『華厳経』~成立の古い「十地品」~

■Google Chrom AIによる『十地品 (じゅうじぼん)』の概要

十地品は、

華厳経に説かれる菩薩の修行段階、つまり菩薩が菩提を成就するまでの修行の階梯を10段階に分けたものです

それぞれの地で異なる境地を達し、最終的に仏陀になることを目指します。

菩薩が踏み行なうべき十段階の修行のうち六番目までは自利の修行が説かれ、七番目から十番目までが利他行が説かれている

十地の内容

十地品では、以下の10段階の修行段階が説かれています。

1.歓喜地 (かんきち):初めて菩提心を発し、仏道修行を始める喜びを味わう。

2.離垢地 (りこうち):煩悩を離れ、清浄な心に近づく。

3.明地 (みょうじ):智慧が開き、悟りが深まる。

4.焔地 (えんち):仏道修行に熱心になり、心が燃え上がる。

5.難勝地 (なんしょうち):困難に立ち向かい、不屈の精神で修行を続ける。

6.現前地 (げんぜんち):仏道修行の成果が目に見えて現れる。

7.遠行地 (おんぎょうち):遠い未来の悟りを願い、より高い修行を続ける。

8.不動地 (ふどうち):仏道修行の心が揺るがず、不動の地位を確立する。

9.善慧地 (ぜんえち):智慧が豊かに開き、あらゆる事柄を深く理解する。

10.雲地 (ほううんち):仏陀の法によって、雲のように菩提心の心が広がっていく。

十地品の重要性

十地品は、

菩薩の修行の階梯を明確に示しており、仏道修行の目標と進路を定める上で重要な役割を果たしています。

また、十地品は、華厳経の中でも重要な教えの一つとされ、多くの仏教徒に親しまれています。

■『華厳経』の中では「入法界品」と共に成立の古い「十地品(じゅうじぼん)」

『十地経』(「十地品」)で菩薩は初地に於て安住すると十大願及びあらゆる願いを起こす。

その十大願の第四大願には菩薩の所行の性格が「総別同異成壊」の相と形容されているた。

第四願の位置

歓喜地では、 衆生が悟りに向かって菩薩としての修行するときに、 歓喜という地に(安)住するになる。

そこで、「歓喜」という心がそのときあるわけであるが、 これを説明し、 これから修行する場所が清められると菩薩の十大願(趣意としてー〜X)が発せられる、

(Ⅰ)清浄心を以て仏に供養すること
(Ⅱ)仏法を伝えていくこと
(Ⅲ)仏のおられる世界へ仏事を為すためにに馳せ参じること
(Ⅳ)最も優れた菩薩行で発心を成就すること
(Ⅴ)あらゆる迷う者を悟らせること
(Ⅵ)あらゆる世界を理解するために観察すること
(Ⅶ)仏国土に衆生を導くこと
(Ⅷ)十地の行を続けること
(Ⅸ)あらゆる菩薩行を為すこと
(Ⅹ)あらゆる世界で悟ること
これらの願いをはじめとしてかなり多くの願いがこの初地にて成就される。

出典:https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/40/0/40_KJ00009355891/_pdf/-char/ja

■十地経にみる菩薩の変容過程― 十地経序品の深層心理学的考察 ―

出典:三輪 幸二朗 京都大学大学院教育学研究科紀要 第63号 2017

(臨床実践指導学講座 博士後期課程 3 回生)
(受稿 2016 年 9 月 7 日、改稿 2016 年 12 月 1 日、受理 2016 年 12 月 26 日)

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/219250/1/eda63_145.pdf

 華厳経は内容がいくつかの章にわかれている。そのなかでも重要なのが十地品だと考えられる。十地品とは,菩薩が如来へと向かって成長する十の段階が、金剛蔵菩薩によって説明される箇所である

 十地品は独立した十地経という経典に基づいている。十地経はサンスクリット本のほかにい
くつかの漢訳が残っている。華厳以前に成立した十地経が,華厳経の編纂時に十地品として編
入された。この十地経は仏教の心理学といえる唯識思想と関連が深く,世界の一切をこころに
よって説明する十地経の唯心思想は,唯識思想に大きく影響を与えたとされる。

唯識をまとめた「唯識三十頌」に代表される世親は,十地経の解説として「十地経論」を記した。また十地経論をもとにして地論宗が成立し,地論宗の思想は地論宗の教学に影響を受けた華厳宗の第 2祖の智儼より,第 3 祖の法蔵を経て華厳宗へと継承された。

そのため十地経は仏教においてこころを扱っている唯識,華厳という仏教宗派の根底に流れ
ている経典といえる。日本の仏教における南都六宗のうち東大寺を総本山とする華厳宗,興福
寺を本山とする法相宗の源流をたどっていくと十地経に至るのである。

 そこで今回,十地経の冒頭部を深層心理学の観点から,登場者の相互連関について分析を試
みる。
十地経に登場する菩薩は衆生の悩みの本質であるこころについて説明をする。衆生の悩
みを治療するためにこころを扱うという点において,菩薩集はこころの治療者たちともいえる。
菩薩集のなかでも,リーダーでありこころの本質を説くという役割を担っている金剛蔵菩薩は
重要である。のちにみるように金剛蔵菩薩の変容の在り方が菩薩集という集団に影響を与え,
菩薩集の変容を促すのである。

 十地品の序品(序章)は釈迦の下に集まった諸菩薩のうち,金剛蔵菩薩と解脱月菩薩が問答
をして,諸菩薩の「私」の在り方を検討する箇所である。
伊藤は序品を「十地の教説の含意す
る思想的にして本質的な意義ともいうべきものが概要的に表示されていると期待しうるのであ
り,また実際のところ諸種の局面においてそうなのである」としつつも,「しかしながらこの部
分の経文は,本経文中その意味表現および内容叙述の上に大乗経典特有の略称的なのに加えて
神話的な傾向が殊に強く顕われており,したがって経文のみによる考察では極めて理解の困難
なものである」(伊藤 2013)とした。序品は菩薩衆が十地の教示についての可否をめぐって問
答する様子が物語調に描かれる。
十地を説明するほかの章と比べて,序品は内容を理解するた
めに象徴解釈が求められると考えられる。

 そこで本論では分析心理学の Jung が神話や物語りの象徴解釈を行ったように,十地経の序品
を深層心理学の観点から分析することを試みる。
とくに序品については二人の菩薩である金剛
蔵菩薩と解脱月菩薩のやり取りは,深層心理学的にも興味深い心的交流が展開しており,両者
の間で生じた象徴的な現象および金剛蔵菩薩の変容について,深層心理学的に分析することに意義があると筆者は考えている。

2.序品のまとめ
まずは十地経の序品をまとめつつ,物語上の要点を挙げていく。

 十地経は,世尊が他化自在天王の宮殿にいる世尊のもとに菩薩たちが集まっている場面か
ら始まる。
集まった菩薩たちは,一生補処の無上正等をさとるであろうとされる優れた菩薩
たちであり,別々の世界からあつまっていた。あらゆるところに平等にいたる心をもって修
行し、あらゆる衆生の世界のうちに分身を顕現させている。

 そのなかでも金剛を内に蔵するという名の金剛蔵菩薩がリーダーである。金剛蔵菩薩は「か
ぎりない知の光明に輝く」三昧に入定する。すると途方もない数の如来が顔をあらわし,金
剛蔵菩薩を嘉する。その如来の名前も「金剛蔵」という。この諸如来が金剛蔵菩薩に加護を
くわえるのは盧遮那仏の加護をうけたため,また金剛蔵菩薩にゆたかな徳と深い知があるた
めだと如来はいう。金剛蔵菩薩に加護をくわえるのは,法の光明を説法によって輝かせるよ
うにするためである。それはすなわち十の菩薩の位について説法するように努力してはじめ
てその妙を体得することであるという。

 諸仏は経を説くようにと告げて加護を加え,不思議な力として説法をする力を金剛蔵菩薩
に与える。諸仏が金剛蔵菩薩の頭頂をなでると,金剛蔵菩薩は三昧から出定して,そこに集
まっていた諸菩薩に語りかける。 (荒牧 1974 pp.7-15 筆者要約)

 ここで強調されているのは金剛蔵菩薩に授けられた説法力である。三昧という瞑想の中で金
剛蔵菩薩は,「説法をするのにふさわしい素質がそなわっている」,「説法することでさらに法の
光妙を輝かせるようになる」と予言を受ける。さらに金剛蔵菩薩は如来から「説法をするよう
に」と伝えられる。この説法をいかに実現させるかがこの序品において重要なテーマとなる。

 諸仏が金剛蔵菩薩の頭頂を撫でて加持を加えると金剛蔵菩薩は三昧から出定し,集まって
いた菩薩衆に話しかける。

 金剛蔵菩薩は菩薩の誓願は深く定まっているという。空間性の広がるかぎりをきわめつく
し,あらゆる衆生をあますとこなく見守っているという。そして真理として菩薩の行う十の
菩薩の位「十地」について話し始める。それは,1 歓喜地,2 離垢地,3 明地,4 焔地,5 難
勝地,6 現前地,7 遠行地,8 不動地,9 善慧地,10 法雲地であり,それぞれの地の名を羅列
していう。
これは過去,未来,現在の諸仏が説き,しかもあらゆる仏国土でも説かれている
という。この教えこそ法の妙であり,菩薩道をあますところなく清浄にするという。しかし
この十地の名をあげたまま,それ以上は説明せずに金剛蔵菩薩は黙ってしまう。

 そこにいた菩薩たちは菩薩の位,十地について名前を聞いたものの解釈を得ることはなかった。

 なぜ金剛蔵菩薩はなにもいわず沈黙し,説明をしなかったのかと諸菩薩は思惟しはじめる。 (荒牧 1974 pp.15-17 筆者要約)

 金剛蔵菩薩は目覚めたあと,三昧のなかで如来より「説法をするように」と伝えられている
にも関わらず沈黙する。そこにワキとしての解脱月菩薩が物語の舞台に登場して問答が始まる。 

 菩薩たちのなかから,解脱月菩薩があらわれる。解脱月菩薩は諸仏が思惟していることを
察知し,詩頌によって金剛蔵菩薩に問いかける。「なぜ菩薩の位をいうだけで説明しないのか,
ここにいる諸菩薩は徳も知もそなわり浄らかな信心もある」といい,諸菩薩の思いを「まじ
りもののない花の蜜を集めようとする蜜蜂の思い」にたとえる。

 金剛蔵菩薩は解脱月菩薩の訴えをそのとおりだと認めつつ,なぜ黙していたのかを説明す
る。
それは「知あるひとびとがさとっている諸真実は思惟するのがむずかしく,ありきたり
の思惟ではわからない。ふつうのひとびとは教えを聴いてもわけがわからなくなる。堅固な
心を持つこと,諸仏の知が最高であると信じること,まよいの心のはたらく地には自我がな
く実体がないことをさとってはじめて,教えを聞くことができる。そのため衆生のうちでこ
のような知について理解するものがいるはずではないのでは。そう思うので説けない」とい
う。

 解脱月菩薩は,ここに来ている諸菩薩の浄らかさを説明し,諸菩薩は金剛蔵菩薩がいった
菩薩の地についての知をさとる地にあると返事する。

 金剛蔵菩薩は,「ここに来ているひとびとの浄らかさは認めているが,ほかのひとびとがこ
の不思議な真理を聞いてしまうかもしれない。聞くと不信や疑念を抱くことになり,苦悩す
るばかりとなる。そういう慈悲の心がおこっているので,沈黙したまま満足している」とい
う。

 解脱月菩薩はさらに,説法をはじめてくださいと嘆願する。「諸菩薩は不可思議な深く信じ
ることができる。それは菩薩の地が説法されていると諸仏の思いやりが集まってきて,教え
を守ろうとする願求がわいてくる。この知の地こそがもっともはじめの菩薩行でもあり,も
っともおわりの諸仏の徳の体得でもある」という。文字を教えることにたとえ,仏の徳のは
じめにあるのは菩薩の地であり,それにしたがって菩薩行が円満に成就していく。おわりに
あるのも菩薩の地であり,それによって自由自在者の地をさとる。そのため説法をしてくだ
さいという。

 そして,あつまっていた諸菩薩が声をそろえて詩頌にして金剛蔵菩薩に嘆願する。「菩薩の
地について説法してください,ここに集まっているひとびとはあなたの説法を願っている,
渇いているときには水を,飢えているときは食物を,病苦にあれば薬を,蜜蜂であれば花の
蜜を願うようにと。不思議な知力があって無礙自在なるめでたい如来の存在も,ついにはあ
きらかにして,完全に」という。 (荒牧 1974 pp.17-25 筆者要約)

 金剛蔵菩薩は沈黙する理由を語る。衆生がもしこの教えを聴くと,理解するどころか苦悩す
るという。解脱月菩薩は「菩薩の地が菩薩行の始めと終わりであり,ここに集まっている菩薩は聴くことによって迷うことはない」という。ここで衆生と菩薩集の立場が対比される。

 ただし菩薩とは,十地経の第三地「明地」の記述によると「菩薩において,業をなし果をう
ける主体としてのこころは,衆生のためにたくみな方便によって存在するにすぎない」のであ
り,菩薩は衆生によって存在するにすぎない。

3.明地 (みょうじ):智慧が開き、悟りが深まる。

 金剛蔵菩薩は,衆生は正しい教えを理解しないどころか教えを聴くことで苦悩するという。
また解脱月菩薩らも金剛蔵菩薩の考えを引き継ぎつつ,衆生と比べて自分たちは修行を重ねて
おり,正しく教えを理解するから説法をしてほしいと主張する。「衆生は誤解して悩む」という
菩薩らの見立てが説法を止めている。ただし金剛蔵菩薩は沈黙しながらも「満足している」と
いう。解脱月菩薩らが嘆願しても金剛蔵菩薩は沈黙を続ける。

 そのとき釈迦牟尼仏の眉間にある白毫より光明が発せられた。十方のあらゆる方位にわた
って,あらゆる種類の世界を照らしだし,苦悩に満ちた存在を解消し,あらゆる種類の世界
のあらゆる如来の説法会において,諸仏の自由自在な加護を受けて説法する諸菩薩を照明し
て,不思議な諸物のはたらきをあらわすなどを示し,空中の上方で「光明の雲の織りなす講
堂」となる。それに応じるように諸仏の眉間の白毫からも光明が発せられ,釈迦の光明と同
じように世界を照らしだし,ここでは説法会および金剛蔵菩薩の身体を照明し,同じく講堂
となる

 その講堂から音声が轟く。「他に同類なくして,彼らのあいだでは平等で,空間的にも等し
い。如来たちの不思議な力をうけて,菩薩の知の地を説けばよい,この経が聞こえていると
すれば,すでに如来が加護を加えている。大海の水の底でも,劫火のもえさかるなかでも疑
惑の心さえおこしていなければこの経を聞くことができる。思案していたり懐疑にふけって
いるひとびとの耳にはとどかない。ひとつひとつ順をおってどのような菩薩行をなし,どの
ようなことをさとるかも説法するがよい」とその声はいう。

 金剛蔵菩薩はひとびとの信心を浄らかにしようと詩頌でこたえる。「そのままさとるのは難
しい。知のあるひとの知によってさとられるもの。それは本性において空である。輪廻も涅
槃も平等であるままに涅槃をさとっている,過去・未来・現在の三世にかかわりがない,空
間的にもひとしい。菩薩の地においては思惟も心の動きもなくなり,さとりの知によっての
み実現される。まよいの存在,認識する存在,知覚する存在において実現されることはない。

 鳥が空を飛んでいくときのあとかたを言い表すことも指し示すこともできないように,い
かなる菩薩の地も言葉で言うことはできない。ましてやそれを聴聞するとは」

 終わりには金剛蔵菩薩は経を説いてみようといい,諸真実は言葉でいうことはできない,
菩薩の地において知を体得していくのには,かくかくかようにしてであると説きつくすこと
はできないが,要約して語ることとする,という。

 「私は仏の不思議な力を受けて説くこととする,法を言うにふさわしい妙音で,比喩を用
い,論理に従って,適合した軸によって述べるという。私のうちには如来の力が光明となっ
て満ちあふれており,その力を受けてこそ説くことができる」とする。そして十地の説明が
始まる。
 (荒牧 1974 pp.25-31 筆者要約)

 金剛蔵菩薩は菩薩の地を言葉にして説明するのは難しいという。これが沈黙の真の理由のよ
うである。衆生の理解力だけが沈黙の理由ではなく,金剛蔵菩薩の説法力をもっても十地を説
法することが難しいためにためらっていたと金剛蔵菩薩は語る。

 金剛蔵菩薩は瞑想のなかで「十の菩薩の位について説法するように努力してはじめてその妙
を体得する」と行うべき努力を宣告された。つまり「言葉にするのは難しい真実」を「説法す
るように努力する」ことが金剛蔵菩薩の修行といえる。

 序品の最後で金剛蔵菩薩は講堂の声から助言を受けた。如来は語る代わりに光を放ち,金剛
蔵菩薩の「内側の光」を引き出した。如来の光は菩薩と衆生を平等に照らし,それぞれに変容
をもたらす。序品ではどのような変容が起きていたのかを次章から分析していく。

<参考情報>

出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)

3.菩薩グループの構造分析

 心理療法において集団の精神力動的な交流を分析することは,グループの基本構造を把握す
ることから始まる。
グループの構造とは,どのような場所と目的で,どのようなメンバーが集
まっているグループかということである。そこで菩薩グループの構造把握から分析を始める。

 まず序品は他化自在天にいる釈迦如来の前に,菩薩が集まっている場面から始まる。仏教の
世界観では,他化自在天とは衆生の住む欲界の最上層に位置し,欲望を離れたものが住む色界
という世界の下にある。他化自在天は色界と衆生の世界を繋ぐ境界領域である。そこに釈迦如
来がいるということは,釈迦如来は如来と菩薩,衆生を繋ぐという象徴的な役割を担っている
と考えられる。そして釈迦如来がここにいるのは悟りを悟って間もないときとされ,悟りの内
容はまだ語られていない。
菩薩たちが釈迦如来の言葉を聞こうと待ち望んでいる前で,釈迦如
来が沈黙している。それが十地経の始まりの状況である。

 釈迦如来の悟りに接するために金剛蔵菩薩は,自ら三昧に入るという方法をとる。これは如
来を目の前にしたときに,自らのこころの動きに注意を向けて,深層から連想を汲みあげよう
とする試みといえる。特定の対象を面前にして自分の内界と深く向き合って気付きを得ようと
する方法は,仏教の観相や禅の座禅,浄土真宗の身調べなどにもみられる。
治療者との対話を
通して無意識に触れていく深層心理学の心理療法にも通じる方法である。

<参考情報>

阿字観の方法と意義

阿字を観想し、阿字を胸中におさめることは、自身と大日如来との本質的・本源的同一を体感することにほかならない

注)阿字本不生:密教の根本教義の一つで、「阿」の字が宇宙の根源を象徴し、本来不生不滅、すなわち永遠に存在するという意味を持つている。

・万物の根源は、

万物自体がそこにあるように、やはり宇宙そのものであろう。

そして万物の母なる宇宙は、やはり生命を生み育む母のように慈愛に満ちているであろう。

それは現代物理学が描くような暗黒の冷たい物質空間ではない。精神的・霊的存在であるわれわれを生み出した宇宙が、そのようなものであるわけがない。

されば、かくのごとき母なる宇宙を仏とみなして何の不思議もない。さらにそれを最高の尊称として大日如来と呼ぶことも

かくて阿字は宇宙仏たる大日如来の象徴となる

出典:サブタイトル/空海の多様性:⑥『十住心論』第十住心(マンダラ)を読む~編集工学視点:松岡正剛氏の発想を手助けにして~

 金剛蔵菩薩は三昧のなかで十地についての知を得る。そして十地の詳細を菩薩集に話そうと
するそぶりをみせつつも沈黙する。沈黙した金剛蔵菩薩に解脱月菩薩らが嘆願を始める。

 これを集団力動の観点からみると,集団のリーダーへの依存関係が起こっている可能性が疑
われる。集団においてメンバーとリーダーの間で依存関係が起こっていると,ほかのメンバー
は関心をリーダーに集中させ,各人が自分の問題を考えることを回避する(Bion 1961)。あら
ゆる判断をリーダーに委ねて,残りのメンバーは自ら考えることを辞め,集団が扱うべき課題
が抑圧される。

 この集団は悟りを希求する菩薩が,悟りを得た釈迦如来に教えを請うという構造がある。
来は菩薩にとっての理想像という上下関係がある。釈迦如来が沈黙しているため,菩薩は教え
を知ることができない。そこで菩薩集のリーダーである金剛蔵菩薩が三昧に入り,十地の知恵
を得ることで如来の教えを伝えようとする。

 金剛蔵菩薩は十地を知るが,解脱月菩薩らは知らない。悟りの知を持つ如来と知を持たない菩薩という関係性のテーマは,十地の知を持つ金剛蔵菩薩と持たない解脱月菩薩らのテーマとして,沈黙という行為を中心に置きつつ再演される。金剛蔵菩薩と解脱月菩薩のあいだに繰り広げられた沈黙をめぐるやりとりとは,如来の沈黙を金剛蔵菩薩が沈黙することで再演したといえる。

 では金剛蔵菩薩は瞑想のなかで「十地を説くように」といわれていたにも関わらず,沈黙を続けたのはなぜだろうか。

4.金剛蔵菩薩の沈黙

 沈黙について考えるために金剛蔵菩薩や解脱月菩薩はどのような菩薩なのかと考察する。

 それぞれの菩薩の名前を象徴的に解釈すると,金剛蔵とは“金剛”つまりダイヤモンドを蔵
するという意味である。ダイヤモンドは堅固で壊れず,光を受けて輝く宝石である。
光を放つ
毘盧遮那仏,つまり象徴的には毘盧遮那仏は太陽といえる。太陽の光を受けて輝きを四方に放
ち,しかも破壊されない堅固な菩薩という意味を持つのが金剛蔵菩薩であろう。

 解脱月菩薩は月との関連が想起される。月は夜空を照らす光であり,夜という影の世界に光
をもたらすという象徴的意味が考えられる。金剛蔵菩薩は光を集めて放ち,解脱月菩薩は夜空
を照らす。昼の太陽と夜の月という対比がこの関係に布置されている。

 太陽と月のような対立物の結合は「ア・プリオリなイメージであって,人間の精神発達のな
かで重要な位置を占めてきた
」(Jung 1946 p.12)。ここでの金剛蔵菩薩と解脱月菩薩の対立に
よって,菩薩集が変容する可能性が布置されているといえる

 人間の個性化過程において変容の契機は,個人にとって否定的な側面,つまり影の部分から
もたらされることが多い
象徴的には光によって照らしだされていない部分,深層心理学的に
は無意識に抑圧されているコンプレックスである。それは集団でも同様であり,集団のコンプ
レックスが変容の契機をもたらす

 では菩薩集の集団が持つコンプレックス,つまり抑圧されているものは何か。考察するため
十地経で否定的に言及され,また脇に置かれつつも沈黙という事態に大きく影響を与えた影
を担う存在を探してみる。そこで見いだされるのが説法を誤解するといわれ,まだ菩薩の段階
にも至っていないとされる衆生たちである。

 金剛蔵菩薩は「誤解するもの」として衆生をあげる。解脱月菩薩も衆生について直接は語ら
ず「ここにいるものたちは,清らかで」という。つまり「ここにいないものたちは,清らかで
なく,誤解する」ということを暗にほのめかし,菩薩よりも能力が低い存在として衆生を扱っ
ている。

 金剛蔵菩薩は「十の菩薩の位について説法するように努力してはじめてその妙を体得する」
のであり,修行の中心は「衆生への説法」だった。修行の進展を避けるかのように金剛蔵菩薩
は沈黙を続ける。

この事態を理解するために,自分自身を神格化するコンプレックスについて Jung 派の
Guggenbühl-Craig が述べていることをみてみる。「この関係で,支配する側に回った主体は,自
分の方が重要なのだという感じを強くもつようになり,対象にまわった側はその場の状況には
責任を持たなくてもよいようにされてしまうのである。これはある種の力の現われである。もう一つの別の力というのは「自分自身を神格化する」ということである。神,あるいは神々の
みが人間を支配する力を有しているものなのだが,「神コンプレックス」にとらわれている人は
あたかも自分が神であるかのように,他の人々をも支配しようとするのである。この種の力が
ヌミノースなのであり,支配される側にとってもする側にとっても,極めて危険なものである」

(Guggenbühl-Craig 1978 pp.111-112)という。

 金剛蔵菩薩は事態を支配する側にいる。そして菩薩集のなかでは,金剛蔵菩薩のみが十地を
知っているという力関係がある。残りの菩薩集や衆生が十地を知るかどうかは,金剛蔵菩薩の
説法にかかっているかのようである。しかし,そこにいる菩薩集には金剛蔵菩薩の説法がなく
とも,自ら修行を重ねて十地の知を得るという選択肢もあるだろう。しかし菩薩集は自らもさ
らなる修行を重ねて,金剛蔵菩薩と同じ瞑想に入って如来の知を得るという方向性について探
る素振りもみせない。あたかも十地を得るかどうかは,金剛蔵菩薩の説法のみにかかっている
かのように訴え,菩薩集が主体的に修行するという考えは示さない。一方で金剛蔵菩薩は十地
経を説法しないことによって,菩薩集が自ら修行を重ねて十地を得るという可能性を見えなく
させているともいえる。このような膠着した事態を支配している集団力動について金剛蔵菩薩
は気づいていないかのようである。

 金剛蔵菩薩も菩薩集も「自分たちも未だ修行を続けなければならない存在」であることに言
及せず,衆生にコンプレックスを投影し,自らは神コンプレックスに捉われているかのようで
ある。衆生に説法することを避け,衆生と関わることから遠ざかっている。

 菩薩らは,自分たちの修行が困難であるために,修行の継続をためらっているかのようであ
る。それを裏付けるものとして,如来の光によって示唆を得たあとの金剛蔵菩薩の語りがある。

 「いかなる言語の言語の妙をつくしても,言葉でいうことはまったくむずかしい」「いかなる菩
薩の地も,言葉で言うことはできない」「菩薩の地においてさとる諸真実は,なかなかあきらか
にしがたい」「それを説きつくすことは,幾劫かかろうともできない」「このような言葉によっ
ても,説くことはまことになしがたい」と説法の難しさを繰り返し主張する。つまり衆生が説
法の内容を誤解するだけではなく,菩薩であっても真実を説明することが困難であるという自
覚が沈黙を生んだと考えられる。
これは自らの説法によって衆生に誤解を生じさせてしまうの
ではないかという,菩薩の心理的な不安に基づく葛藤ともいえるだろう。また金剛蔵菩薩にと
っては,説法することで成長ができるという現状を避けようとする動きでもある。コンプレッ
クスとの対決を避けようとするほど,コンプレックスの影響力に圧倒されて身動きがとれなく
なるという現象は,心理療法ではしばしばみられる。

 金剛蔵菩薩は三昧のなかで,如来より十地を説くことの重要性を繰り返し伝えられていた。
れは「説くことへの不安」を抱く金剛蔵菩薩が,説法をすることによって不安を乗り越えた
ときに変容が起きることを暗示した如来の予言とも考えられる
。心理療法でも不安を生み出す
コンプレックスとの対決が達成されたときに変容が起きる。

 金剛蔵菩薩は釈迦如来から放たれた光をきっかけにして十地を語ることを決心した。光は菩
薩集のいる世界だけでなく,衆生や地獄・餓鬼・畜生の世界にまで届いた。光は金剛蔵菩薩が
進むべき方向性を示すように,金剛蔵菩薩や菩薩集の影となっていた衆生を照らした。

 釈迦如来から発せられた光によって講堂が現れる。講堂からの声が,衆生にとってたとえ十地の内容について理解するのが難しいとしても「聴くだけで縁がある」と助言する。講堂の声は,衆生の理解力ではなく,衆生が説法を聴くという事実そのものに焦点を当てている。衆生の体験的な事実を優先するという示唆であろう。

 金剛蔵菩薩たちは衆生への説法を避けようとしていた。金剛蔵菩薩は自らの不安をみること
なく,自らは深い理解を持っているので衆生と離れていても満足しているという態度をとって
いた。しかし十地を真に理解できずに悩んでいるのは衆生ではなく,金剛蔵菩薩ではないだろ
うか。十地の名称や内容を理解はしつつも,金剛蔵菩薩は十地をまだ体得していない。
十地を
体得してないために如来になれないという自らの迷いを衆生の迷いとしてみていたのではない
のか。これは深層心理学からみると衆生に対する金剛蔵菩薩の逆転移だと考えられる。Jung の
観点では「転移/逆転移は,おそらく不可避的で,ときには有用でさえある自然的出来事だっ
た」(Hopcke 1989)。この逆転移は金剛蔵菩薩の変容する可能性を示唆しているのである

 沈黙に変容をもたらしたのは,金剛蔵菩薩と解脱月菩薩の二項対立を越えた,第三の要因と
して現れた如来の光であった
。対立するものが行き詰まったとき第三のものが象徴的に現れ,
創造的な働きをなす現象は分析心理学でも記述されてきた
(A.Samuels ほか 1986)。

5.如来の沈黙

 沈黙とは象徴的には死を表す。Jung は死に積極的な意味をみいだし,こころは象徴的な死と
再生のプロセスにおいて成長していくとした
心理療法において死や再生は繰り返し現れるテ
ーマであり,象徴的な死がクライントに劇的な変容をもたらすことがある。また象徴的な死と
して心理療法のなかに沈黙が訪れることもある。

 Jung 派の分析家である河合隼雄は,心理療法において沈黙するセラピストであった。河合は
沈黙のなかで,開かれた態度と同時にコンステレーション,布置を読もうとしていたとされる
(皆藤 2014)。河合は自然モデル(河合 1992)において,治療のプロセスが自然に働いてい
るときには,外的には治療者は何もしていないようにみえるが,極めて大量の心的エネルギー
を必要とすると説明した。

 自然モデルの例として,Jung 派で重視しているものに雨降らし男の話がある。

 幾月も干ばつが続いている土地があった。雨乞いを何度も行ったが効果は表れなかった。
そこに雨降らしの老人が連れられてきた。老人は小屋を建ててくださいといい,老人はそこ
に 3 日間籠った。すると 4 日目には雲が集まり,猛吹雪となった。村の人がどのように降ら
せたのかと老人に尋ねると,老人は私には関係ない,けれども,ここはタオの状態になく秩
序が乱れており,そのなかにいる私も調子を崩した。そのためタオに戻るまで私は 3 日間待
っていた。そして自然と雨が来た (Jung 1955 pp.419-420 脚註部 筆者による要約)

 雨降らし男は雨乞いの儀式を一切しなかった。小屋のなかにいるだけで外的には何もしてい
ないようであった。しかし老人は調子を崩した。それは,その土地がタオの状態になく,そこ
に来た老人も同じくタオが乱れたためという。そして老人のタオの状態が戻ったとき,自然と
雨が降り出した。

 治療者はクライエントとの相互連関において,「無意識内容に感染することによって,つまり
病気がその治療者に転移することによって,治療のうえで少なからず重要な可能性が引き出さ
れる」(C.G.Jung 1946 p.19)。つまり雨降らし男は,干ばつに見舞われている土地の集合的な
無意識に感染することによって調子を崩した。それによりその土地の可能性が引き出され,雨
がもたらされた。

 沈黙とは象徴的には死であり,外的には何もしていない態度である。しかし内的な無意識に
おいては,死と生が連動しつつ創造的な力を発揮する

 沈黙している如来は死であると同時に再生を象徴する存在である十地経における釈迦如来
は自身も苦行を終え菩提樹の下で悟るという,象徴的な死と再生を実現したばかりであった
沈黙している如来から発せられた光は遍く世界を照らした。それは遍く世界へと関心を向け,
無数の存在の影を照らしつつ,布置もしくは縁の作用に任せている,釈迦の再生した姿である

 如来の光によって現れた講堂は金剛蔵菩薩と解脱月菩薩らが行き詰まったときに現れた
それは菩薩らの試みにとって象徴的な死であった。心理療法でも対立していたものが結合した
ときに,それを超える「第三のもの」が象徴的な形をもって現れる。衆生という自らの影と向
き合わなければならないという点で,金剛蔵菩薩と解脱月菩薩らが一致していた。それが死と
再生の契機となり,第三のものである講堂を現出させたと考えられる。

 講堂からの光が金剛蔵菩薩に届いたとき,金剛蔵菩薩の内部から光が発せられた。それは十
地を語って成長を遂げるという金剛蔵菩薩の可能性を引き出す光であった。金剛蔵菩薩も説法
を通して変容をしなければならなかった

<参考情報:サブタイトル/法界縁起(相互依存)と中論の類似性(龍樹:中村元著より転記)より一部抜粋

 如来から放たれた光は,菩薩や衆生を内部から輝かせた。その輝きから放たれた光は彼方へ
と放射され,あらゆる存在を輝かせ,さらなる光の連関を生む。その無数の内的な光の連関を
接続していくことが華厳世界なのである

■同じパターンが繰り返される系とは

<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>

あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。

つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。

<参考情報>

仏教の悟りの要件の一つに、『重々帝網』という言葉があります。『インドラの網』、『重々無尽』、『事事無碍』ともいわれます。

これは帝釈天の宮殿を覆う網の結び目に宝玉が付いていて、全体を照らす、同時に全体は個々の宝玉の中に反映されている、部分は全体を表わし,全体は部分に集約されています。すなわち相互依存性の理解が大切という教えです。

出典:https://www.health-research.or.jp/library/pdf/forum24/fo24_selector01.pdf

■唯識所変のIndra’s Net

出典:https://hironobu-matsushita.com/%E5%94%AF%E8%AD%98%E6%89%80%E5%A4%89%E3%81%AEindras-net/

6.治療者としての態度

 如来は深層心理学的には自己実現が完成した姿といえ,そこには光や影の対立はないと想定
される
。しかし菩薩や衆生は如来のように自他の影に光を照らし尽くすことはまだできない。
自分の悩みを他人に置き換えて,自分の影を他者に映し出し,他人に問題があるかのように思
い込む。そのため菩薩も衆生に自らの影を照らし出すことによって行き詰まりを経験する

 もし金剛蔵菩薩が沈黙を続ければ,十地の知恵は菩薩集にも衆生にもたらされなかったかも
しれない。この沈黙は釈迦如来の梵天勧請を連想する。仏陀が悟りを得たあと沈黙するのを梵
天が説得したように,金剛蔵菩薩が沈黙を続けるのを解脱月菩薩が説得した。沈黙という死が
続けば十地の教えだけでなく,菩薩らの変容も沈黙とともに失われた可能性がある

 十地経の序品では金剛蔵菩薩らが自らの影と向き合う過程が描かれている。金剛蔵菩薩は解
脱月菩薩らに自らの迷いを告白することで自らの影を克服し始める

 心理療法においても,治療者はクライエントとの相互連関を通じて自らの悩みを生きる。ク
ライエントから発せられた光を受け,治療者自身も自らの影を知る。そして治療者も光を返し
ていくという相互交流が生じたとき,クライエントや周囲の世界を輝かせる。

 「もちろん分析家の中には,元型を分裂させていない,真の意味での「傷ついた治療者」もいる。このような治療は,いわば持続的に患者によって分析を受けているのであり,透視され続
けているのである。彼は再三再四,患者の問題がどのように分析家自身の問題を布置し,ある
いはまた彼の問題がどのように患者の問題を布置するのかを見るのであり,それ故,患者に対
してだけではなく,自分自身に対しても開かれた態度で仕事にたずさわる。彼自身もまた,患
者であり続けるのである」(Guggenbühl-Craig 1978 p.170)。影を照らす光の連関を繰り返す
在り方が,治療者としての「私」なのである。

 菩薩は衆生へ想いを寄せ続け,衆生のこころに向かい合って説法をする。菩薩の説法が真に
衆生のこころに届いたとき,衆生のこころが光り輝き,その輝きが世界を照らす。衆生にとっ
ては「私たちに説いて下さる菩薩」ではあるが,菩薩にとっては「衆生の救済」そのものが修
行である。ともに修行するという点において両者は平等である。心理療法でも治療者がクライ
エントとの間に布置された転移・逆転移というこころの相互連関を通じて,変容という自己実
現の光を輝かせる
。クライエントと治療者が出会う相互連関という布置のなかに,治療者の「私」
は存在するのだ。

■ある浄土真宗の住職からの視点

下記転記先:「龍樹菩薩の生涯とその教え」 2022年7月14日 2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の11回目

■華厳経の「十地品(じゅちぼん)の別に書かれた書物

・十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばさろん)

⇒易行品(いぎょうぼん)

■大乗仏教徒が安心して修行できる根拠

龍樹の「空の教え」=中論

初地(しょじ:赤字)と二地(にじ:青字)だけ

⇒易行品(いぎょうぼん)には初地に至る道が書かれている

初地

・「必ず」と言っていける世界

⇒悟りを目指す不退転の地

■龍樹は

・阿弥陀仏を特別に扱っている(?)

⇒浄土宗・浄土真宗の観点からか?

⇒中国で阿弥陀仏の念仏を広めた善導大師⇒(法然が経典で善導大師に出会う→親鸞)

■悟りの道

阿弥陀仏以外の諸仏が記載されている

■易行品の研究

・浄土真宗以外は研究していない

・弥陀章にて詳しく記載

阿弥陀仏だけ本願が書かれている

・阿弥陀仏だけ

⇒往生の利益が説かれている

・龍樹が常に念じる

⇒阿弥陀仏を大事にしている

・乗船の譬えがある

・衆生に勧めている