出典:https://1000ya.isis.ne.jp/1802.html
私は、私たちの中に流れ込んでいる思想的伝統を
分析し、解明し、そして批判的に新たな思想形成を
準備してゆく、その最善の手がかりとして
仏教を考えてみたい。私はそれをかりに
「方法としての仏教」と呼んでいる。——『思想としての仏教入門』
あれは慈円(624夜)、山崎闇斎、清沢満之(1025夜)を続けさまに読んでいたころだった。ある確信がやってきた。日本の思想史や文化史はできるかぎり「抜き型」で語られるのがいい!
「抜き型」というのは知覚環境学のフォン・ユクスキュル(735夜)の生態学的な用語なので、知らない諸君も多いかもしれないが、たとえば昆虫には昆虫独自の触覚などの知覚があるわけだが、昆虫はそういった独自のフィルターを抜き型にして環境世界を捉えている(ユクスキュルは「環世界」と呼ぶ)。それが昆虫にもコウモリにもキツネにもチンパンジーにもおこっている。抜き型によって動物の知覚環境は異なってくる。「抜き型で語る」とはそういうことをいう。ユクスキュルは抜き型が世界に関する「トーン」をつくっていると考えた。
おそらく、われわれの文明文化にも「抜き型」がある。技術文明という抜き型、進化と淘汰という抜き型、王制や国民国家という抜き型、ジェンダーという抜き型、キリスト教という抜き型、グローバル資本主義という抜き型、「おたく」という抜き型、オリンピックという抜き型、メキシコやロシアという抜き型、いろいろだ。これらによって世界はトーンを変える。
二つ以上の抜き型で抜き合うことも少なくない。いやむしろそういうほうが多い。西欧文明はもともとユダヤ・キリスト教という大きな抜き型で象られていて、そこにいくつもの抜き型が組み合わさって出来てきた。
では、仏教という抜き型によって日本を眺めるとどうなるのか。また仏教を日本という抜き型で射貫いていくと、どうなるのか。日本仏教にはインド仏教や中国仏教や東南アジア仏教と異なる「トーン」があるはずだが、それをどう語ればいいのか。今夜は末木文美士(すえきふみひこ)を選んだ。
日本思想の大きな特徴は、
常に外来思想に決定的に規定されながら、
その中でどのように独自なものを打ち出せるかということが
求められてきたところにある。その外来思想は、
前近代においては中国思想であり、
近代においては西洋思想であった。——『日本思想史』
日本を眺めるための仏教は、インド的な原始仏教やシルクロード仏教や中国仏教を通してスクリーニングされてきた。これが日本仏教というものだ。スクリーニングというのは、さまざまな抜き型によって日本仏教が編集されてきたことをいう。
6世紀の半ば、仏教は欽明天皇の時代前後に中国や朝鮮半島からやってきた。日本人には「蕃神」(あだしくにのかみ)に見えた外来宗教である。それを受けた蘇我馬子や一部の豪族や仏師らは氏族仏教をプレゼンテーションした。
すぐさまそれなりの日本化をおこして、ひとつは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」に象徴されるややニヒルな信仰論に、もうひとつは大仏開眼や南都六宗に象徴される鎮護国家型の仏教になっていった。そこには北魏仏教・新羅仏教・隋唐仏教のフィルターがかかっていた。
大きな転換点のひとつは、聖武天皇が行基から菩薩戒を受け、鑑真を招聘して「仏門プロ」をつくることにしたことだ。本格的戒律の導入だ。これで六宗型(倶舎・成実・律・三論・法相・華厳)の奈良仏教が伽藍を並べて栄えたが、いくぶん大雑把になったり、道鏡の登場などで偏向したりもした。王法と仏法もくっつきすぎていた。
そのため最澄・空海による戒律と即身成仏思想と密教による革新がおこり、そこからは黒田俊雄(777夜)のいう「顕密体制」(顕教と密教のダブルスタンダード)が作動するようになるのだが、また専修念仏や鎌倉新仏教の動向が興っていったのだが、さあ、大筋、こんな説明でいいのかということが問われる。
そこを問うたのが末木文美士だった。歴史の中の日本仏教だけでなく、近代仏教や今日の仏教の在り方まで、日本語や神祇神道との関係から生死の哲学としての仏教まで、いろいろ問うた。とくに宗教史を通しては、「顕と密」よりも「顕と冥」を問うた。このことについては今夜の最後に説明する。

仏教伝来の地図。仏教の伝播は南伝・北伝・チベットという系統に大別されるが、インド・中央アジア・インドネシアなどでは、ヒンドゥー教やイスラム教などの影響で教えが衰えた。
「仏教新発見・法隆寺」(朝日新聞社)より
イラスト:ヨシザワスタジオ
既知の世界とそれを超えた領域とを結ぶ
中間的なところに立って、
我々をもう一つ広い世界に導いていくのが、
仏ではないかと思います。——『日本仏教の可能性』
末木さんは甲府の出身で(中沢新一と同じ高校)、東大のインド哲学科に学んで大学院では天台の安然(あんねん)を突っ込んで研究した。その成果が『平安初期仏教思想の研究』(春秋社)である。最澄・円仁・円珍を継いだ安然の研究に本格的に取り組んだのは末木さんが初めてだったようだ。東大、東方研究会、京都の日文研で教鞭をとった。
最もよく知られた本で、多くの読者がいるであろう本は、1992年刊行の『日本仏教史』(いまは新潮文庫)だろう。あの本には痺れましたという知人が何人かいる。日本仏教の特色をどう書くか、何かが極端に欠けているところや薄いところがあるのではないか、それらを加味してどんな通史になりうるのか、そこを彫塑した。
ぼくも『日本仏教史』から読み始めた。とくに天台本覚については末木さんのものをずっと追った。しばしば目から鱗が落ちた。あのころは後に「失われた十年」と言われたほど不毛の時期で、世界は湾岸戦争が、日本はバブル崩壊がおこったあとの十年で、グローバリズムに擦り寄る日本の姿があまりに醜悪だったので、ぼくはできるかぎりメディアから遠ざかり、ひたすら沈潜して「世界と日本の関係を新たに観相するための8つほどの視軸」をたて、それらを解読するにあたって読み込むべき数十冊のキーブックにとりくんでいた。
文化人類学系のもの、複雑系に関するもの、遺伝科学や脳科学の本、チューリングマシンもの、グノーシスから神秘主義に及ぶもの、いろいろな著作や問題作を選んだが、そのうちの一冊が『日本仏教史』だった。サブタイトルは「思想史としてのアプローチ」。日本思想史を日本仏教のボラタリティでフィルタリングするという見方だ。『図説日本の仏教』全6巻(新潮社)の思想解説を担当執筆したものも散りばめられていた。論考版は『日本仏教思想史論考』(大蔵出版)にまとまっている。
その後、多くの著作をものされたが、末木さんの本はできるだけいろいろ読んだほうがいいように思う。仏教思想の網目が歴史的かつ俯瞰的に見えてくるだけではなく、日本思想の骨法がわかる。シンタクスとセマンティクスの両方がわかる。『草木成仏の思想』(サンガ)、『日本仏教の可能性』(新潮文庫)、『浄土思想論』(春秋社)、『中世の神と仏』(山川出版社)、『近代日本と仏教』(トランスビュー)など、お勧めだ。
もっと複合的に通史をマッピングしたいなら『日本仏教史』とともに、『日本宗教史』『日本思想史』(いずれも岩波新書)、『日本思想史の射程』(敬文社)、『仏教:言葉の思想史』(岩波書店)を併読するのがいいだろう。
ちなみに末木さんの父上は論理学者の末木剛博で、「遊」創刊前後のころ、ぼくはこちらの末木さんの『東洋の合理思想』(講談社→法蔵館)の影響を受けた。ヴィトゲンシュタイン(833夜)、分析哲学、西田幾多郎(1086夜)、東洋思想にとりくんでおられた。父子ともに短歌や茶道に明るい。
ついでながら弟の末木恭彦は東海大・駒沢大の中国哲学の研究者で、子供時代は兄ともどもに「ガロ」や少女マンガに夢中になっていたらしい。兄貴はタカラヅカのファンでもある。
今夜はそうした末木さんの試みを、比較的最近の『日本仏教入門』を通して、ざっと紹介したい。その話に入る前に、ぼくが日本仏教を考えなおすきっかけになった少しエピソディックな話を挟んでおく。

HCU(ハイパーコーポレートユイニバーシティ)11期で講義する末木文美士さん。天台本覚、菩薩とケアの関係、田中智学と国体のこと、政教分離論まで、日本仏教の行方をめぐって話した。

末木さんの仏教本の数々。千夜千冊のために社内にある末木本をかき集めたところ、30冊以上になった。
僕は、「お釈迦様はこんなことを言っています。
やはり仏教はすばらしい」というお説教は絶対にしない。
仏教もまた疑ってかかるべきだ。——『反・仏教学』
こんなことがあった。80年代はじめにニューヨークのスーザン・ソンタグ(695夜)の書斎にいたときのことだ。「セイゴオねえ、日本人はせっかく仏教をソフィスティケーションしたのに、なぜにまたジョン・レノンやヨガブームなどに煽られて野卑なインド仏教などにこだわったの? 中国の漢字仏教より日本の仮名仏教をちゃんとやったほうがいいんじゃないの?」。そう言われたのだ。
ソフィスティケーション? そう見えるのか、なるほどと思ったが、さてその理由をうまく説明するのは至難の業だろうとたじろいだ。たとえば法然の「専修念仏」や一遍の「遊行」が易行(いぎょう)という意味ではソフィスティケーションだったとしても、そこに併存する「他力本願」はソフィスティケートされているとは思えない。
でも、中世の無常観と結びついた「草木悉皆成仏」という感じ方はいかにも日本的でこまやかなだ。『沙石集』の無住は畿内の寺々で修行を積んで、そのうえであんなに柔らかい説話集を編んだ。浄土教系や神仏習合を許容してきたところにもソフィスティケーションがあらわれてはいるとは思うけれど、とはいえそこが日本仏教の特色とどのように関係づけられるのか、実はあまり研究されてこなかった。ソンタグは日本の中世に詳しいわけではなかったが、その勘はわれわれの虚を突いていたわけだ。
虚を突かれてみると、それが気になって、あれこれ考えるようになったのだが、とはいえ分け入る竹薮は密生する熊笹で切り傷が絶えず、けっこう険しい。そんなとき、こういう問題を拾えるスクリーニング・フィールドが末木文美士の中に用意されていたと気がついたのである。
たとえば、丸山真男(564夜)が日本では「古層」のホモジェニティ(等質性)が何度も蘇るようにくりかえされてきたと主張したことに疑問をぶつけて、日本の「古層」は歴史の中でじょじょに形成されてきたとみるべきで、そこに神祇信仰と仏教思想との頻繁な交流と相互の解釈と変換がおこって、その後はそれらを古代に発生していた「古層」とみなすようになったのだと説明した。
このような見方は、記紀神話や万葉歌謡に日本思想の原型を見いだそうとする潮流に抗しているように見えるけれど、こういうふうに組み立てなおしたほうがずっと説得力に富んでいた。
後日談。ソンタグは3度目に日本に来たとき、ぼくの仕事場を訪れてこう言った。「二つのことを言います。ひとつ、セイゴオの今度の『フラジャイル』という本の構想はすばらしい。大いに期待しています。ひとつ、あのオウム真理教の事件は何なの? 日本人の仏教観なの? それともアサハラ独自のものだというなら、どうしてあんなふうになったのか答えなさい」。
またもや難問である。佐藤清靖の勧めで、『空海の夢』(春秋社)の増補版に序文をつけてとりあえず暫定的な考え方を示しておいたけれど、ちゃんと書けたかどうか。事は新興宗教や新々宗教をどう説明するかではない。こういう問題は日本仏教が始まったときから、ずうっと続いてきたスクリーニングやフィルタリングの問題なのである。
われわれは、縄文1万年を文字を知らないままオラル・コミュニケーションで過してきた。そこへ稲・鉄・馬とともに漢字が入ってきた。その漢字は儒教の四書五経や仏教の経典や『千字文』(357夜)に載っていた。だから仏教を知るとは、漢籍を読むことになった。
読むとはいっても、当然、先達が必要で、かつその文字群が発する意味を縄文以来の倭語に照らし合わせる必要があった。さまざまなフィルターを使わざるをえなかった。ヲコト点や万葉仮名も用意した。ところがそれで読解が進捗してみると、そこがわれわれの欠陥なのだが、自分たちがどんなスクリーニングやフィルタリングを使ったのか、それによってどんな編集をしてしまったのか、その方法を総括するのを忘れてしまうのだ。
ソンタグは、あの独特の勘でそこを突いてきたわけだ。かつてなら富永仲基が突いたことだった。

『空海の夢』(春秋社)。初版は1984年。1995年にオウム教サリン事件を受けて序章「オウムから空海へ」を加えた新装増補版がつくられ、さらに2005年には空海密教の現代的な価値を再提言する結「母なる空海・父なる宗教」を加えて新版が刊行された。
かつては古典の中に近代に通ずる同質性を
読み込もうとしていたが、
近年の研究は、古典を僕たちとは違う異質の他者と見て、
その異質性を捉え直そうという方向に進んでいる。——『仏典を読む』
それでは、本書の骨格に沿って少しばかり問題点を浮き彫りしてみるが、話の都合上、まずは日本仏教史を代表する初期の論争から見ていくことにする。論争には安易なスクリーニングに踏みとどまる結節点が隠れている。
南都六宗がほぼ確立するのは大仏開眼のあとの天平宝字4年である。平安初期になって、そこに天台宗と真言宗という密教が加わった。従来の六宗の枠を打破するものであったが、朝廷からも南都からも抵抗なく承認され、年分度者が割り当てられた。それならそこはすんなり含意されていったのか、たいした議論がなかったのかといえば、そんなことはない。諸宗は論争していた。末木さんは4期に分けた。
<参考情報>

出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44138660U9A420C1000000/
<参考情報>
・龍樹を大事にしている宗派
⇒三論宗、華厳宗、天台宗、真言宗


出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~
第1期(8世紀後半)では法相宗と三論宗が論争し、第2期(9世紀はじめ)になると、最澄と南都が論争した。最澄がすべての教えは「唯一の仏になるための教え」に帰着するという一乗主義を唱えたのに対して、法相宗の徳一(とくいつ)が「声聞・縁覚・菩薩の悟りはそれぞれ別々のものだ」という三乗主義をぶつけてきた。三一権実論争という。
<参考情報>
ひるがえって、もとからの小乗グループは、仏教の教えを伝え導くことができるのはブッダただ一人、釈迦仏だけだと考えてきた。それゆえ修行者はブッダを理想のモデルとして、一人ひとりがさまざまな執着を断ち、輪廻から解脱するために阿羅漢(あらかん)をめざす。なかで、その境地にかなり近づいた者は菩薩、すなわちボーディサットヴァ(菩提薩埵、略して菩薩=悟りを求める人)と称ばれるところにまでは達するが、とはいえブッダになるわけではない。そう、考えてきた。
これに対して大乗グループは、釈迦仏以外にもブッダ(覚者)はありうると主張した。菩薩もブッダをめざしつつ、自分だけではなく衆生(多くの他者)を悟りに導こうとしているのなら新たに「菩薩乗」とみるべきだと主張し、たんに教えを聞く修行者はブッダになろうとしていないのだし、自分だけの覚醒にこだわっているのだから「声聞乗」(しょうもんじょう)にすぎないとみなした。また、教えを聞くことなく独力で解脱をめざす者たちもふえてきたようだが、かれらは別して「縁覚乗」(えんがくじょう)などと称ばれるべきだとした。
こうして、修行者を教えを聞いて悟ろうとする声聞乗(小乗)、自身の悟りを求める縁覚乗(中乗)、一切衆生のために仏道を広める菩薩乗(大乗)という「三乗」の見方ができあがっていったわけである。このうち声聞・縁覚乗を「二乗」とも名付け、大乗を進む者を「一乗」と名付けた。
大乗グループは、これらのことがブッダの語りによって展開されている経典が存在するべきだと考えて、かなり長い時間をかけて『法華経』を仕上げた。そこではブッダは「私が小乗や二乗の道があると説いたのは、大乗に導くための方便だった。本来の道は一乗なのだ」と語っているようにした。前半の迹門で二乗を重視しておきながら、後半の本門では一乗を重視させたのである。
出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~
徳一は空海にも絡んだ。若い空海のことはおもしろがっていたようなのだが、その即身成仏による密教論の展開に「あなたには慈悲が欠けている」と指摘し、『真言宗未決文』をもって疑義をはさんだ。空海は得意のレトリックで徳一を捌いたが、長引く対立もあった。
<参考情報>
■大乗仏教の根本
・すべての人が涅槃に行くまで
⇒涅槃に行かない
⇒利他

■大乗仏教の根本精神
・すべての人を救うとの誓いを立てた
⇒衆生無辺誓願度

■何?密教は小乗仏教と同じ考えではないか?
・空海に疑問を呈した仏教徒(大乗)

■空海の回答
・2種類の成仏がある









↓



↓

■2つの視点
・字相と字義

■凡夫の視点(字相)
・縁起

↓

■仏陀の視点(字義)
・因不可得

↓

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出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)

徳一大師像。徳一は都の仏教に反発し、奈良から東国(茨城や福島)へ赴き、各地で寺院を建立。会津に開いた慧日寺(えにちじ)は広大な敷地を有し、信仰を求める人々がぞくぞくと集まった。「仏都会津」といわれる由縁。
<参考情報>

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
共に、合流する――偶有性について
松岡 華厳も出てくるし、一方に阿頼耶識(あらやしき)の方へ向かっていく道もあります。阿頼耶識についてはまだ誰もちゃんとやれていないんじゃない?
<参考情報:原始仏教(釈尊)が考えた心の動き:六識説>
・六境(対象物)・六根(感覚器官)・六識(感覚作用)・意識(こころ)に収険される

■唯識の肝:八識
・前五識 (眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
・第六 意識
⇒上記六識に以下2識を加える(認識の深化)
・第七 未耶識(マナシキ:自己中心化⇒外界から入る情報を自分の都合の良いように解釈する)
■第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)

◆第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識
・個々人の見聞、経験等の情報が全て書き込まれ、ため込まれる
⇒良くも悪くも「ため込まれた情報」は更新される
⇒次第に個々人の倫理観が形成される「心の働き」の領域

・何を第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ)にため込む事が大事か
⇒七仏通誡偈(ひちぶつつうかいげ)
⇒自らその意を浄めよ(第七 未耶識との衝突(矛盾))
※第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)

■禅観
・入力情報を屈折させない仕掛け
⇒呼吸を整えて

出典:第741回花ホテル講演会 タイトル:「法相宗は面白い ~こころを観る唯識~」 講師: 高次 喜勝 氏(YouTube)
こちらは最澄が延暦寺に大乗戒壇を設けようとして南都を難じたことに始まった。最澄は東大寺の戒壇院は小乗戒だと批判し、そんな言いがかりをつけられた南都が反撃した。これで比叡山と東大寺が全面対立状態になった(最澄には対立する気はなかったが)。

最澄が著した『顕戒論(けんかいろん)』。最澄を批判する奈良の仏教者たちへの反論。人々を導き、国を護ることのできる菩薩としての僧侶を育成することを主張した。
図:延暦寺(叡山文庫蔵)

南都七大寺マップ。奈良時代、仏教国家の中心を担っていた7つの大寺、東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・西大寺・薬師寺・法隆寺を指す。
<参考情報>
最澄は近江の生まれである。琵琶湖のほとりの大津の古市郷、いまの生源寺のあたりに俗姓を三津首(みつのおびと)、俗名を広野として育った。
14歳(宝亀11年)で近江の大国師であった行表(ぎょうひょう)のもとで出家して、近江国分寺で得度、延暦4年4月に東大寺で具足戒を受けた。行表が器量の大きい人だったようだ。
仏教では本格的な僧尼になるためには、「自分は戒律を守ります」(持戒)という約束を果たさなければならず、そのための授戒を受けなければならない。「戒」(シーラ)は仏教三学の「戒・定・慧」の必須要件のひとつで、仏法に帰依する者の大前提のことだ。具足戒はその戒の中の小乗戒で、200項目ほどの規則が示されている。日本には請われて鑑真が具足戒をもたらし、東大寺にそのための戒壇院ができた。
最澄も授戒してもらったものの、小乗戒では満足できなかった。「一乗に帰すべし」がないように感じられたのだ。そこで授戒後の7月、意を決して比叡山に入ると草庵を結び、山林修行を始めた。座禅に励み、四恩(父母・衆生・国王・三宝への恩)のために『法華経』『金光明経』『般若経』などを読誦し、自身の覚悟をしるすべく「願文」を認(したた)めた。
出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~
第3期(9世紀前半)、平安仏教界に「八宗」体制が確立し、諸宗派が優劣を争った。とりわけ空海の『十住心論』(その縮約版の『秘蔵宝鑰』)が第六住心以降を法相・三論・天台・華厳・真言の順に教判(教相判釈)し、密教を上位にランク付けたため、のちのちここに顕密仏教論が炎上することになった。
<参考情報>
■第四段階から第十段階の心のあり方:仏教のあり方

■九顕一蜜:密教との対比

■第十住心(秘密荘厳心)ー真言宗・両部大経の立場(密教)
<参考情報>
・「荘厳」とは美しく飾られ、みごとにととのえられているということである。
⇒秘密の隠れた究極の真理をさとった境地。
⇒真言宗の立場。
⇒それはまた空海自身の説く真言密教の究極の立場である。
⇒ここにおいては宇宙の一切の事物が密教浄土のすがにほかならぬということになる。
⇒すばらしい浄土であるというのである。
出典:サブタイトル/空海『十住心論』の思想~空海につづけ!#03(種智院大学オンライ講座より転記~
八宗という言い方は便宜的だ。いくつかのグルーピングがある。中国八宗は法相宗・禅宗・密宗・法華宗・天台宗・三論宗・律宗・華厳宗をさす。平安時代までに日本に伝わった南都六宗に天台・真言を加えた八宗は、凝然(ぎょうねん)の『八宗綱要』がとりあげた。一方、「八宗兼学」の対象とされたのは天台・真言・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗だった。
<参考情報>
日本の仏教の多くの宗派も大乗仏教に分類されており、戒律は宗派ごとにさまざまに解釈。

出典:https://president.jp/articles/-/42220?page=6
第4期はその後の議論が展開する結節点になった。三論の道詮が『群家諍論』でインド以来の諸宗の師資相承を整理し、天台の蓮剛が『定宗論』でこれらの中での天台優位の八宗を位置づけて天台主導の八宗併存を訴えた。これを円珍が『諸家教相同異略集』で追い撃ちし、これらを仕上げるように安然の『教時諍』『教時諍論』『教時問答』が連打されたのである。四一教判といわれる。一切諸仏の説法を「一仏・一時・一処・一教」に集中しようというもので、密教による顕密の統合を強調した。
こうした論争をへて、何がどうなったのか。比叡山は天台の本山だけではなくて、天台・真言・禅を含む顕密の一大センターであることを勁く打ち出すことになった。末木さんはそこを、「宗」は大学やセクトやデノミネーションではなく、比叡山においてスクール(学部)になったと説明する。

飛鳥時代から室町時代までの仏教諸宗派の年表。
作成:大泉健太郎

円珍(智証大師)。空海の甥にあたる。15歳のとき比叡山に登り、延暦寺座主の義真に就いて天台を学び、20歳のとき、菩薩戒を受ける。その後、12年間籠山して修行を続け、延暦寺の学頭となった。園城寺(三井寺)では宗祖として寺門派の象徴的存在となっている。
日本の仏教の大部分では、他の仏教圏の仏教と違って、
基本的に部派の律を採用しません。
何を採用するかというと、
日本の仏教の大部分が採用しているのは、
大乗戒だったのです。
そして、この大乗戒を採用したのは誰かというと、
実は最澄でした。
その意味で、最澄こそ、日本仏教の戒律観を
根本からひっくり返した人だと言えます。——『浄土思想論』
<参考情報:円珍(智証大師)>
故郷の讃岐で母方が空海と縁つづきの佐伯氏であったこと、叔父の仁徳に連れられて比叡山に入ると義真に出会い、天長10年(833)から12年におよぶ籠山の修行に徹したこと、円仁の入唐があったにもかかわらずあえて入唐を果たして金胎両部の密教灌頂を受けられたことなどは、よく知られてきたことだ。
しかし、なぜ円珍が入唐にこだわったかということは、三善清行も説明していない。木内さんは、すでに義真派と円澄派の軋轢が円仁派と円珍派の関係に及んでいて、円珍としては円仁派に拮抗しうる成果を唐から持ち帰る必要があったと説明する。ただこのことは、円珍が天台別院としての園城寺(三井寺)に拠点を移して、その後の山門派と寺門派の対立を生んだことにはあまり関係がないとも言う。円珍は延暦寺5世の座主となって、むしろ天台比叡の最もゆるぎない円密一体の頂点をきずいたのではないかと見ているのだ。
出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~
建久9年(1198)、栄西の『興禅護国論』と法然(1239夜)の『選択本願念仏集』が発表された。両著とも立宗を計ってのマニフェストである。
二度の入宋をはたした栄西は、臨済宗黄龍派の禅を会得して、帰国後はこれを九州で広めようと試み、先行していた大日能忍の達磨宗が弾圧されつつあるのを見て、禅による国づくり(興禅護国)に乗り出すことを決意する。安然の教判を参考にしながら禅の系譜を述べ、その理論化を試み、新たな禅宗の勅許を願った。そこには『日本仏法中興願文』にみられるような「日本仏法」という大きな視野が設定されていた。栄西の禅はソフィスティケートされてはいない。けっこう、ごつい。
一方、法然は浄土宗を専修念仏(称名念仏)によって立宗するべく、聖道門と浄土門の二門をもって諸宗を俯瞰し、阿弥陀仏の本願による他力信仰のすばらしさを説いた。それまでの「観仏」(観想念仏)から「念仏」(口称念仏)への転換は、すでに空也などにも芽生えていたし、そこには中国における慧遠(えおん)や善導の先行例もあったのだが、法然の場合は阿弥陀仏の名号を専らにしたことに独特の軋道転回があった。法然はまた、あまり論証はできていないようだが、みずからを菩提流支・曇鸞・道綽(どうしゃく)・善導・懐感・少康につらなる系譜の者と位置づけた。
法然の試みはすぐに理解されたわけではない。さっそく法相唯識の知識に長けた貞慶(解脱上人)が二宗の成立の条件が満足できるものかを検討し、栂尾高山寺の明恵(みょうえ)は『摧邪輪(さいじゃりん)』をもって、法然の立宗は「小宗」にもとづくものばかりが多く、「大宗」をめざすほどの論拠が提示されていないと批判した。批判は法然には届かなかった。すでに亡くなっていたからだ。

鎌倉新仏教の宗派一覧。
図:『詳説日本史』115頁より
ここに親鸞(397夜)が登場する。『摧邪輪』を読んだかどうかはわかっていないが、論争を引き受けたのではなく、おそらくは法然の『選択集』と明恵の論法の両方を吟味して『教行信証』を著した。「教・行・信・証・真仏土・化身土」の6巻からなる。
当時の法然の門下は安心(あんじん)派と起行派に分けられていた。その安心派にいたとおぼしい親鸞は、法然の専修念仏を「行」とみなし、『無量寿経』の阿弥陀仏の本願に説かれる「至心・信楽(しんぎょう)・欲生」の三心を「信」の中核においた。また、浄土に向かって往生する「往相」と、浄土からこの土に還って世の人に救いを与える「還相」を、相互に行ったり来たりする「回向」(えこう)の思想を構想した。
こうして浄土教に向かった日本仏教は、そう言っていいなら「菩提心」を問題の中心におきはじめたのである。他力のしくみに言及したのだ。親鸞は菩提心には「竪」(じゅ)と「横」(おう)があり、そこにそれぞれ「出」(しゅつ)と「超」とがくっつくと見て(そういう二つのスタイルがあると見て)、明恵の大乗聖道門の菩提心は「竪超」(じゅちょう)だが、阿弥陀仏の絶対他力を願う信心は「横超」(おうちょう)の菩提心だと切り返していった。
そうなるには、ただちに弥陀の浄土に生まれようと思うのではなくて、仮の浄土(化土=けど)にひとまず生まれていていいのだと、親鸞は考えた。これはかなり新しい環世界の提示だった(仏教では「器世間」という)。独特のソフィスティケートも動きはじめていた。

比叡山を下りた法然は、東山吉水(今の知恩院山内)に庵を結び浄土の教えを説いた。あらゆる身分の老若男女が法然のまわりを囲んで教えを聴いている。
図:法然上人行状絵図(四十八巻伝)巻第六

法然のもとに弟子入りした親鸞が厳しい聞法と研学の末、『選択本願念仏集』の写経を許される場面。

仏教の宇宙観。須弥山がそびえ立つ「有情世間」と呼ばれる人間界と、それを下から支える「器世間」(金輪・水輪・風輪)から成り立つ。
しばしばいわれるところでは、
栄西は密教や律を並修させるところが少なく、
法然は専修念仏の立場を徹底しているとされるが、
どうであろうか。——『日本仏教史』
いったい何が始まろうとしていたのか。鎌倉新仏教の動向を彩る創師たち、渡来の開山僧、同時代の傑僧たちを生年でみると、ざっと次のようになる。
覚鑁(1095)、大日能忍(不祥)、重源(1121)、法然(1133)、栄西(1141)、貞慶(1155)、俊荐(1166)、明恵(1173)、親鸞(1173)、道元(1200)、叡尊(1201)、円爾弁円(1202)、蘭渓道隆(1213)、忍性(1217)、円照(1221)、日蓮(1222)、無学祖元(1226)、南浦紹明(1235)、一遍(1239)、凝然(1240)、一山一寧(1247)、夢窓疎石(1275)、関山慧玄(1277)、虎関師錬(1278)、恵鎮(1281)、宗峰妙超(1282)‥‥。
生まれ年とその当人の主たる活動期はずれていることは少なくないけれど、この錚々たる顔ぶれを眺めていると、根来寺(ねごろじ)を開いた真言の覚鑁(かくばん)の改新活動へのとりくみがかなり早かったのと、13世紀半ば以降の蘭渓道隆・無学祖元・一山一寧(いっさんいちねい)の来日僧の役割、禅の日本化に踏み切った高峰顕日の重要性、ならびに応燈関(大応国師=南浦紹明、大燈国師=宗峰妙超、関山慧玄の3人)の果敢な禅林づくりが目立つ。
覚鑁から大燈まで、わずか200年。ものすごいムーブメントがおこったものだ。これらに挟まって法然、栄西、明恵、親鸞、道元、そして日蓮と、および真言律宗の叡尊と忍性(にんしょう)、時宗の一遍らが「攻め」に転じて動いたわけである。いずれも際立つ信仰と言動の持ち主で、前半は浄土系が、後半は禅宗の連続的起動がめざましい。
原勝郎はこれは日本の宗教改革だと捉え、親鸞をルターのプロテスタンティズムに比肩した。鈴木大拙(887夜)はそこに「日本的霊性が発揚された」とした。
<参考情報>
それがそのうち、ひょっとして法然こそが根底的な転換をはたしたのではないか、その日本仏教の転換についての決定的な、つまりは頑固一徹な確信が、鎌倉新仏教の各派各祖をゆさぶったのではないかと思うようになり、ちょっと坐りなおすことにした。それで、まずは『選択本願念仏集』を読み、ついでは法然のさまざまな言説や消息を収めた『和語燈録』を拾い読みし、また『法然上人行状絵図』などを見るようになって、そしてさらには中国の善導などの教説などを確認するようになって、だんだん法然を考えるようになったのでした。
ここでいささかふりかえってみると、原勝郎さんが1929年に『東西の宗教改革』を著して以来というもの、鎌倉新仏教とヨーロッパの宗教改革をくらべることがずっと流行していました。
その場合は、たいてい判で押したように親鸞とルターとが比較されていた。ぼくもてっきりそう思っていた。しかし法然を読み、親鸞を感じようとしていると、ルターに比較されるべきはかえって法然房源空のほうであって、親鸞に比較されるべきはむしろカルヴァンなのです。
が、意外なことに、そういう法然の革命性を本格的に語る思想者たちが少なかったのです。海外でも同様で、翻訳が多いのもやっぱり親鸞のほうで、法然はずっと忘れられてきた。あいかわらず鎌倉新仏教の議論では親鸞・道元・日蓮か、そうでなければ明恵や一遍に強い関心が向けられてきたのです。鎌倉新仏教に「日本的精霊」を発見した鈴木大拙(887夜)ですら、そういう見方をしていた。
出典:サブタイトル/法然 選択本願念仏集~松岡正剛の千夜千冊より転記~
大拙の見方は、それまでの日本人の宗教観がアニミスティックでシャーマニックな原始的習俗の延長にいたままだったのが、鎌倉期の文化高揚(武家の抬頭)のなかで外来仏教の刺激を強烈に受けることによって、日本人の中にひそんでいた霊性がめざめたという捉え方をした。この捉え方はのちの日本仏教史の解釈に影響力をもたらした。とくに浄土系と禅系の仏教者たちが個人の救済に向かって「超越性」や「超越者」という視野(大拙は「超個己性」と名付けた)を獲得したと捉えたことは、その後の鎌倉新仏教についての定説になった。
<参考情報>
■日本仏教における法然の立ち位置:驚くべき宗教的革命性
『観無量寿経』に、静まった心で「定善」と、乱れた心のままでつとめる「散善」とがあると説明しているのですが、法然が散善のほうに大きく注目したことが凄いところです。つまり乱心乱想の凡夫である自分にとって、散善の念仏こそが、いや、それだけが重要だったというのですから。
ここが法然の決定的な着目点です。
ここが法然の革命性です。
こういう見方はそれ以前の日本仏教にはありませんでした。
日本仏教は最初は氏族仏教として、次には鎮護国家のための護国仏教として確立します。これはいわば「律令のような仏教」です。
一方、平安初期の最澄や空海の仏教はニューシステムとしての仏教です。いわば「王法に対応する仏法」です。世界の複雑さを包含した独特の宗教的総合性をもっているという意味で、はなはだシステム的なのです。これはこれで緻密で圧倒的なものですが、そこにはしかし時代の要請もあった。
末法の時代下で
世は乱逆の時代となってきて、
王法にも仏法にも、むろん律令にも、
一挙に総合システムをかぶせるわけにはいかなくなってきて
仏教にて生まれたニューウェーブは
「選んだ仏教」あるいは「選ぶ仏教」
法然が「散善としての念仏」を選んだ
これは法然だけではなく、道元や日蓮も気がついたニューウェーブです。一人の座禅が、一人の題目が「選んだ仏教」になるということです。法然が「散善としての念仏」を選んだのは、こういう背景もあったわけでした。
聖道門から浄土門へ。観念から称念へ。観仏から念仏へ。
凡入報土の可能性、称名念仏(専修念仏)の可能性。絶対他力の可能性。阿弥陀一仏信仰の可能性。 女人往生の可能性。そして逆修(げきしゅ)の可能性。それらの開示。
選択(せんちゃく(浄土宗)・せんじゃく(浄土真宗))とはすなわちこれ取捨の義なり。
弥陀の本願は専ら罪人の為なれば、
罪人は罪人ながら名号を唱へて往生す。
これ本願の不思議なり。
いったい法然はなぜ専修念仏を選択できたのか。
そもそも念仏とは何かのか。
なぜ念仏のような易行が往生とつながるのか。
親鸞に先立って日本仏教を革新した法然の、
その革命性が奈辺にあるかということに、
今夜はしばらく酔っていたいと思う。
出典:サブタイトル/法然 選択本願念仏集~松岡正剛の千夜千冊より転記~
しかし、『日本的霊性』(岩波文庫)は昭和19年の刊行で、当時の日本人がに日中戦争や太平洋戦争に血道をあげて「日本精神」を謳歌しているのに対して警告を発する意図(そういうものが日本精神じゃないという意図)を含んでいて、必ずしも鎌倉新仏教の特色が明確に指摘されたというふうには読めない。ソフィスティケーションというわけでもない。どちらかというと、大拙好みの思想というべき「即非の論理」による新仏教説明になっている。これは親鸞の「造悪無礙」や道元(988夜)の「修証一如」にはあてはまりそうではあるものの、説明の全体がどこかパラドキシカルだった。
いずれにしても鎌倉新仏教はひとまとめには語れない。すこぶる複合的であり、かなり多様なのだ。とくに明恵、叡尊、忍性、日蓮、一遍、および応燈関らの禅僧たちをどう捉えるか、大拙や原勝郎の説明では把握できないものがあった。
<参考情報>
注)忍性律師(1271年~1303年):鎌倉時代の真言律宗の僧侶。貧民やハンセン病患者などの社会的弱者の救済に尽力した。
忍性は多くの病院や施設を建設した。特に有名なのは、奈良の般若寺近辺に設立した「北山十八間戸」。また、鎌倉の極楽寺にも病院を設け、病者の治療に努め、多くの人々の命を救った。
【忍性律師が信仰した観音信仰】
- 慈悲の象徴:観音菩薩は、慈悲の象徴として広く信仰されている。忍性律師もこの慈悲の精神を体現し、弱者救済に尽力した。
- 救済の菩薩:観音菩薩は、苦しんでいる人々を救うために現れるとされている。忍性律師はこの教えに基づき、社会的に疎外された人々への救済活動を行った。
- 観音信仰の実践:忍性律師は、観音菩薩の慈悲の心を実践するために、病者や貧者の施設や療養施設の設立など、多くの社会福祉活動を行った。
忍性律師の活動は、観音菩薩の教えを実践することで、多くの人々に希望と救いをもたらした。

極楽寺の山門 極楽寺の井戸(粥を施すために使用)桑ヶ谷療養所跡
注:桑ヶ谷療養所跡は大仏と長谷寺の間にひっそりと石碑が建立されていた(2024年6月26日訪問)
・それ以外の忍性律師の活動
⇒諸国に橋を架けること189か所、水田の開墾22か所、180町歩に及ぶ。
⇒道路の改修71か所、井戸の掘削33か所、浴室と療病所と乞食の収容所とを、おのおの5か所につくり、
⇒乞食する人たちのためには、布の衣三万五千着を与えた。
⇒鎌倉では、極楽寺門前から由比ヶ浜へ通ずる切り通しを開いた。
⇒これは、由比ヶ浜の波が荒く、それをよけることによって船の着くのを便利にするためで、
⇒幕府はその志に感じて、直接、間接にこれを助けたが、これは大変なことである。
⇒関西では、宇治橋の修築が、以前は叡尊律師(忍性の師)が手がけたものだとされていたが、
⇒後になると、忍性がつくったのであろうというような推定も、「洛陽名所集」の中で述べられている。
注)四天王寺の別当(べっとう):寺院の統括や監督を行う重要な地位。この役職は、寺の運営や管理を担当し、歴史的には多くの著名な僧侶がこの地位に就いていた。
例えば、鎌倉時代には忍性が別当として四天王寺に入寺し、社会福祉事業を推進した。また、弘安5年(1282年)には、天台座主の最源と園城寺長吏の隆弁が別当の地位を巡って争った際、叡尊(えいそん)が朝廷の要請を受けて別当に就任した。
四天王寺の別当は、単なる管理者ではなく、寺の精神的な指導者としての役割も果たしてきた。歴史を通じて、四天王寺の別当は寺院の発展と地域社会への貢献に大きな影響を与えてきた。
注)叡尊(えいそん):真言律宗の僧侶であり、忍性の師。叡尊は鎌倉時代中期に活躍し、戒律の復興や社会福祉活動に尽力した。叡尊は西大寺を拠点に活動し、貧民や病人の救済にも力を注いだ。
忍性は叡尊の教えを受け、同じく貧者や病人の救済に尽力した。彼らの活動は、当時の社会に大きな影響を与えた。
注)真言律宗の開祖:平安時代初期の弘法大師空海は真言宗の創始者であり、真言律宗の教義の基礎を築いた。しかし、真言律宗として形を整えたのは叡尊。叡尊は戒律の復興と社会福祉活動に力を入れ、真言律宗を復興した。
注)真言宗:創始者は弘法大師空海。
- 教義: 密教の教えを基にしており、特に即身成仏(生きたまま仏になること)を重視する。密教の儀式や真言(マントラ)を唱えることが特徴。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~③人道主義活動と社会奉仕の精神/行基大師・忍性律師が引き継ぐ~中村元著より転記&今日的な継承事例(無縁社会を有縁化する「人間菩薩」の思想と実践)~
日蓮の唱題は、専修念仏のように、さまざまな行の中から
選び取られたというのではなく、
真理そのものがそこに顕現しているのであって、
選び取るというような作業は不要であった。——『日蓮入門』
日蓮の活動は佐渡流罪を挟む「佐前・佐中・佐後」に分かれる。佐前は法華経の喧伝に邁進し、鎌倉にとどまって『立正安国論』をアピールした。途中に伊豆流罪があった。
佐中は律宗の忍性(にんしょう)の祈雨の祈祷を批判したのが引き金となって龍口(たつのくち)で危うく斬首されそうになったのを逃れたのも束の間、佐渡に流された。佐中はここからの時期で、「なぜ自分はこうも迫害を受けるのか」を省みて法華経を読み込み、実は迫害されるというそのことに自分が真の行者であることが示されているにちがいないと思いいたると、『開目抄』『観心本尊抄』を綴ってその確信の所以を説いた。
法華経は大きく前半部の「迹門(しゃくもん)」と後半部の「本門」に分かれている。迹門では三乗(声聞・縁覚・菩薩)それぞれの悟りは唯一の一乗に帰着するということを歴史上の釈尊が説いたと説明し、本門では歴史上の釈尊は実は方便であって、真実の釈尊は歴史を超えた永遠の存在のブッダであることを説くというふうに解釈されてきた(1300夜、千夜千冊エディション『仏教の源流』参照)。
<参考情報>
この構成が大きくは前半と後半に巧みに分かれるのである。前半の1~14品までを「迹門」(しゃくもん)、後半の15「従地湧出品」からを「本門」(ほんもん)というのだが、ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。図解をすると次のようになる。

法華経の構成
図で示してあるように、このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」だ。そのほかいろいろ複雑な“幅タグ”がついているけれど、いまはこれらの区分けは無視しておかれたい。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっているということだ。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。ブッダ存在学になる。
こうすることによって、前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは理念的永遠のブッダだというふうになった。そこがまことにうまくできている。これがもし詭弁的構成でないのなら、まさに超並列処理というものだ。
かくて西暦50年ころ、奇しくもキリスト教が確立していった時期にちょうどあたるのだけれど、今日の法華経構成でいう2「方便品」から9「授学無学人記品」までの3分の1くらいが書かれ、いったん流布していったのだ。
しかしこれだけでは、小乗から大乗への転換はまだまだうまくはたせない。折しも時代状況の変化やヒンドゥイズムとブッディズムの確執もあった。そのため西暦100年前後に、さらに10「法師品」から22「嘱累品」と「序品」が加わり(ここに15「従地湧出品』や16「如来寿量品」が入る)、最終的には150年前後あたりで23「薬王菩薩本事品」から28「普賢菩薩勧発品」が添加編集されて、ほぼ今日の構成にできあがった。途中さまざまな書き換えも着替えもあったろう。
ざっとはこういう多様な編集プロセスがあったのだが、これらのなかでの最も重要な転換は、なんといっても「菩薩行」としての大乗思想を提案することだった。これを法華教学では「一仏乗」の思想達成というのだが、ただしその達成がおこるには、思想だけを提案していてもダメなのだ。その担い手の仏法的な意味をあきらかにする必要がある。
こうしてここに登場したのが「地湧の菩薩」だったのである。総称して菩薩群、あるいは菩薩団。その一般化。
これよって声聞・縁覚の小乗的ブッディズム理解を「一仏乗」に向かって一挙に止揚することにした。大乗仏教以前と大乗仏教以降は、まさに菩薩行の関係的介在によってなんとかつながりそうになる。
しかしながら、それだけではまだ不具合もおこる。副作用がおこる。たとえば、なぜブッダが教えを説いたときからそのような菩薩たちは登場していないのか。なぜ声聞や縁覚は出遅れたのか(つまり自己発見プログラムの開発ばかりに向かったのか)。どうしたら自分の自覚と他者の救済を同時にできるのか。それらについての説明はできてない。なにより、このままでは経典中でのブッダの教えが小乗時代の説法と大乗時代の説法とで変節しているように見える。実際に変節しているのだとしても、その理由を説明できない。
では、どうするか。ここにおいて「ブッダの方便」という格別の編集術が披露されるのだ。あるいは「法華の七喩」(法華経には有名な7つの譬喩が用いられている)といわれる数々のメタファーが駆使されたのである。ここからが法華経編集独特のアブダクションになっていく。
空より花降り地は動き 仏の光は世を照らし
弥勒文殊は問ひ答へ 法華を説くとぞ予(かね)て知る
よく知られているように、法華経にはいろいろのレトリックがある。メタファーがある。それを総じて「方便」という。現在の日本人には方便は「嘘も方便」というようにあまりいい言葉と映っていないようだけれど、ぼくはそれを編集思想のたいへんよくできたラディカルきわまりない概念工事だと思っている。
方便のない思想なんてありえない。アナロジーのない編集はなく、メタファーのない表現はない。法華経は早くもそこを存分に活用した。なかでも方便活用の最大の編集思想の妙は、ブッダの歴史性と永遠性とをどのように関係づけて説明するかというところにあらわれた。
ブッダの教えが永遠なものだと伝えるために、人手をつかい時間を費やして法華経が書かれたのは当然である。しかし、その生身(なまみ)のブッダ自身には永遠性はない。ブッダは80歳で死んだのだ。だからこそ信徒もふえたのである。一方、壮年期にたどりついたブッダの悟りはまさしく成仏・成道であるのだから(これを疑ったら何も始まらない)、そこには「仏としての永遠」もあるはずである。
では、この、いささか接ぎ木のようになっている二つのことを、うまくつなげて説明するにはどうするか。そこで、ブッダが菩提樹のもとで成仏したというのは方便であって、ほんとうのことをいえばブッダはずっと昔の久遠のときに成仏していたのだというふうに、法華経は後半部に進むにしたがって説き方を変えるようにしたわけだ。
衆生(しゅじょう)を救済するために、私(=ブッダ)はいったん涅槃に入る姿を示すけれど、実は実態としての涅槃に入るのではありません。それが証拠に、この法華経をいま説いているリアルワールドの霊鷲山(りょうじゅせん)にあって(法華経の序品はこの霊鷲山でブッダが説法をしている場面に始まっている)、ほれ、ブッダはいまもなおこのように説教しつづけているのですよ、というふうにした。

霊鷲山上の法会
(「法華経曼荼羅」第一軸部分)
これは驚くべき解釈視点の転換だ。いわば“意図のカーソル”とでもいうものを大きく動かした。法華経はその文脈が進むにつれて、説得のコンテンツが相転移をおこすようになったのだ。それを法華経は、15「従地湧出品」に続く16「如来寿量品」のところで説明してみせるのである。しかも、その方便活用のメソドロジカルな下地は、2「方便品」や3「譬喩品」でちゃんと用意されていた。かくしてここに、「久遠仏」としてのブッダの存在学が確立していくことになる。
三身仏性 珠(たま)はあれど 生死(しょうじ)の塵にぞ汚れたる
六根清浄(ろっこんしょうじょう)得てのちぞ ほのかに光は照しける
いささか教学的な用語をつかうけれど、歴史上のブッダは生身(しょうじん)という。これに対して永遠のブッダは「法身」(ほっしん)である。しかし、ブッダは生存中に成仏・成道し、偉大な智慧を獲得した者でもあったのだから、その、至高の智慧となったブッダという覚醒の内容は生身でも法身でもない。これを「報身」という。
他方、生身でなくなったブッダとは何者か。たしかに死んで涅槃に入ったようだった。けれどもそれはまた、たんなる死ではないはずだ。悟ったまま涅槃に入ったからである。そこで、そのブッダを「応身」というふうにする。
そうすると、ブッダは法身・報身・応身の三身にわたって過去・現在・未来をまたぐ時空を変化していたということになり、そのように変化するためには、もともとそのような変化を見せる永遠性がすでにどこかで準備されていたということになる。そう、法華経は編集的相転移を進めていったのだ。それで、どうなったのか。久遠仏としてのブッダという、フィクショナルではあるけれど、しかしとんでもないアクチュアリティをともなって巨変しつづけるブッダ像がつくられた。
もっとも、こんなアクロバティックな説明はすぐには納得できないだろうとも予想された。実際にも、この説明を聞いていた者たちはなんとなく疑問をもった。いや、法華経のテキストはそういうふうに、法華経を読む者たちが疑問をもつ場面があるだろうことも先取りをする。
想定される疑問は、こうだ。釈尊が菩提樹のもとで悟りを開いてから教えを広めて、そこから数えて40年程度にしかならないのに、どうして久遠の昔から教えを説けるということになるのでしょうか。
そこで当のブッダがいよいよその意味を証していくというのが、法華経の後段になったわけである。「従地湧出品(じゅう・じゆしゅつほん)」とそれに続く「如来寿量品」は、そのブッダ存在学の核心部にあてられる。かくて法華経はみごとに前半部と後半部を並列処理できるように構成されて、いよいよ大乗仏典の「万善同帰教」として君臨することになったのである。
法華経八巻は一部なり 拡げて見ればあな尊(とうと) 文字ごとに
序品第一より 受学無学(じゅがくむがく)作礼而去(さらいにこ)読む人聴く人皆(みな)仏(ほとけ)
法華経は28品で構成されている。品は「ほん」と読む。ただし28品であることにはそれほどの意味がない。あれこれ書き換えや着替えをして入念に仕上げてみたらこうなったというものだ。
ぼくはこの絶妙を知ったときには、心底、感嘆した。キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと、どうにも釈然としないところがのこるのだが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それをはるかに勝るものがある。なにより、語り手のブッダが聞き手の菩薩たちにこのことを自身で説いているというドラマトゥルギーとしての根性がいい。
いったい誰がこういう文巻テキスト編集作業ができたのか。もはやその当初の着手者の名はのこらないけれど、おそらくは当初の文巻というものが下敷きになって、そこに多くの“加上”と“充填”が加わっていったにちがいない。
仏は霊山浄土にて 浄土も変へず身も変へず
始めも遠く終はりなし されども皆これ法華なり
こうして、菩薩行の本来とブッダの永遠の性格を説明する後半は「本門」に集中させることができ、それにあたって使われる方便は前半部の「迹門」でも存分にアイドリングしておけるようになったわけである。
その前半のアイドリングを示す恰好なところはいくつもあるのだが、そのひとつ、ふたつを示しておきたい。
4「信解品」に、仏弟子たちが“あること”を告白している注目すべき一節がある。仏弟子たちが、私たちは世尊が説いた教理をすべて「空・無相・無願」というふうにあらわしてきたが、私たちは耄碌したのかもしれない。そう言っている一節だ。

四人の仏弟子がブッダを前に懺悔し、礼拝する図
(「法華経曼荼羅」第四軸 信解品)
この仏弟子たちというのは小乗の教徒たちである。「空・無相・無願」というのは、悟りにいたる三つの門のことを、すなわち「三解脱門」をさす。三つの門はのちに寺院の「三門」(山門)に擬せられたものでもあるが、無限定・無形相・無作為にいたることをいう。ところが、これを小乗教徒たちがどうやら虚無的に理解したらしい。だから耄碌したのかもしれないなどと自分たちのことをニヒルに語った(法華経の編者がわざとそう語らせた)。“あること”の告白とはこのことだ。
そこでブッダは有名な「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもって、窮子たる小乗的ニヒリズムの徒たちの迷妄を解き、大乗の可能性をひらく。この一節は、そのような小乗から大乗へのメタファーによる転換を示している。
つまり法華経の編者たちは、ブッダの教えが声聞・縁覚にとどまる小乗教徒(部派仏教徒)によって曲解されていることをもって、これを新たな展開の契機にもっていきたかったのである。ただしその説明はすこぶるメタフォリカルだった。そのことが4「信解品」の書きっぷりに浸み出したのだ。

屋敷で働く窮子(貧しい子)に、長者が全財産を贈与するという喩話
またたとえば、2「方便品」には、舎利弗が3回にわたってブッダに説法を願う場面がある。それに応じてブッダは説法を始めようとするのだが(三止三請)、そのときちょっと意外な場面になっていく。5000人の出家者・在家者がその場から一斉に立ち去ってしまったのだ。これから始まる法華経的説法を聞こうとしない。いったい「5000人の退席」(五千起去)とは何なのか。最高のブッダにおいて、どうしてそんなことがおこるのか。
大乗仏教の真髄に向かえそうもない連中の、その増上慢をあらかじめ戒めたというのがフツーの解釈だ。しかしもう少し深読みすると、法華経を侮ってはいけない、わかったつもりで聞くのなら、文脈から去りなさい。編者たちはそう言っておきたかったのだ。それにしてもわざわざ5000人もの退席を見せておくというのは、なんとも大胆な演出だった。

真理は語ることができないとして
説法を拒否したブッダ
法華経にはこういうふうに、「引き算」から入る文脈が少なくない。そのうえで「足し算」をする。引けばどうなるかというと、アタマの中に空席ができる。そこへ新たなイメージの束を入れるのだ。そういうことを随所で巧みにやっている。イメージの束だから、ついついメタフォリカルになるけれども、それを怠らない。これは法華経に一貫した際立つ特徴なのである。
それゆえ、ここは肝腎なところになるのだが、完成した法華経を読みこんでみると、方便や比喩はたんなるレトリックではなかったことがしだいにわかってくる。方便やレトリックによって聞き手に空席や空隙をつくり、そこに新しい文脈の余地を立ち上げること、それこそが法華経にひそむ根底の“方法の思想”だとも言えたのである。
だからこそ法華経は前半部でこそ声聞や縁覚の「二乗作仏」(にじょうさぶつ)を説くのだが、後半部では「久遠実成」(くおんじつじょう)を説いて、これをメビウスの輪のごとくに統合してみせられたのだ。
法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。そのきっかけが、これまで述べてきた大勢の「地湧の菩薩」たちの出現だった。
つまりこの「一品二半」の蝶番には、前半の「二乗作仏」の説明を後半の「菩薩行」の勧めに切り替えるデバイスがひそんでいたわけである。そのため、ここで自力と他力が重なっていく。現実的な迹仏(しゃくぶつ)と理想的な本仏(ほんぶつ)が重なっていく。その重なりをおこす蝶番が、ここに姿をあらわすわけなのである。地涌の菩薩はそのためのバウンダリー・コンディション(境界条件)だったのだ。
この蝶番の機能のことを法華経学では「開近顕遠」(かいこんけんのん)、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)、「開権顕実」(かいこんけんじつ)などという。近くを開いて遠きを顕わし、形になった迹仏から見えない本仏を見通し、方便とおぼしい例の教えから真実の教えを導く、ということだ。
ともかくもこのように、法華経はなんとも用意周到に編集構成されていた経典だったのである。やっぱりハイパーテキストだったのだ。なぜそうなったかといえば、理由は明白だ。そもそも大乗仏教のムーブメントは西暦前後に萌芽したものだけれど、法華経はまさにそのムーブメントの渦中においてそのコンストラクションを編集的に体現したからだった。
それをあらためて思想的に一言でいえば、次のようになろう。ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と
我が身ひとつは界(さか)ひつつ 十方界には形(かたち)分け
衆生(しゅじょう)あまねく導きて 浄光国には帰りたし
ふりかえってみると、そもそもブッダはバラモンの哲学や修行の批判から出発した。宇宙の最上原理であるブラフマン(梵)と内在原理であるアートマン(我)への帰入を解いたバラモンから、自身のありのままをもって世界を見ることによって離脱することを考えた。道は険しかったけれど、ブッダはついに覚悟してバラモン社会から離れていった。
覚悟したブッダが気がついたことは、世界を「一切皆苦」とみなすことだった。それによって、人間が覚醒に向かってめざすべきものは「諸行無常」の実感であって、「諸法無我」の確認であり、そのうえでの「涅槃寂静」という境地になることだろうと予想した。
これはむろんたやすいことではない。ブッダはみごとに悟りをひらいたけれど、その精神と方法がそのまま継承できるとはかぎらない。継承者がいなくて縮退することは少なくない。そういう宗教なんて歴史上にはゴマンとあった。そこで、ブッダが説いた方法をもっと深く検討し、どのように継承すればいいかということが議論され、そうとうに深く研究されてきた。その方法が「縁起」によって相互の現象を関係させつつも、それらを次々に空じていくという「空」の方法だったのである。
「空」や「縁起」がどういう意味をもっているかは、ここに話しだすとさすがにキリがないので、846夜にとりあげた立川武蔵『空の思想史』などを見てもらうこととして、しかし、ここでブッダ継承者たちのあいだで予想外の難問が生じてしまった。「空」と「縁起」を感じるにあたって、当時の多くの信仰者たちは自分の覚醒ばかりにそれをあてはめていったのだ。
それはあとからみれば、それこそが声聞・縁覚の二乗の限界だった。しかしこれを切り捨てることなく、二乗作仏の試みをして、さらに菩薩行をもってその流れに投じさせるには、ひとまずは声聞・縁覚に菩薩を加えた三乗のスキームによって、これを大乗に乗せていかなくてはならない。当初の大乗ムーブメントは、その難関にさしかかったのである。その「2+1」を進めるには、どうすればいいのか。三乗を方便としつつ、これを一乗化していく文脈こそが必要とされたのだ。
これを法華教学では「三乗方便・一乗真実」の教判という。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗もろとも、一仏乗にしていこうというスキームだ。「2+1=10」という方法だ。
さてさて、ところで、こういう言い方をするのは、なんとなく気がついただろうけれど、インド的な見方というより、実は中国仏教が得意とするハイパーロジカルな表現力なのである。実はこれまで述べてきた迹門と本門という分け方も、中国法華学によっている。天台智顗の命名だった。中国仏教はこういう議論が大好きなだったのである。ついでにその話をしておきたい。
古童子(いにしえどうじ)の戯れに 砂(いさご)を塔となしけるも
仏と成ると説く経を 皆人(みなひと) 持(たも)ちて縁結べ
法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本ののち、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に届いた。ここで法華経が漢訳されると、これには中国的解釈が徹底して加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していった。

宋版『妙法蓮華経』
さて、この鳩摩羅什の法華経が一挙に広まると、その弟子の道生(どうしょう)はさっそく注釈書をあらわし、それを法雲がうけつぎ、さらに随の天台智顗が徹底的に分析を始めた。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』などが著述され(これを天台三大部という)、漢訳法華経にひそむ迹門・本門の構造がこのとき発見されたのだ。智顗はそのうえ、かなりハイパーロジカルな思索をもって、法華経こそが大乗仏教最高の経典であるとのお墨付きをつけた。
こうして中国法華経学が起爆した。ちなみにぼくは工作舎で「遊」を編集しているあいだじゅうずっと、親しいスタッフには『摩訶止観』を読むように勧めつづけたものだった。
仏に華香奉り 堂塔建つるも尊しや
これに優れてめでたきは 法華経もてる人ぞかし
こうした中国仏教における法華経解釈には、当然ながらいつくかの大きな特色がある。そもそも鳩摩羅什の長安における漢訳が国家的文化事業であったことにあらわれているように、中国においては仏法は王法に匹敵できたのである。ただし、そこには儒教やタオイズムとの優勝劣敗が必ずともなった。
また、中国では最初から大乗仏教が優先された。インド仏教のような部派仏教との争いがない。そのためかえって、大乗仏教のなかの何が最も優秀なのかという議論が途絶えなかった。華厳経・法華経・維摩経・涅槃経はつねに判定をうけつづけたのだ。それを「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)というのだが、たとえばさきほど述べた「三乗方便・一乗真実」という見方は、たちまち「三乗真実・一乗方便」というふうに逆転もされたのである。
こういう面倒な議論は朝鮮半島にも日本にもその傾向は流れこんできた。たとえば鑑真が来朝するにあたっては、天台三大部をこそもちこんだのだ。
一方、知られるように、日本の法華経信仰はまず聖徳太子に始まっている。その『法華義疎』は法雲の注釈からの引用が多い。ついで最澄による『法華秀句』が出て、さかんに法華八講や法華十講がおこなわれるようになると、ここに日本独特の法華美学のようなものが立ちあらわれてきた。
法華経を紺紙に金泥で写す装飾経、法華経の一文字ずつを蓮弁に書く蓮台経、扇面に法華経を綴る扇面法華経、清盛が厳島神社に奉納した平家納経、道長の大和金峰山でのものが有名な埋経など、まさに法華経はまたたくまに人心と官能をとらえていった。
そこに、法華経を歌謡に転じる釈教歌(しゃっきょうか)や、今夜は見出しにおいてみた『梁塵秘抄』の法文歌(ほうもんか)や、法華二十八品歌なども加わって、公家も女房も武門さえ、ひとしく法華経賛歌に酔ったのだ。日本の法華経はずいぶん官能的であり、また美の対象とされたのだ。

扇面法華経
このことについては、近世の狩野派や等伯や光悦や宗達らのトップアーティストの多くが法華衆であったことなどともに、いずれ論じたい。
しかし、こうした和風の法華経感覚ともいうべきに、突如として雷鳴のような一閃を食らわし、独自の法華経思想を旋風のごとく確立していった法華経行者があらわれた。藤末鎌初に登場してきた日蓮である。日蓮についてはいつか『開目抄』か『立正安国論』かをとりあげて千夜千冊したいけれど、ここではとりあえず一言だけふれておく。
ともかく凄い。その不惜身命(ふしゃくしんみょう)の行動をいっさい除いても、こんな法華経の見方をした者はインドはむろん、中国仏教者にもいなかった。そもそも「南無妙法蓮華経」という題目を設定したことが、インドにも中国にもない。
また法華経そのものとその菩薩行において仏法を統一するという構想に徹したのみならず、日本という国家を法華経によって安国できると見たのも、凄かった。とくに10「法師品」から22「嘱累品」あたりをつぶさに検証して、そこに殉教・殉難の精神の系譜を見いだしたことは、すこぶる独創的だった。

日蓮聖人による大曼荼羅本尊
中央の文字は、法華経宇宙を象徴する「南無妙法蓮華経」という題目
日蓮の孫弟子の日像、舌を切られ灼熱の鍋をかぶらされた日親、不受不施派に徹して対馬に流された日奥、さらには明治近代の田中智学や内村鑑三(250夜)北一輝や石原莞爾におよぶ流れにも、日蓮の法華経世界観の投影を議論すべきであるけれど、今夜はそこまで足をのばさないことにする。
達多五逆の悪人と 名には負へども実(まこと)には
釈迦の法華経習ひける 阿私仙人 これぞかし
では、こんなところで、今夜の法華経談義を仕舞いたい。なんだか何も説明できなかったように思うけれど、まあ、しかたない。キリなく書きたいことばかりが押し寄せて、これでも書き換えたり、削除したりするのが精一杯だったのだ。
出典:サブタイトル/梵漢和対照・現代語訳 法華経 [訳]植木雅俊~松岡正剛の千夜千冊より転記~
日蓮は本門のほうを圧倒的に重視して、かつ永遠の釈尊の功徳は「妙法蓮華経」という経題(題目)に集約されているとみなした。経題を受持すれば絶対の世界が体得されるはずだという方針をもったのだ。とくに本門で法華経を受持する菩薩がさまざまな苦難をこえて経典の功徳を広めていくことには、信仰者にかぶさってくる苦難をのりこえる覚悟を迫るものがあると確信した。
佐後は鎌倉に戻って身延に籠もる晩年である。それまでの活動からするとやや消極的な日々であるように感じるが、弟子たちに宛てた膨大な消息を綴っている。その中身は決して消極的ではなかった。
ちなみに、よく知られているように、日蓮には、しばしば「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」(四箇格言)と言い放つような、他宗(念仏宗・禅宗・真言宗・律宗)を痛烈に非難する傾向がある。そのため日蓮の排他性が強調されることが少なくなかったのだが、末木さんはかならずしもそう見ない。『日本仏教史』や本書や『日蓮入門』(ちくま学芸文庫)でそうした見方をほぐし、変更を加え、むしろ天台が重視した「一念三千」による一貫した仏教的実践思想が漲っていたことを解いた。
中国天台宗の基本テキストは、南北朝期に智顗(ちぎ)が著述した『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』という天台三大部である。なかでも『摩訶止観』は天台止観を示したものとして慄然とした威容を誇っている。「一念三千」もそこで展容される。一念はわれわれ一人ひとりの思考のはたらきのことをいう。三千はそのはたらきが、十界・十如是・三世間におよぶことをいう。百界×十如是×三世間」で三千。日蓮はこの「一念が三千に貫かれていく」という気概をもっていた。
こうした日蓮にくらべると、一遍の活動は踊り念仏と賦算に徹していてわかりやすいもののように見える。これこそソフィスティケートされたものを感じるかもしれないが、いやいや、実は決して軟らかくはない。そこには熊野信仰と深く結びついた死生観が貫かれていた。
入宋した俊荐(しゅんじょう)の影響をうけて戒律の復興をめざした叡尊とその弟子の忍性の活動は、どうか。ソーシャル・ケア化した。しだいに難病・貧困に喘ぐ民衆を救済することに向かっていった。そのため鎌倉に極楽寺を開いて大規模な救済活動を展開した忍性のように、日蓮と正面から衝突することもおこすのだが、そのゆるぎない実践性は世俗社会に訴えて、新たな中世文化を切り開くものを秘めていた。
<参考情報>
注)忍性律師(1271年~1303年):鎌倉時代の真言律宗の僧侶。貧民やハンセン病患者などの社会的弱者の救済に尽力した。
忍性は多くの病院や施設を建設した。特に有名なのは、奈良の般若寺近辺に設立した「北山十八間戸」。また、鎌倉の極楽寺にも病院を設け、病者の治療に努め、多くの人々の命を救った。
【忍性律師が信仰した観音信仰】
- 慈悲の象徴:観音菩薩は、慈悲の象徴として広く信仰されている。忍性律師もこの慈悲の精神を体現し、弱者救済に尽力した。
- 救済の菩薩:観音菩薩は、苦しんでいる人々を救うために現れるとされている。忍性律師はこの教えに基づき、社会的に疎外された人々への救済活動を行った。
- 観音信仰の実践:忍性律師は、観音菩薩の慈悲の心を実践するために、病者や貧者の施設や療養施設の設立など、多くの社会福祉活動を行った。
忍性律師の活動は、観音菩薩の教えを実践することで、多くの人々に希望と救いをもたらした。

極楽寺の山門 極楽寺の井戸(粥を施すために使用)桑ヶ谷療養所跡
注:桑ヶ谷療養所跡は大仏と長谷寺の間にひっそりと石碑が建立されていた(2024年6月26日訪問)
・それ以外の忍性律師の活動
⇒諸国に橋を架けること189か所、水田の開墾22か所、180町歩に及ぶ。
⇒道路の改修71か所、井戸の掘削33か所、浴室と療病所と乞食の収容所とを、おのおの5か所につくり、
⇒乞食する人たちのためには、布の衣三万五千着を与えた。
⇒鎌倉では、極楽寺門前から由比ヶ浜へ通ずる切り通しを開いた。
⇒これは、由比ヶ浜の波が荒く、それをよけることによって船の着くのを便利にするためで、
⇒幕府はその志に感じて、直接、間接にこれを助けたが、これは大変なことである。
⇒関西では、宇治橋の修築が、以前は叡尊律師(忍性の師)が手がけたものだとされていたが、
⇒後になると、忍性がつくったのであろうというような推定も、「洛陽名所集」の中で述べられている。
注)四天王寺の別当(べっとう):寺院の統括や監督を行う重要な地位。この役職は、寺の運営や管理を担当し、歴史的には多くの著名な僧侶がこの地位に就いていた。
例えば、鎌倉時代には忍性が別当として四天王寺に入寺し、社会福祉事業を推進した。また、弘安5年(1282年)には、天台座主の最源と園城寺長吏の隆弁が別当の地位を巡って争った際、叡尊(えいそん)が朝廷の要請を受けて別当に就任した。
四天王寺の別当は、単なる管理者ではなく、寺の精神的な指導者としての役割も果たしてきた。歴史を通じて、四天王寺の別当は寺院の発展と地域社会への貢献に大きな影響を与えてきた。
注)叡尊(えいそん):真言律宗の僧侶であり、忍性の師。叡尊は鎌倉時代中期に活躍し、戒律の復興や社会福祉活動に尽力した。叡尊は西大寺を拠点に活動し、貧民や病人の救済にも力を注いだ。
忍性は叡尊の教えを受け、同じく貧者や病人の救済に尽力した。彼らの活動は、当時の社会に大きな影響を与えた。
注)真言律宗の開祖:平安時代初期の弘法大師空海は真言宗の創始者であり、真言律宗の教義の基礎を築いた。しかし、真言律宗として形を整えたのは叡尊。叡尊は戒律の復興と社会福祉活動に力を入れ、真言律宗を復興した。
注)真言宗:創始者は弘法大師空海。
- 教義: 密教の教えを基にしており、特に即身成仏(生きたまま仏になること)を重視する。密教の儀式や真言(マントラ)を唱えることが特徴。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~③人道主義活動と社会奉仕の精神/行基大師・忍性律師が引き継ぐ~中村元著より転記&今日的な継承事例(無縁社会を有縁化する「人間菩薩」の思想と実践)~
これらの事情を左見右見、掘り起こしながら鑑みていくと、鎌倉新仏教が宗教革命や霊性革命だったとは括れない。ソフトな「トーン」でも括れない。むしろ多様な「抜き型」が地と図をもって複雑に絡み合ったのである。なぜ、そこまでできたのか。図はさきほど列挙した覚鑁から宗峰妙超におよぶ祖師たちが描いたとして、そこにどんな地がつかわれたのか。
大きな「抜き型」があったはずだった。天台本覚が地になっていたのである。

日蓮の「立正安国論」。天変地変飢餓疫病の原因は、国をあげて禅・念仏等の邪教に帰依しているからだとして、救いの道は法華経を信奉する以外にはないと断じ、執権・北条時頼に呈上した。

地蔵堂で踊り念仏をする一遍上人。法衣の僧侶や時衆たちが狭い舞台で口々に念仏をとなえ、鐘をならしながらトランス状態になっている。
日本天台における本覚思想の発展は、
それ自体思想的に甚だ特異で注目されると共に、
鎌倉仏教との関係、中世文化の諸領域への影響など、
その重要性が知られている。——『日本仏教思想史論考』
これでだいたいの準備ができた。末木さんは、鎌倉新仏教の多様性は天台本覚思想との「抜き合わせ」から出てきたという見方をとったのだ。ぼくはそこに惹かれてきた。ただし、その見方はかなり強靭な研究と洞察にもとづいているので、容易には説明しにくい。そもそも天台本覚とは何なのか。
少しわかりやすそうな順を追って言うと、本覚思想とは、かんたんにいえばこの世の現象界をそのまま悟りの下敷きとして肯定していこうという見方のことをさす。悟りが現象界に散らばっているというのだから、はなはだ現実肯定的な見方だ。生きとし生けるものに仏性(ぶっしょう)があり、草木虫魚とともに悟りを実感できる可能性があるというのだから、はなはだ楽観的でもある。誰もが使いやすい日本流の仏教OSめいてもいる。
仏性とは「成仏する可能性」のことをいう。『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)と説明されている。一切の衆生に仏性が芽生えて、みんな成仏できるというのは、このままそこだけを採ると「成仏の平等主義」のようにも見えるし、もっとありていにいえばずいぶんラクチンな見方だというふうにもなる。
仏教の世界観では衆生は六道をさまよっている。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天が六道で、衆生はこれらをぐるぐると変転しつづけている(六道輪廻)。衆生は誰のことかというと、われわれのことだ。サットヴァというサンスクリット語を鳩摩羅什(1429夜)が「衆生」と訳した。玄奘は「有情」と訳した。
<参考情報>








出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
<参考情報>
■原始仏教経典一般ならび小乗の十二因縁の説
⇒『中論』においては二種の縁起説が説明されている。
⇒すなわち第一章から第二五章までに出てくる縁起は
⇒全く論理的な「相依性のみの意味なる縁起」であり、
⇒第二六章において初めて小乗のいわゆる「十二因縁」を説明している。
・この第二六章の説明は全く十二支を
⇒時間的生起の前後関係を示すものとみなしている。
⇒今その時間的生起関係を示す語に傍点を附してみる。
1)無明(むみょう / avidya) – 無知(真理に対する無理解)
⇒「無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)をみずから為し、その業によって迷いの領域(趣)に行く」
2) 行(ぎょう / samskara) -潜在的形成力( 意志、行動の形成力)
⇒「潜在的形成力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る。そうして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する(第二詩)。
3) 識(しき / vijnana) – 識別作用(意識)
4)名色(みょうしき / namarupa) – 身心(心と物質:精神と肉体)
5)六処(ろくしょ / ṣaḍāyatana) – 心作用の成立する六つの場(六つの感覚機能:眼、耳、鼻、舌、身、意)
⇒名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。
6) 触(そく / sparśa) – 感覚器官と対象との接触
⇒六入が生じてのち、感官と対象との接触(触)が生ずる」(第三詩)。
「眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意:さい)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる」(第四詩)
7) 受(じゅ / vedana) – 感受作用(感覚)
⇒「色と識と眼との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生ずる」(第五詩)
8)愛(あい / tṛṣṇā) – 盲目的衝動(渇愛、欲望)
⇒「受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するとき四種の執着(取)を取る」(第六詩)
9)取(しゅ / upādāna) – 執着(取り込む)
⇒「取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである」(第七詩)
10)有(う / bhava) -生存( 存在、存在状態)
⇒その生存はすなわち五つの構成要素(五陰:ごおん)である。生存から<生>が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望ーこれらは<生>から生ずる。このようにして、このたん〔に妄想のみ〕なる苦しみのあつまり〔苦陰:くおん〕が生ずるのである」(第八詩・第九詩)
11)生(しょう / jāti) – 生まれること
12)老死(ろうし / jāramaraaṇa) – 無常なすがた(老化と死)
・このように全く時間的生起の関係に解釈され、
⇒チャンドラキールティの註釈においては一つの項から次の項が生ずることを説明するために、
⇒いつも「それよりも後に」という説明が付加されている。
⇒またナーガールジュナは他の書おいて十二因縁を三世両重の因果によって説明しているし、
⇒中観派は極めて後世に至るまで三世両重の因果による説明に言及している。
・しかしながらナーガールジュナが真に主張しようとした(第二五章まで)縁起が
⇒十二有支(うし)でないことは明らかである。第三章八詩に、
⇒「<見られるもの>と<見るはたらき>とが存在しないから、識(3:識別作用)などの四つは存在しない。
⇒故に収(9:執着)などは一体どうして存在するのであろうか」というが、
⇒各註釈についてみると「識などの四つ」とは識と触と受と愛とを指し、
⇒さらにピンガラの註釈には「見と可見との法が無き故に、
⇒識と触と受と愛という四法は皆な無し。愛等が無きを以ての故に、四取等の十二縁分もまた無し」
⇒と説明しているから、『中論』の主張する縁起が十二有支の意味ではなくて、相依性の意味であることは疑いない。
⇒さらに注目すべきことには『無畏論』においては第二六章は十二有支を観ずるの章とあり、またチャンドラキールティの註釈においては第二六章のなかに、「縁起」(またはそれに相当する語、例えば衆因縁生法)という語が一度も使用されていない。
⇒故に最も古いこの二つの註釈においては、ただ縁起とのみいう場合には常に相依性を意味していて、十二有支の意味を含んでいなかったといいうる。
出典:サブタイトル/NN1-3.『中道』と『縁起』(Ⅱ)~『中論』は諸行無常を『縁起』によって基礎づけている~(龍樹:中村元著より転記)
玄奘は「心のはたらき」をもつものを有情と捉えて、岩石や草木の非情と区別した。ところが日本では、このあと説明するけれど、草木のような非情にもそれぞれ発心や成仏の可能性があるとみなすようになった。これを「非情成仏」の問題という。
そのためこの見方からは「草木国土悉皆成仏」という言葉が使われるようになり、さらにそれが変化して昭和平成の世では「山川草木悉皆成仏」という新たな言い方が罷り通ったものだった。梅原猛(1418夜)が言い出し、中曽根康弘が拡声したのではないかとおぼしい。
しかし、話はラクチンなままであるわけではなかった。そんなはずもない。現象界と悟りがつながると感じられるには、本覚が動かなければならない。本覚という言葉は『金剛三昧経』や『仁王般若経』に初出が見えるもので、その後の『大乗起信論』において「始覚」(しがく)と「本覚」(ほんがく)が対応してから、さまざまな議論がされるようになった。
始覚は初めて悟ることをいうのだが、悟りを体験したというのは、もともとその身に悟りの芽のようなものが備わっているからだろうから、その備わっているものを本覚と名付けた。「本来の覚性」が本覚なのである。そういう本覚に気づかないままになるのは「不覚」だった。
このように人間に本来の覚性(かくしょう)があると見るのは、とどのつまりは衆生(われわれ)にはもともと仏性が備わっているということでもあろう。そこで唯識思想などでは本覚は「本有」(ほんぬ)とか「始有」とも呼ばれた。これはまた衆生にはいわば如来が胎蔵されているとも解釈できるので、「如来蔵」(にょらいぞう)とも言われた。
如来蔵はサンスクリット語のタターガタ・ガルバの漢訳である。タターガタは如来を、ガルバは母胎あるいは母胎の中の胎児を原義とする。ということで、仏性や如来蔵は、われわれは「如来を母胎にもっている」、あるいはわれわれには「如来となるべき胎児がいる」ということを提示した概念となった。
それでここからが日本の話になるのだが、このような本覚思想が比叡山の延暦寺や園城寺で育くまれていったのである。
なぜ比叡山に本覚思想が育まれたかとみなされたかというと、最澄が入唐したとき、道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)の二師から天台法門を学び、道邃からは本覚門を、行満からは始覚門を得たと伝えらたと口伝があったからだ。本覚門はその後、恵心院源信が、始覚門は檀那院覚運が継承したので、天台には恵心院流と檀那流という恵檀二流が口伝されてきたともみなされた。口伝だから文書にのこっているわけではない。
けれども末木さんはこれは後代の捏造にすぎず、実際には天台本覚は法華経の本門思想に注目していくことからしだいに深まっていったもので、それが眼前の現象世界のすべての事実性の重視につながり、本門が「事常住・事実相」をあらわす永遠の真理を説いているというふうに解義されるにつれて、そこに天台独自の教判(教相判釈)が加わって天台本覚がかたちをあらわしてきたというふうにみなした。

六道絵の内、「地獄道」を描いたもの。飲酒に絡む罪を犯したものが落ちる叫喚地獄で、炎を纏う隕石が降り注ぎ、溶けた銅と動物の血が混ざった川が流れており、全身から炎を発する巨人が罪人たちを監視している。
安然はあくまでも非情である草木が
それ独自で発心・修行する草木自成成仏説を主張する。
どうしてそのような主張がなされ、
その主張にどのような意味があるのか、
その探求が本書の課題である。——『草木成仏の思想』
日本仏教の議論のなかで天台本覚思想という括りは古くから控えていたわけではない。明治大正期に島地大等や村上専精が話題にしたことはあったけれど、1973年に岩波の「日本思想大系」が第9巻に「天台本覚論」をまとめ、田村芳朗がその解説に当たってから活発に議論されるようになった。
田村は、天台本覚には「生死即涅槃、煩悩即菩提、凡聖不二、生仏一如」などの見方を徹底させるところがあって、その特色はいちじるしく相即不二的で、かつ絶対的一元的だというふうに解説した。そして「本覚が現実界の内在原理とされている」とみなした。現実界の内在原理とは難しい言い方だが、わかりやすくいえば本覚の土台を「ありのまま」に措いたということだ。
「ありのまま」などというとなんとも芸がないようだが、それだけならたしかに芸がない。しかし天台思想が真如は「ありのまま」にあると考え、仏性は現実界に遍在していると考えているのだとすると、まさに天台本覚は本気で「ありのまま主義」を標榜したのである。それが鎌倉新仏教でOSのように使われたのだ。
田村の解説を受けて、多くの議論と研究が広まっていった。そこには「ありのまま主義」など仏教ではない、これでは修行など不用になるではないかとする袴谷憲昭の天台本覚思想批判から、もし天台本覚が如来蔵思想を一歩も出ていないのならそこには天台の深まりがないのではないかという松本史朗の見方まで、それなりに憤然とした議論が噴出した。
これらに対して、天台本覚の是非を問うにはこれまで研究されていなかった安然の思想をもっと検討しないかぎりは見えないものがあるとしたのが、末木文美士だった。
すでに紹介してきたように、末木さんの仕事は天台僧・安然の研究から始まっている。安然(841〜915?)の生涯は審らかにならないところも多いのだが、最澄・円仁・円珍を承けて台密(天台密教)を完成させるにあたって、山科の元慶寺の遍昭に学んだ。百人一首「天つ風雲の通い路ふきとじよ乙女のすがたしばしとどめん」の、あの僧正遍昭だ。密教僧であった。
その後の安然は入唐するべく太宰府に向かったという記事が「三代実録」の記述にあるので、彼の地で学びたかったらしいのだが、実行はしなかったようだ。中止ないしは断念の理由はわからないが、末木さんは「唐なにものなるぞ」という気負いがあったのではないかと推理している。
やかて安然は『斟定(しんじょう)草木成仏記』を著して、そこに「草木国土悉皆成仏」という言いまわしを使った。われわれの眼前にある草木と国土は、仏国土としてことごとく成仏の国土になっている、あるいは「なりうる」という言いまわしだ。この言いまわしはその後、院政期の証真が『魔訶止観記』で使い、やがて鎌倉新仏教の祖師たちの中に入りこみ、中世文化や中世文学の多くで無常観や「数寄の遁世」として定着する。
なぜ安然は「草木国土悉皆成仏」という言い方をしたのだろうか。おそらくは時代が関係していると思われる。安然の著作活動期は9世紀になるのだが、この時期は日本が遣唐使を廃止し、藤原摂関政治を準備していた。天台の活動もやや低迷していて10世紀の良源(元三大師・厄除け大師)の登場まで復興力をもっていなかった。また即身成仏をめぐる思想を天台がうけとめる時期にもあたっていた。
安然はこうした時期、『教時問答』『即身成仏義私記』『斟定草木成仏記』などの著作に没頭し、草木即心についての思索を追求した。どんなふうに安然が思索をしていったかは、いろいろな紆余曲折があるので今夜は省略するが、まとめて知りたい諸君には末木さんが2015年にまとめた『草木成仏の思想』(サンガ)を読んでみることを薦めたい。かなり詳しく述べられている。それを一言で集約することはできないけれど、ごくごく縮めていえば、天台宗・華厳宗・三論宗の草木成仏説を検討し、『大乗起信論』を引きつつ「随縁真如」という立場にもとづいて、有情と非情の区別をなくし、草木すら成仏しうると説いたのだった。

末木さんは『草木成仏の思想』(右)で、「山川草木悉皆成仏」という言葉は、天台僧・安然(左)が、中国天台の著作を大胆に解釈して生まれたものであることを丹念に検証している。
安然ののち、草木自成仏説は良源の『草木発心修行成仏私記』や源信の『三十四箇事書』(枕双紙)などに受け継がれ、覚鑁によってその身体論化が、道元によってその山水論化が試みられた。これらは安然の意図とはべつに展かれていったに近い。けれども、そここそが日本仏教の大きな特色の「トーン」となったのだとみなしたい。
しかしながら、こうした起爆や着床の意味は、日本仏教史としては、また仏教を背景とした日本思想史や日本言語思想の展開としては、残念ながらほとんど語られてこなかった。なぜ、語られなかったのか。日本仏教を話題にするのが人気がなかったのだと言うしかない。また、近現代の日本人は仏教思想を持ち出すというリベラルアーツに慣れてこなかったか、その力を発揮してこなかったと言うしかない。
これはまずい。今夜はそのことを述べるのは控えるけれど、ぼくは21世紀の日本をおもしろくするには、仏教と新たなリベラルアーツが結びつくことこそが最も有効だろうと見ているので、この現状はできるかぎり打破したいと思っている。打破するには多少の準備が必要だ。
そこで「近江ARS」と銘打ったグループの諸君とともに、三井寺(園城寺)を学びの場として、末木さんに2年ほどにわたって日本仏教の特色を解(ほど)く会で語ってもらうことにした。三井寺長吏の福家さんは、長らく末木本を読み込んできた人でもあった。世話役には「百間(ひゃっけん)」の和泉佳奈子が立った。
三井寺に来ていただく人数には会場の都合で制限があるが、そのうちネットなどで参加可能な機会を拡げたいと思っている。

三井寺で開催された近江 ARS「還生の会(げんしょうのかい)」第1回で、末木さんが講義をしている様子(右)。後半では松岡と三井寺長吏・福家俊彦さんとともに鼎談や田中優子さんその他との質疑もおこなわれた。(左)。
仏教はその原点以来、ずっと死者と関わり続けてきました。
主要な大乗経典は死者との関わりを
最も主要なテーマとしていました。
生があって死があるのではありません。
死があってはじめて生があるのです。——『現代仏教論』
ずっと前から「7万5000の寺院、約8000万人の仏教徒、30万体の仏像」というふうにおぼえていた。堂々たる数だ。ビヨンセが数百人の黒人ダンサーを引き連れているようで、とても誇らしかった。しかし、この数字はたいそう漠としたものでもあって、7万ケ寺の寺院、8000万人の仏教派、30万体の仏像が群をなしてわれわれに胸騒ぎを迫っていくようにはまったく見えてこない。なんらの唸りをあげてはいない。いまの仏教界にはビヨンセもイチローも大谷もいない。
仏教の現状がそうなっているだけではない。2020年の文化庁「宗教年鑑」では、神道系が8895万人、仏教系が8483万人、キリスト教が191万人、諸教が740万人というふうになっている。なかで仏教の宗教団体としては13宗28派が認められているが、すべて大乗仏教系である。それなら13宗28派の日本大乗仏教系が何かの活動性や象徴性やなんらかの社会活動を世に発しているかというと、そういうこともない。
平成30年間で、キリスト教系は5万人増えたが、仏教徒の数は4000万人ほど減ったという数字もある。令和元年の調査では、仏教系は4724万人だ。4割が減った。
数字はともかく、日本人が仏教徒であるという自覚をあまりもっていないのは、とっくの昔からの常識だ。もっとも日本人には自分たちが神道信仰者であるという自覚もない。結婚を神式にして葬儀を仏式にしているにすぎない。このことは日本人の宗教意識の欠如として指摘されてきた。しかしそうだとしたら、どうしてそうなのか。この常識をどういう説明で切り抜けるのか。
かつてNHKの教養番組のチーフディレクターだった阿満利麿は『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)を書いて、日本人は創唱宗教よりも自然宗教的なるもののほうに関心があり、宗教的な強い思想が人生の前提を疑ったり否定してくることを避けているのではないかという見通しを述べていた。
これはソンタグが「ソフィスティケーションとしての日本仏教」をぶつけてきたことに似て、当たっているように思えるが、思想史としては説明できていない。また、それなら僧侶はそのへんをどう見ているのかというと、そこがよく見えない。なんとかしたいのだろうか、それとも忸怩たる思いにいるのだろうか。
「宗教年鑑」では日本の僧尼は37万人である。この数は多くもないが、少なくもない。タイは人口が7000万人弱で3万の寺院、30万人の僧侶がいる。だから、日本の僧尼の数は十分だ。けれども活動が見えているかというと、そうではない。たとえば日本のサッカー人口は436万人、野球人口は700万人で、そのうちのプロのサッカー選手は1800人程度、プロ野球選手は1000人にも満たない。それでもどんな人材やプレーがあるかは刻々見える。僧侶もプロ級が何かをすればかなりの選抜力が見せるプレーにお目にかかれるはずなのである。
安土の宗論はいまこそパブリックビューで行われるべきなのだ。文治元年、大原にいた顕信が勝林院に20人のトップ・ディベーターを集めて法然の話を聞く会を開いた。300人近いオーディエンスがいた。こういうことがもっと時期を画しておこなわれる。WCRP(世界宗教者平和会議)の日本版も試みられるべきだろう。女性宗教者たちもLGBTQも集まるべきだ。石山寺の鷲尾龍華さんや立正佼成会の庭野光祥さんに期待している。

左は大規模な托鉢式で列をなすタイの僧侶たち。右は立正佼成会次代会長・庭野光祥さん。「立正佼成会を再編集しないといけない」と自ら編集学校の門を叩き、師範代(インドラ一乗教室)もつとめた。
近江ARSプロジェクトの一環で石山寺を視察したときのドキュメンタリー動画。近江ARSのメンバーで、石山寺座主の鷲尾龍華さんが案内した。
<参考情報>
石山寺第53世座主 鷲尾 龍華さんを訪ねて
2021年12月、大本山 石山寺第53世座主(大寺の寺務を統括する首席の僧)に就任された鷲尾龍華さん。30代の若い女性座主ということで注目を集めていますが、ご本人はとても自然な流れで仏門に入られたというのが印象的です。そこで今回は鷲尾さんの生い立ちから現在のお役目、これからの願いについて伺ってきました。

■無理せず、頑張り過ぎない 心を平安に保つことが大事
その後、種智院大学に編入し、学問としての仏教や歴史、声明、梵字の書き方などを2年間勉強しました。そして2018年、石山寺法輪院の住職に就任。2021年12月、がんで闘病していた父が亡くなり、引き継ぐかたちで石山寺第53世座主に就任しました。現在は法要に出るほか、さまざまな行事の取りまとめ、観光協会や博物館協議会の会長、東寺伝法学院の教師など、幅広い役目を担っています。
そんななかで心がけているのは、自分自身がフラットであること。日々いろんな問題に向き合うためには自分の目線が公平でないといけないので、煮詰まってきたときには無理せずに休みます。また毎朝の瞑想でストレスを全部吐き出すことで、バランスが保たれていると思います。これは宗教によって癒され、救われているという実感をもてる時間ですね。ですから皆さんもどうぞ頑張り過ぎないようにしてください。煮詰まっているなと思ったら、まずは呼吸を整えることが大事です。そして自然を眺めたり、抵抗がない方はお寺に行って手を合わせたりすることで、心が癒されるのではないでしょうか。
石山寺では今後、誰もが気軽に参拝できる環境整備に力を入れていこうと考えています。これは「観光寺としてはもちろん、心の拠り所としてもう一歩踏み込んでいただけたら」との想いからです。実は、座主に就任してすぐに本堂の仏様の並びをより文脈的にわかりやすい配置に変えました。そこがまた新しい祈りの場になり、お寺を中心にして多くの方がご縁を結ぶ場所であってほしいと願っています。

出典:https://ayaha.co.jp/human/detail.php?lists=20230629125223
人間の現象として現れているこの世界「顕」の裏側には、
「冥」(みょう)と呼ばれる世界があり、
「冥」の世界に死者や神仏がいる。この感覚は、
中世には広く共有され、神道が形成されていく中でも
重要な意味をもつようになります。
この世の秩序の外にある暗闇の世界が、
この世の秩序と密接に関わっているのです。——『日本仏教入門』
以上、日本仏教を「抜き型」で見るという視点から末木さんの本が語る主旨の一端を急ぎ足で辿ってみたのだが、本書の序文をはじめ、このところ末木さんが自身でクローズアップしているのは「顕」と「冥」というテーマなのである。最後にその話をしておきたい。
末木さんの本ではやや異色な著作にあたる『哲学の現場』(トランスビュー)がある。「日本で考えるということ」というサブタイトルが付いている。前半、日本人が西洋の哲学を相手にした近代の思想家たちの流れを瞥見し、半ばの第5章「他者の壁」でブーバー(588夜)、レヴィナス、清沢満之(1025夜)を比較しながら、他者を存在一般の延長で捉える限界を指摘しつつ、関係こそが存在に先立つのだから、他者の問題については「私もまた私にとって他者であり、私の外」であるような見方がこれからは重要になるだろうことを持ち出している。
そこから、他者は範型が異なることが多いので安易な類型化はふさわしくないこと、そのような多様な他者がいるところにも思いを致すべきであること、そのことを日本では「顕」に対する「冥」の存在の認知として理解する方法をもったという考察へと入っていく。
天台座主でもあった慈円(624夜)が書いた『愚管抄』このかた、歴史や現在や将来を語るには「顕わるるもの」とともに「隠くるるもの」を同時に見なければならないという見方が断続的に重んじられてきた。それが「顕」と「冥」である。たんに光と影を語るというのではない。
これは光と影、顕と冥、生者と死者は別々のことを別の言葉で語っているという認識をもつということだ。そうしないと日本の歴史はわからないと、慈円は言ったのだ。それなら「顕」に対するに「冥」の言葉をある程度はふんだんに扱えるようにしなければならない。とくに顕冥にかかわる言葉、顕冥から逸れる言葉についての比較と比肩が重要だ。
のちに本居宣長(992夜)は歴史や現実の「顕」の現象を見るには「ただの詞(ことば)」でも役立つが、「冥」を見るにはそれなりの「あやの詞」が必要になると訴えた。「顕」に回収できない「冥」の言葉や意味の世界が厳然とありうるということである。
さかのぼって、天台本覚が仏性・真如・如来蔵を動かすには、経典などを検証したうえでの仏教的な「あやの詞」が必要で、安然の作業はまさにそのためのものだったとも言えたのである。それをすることで、仏教思考が既存の魔術から脱して、新たな再魔術化がおこせるのだった。
末木さんは別の本、『現代仏教論』(新潮新書)にこう書いている。「私が最近提案している「顕」と「冥」の世界観は、ある意味では、まさしく脱魔術化の後の再魔術化の一つの提案ということもできます」と。
この再魔術化という言い方は、デカルトが物心を切り離した哲学を構築したのに対して(デカルトは物質と精神を別々に扱った)、のちのちベイトソン(446夜)らがこれを統合して、デカルトが中世的な魔術思考を否定して近代哲学礎を築いたことを、あらためて再魔術化して今後の哲学や科学や思想を議論するべきだとしたのにもとづいている。モリス・バーマン(1241夜)の『デカルトからベイトソンヘ』(国文社)に詳しい。
再魔術化ではないが、量子力学のデヴィッド・ボーム(1074夜)が『全体性と内蔵秩序』(青土社)で明在系(エクスプリケート・オーダー)だけでは物理の真理は語れない、暗在系(インプリケート・オーダー)の語りこそがカギを握っているという議論をしたのも、顕と冥との関係を思い合わさせた。
しかし、このことをもっと如実に秘めていると思われるのは、仏教の変遷であり、とりわけ日本仏教の転移のありかただったのである。

天台座主・慈円が著した『愚管抄』は、末法思想によって当時の政治を論じ、日本で初めて歴史哲学を説いたもの。佐藤優さんと対談したさい、松岡が「いま日本人が読むべき本は『愚管抄』だ」と断じたことに衝撃をうけ、その後は2人が会うたびにその話が引き合いに出される。
中世においては「顕」なる領域は、
常に「冥」の世界に囲まれていた。
「冥」は神仏や死者の世界であり、それは
我々にはうかがい知れず、
それだけにどんな厄災をもたらすか知れず、
どのように対応するかが重要な問題になった。——『哲学の現場』
編集工学では「開ける」と「伏せる」を方法的に重視する。もともと歴史の中には早くから「開けられたもの」と、グノーシスや新プラトン主義やカバラのように「伏せられたもの」があった。
<参考情報>
■絶対の否定
・インドで『リグ・ヴェーダ』以来、ことにウパ二シャッドにおいて
⇒絶対者は否定的にのみ把捉されうると説いていた。
⇒これはとくに般若経典が繰り返し説くところであるが、
⇒ナーガールジュナはこの点を『中論』で明言している。
⇒「心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである」(第一八章・第七詩)
⇒古代西洋の哲学者たちは実体を何らかの意味で承認していたけれども、
⇒究極の実体は概念作用をもって把捉することができないという見解は、
⇒非常に古く、おそらくナーガールジュナ(2世紀中頃)からあまり遠く隔られない時代に現れている。
・新プラトン派およびグノーシス派の思想形態、
⇒殊にプロフロスやダマスキオスのような後代の新プラトン主義者たち、
⇒またそれらがキリスト教的な形態をとったものとしてオリゲネースやディオニシウス・アレオバギタなどの諸著作がそれである。
⇒とくに後者の『神秘神学』は『般若心経』のキリスト教版であるとさえいわれている。
⇒ウイリアム・シェームズの指摘した事実であるが、
⇒ディオニシウス・アレオバギタは、絶対の真理を否定的なことばでのみ叙述した。
⇒何となれば万有の原因は霊魂でもなく、知性でもなく、また説いたり考えたりすることのできないものなのである。
⇒絶対者は、
⇒数もなく、順序もなく、大いさもない。
⇒その中には、微小性、平等、不平等、相似、不相似は存在しない(ーまさに般若経典の文句であるー)。
⇒ディオニシウスはこれらの限定をすべて否定する。
⇒それは、真理はそれらの上にあらねばならぬ。
⇒絶対者を認識する否定的方法が、
⇒ニコラウス・クザーヌス、ジォルダノ・ブルーノーなどによって唱導されたことも、これに関連して考慮されねばならない。
出典:サブタイトル/NN1-2.比較思想からみたナーガールジュナ
それらを「開ける」のは学問的には大事な作業だが、そうしたからといって、それらがなぜ「伏せられた」かはわからない。むしろ、今日のわれわれはそのような「開け伏せ」のあった歴史の文脈に学びつつも、新たな「開け伏せ」に向かわなければならない。ぼくはこのような考え方をずっとしてきた。
そうしてきたのは、「顕」の方法と「冥」の方法とは、その根底の表象力や伝達力において異なるものを操業させてきたということに学びたいからだった。たとえば、出雲神話は高天が原神話の表象力では解けない。それを平田篤胤らが指摘した。
なぜこんなことがおこるのか。わかりやすい譬え話にすると、盗られてはならないものを隠すには、どうするかというと、容易に見当がつかない場所を選ぶか(ポーの推理小説のように)、隠し場所に鍵がかかっていてその鍵が見つからないか(コンピュータならコードナンバーがわからないか)、そもそも何が鍵で何が鍵穴なのかの関係が見いだしにくいか、このいずれかの処方をするはずである。永久に見つからないようにしたいのなら、そんなものは棄却してしまえばいいのだが、そうはしたくない。そこには秘密や真実の根拠がひそむので、なんらかの方法で解錠にたどりつかせたいわけなのだ。
出雲神話の成立を想定すると、そのような鍵と鍵穴が「冥」の言葉で綴られていた。オオナムチ、スクナヒコナ、クエビコは「顕」のイコノロジーでは説明しがたい。
そのため篤胤のような壮大な仮説が、きっと鍵と鍵穴はこれだろうと指し示しながらいつしか登場することになるのだが、そこにはどうしても「冥」の世界の全き想定が必要なのである。そういう世界を想定しなければ出雲も解けなかったのだし、出雲神話をつくったほうからすると、本来の秘密や真実を全面的に(あるいは暗示的に)共有してもらわなければならないからだ。
この共有の謎は、ギリシア的な『ユリシーズ』には薄く、インド的な『バカヴァッド・ギーター』(1512夜)に、はるかに深かった。
話を日本仏教に戻すと、なぜ日本の寺院は葬式仏教を重んじたのか。そこには「冥」の世界の土台やネットワークが必要だったから、お寺と死者が相互陥入していてほしかったからだというふうに解釈できる。ただし、近代以降の仏教はそのようには日本仏教の「冥」を重視したり、説明したりできるようにはしてこなかった。これは怠慢による。
いま、日本における「冥」はかなり後退させられ、粗末に扱われ、また多くの者が誤解するように位置に貶められている。そのかわり前面化しているのがコンプライアンスというものだ。
では、こんな状況の中でどんな方針がもてるのかというと、はなはだ心もとないけれど、21世紀の日本に「顕」と「冥」がもっと語られていくようにするには、以上のような「開け伏せ」を今後にも企んでいくのがいいだろうと思われる。伏せながら提出し、少しずつ開いていくようにする。そうするには末木さんがそうしてきたように、仏教をふんだんに活用することなのである。
これはパース(1182夜)が「アブダクション」(仮説形成)と名付けた方法に近いとも思われるけれど、もっと仏教史的に言うのなら、仏性や如来蔵が「ありのまま」のところに措かれているにもかかわらず、そこを開けようとすると、よほど本気でかからないと鍵も鍵穴も見つからなくなっていくというような、そんな「開け伏せ」になっていくような気もする。
まさに末木さんは、そういう「開け伏せ」を著作を通してやりつづけてきた。これからもそうされていくだろう。
なんだか勝手な案内になってしまったが、では、ごめんなさい、この続きは8月21日の三井寺で末木さん本人からの話で深めていただくことになる

近江 ARS「還生の会」では、末木さんを迎えて、全8回にわたって日本仏教を広い視座から見直すプログラムを開催する。2回目「国家と仏教:戒律と社会(仮)」(日時 2022年8月21日/場所 三井寺)は、ただいま申し込み受付中。近江ARS公式サイトはコチラ。