NN2-4-3.『中論』:『空の論理』~破邪の論法:基本形式が種々に形を変えて適用~(龍樹:中村元著より転記)~

・『中論』の本来の詩句は

⇒詩句だけでも大体理解しうるほど、主語・述語・客語がみなそなわっていてほとんど註釈を必要としない。

⇒また『中論』における論破排撃(破邪)の論理は、

⇒概念や判断内容の実在性を主張する論理(法有の立場:説一切有部)を排斥しているのであり、

⇒概念や判断内容を説明しているのではないから、著しく異なった解釈をされるということはなかったであろう。

・法有の立場を攻撃

⇒『中論』が「法有」の立場を相手にしているという歴史的連関を考慮するならば、

⇒容易にこの主張を理解しうる。

⇒すでに述べたように法有とは

⇒経験的事物としての「もの」が有る、という意味ではない。

⇒自然的存在として「もの」をして、

⇒それぞれの特性において「もの」として有らしめるための「かた」「本質」としての「もの」が有る、という意味である。

⇒「・・であるありかた」が有る、と主張するのである。

⇒essentiaをessentiaとしてとどめずに

⇒より高き領域におけるexistentiaとして把握しようという立場である。

⇒より低き領域において存在する(bestehen)ものは

⇒より高き領域おいて有る(sein)。

⇒したがって法有の立場では

⇒作用をたんに作用としてみないで、

⇒作用を作用としてあらわし出す「かた」「本質」が形而上学的領域において実在していると考える。

⇒たとえば註釈書の第二章の始めにおいては法有の立場の人は、

⇒「作(作用)あるをもっての故に、まさに諸法ありと知るべき」といって

⇒「去る」という「かた」「本質」が実在することを主張している。

⇒「去りつつあるもの」もわれわれによって考えられ、または志向されいる「あり方(かた)」であるから、

⇒たんに意識内容たるにととまらず、背後の実在界に根拠を有するものとみなされる。

⇒したがって「去りつつあるものは去る」という場合には、

⇒「去りつつあるもの」という一つの「あり方」としての形而上学的実在に関して、

⇒「去る」という述語を附与する判断であらねばならぬ。

⇒ところが法有の立場は、

⇒それぞれの「あり方」をそのまま実在とみなすから、

⇒「去りつつあるもの」という「あり方」と「去る」という「あり方」とは全く別のものとされ、

⇒「去りつつあるものは去る」といえばそれは拡張的判断であり、

⇒二つの去るはらきを含むことになる。

■論争の意義

◆「有」の主張に対する批判

・「破邪」の意味の考察

⇒『中論』は論争の書である。

⇒東アジアの伝統的な表現では「破邪(はじゃ)」をめざしているという。

⇒『中論』の「破邪」すなわち否定の論理は、

⇒あらゆる概念の矛盾を指摘して、事実に反してまでも概念を否定した、と西洋の学者によって一般に解釈されている。

⇒しかしながらはたして『中論』は「概念の矛盾」を指摘したのでああろうか。

⇒一方的断定的な主張は何も述べられていない。

⇒空観から出発する大慈大悲の利他行が何故成立するのか、

⇒その意義は理解されないこととなりはしないであろうか。

⇒『中論』のいわゆる「破邪」とはどのような意味であるかを考察しよう。

・『中論』の論理ープラサンガ

⇒そもそも基本的な態度として、<空>の哲学は定まった教義なるものをもっていない。

⇒中間派はけっして自らの主張を立てることはしないという。

⇒このことはすでにナーガールジュナの明言したとろこである。かれは発言した。

⇒「もしもわたしに何らかの主張があるならば、

⇒しからば、まさにそれゆえに、わたくしには理論的欠陥が存することになるであろう。

⇒しかるにわたくしには主張は存在しない。

⇒まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない」

⇒と、その著書の中の『異論の排斥』で説いている。

⇒ナーガールジュナの弟子であったアーリャデーヴァも同様の趣意でいう。

⇒「もしも〔事物が〕有るとか、無いとか、有りかつ無いとかいう主張の存在しない人ーいかに長い時間を費やしても、かれを論詰する事は不可能である(『四百論』第十六章25)

⇒したがって哲学者チャンドラキールティは、

⇒「中間派にとってはみずから独立な推論をなすことは正しくない。

⇒何となれば〔二つ〕立論の一方を承認することはないからである」(『プラサンナパダー』16ページ)

⇒といい、さらに同書(18-19ページ)で一般に主張命題(宗:しゅう)も理由命題(因)も実例命題(喩:ゆ)も用いてはならぬと主張している。

⇒したがって『中論』の用いる論理は推論ではなくしてプラサンガ(帰謬(きびゅう)論法)である。

・プラサンガとは

⇒けっして自説を主張するのではなくて、

⇒論敵にとって願わしからざる結論を導き出す事なのである。

⇒「実にわれわれは{論敵にとって}願わしからざる論理によって論敵の議論を暴露せしめる」とチャンドラキールティは豪語している。(『プラサンナパダー』399ページ)

⇒他派の主張を極力排斥するが、それはけっしてそれと反対の主張を承認するという意味ではない。(『プラサンナパダー』24ページ)

⇒「プラサンガ」とはこのような意味の論理であるから、

⇒厳密な意味では論証とみなすことはできない。

⇒したがってプラサンガは帰謬(きびゅう)法と訳される。

・中観派の哲学者たちは、

⇒自分達の立場が論破されることはありえない、という確信をいだいていた。

⇒そうして大乗仏教が、(禅を含めて)神秘的な瞑想を実践しえたのは、

⇒そのような思想的根拠があったからである。

⇒この論法は後代の東アジアに継承された。

⇒中国では僧肇(そうじょう:374年~414年)が<有>と<無>とが何ものかについて絶対的にまた普遍的に述語されることはありえないと主張した。

・破邪の論法の解釈

⇒ナーガールジュナはこのプラサンガ(帰謬(きびゅう)論法)といういわゆる「破邪」の論法によって、

⇒当時の諸学派によって論議されていた種々の哲学的問題を縦横自在に批判したのである。

⇒その破邪の論法は

⇒各章において各問題を扱う態度は非常に類似している。

⇒すなわちごくわずかの基本形式が種々に形を変えて適用されている。

⇒故に『中論』の論法を説明するには、

⇒ただその代表となるべき論法についてその特質を明らかにすれば

⇒『中論』の論法全体を説明するための鍵を与えることになると思う。

⇒『中論』における否定的表現の代表的なものは、

⇒「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」という八種の否定である。

⇒東アジア諸国ではこれを「八不(はっぷ)」と呼んでいる。

⇒八不を論じていく。

⇒そのうちで最も基本的なものと思われる「不来不去」にういては既に<運動の否定>として解明した。

◆不一不異

・一異門破

⇒『中論』の第二章(運動の考察)おいては、

⇒運動というものは過去にも未来にも現在にも存在いえないという議論(三時門破、第一~第一七詩)の次に

⇒第一八詩から第二一詩によって去るはたらきと去る主体との不一不異を証明している。

⇒嘉祥大師吉蔵はこれを「一異門破(いちいもんぱ)」と名付けている。

⇒一異門破の代表としてこの部分のチァンドラキールティ註を訳出してみよう(『プラサンナパダー』101~105ページ)

⇒「また、もしも去るはたらきが去る主体を離れて存するとしても、あるいは離れないで存するとしても、

⇒いかように考察されようとも去るはたらきは成立しえない、ということを述べていわく

⇒「去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるというのは正しくない。

⇒また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない」(第一八詩)

⇒それでは、どういうわけで正しくないのでのあるか。答えていわく。

⇒「もしも去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるならば、

⇒作る主体と作るはたらきとが一体であるあることになってしまう」(第一九詩)

⇒もしもこの去る作用が去る主体と離れていない(すなわち去る主体と)異ならないのであるならば、

⇒その時には作る主体と作用との同一なることが有るであろう。

⇒それ故にこれは作用であり、これは作者(作る主体)であるという区別はないであろう。

しかるに切断作用と切断者との同一であることはありえない。

⇒それ故に去るはたらきがすなわち去る主体であることは正しくない。

⇒また去る主体と去るはたらきの別異なることもまた存しないということをあきらにしよとしていわく、

⇒「また、もしも去る<主体>は<去るはたらき>から異なっている分別するならば、

⇒<去る主体>がなくても<去るはたらき>があることになるのであろう、

⇒また<去るはたらき>がなくとも<去る主体>があることになるのであろう」(第二〇詩)

⇒何となればもしも去る主体と去るはたらきの別異であることが有るならば、

⇒その時には去る主体は去るはたらきと無関係であろう。

⇒また去るはたらきは去る主体と無関係であると認めらるであろう。

⇒あたかも布が瓶とは別に成立しているようなものである。

⇒しかるに去るはたらきは去る主体とは別に成立しているとは認められない。

⇒また去る主体は去るはたらきとは異なっているということは正しくない。

⇒といったことが証明された。それ故にこういうわけであるから、

⇒「一体であるとしても別体によっても成立することのないこの〔<去るはたらき>と<去る主体>との〕二つはどうして成立するのだろうか」(第二一詩)

⇒上述の理論によって一体だとしても、あるいは別体であるとしても成立しないところの去る主体と去るはたらきの両者がいまどのように成立するのであろうか。

⇒それ故にいわく

⇒「この二つはどうして成立するのであろうか」と

⇒去る主体と去るはたらきとは成立することはない、という趣意である(『プラサンナパダー』104~105ページ

・法有の矛盾を突く

⇒たんに去るはたらきと去る主体という関係を離れて、これを一般的に解釈すれば次のようにいえると思う。

⇒相関関係にある甲と乙との二つの「ありかた」が全く別なものであるならば

⇒両者の間には何らの関係もなく、

⇒したがってはたらきも起こらない。

⇒さらに甲であり乙であるということも不可能である。

⇒甲であり乙であるといいうるのは

⇒両者が内面において連絡しているからである。

⇒故に甲と乙が全然別異であるということはありえない。

⇒また甲と乙が全然同一であったならば、

⇒両者によってはたらきの起こることもなく、

⇒また甲であり乙であるという区別もなくなってしまうであろう。

⇒故に両者は全然同一でありえない。

⇒ここにおいても『中論』が

⇒たんなる実在論を攻撃しているのではなくて、

⇒法有(説一切有部)を説く特殊な哲学の根本的立場を攻撃していることがよく分かっる。

・たんなる実在論においては、

⇒ここに一人の人が有り、

⇒その人が歩むからその人を<去る主体>といい、

⇒歩む作用を抽象して<去るはたらき>というにすぎないから、

⇒両者の一異という問題は起こらない。

・法有(説一切有部)の立場は

⇒自然的存在を問題にせず、

⇒その「ありかた」が有る、となすのであるから、

⇒一人の人が歩む場合に

⇒「去る」という「ありかた」と「去る主体」という「ありかた」とを区別して考え、

⇒それぞれに実体視せねばならないはずである。

⇒法有(説一切有部)の立場を理論的にどこまでも突き詰めていけば

⇒結局ここまで到達せねばならない。

⇒しからば両者の一異如何が問題とされることなる。

⇒ナーガールジュナは実にこの点を突いたのである。

■ナーガールジュナの姿勢

・概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を指摘したのではない。

⇒概念の形而上学的実在性を附与することを否定したのである。

⇒「去るはたらき」や「去る主体」を否定してのではなく、

⇒「去るはたらき」や「去る主体」という「ありかた」を実有であると考え、

⇒あるいはその立場の論理的帰結としてそれらが実有であると認めざるをえないところの

⇒ある種の哲学的傾向を排斥したのである。

⇒このように相関関係にある二つの概念は、

⇒一に非ず異に非ずと主張する「一異門破」は、

⇒『中論』において各処において用いられている。

・五求門破(ごぐもんは)

⇒『中論』における他の論法、たとえば五求門破は

⇒チァンドラキールティのいったよう(『プラサンナパダー』212ページ)

⇒「一異門破」から論理的必然性をもって導き出されたものである。

⇒すなわち甲と乙とが、

⇒(1)<同一のもであること>と

⇒(2)<別異のもであること>と、

⇒(3)甲が乙を有することと、

⇒(4)甲が乙のよりどころであることと、

⇒(5)乙が甲の上に依っているものであることを

⇒否定するのが、

⇒「五求門破」(五つの見方による論破)であるが

⇒(1)と(2)とを否定すると、

⇒(3)(4)(5)はおのずから否定されることになるという。

⇒したがってこの「一異門破」の及ぼした影響は非常に大きいとなねばならない。

<参考情報>

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)

◆不生不滅

⇒『中論』においては、不生不滅も作用に関して立言されることであるから、

⇒不来不去の証明の場合と同じ論理を用いる。第二章の最初において、

⇒「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。

⇒さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない」(第一詩)

⇒と論じたと同様に、

⇒「いま現に生じつつあるものも、すでに生じたものも、未だ生じていないものも、けっして生じない。

⇒「いま現に去りつつあるものも、すでに去ったものも、未だ去らないもについて、このように説明されている」(第七章・第一四詩)

⇒「未だ滅びないものも滅びない。すでに滅んでしまったものも滅びない。いま現に滅びつつあるものもまた同様に滅びない」(第七章・第二六詩)という。

⇒故に不生不滅はもちろんのこと、他の一切の作用に関しても第二章の三世門破を用いうるわけである。

議論の根本的態度はすでに『中論』全体を通じてほぼ一貫している。

◆不断不常

不断不常を主張し合う<法有(説一切有部)>と<法空(中観派)>

元来ブッダは

仏教以外の諸派の説を

断または常の見解に隋するものとして排斥した。

かりそめにも仏経徒たるものは

けっして断滅と常住との偏見を持つことは立場上許されない。

すなわちいかなる個人存在もまたいかなる事物も

永久に存在する(常住)と考えてはならない。

また反対にただ消え失せてしまうだけである(断滅)と考えてはならない。

この両方の見解はともに排斥されねばならない。

「不断不常」は仏教徒にとっては絶対の真理である。

・しかしながら有部(説一切有部)のように

⇒ダルマ(法)を独立の実体とみなし、

⇒これが過去現在未来の三世に恒有であるならば、

⇒著しく集積説に近くなるから、

⇒これははたして「不断不滅」を説いたブッダの最初の思想に忠実であるといいうるのであろうか。

・有部と対立する学派であった経部(上座部仏教の一派)の主張

⇒すでにこの点に着目して、もしも説一切有部が主張するような「三世実有法体恒有」の説を許すならば、

⇒常住という理論的欠点に隋するのではないか、といって有部を攻撃している。

・有部の反論

⇒ダルマ(法)それ自体(法体)は恒有するけれども、

⇒「世を経」から、すなわち過去現在未来という時間的規定を受けるから

⇒「常住」の理論的欠点には陥らない、といって極力弁解している。

⇒しかしならが依然として有部にはこの弱点がつきまとっている。

・ナーガールジュナの主張

⇒まさしくこの弱点を突いたのである。

⇒法有(説一切有部)の立場の人は極力自己の説が「断」または「常」の理論的欠点に陥らないということを証明しているのに対して、

⇒ナーガールジュナは、たとえ相手がそのように証明するにしてもやはり「断」と「常」との理論的欠点に陥るといって攻撃している。

⇒たとえば第一七章第一七詩において「法有」の立場に立つ人々は、

⇒「そうして心から個人存在の連続が〔起こり〕。

⇒また個人存在の連続から果報の生起が有り、果報は業に基づいているから、断でもなく、また常でもない」といいい、また第二〇詩において、

⇒「仏によって説かれた<業が消失しないという原理>は、

⇒空であって、しかも断絶ではなく、輪廻であってしかも常住ではない」と説いているのに対して、

⇒ナーガールジュナは

⇒「何故に業は生じないのであるか。それは本質をもたいないもの(無自性)であるからである。

⇒またそれが不生であるが故に(生じたものではないから)、滅失することはない」(第二一詩)と答えている。

⇒その意味は、仏<業が果報を受けないで消失することはないという原理>を説いたとしても、

⇒それは業が本体のないもの(無自性)であるから不生なのであり、

⇒したがって不滅(不失)であるというのであり、

⇒相手(正量部:上座部仏教の一派)の理解するような意味ではないというである。さらに次の第二二詩によると、

⇒「もしも業がそれ自体として(自性上)存在するならば疑いなく常住であろう。

⇒また業は作られたものではないことになるであろう。

⇒何となれば常住なるものは作られることがないからである」と答え、

⇒以下さらに反駁(はんぱく)を続けているが、要するにナーガールジュナは

⇒業がそれ自体(自性上)有るならば、「常住」という理論的欠点に陥るが、

⇒業が自体の無いもの(無自性)であるからこそ、「常住」という理論的欠点に陥らないと主張している。

⇒また第二一章第一五詩において法有の立場の人が、

⇒「有〔の立場〕を承認している人にとっては、

⇒断滅ということも無いし、また常住ということも無い。

⇒〔われわれの〕この生存というものは結果と原因との生起、消滅の連続であるからである」と主張するのに対して、

⇒ナーガールジュナは、

⇒「もしも結果と原因との生起と消滅との連続が生存であるならば、

⇒消滅がさらに生ずることは無いから、原因の断滅が隋(したが)い起こる」(第二一章第一六詩)

・「断滅」に堕ったとして論破

⇒<法有(説一切有部)>の立場も<法空(中観派)>の立場も共に、

⇒「不断不常」を真の仏教であるとみなして、

⇒自己の説においては断常の理論的欠点が無いことを互いに主張し合っている。

⇒どちらがブッダの真理に近いかという問題に関しては、なお独立の研究を要するが、

⇒ナーガールジュナによれば、

⇒実有なる法(ダルマ)を認めようとすると

⇒それが存続すれば「常住」という理論的欠点に隋し、

⇒滅すれば「断滅」という理論的欠点に陥るから、

⇒法有(説一切有部)の立場においては「不断不常」ということは不可能である。

⇒反対にダルマ(法)が実体の無いもの(無自性)であるからこそ「不断不常」といいうる、と解するのである。

⇒すなわち、一、異、去、来、生、滅を論破したように「断」「常」を論破したのではなく、

⇒「不断不常」であると自ら称する相手の説を、

⇒実は「断常」に陥ったものであるとして、それを論破したのであるから、

⇒他の「論難」(破邪)の論法とは幾分内容を異にしている。

■『中論』における否定の論理の歴史的脈絡

・実念論思惟の排斥

⇒『中論』はけっして従前の仏教のダルマ(法)の体系を否定し破壊したのではなくて、

⇒法を実有とみなす思惟を攻撃したのである。

⇒概念を否定したのではなくて、

⇒概念を超越的実在と解する傾向を排斥したのである。

⇒「であること」(essentia)を、

⇒より高き領域における「があること」(existentia)となして実体化を防いだのである。

・四有為相と有部

⇒われわれの身心が軽やかな気持(軽安:きょうあん)になることがある。

⇒その軽やかな気持というはたらき(ダルマ)が生起するやいやな、次の瞬間には消滅するけれども、細かく分けていうと、その間に、

⇒(1)生起し、(2)生起したその状態をたもち、(3)その状態が変化し、(4)消滅する、という四つの段階がある。

⇒それぞれの漢訳では(1)「生」、(2)「住」、(3)「異」、(4)「滅」とよぶ。

⇒これらは有為のダルマの無常の姿を示す特質であり、四有為相(しういそう)とよぶ。

⇒ところで説一切有部の教学によると、

⇒これら四つは独立の原理(ダルマ)であって、

⇒人に「軽やかな気持」が起きるときには、

⇒「生」という独立の実体としての原理がはたらくから、それが生ずるのである。

⇒それがとどまるのは「住」という原理がはたらくからで、

⇒またその軽やかな気持が変化すのは「異」という原理がはたらくからであり、

⇒またそれが消滅するのは「滅」という原理がはたらくからである。

⇒ところで「生」という原理が「軽やかな気持」にはたらいてそれを生ずるためには、

⇒「生生」(生を生起させるもの)という別の原理がはたらく。

⇒それを漢訳で「隋相(ずいそう)」という。

⇒では、「生生」(生を生起させるもの)を生ぜしめる原理は何か、というと、

⇒もとの「生」という原理(本生)がはたらく。

⇒したがって無限遡及にはならない。

⇒「住」と「住住」、「異」と「異異」、「滅」と「滅滅」とのあいだにも同様の関係があるという。

⇒こういう見解をナーガールジュナは批判するのである。

⇒したがって『中論』および『俱舎論』においてこのような思想を攻撃する論法を比較することは無意味ではないと思う。

・「大毘婆沙論」と「俱舎論」との対比

⇒さて、『中論』第七章の第一詩には、

⇒「もしも生ずること(生:しょう)が<つくられたもの>(有為)であるとするならば、

⇒そこ(すなわち生)には三つの特質(〔相〕、すなわち生、住、滅)が存在するであろう。

⇒もしもまた生がつくられたないもの(無為)であるならば、

⇒どうしてつくられたものをつくられたものとする特質(有為相)があろうか」とあるが、

⇒前半は「俱舎論」に

⇒「諸行の有為なることは、四つの本相(ほんそう)による。本相の有為なることは、四つの随相(ずいそう)による」あるのに対応し、

⇒後半は「大毘婆沙論」によると

⇒分別論者は、「四有為相は無為であり、性強盛であるが故に有為相でありうる」(三八巻、大正蔵、三七巻、198ページ)と説いていたと伝えられているから、あるいはこのような説にあたっているのかもしれない。

⇒第二詩は次のようにいう。

⇒「生などの三〔相:すなわち生、住、滅〕がそれぞれ異なったものであるならば、

⇒有為〔のもの〕の〔生・住・滅という〕特質をなすのに充分ではない。

⇒それらが合一するならばどうして同一時に同一のところにあることができるであろうか」

⇒「俱舎論」では主として後半が問題とされている。後半をピンガラの註釈では、

⇒「もしも〔それらが〕和合すとせば、それらは共に相違(矛盾せる)法なり。

⇒何んぞ〔同〕一時に俱(とも)にあらんや」というのみであるが、

⇒「俱舎論」をみると説一切有部が

⇒「もし有為なる色等の自性を離れて、生等の物(生起の原理などの実体)が有ることは、また何の非理かあらん」と反論しているのに対して、経部(上座部仏教の一派)はそれを論難して、

⇒「〔同〕一の法が〔同〕一時に、即ち生と住と衰異と、俱に有りと許すべきか」(「俱舎論」五巻、一六枚右ー左)と前置して、

⇒「また住等の三つの用(ゆう:はたらき)は俱に現在ならば、まさに一つの法の体が一つの刹那の中に、即ち安住と衰異と壊滅と有るべし。

⇒もしも時に住相が能(よ)くこの法を住せしめ、即時に異滅が能く衰壊せば、

⇒その時にこの法を安住と名づくとせんや。衰異と名づくとせんや。壊滅名づくとせんや」と論じ、また後の方では、

⇒「〔同〕一の法が〔同〕一時の中において亦(また)住し亦滅せば、正理(しょうり)に応せず」

⇒というからこの論法は『中論』と同じである。

⇒第三詩は次のようにいう。

⇒「もしも生・住・滅に、さらに〔それらを成立せしめたるための〕他の有為相があるならば、

⇒こういうわけで無限遡及(無窮:むぐう)となる。

⇒もしも〔これらの生・住・滅に、さらに他の有為相が〕存在しないならば、

⇒それら(生・住・滅)は有為ではないことになってしまう」

⇒この詩の前半と同じことを第一九詩の前半でもいう。

⇒「もしも他〔の<生>〕がこ〔の生〕を生ずるとするならば、そこで<生>は無限遡及となってしまう」

⇒この第三詩の前半や第一九詩の前半と同じ意味のことを、ヴァスバンドゥは「俱舎論」において論じている。

⇒「この生等の相は既に是れ有為なり、応(まさ)に更に別に生等の四相有るべし。

⇒もしもさらに相あらば、すなわち無窮(むぐう)を致すべし。かれに復(ま)た余の(他の)生等の相有るが故に」(五巻、一二枚左)

⇒また他のところでも、

⇒「豈(あ)に本相が、所相の法のごとく一々に応じ四種の隋相あるべく、これも復た各々四ならば、展転して無窮(むぐう)なるにあらざらんや」という。

⇒この議論はすでに「大毘婆沙論」に見えている(三九巻、大正蔵、二七巻、200ページ下)。

⇒「問う、生相に復(ま)た余の(そのほかの)生相有りや、いやな。

⇒もししからば、何の失かあらん。もし有らば、これに復(ま)た余の(他の)〔生相〕有り、

⇒かくのごとくして、展転して応に無窮(むぐう)を成(じょう)すべし。

⇒もし無くば誰かこの生を生じて、しかし他の〔生を〕生ぜんや」

⇒「答う、応にこの説を作(な)すべし。生も復(ま)た生有り」

⇒「問う、もししからば、生相は応に無窮(むぐう)を成(じょう)すべし」

⇒無限遡及になりはしないか、という疑問に対して次のような返答がなされている。

⇒「〔一〕この説を作(な)すもの有り。この無窮(むぐう)を許すとも亦た過〕失有ること無し。

⇒三世寛博なるに豈に住する処無からんや。

⇒この因縁に由って生死(しょうじ)は断じ難く、破し難く、越え難し。

⇒また同一刹那の故に無窮(むぐう)の〔過〕失無し。

⇒〔二〕余師有りて説く。諸行の生ずる時に三法が俱(とも)に起こる。

⇒一には法、二には生、三には生生。この中にて生は能く〔過〕二法を生ず。

⇒謂(い)わく、法および生生なり、生生は唯だ一つの法を生ず、〔それは〕謂(い)わく生なり。

⇒この道理に由って、無窮(むぐう)〔過〕失無し」

・このように「大毘婆沙論」には二種の答えが述べられているが、

⇒そのうちで後者が「俱舎論」に採用され、また『中論』にも述べられている。

⇒「俱舎論」(五巻、一二枚左ー右)においても、

⇒「応に更に有りというべし。しかれども無窮(むぐう)には非ず。所以は何ぞ。頌にいわく。これに生生等有り。大と一とにおいて能く有り」という。

⇒すなわち生生が本生を生じ、本生が生生を生じるから、

⇒無限遡及(無窮:むぐう)の難点はありえないということを詳しく論じている。

⇒『中論』もこの議論を受けて第四詩において、

⇒「生を生起させるもの(生生)〔と称させらるる生〕はたんに生というもとの原理(本生)の生にすぎない。さらに本生は生生を生じる」という反対派の議論を紹介している。

・第一三詩では次のようにいう。

⇒「この未だ生ぜざる生がどうしてそれ自体を生ぜしめるであろうか。

⇒もしもすでに生じたものが生ぜしめるのだとすると、

⇒すでに生じたのにどうしてさらに生ぜられるであろうか」

⇒これと全く一致しているのではないが、類似した議論が「俱舎論」にみえている。

⇒「たとい未来の生に作用(さゆう)ありと許すとも、如何んが未来を成(じょう)ぜんや。

⇒応に未来相を説くべし。法の現在する時には生の用(はたらき)はすでに謝す(消え失せている)。

⇒如何んが現在を感ぜやん」(五巻、一六枚右)

・第一九詩では次のようにいう。

⇒「もしも他〔の<生>〕がこ〔の生〕を生ずるならば、そこで<生>は無限遡及となっていまう。

⇒またもし不生であるのに生じたのだとするならば、一切はみなこのようにして生ずるであろう」

⇒前半はすでに論じたから省略する。後半は「俱舎論」の

⇒「もしも生が未来に在って、生の法を生ぜば、未来の一切の法は何ぞ俱に生ぜざる」(五巻、一七枚左)に相当するのであろう。

・第一三詩では次のようにいう。

⇒「いま現に消滅しつつあるものが住するということはありえない。

⇒またいま現に消滅しつつあるのではないものはありえない」

⇒これは生住滅の三相または生住異滅の四相を立てる有部の痛いところを突いている。

・仏教によれば

⇒一切は無常であるはずなのに住(続)という原理を立てるのは何故であろうか。仏説に背反するおそれはないか。

⇒これも「大毘婆沙論」少なからず問題となっていることであって、

⇒住を有為相のうちに入れない学者も当時存在していたほどである(「大毘婆沙論」三九巻、大正蔵、二七巻、201ページ中ー下)

⇒『中論』のこの主張もこの系統を受けているのかもしえない。

■論法の独創性と共通性

⇒このように第七章だけについてみても『中論』の主張は、「大毘婆沙論」および「俱舎論」にみえているところの、

⇒有部を攻撃する学者たちの説(とくに経部)と共通なものが少なくない。

⇒『中論』は経部をも含めて論破しているから

⇒中観派と経部とをただちに一括して論ずることはできないが、その論法に共通なものがあるという事実は否定できない。

⇒したがって三世門破・一異門破のような一般的な、また『中論』の根本となる論法はナーガールジュナ自身の独創になるらしい、

⇒またナーガールジュナ自身もそれを誇示しているようであるが、

⇒第七章のように、ある特定の派の体系を相手としているところでは、

⇒中観派以外のある派(たとえば経部)がその派(有部)に対して向けた攻撃の論理と共通のものが少なからず存在する。

■否定の論理の目的としての<縁起>の解明

・『中論』の目的

⇒以上「八不」(「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」という八種の否定)をてがかりとして

⇒簡単に『中論』における否定の論理を検討したのであるが、

⇒このように『中論』が種々なる否定の論理によって

⇒<法有>の主張を排斥しているのは一体何を目的としていたのであろうか。

・最後の目的は、

⇒もろもろの事象が互いに相互依存または相互限定において成立(相因持)しているということを明らかにしょうとするのである。

⇒すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして存在するから、

⇒もしもその相関関係を取りさるならば、

⇒何ら絶対的な、独立なものを認めることはできない、というのである。

⇒ここで<もの>という場合には、

⇒インドの諸哲学学派が想定するもろもろの形而上学的原理や実体を意味しうるし、

⇒また仏教の説一切有部が想定する<五位七十五法>の体系のうちもろもろのダルマ(法)を含めて意味しうる。

⇒何であってもよいのである。

⇒たとえば『中論』の第二章(運動の考察)において、

⇒去るはたらき、去る主体、去っておもむくところを否定したあとで、

⇒ピンガラはいう。

⇒「かくのごとに思惟観察せば去法(去るはたらき)も去者(去る主体)も所去処(去っておももくところ)も、

⇒これらの法は皆な相因持す。

⇒去法に因って去者有り。去者に因って去法有り。この二法に因らば則ち去るべき処あり。

⇒定(さだ)んで(決定的に)有りと言うを得ず、定んで無しと言うを得ず」(大正蔵、三〇巻、50ぺージ下)

・縁起を明かす『中論』

⇒この<相因持せること>を別の語で「縁起」とよんでいる。

⇒チァンドラキールティの註によると、

⇒「不来不去なる縁起の成立のために、世間に一般に承認された去来の作用を否定することを目的として」、

⇒第二章における否定の論理が説かれているという(『プラサンナパダー』92ページ)。

⇒故に不来不去を説くのは実は縁起を成立させるためなのである。

⇒また不生不滅を主張するのも、「不滅などによって特徴づけられた縁起」(同書12ページ)を明らかにするためであり、

⇒また、不一不異を説くのも、「不一不異なる縁起の法を解せしめんがための故に」(『般若灯論釈』七巻、大正蔵、三〇巻、84ぺージ上、86ページ下)である。

⇒また不常不断は最初期の仏教以来縁起の説明において常に説かれていたことでありーっこれは後に説明するー、

⇒いま『中論』において不常不断なる縁起が説かれているのもすこしも不思議ではない。

⇒したがって八不(「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」という八種の否定)は縁起を明かすために説かれていることであるから、

⇒チァンドラキールティは、

⇒「論書(『中論』)の闡(せん)明すべき目的は、不滅等の八つの特徴によって特徴づけられた縁起である」(『プラサンナパダー』3ページ)と断言している。

⇒八不がそのまま縁起なのである。

⇒このように、『中論』における否定の論理が

⇒ことごとく縁起を明かすために述べられているのであるから、

⇒『中論』全体が縁起を明らかにしている、という推定が確かめられたこととなる。

■否定の論理の比較思想論的考察

・東西における対比

⇒ナーガールジュナの運動否定の論理は、

⇒しばしばゼーノーンの運動否定論に対比される。

⇒ナーガールジュナとゼーノーンとの間には類似の存することはしばしば指摘され、

⇒特に運動の否定の議論が似ているのであるが、

⇒ゼーノーンとナーガールジュナとの間には根本的な相違が存する。

⇒ナーガールジュナについては、R・パニッカルによって「否定判断は判断の否定である」と評されている。

⇒これはつまり、中観派の運動否定論は、

⇒運動に関する肯定判断の否定であるというのが適当であるということに帰着する。

⇒しかし注目すべきことは、

⇒運動の観念についての批判は、

⇒運動に関する判断を問題にしているのではなく、

⇒きわめて実念論的な仕方で、つまり実在する実体とみなされた(「運動」という)観念についてなされたのであった。

⇒詭弁とも思われるようなナーガールジュナの論法はいろいろであるが、

⇒関係概念を実体視する考えかたーとくに説一切有部において最も顕著であったがーを攻撃した。

⇒こういう批判はプラトーンの対話篇の中にも現れている。

⇒「例えば、六は四より大きいが、十二よりは小さいから、六は同時に大きくまた小さい。

⇒そしてこれが矛盾だという。

⇒またソクラテスは、まだ成長し切っていない青年であるテアイテトスよりも、今は背が高いけれども、数年の後にはソクラテスは、テアイテトスより背が低くなるであろう。

⇒したがってソクラテスは背が高くあるとともに低いのだという」(B・ラッセル、市井三郎訳「西洋哲学史」1、156ページ)

⇒これに近い論法としては、チャンドラキールティはいう。

⇒「種子や芽、果実が別々の概念であるとすると、種子から芽、さらに果実が生じ、

⇒果実から芽が生ずるということはありえない。

⇒もしもそうだとするならば、父と子は同一であるということになる」(『プラサンナパダー』376ページ)。

⇒「もしも子がいなくても父は存在するというのであるならば、子が生まれるということがありえようか。

⇒子がいないならば、父は存在しない。だから父も子も存在しないのである」(『さとりの行いへの入門』第九章・第一一四詩)

⇒東西における対応は容易に理解することができる。図式化すると、

実念論ープラトーンー説一切有無

実念論に対する反対者ープラトーンに対する反対者ーナーガールジュナ

⇒ということになるからである。

・西洋の懐疑論者との類似と相違

⇒方法論の目的に関する限りは、中観派の哲学者はピローン(前360-275年)、ならびに懐疑論者たちの哲学に非常に近いのである。

⇒クリシッポス(前280-207年)がいった、ー反対として対立しているものは、互いに他の反対のものを含意している。

⇒悪をもたない善は論理的に不可能である。

⇒「悪が存在しなくても善は存在し得たと考える人々ほどばかげたものは無い。

⇒善と悪とは対立しているのであって、

⇒両者は対立において存在するにちがいない」(B・ラッセル、市井三郎訳「西洋哲学史」1、257ページ。258ページも参照)と。

⇒この論理的原則はナーガールジュナによっても承認された。

⇒かれはたとえば、「浄と不浄とは互いに依存して成立する」(『中論』第二三章・第一〇ー一一詩、第七章・第一二詩参照)と主張した。

⇒しかしナーガールジュナは西洋の懐疑論者たちのもっていなかったものをもっていた。

⇒それは否定の論理を通して縁起を解明しょうとしたことである。

⇒そこでおのずから「縁起」が問題となってくるのである。

<参考情報>

■時間概念が否定

 因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる。

 まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。

 時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋している。ところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。

 過去や未来がたとえ無であったとしても、その名前や概念が成立していること自体が重要であり、

 概念や名前、即ち「仮名」があることによって「現在」も把握できる、ということである。

 しかもそのような「仮名」という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた「現在」だから、結局、その「現在」も空虚である、という論証の仕方である。

 同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである。

 つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである。

 これが龍樹の「戯論」という語の背後に隠れている「仮名」の積極的意味であると思われる。

 つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故、「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである。

出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学

<参考情報:Google chrome AI回答>

三諦(さんだい)

天台宗で説かれる「空諦(くうたい)」、「仮諦(けたい)」、「中諦(ちゅうたい)」の三つの真理を指します。

  • 空諦:一切のものは実体がない、空であるという真理です。
  • 仮諦:一切のものは、因縁によって仮に存在しているという真理です。
  • 中諦:空でもなく、仮(有)でもない、空と仮を共に受け入れる中道の実相を示す真理です。

天台宗では、これらの三つの真理はそれぞれ別々に存在するのではなく、互いに融け合い、一念の中に全てが顕現している「円融三諦(えんゆうさんだい)」として説かれます。

<参考情報>

例:空観思想(=中道:龍樹/ナーガールジュナ)を基盤にして

『天台思想』

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~