依存において成立しているという理論によって
空(śūnyatā:シューニャター)の観念を基礎づけた。
◆空(śūnyatā)とは
・その語源
⇒「膨れ上がった」「うつろな」という意味である。
⇒「膨れ上がった」ものは中が「うつろ(空)」である。
⇒数学においてゼロと呼んでいる小さな楕円形の記号は
⇒サンスクリット語ではシューニャ(śūnya)と呼ばれる。
⇒それが漢訳仏典では「空」と訳されているのである。
・大乗仏教、とくにナーガールジュナを祖とする中観(ちゅうがん)派の哲学者の主張
⇒何ものも真に実在するものではない。
⇒あらゆる事物は
⇒見せかけだけの現象にすぎない。
⇒その真相についていえば空虚である。
⇒その本質を「欠いて」いるのである(śūnya:・・を欠いているという意味に用いられる)。
⇒無も
⇒実在ではない。
⇒あらゆる事物は
⇒他のあらゆる事物に条件づけられて起こるのである。
空(śūnyatā)というものは
無や断滅ではなくて
肯定と否定、有と無、常在と断滅というような
二つのものの対立(二項対立)を離れたものである。
したがって、あらゆる事物の依存関係(relationality)に外ならない。
◆ナーガールジュナの出現
・ナーガールジュナの思想の根本は
⇒この「空(śūnyatā)」の思想である。
⇒すでに大乗仏教の般若経典の中に空観(くうがん)ということが述べられていたが、
⇒それの発展したものである。
⇒般若経典は膨大なものであるが、その中では、ただ、空ということが高らかに強調され、繰り返されている。
⇒しかし、それを理詰めに論議するようなことはなかった。
⇒ところが、後に空の思想を積極的に理論的に説明する人々が現れてきた。
⇒その発端となったのが、ナーガールジュナである。
⇒ナーガールジュナが空の思想を理論的に基礎づけた。
⇒大乗仏教とよばれるものは、みな彼から出発したのである。
⇒そのため、日本では、彼は南都六宗・天台・真言の「八宗の祖師」と仰がれている。
⇒のちの仏教のいろいろな思想は、彼に負うところが非常に多い。
■大乗仏教の思想
◆概略
・紀元100年前後(A.D.100)の仏教界において、
⇒伝統的保守的仏教が圧倒的に優勢な社会勢力をもっていたが、
⇒一般民衆ならびにその指導者であった説教師の間では新たな宗教運動が起こりつつあった。
⇒それがいわゆる大乗仏教である。
⇒これに対して旧来の伝統的・保守的仏教は一般に小乗仏教(上座部仏教)と呼ばれているが、
⇒それは大乗仏教の側から投げつけた貶称(へんしょう)であって、旧来の仏教諸派はそのようには称していない。
⇒旧来の諸派は自ら仏教の正統派を以て任じ、大乗仏教を無視していた。
・両者の特徴(相違):その1
⇒旧来の諸派は
⇒たとえ変容されていたとしても、歴史的人物としてのゴーダマ(釈尊)の直接の教示に近い聖典を伝えて、伝統的な教理をほぼ保存している。
⇒大乗仏教は
⇒全然あらたに経典を創作した。
⇒そこに現れる釈尊は、
⇒歴史的人物というよりもむしろ理想的存在として描かれている。
・両者の特徴(相違):その2
⇒旧来の仏教諸派は
⇒国王・藩候・富豪などの政治的・経済的援助を受け、広大な荘園を所有し、その社会的基盤の上に存立していた。
⇒社会的勢力を有し、莫大な財産に依拠し、ひとり自ら身を高く侍し、自ら身を潔しとしていたために、その態度はいきおい独善的・高踏的であった。
⇒かれらは人里離れた地域にある巨大な僧院の内部に居住し、静かに瞑想し、座禅を修し、煩瑣(はんさ)な教理研究に従事していた。
⇒大乗仏教は
⇒少なくとも初期の間は、民衆の間からもり上がった宗教運動であり、荘園を所有していなかった。
⇒そうし「国王・大臣に近づくなかれ」といって権力者に阿諛(あゆ)することを諫め、その信仰の純粋にして清きことを誇りとした。
⇒また富者が寺塔を建立し莫大な富を布施することは非常に功徳の多いことであるが、
⇒しかし経典を読誦・書写し信受することほほうが、比較にならぬほどの功徳が多いといって、経典の読誦を勧めている。
⇒一方、大乗仏教は旧来の仏教諸派の生活態度をいたく攻撃した。
⇒彼らの態度は利己的・独善的であるといって軽視し、「小乗」という貶称を与え、自らを利他行を強調した。
◆利他行の実践と諸仏・菩薩への信仰
・大乗仏教では慈悲の精神に立脚
⇒生きとして生きるもの(衆生)すべてを苦から救うことを希望する。
⇒自分が彼岸の世界に達する前に、まず他人を救わなければならぬ。
⇒かかる利他行を実践する人を菩薩(Bodhisattva:ボーディサットヴァ)と称す。
⇒出家したビク(修行者)でも、在家の国王・商人・職人などでも、
⇒衆生済度の誓願(悲願)を立てて、それを実践する人はみな菩薩である。
・慈悲に基づく菩薩行は
⇒理想としては何人も行わねばならぬものであるが、
⇒一般の凡夫(ぼんぶ)にはなかなか実践しがたいっことである。
⇒そこで他方では、諸仏・諸菩薩に帰依し、その力によって救われ、
⇒その力にあずかって実践を行うことが説かれた。
⇒したがって信仰の純粋なるべきことを強調し、信仰の対象としては、
⇒ブッダ(釈尊)をますます超人的なものとして表象された。
⇒大乗仏教においては、
⇒三世十万にわたって無数に多くの諸仏の出世および存在を明かすに至った。
⇒諸仏の中でも阿閦仏(あしゅくぶつ)、阿弥陀仏、薬師如来などがとくに熱烈な信仰を受けた。
⇒また菩薩も超人化されて、その救済力が強調された。
⇒弥勒菩薩・観世音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩などはとくにその著しいものである。
⇒かれらは衆生を救うためには種々なる身を現じてこの世に生まれてくる。
⇒そうして衆生に対する慈悲のゆえに自らはニルヴァーナ(悟りの境地、涅槃)に入ることもない。
・諸仏、菩薩に対する信仰が高まるにつれて
⇒それらの身体を具体的なかたちで表現してそれを崇拝したいという熱望が起こり、多数の仏像および菩薩像が作製された。
⇒中央インドのマトゥラー市と西北インドのガンダーラ地方とが仏像製作の中心地であった。
⇒前者はアショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)以来のインド国粋美術の伝統に従っているが、
⇒後者にはカニシカ1世(144年~171年)時代のギリシャ美術の影響がいちじるしい。
出典:左図)https://butsuzou.themedia.jp/posts/7751439/ 右図)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
出典:左図)https://butsuzou.themedia.jp/posts/7717652/ 右図)https://www.louvre-m.com/collection-list/no-0010 下図)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
・大乗仏教の教化方法
⇒当時の民衆の精神的素質あるいは傾向に適合するようなしかたにたよらねばならなかった。
⇒そこで仏・菩薩を信仰し帰依するならば
⇒多くの富や幸福が得られ、無病息災となると説いている。
⇒特に注目すべきこととしては、教化の重要な一手段として咒句(じゅく:まじない:陀羅尼)を用いた。
⇒かかる教化方策は非常な成功を収めた。
⇒しかし同時に大乗仏教がのちに堕落するに至った遠因をここにはらんでいた。
⇒初期の大乗仏教徒はいまだ整った教団の組織を確定していなかったし、
⇒細密な哲学的論究を好まなかった。
⇒むしろ自分らの確固たる信念とたぎりあふれる信仰とを華麗巨大な表現もって息もつかずに次から次へと表明し、その結果成立したものが大乗経典である。
・大乗経典は、
⇒それ以前に民衆の間で愛好されていた仏教説話に準拠し、あるいは仏伝から取材し、
⇒戯曲的構想を取りながら、
⇒その奥に深い哲学的意義を寓せしめ、
⇒しかも一般民衆の好みに合うように作製された宗教的文芸作品である。
注)陀羅尼(だらに):サンスクリット語で「dhāraṇī」と呼ばれ、仏教の呪文やマントラに相当する。陀羅尼は、特定の言葉や句を繰り返し唱えることで、精神的な保護や加持(かじ)を求めるためのもの。以下に、陀羅尼のいくつかの重要な側面について
陀羅尼の種類
- 護摩陀羅尼(ごまだらに): 精神的な護りを求めるために唱える陀羅尼。
- 消災陀羅尼(しょうさいだらに): 災難や悪運を除くために用いられる陀羅尼。
- 増益陀羅尼(ぞうやくだらに): 富や知識などの増益を願うための陀羅尼。
- 愛染陀羅尼(あいぜんだらに): 人間関係や愛情を改善するために唱える陀羅尼。
陀羅尼の役割
- 精神的な保護: 陀羅尼を唱えることで、精神的な保護や加持が得られると信じられている。
- 修行の補助::仏教の修行者が瞑想や儀式の一環として陀羅尼を唱え、心を集中させ、精神的な成長を促す。
- 願望成就:陀羅尼は、願望の成就や悪運の排除、健康の増進などを目的としている。
陀羅尼の歴史
陀羅尼は、仏教がインドから他の地域に広がる際に、特に中国や日本などの大乗仏教圏で発展した。これらの地域では、陀羅尼が経典や儀式の一部として広く受け入れられた。
◆般若経典における空観
・空観とは
⇒一切諸法(あらゆる事物)が空であり、それぞれのものが固定的な実体を有していない、と観ずる思想である。
⇒すでに原始仏教において、
⇒世間は空であると説かれていたが
⇒例えば「常に心に念じて、【何もかを】アートマン(我)なりと執する見解を破り、世間を空であると観察せよ。そうすれば死を度(わた)るであろう」(スッタニパータ1119)
⇒大乗仏教の初期につくられた般若経典では
⇒その思想を受けてさらに発展せしめ、大乗仏教の基本的教説とした。
⇒般若経典としては『大般若波羅蜜多経』(600巻、玄奘訳)は一大集成書であるが、『般若心経』、『金剛(般若)経』、『理趣経(りしゅきょう)』などはとくに有名である。
⇒当時、説一切有部(せついっさいうぶ)などのいわゆる小乗諸派(上座部仏教)が
⇒法の実有(じつう)を唱えていたのに対して、
⇒それを攻撃するために特に否定的にひびく<空>という語を
⇒般若経典は繰り返し用いたのであろう。
⇒それによると、われわれは固定的な「法」という観念を懐(いだ)いてはならない(『金剛経』)。
⇒一切諸法は空である。
⇒何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて成立しるものであるから、
⇒固定的・実体的な本性を有しないものであり、
⇒「無自性(むじしょう)」であるから、
⇒本体をもたないものは空であるといわねばならぬからである。
⇒そうして、諸法が空であるならば、
⇒本来、空であるはずの煩悩などは断滅するというこも、
⇒真実には存在しないことになる(『金剛経』)。
⇒かかる理法を体得することが無上正等覚(むじょうしょうとうがく:悟り)である。
⇒そのほかに何らかの無上正等覚(悟り)という別なものは存在しない。
⇒実践はかかる空観に基礎づけられたものでなければならない。
⇒たとえば『金剛(般若)経』の第10節では、
⇒「まさに住するところなくしてその心を生ずべし」(「応無所住而生其心」)と説いている。
⇒菩薩は無量無数無辺の衆生を済度(さいど)するが、
⇒しかし自分が衆生を済度するのだ、と思ったならば、それは真実の菩薩ではない。
⇒かれにとっては、救う者も空であり、救われる衆生も空であり、救われて到着する境地も空である。
⇒また身相(身体的特徴)をもって仏を見てはならない。
⇒あらゆる相はみな虚妄であり、もろもろの相は相に非ず、と見るならば、すなわち如来を見る。
⇒かかる如来には所説の教えがない。
⇒教えは筏のようなものである。衆生を導くという目的を達したならば捨て去られる。
⇒かかる実践的認識を智慧の完成(般若波羅蜜多)と称し、
⇒与える(布施)・いましめをまもる(持戒)・たえしのぶ(忍辱/にんにく)、つとめはげむ(精進)、静かに瞑想する(禅定)という五つの完成を併せて<六つの完成>(六度、六波羅蜜多)と称する。
◆在家仏教運動
・空観からの論理的必然的な結論
⇒輪廻とニルヴァーナとはそれ自体としては何ら異ならぬものである、と教えられた。
⇒しからばわれわれの現実の日常生活がそのまま理想的境地として現わし出されねばならぬ。
⇒理想の境地はわれわれの迷いの生存を離れては存在しえない。
⇒空の実践としての慈悲行は
⇒人間生活を通じて実現される。
⇒この立場を徹底させると、ついに出家生活を否定して在家の世俗生活の中に仏教の理想を実現しようとする宗教運動が起こるに至った。
⇒その所産としての代表的経典が『維摩詰所説経(ゆいまきつしょうせつきょう)』である。
⇒そこにおいては維摩詰という在家の資産者(居士(こじ))が主人公となっていて、
⇒出家者たる釈尊の高足の弟子たちの思想あるいは実践修行を完膚なきまでに論難追及してかれらを畏縮せしめ、
⇒その後に真実の真相を明かしてかれらを指導するという筋書きになっている。
⇒その究極の境地はことばでは表示できない「不二の法門」であり、
⇒維摩はそれを沈黙によって表現したという。
⇒在家仏教の運動の理想は、
⇒やや後代に現れた『勝鬘経(しょうまんきょう)』のうちにも示されている。
⇒それは、釈尊の面前において国王の妃である勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が諸問題について大乗の法を説くが、釈尊はしばしば賞賛の辞をはさみつつ、その説法を是認するという筋書きになっている。
注)仏教受容の最初期の聖徳太子の立ち位置(認識)
・「勝鬘経」「維摩経」「法華経」の三教を選んで注釈(解説書=三教義疏)した姿勢
世俗生活を肯定する立場から三教を選定し、注釈をした。
太子はいうまでもなく、摂政という最高政治に携わる世俗の人であり、
人間が生きていくうえの倫理の指針として、また統治の根本原理として
仏教を採択したのである。
したがって仏教の理想は
僧侶(出家)によって実現されるだけではなく、
社会的な実践課題でなければならなかった。
■「維摩経」の「第三章 弟子」に注釈(維摩経義疏)して、
「山としてかくれなければならない山はなく、世として避けなければならない世はない。・・・
汝らは、彼此といった差別の心から、世俗を捨てて山にかくれ、かえって身心を迷いの世界に現している」といい、
「維摩経」のテーマはこうである。
釈尊の弟子たちが維摩のところに行くと、いろいろ質問されてやっけられる。
そして自分の至らぬことを悟らされる。
最後に維摩が本当の教えを説く。
そして、最後のぎりぎりの境地まで達すると、
黙然無言(もくねんむごん)であったというのである。
文殊菩薩は最高の真理というのは言葉では説かれないもので、「文字もなく説もなし」という。
そして維摩さん、あなたはどう考えですかといって促すと、
維摩はただじっと座って黙然無言であった。
文殊は「言葉にはいえない」ということを言葉に出していってしました。
ところが維摩は身をもって体現している。無言の行を行っている。
「話してはいけない」といったとすると、これはも無言を破ってしまったことになる。
維摩はこの無言を実践して、
絶対の真理というものは概念化を超えたところにあるもので
対立の彼方にあるということを表現しているのである。
・対立を超えたということになると
世俗の世界の外に宗教があるとすると、もうそこに対立を認めたことになる。
世俗と宗教、俗なるものと聖なるものと対することになる。
対立していることにおいて、宗教的な聖なるものは絶体ではない。
もしも本当の絶対であるならばすべてを含んだものでなければならない。
すると宗教の真理の境地というものは世俗の彼方にあるものではなく、
われわれが毎日起きて顔を洗い、ご飯をいただき、茶を喫し、歩いて出かける、
この平凡な日常生活の中に偉大な真理があるわけで、
それを超えたところに宗教の境地があると思ってはならない。
だから、維摩居士は世俗の長者なのである。出家した僧ではない。
・普通であると、僧が信者に向かって教えを説くのであるが、
「維摩経」のテーマはまったく逆である。
その筋書は、世俗人である維摩が、
出家者である僧たちに教えを説いて聞かせるということである。
これは世俗の宗教、在家仏教の主張である。
聖徳太子は、ここに思いを馳せた。
聖徳太子の生涯を見ると、
太子は出家した僧ではなく、あくまでも世俗の政治家として天皇を補佐したのである。
その理論的根拠がここにある。
■勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏(ぎしよ)
・如来蔵:tathāgata-garbha:タターガタ・ガルバ
聖徳太子は人間の現実を成立せしめる根底として「勝鬘経(しょうまんぎょう)」の説く「如来蔵」の概念を採用し想定していた。
如来蔵は如来の母胎という意味である。
生きとして生けるものは、いつかは如来すなわち仏となりうるものであるが、
しかし煩悩の汚れにまつわられていて、仏となりうる本性が現れていない。
だが仏となりうる可能性を否定することはできない。
汚れにまつわられている状態のうちにある真実そのもの<在纒位(ざいでんい)の法身(ほつしん)>を「如来蔵」と呼ぶ。
これは「勝鬘経(しょうまんぎょう)」その他の経典に説くところであるが、
聖徳太子は、この概念を自分の思想の根幹にすえたのである。
◆『華厳経』における菩薩行の強調とその趣旨
・現象界の諸事象が
⇒相互に密接に連関しているという。
⇒いわゆる事事無碍(じじむげ)の法界縁起(ほつかいえんぎ)の説に基づいて菩薩行を説く。
⇒菩薩の修行には自利と他利との二方面があるが、
⇒菩薩にとって、衆生済度(しゅじょうさいど)ということが自利であるから自利即利他である。
⇒この経の十地品(じゅうじぼん)では、
⇒菩薩の修行が進むにしたがって心の向上する過程を十地(十種の段階)に分けて説く。
⇒また入法界品(にゅうほっかぼん)のうちでは、
⇒善財童子の求道という中心の筋書きが注目されるべきである。
⇒かれは菩薩心を起こして、菩薩行を完全に知らんがために南方に旅して五十三人のもとを訪ね教えを乞い、最後に普賢菩薩の教えを受けて究極の境地に到達する。
◆華厳経の法界縁起の思想と『中論』が主張する縁起
・両者非常に類似している。
⇒法界縁起の説においては
⇒有為法・無為法を通じて一切法が縁起していると説くのであるが、
⇒その思想の先駆を『中論』のうちに見出す事ができる。
⇒中国の華厳宗は一切法が相即円融(そうそくえんゆう)の関係にあることを主張するが、
⇒中観派の書のうちにもその思想が現れている。
⇒「一によって一切を知り、一によって一切を見る」といい、
⇒また一つの法の空は一切法の空を意味するとも論じている。
⇒(チャンドラキールティの詿解『プラサンナパダー』28ページ)
⇒「一つのものの空を見る人は、一切のものの空を見る人であると伝えられている。
⇒一つのものの空性は、一切の空性にほかならない」
⇒(アーリヤデーヴァ『四百論。第八章・第十六章』)
⇒「中観派は、一つのものの空性を教示しょうと欲しているのと同様に、一切のものの空性も教示しようとしているのである」
⇒(チャンドラキールティの詿解『プラサンナパダー』127ページ)
・一と一切とは別なものではない
⇒極小において極大を認めることができる。
⇒極めて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出しうる
⇒各部分は全体的連関の中における一部分にほかならないから、
⇒部分を通じて全体を見ることができる。
⇒『中論』のめざす目的は全体的連関の建設であった。
⇒このように解するならば『中論』の説く縁起と華厳宗の説く縁起は
⇒いよいよもって類似していることが明らかである。
⇒従来、華厳宗の法界縁起説は全くシナにおいて始めて唱え出されたものであり、
⇒縁起という語の内容を変化させ、
⇒時間的観念を離れた相互関係の上に命名したした、と普通解釈されてきたが、
⇒しかし、華厳宗の所説は
⇒すでに三論宗の中にも認められるのみならず(「三論玄義」八三枚左)、
⇒さかのぼつて『中論』のうちに見出しうる。
⇒『中論』の縁起説は華厳宗の思想と根本においてはほとんど一致するといっていい。
⇒ただ華厳宗のほうが一層複雑な組織を立てている点が相違するのみである。
⇒賢首(げんじゅ)大師法蔵には『十二門論宗致義記』があるほどであり、
⇒また日照三蔵からも教えを受けたというから、ナーガールジュナ(龍樹)』からの直接の思想的影響も十分に考えられる。
注)華厳経の法界縁起の思想:この思想は、すべての存在が相互に繋がっているという考えに基づいている。具体的には、すべてのものが「法界」という一つの大きな繋がりの中にあるということ。
この思想は、個々の存在が孤立しているのではなく、すべてが相互に依存し合っているという仏教的な視点を強調している。このようにして、法界縁起は、人々が他者や自然との関係をより深く理解し、共感を持つことを促す。
華厳経の教えは、この法界縁起の思想を通じて、人々が自己の内面的な成長と外部の世界との調和を追求することを目指している。
注)『華厳経』の教理
『華厳経』の教理の特色は、第一に人間には仏性があり、仏になるとしたこと。第二に、ブッダが悟った真理は「縁起」から見た世界にあるとしたこと。第三は、宇宙は多様な要素がすべて相互にネットワークしあって、秩序をつくりあげているとしたことにある。
松岡正剛『情報の歴史を読む』(NTT出版)p,21
出典:https://1000ya.isis.ne.jp/1700.html (松岡正剛の千夜千冊 1700夜)
注)龍樹の『中論』において、「空」(Śūnyatā)と「縁起」(Pratītyasamutpāda)の関係
空の概念
- 空(Śūnyatā): 物事が固定された本質(自性)を持たないことを意味する。つまり、すべての存在は独立して存在するわけではなく、他のものとの関係性の中でのみ存在する。
縁起の概念
- 縁起(Pratītyasamutpāda): 「因縁生起」とも訳され、すべての現象が原因と条件に依存して生起することを指す。これは、物事が他の物事との関係性によって存在するという教え。
空と縁起の関係
- 相互依存性:空は、物事が自らの力だけで存在するのではなく、常に他のものとの関係によって存在していることを示す。縁起も同様に、すべての現象が他の現象と相互に依存し合っていると説きく。
- 無自性(むじしょう): 縁起の理解は、物事が無自性であることを説明する。すべての現象は、固定された本質を持たないため、空であるとされる。これにより、縁起と空は一体のものと理解される。
- 中道の教え:龍樹は、『中論』において中道の教えを強調し、空と縁起の関係を通じて、存在と非存在の極端を避ける中道を説いた。つまり、物事が実体を持たないという空の教えと、それらが相互に依存して生起するという縁起の教えを統合することで、中道が実現されます。
- 無分別智:縁起の理解は、物事を分別する知識を超える智慧(無分別智)を生み出します。これにより、執着や偏見から解放され、真実の理解に到達することができる。
龍樹の『中論』は、空と縁起の関係を通じて、仏教の深遠な教えを体系的に解説し、多くの仏教哲学者に影響を与えた。
◆浄土教
・一部の大乗教徒は
⇒現世を穢土(えど)であるとして、彼岸の世界に浄土求めた。
⇒阿閦仏(あしゅくぶつ)の浄土たる東方の妙喜国、弥勒菩薩の浄土である上方の兜率天(とそつてん)などが考えられ、
⇒これらの諸仏を信仰することによって来世にはそこに生まれことができると信じていたのである。
⇒後世もっとも影響が大きかったのは阿弥陀仏の浄土である極楽世界の観念である。
⇒阿弥陀仏の信仰は当時の民衆の間に行われ、諸大乗経典の中に現れているが、とくに主要なものは次の浄土三部教である。
⇒『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』二巻 漕魏、康僧鎧(こうそうがい)訳
⇒『仏説観無量寿経』一巻 宗、畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)訳
⇒『仏説阿弥陀経』一巻、後秦、鳩摩羅什(くまらじゅう:クマーラジーヴァ)訳
⇒浄土経典は
⇒五濁悪世(ごじょくあくせ)の衆生のために釈尊が阿弥陀仏による救いを説いた経典であるということを標榜している。
⇒阿弥陀仏とは原語音訳の省略であって、その意味を訳して無量寿仏(mitāyus:アミターユス)または無量光仏(Amitābha:アミターバ)という。
⇒阿弥陀仏は過去世には法蔵比丘という修行者であったが、
⇒衆生済度の誓願(四十八願)を起こして、長者・居士・国王・諸天などとなって無数の衆生を教化し諸仏を供養して、ついにさとりを開いた。
⇒この世界から西方に向かって
⇒十万億の仏国土を過ぎたところに極楽浄土があり、かの仏は現にそこにまいまして法を説いている。
⇒そこには身心の苦がなく、七宝より成る蓮池がり、美しい鳥の鳴声が聞え、天の音楽が奏せられている。
⇒阿弥陀仏に心から帰依する者は、その極楽世界に生まれることができる。
⇒この仏が過去世に修行者であったときに立てた四十八の願のうちの第十八願に、
⇒「もしわれ(未来の世に)仏となることを得んに、十万の衆生が至心に信じねがって、わが国に生まれんと欲し、乃至十たび念ずるも、もし(わが国に)生ぜずんば、われは正覚(しょうがく)を取らじ(仏とはならず)」と誓ったが、
⇒いまや仏となりたもうたから、仏を念ずる人は必ず救われるはずであるというのである。
⇒善男子(ぜんなんし)あるいは善女人(ぜんにょにん)が無量寿仏の名号を聴聞し、心に念ずるならば、その人の臨終に当たって無量寿仏は声聞および菩薩の聖衆(しょうじゅ)をつれてかれの前に立つ(来迎)。
⇒そこで現世の意義が後代の浄土教では大いに問題となるが、
⇒すでに経典の中で六度の実践が強調されている。
注)浄土教における六度の実践の特徴
浄土教では、特に阿弥陀仏への信仰と念仏の唱和が中心となる。以下に、浄土教の文脈における六度の実践について説明する。
- 布施:物質的な布施に加えて、念仏を通じて他者への精神的な支援を行うことが重視される。
- 持戒:浄土教でも戒律を守ることは重要ですが、特に念仏を日々の生活の中で実践し、他者とともに阿弥陀仏の浄土を目指すことが強調されている。
- 忍辱:他者に対する寛容と慈悲の心を持ち、困難な状況でも念仏を唱え続けることが強調される。
- 精進:念仏の実践を絶え間なく続けることが、浄土教の修行者にとっての精進となる。
- 禅定:瞑想や集中は重要ですが、浄土教では念仏そのものが瞑想行為としての役割を果たす。
- 智慧:阿弥陀仏の誓願と浄土の教えを深く理解し、信仰を通じて智慧を得ることが目指される。
浄土教の六度の実践は、阿弥陀仏の慈悲と誓願に基づき、信仰と念仏を中心に据えた修行法。これにより、修行者は自らの浄土への往生を確信し、他者にもその道を示すことができる。
⇒出典:https://www.byodoin.or.jp/learn/history/
◆一乗思想と久遠(くおん)の本仏の観念
・大乗仏教徒は
⇒小乗仏教徒を極力攻撃しているけれども、
⇒思想史的現実に即していうならば、仏教の内の種々の教説はいずれもその存在意義を有するものであるといわねばならない。
⇒この道理を戯曲的構想と文芸的形式をかりて
⇒明確に表現した経典が『法華経』である。
⇒『法華経』はとくにクマーラジーバヴァ(鳩摩羅什)訳『妙法蓮華経』八巻によって有名であるが、
⇒その前半十四品(迹門:しゃくもん)においてはただ声聞乗(しょうもんじょう:釈尊の教えを聞いて忠実に実践すること)・縁覚乗(えんがくじょう:ひとりでさとりを開く実践)・菩薩乗(自利利他をめざす大乗の実践)の三乗が一乗に帰するということを、非常に力強く主張している。
⇒従来これらの三乗は、一般に別々の教えとみなされていたが、それは皮相の見解であって、いずれも仏が衆生を導くための方便として説いたものであり、
⇒真実は一乗法あるのみである、という。
⇒また、一つの詩句(一偈:いちげ)を聞いて受持せる者、塔や舎利(遺骨)や仏像を礼拝する者、否、戯れに砂で塔を造る真似をし、爪で壁に仏像を書いた幼童でさえ、仏の慈悲に救われる。
⇒仏の慈悲は絶対である、という。
・種々の教えがいずれも存在意義を有するのは何故
⇒それらは肉身の釈尊の所説ではない。
⇒それらを成立せしめる根源は、
⇒時間的・空間的限定を超えていながらしかもその中に開顕し来る絶対者・諸法実相の理にほかならない。
⇒これが久遠(くおん)の本仏である。
⇒世間の一切の天・人は釈迦如来がシャカ(釈迦)族から出家し、修行してさとりを開き、八十歳で入滅したと考えているが、
⇒実は釈尊は永遠の昔にさとりを開いて衆生を教化しているのであり、常住不滅である。
⇒人間としての釈尊はたんに方便のすがたにほかならない。
⇒仏の本性に関するかかる思索を契機として、その後仏身論が急速に展開するに至った。
⇒また『法華経』の宥和的態度はさらに発展して、
⇒『大薩遮尼乾子所説経(だいさつしゃにけんじしょせつ共)』や『大般涅槃経(だいはつ涅槃経)』においては、仏教外の異端説にもその存在意義を認めるに至った。
■ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』が目指(意識)した先は「最初期の仏教」
◆主な批判思想から『中論』の思想を浮き彫り化
・主要論敵は説一切有部
⇒中観派は自己の反対派を概括して自性(じしょう)論者、または有自性論者と総称している。
⇒それは事物または概念の「自性」すなわち自体、本質が実在すると主張する人々である。
⇒『中論』はこれに対して無自性を主張したのであるから
⇒『中論』を徹底的に研究するためには有自性論一般を広く考察せねばならない。
◆説一切有部
・従来の中国・日本の仏教(大乗仏教)において説一切有部は、
⇒小乗仏教(上座部仏教)の代表的な学派として、仏教の中で最も低級な教えのように思われていた。
⇒しかしそれは、その思想が大乗仏教の思想と正反対の点があり、
⇒またた社会的には説一切有部(小乗仏教の諸派のうちで)が最も有力であったので、
⇒大乗仏教側から盛んに論難しまた貶したわけである。
⇒説一切有部の思想はそれ自体として深い哲学的意義をもっているから、
⇒それをもっとよく理解し、正当に評価する必要がある。
◆説一切有部の立場
・根本思想
⇒「一切が有る」と主張したといわれている。
⇒昔から日本ではふつう「三世実有(さんぜじつう)、法体恒有(ほつたいごうう)」であるといわれている。
⇒「一切有」という句とあわせていうと、「一切の実有なる法体が三世において恒有である」といいうる。
⇒この句の意義を闡明(せんめい)すれば説一切有部(以下有部と称す)の根本思想を知りうるはずであるから、これを分けて考察したい。
第一「法」および「法体」を有部はいかの解したか
第二「実有」とはいかなる意味か
第三「一切」とはいかなる意味か
⇒第四「三世において恒有である」とはいかなる意味か
・有部における法の概念
⇒仏教思想は、つねに法に関する思索を中心として発展している。
⇒法という語を語源的に説明すれば、√dhrであり、これからDharma(ダルマ)という名詞がつくられた。
⇒√dhrとは「たもつ」という意味であるから、法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが語源であるといわれている。
⇒これはインド一般に通ずる用例であり、これがもととなってさらに種々の意義がこの語に附加されている。
⇒パーリ語聖典において用いられている法の意義は種々であるが、その中で純粋に仏教的な用法はただ一つで、他の用法はインド一般に共通であるといわれている。
⇒パーリ語の註釈(ちゅうしゃく)でいうnissattaまたはnissattanijjivataがそれであり
⇒ドイツのW・ガイゲルはこれを「もの」と訳している。
⇒日本でも伝統的に法とは「もの」「物柄」であると解釈されている。
⇒ここで問題が起こる。
⇒法の原義は「きまり」「法則」「軌範」であるのに
⇒何故後世、伝統的に「もの」と解釈されるに至ったのであろうか。
⇒「理法」という意味から発して一見全然別な「もの」という解釈に至るには哲学的な理由があるのではなかろうか。
⇒一般に法の原意から法有の主張の導き出される経過を考察したい。
・法の体系の基礎づけ
⇒仏教成立の当初においては、
⇒自然的存在の領域を基礎づけ可能ならしめるところの法の領域を、
⇒自然的存在の領域から区別して設定し、
⇒仏教はもっぱらこの法の領域を問題とした。
⇒原始仏教は自然認識の問題を考慮の外においている。
⇒もしも自然的存在だけを問題としているのであるならば、
⇒その所論はそれほど難解なものではないだろし、仏教徒でない人でも容易にその所論を理解しうるであろう。
⇒ところが仏教は
⇒実践的宗教者の関心事と映じた「法」をとりあげたのである。
⇒法とは
⇒一切の存在の軌範となって、存在をその特殊性において、成立せしめるところの「かた」であり、
⇒法そのものは超時間的に妥当する。
⇒したがって、この解釈は「理法」「軌範」という語源的な解釈とも一致する。
⇒法は自然的存在の「かた」であるから
⇒自然的事物と同一視することはできない。
⇒そうしてその法の体系として、
⇒五種類の法の領域である個体を構成する五つの集まり(五蘊:ごうん)、
⇒認識及び行動の成立する領域としての六つの場(六入)等が考えられる。
⇒しかしながら法の体系をいかに基礎づけるか、すなわち法の体系を可能ならしめる根拠はどうか、という問題に関しては、なお考究の余地を残していた。
⇒原始仏教聖典の初期に属する資料からみると、
⇒これを基礎づけるために縁起説が考えられていたことを知りうる。
⇒「法」の体系を縁起によって成立せしめようとするのである。
⇒縁起に関しても種々な系列が考えられ、
⇒後になってついに十二支の系列のもと(十二因縁)が決定的に優勢な地位を占めるようになった。
注)五蘊(ごうん):仏教において、人間の存在を構成する五つの要素を指す。これらの要素は、すべての現象が無常であり、実体のないものであることを示している。以下に五蘊のそれぞれの要素について説明。
五蘊(ごうん)の構成
- 色(しき、Rūpa): 物質的な要素や肉体を指す。具体的には、目に見える形や物質的な存在、感覚器官などを含む。
- 受(じゅ、Vedanā): 感受の要素。感覚によって得られる快、不快、中立の感覚や感情を指す。
- 想(そう、Saṃjñā): 表象の要素であり、知覚や認識を指す。これにより、物事を識別し、名称や概念を与えることができる。
- 行(ぎょう、Saṃskāra): 意志や心の働きを指す。これには、意図、意志、行動、精神的な傾向や習慣が含まれる。
- 識(しき、Vijñāna): 意識の要素。外部の対象物を認識し、識別する能力を持つ意識の働きを指す。
五蘊(ごうん)の意義
五蘊は、個々の存在がこれらの要素の集合体であり、実体がないことを理解するための教え。仏教では、これらの要素が相互に依存し合って存在しており、固定された自我や実体は存在しないと説かれている。この理解は、執着や煩悩を超えて悟りに至るための重要なステップとなる。
注)六根と六入の違い:仏教における感覚機能の説明に関連する用語ですが、微妙に異なる概念を指す。
違い(1)対象の有無:
- 六入:感覚器官とその対応する対象の相互作用を強調している。
- 六根:感覚器官そのものを指し、対象は含まれまない。
違い(2)概念の広がり:
- 六入:感覚のプロセス全体をカバーしており、感覚器官が外界と接触して生じる知覚のプロセスを説明している。
- 六根:主に感覚器官の存在と機能に焦点を当てている。
【六入】
1.眼(げん) – 色(しき):視覚の器官とその対象
2.耳(に) – 声(せい):聴覚の器官とその対象
3.鼻(び) – 香(こう):嗅覚の器官とその対象
4.舌(ぜつ) – 味(み):味覚の器官とその対象
5.身(しん) – 触(そく):触覚の器官とその対象
6.意(い) – 法(ほう):意識の器官とその対象
【六根】
1.眼根(げんこん):目、視覚の器官
2.耳根(にこん):耳、聴覚の器官
3.鼻根(びこん):鼻、嗅覚の器官
4.舌根(ぜっこん):舌、味覚の器官
5.身根(しんこん):体、触覚の器官
6.意根(いこん):心、意識の器官
注)十二因縁(じゅうにいんねん):仏教における因果関係の連鎖を説明する教えであり、すべての現象が互いに依存し合って生じることを示している。以下に十二因縁の各段階を説明。
十二因縁の段階
- 無明(むみょう、Avidyā): 無知や無明。真理を知らないことから苦しみが始まる。
- 行(ぎょう、Saṃskāra): 意志や行為。無明によって生じた意識や行動の種子。
- 識(しき、Vijñāna): 識別の意識。行によって生じる意識の芽生え。
- 名色(みょうしき、Nāmarūpa): 心身。識によって生じる心と身体の結合。
- 六入(ろくにゅう、Ṣaḍāyatana): 六根。名色によって生じる感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)。
- 触(そく、Sparśa): 接触。六入によって生じる感覚の接触。
- 受(じゅ、Vedanā): 感受。触によって生じる感覚の受け取り(苦、楽、中性)。
- 愛(あい、Tṛṣṇā): 渇愛。受によって生じる欲望や執着。
- 取(しゅ、Upādāna): 取著。愛によって生じる執着や取り込み。
- 有(う、Bhava): 存在。取によって生じる存在や生存の状態。
- 生(しょう、Jāti): 生まれ。存在によって生じる生まれの過程。
- 老死(ろうし、Jarāmaraṇa): 老化と死。生まれによって生じる老いと死。
意義
十二因縁は、人生の苦しみや輪廻の連鎖を解き明かすための重要な教え。この因果の連鎖を理解することで、苦しみの原因を見極め、それを克服する方法を学ぶことができる。
・縁起を軽視した有部
⇒原始経典の末期(紀元前4世紀頃)から縁起説は
⇒通俗的解釈をもちこまれるようになり、
⇒そうして生あるもの(有情:うじょう)の生死流転する状態にあてはめて解釈されるようになるにつれて、
⇒縁起説が法の体系を基礎づけている意義が見失われるに至った。
⇒すなわち縁起説によって法の統一関係が問題とされ出してからまもなく
⇒縁起説は法の統一の問題を離れて別の通俗的解釈に支配されるようになったのである。
⇒かくて有部の時代(紀元前3世紀から紀元後1世紀頃)となると、縁起説は全く教学の中心的位置を失い、ただの附加的なものにすぎなくなった。
・なぜ有部は法有を主張したのか
⇒有部は縁起によって法の体系を基礎づける立場を捨てしまった。
⇒その代わり法を「有り」とみなすことによって基礎づけた。
⇒何故に有部の学者は法有を主張したのであろうか。
⇒すでに経蔵の中に、有と無との二つの極端説(二辺)を排斥した経があり、
⇒有部の学者は明瞭にこのことを知っていたにもかかわず、
⇒何故に仏説に背いてまで法の「有」を主張したのであろうか。その理由を検討したい。
注)経蔵(きょうぞう、Tripiṭaka):仏教の三蔵(さんぞう、Tripiṭaka)の一つであり、仏陀の教えをまとめた経典を集めたものを指します。三蔵とは以下の三つのカテゴリーで構成されています。
三蔵の構成
- 経蔵(きょうぞう、Sūtra-piṭaka): 仏陀の教えや説法を集めた経典の集まり。具体的には、さまざまな仏教の経典(Sūtra)を収めている。これには、四阿含経(しあごんきょう、Agama)や大乗経典(Mahāyāna Sūtras)などが含まれる。
- 律蔵(りつぞう、Vinaya-piṭaka): 仏教の戒律や僧伽(そうぎゃ、Sangha)の規則を集めたもの。これは、僧侶が守るべき規律や生活のルールを記述している。
- 論蔵(ろんぞう、Abhidharma-piṭaka): 仏教の教理や哲学的な解説を集めたもの。これは、仏教の教えをより体系的に整理し、解説している。
経蔵の意義
経蔵は、仏教徒にとって仏陀の教えを学ぶための重要なリソース。これらの教えは、瞑想や修行、日常生活の指針となり、悟りに至る道を示している。
・ゴータマ・ブッダ(釈尊)はもろもろの存在が生滅変遷するのを見て
⇒「すべてつくられたものは無常である」(諸行無常)と説いたといわれる。
⇒それはわれわれの生存の相を観察するに
⇒一切の存在は刹那刹那に生滅変遷するものであり、
⇒何ら生滅変化しない、常住な実体は存在しない、ということを意味している。
⇒当時の物経以外の諸思想が、絶対に常住不変なる形而上学的実体を予想していたから、
⇒ブッダはこれを排斥して
⇒別にすべてつくらっれたものの無常を説いたのである。
⇒ところが諸行無常を主張するためには何らかの無常ならざるものを必要とする。
⇒もしも全く無常ならざるものがないならば、「無常である」という主張も成立しえないのではないか。
⇒もちろん仏教である以上、無常に対して常住なる存在を主張することは許されない。
⇒またその必要もないであろうが、無常なる存在を無常ならしめている、より高次の原理あるはずではないか、という疑問が起こる。
⇒一般に自然的存在の生滅変遷を強調する哲学は
⇒必ずその反面において不変化の原理を想定するのが常である。
⇒故にゴーダマ・ブッダが
⇒有・無の二つの極端説を否定したにもかかわらず
⇒有部が「有」を主張して著しく形而上学的立場をとった理由もほぼ推察しうるものであるが、
⇒何故にとくに法の「有ること」を主張したのであろうか。
注)形而(けいじ)上学的実体:哲学の分野において重要な概念。
意味
- 形而上学:物理的な現象の背後にある本質や存在の根源を探究する哲学の一分野。
- 実体:存在の基本的な要素や本質を指す。
形而上学的実体
形而上学的実体とは、現象の背後にある究極的な存在や本質を意味する。これは、物理的な世界や経験を超えたものとして理解され、存在そのものの根源的な性質を探究するもの。形而上学的実体は、物質的な形や変化に依存せずに存在する本質的な要素とされている。
例えば、プラトンのイデア論における「イデア」や、アリストテレスの「実体」は形而上学的実体の概念に該当する。
・「有り」の論理的構造
⇒元来「あり」という概念は二種に分化されるべき性質のものである。
⇒一つは「である」「なり」であり、
⇒他は「がある」である。
※「である」「がある」という語は説明の便宜上、和辻哲郎博士『人間の学としての倫理学』P33以下から借用した。
⇒西洋の言語でははっきり分化していないが、日本語では明確に分かれている。
⇒中世以来の伝統的な西洋哲学の用語にあてはめれば、
⇒前者(「である」「なり」)はessentiaであり、
⇒おおまかにいえば、前者(「である」「なり」:essentia)を扱うのは形式論理学であり、
⇒後者(「がある」:existentia)を扱うのは存在論または有論(Ontologie)であるといってよいであろう。
⇒例えば「これはAである」という場合に、「であること」essentiaが可能である。
⇒それと同時に「Aがある」ということがいえる。
⇒すなわちAの「があること」existentiaが可能である。
⇒一般に「であること」essentiaは「があること」existentiaに容易に推移しうる。
⇒更に「があること」(existentia)には二種考えられる。
⇒一つは時間的空間的規定を受けているAがあるという意味でのexistentiaであり、
⇒他は時間的空間的規定を超越している普遍的概念としてのAである。
⇒この二種の「があること」のうち、
⇒第一のほうを取扱うのは、自然認識であり、哲学問題外である。
⇒第二の「がある」を取扱うのは哲学であり、
⇒これを問題として「ありかた」を基礎づけようとする哲学者がたえず簇出(そうしゅつ)する。
⇒たとえばプラトンのイデア等。
⇒法有の立場もこの線に沿って理解すべきではなかろうか。
・法有の成立する理論的根拠
⇒法とは自然的存在を可能ならしめているありかたであり、
⇒詳しくいえば「・・・であるありかた」である。
⇒たとえば受とは「隋触:ずいぞく(外界からの印象)を領納:りょうのう(感受)す」といわれ、
⇒「感受されてあること一般」である。
⇒個々の花、木などの自然的事物は法ではないが、
⇒その「ありかた」としての、たとえば「感受されてあること」は法である、とされる。
⇒さて、その個々の存在はたえず変化し生滅するが、
⇒それの「ありかた」としての「感受されてあること一般」は変化しないものではなかろうか。
⇒すなわち法としての「受」はより高次の領域において有るはずである。
⇒存在はつねに時間的に存するが、
⇒法は「それ自身の本質(自相:じそう)を持つ」ものとしてより高次の領域において有るから、
⇒超時間的に妥当する。
⇒かくして法は有る、すなわち実在する、とされた。
⇒したがって「一切有」という場合の「あり」はまさしく漢字の「有」の示すように「がある」の意味である。
⇒これを要約すてれば、初期仏教における「・・であるありかた」としての法が、
⇒有部によって「・・・であるありかたが有る」と書き換えられたのである。
⇒「である」(essentia)から「がある」(existentia)へ、
⇒essentiaからexistentiaへと論理的に移っていったのが、
⇒法有の立場を成立する論理的根拠である。
⇒論理的な脈絡を大づかみにとらえれば、上記のようにいうことも可能であろう。
・法と本性
⇒法という語を語源的に説明すれば、√dhrであり、これからDharma(ダルマ)という名詞がつくられた。
⇒法は√dhr「たもつ」という語源から出た語であるが、
⇒後期の註釈(ちゅうしゃく)によれば、「それ自身の本質(自相)を持つから法である」といわれるに至った。
⇒これに対して大乗仏教では反対に「それ自身の法質をたもつことを欠いているから法ではない」と主張する。
⇒この「それ自尊の本質」を有部は「もの」とみなしたのである。
⇒有部は「もの」の実在を主張したといわれるが、
⇒その「もの」とは、
⇒それ自身の本質(自相)の意味で、
⇒経験的事物と混同することはできない。
⇒「ものが実在する」というのも
⇒「それ自身の本質について」有るという意味であり、
⇒自然的存在(例:花瓶、車等)として実在するものではないであろう。
⇒それ自身の本質(自相)というのも、
⇒本性(自性)というのも決して別なものと考える必要はないが、
⇒さらにその「それ自身の本質」または「本性」も法と異なるものではない。
⇒しからば何故に、法と異ならない本性(自性)という概念を有部は持ち出したのであろうか。
⇒それに対する答えは与えられていないが、解決の手がかりは与えられている。
⇒たとえば識(識別作用)や受についていえば、
⇒識とか受とかいう「ありかた」としての法のessentiaは
⇒それぞれ「各々了別(それぞれを区別して認識すること)」「隋触を領納す」であるが。
⇒それをexistentiaとみた場合に、本性、本質といわれるのであろう。
⇒「・・であるありかた」としての法が
⇒一つの実在とみなされ、
⇒「ありかた」が有るとされた場合に、
⇒それが本性といわれるのである。
⇒「本性」とは「・・が(で)あること」(existentia)にほかならない。
⇒「であること」(essentia)が実在されたものである。
・「法」と「もの」
⇒法と本性、本質とは別なものではないから、
⇒本性や本質が「もの」とされる以上、
⇒「法」も「もの」とされるに至った。
⇒すなわち法はvastu、bhāva(もの)などの語に書き換えられていることもあり、
⇒『中論』では「法」(dharma)よりもむしろ、「もの」(bhāva)のほうが多く用いられているが、
⇒それは『中論』が仏教以外の諸派をも含めて排斥しているから「もの」(bhāva)という語を用いたのであり、意味は法と同じである。
⇒それ故に、「およそ諸法は体(自体)、性(本質)、法、物(実体の本質)、事(実体)、有、名は異にして義(意味)は同じ。
⇒この故に或いは体と言い、或いは法と言い、或いは有と言い、或いは物と言う。
⇒皆これ有の差別ならざるはなし、正音(しょうおん)は私婆婆(svabhāva:自性のこと)と言う」
⇒と説かれるようになった。
⇒こういうわけで法は「もの」であるとする解釈が成立するに至ったのであるが、
⇒この「もの」というのはけっして経験的な事物ではなくて、
⇒自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」であることに注意せねばならぬ。
⇒一例として虚空について論じれるならば
⇒「空は無碍(むげ)なり」(『倶舎論』)第一品・第五詩)というのも
⇒虚空という自然的存在を主張しているのではない。
⇒「無碍(むげ)なること一般」という「ありかた」が法の領域において「もの」として有る、とされているのである。
⇒「虚空は但無碍をもって性と為す」(『倶舎論』一巻、三枚裏)とあるから、
⇒「無碍」というexistentiaを法の領域におけるexistentiaとして、それを虚空とみなしたのである。
⇒ちなみにここにいう「虚空」は
⇒自然界の一つの構成要素としての「虚空界」とは異なるものであることを忘れてはならない。
⇒われわれが眼を開けて眺める大空は「虚空界」であって、
⇒つくられない不変の三つの原理(三無為)の一つとしての「虚空」ではない。
⇒したがって有部は一切の「もの」の実在を主張したといわれ、
⇒もし法あるいはその本質(自性・自相)が「もの」という語で書き換えられているとしても、
⇒有部はけっして自然的存在としての「もの」の実在を主張したのではない。
⇒存在(もの)をあらしめる「ありかた」を「もの」とみて、
⇒すなわち「もの」の本質を実体とみなしたのである。
⇒故に「法有」の「有」とは
⇒「経験界において有る」という意味に解することはできないと思う。
⇒法が
⇒自然的存在を意味すのではないことは和辻博士やドイツのH・ベック、ローゼンベルクらの学者の指摘したことであるが、
⇒上記のように解するならば、
⇒法の体系を説いた初期の仏教から、
⇒法有の主張が導き出されたことは何ら不思議ではない。
⇒法の概念から論理的に導き出しうることである。
・命題も実在
⇒以上は「ありかた」としての法を中心として考察したのであり、
⇒概念の中に含まれるところのものである。
⇒ところがわれわれはその他に法有の立場の注目すべき特徴を認める。
⇒有部は概念のみならず判断内容すなわち命題がそれ自身実在することを主張した。
⇒つくられたものども(諸行)は無常である。
⇒しかしながら「諸行は無常である」という命題自身は変易しない。
⇒もしもその命題自身が変易するならば、
⇒つくられたものどもは無常である、とはいえなくなる。
⇒故に命題自身、すなわち「句」(も実有であるとされ、
⇒五位七十五法の分類の中に心不相応行法の中に入れられた。
注)説一切有部の五位七十五法の二大分類:有為法と無為法に分けられ、存在と現象を理解するための基礎となる。
有為法(ういほう、Saṃskṛta-dharma)
有為法は、因果関係によって生起し、変化や消滅する法。これらは条件によって生じ、無常であるとされている。有為法は次の五位に分かれている:
- 色法(しきほう、Rūpa-dharma):
- 物質的な存在を指します。具体的には、五蘊の中の「色(しき)」に対応。
- 心法(しんほう、Citta-dharma):
- 心そのものや意識を指す。主に六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を含む。
- 心所法(しんしょほう、Caitasika-dharma):
- 心の働きや感情、思考、意図などの心の随伴現象を指す。
- 心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう、Caitasikasaṃprayukta-dharma):
- 心の動きや作用と直接関連しない現象を指すが、心の状態に影響を与える法。
- 色不相応行法(しきふそうおうぎょうほう、Rūpasaṃprayukta-dharma):
- 物質的な現象と直接関連しないが、物質に影響を与える法。
無為法(むいほう、Asaṃskṛta-dharma)
無為法は、因果関係によって生じることのない、変化しない法。これらは時間や条件に依存せず、常住不変のものとされている。無為法は次の三法に分かれている:
- 虚空無為(こくうむい、Ākāśa-asaṃskṛta):
- 空間そのものを指す。虚空は無限であり、変化することがない。
- 択滅無為(たくめつむい、Pratisaṃkhyānirodha):
- 智慧によって煩悩や執着が消滅した状態を指す。
- 非択滅無為(ひたくめつむい、Apratisaṃkhyānirodha):
- 煩悩や執着が自然に消滅した状態を指す。
これらの分類は、仏教の修行や哲学において非常に重要。現象の本質を理解し、解脱や悟りに至るための指針となる。
■空の論理
◆『中論』の否定の論理の目的としての<縁起>の解明
・最終目的は
⇒もろもろの事象が互いに相互依存または相互限定において成立(相因持)しているということを明らかにしょうとするものである。
⇒すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして存在するから、
⇒もしもその相関関係を取りさるならば、
⇒何ら絶対的な、独立なるものを認めることはできない、というのである。
⇒ここで<もの>という場合には、
⇒インドの諸哲学学派が想定するもろもろの形而上学的原理や実体をも意味しうるし、
⇒また仏教の説一切有部が規定する<五位七十五法>の体系のうちのもろもろダルマ(法)を含めて意味しうる。
⇒例えば『中論』の第二章(運動の考察)において、
⇒去るはたらき、去る主体、去っておもむくところを否定した。
⇒「かくのごとに思惟観察せば去法(去るはたらき)も去者(去る主体)も所去処(去っておもむくところ)も、
⇒これらの法は皆な相因持す。
⇒去法(去るはたらき)に因って去者(去る主体)有り。去者(去る主体)に因って去法(去るはたらき)有り。
⇒この二法に因らば則ち去るべき処あり。定(さだ)んで(決定的に)有りと言うを得ず、定(さだ)んで無しと言うを得ず」(大正蔵、三十巻、50ページ)
・縁起を明かす『中論』
⇒この<相因持せること>を別の語で「縁起」とよんでいる。
⇒チャンドラキールティの註によると
⇒「不来不去なる縁起の成立のために、世間に一般に承認された去来の作用を否定することを目的として」、
⇒第二章における否定の論理が説かれているという(『プラサンナパダー』92ページ)。
⇒故に不来不去を説くのは実は縁起を成立させるためなのである。
⇒ことごとく縁起を明かすために述べられている。
◆否定の論理の文章をいかに理解すべきであるか
・『中論』の否定の論理を解明するあたって、
⇒まずその書の立場の原意を知るためにどの註釈(ちゅうしゃく)によるべきか、ということが問題になる。
・最も重要なチャンドラキールティの註釈と採用する理由
⇒①詳しく註釈を施してあるために思想を充分に理解しうる。
⇒②サンスクリット文であるために思想を明白に理解することができるので、従来クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)び訳にのみよっていた解釈の誤謬を訂正し、不明な箇所の文章の意義を明らかになしうる。
⇒③年代は後になるが、大体においてナーガールジュナの原意に従っていると思われる。
⇒『中論』の本来の詩句は詩句だけでも大体理解しうるほど、主語・述語・客語がみなそなわっていてほとんど註釈を必要としない。
⇒また『中論』における論破排撃(破邪)の論理は、
⇒概念や判断内容の実在性を主張する論理(法有の立場:説一切有部)を排斥しているのであり、
⇒概念や判断内容を説明しているのではないから、著しく異なった解釈をされるということはなかったであろう。
・法有の立場を攻撃
⇒『中論』が「法有」の立場を相手にしているという歴史的連関を考慮するならば、
⇒容易にこの主張を理解しうる。
⇒すでに述べたように法有とは
⇒経験的事物としての「もの」が有る、という意味ではない。
⇒自然的存在として「もの」をして、
⇒それぞれの特性において「もの」として有らしめるための「かた」「本質」としての「もの」が有る、という意味である。
⇒「・・であるありかた」が有る、と主張するのである。
⇒essentiaをessentiaとしてとどめずにより高き領域におけるexistentiaとして把握しようという立場である。
⇒より低き領域において存在する(bestehen)ものはより高き領域おいて有る(sein)。
⇒したがって法有の立場では
⇒作用をたんに作用としてみないで、
⇒作用を作用としてあらわし出す「かた」「本質」が形而上学的領域において実在していると考える。
⇒たとえば註釈書の第二章の始めにおいては法有の立場の人は、
⇒「作(作用)あるをもっての故に、まさに諸法ありと知るべき」といって
⇒「去る」という「かた」「本質」が実在することを主張している。
⇒「去りつつあるもの」もわれわれによって考えられ、または志向されいる「あり方(かた)」であるから、
⇒たんに意識内容たるにととまらず、背後の実在界に根拠を有するものとみなされる。
⇒したがって「去りつつあるものは去る」という場合には、
⇒「去りつつあるもの」という一つの「あり方」としての形而上学的実在に関して、
⇒「去る」という述語を附与する判断であらねばならぬ。
⇒ところが法有の立場は、
⇒それぞれの「あり方」をそのまま実在とみなすから、
⇒「去りつつあるもの」という「あり方」と「去る」という「あり方」とは全く別のものとされ、
⇒「去りつつあるものは去る」といえばそれは拡張的判断であり、
⇒二つの去るはらきを含むことになる。
・ナーガールジュナの論点
⇒この二つの去るはたらきを綜合する根拠はいずれに求むべきか。
⇒「あり方そのもの」(法のみ)であり、
⇒他のいかなる内容をも拒否している二つの実体がいかにして結合しうるのであろうか。
⇒論敵のもっているこの困難は全く「法有」という哲学的態度から由来している。
⇒もちろん『中論』の主要論敵である有部は
⇒「去ること」というダルマ(法)を認めていたのではなく、
⇒いわゆる運動を否定して言われる。
⇒しかしならが「去ること」も一つの「あり方」であるから、
⇒一般に法有の立場に立てば、「去ること」をも実体視せねばならず、
⇒そうだとすると種々の困難が起こることをナーガールジュナは強調したのである。
⇒この点は経部(上座部仏教の一派)という学派が有部に対して、
⇒もしも法有の立場を国執するならば七十五法以外のすべての「あり方」をも実体視せねばならぬでないか、という種々のその弱点を攻撃しているのと同一態度である。
・運動の否定の論理(『中論』の論法の基礎)
⇒自然的存在の領域における運動を否定してのではなく、
⇒法有の立場を攻撃した。
⇒「去りつつあるものは去る」の論理について
⇒「{すでに第二章において}<いま現に去りつつあるもの>と<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とによって、すでに排斥されてしまった。(第三章・第三詩後半)
⇒「いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものについて、このように説明されている。(第七章・第一四詩後半)
⇒「いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないもの(についての考察)によって説明されおわった。(第十章・第一三詩後半、第十六章・第七詩後半)という。
⇒ナーガールジュナは第二章の論法を極めて重要視していたらしい、
⇒ま第二章の第一詩をみると
⇒「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。
⇒さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない」
⇒(「先ず已去(いきょ)は去らず。未去も去らず。已去と未去とを離れたる去時も去せず」クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳)
⇒とあるが、厳密にいえば、「已(すで)に去られた<時間のみち>(世路)は去られない。未だ去られない<時間のみち>(世路)も去られない。現在去られつつある<時間のみち>(世路)も去られない」という意味である。
⇒今ここでは不明瞭であるが、便宜上クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳語を参照しつつ上記のように訳し、以下も同様にする。
⇒(したがってこの、第二章は直接には行くこと(「去」)を否定し、ひいては作用を否定する。
⇒また<時間のみち>(「世路」または「世」)を問題としているから現象的存在である<有為法>全体の問題にもなってくる。
⇒その理由を諸註釈についてみるに、
⇒まず「已去」とは已(すで)に去られたものであり、
⇒すなわち「行く作用の止まったもの」であるから
⇒作用を離れたものに作用のあるはずはない。
⇒したがって、すでに去ったものが、さらに去られるということはありえない。
⇒また、<未去>も去らない。
⇒<未去>とは行く作用の未だ生ぜざるものであり、去るという作用をもっていないからである。
⇒「未去が去る」ということは常識的にはわかりやすいかもしれないが、
⇒「去る」とは現在の行く作用と結合していることを意味しているのであり、
⇒両者は全く別なものであるから、「未去が去る」ということは不可能である。
⇒さらに<現在去りつつあるもの>(去時)なるものが存在すると思っているが、
⇒<現在去りつつあるもの>を追究すれば
⇒已去(いきょ)とか未去かいずれかに含めらてしまう。
⇒チャンドラキールティはここのとを強調している。
注)有為法(ういほう、Saṃskṛta-dharma)
有為法は、因果関係によって生起し、変化や消滅する法。これらは条件によって生じ、無常であるとされている。有為法は次の五位に分かれる:
- 色法(しきほう、Rūpa-dharma):
- 物質的な存在を指します。具体的には、五蘊の中の「色(しき)」に対応。
- 心法(しんほう、Citta-dharma):
- 心そのものや意識を指す。主に六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を含む。
- 心所法(しんしょほう、Caitasika-dharma):
- 心の働きや感情、思考、意図などの心の随伴現象を指す。
- 心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう、Caitasikasaṃprayukta-dharma):
- 心の動きや作用と直接関連しない現象を指すが、心の状態に影響を与える法。
- 色不相応行法(しきふそうおうぎょうほう、Rūpasaṃprayukta-dharma):
- 物質的な現象と直接関連しないが、物質に影響を与える法。
・「去りつつあるものは去る」が去る」の論理
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