■有部のニルヴァーナ論
・仏教者のめざすニルヴァーナ(涅槃)とは、
⇒いったいどのような状態なのであるか。
⇒『中論』の第二五章(ニルヴァーナの考察)において、ニルヴァーナが論ぜられている。
⇒その第四、五、六詩は、
⇒ニルヴァーナを有とみなす説一切有部の説を排撃している。
⇒すでに論争の書であるセイロンの上座部の『論事』においても、有部は「ニルヴァーナは有り」といい、
⇒ニルヴァーナという実体を認めていたと理解されている。
⇒有部によればニルヴァーナとは独立な別の実体であり、(『俱舎論』ヤショーミトラ注、219ページ)、
⇒「滅を本質とするもの」(『プラサンナバダー』525ページ)であるとという。
⇒それは五蘊(ごうん)とは別に実在するものであり(『俱舎論』ヤショーミトラ注、218,219ページ)、
⇒「煩悩と業と苦しみとの連続のはたらくことを決定的に妨げるところの、滅を本質としていものであり、
⇒水の流れを妨げる堰に相当するものである」(『プラサンナバダー』525ページ)。と考えられている。
⇒故にニルヴァーナとはたんなる渇愛の滅尽をいうのではなくて、
⇒そのニルヴァーナという独立なダルマがあるときに、
⇒渇愛の滅尽が可能なのであるとされている(同書525ページ)
⇒これははなはだ奇妙な説に思われるかもしれないが、全く理解できないことではない。
⇒人がいくら修行しても
⇒ニルヴァーナ(涅槃)の境地に到達していないと思うと、
⇒ニルヴァーナtぴう実体が別にあって、
⇒その実体がニルヴァーナへの到達を可能ならしめると考えたのも、
⇒理由のないことではないであろう。(説一切有部の教学によると、智慧のはたらきによる滅〔択滅無為(ちゃくめつむい)〕という独立の実体がニルヴァーナを可能ならしめるものである)。
<参考情報>
■五蘊:仏教の核心的な教えのひとつで、「私とは何か?」という問いに対する釈迦の答えでもあります。わかりやすく言えば、私たちの心と体の働きを五つのグループに分けて説明したものです。

■なぜ五蘊が大事なの?
- 仏教では「我(自分)」という固定した実体は存在しないと説きます。
- 五蘊は常に変化し、互いに影響し合っているため、「私」はその一時的な集合体にすぎないという見方です。
- この理解が「無我」や「執着からの解放」につながります。
出典:Microsoft Copilotの回答
■ナーガールジュナの攻撃
・このような説に対してナーガールジュナは攻撃を加えている。
⇒「まず、ニルヴァーナは有(存在するもの)ではない。
⇒〔もしもそうでなくて、ニルヴァーナが有であるならば、ニルヴァーナは〕老いて死するという特質をもっていることになってしまうのであろう。
⇒何となれば、老いて死するという特質を離れては、有(存在するもの)は存在しないからである」(第二五章・第四詩)
⇒存在しているものは必ず滅びゆくものである。
⇒有(存在するもの)が老死という特質を離れていることはありえない(『プラサンナバダー』525ページ)から、老死という特質のないニルヴァーナは有でありえない。
⇒もしも生滅老死という特質のない有を考えても、それは空中の華のように実在しないものである(同書525ページ)。さらに次の第五詩には、
⇒「また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。
⇒何となれば無為である有は決して存在しないからである」というのが、結局前の詩と同一趣意であろう。
・要するに、有は必ず老死という特質を有し、かつ有為であり、
⇒これに反して老死という特質を有せず、かつ無為である有は考えられないということを論拠として
⇒ナーガールジュナは有部のニルヴァーナ論を攻撃しているのであるが、
⇒この攻撃が正しいかどうかは疑問である。
⇒ニルヴァーナというのも一つの「ありかた」であり、
⇒有部はこれを実体視したのであるから、
⇒ニルヴァーナを有と考えたとしても、その「有」とは「有るもの」(das Seiende)の意味であり、ト・オンの考えに近いであろう。
⇒これに反してナーガールジュナは「有」を現実的存在(Existenz)の意味に解して有部を攻撃している。
<参考情報>
「das Seiende(存在するもの)」:、ドイツ語哲学、特にハイデッガー哲学で重要な概念ですね。サンスクリット語でこれに対応する語を探す場合、単なる「有るもの」ではなく、「存在しているもの」「存在者」としてのニュアンスが必要になります。
・哲学的対応関係(簡略)

ハイデッガーが「das Seiende」を「存在しているもの」として「存在そのもの(Sein)」と区別したように、サンスクリットでも sat(存在)と sattva(存在者)を区別することができます。
出典:Microsoft Copilotの回答
■言葉の魔術
・有部の意味する「有」は(ニルヴァーナに関していえば)、
⇒時間的空間的規定を超越した有であるにもかかわらず、
⇒ナーガールジュナの意味する「有」は
⇒時間的空間的規定を受けている現実的存在である。
⇒したがってナーガールジュナは、「有は老死という特質を離れていない」とか、「有は有為であらねばならぬ」とかいうものである。
⇒故に有部のニルヴァーナ論に対するナーガールジュナの攻撃は
⇒急所をついているとはいえないであろう。
⇒一般にSein、das Seiende、Existenz、existentiaなどの概念を区別することは哲学上重要な、かつ困難な問題である。
⇒ただここではニルヴァーナを有なりとなす場合の「有」の概念に関して、
⇒二種の異なった解釈が対立しているという事実は、
⇒この問題に関す興味ある材料を提供しているわけである。
⇒さらに次の第六詩には、
⇒「また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはどうして〔他のものに〕依らずに存在するのであろうか。
⇒〔しからばニルヴァーナは(他のものに)依って存することとなる。〕何となればいかなる有も〔他のものに〕依らないで存在しないからである」という。
⇒ここでナーガールジュナはupā-dāという語根の二義性を利用して議論を進めている。
⇒それは「依る」という意味と「執着する」という意味がある。
⇒ニルヴァーナに執着があるというのはおかしい、ということになるのである。
⇒すなわち、もろもろの事物は互いに相依って成立しているけれども、
⇒ニルヴァーナは無収(執着することが無い)であり、
⇒すなわち〔他のものに〕依らざるものであると経に説かれている。
⇒しかるに、もしもニルヴァーナが〔存在するもの〕(有)であるならば、
⇒他によって成立していることとなるから、
⇒ニルヴァーナは無収(執着することが無い)であるという経典の言と相違するのではないか、という意味であろう。
⇒故に『中論』はこの場合、相依説に立って議論を進めていながら、
⇒言葉の魔術を行使しているのである。
■経部のニルヴァーナ論とその反訳
・『中論』においては次の第七詩と第八詩によってニルヴァーナは無であるという説を排撃している。
⇒これは『般若灯論釈』および近代学者のいうように経部(サウトラーンティカ)のニルヴァーナ論を排斥しているのであろう。
⇒一般に経部は大乗と密接な関係があるとみなされているし、
⇒またすでに指摘したように『中論』のうちには経部と共通な論法が少なくないから、
⇒『中論』が今ここで経部の説を排斥しているのは不思議に思われるけれども、
⇒しかし中観派、非有非無の中道、四句分別(①有と、②無と、③有でありかつ無であること、④有でもなく無でもないこと)を絶した諸法実相などを説く立場に立つから、
⇒ニルヴァーナを有とする意見とともに無となす意見をも排斥せねばならなかったのであろう。
・経部は、ニルヴァーナを無(『プラサンナバダー』527ページ)であると解し、あるいは「無のみなること」という(『俱舎論』ヤショーミトラ注、221ページ)。
⇒とくに、「のみ」という制限を付するのはニルヴァーナを実体視する考えを防ぐためであると説明されている(同上)。
⇒経部は、一般に無為法を実体視する説に反対している(『俱舎論』六巻、一五枚左)。また『成実論』も「またニルヴァーナを無法と名づく」(六巻、大正蔵、三二巻、281ページ下)というから同じ考えなのであろう。
・このような解釈に対してナーガールジュナは次のように反駁している。
⇒「もしもニルヴァーナが有(存在するもの)でないならば、
⇒どうして非有(無)がニルヴァーナであろうか。
⇒有が存在しないところには、非有(無)は存在しない」(第二五章・第七詩)
⇒「またもしもニルヴァーナが無であるならば、
⇒どうしてそのニルヴァーナは〔他のものに〕依らないでありえようか。
⇒何となれば〔他のものに〕依らないで存在する無は存在しないからである」(第二五章・第八詩)
⇒<無>というからには、何ものかの無なのである。つまり無は有を前提にしている。
⇒無は有に依って施設されている(仮に設定されている)(『プラサンナバダー』527ページ)。
⇒無と有とは相関概念である。
⇒故にすでに述べたように、ニルヴァーナが有でないならば、当然無でもありえない。
⇒形式論理学的立場からいうならば、
⇒もしも有でなければ、無であることはさしつかえないけれども、
⇒相依説の立場に立つから一方が否定されるならば他方も否定されねばならないのである。
⇒さらにまた有と無とは相関関係があるから、
⇒もしもニルヴァーナが無であるというならば、有によって存することになるから、
⇒ニルヴァーナが「不受」すなわち依らないものであるということがいえなくなる。
⇒このようにニルヴァーナを無と解する説も相依説の立場から排斥される。

■現代人には飛躍にみえる議論
・以上を要約して次のように説く
⇒「師(ブッダ)は生存と非生存とを捨てることを説いた。
⇒それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが正しい」(第二五章・第一〇詩)
⇒ここでナーガールジュナの議論の飛躍がある。
⇒われわれは生存に執着して、妄執によりあくせくしてはならない。
⇒しかしまた非生存(断滅)にとらわれて、人生を捨てて虚無主義になってはならない、
⇒と原始仏教が説いていたことは事実である。
⇒しかし、そこからいきなり「ニルヴァーナは有でもなく、無でもない」といえるかどうか。
⇒もっともそれを説いたナーガールジュナやその言を聞いた当時のインドの人々には、それほど奇異にはひびかなかったであろう。
⇒そのわけは、
⇒有(bhāva)ー 生存(bhava)
⇒無(abhāva)ー 非生存(vibhava)
⇒というふうに、これらの語は同じ語源に由来し、そのような対応関係にあるからである(西洋哲学においてラテン語のexistentiaとドイツ語のExistenzとが同じ語源に由来しながら、かんなり意味の相違していることを想起せよ)。
⇒ここでもナーガールジュナは言葉の魔術を駆使している。
■その他の説の論破
・『中論』においては次に、ニルヴァーナを「亦有亦無(やくうやくむ)」となす説と「非有非無」となす説を論破している。『般若灯論釈』によれば
⇒前者はすなわち犢子部(とくしぶ)という学派の説を論破し、後者は修多羅人(経典を奉ずる人)の説を論破しているというのが(大正蔵、三〇巻、129ページ上)、詳細は不明である。
⇒必ずしも或る特定の派を相手にしたのではなくて、
⇒ニルヴァーナが四句分別(①有と、②無と、③有でありかつ無であること、④有でもなく無でもないこと)を絶していることを明にするために形を整えて述べたものかもしれない。
⇒とにかく今の場合は『中論』が他派のニルヴァーナ論を攻撃するにも、
⇒上述のように相依説の立場によっているという事実を指摘するにとどめておく。
■ニルヴァーナとは
・このようにニルヴァーナは
⇒四句分別(①有と、②無と、③有でありかつ無であること、④有でもなく無でもないこと)を絶しているが故に、
⇒ニルヴァーナとは一切の戯論(けろん)の寂滅した境地であると説かれている。
⇒「〔ニルヴァーナとは〕一切の認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である」(第二五章・第二四詩前半、なお『プラサンナバダー』538ページ参照)
・「認め知ること」と訳した「有所得」とは、
⇒何ものかを知覚し、それが実在していると思いなすことである。
・「戯論」とは
⇒prapañcaという語を漢訳したのであるが、prapañcaという語が仏典では一般に形而上学的議論を意味するので、「戯論」と訳したのであろう。
⇒しかしチベット訳ではprapañcaをspros pa(ひろがり)と訳している。
⇒インド哲学一般としては「世界のひろがり」の意味に解せられている。
・ともかく、ナーガールジュナによると、ニルヴァーナは
⇒一切の戯論(形而上学的議論)を離れて、一切の分別を離れ、さらにあらゆる対立を超越している。
⇒したがって、ニルヴァーナを説明するためには
⇒否定的言辞をもってするよりほかにしかたがない。
⇒「捨てられることなく、〔あらたに〕得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。これがニルヴァーナであると説かれる」(第二五章・第三詩)
⇒これらの諸説明と、『中論』の帰敬序とを比較してみると、
⇒縁起とニルヴァーナとに関してほとんど同様のことが述べられていることに気づく。
■輪廻とニルヴァーナは同じもの
・それでは相依って成立している諸事象とニルヴァーナとはどのような関係にあるのであろうか。
⇒『中論』をみると、
⇒「もしも〔五蘊(個人存在を構成する五種の様相)を〕取って、
⇒あるいは〔因縁に〕に縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、
⇒これニルヴァーナであると説かれる」(第二五章・第九詩)
⇒と説くから。
・相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷するのを
⇒凡夫の立場からみた場合に、
⇒生死往来する状態または輪廻と名づけるのであり、
⇒その本来のすがたの方をみればニルヴァーナである。
⇒人が迷っている状態が生死輪廻であり、
⇒それを超越した立場に立つときがニルヴァーナである。
・輪廻というのは人が束縛されている状態(『プラサンナバダー』290ページ)であり、
⇒解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。
⇒故に輪廻とニルヴァーナとは別のものではなく、「等しきもの」(同書535ページ)であり、
⇒両者は本来同一本質(一味)である。(同書535ページ)
「輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別ない」(第二五章・第一九詩)
⇒両者は区別して考えられやすいけれども、その根底をたずねるならば両者は一致している。
⇒「ニルヴァーナはの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なるいかなる区別も存在しない」(第二五章・第一九詩)
・この思想は
⇒独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想の根底となっているものである(たとえば『六十頌如理論』第五詩、大正蔵、三〇巻、254ページ下、そのほか)。
⇒人間の現実と理想との関係はこのような性質のものであるから、
⇒ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならいない。
⇒ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。
⇒故に『般若経』においては
⇒ニルヴァーナは「夢のごとく」「幻のごとし」と譬(たと)えている(荻原本『八千頌(じゅ)般若』160ページ)。
⇒それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない(『プラサンナバダー』230ページ)。
■諸法実相即ニルヴァーナ
・故に中観派は縁起している諸事物の究極にニルヴァーナを見出したのであるから、
⇒諸事物の成立を可能ならしめている相依性を意味する
⇒諸法実相がすなわちニルヴァーナであると説かれている。
⇒「諸法実相即ち是れ涅槃なり」(青目釈、大正蔵、三〇巻、25ページ上)。
⇒これは全く諸事物がニルヴァーナに裏づけられているが故にこのようにいいうることである。
⇒「諸法中皆有二涅槃性一。是名二法性一(あらゆる事象のうちにみなニルヴァーナの本性が実在している。これを<定まったきまり>と名づけるのである」(『大智度論』三二巻、大正蔵、二五巻、299ページ下)。
⇒さらにこれと同じ意味で諸法実相は無為であると説かれている。
⇒『中論』には見当たらないけれども『般若経』にはこのように説明しているし(荻原本『八千頌(じゅ)般若』1262ページ)、『大智度論』はこれを受けている。
⇒「無畏性有。所謂如・法性・実際・涅槃。(「無為」の本質なるものは、すなわち真如・諸事象の定まったきまり、真実の究極の根底、ニルヴァーナなのである)」(『大智度論』七七巻、大正蔵、二五巻、606ページ)。
■「無為」という語の原意に復帰
・説一切有部によれば
⇒有為法と無為法とは全く別な法であると考えられていたが、
⇒中観派によると両者は別のものではなく、
⇒有為法の成立している根底に無為法を見出したのである。
⇒故に『大智度論』においては、「有為法の実相は無為法である」(三一巻、大正蔵、二五巻、290ページ下、289ページ上、八六巻、大正蔵、二五巻、664ページ上)と説いている。
⇒すなわち、「有為法の中にすでに無為法が有る」(『大智度論』九五巻、大正蔵、二五巻、76ページ中)。
⇒したがって大乗経典の中には、「縁起を無為と見る」という主張もみられる。
⇒これらの説明の意味するところは、上述の『中論』の思想と同一趣意であろう。
・なお最初期の仏教においては、
⇒個人存在を構成する一切の事象が
⇒縁起のことわりに従う如実の相を「真如(しんにょ)」とよび、
⇒さらにこの真如を<無為>とも称したのであるが、
⇒決して無為という実体を想定したのではないと考えられている。
⇒中観派はその無為という語の原意に復帰して論じているのであるから、
⇒この点からみても空観は
⇒最初期の仏教の或る種の思想をうけついだものであり、
⇒或る意味においては正統説であると考えてさしつかえないであろう。
⇒さらにニルヴァーナは空であるとも説かれている(『プラサンナバダー』351ページ、なお135ページも参照)。
⇒空は「諸法の究極の相」であるから(『大智度論』七一巻、大正蔵、二五巻、560ページ下)、
⇒前と同様の意味においては「空即ニルヴァーナ」といいうるであろう。
■大胆な立言
・このようにニルヴァーナは種々に説明されているけれども、その趣意はみな同一である。
⇒われわれの現実生活を離れた彼岸に、
⇒ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。
⇒相依って起こっている諸事象を、
⇒無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻と呼ばれる。
⇒これに反してその同じ諸事象の縁起としている如実相を徹見するならば、
⇒それがそのままニルヴァーナといわれる。
⇒輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、
⇒それ自体は何ら差別のあるものではない。
・『中論』の帰敬序において、
⇒「八千、戯論の寂滅、めでたさ」が縁起に関していわれているが、
⇒これらは元来ニルヴァーナに関して当然いわれるべきことである。
⇒しかるに縁起にかんしてこれを述べるのは、
⇒相関関係において成立している諸事象とニルヴァーナとの無別無異なることを前提としているのである。
⇒これは実に大胆な立言である。
⇒われわれ人間は迷いながらも生きている。
⇒そこでニルヴァーナの境地に達したいらよいな、
⇒と思って、憧れる。
⇒しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。
⇒ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
■一切は無縛無解
・したがって繋縛(けばく)も解脱も真に有るものではない。
⇒一切は無縛無解(むばくむげ)である。
⇒『般若経』は時にこのことを強調しているが(荻原本『八千頌(じゅ)般若』91ー93ページ、426、436ページ)、『中論』もこれを受けついでいる。
⇒第一六章(繋縛(けばく)と解脱との考察)において、
⇒「もろもろの形成されたものは生滅の性を有するものであって、縛せられず、解脱しない。
⇒生あるもの(衆生)もそれと同様に縛せられず、解脱しない」(第五詩)という。
⇒ニルヴァーナに入るということを人々はややもすれば神秘的に考えやすいが、それはありえないことである。
⇒ニルヴァーナに入るということ自体が実際には存在しないのである。
⇒「もろもろの形成されたものがニルヴァーナに入るということは決して起こりえない。人がニルヴァーナに入るということもまた決して起こりえない」(第四詩)
⇒したがってわれわれはニルヴァーナに入るということに執着してはならない。
⇒「『わたしは執着の無いものとなって、ニルヴァーナに入るであろう。わたしはニルヴァーナが存在するであろう』と、こういう偏見を有する人には、執着という大きな偏見が起こる」(第九詩)
⇒「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、
⇒「束縛もなく、解脱もなく」と思うときに解脱がある。(『中論疎』725ページ上)。
⇒譬えていうならば、われわれが夜眠れないときに「眠ろう」「眠ろう」と努めると、なかなか眠れない。
⇒眠れなくてもよいので、と覚悟を決めると、あっさり眠れるようなものである。
⇒故に「ニルヴァーナが無い」というにはたんなる形式論理をもって解釈することのできない境地である。
⇒結局各人の体験を通して理解するよりほかに仕方がないのであろう。
<参考情報>
■仏教における「戯論」の定義
・概念の増殖: 言語や概念によって世界を分節化し、実体化する心の働き。
・妄想・妄念: 対象を虚妄に分別し、実在しないものに執着すること。
・障礙・迷妄: 解脱を妨げる心の作用として、仏教では「病の元」とされる。
中観派では「戯論を滅すること」が縁起の理解と解脱の鍵とされ、『中論』では「不生不滅、不常不断、不一不異、不来不出」などの命題を通じて戯論を否定します
出典:Microsoft Copilotの回答
<参考情報>











<参考情報>
■原始仏教経典一般ならび小乗の十二因縁の説
⇒『中論』においては二種の縁起説が説明されている。
⇒すなわち第一章から第二五章までに出てくる縁起は
⇒全く論理的な「相依性のみの意味なる縁起」であり、
⇒第二六章において初めて小乗のいわゆる「十二因縁」を説明している。
・この第二六章の説明は全く十二支を
⇒時間的生起の前後関係を示すものとみなしている。
⇒今その時間的生起関係を示す語に傍点を附してみる。
1)無明(むみょう / avidya) – 無知(真理に対する無理解)
⇒「無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)をみずから為し、その業によって迷いの領域(趣)に行く」
2) 行(ぎょう / samskara) -潜在的形成力( 意志、行動の形成力)
⇒「潜在的形成力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る。そうして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する(第二詩)。
3) 識(しき / vijnana) – 識別作用(意識)
4)名色(みょうしき / namarupa) – 身心(心と物質:精神と肉体)
5)六処(ろくしょ / ṣaḍāyatana) – 心作用の成立する六つの場(六つの感覚機能:眼、耳、鼻、舌、身、意)
⇒名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。
6) 触(そく / sparśa) – 感覚器官と対象との接触
⇒六入が生じてのち、感官と対象との接触(触)が生ずる」(第三詩)。
「眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意:さい)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる」(第四詩)
7) 受(じゅ / vedana) – 感受作用(感覚)
⇒「色と識と眼との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生ずる」(第五詩)
8)愛(あい / tṛṣṇā) – 盲目的衝動(渇愛、欲望)
⇒「受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するとき四種の執着(取)を取る」(第六詩)
9)取(しゅ / upādāna) – 執着(取り込む)
⇒「取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである」(第七詩)
10)有(う / bhava) -生存( 存在、存在状態)
⇒その生存はすなわち五つの構成要素(五陰:ごおん)である。生存から<生>が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望ーこれらは<生>から生ずる。このようにして、このたん〔に妄想のみ〕なる苦しみのあつまり〔苦陰:くおん〕が生ずるのである」(第八詩・第九詩)
11)生(しょう / jāti) – 生まれること
12)老死(ろうし / jāramaraaṇa) – 無常なすがた(老化と死)
・このように全く時間的生起の関係に解釈され、
⇒チャンドラキールティの註釈においては一つの項から次の項が生ずることを説明するために、
⇒いつも「それよりも後に」という説明が付加されている。
⇒またナーガールジュナは他の書おいて十二因縁を三世両重の因果によって説明しているし、
⇒中観派は極めて後世に至るまで三世両重の因果による説明に言及している。
・しかしながらナーガールジュナが真に主張しようとした(第二五章まで)縁起が
⇒十二有支(うし)でないことは明らかである。第三章八詩に、
⇒「<見られるもの>と<見るはたらき>とが存在しないから、識(3:識別作用)などの四つは存在しない。
⇒故に収(9:執着)などは一体どうして存在するのであろうか」というが、
⇒各註釈についてみると「識などの四つ」とは識と触と受と愛とを指し、
⇒さらにピンガラの註釈には「見と可見との法が無き故に、
⇒識と触と受と愛という四法は皆な無し。愛等が無きを以ての故に、四取等の十二縁分もまた無し」
⇒と説明しているから、『中論』の主張する縁起が十二有支の意味ではなくて、相依性の意味であることは疑いない。
⇒さらに注目すべきことには『無畏論』においては第二六章は十二有支を観ずるの章とあり、またチャンドラキールティの註釈においては第二六章のなかに、「縁起」(またはそれに相当する語、例えば衆因縁生法)という語が一度も使用されていない。
⇒故に最も古いこの二つの註釈においては、ただ縁起とのみいう場合には常に相依性を意味していて、十二有支の意味を含んでいなかったといいうる。
出典:サブタイトル/NN1-3.『中道』と『縁起』(Ⅱ)~『中論』は諸行無常を『縁起』によって基礎づけている~(龍樹:中村元著より転記)



■解脱⇒涅槃
・六道輪廻のサイクルの外(涅槃)
⇒右図の赤字枠


■法(ダルマ)=<教え>から
・後世は
⇒<教え>で説かれている内容(真理)に拡大解釈されるようになった


■大乗仏教の根本
・すべての人が涅槃に行くまで
⇒涅槃に行かない
⇒利他






出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)