一、はじめに
末法思想とは何であるか。
辞書的な意義において末法とは、六世紀中国に成立した正像末の三時思想の第三時にあたり、それはやがて訪れる法滅への前段階でもある。
またその時代においては、仏道における実践と証果が潰(つい)えて、ただ教えのみが残ると言われている。その意味において、末法とは仏教における衰滅史観として捉えられるものである。
しかし事実において、この末法思想がもたらしたものとは、衰滅ではなく、むしろ中国における最盛期とも呼ばれるような、華々しい隋唐代の仏教であった。
中国仏教においては、僧侶の堕落や、国家権力による廃仏の危機などを背景として、この末法思想が培われ、広播されていったと言えるが、
しかしその事は同時に、末法という危機的状況を自認し、現状を何とか克服しようとする僧侶たちの活発な護法運動を生み出していったのである。
この末法の到来と、法滅の危機を眼前にして中国仏教の諸家は、
それまでのインド仏教の亜流としての在り方から脱却し、
各々独自の教学を形成していくこととなる。
ここにおいて中国仏教の本領が発揮される事となったのである。
この事実に鑑みたとき、末法思想というものを、単に釈尊滅後の年数による、数字上のみの衰滅史観として捉えることは適当ではない。
末法とは修道者達における危機意識が時代のうえに投影されたものに他ならず、末法が問題とされるところには、必ず各人の危機意識と、それを乗り越えるための方法論があったのである。
故に末法思想の本質とは、年数そのものにあるのではない。またそれは仏法の衰滅を予言的に言い当てたものでもない。
末法思想の本質とは、時代の衰滅を通じて行者に危機意識を発起せしめ、既存形態への問い直しを喚起せしめるところにこそあったと言えるのではないだろうか。
このように考えるならば、末法とは決して「到来してしまった、悲嘆すべき時代状況」として、自己の外側に眺めていられるべき問題ではない。
究極的には、現代を生きる我々一人ひとりが、まさに「末法の最中」にあることに目覚め、その克服を目指すところに、末法思想の本質があると言えるのである。
このように考えてみたとき、これまで多くの先人たちが、この末法到来の危機に対してどのように向き合い、取り組まれてきたのか、その歴史的経緯を尋ねること、は決して無益な事ではないだろう。
このことを踏まえたうえで、本論において主として取り扱いたいと考えるのは、日本において末法思想がどのように受容されていたのかという問題である。
中国の末法思想隆盛期から約五百年遅れて、やがて日本においても本格的に末法の到来が自覚され始めることとなる。
但しその受容形態に関しては中国の場合と些か異なる性質を持っていたということは注目すべき点である。
十世紀に入ると日本の末法思想は、固有の無常観や厭世思想と結びつき、その結果、国家全体を覆う一つの社会観として、貴族や武士、さらには民衆の間にまで浸透していったのである。
この事は日本仏教の持つ一つの特色であると言える。井上光貞によると、この末法到来の事実は、「階級・身分の如何を問わず自覚されてきた社会観」として、特に浄土教の発達を促したとされている。
さらに、近年の研究においては平雅行がこれを批判し、末法到来の影響は、イコール浄土教の発達として、単純解釈できるものではなく、顕密仏教においても、その克服形態として、様々な形での活性化をもたらしたとされている。
これらの先行研究を踏まえたうえで、本論では日本における末法思想の展開について、まずは、
・日本に展開された末法思想にはどのような特色があったのか。
・日本において末法思想はどのように興起したのか。
・末法到来を受けて日本ではどのような受容態度がなされていたのか。
という三点に焦点を絞って考察を試みたいと思う。
二、日本における末法思想の発生
まずは古代日本仏教において、末法思想がどのように流入され、定着していったのか、その受容過程を確かめることから始めたい。
そもそも末法到来の年次を制定するためには、凡そ二つの基準が必要となってくる。即ち
①「仏滅時の年代」
②「正像末の年数」
である。
この二点について、諸経論には異説があり、それぞれどの説を採用するかによって、末法の到来年次は各人各宗において全く異なってくる。
南岳慧思を始めとし、慧遠、吉蔵、道綽、窺基など、中国において多く採用されていた説は、
①「周穆王五十三年壬申(前九四九年)説
②「正法五百年・像法千年・末法一万年」説
であった。
これによると、中国において一般的に感ぜられた末法到来の時節は、【五五二年】ということになる。
これは北周武帝による廃仏の二十二年前に当たり、
高宗の仏教擁護政策によって過剰に増えすぎた僧侶たちによる風紀の乱れが問題となってきた時代でもある。
『日本書紀』「壬申伝来説 (五五二年伝来説)」に依るならば、
百済より日本に仏教が公伝された年が、
まさにこの末法第一年目に符合していることが近年の研究において注目されている。
『日本書紀』は時代考証から七〇三年以降に制作されたものである事が既に定説となっているが、
田村圓澄の説によれば『日本書紀』の撰述者が、敢えて仏教公伝を末法第一年目に当てていた事は、「仏法興隆の事実によって末法の教説を克服する為」であったと指摘されている。
撰述者の真意は不明であるが
田村の説が語るように、この時代、日本においては未だ末法が問題とされていなかった事はいくつかの資料から窺えるところである。
これについて、寺崎修一は、
元来末法思想は、
思想の性質上常に末代的時代世相が、その背景として存せざる限り決して強き迫力を持たぬ。
唐代仏教の打てば響くが如き速やかなる模倣に汲々たりし、奈良朝時代を通じて、此思想の我国に現はれざりし事は職として之に由るものであらう。(寺崎修一「日本末法思想のの史的考察」)
と見解を述べている。
仏教が日本に伝来して約二百年、唐代仏教の模倣に勤しんでいた当時の仏教界においては、末法思想の興起する余地は未だ無かったのである。
<参考情報>

出典:https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/secure/4309/syoutokutaishi.pdf

出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44138660U9A420C1000000/
<参考情報>
■日本書記による仏教伝来記述
◆第29代欽明天皇(538年~571年)13年目(552年)に伝来
・百済の聖明王の使者が
⇒欽明天皇に釈迦仏の金銅像一軀、幡蓋若干、経論若干巻と共に、
⇒仏教信仰の功徳を賞賛した上表文を献上し、
⇒仏教が伝わってきた。
尚、上記公伝以前に渡来人による仏教伝来はあった。
【欽明天皇時代(飛鳥時代)の主な政治的課題】
・ヤマト王朝(2世紀~3世紀)時代から続く「中央集権的な統一国家(中国南朝梁の武帝モデル)」への建設途上
⇒古墳時代(2世紀~3世紀)に成立した古代日本の政治及び軍事勢力で、大和盆地や河内平野を本拠地にしていた。
⇒この時代、有力な豪族が政治連合を形成し、大王(天皇)と縁戚関係を結ぶことで王権を支えていた。
⇒政略結婚も頻繁に行われ、豪族との連携によってヤマト王朝は成立し、後世の律令国家にかけても、機内豪族との連合による全国支配(4世紀)が続いた。
◆富雄丸山古墳からの出土品
・4世紀後半のヤマト王権の有力豪族の古墳と推定されている

出典:https://www.ktv.jp/news/feature/230126-2/ 8カンテレ
・仏教導入については慎重なアプローチを採用
⇒崇仏派(=グローバルスタンダード重視)の大臣 蘇我稲目(そがのいなめ)と廃仏派(日本ファースト重視)の大連 物部尾輿(ものべのおこし)が仏教導入に関して対立した。
⇒献上された仏像は欽明天皇より蘇我稲目の管理下に委ねられたのは
⇒百済王朝・渡来人等からもたらされる海外情報(仏教を取り込んで「中央集権的な統一国家」を形成していく動向)を考慮した結果だと思われる。
⇒仏教の政治的利用が既に萌芽しており、ヤマト王朝の進むべき方向性も示唆していたと思われる。
⇒その為、仏教導入の明確な意思表示を行わなかったが、
⇒導入の環境作りをし、ハイブリッド型の解決策を示した。
尚、両者の子である蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)の二世の代になると更に対立が激化し、丁未の乱(ていびのらん:587年)が起き、物部守屋が滅ぼされた。
【歴史的背景(1):国内】
百済の聖明王と欽明天皇の関係:聖明王は日本との外交関係や仏教伝来において重要な役割を果たした。
- 新羅との連携と対抗:聖明王は梁(中国南朝)と結び、新羅との連携を図り、高句麗に対抗しようとした。しかし、529年に高句麗の安臧王に敗れ、2000人の死者を出した。
- 任那復興会議:541年には新羅討伐を名目とする「任那復興会議」を開催し、ヤマト王権(日本)の介入を要請した。欽明天皇からの援軍は547年以降に送られた。
- 新羅との戦闘と最期:聖明王は新羅との戦闘を続けたが、554年に新羅の大群に包囲されて戦死した。
尚、『広開土王碑』には、日本が391年に百済を服従させていたことが記されている。
注)任那(三マナ)とは:4世紀から6世紀頃に朝鮮半島南部に存在した日本(倭)の領有地域を指す。日本書記によれば、日本は楽浪・帶方郡時代(前108年から後313年)に朝鮮半島と交渉を行っていたことが確認されている。

出典:https://www.youtube.com/watch?v=vDPg2mVmkSk(【ゆっくり歴史解説】任那の誕生『朝鮮半島にあった倭人の国』)
注)広開土王碑:高句麗の第19代国王である広開土王(好太王)功績を讃えるために、息子の長寿王によって414年の建立さらた石碑。現在は中国吉林省集安市の大王陵の近くにあり、高さ6.4メートルの凝灰岩で造られた不整形の方柱に約1,800文字が刻まれている。
この碑文には、高句麗を中心とした朝鮮半島の秩序化の理念を示しており、百済と新羅がもともと高句麗の朝貢国であったにもかかわず、倭軍が侵略してこれらを臣民としたため、現状回復するということが百済親征の理由とさている。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91 Wikipedia
以上の出典:タイトル/百済からの仏教伝来(公伝)による信仰の衝突と受容~鳥瞰的に眺めてみる~
<参考情報:Google AI>
一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)とは、
一つの大きな光背の中に、中央の阿弥陀如来と両脇の観音菩薩・勢至菩薩の三尊が一緒に配置された仏像の形式です。長野県の善光寺の絶対秘仏である御本尊(善光寺如来)がこの姿であることで非常に有名です。
特徴と姿
一つの光背:3体の仏様が別々ではなく、1枚の大きな舟形の光背を背負っています。
すべて立像:中尊も脇侍の2体も、すべて立った姿(立像)で作られています。
独自の手の形:中央の阿弥陀如来は、左手を下げて指を伸ばす珍しい「刀剣印(とうけんいん)」という形をしています。
由来と歴史
インドから日本へ:インドで生まれ、百済を経て日本へ伝えられた日本最古の仏像の一つと伝えられています。飛鳥時代に難波の堀に沈められましたが、のちに本多善光(ほんだよしみつ)によって引き上げられ、信濃へ祀られました。
善光寺式阿弥陀三尊:善光寺の本尊を模した「模像」が鎌倉時代以降に全国で多く作られ、「善光寺式」とも呼ばれて親しまれています
出典:Google AI
日本仏教において本格的に衰退が自覚され始めたのは、仏教公伝から二百年が過ぎた頃からとなる。
この時代、中国に倣って内道場(宮廷内に設置された仏礼拝修行の場)が設置され、宮中講師や看病禅師として多くの僧が宮中に出入りするようになった。
それは僧侶と政治権力の癒着を生み出し、これにより得度僧の放漫化、私度僧の輩出、または大仏造営のための恣意的な大量集団得度による僧侶の質の低下などが問題となった。
この時期、仏教の世俗化が急進した。
そして七六〇年、良弁・慈訓などの僧綱が、この現状に歯止めをかけるべく、四位十三階の僧位の制定を上奏する文を出している。その中に、
今は像教まさに季ならんとし、緇侶(しりょう)やや怠る。もし褒貶なくんば、なんぞ善悪を顕さん(『続日本記』巻二三・天平宝字四年七月条)
とある。
末法という語は直接見られないが、ここに日本仏教史上初めて仏法衰滅の危機意識が明確化されたと言える。
<参考情報情報:道鏡事件:Copilot回答>
「道教が天皇になろうとした事件」とは、奈良時代の 宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件) のことです。これは僧・道鏡が天皇位を得ようとした日本史上最大級の皇位継承危機であり、769年(神護景雲3年)に発生しました。
道鏡は弓削氏出身の僧侶で、病気だった称徳天皇(孝謙天皇)を治療したことで絶大な信頼を得ました。天皇の寵愛を背景に異例の出世を遂げ、最終的には「法王」という天皇に匹敵する地位にまで上り詰めます。
その頃、称徳天皇には後継者がいなかったため、皇位継承問題が深刻化。ここで道鏡は自らが次の天皇になるという野望を抱いたとされます。
事件の結末:道鏡の失脚と皇統の維持
翌770年、称徳天皇が崩御すると道鏡の後ろ盾は消滅。藤原氏らの働きで白壁王(天智系)が光仁天皇として即位し、皇位は皇統に戻りました。道鏡は下野国へ左遷され、政治的影響力を完全に失います。
この事件が意味するもの
宇佐八幡宮神託事件は、日本史において次の点で極めて重要です:
- 皇位は皇統が継ぐべきものという原則が強固に再確認された
- 僧侶や臣下が皇位を狙うことを禁じる思想が形成された
- 奈良時代の仏教政治から、平安時代の貴族政治への転換点となった
和気清麻呂は後世「忠臣の鑑」として称えられ、戦前には紙幣の肖像にも採用されました。
時代背景(奈良時代末期)
- 時期:奈良時代末(764〜770年)
- 政治:藤原氏の権力争い、律令制の動揺
- 宗教:仏教勢力の政治介入が極限化
- 皇位:称徳天皇に後継者がいないという危機
この複雑な政治・宗教状況が、道鏡の野望を可能にした土壌でした。
<参考情報>
七三五年、経論五千巻を携えて入唐帰朝した玄昉が、勅任によって僧正となり宮中にこの内道場を造った。
これによって多くの官僧達が、朝廷に出入りするようになり、
やがて彼らは宮中講師や看病禅師(病気を治す呪験力を得た禅行法師)として、
要人や後宮と癒着していった。
これにより「方外の士とは全く無縁の、さらには寺院に寂居して学問修行に専念したとも思えない」官僧達が、政権・派閥と深く結び付いていったのである。
その極まるところが弓削道鏡であった。
道鏡は称徳女帝と結びつき、前代未聞の太政大臣禅師という官位につき、やがて法王にまで成り上がっていくのであるが、
彼の一派は「僧侶の進退また沙門の趣なし、手を拍し歓喜すること、もはや俗人におなじ」と指弾される程に、堕落した様相を呈していたのである。
出典:註(7)より:末法思想の日本的展開~親鸞仏教センター研究員:花園一実氏の研究論文
この危機意識は、薬師寺の私度僧景戒の『日本霊異記』(八二三年頃成立)によってさらに深刻に表現されている。
景戒は日本において初めて末法の問題を意識的に取り上げた人物として重要な意義がある。『霊異記』下巻の序文には、
夫れ善悪の因果は内経に顕はれ、吉凶の得失は諸を外典に載せたり。今是の賢劫釈迦一代の教文を探るに、三時あり。
一は正法五百年、二は像法千年、三は末法万年、仏、涅槃し給ひしより以来、延暦六年歳次丁卯に迄
(いた)りて千七百二十二年を逕たり。正像の二を過ぎて、末法に入れり。(中略)代を観るに善を修する者は石峯の花の若く、悪を作す者は土山の毛に似たり。(日本古典文学全集『日本霊異記』二五七頁)
とあるように景戒が正像千五百年説を採用し、当時を末法と捉えていたことが窺える。
その背景には「代を観るに善を修する者は石峯の花の若く、悪を作す者は土山の毛に似たり」と嘆かれるような、当時の世相が影響していた。
ここに末法の到来を体認した景戒は、このような時代だからこそ、人は慎みをもって、勤めて善を修すべきであることを強調した。
また景戒と時期をほぼ同じくして、
最澄も強く末法を意識していた人物であった。
最澄自身の時代観については、八一八年に著された『守護国界章』の中に、
当今の人機みな転変して、すべて小乗の機なし。正像稍に過ぎ已りて、末法太だ近きにあり。
法華一乗の機、今正しく是その時なり。(『伝教大師全集』二・三四九頁)
とあり、当時を像法の末と見ていたことが分かるが『法華秀句』には、
代を語れば像の終り、末の初めなり。地を尋ぬれば唐の東、羯の西なり。人を原ぬれば則ち五濁の生、闘諍の時なり。(『伝教大師全集』三・二五一頁)
とあるように、時は像末にあっても、最澄の持っていた意識は末法のものに他ならなかった。
そして最澄はこの末法時における時機相応の教えとして、法華一乗の教説を掲げたのであった。
また景戒や最澄の他に、同時期には安澄、智光、善珠、護命など、南都仏教の僧侶たちの間にも、末法についての記述がいくつか見える。
このように、初期にはほぼ意識され得なかった末法とい時代意識が、
八世紀頃から九世紀にかけて、僧侶の放漫化などの世相を背景として、
徐々に日本仏教の中に芽生え、始めていくのである。
しかし、この時点では、末法思想は、あくまで仏教内の自覚にとどまるものであり、
正像末三時の年数にも定説がなく、各人によって異なるものであった。
<参考情報>
・龍樹を大事にしている宗派
⇒三論宗、華厳宗、天台宗、真言宗

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~
<参考情報>
最澄は近江の生まれである。琵琶湖のほとりの大津の古市郷、いまの生源寺のあたりに俗姓を三津首(みつのおびと)、俗名を広野として育った。
14歳(宝亀11年)で近江の大国師であった行表(ぎょうひょう)のもとで出家して、近江国分寺で得度、延暦4年4月に東大寺で具足戒を受けた。行表が器量の大きい人だったようだ。
木内さんは行表が最澄に示教したことは、ただひとつ「心を一乗に帰すべし」だったろうと書いている。そうではあったが、ただ具足戒が気になった。
仏教では本格的な僧尼になるためには、「自分は戒律を守ります」(持戒)という約束を果たさなければならず、そのための授戒を受けなければならない。「戒」(シーラ)は仏教三学の「戒・定・慧」の必須要件のひとつで、仏法に帰依する者の大前提のことだ。具足戒はその戒の中の小乗戒で、200項目ほどの規則が示されている。日本には請われて鑑真が具足戒をもたらし、東大寺にそのための戒壇院ができた。
最澄も授戒してもらったものの、小乗戒では満足できなかった。「一乗に帰すべし」がないように感じられたのだ。そこで授戒後の7月、意を決して比叡山に入ると草庵を結び、山林修行を始めた。座禅に励み、四恩(父母・衆生・国王・三宝への恩)のために『法華経』『金光明経』『般若経』などを読誦し、自身の覚悟をしるすべく「願文」を認(したた)めた。
これが名文だ。「悠々たる三界はもっぱら苦にして安きことなく、擾々たる四生はただ患いて楽しからず」に始まり、「生けるとき善を作(な)さずんば、死するの日、獄のたきぎとならん」とあって、「我いまだ六根相似の位を得ざるよりこのかた、出仮(しゅっけ)せじ」と顧みる。出仮は現実の世界にはたらき出ることを言う。
このあと次のように決意を述べる。「願わくは、かならず、今生の無作無縁の四弘誓願(しぐせいがん)に引導せられて、周(あま)ねく法界を旋(めぐ)り、遍(あま)ねく六道に入り、仏国土を浄め衆生を成就して、未来際を尽すまで、恒に仏事を作さん」。
最澄は何を願ったのか。木内さんはこの願文はまさに「菩薩の発願」で、「法華一乗」に向かってすべての仏事を仕上げたいという決意に願いを懸けたのだと説明する。
なるほど、菩薩たらんとする決意ではあったが、たんに理念的な願文ではなかった。実践プランがいくつもあった。一切経(主要なすべての経典)を書写し、大乗戒のための戒壇をこしらえ、もっと天台法門を広く実践したい。そういう思いが募っていた。延暦7年(788)、最澄は山中に一乗止観院を建てると、自刻の薬師如来像を安置した。この一乗止観院を本堂とする寺院の総称が比叡山寺で、それが弘仁14年に延暦寺と改称された。

図版は『伝教大師絵伝』(延暦寺蔵)で、最澄が自刻の薬師如来像を一乗止観院に安置した様子が描かれている。


最澄が、薬師如来像を安置したとされる根本中堂(図版上)と、延暦寺の本来の玄関であった文珠楼(下)。
ここから先の最澄の活動は仏教知に対してのひたむきな渇望がすさまじい。この渇望が最澄の「菩薩の発願」を動かしてきたエンジンだったろうと思う。渇望は渇愛でもあった。とくに智顗がいた天台山への憧れはただならないもので、結局、このことが最澄を遣唐使船に乗せて入唐求法に至らしめた。
36歳で還学生に応募して2年後、苦難の末に入唐し、天台山に参って国清寺で灌頂を受け、台州の龍興寺では円教(完全円満の教え。天台宗では法華の教え)の大乗戒も受けた。さらに越州龍興寺の近くの鏡湖の峯山道場では三部三昧耶の密教灌頂を受けた。そして金字7巻の『法華経』をはじめとする経典、多くの典籍、密教法具を携えて戻ってきた。一番弟子の義真が求法訳語(通訳)として随行していた。
すばらしい入唐体験であったはずだが、不足不満もあきらかになってきた。最澄が受けた密教灌頂は「雑密(ぞうみつ)」のものにすぎず、別途に入唐していた空海が長安青龍寺の恵果(けいか)阿闍梨から受けた「金胎両部の純密(じゅんみつ)」の灌頂ではなかったのである。こうして帰国後は空海との「本」と「灌頂」をめぐる交流が始まり、徳一との三一権実論争が続くことになったわけである。
空海との交流はしばらく続いたが、最澄が『理趣釈経』を借り受けたいと申し込み、これが断られたあたりから疎遠になっていった。当時は「本」そのものが認知哲学であり、その秘法であったのである。本の貸し借りこそ「懸命」なのである。『理趣釈経』が動かなかったこと、ここに天台密教と真言密教の分かれ目が生じた。
そうした活動のなか、最澄は九州と東国への天台法門の拡大をめざした。九州では宇佐八幡宮、豊前の香春(かわら)神宮寺などを訪れ、法華を講じたりしている。
弘仁8年の春からは東国に向かった。円澄・円仁・徳円を伴い、道忠の門下や孫弟子がいる寺々を巡っている。
道忠は鑑真の弟子で、関東一円を布教して「東国の化主(けしゅ)」とうたわれた傑僧である。入唐前の最澄が一切経の書写をしたとき、二千余巻を助写したのが道忠だった。
最澄が同行を促した三人がいずれも東国出身者だったことは興味深い。円澄は武蔵国の生まれで、第2世の天台座主になった(第1世は入唐に随行した義真)。円仁は下野国生まれ、15歳で比叡山に入り、のちに第3世座主になっている。二人はもともと道忠の門下にいた。三人目の徳円は道忠門下ではないが、下総の出身だ。
最澄は栃木の大慈寺で円仁と徳円に菩薩戒と三部三昧耶を授けた。なるほど、行く先々で天台法門の苗床をつくっていくのである。律義で端正なだけでは、ここまではできない。最澄は一所ずつに懸命であったのだ。最澄の天台教団のモデルはこうして「同行」の中でつくられたということだろう。
東国巡行には、各地に『法華経』一千巻を収める宝塔を建てたいという計画もこめられていた。この計画は全国6カ所に宝塔を造立する「六所宝塔」というプロジェクトとして、その後の天台宗に受け継がれていく。
先だって三井寺の福家長吏とともに学芸部の皿井舞さんの案内で拝見した東博の「最澄と天台宗のすべて」展で、ぼくはあらためて全国に散らばった天台寺院にまつわる仏像や屏風絵や文書の実物にお目にかかった。最澄の「願文」が聞こえてきた。

最澄は、東大寺を中心とした『華厳経』にもとづいた国分寺の制度とは別に、『法華経』の一乗思想による新しいネットワークを企図した。上野(群馬)、下野(栃木)、近江(滋賀)、山城(京都)、備前(福岡)、豊前(大分)に『法華経』一千部を安置するための宝塔(図版は延暦寺東塔)を建てた。
最澄にはどうしても生前に成就したかったことがあった。
大乗戒のための戒壇院を造立すること、そのための専門の大乗寺を創建すること、その大乗戒を受けた未来の学生たちが挑むべき「忘己利他(もうこりた)」のルールブックをつくること、このことだ。
大乗寺建立のことは弟子の光定から藤原冬継を通じて嵯峨天皇に奏上する予定だったが、南都の僧綱たちの反対にあってしばらく待たされることになった。
十二年籠山を規定したルールブックは六条式、八条式、四条式というふうにドラフトを重ねていったので、文書としての仕上げはまにあった。これらを束ねたものが有名な『山家学生式(さんげがくしょうしき)』である。日本仏教の「戒」を代表する。山家は比叡山のことをいう。
学生式の認定についても光定らが南都にはたらいた。すぐに裁可は降りなかった。どうも僧綱トップの護命が反対しているらしい。最澄は『顕戒論』を綴って断乎たる意図を奏上するものの、このときすでに体が危うくなっていた。死期が迫っていた。
弘仁13年(822)、「我、鄭重に此の間(けん)に託して一乗を習学し、一乗を弘通(ぐつう)せん。若(も)し心を同ぜん者は、道を守り、道を修し、相い思うて相待て」と言い残し、また「心形久しく労して、一生ここに窮(きわ)まれり」と言うと、右脇を下にして示寂した。
享年、いまだ57歳。その7日後、大乗戒壇の独立、山家学生式が勅許された。翌年に比叡山寺が延暦寺になった。さぞかし無念であったろう。
出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~
三、日本的末法観の特色
十世紀の藤原摂関政治時代になると、日本の末法観に変化が現れ始める。
これまで定説の無かった年数について一〇五二年(正像二千年説)を末法到来年次とする説が広く行き渡っていき、さらにその影響範囲についても、僧侶たちの間のみに止まらず、広く一般思想界にまで及ぶものとなっていったのである。
その影響は特に貴族達の文学や日記の間に強く見られるが、
その背景には、律令国家の衰退と共に寺院と貴族の関係が密接になった事の影響などが考えられる。
更に時代が進み、
武家勢力の台頭によって、
この貴族の地位が脅かされ始めると、
目前に迫った末法到来の時節も相俟って、彼らの日記などに見られる末法意識、より深刻な社会的危機意識として展開されていくようになる。
ここでいくつかその例を挙げてみたい。
【平安の日記・文学に見られる末法観】
『小右記』(藤原実資)
「近日強盗貴処を憚らず、末代と謂うべし」
「末世と謂うべし、悲しき哉。放火の事断えざるは、天下滅亡し了るか。抑も洛中も坂東と異らず、朝憲、誰人か之を憑まんや。任王経の説く所、毫釐も相違なきか」
『権記』(藤原行成)
「今、世路の人みな云う、代、像末に及ぶ、災これ理運なり」
『栄華物語』(作者不明)
「世の中、ともすればいと騒がしう、人の死になどす。然るは帝の御心もいと美わしくおわしまし、殿の御政悪しうもおわしまさねど、世の末になりぬればなめり」
「世の中像法の末になりて、天竺は仏の現はれたまひし界なれども、今は鶏足山の古き道には竹茂りて、人の跡も見えず。、孤独園の昔の庭には薄伽梵亡せて、人も住まず成り云々」
『春記』(藤原資房)
「末代の故なり。此事に依て、一山の仏法亡滅せん」
「只仏法の滅する想なり、また国家の災、深く発るべきの時なり」
「若し是れ、天下の運盡き了るか。誠に悲泣すべきの時なり」
『源平盛衰記』(作者不明)
「正像各一千年末法万年、其の後にこそ世は滅すべしといえど、後冷泉院の永承年中に末法に入って僅かに百三十年なり」
貴族から武士へと社会の根本構造の変動に伴う混乱の中で起きた、強盗や放火や疫病の流行などの様々な悪相が、
貴族達においては末法の問題として取り上げられている。
このような末法観は、
もはや仏法の衰退を示す意味のみに止まらず、
同時に国家の衰退そのものを象徴するような概念として、
広く当時の思想界に定着していたのである。
では日本の末法思想はなぜこのように独自の展開を成し得たのだろうか。その理由を考えてみたい。寺崎修一は、中国と日本の末法観の相違点について以下のように纏めている。
・中国においては、ほぼ僧侶の間に限定されていたが、
日本においてその影響は僧俗を問わず、社会全体にまで浸透していた。
これにより全面的社会層に広く深く真摯なる宗教心を激成した。
・日本の末法思想には政治上の意味が頗る強く、公事の頽廃を嘆き、王法の破滅を恐れるという特色があった。
・中国においては、正確には末法到来の年次は定まっていなかった。日本にも諸説はあったが、圧倒的に永承七年説(一〇五二年)が採用されていた。
・中国には末法到来への準備期間がなかったが、
日本には最澄などによって末法の到来が予期され、長い準備期間があった。
それにより熟成された末法思想は、社会の悪相に相乗して、
何人の拒否を許さないような強力な思想となっていった。
(寺崎修一『日本末法思想の史的考察』取意)
このような差異はなぜ生じたのか。その理由として、中国と日本では、仏教という外来思想を受け入れる、その受け皿の持つ性質自体が異なっていたということが考えられる。
中国においては古くから儒教、道教などの土着的信仰がひろく受容されており、
そこに西来した異国の思想が、
格義仏教として徐々に浸透していくこととなる。
しかし、この三教の間には、
お互いに相容れない緊張関係が常にあった。
中国においてこれら宗教の盛衰は、時の権力者に依るところが大きく、たとえある時代には、仏法が廃せられたとしても、その他の二教が代わりに隆盛を期すのみであった。
その意味において、仏法の危機を表す末法思想というものも、
仏教徒の間でこそ深刻な問題であったかもしれないが、
民衆においては、それほど深くは意識されていなかったのではなかっただろうか。
また、森三樹三郎は、
・中国の広大な土地においては、局地的には戦争などの不安な情勢はあったとしても、多くの民衆は無関係に平和な生活を送ることが出来た。
・中国の民衆は慢性的な内乱に慣れており、それに対処する智慧と心構えを備えていた。
(森三樹三郎『中国思想史上における善導の地位』取意)
と述べ、これらの点から、末法思想が社会意識にまで発展する土壌が、もとより中国にはなかったのではないかと指摘している。
しかし、日本の場合においては、その様相は大きく異なって、
六世紀前半に百済から仏教が輸入されると、
仏教はそれまでの卜占祭祀を中心とする古神道と結びつき、
天皇の病平癒のために仏教が敬われ、
「護国三部経」によって、鎮護国家や除災招福が祈られるなど、国家守護の要として重用されてきた。
また、飛鳥時代には推古天皇の「仏法興隆の詔」や聖徳太子の「十七条憲法」など、早くから仏法中心の国家政策が進められてきたのである。
このように国家民衆と密接に関わる形で受容されてきたからこそ、仏教が時を経て衰滅していくという末法意識が芽生えたならば、それが国家の危機として認識され、社会問題として展開していった事は、ごく自然な流れだったのである。

<参考情報>
6世紀の半ば、仏教は欽明天皇の時代前後に中国や朝鮮半島からやってきた。日本人には「蕃神」(あだしくにのかみ)に見えた外来宗教である。それを受けた蘇我馬子や一部の豪族や仏師らは氏族仏教をプレゼンテーションした。
すぐさまそれなりの日本化をおこして、ひとつは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」に象徴されるややニヒルな信仰論に、もうひとつは大仏開眼や南都六宗に象徴される鎮護国家型の仏教になっていった。そこには北魏仏教・新羅仏教・隋唐仏教のフィルターがかかっていた。
大きな転換点のひとつは、聖武天皇が行基から菩薩戒を受け、鑑真を招聘して「仏門プロ」をつくることにしたことだ。本格的戒律の導入だ。これで六宗型(倶舎・成実・律・三論・法相・華厳)の奈良仏教が伽藍を並べて栄えたが、いくぶん大雑把になったり、道鏡の登場などで偏向したりもした。王法と仏法もくっつきすぎていた。
そのため最澄・空海による戒律と即身成仏思想と密教による革新がおこり、そこからは黒田俊雄(777夜)のいう「顕密体制」(顕教と密教のダブルスタンダード)が作動するようになるのだが、また専修念仏や鎌倉新仏教の動向が興っていったのだが、さあ、大筋、こんな説明でいいのかということが問われる。
出典:サブタイトル/インド仏教の日本文学への影~和歌、俳句を中心に~仏教思想研究家 植木 雅俊 転記
聖徳太子の言葉 に 、「世間は虚仮(こけ)なり」というのがあります。
世間とは、現象の世界です。それを「虚仮」、すなわち虚にして仮であると言っております。それと同様に諸法も虚であり仮であるということができます。
出典:サブタイトル/インド仏教の日本文学への影~和歌、俳句を中心に~仏教思想研究家 植木 雅俊 転記
四、日本における末法受容の諸相
それでは、この末法に対して、日本ではどのような受容態度がなされていたのであろうか。先行研究によって、特に(一)弥勒信仰(二)王法仏法相依論(三)雑信仰という三つの点から確かめてみたい。
(一)弥勒信仰
井上光貞は、経塚資料の存在を提示し、日本の末法思想が、貴族だけのものではなく、武士、民衆にまで広く及でいたという事実を示した。
これにより井上は、末法とは
単純に貴族達の動揺を背景に起こされた古代権力の危機表現にとどまるものではなく、
社会全体を包んでいた救いようのない崩壊観であり、
古代的秩序の危機表現であったと指摘した。
当時の民間信仰において、
末法克服への祈りを象徴しているのが、この経塚、即ち埋経という行為であった。
埋教とは、書写した経典(主に『法華経』が中心であった)を経筒に入れて地中に埋納し供養するもので、その埋納した場所に塚を築いたものを経塚という。
この埋経は奈良時代までは官営事業として行われていたとされているが、
平安時代に入ると聖や修験者達の手によって、個人の祈願行事として急速に流布されていったのである。
これら埋経は、元々末法思想の先駆けである中国の南岳慧思が、『立誓願文』の中で、
末法の時代において正法を護持するために、
金字で『般若経』や『法華経』を書写し、それを宝函に納めたという故事が起源となっている。
日本においても同じく護法活動としての意味合いがあるが、
それは弥勒信仰と深く結びつく趣のものであった。
慈覚大師円仁の如法経(『法華経』を書写したもの)埋経の顛末について書かれた「如法堂銅筒記」という文献に、以下のような記述がある。
これによりて我此経は、微妙の七寶に勝たる経巻と成て、七寶の塔の中にましまして、弥勒の世に伝え置て、釈迦の御法うせなんときにも、此経はましまして、人をわたせ奉らん。
ここに埋経の目的が、弥勒出世の世まで経典を保持しようとするところにあったことが明かされている。
このような行為とは弥勒下生信仰に基づいたものである。
<参考情報>
■藤原道長の埋経(Google AI回答)
寛弘4年(1007年)8月、藤原道長は吉野の金峯山(大和金峯山・現在の山上ヶ岳)山頂付近の経塚へ登り、自ら紺紙に金字で書写した法華経などの経巻を金銅の経筒に納めて埋納しました(金峯山埋経)。この時の様子は道長の日記『御堂関白記』に詳細に記されており、出土した経筒や経巻は国宝に指定されています。
金峯山埋経の背景と目的
- 時代背景:平安時代中期、将来の仏法が衰えるとする「末法思想」が広がりを見せていました。
- 立地:修験道の霊場である大峯山(金峯山)の経塚が選ばれました。
- 祈願内容:現世の繁栄や未来の成仏、また来世の弥勒下生(みろくげしょう)の時に釈迦の教えに漏れないことを祈るため、厳重な金銅製経筒に経典を収めて埋められました。
歴史的・文化的価値
一次資料との一致:実際に発掘された経筒の銘文と、道長自身が書き残した『御堂関白記』の記述が完全に合致する、日本古代史上の極めて貴重な史実です。
自筆の国宝:道長が自らの手で書写した「紺紙金字経」の残闕(ざんけつ)などが伝存し、当時の高い文化水準や信仰の篤さを伝えています。
<参考情報>

出典:https://www.gotoh-museum.or.jp/2020/10/08/08-196-371/ 五島美術館
<参考情報>

栄華を極めた平安時代の貴族 藤原道長も金峯山
藤原道長(966~1027)は平安時代中期の政治家。
藤原氏は、飛鳥時代に乙巳の変で功を成した中臣鎌足が天智天皇から藤原朝臣の姓を賜ったことが始まりの氏族です。鎌足の子・不比等は娘を皇太子(後の天皇)に嫁がせ、権勢を奮いました。
その子孫である道長も、娘たちを天皇や親王に嫁がせ、藤原氏の圧倒的な権力基盤を盤石なものにします。摂政や関白などの、天皇を補佐する要職を代々一族で独占するようになるのです(摂関政治といいます)。晩年の道長は次のような歌を詠んでいます。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることも なしと思へば
(この世は私の世なのだと思う。この満月のように欠けたところがないように思える)
このように、栄華を極めた道長ですが、まだ政界の頂点を極める前、現在の京都府にあった平安京から、奈良県吉野郡にある金峯山を詣でています。当時、金峯山は弥勒菩薩が生まれる場所であり、登れば願いが達成できると信じられていました。
出典:https://inori.nara-kankou.or.jp/inori/special/48yoshino/
<参考情報>
■金峯山(きんぷせん)(Google AI回答)
意味: 「金(きん)の御岳(みたけ)」と呼ばれ、金が埋められていると信じられた霊場
中心地: 吉野山にある金峯山寺(蔵王堂は国宝)
本尊: 日本最大の秘仏・金剛蔵王大権現(3体の青い仏像)

■大峰山(おおみねさん)(Google AI回答)
- 中心地:山上ヶ岳の山頂にある大峰山寺
- 特徴:1300年の歴史を持つ修験道の厳しい修行の場
- きまり:昔からの言い伝えにより、山上ヶ岳は現在も「女人禁制」の山
出典:Google AI回答
そもそも弥勒下生とは、『弥勒下生経』の中に説かれる教説で、釈尊滅後から五十六億七千万年後に、未来仏であ弥勒が兜率天より下生して、竜華樹の下で三会に亘って説法をすると説かれている経説を指す。
そして現世において功徳を積み、やがて未来世においてその弥勒三会の会座に値遇し、説法を聞くことで成道しようとするのが、この弥勒下生信仰である。
日本における末法到来期において全国で流行していた埋経の願文には、「弥勒三会を期す」即ち弥勒下生に願いを託すという内容のものが数多く見られるのである。
そして埋納されたこれらの経典群は、弥勒下生の竜華三会の際に、光明を放ちながら地下より湧出すると考えられていたのである。
なお親鸞の兄弟子である聖覚は『唯信鈔』において、
末法にいたり濁世におよびぬれば、現身にさとりをうること、億億の人の中に一人もありがたし。これによりて、いまのよにこの門をつとむる人は、即身の証においては、みずから退屈のこころをおこして、あるいは、はるかに慈尊の下生を期して、五十六億七千万歳のあかつきのそらをのぞみ、あるいは、とおく後仏の出世をまちて、多生曠劫、流転生死のよるのくもにまどえり。
(『真宗聖典』東本願寺出版部、九一六頁)
と、この弥勒信仰を筆、末法を象徴する世相の一つとして頭に挙げている。
弥勒下生を期待して各地に埋められた、経典の奥書には、聖・沙彌などの布教者に連なって、地方武士、民衆などの名が記録されており、この信仰が身分階級を問わず、日本全土に広がっていたことが明らかになった。
このように日本における末法思想の受け皿として弥勒下生信仰が重要な役割を果たしていたことが窺えるのである。
(二)王法仏法相依論
ここからは平雅行の論文に依って、顕密仏教における末法克服相を確認してみたい。
平は末法思想の流行が、浄土教の発達を促し、顕密仏教の衰退をもたらしたという従来の時代像に異義を唱え、
末法における危機克服形態として顕密仏教が王法仏法相依論をより強固なものにしていったことを論証している。
まず平は、真言宗の僧仁海が高野山大塔再建のため、朝廷に助力を請う際に、末法による仏教の衰退を根拠に挙げている。
釈迦大師入滅以来一千九百四十三年、今年則第六十六主御代、寛弘四年丁未也、方今正法已過、像法尽、像法遺五十七年、正法気昧与年漸薄、仏日遺光将世殆滅、仁海蒙宣旨之後、不甘日食、余算非幾、欲払頭燃、望請蒙天裁、因准先皇遺勅、太政官奉勅、普告天下、牽率知識、奉造件御塔、尽時代而不欠、聖朝宝寿、限天地而无窮。
(『平安遺文』四四六号)
迫り来る末法の時代に備え、大塔を造立したならば、聖朝の上にも宝寿がもたらされると、仁海は訴えたのである。
こうした例は一つではなく、他にも入宋僧である奝然(ちょうねん)という僧は、「仏法漸澆漓、伽藍已破壊」と当時の現状を語り、堂社を修治し佛法を復興するため、自らを東大寺別当職に補任するよう上奏している。
この場合も、末法の危機が、仏法復興の必要性を説く重要な論拠となっているのである。
また十一世紀は末法到来が叫ばれた時代であったが、同時に「仏法中興」と讃えられる程に多くの寺院が建立された時代でもあった。
末法到来の一〇五二年は、まさに藤原頼通が宇治の別荘を平等院として作り替えた年であり、白河法皇らによって六勝寺が相次いで建立されたのも、ほぼ同時代である。
特に仏教の信仰に厚かった白河法皇は、石清水八幡宮に納めた願文に「そもそも神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るのもまた仏法なり。これによりて弟子在位の当初、ことに弘願を発し、洛城の東に一勝境を占め、大伽藍を建てて法勝寺と称す」と法勝寺建立にあたって、王法仏法相依の理念を掲げている。
このように、末法思想は顕密仏教の体勢を衰退させるものではなく、むしろその発達に貢献し、仏教的国政観である王法仏法相依論をより強固な形で流布させていったのである。
<参考情報>

平等院 2025年1月3日 訪問

出典:https://www.byodoin.or.jp/learn/sculpture/ 鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像
<参考情報>
■ 『往生論』の行体系
世親の『往生論』の体系は、
阿弥陀仏国と阿弥陀仏との勝れた特性(功徳)、また菩薩の勝れた特性を止(精神集中)、観察により達成しようとし、衆生と共に阿弥陀仏国に生まれようとする善男子善女人の修行である五念門と菩薩の五門とにある。繰り返し繰り返し身に付ける修行を伴なわない仏道はないといってもよい。修行法には大別して部派仏教と大乗のものとに分かれる。
まず部派仏教の中で、それは形成され、その後、その構造を継承しつつ、到達する内容(悟り)の相違をもって大乗のものが形成された。
前者は『倶舎論』に説かれる五道、即ち一、(聞、思により解脱に向かう順解脱分、二、四諦の実修に励む順決択分、三、煩悩を断じる見道、四、修道、五、最高位である無学道に対し、
後者の大乗のものは、一、資糧道、二、唯識無境を実習する加行道、三、見道(十地の初地)、四、修道(十地の第二地から第十地)、五、究竟道(仏地)、この大乗のものは、無着の『摂大乗論』や『大乗荘厳論』などに表され、それらの『釈』を著した世親に受け継がれている。この構造は後期中観派にも継承される。この大乗、部派仏教二種の修行法と『往生論』におけるそれとは目指すところが直接的には別であるといえよう。
『往生論』においては、五念門及び五門として表され、特に五門において菩薩の達成する利他行としての阿弥陀仏国へのあらゆる衆生の救済を目指す修行法である。この菩薩の到達した五門の意義は菩薩の利他行一般ではなく、人力ではなす術のない如何ともし難い他者の究極的な救済を目指す点にある。それは阿弥陀仏(法蔵菩薩)の本願による以外には達成できないものである。
一方、大乗の瑜伽行派(唯識派)の修行法(五道)には直接的には利他行の完成としての、あらゆる衆生の救済は説かれていない。それは阿弥陀仏への帰依を根本に据えているか否かにあると考えられる。
しかし、『往生論』と世親の著した唯識論書における思想との共通性を見出すとすれば、それは他者の救済の実現を目指す善巧方便廻向という点においてであると考えられる。すなわち、
「方便」とは、他者を思い遣り自己の利益に執着する心を離れ分け隔てなく衆生を救済する方法である。
「廻向」とは、自ら修した善行を他者が安楽世界に生まれることのために差し向けることである。
ここにいう他者とは、単なる他の人というのではなく短命で、多病で、事故で、戦火で、自然災害で、この世を去った人々、虐待でこの世を去った子供達のことである。その後、多くの世間の人々から忘れ去られた人々や子供達である。善行を積む間もなかった人々、他の衆生の救いは、どうなってしまうのか。
彼らの救済は、どういう方法であり得るのか。そこに菩薩の誓願(本願)の端緒があると考えられる。その救済の手だてが方便と廻向とである。
五念門の行法に続いて菩薩の利他、方便、廻向を表わす前に、浄土が願われ描写されるのは、あらゆる衆生(三悪趣を含む)の救済があり得るのは、菩薩の誓願(本願)が達成された阿弥陀仏の安楽国でしかあり得ないからであると考えられる。
■ 五念門──善男子、善女人の為の行法
一、礼拝門、身を以って阿弥陀仏を礼拝し安楽世界に生れようと願う
二、讃嘆門、口業を以って讃歎し阿弥陀仏の名を称する
三、作願門、精神集中(止)を獲得すべく安楽国に生じようと一心に願う
四、観察門、観察力(観)を獲得しようと智慧により以下の三を観察する。
一、安楽世界の勝れた特性十七種(その十六には二乗、女人、身体の不自由な人への差別が全くないこと)を観察する。
二、阿弥陀仏の勝れた特性八種(如来の自利、利他の功徳)を観察する。
三、諸の菩薩の勝れ特性四種(その第二、菩薩が応化身として、あらゆる時に一心一念に大光明を放ち十方世界に至り衆生を教化し、方便により一切衆生の苦を除くこと)を観察する。
五、廻向門、苦悩するあらゆる衆生を見捨てない。自ら常に安楽世界に生まれることを願い、かつ衆生が安楽世界に生まれるよう願いを差し向け、大いなる憐れみの心を完成するために自らの善業を他者に差し向ける
それに対し以下の五門は、先の五念門を達成した菩薩の修する行法である。
これは、善男子、善女人の修するものとは別の行法ではなく達成した程度(真相を把握し実践し得るレヴェル)が異なるのである。したがって、五門は五念門より行の進展した高度なものである。ここに修行の階梯が見られ、唯識派の行体係を背景とすると考えられる。また、五念門と同様、身体、口、意(止)、智慧による観察(観)、という伝統的な行法の上に廻向を配し、自利、利他が組み込まれた大乗仏教の行体系の特徴を表している。
さらに、阿弥陀仏への信仰と安楽世界に苦悩の衆が生まれることを願う廻向が行体系の根幹に据えられ大乗仏教としての浄土教思想の行法が確立されている。
出典:サブタイトル/龍樹と世親:森山清徹著転記~戯論(概念化)寂滅(縁起=空)&浄土教思想~
(三)雑信仰
平はもう一つの末法克服相として雑信仰の事例を挙げている。
興福寺の貞慶は、釈迦・弥勒信仰はもちろん、観音・地蔵・文殊・薬師・阿弥陀・虚空蔵・春日明神など、非常に多彩な信仰対象を有していた。
平はこの貞慶の雑信仰の原因として、顕密仏教特有の階層的機根観と末法の問題を指摘している。
貞慶をはじめとする顕密仏教では、機根が不同であるという多元的な人間観から、各人の能力によって弥勒や阿弥陀などの救済者やまたそれによって至るべき浄土が異なってくるという考え方が主流であった。
つまり各人は自ら往生すべき土とそれに相応しい行法とを、自らの判断で、選び修さねばならず、その判断基準は不確定で曖昧なものであった。
この難点を克服するために持ち出されたのが雑信仰であった。
その顕著な例として、貞慶は、
・設行業未熟、往生有滞者、先可住補陀落山
(「観音講式」『大正蔵』八四・八八七頁)
・仏子行業未熟、上生猶滞者、願捨此身必奉仕権現
(「春日大明神発願文」『日本大蔵経』法相宗章疏二・三二頁)
と、極楽往生が叶わなければ観音の補陀落山へ、兜率が駄目なら春日権現の下に生まれたいといったように、二重三重の願をかけていたのである。
平はこのような貞慶の雑信仰の基底に流れていたのが末法意識だったのではないかと指摘している。
貞慶の多彩な信仰対象の基底を貫いているのは、
仏法が衰え機根の劣った濁世辺土にいる我々にも可能な行業は何か、という問題意識である。
つまり彼の信仰とは末代辺土に残存するすべての仏法、すべての聖遺物に対する信仰であるといえよう。
そして注意すべきは、そこでは末法観が強烈になればなるほど霊験あるものを求め、ますます雑信仰的様相を深めてゆくという一種独特の構造があるのである。
(平雅行「末法・末代観の歴史的意義」)
末法だからこそ、あらゆる諸行を勤めていかなければならない。このことは、貞慶の仏道に向かう真摯な態度が表されているとも言い得るだろう。
このような雑信仰という信仰形態もまた、顕密仏教における末法克服相の一面として捉える事が出来るのである。
以上、先行研究をもとに、日本における末法受容の諸相を尋ねてみた。纏めると以下の通りとなる。
①日本の末法思想は、僧俗を問わず日本全土に浸透していた社会的危機意識であった。
②この時期、末法克服の為、武士や民衆達の埋経による弥勒信仰が隆盛した。
③顕密仏教では、末法到来を通して、王法との結びつきをより強固なものとしていった。
④末法は、顕密仏教における信仰の雑修雑信仰化を促進した一面もあった。
<参考情報:顕密>
五、法滅思想の源流
ここまで、中国より輸入された末法思想が、日本においては僧俗を問わない一つの社会意識として独自な形で定着していたことを論じた。
この終末的末法観は、例えば「世も末だ」という言葉に見受けられるように、現代を生きる我々の中にも、日常的な感覚としていまだ残されているものである。
しかし、このような発想は、社会における様々な問題状況を、末法という古い予言的教説に結びつけることで意味づけし、自らを時代の傍観者とさせるものに他ならない。
末法とは、果たしてこのように傍観者的に眺めていられる問題なのであろうか。
そもそも、正像末そして法滅と法が徐々に衰滅していくという思想は、
我々にとって如何なる意味を持つものなのだろうか。
周知の通り、本来、仏教的真理としての法とは、
「如来世に出ずるも出でざるも法としてさだまった」のであり、
「古城の喩え」などに示されるように、釈尊とはあくまでも法の発見者である。
この意味において、釈尊の滅不滅に関わらず法とは本質的に常住不変である。
ではその常住不変である法が衰滅していくという、
一見矛盾とも取れるこの教説は、
我々に何を示唆しようとしているのであろうか。
先学の研究によれば、仏法がその衰滅史観を説示している最古のものは『雑阿含』三二巻となる。
如来正法欲滅之時有相似像法生。相似像法出世間已。
正法則滅。譬如大海中船載多珍寶。則頓沈没。
如来正法則不如是。漸漸消滅。
如来正法不為地界所壊。不為水・火・風界所壊。乃至悪衆生出世。
楽行諸悪。欲行諸悪。成就諸悪。
非法言法。法言非法。非律言律。律言非律。
以相似法。句味熾然如来正法於此則没。
(『大正蔵』二・二二六c)
ここで如来の正法とは、
宝を積んだ船が沈没するように、突然に消滅してしまうようなものではなく、
相似の法、即ち像法の出現によって、段階を経て滅していくものであるとされている。
そして、衆生が自ら楽みて諸悪を行じ、法にあらざることを法と言い、律にあらざることを律と言う、
そのような顚倒した世界こそが像法の世であるとしている。
また相應部には、正法を滅せしめるその原因について
ここに彼等愚人の生ずるとき、この正法を滅せしむるなり
(『南伝大蔵経』一三・三二七―八頁)
この意味において、法滅思想とは、
法を享受し伝えていく人間こそが変わり行くという、
仏教の人間観そのものを示していると言えるだろう。
さらに言えばそれは、法を正しく伝えることの出来ない人間の悪性との関係の中において、
はじめて言及されるべき問題なのである。
つまり、このように段階的に法が滅していくという教説は、
単に釈尊滅後の社会変動を予言したものと捉えるべきではなく、
法に対する人間のあり方が言い当てられたものと捉えるべきなのである。
六、末法思想の成立
では、その正法と像法に、さらに末法が加わり、三時思想として体系化されていくその過程には一体どのような思想的展開があったのだろうか。
換言するならば、なぜ、正法・像法に加えて末法ということが殊更に言及されなければならなかったのか。この問題について考えてみたい。
中国において末法という言葉が経典に登場するのは、
六世紀後半に入ってからである。
これは正・像・法滅の思想が、
原始経典から既に見出されていた事に対するならば、
かなりの時間的隔たりがある。
末法思想の思想的基盤については、
既に五世紀から六世紀前半にかけて、中国民衆の中で広まっていた「疑経」において大部分が築かれていたことが先行研究によって指摘されている。
僧祐の『出三蔵記集』を見ると、『浄度三昧経』 『提謂波利経』『仏説決罪福経』等の疑偽経典の中に、
庶民の教団に対する不満や教団側の庶民に対する支配的な姿勢など、
時の権力者による行き過ぎた仏教擁護政策によってもたらされたとされる、
当時の仏教界の退廃的現実が描かれており、
そこに直接的に末法という語は見えないものの、像法、濁世、滅法、末世などの言葉が頻繁に登場しているのである。
この事から五世紀から六世紀前半における疑偽経典の中に、
末法思想の基本的な概念と内容は十分に見出すことが出来ると考えられるのである。
末法思想の成立は、仏教徒の堕落と、それに対する危機意識に基づいていたと言えるのである。
六世紀の後半に入ると、
末法という語句が初めて自覚的に使用された文献である、
南岳慧思の『立誓願文』が登場する。
また、その数年後には那連提耶によって『大集舎』「月蔵分」が訳出され、末法という概念は徐々に中国仏教の中に浸透し始めていく。
そして、それらの末法経典の信憑性を裏付けるように、北周の武帝による廃仏の危機が仏教界に巻き起こったのである。
<参考情報>
■シナ(中国)
◆普遍的国家とは
・民族の差異、時代の差異を超えて実現されるべき普遍的理法、または普遍的な使命が存在し、
⇒それを具現することに意義をもっていることを確信していた帝王の建設した国家をいう。
⇒それは決して、異民族を支配しようとする意図があったとかなかったとかいうことは無関係である。
⇒梁(りょう)の武帝(502年~549年統治)や、あるいはむしろ隋の文帝(581年~604年統治)がそれにあたるのではなかろうか、と考えられている。
・梁の武帝は
⇒菩薩開戒(ぼさつかい)を受けて皇帝菩薩を自称し、在俗のまま経を講じ、造寺や僧侶の育成につとめた。
⇒この姿は推古期の聖徳太子の態度に対応する。
・北朝の武帝(560年~578年統治)は
⇒廃仏も行ったが、みずから皇帝如来たることを自負して、仏教の国家管理を始めた(ヒンドゥー法典にも同様の特徴が見られる)。
⇒これは日本の律令時代における宗教の国家統制を思われる。
・南朝の陳では
⇒仏事法令による鎮護国家をめざした。
⇒これは日本の平安時代における仏教のありかたに対応する。
・とくに隋の文帝は
⇒廃仏と戦乱のあとをうけて、シナ全体を統一し、
⇒シナ仏教全盛時代の端緒を開いた。
⇒文帝はみずから「転輪聖王(てんりんじょうおう」と称し、敬虔な信徒であり、教団のパトロンであった。
注)隋の文帝:中国をおよそ300年ぶりに再統一した(589年には南朝の陳を滅ぼして中国を統一)初代皇帝で、彼の治世において律令制が整備された。
文帝は581年に「開皇律令」を公布し、これは高度に体系化された法典であり、律令の完成形とされた。
律令制は、刑法に相当する「律」と行政法や民事法に相当する「令」から成り立っている。文帝の律令制は、国家の統治体制を法的に整備し、均田制や租庸調制、府兵制などの精度を導入し、科挙制を創設した。これにより、中央集権的な国家運営が可能となり、隋の統治が安定した。
文帝の治世は「開皇の治」といわれ、後継の唐王朝からも評価された。
※開皇の治:有能な官僚を用いて内政に努める(政治の安定化)。

出典:https://sekainorekisi.com/world_history/%E9%9A%8B%E3%81%AE%E7%B5%B1%E4%B8%80/
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~②普遍的国家への建設と十七条憲法~中村元著より転記
末法思想とは、これらの複合的要因によって、中国の土の中に自覚的に生み出され、そして中国仏教の退廃的現実を背景に培われていったものである。
ここに末法思想というものが前の正・像・法滅とは、
その思想の成立過程において大きく異なる要素を持っていたことを注意しておきたい。
つまり、前述したように、
像法とは「法を正しく享受伝達することが出来ない、仏陀から見た人間の悪性」を象徴する思想であったと言えるが、
末法とは、「具体的問題を通して、人間にその悪性が自覚される」という思想的意味を持つものである。
この意味で、像法と末法は、思想の中に本質的な違いを有しており、
末法とは単純に像法の延長上において捉えられるべきものではない。
末法到来に際し、中国僧たちにおける自覚態は実に様々であった。
試みに一例を挙げてみると、南山律宗の思想的基盤を確立した道宣は、当時の僧達が自らの学説を掲げ論争を繰り返している有様や食肉などの弊風、尼僧におけ集団生活の堕落などの現状を通して、末法を自覚していた人物であり、
このような現状を打破するには、ますます戒律を遵守するべきであると説き、四分律の完成に向けて精進したという。
注目すべきは、この末法思想を、単に悲嘆すべき時代状況としては捉えず、
積極的に教学の中に取り入れていく思想的傾向があったという事である。
その代表とも言えるのが、三階教の信行、そして浄土教の道綽であった。
他の末法思想家と彼らが決定的に違ったのは、
末法を人間の根機に関わる問題として領解し、実践教学として展開させたという点である。
特に道綽の末法観は、
弟子の善導によって、自覚的に深化され、
法然・親鸞へと受け継がれる本願念仏の系譜に多大な影響を与えていくことになるのである。
最後に、このことについて触れておきたい。
<参考情報>
■称名念仏:中国の善導大師(613年~681年)が称名念仏を中心として浄土思想を確立した。特に「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏を広め、浄土の荘厳を絵図にして教化し、庶民の教化に専念し、『観経疏』等の著作を通じて、浄土宗(法然上人:1133年~1212年)や浄土真宗(親鸞:1173年~1262年)に多大な影響を与えた。
浄土宗の開祖である法然上人が念仏(南無阿弥陀仏)を唱えることに意義を見出した出会い。
法然上人(1133年~1228年)は善導大師の主著『観無量寿義疏』を拝読し、阿弥陀如来に救われたとされている。
善導大師(613年~681年)は、中国の唐時代に活躍した高僧で、その教えは、南無阿弥陀仏(念仏)を唱えることで、生死を超えて浄土へ往生する道を示した。
法然上人は「専修念仏」という教えを広め、人々が「南無阿弥陀仏」を唱えることで死後に平等に浄土へ往生できると説いた。

上図出典:https://jodo.or.jp/jodoshu/lifetime/ 浄土宗 (善導大師の記述先:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記)
■ 知恩院 参拝(2024年5月23日)


出典:サブタイトル/NN2-1.『中論』:『大乗仏教の思想』(龍樹:中村元著より転記)
<参考情報>
■日本仏教における法然の立ち位置:驚くべき宗教的革命性
『観無量寿経』に、
静まった心で「定善」と、
乱れた心のままでつとめる「散善」とがあると説明しているのですが、
法然が散善のほうに大きく注目したことが凄いところです。
つまり乱心乱想の凡夫である自分にとって、散善の念仏こそが、いや、それだけが重要だったというのですから。
ここが法然の決定的な着目点です。
ここが法然の革命性です。
こういう見方はそれ以前の日本仏教にはありませんでした。
日本仏教は
最初は氏族仏教として、
次には鎮護国家のための護国仏教として確立します。これはいわば「律令のような仏教」です。
一方、平安初期の最澄や空海の仏教はニューシステムとしての仏教です。いわば「王法に対応する仏法」です。
世界の複雑さを包含した独特の宗教的総合性をもっているという意味で、はなはだシステム的なのです。これはこれで緻密で圧倒的なものですが、そこにはしかし時代の要請もあった。
末法の時代下で
世は乱逆の時代となってきて、
王法にも仏法にも、むろん律令にも、
一挙に総合システムをかぶせるわけにはいかなくなってきて
仏教にて生まれたニューウェーブは
「選んだ仏教」あるいは「選ぶ仏教」
法然が「散善としての念仏」を選んだ
これは法然だけではなく、道元や日蓮も気がついたニューウェーブです。一人の座禅が、一人の題目が「選んだ仏教」になるということです。法然が「散善としての念仏」を選んだのは、こういう背景もあったわけでした。
聖道門から浄土門へ。観念から称念へ。観仏から念仏へ。
凡入報土の可能性、称名念仏(専修念仏)の可能性。
絶対他力の可能性。阿弥陀一仏信仰の可能性。
女人往生の可能性。そして逆修(げきしゅ)の可能性。それらの開示。
選択(せんちゃく(浄土宗)・せんじゃく(浄土真宗))とはすなわちこれ取捨の義なり。
弥陀の本願は専ら罪人の為なれば、
罪人は罪人ながら名号を唱へて往生す。
これ本願の不思議なり。
いったい法然はなぜ専修念仏を選択できたのか。
そもそも念仏とは何かのか。
なぜ念仏のような易行が往生とつながるのか。
親鸞に先立って日本仏教を革新した法然の、
その革命性が奈辺にあるかということに、
今夜はしばらく酔っていたいと思う。
青年法然はむろん『往生要集』を耽読します。これはまことにうまく執筆編集されたテキストで、梅原猛さんほどではないけれど、ぼくも感心します。十門によって「往生の方法」と「往生のシステム」ともいうべきを心的パノラミックに劇的に説明しているからです。
その十門というのは、厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)・極楽証拠・正修(しょうしゅう)念仏・助念方法・別時(べつじ)念仏・念仏利益・念仏証拠・往生諸業・問答料簡の十門です。
どんな内容かというと、かんたんにいえば、現世は厭うもので(厭離穢土)、浄土は願うものであること(欣求浄土)、その浄土では西方で阿弥陀仏が君臨している極楽浄土がいちばんすぐれていること(極楽証拠)、そういう浄土に往生するには念仏方法として身・口・意を3つそなえた礼拝が必要であること(正修念仏)、こういう前半のアウトラインでした。その念仏方法を、後半でさらに詳しく説明する。
たとえば仏を観想するのに、仏の相好(そうごう)を上から下に42相に別々に観想する別相観、42相をひとつのものとして見る総相観、額の白毫(びゃくごう)に意識を集中する白毫観があるとか、念仏には心に念ずるのがよくて、口に唱えるのはその補助だとか(助念方法)、ときどき特定の日時に念仏をするべきだとか(別時念仏)、臨終のときには五色の糸を病人に握らせるとよいとか、そういうことを実践的にいろいろ書いているわけです。
これでわかるように、『往生要集』は「往生の方法」として念仏行をかなり重視しています。しかし、ここが大事なところですが、さきほども書いておいたように、念仏とは広く「仏を念ずる」ということであって、源信はこの時点では心で仏を観想することを勧めているのです。したがって、源信のいう名号を唱える称名念仏はあくまで念仏一般の補助手段であり、中心にあるのはあくまで「観仏」なのです。心に念ずる観想を基本においた「観勝称劣」なのです。
そもそも比叡山の天台法華門では、『摩訶止観』に説かれた四種三昧のうちの常行三昧の規則から導きだされた念仏行がおこなわれていました。これは「観仏」です。だから常行三昧堂が都の各所にもいろいろ作られ、阿弥陀仏や観音像がたくさん造仏された。京都に定朝様式の阿弥陀さんが多いのは、そのせいです。
しかしそこには浄土観がいささか欠けていた。
そこで源信は、中国浄土教の道綽(どうしゃく)や善導の経文を参照して、浄土的な「念仏為本」の思想をとりこんだのです。
善導には『往生礼讚』というテキストがあるんです。これが日本では時ならぬ極楽往生ブームと、地獄についての多様な妄想を生んだ。時ならぬというのは、折からの末法到来の噂が広まっていたからでした。
周知のように、永承7年(1052)には末法の世が始まっていたのです。それも藤原文化の絶頂の直後から始まった。
この末法元年にあたる年については、藤原資房が日記『春記』に「長谷寺すでに以て焼亡し了んぬ、末法の最年、此の事あり」としるしています。
慈円も『愚管抄』(624夜)に「末代悪世、武士ガ世ニナリハテテ末法ニモイリニタレバ」と書いている。
ようするに往生思想の流行も念仏思想の地獄妄想の流行も、すべては末法到来の噂が広まったことに発していたわけでした。これはあきらかに終末論です。ただ、この終末論はキリスト教のものとはかなり違っていて、一種の“衰退史観”のようなものになっている。
「三時説」というもので、ブッダ入滅から1000年は正法の時代で、ここには「教・行・証」が揃っている。そのあと、ブッダの教えを学ぶ修行者が続出する像法の時代が1000年間続くのですが、なかなか「証」が得られない。さらに末法となると、もとの教えは残っているものの、本気で修行する者はしだいに少なくなり、仏教そのものの力も衰えて社会が千々に乱れるというのです。
三時説によれば末法も1000年続くのですから、べつだん焦らなくともよさそうですが、終末論というのはそうはいきません。それが提示されたとたんに不安が蔓延(はびこ)っていく。終末論がもたらすのは「類の死」ですから、人々の意識の内奥を打撃するのです。しかも社会は仏教の本来を失って、しだいに衰退していくという。これでは聞きづてなりません。
そこで源信の『往生要集』がさかんに読まれ、貴族たちの多くが極楽往生を祈念するようになったという順序です。
では、このような『往生要集』から法然は何を学んだかというと、基本的な往生論と念仏論はすべてマスターするのですが、どうもこれだけでは足りないと感じた。なぜなら、世の中はあいかわらずかなり乱れていたからです。いや、もっとひどくなっていた。
末法元年(永承7年)からすでに100年ほどがたっているにもかかわらず、日本列島を東へ西へ、陸奥へ西海へ騒擾させた源平争乱のさなか、社会状況はますます悪化するばかりなのです。保元の乱・養和の飢饉・平家滅亡というような予測もつかない大混乱が連続し、そこに飢餓が広がっていった。
つまり「死」の拡張です。タナトスの氾濫です。五条の橋の付近には飢えにたえかねて、あさましくも捨てられた子供の生肉を食べている者もいたといいます。『方丈記』(42夜)には「世の人、皆飢え死にければ、日を経つつ極まりゆくさま、少水の魚のたとえに叶えり」とあるほどです。
どうも何かが足りない。24歳になっていた法然はいったん下山して、求法のために都の各所を尋ね、嵯峨清涼寺の釈迦堂に参籠し、南都に学匠たちを訪ねます。こんな死のブームがおこるような末法の世では、何かにすがるしかないのですから、きっとどこかに解決方法があるはずなのです。それを確めにいった。が、けれども、南都や叡山が管轄する仏教の教説はあまりにも難解で、そのどこに救いがあるかはわからない。
こうして法然はいろいろテキストをあたります。本を読むのは少年のころからずっと大好きなのです。あれこれ読んでいると、なかでも永観の『往生拾因』にピンときた。京都の人は知っているでしょうが、永観堂の永観です。正式には禅林寺といって、浄土宗西谷派のセンターでした。で、その永観の『住生拾因』に「一心専念」という一節があって、善導の『観経疎』の「散善義」について説明をしていました。一心に阿弥陀仏の名を念ずれば必ず往生できるとあって、その念仏は「もし口称せば即ち一心に専ら彼の仏を称し、もし供養せば即ち一心に専ら讚歎す」というふうに説明されている。ここでは源信とちがって、口称念仏を仏の願いにダイレクトにつなげているのです。
法然はハッとする。しかし孫引きでは、まだ納得できません。法然は善導の原本テキストをさがします。こうして、南都の学匠たちへのインタヴューから戻った法然は、宇治平等院の経蔵で『観経疎』のテキストに出会うのです。
法然は善導の『観経疎』でついに決断します。その「散善義」には、阿弥陀仏の第十八願にしたがって称名念仏すれば百即百生、誰だって往生できるというふうに書いてあったのです。
法然は狂喜した。そのことを『選択本願念仏集』には、次のように書いています、「静かに以(おもん)みれば、善導の観経疎は、これ西方の指南、行者の目足(もくそく)なり。しかれば即ち西方の行人、必ずすべからく珍敬すべし。(中略)ここにおいて貧道、昔この典を披閲して、ほぼ素意を識る。たちどころに余行を舎(とど)めて、ここに念仏に帰す」と。
この「念仏に帰す」という決断が「選択」(せんじゃく・せんちゃく)です。法然の選択であって、阿弥陀仏が選択した本願念仏という選択です。ちなみに「選択」という用語は、浄土宗のほうでは「せんちゃく」と読み、親鸞の浄土真宗では「せんじゃく」と読むのでややこしいのですが、まあ、どちらでもかまいません
これはどういう時代だったのか。清盛が太政大臣として権勢をほしいままにしていた時期で、後白河法皇すら幽閉されてしまったような時代です。まだ頼朝が鎌倉開府をしていない時期ですから、いったい武士や武門というものがどういうものか、さっぱりわからなかった。奇怪で、混沌たる時代です。たとえば1990年代、イスラム過激派がニュースに登場してきたころ、そのことがいったい何をもたらすのか欧米諸国が見当もつかなかったようなものです。日本における武門の登場とは、それほど予測不能のものだったのです。
だから京都が急激に荒れてきた理由も、いったい何がおこりつつあるのかわからないのですが、そういう都の片隅で、法然は善導の『観経疎』(かんぎょうしょ)を初読・二読しているうちにしだいに、何かが法然の胸中に蠢き、ついに三読目に忽然としたようです。所伝にはそう書いてあります。
たんに念仏仏教に走ったのではありません。考えに考えて「絶対他力の称名念仏」によってしか日本人は救えないというふうに確信したのです。つまりは「他力本願」ということに気がついた。もっとも、そこまで決断が進むのはやっと50歳前後のころで、そのときは今度は平重衡が東大寺を焼き打ちし、木曽義仲が都に乱入していました。もっと世間は乱暴になり、自由狼藉が横行していたのです。
が、これこそが法然の「選択」(せんじゃく・せんちゃく)というものでした。まさに日本の時世が異様に混乱する真ッ只中のことです。こうして「大原問答」に至ったわけです。
■大原問答
激しい議論が闘わされたようです。それは「聖道門」と「浄土門」との激突、「漸教」(じっくり悟る)と「頓教」(速やかに悟る)との優劣を争う議論でした。そこで法然は、おおむね次のようなことを言ったのだろうと思います。
聖道門や漸教がすばらしいことは言うまでもない。しかし、私のような愚かな凡夫が、その理論やその修行やその勤行に耐えて悟りをひらくのには、とうてい無理がある。そういう私には聖道門では、きっと成仏も叶うまい。むしろ「乱想の凡夫」が報土に生まれうるということに思いを致してほしい。その報土は阿弥陀仏がかつて法蔵比丘であったころに誓った本願にもとづいていた。だからその報土はそのまま極楽浄土でもあるはずである。
しかしこの浄土は、「いま、ただいま」を弥陀の本願に託し、自身は念仏に専心することによって成就する。なぜなら、阿弥陀仏とはそのことをこそ本願として、この世にわれわれを導いたからにほかならない。みなさん、ぜひともそのように思っていただきたい。
法然の言説はすこぶる説得力があったようです。質問をした者たちもみんな聞きいった。自分は正真正銘の「乱想の凡夫」であるがゆえに念仏に専修できると諄々と説いたのが、功を奏したんでしょう。これは法然が謙(へりくだ)ったのではなくて、痛哭の自己限定をしたということです。ぼくはそのように見ています。それを当時の碩学や知識人にぶつけた。
ここに、このとき(!)、日本仏教史はまったく新たな転換を見たのです。もしも法然の映画をつくるなら、ぼくはこの大原問答のロングショットの場面から始めたい。

大原問答の様子
法然の法談に感極まって涙する僧や、
堂内をうかがおうと身を乗り出す僧など、
( 法然上人絵伝より)
聖道門から浄土門へ。観念から称念へ。観仏から念仏へ。
凡入報土の可能性、称名念仏(専修念仏)の可能性。絶対他力の可能性。阿弥陀一仏信仰の可能性。 女人往生の可能性。そして逆修(げきしゅ)の可能性。それらの開示。
これが法然によって初めてもたらされた、法然の、法然による、法然だけが果たしえた革命的転換のキーワードだったと思います。かいつまめばせいぜいこの程度の、しかしながらかなり決定的なキーワードに集約できる法然の驚くべき宗教的革命性については、けれども今日の宗教学や歴史学はまだ十分な認識をもってはいないようです。
いったい「称名念仏」とは何なのでしょうか。397夜にも書いたように、私の母も蒲団に入ると、必ず「ナンマイダ、ナンマイダ」を呟いていた。ときには、「ああ、極楽、極楽」とも言っていました。しかしそれにしても、なぜたんに「南無阿弥陀仏」を唱えることだけで浄土が約束されるのでしょうか。
これは、あまりにも単純な発想であり、安易な勤行ではないかとも見えます。実際にも仏教界では、このような方法を「難行」に別して「易行」(いぎょう)ともいいます。曇親の『往生論註』などの分類です。
だいたい「南無阿弥陀仏」にあたる用語経典はサンスクリット文献にはまったく出てこないし、この漢字6文字を名号(みょうごう)とするように示唆している漢訳経典をさがしても、『観無量寿経』にわずか2箇所出てくるだけなのです。
そこには「声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せいむ。仏名を称するがゆえに、念々の中に八十億劫の生死の罪を除く」というように、たしかに口称念仏を重視はしているですが、そのことが宗旨の基本になるようなことなど、何も説明はしてはいない。それに、本来、念仏とは「観念の念仏」のこと、あるいは「観念=念仏のこと」で、いろいろな仏のイメージを思い浮かべることだったわけで、口に名号などを唱えるのは、そういう多種の念仏のうちのひとつにすぎなかったのです。
それなのに法然はなぜ「称名念仏」にのみ着目し、それを「専修念仏」にまでもっていったのか。すぐに理由が思いつきません。
実はぼくは、長らく法然の先駆的確信が奈辺にあるのか、まったく理解してはいなかったのです。だいたい法然を読んでいなかった。
それはぼくが鎌倉新仏教に接するに、ご他聞にもれず存在論や認識論をもって親鸞(397夜)や道元(988夜)に関心をもち、あるいは明恵や大日能忍や日蓮に関心をもち、それらの挙(こぞ)って過激な言語的宗教性に感応したため、ついつい法然をほったらかしにしていたせいでもあります。
法然って、おとなしいのかと思っていたわけです。なんだかぼくを刺激してくれそうではなかったのです。つまりオントロジックな関心やエクリチュールっぽい関心では、法然を読むということがひっかかってこないのです。まあ、ぼくだけのことだったのかもしれませんが。
それがそのうち、ひょっとして法然こそが根底的な転換をはたしたのではないか、その日本仏教の転換についての決定的な、つまりは頑固一徹な確信が、鎌倉新仏教の各派各祖をゆさぶったのではないかと思うようになり、ちょっと坐りなおすことにした。それで、まずは『選択本願念仏集』を読み、ついでは法然のさまざまな言説や消息を収めた『和語燈録』を拾い読みし、また『法然上人行状絵図』などを見るようになって、そしてさらには中国の善導などの教説などを確認するようになって、だんだん法然を考えるようになったのでした。
ここでいささかふりかえってみると、原勝郎さんが1929年に『東西の宗教改革』を著して以来というもの、鎌倉新仏教とヨーロッパの宗教改革をくらべることがずっと流行していました。
その場合は、たいてい判で押したように親鸞とルターとが比較されていた。ぼくもてっきりそう思っていた。しかし法然を読み、親鸞を感じようとしていると、ルターに比較されるべきはかえって法然房源空のほうであって、親鸞に比較されるべきはむしろカルヴァンなのです。
が、意外なことに、そういう法然の革命性を本格的に語る思想者たちが少なかったのです。海外でも同様で、翻訳が多いのもやっぱり親鸞のほうで、法然はずっと忘れられてきた。あいかわらず鎌倉新仏教の議論では親鸞・道元・日蓮か、そうでなければ明恵や一遍に強い関心が向けられてきたのです。鎌倉新仏教に「日本的精霊」を発見した鈴木大拙(887夜)ですら、そういう見方をしていた。
むろんのこと浄土宗の宗派やその周辺ではずっと法然は熱く語られてきましたし、たとえば生身の親鸞を描いて話題になった『出家とその弟子』で話題をまいた倉田百三は、早くに『法然と親鸞の信仰』(講談社学術文庫)を書いています。もちろんすぐれた研究者もいました。田村圓澄さんや大橋俊雄(しゅんのう)さんがその代表でしょうか。とくに大橋さんは一貫して法然を研究し、ほぼ一人で法然をめぐる浄土思想と念仏思想の渉猟をくまなく踏査しています。
法然のテキストも読もうと思えば、読めたはずです。ぼくの読書史でいうなら、なかでも中央公論社の「日本の名著」に『法然』の単独巻(明恵も入っている)が入ったのが画期的で、『選択本願念仏集』と『和語燈録』をまるごと現代語に訳してありました。塚本善隆さんの解説編集でした。
だからこういうものは少しは読んでいたのですが、けれども、だからといって法然が日本仏教史や日本思想史の中央ステージに躍り出ることは、めったになかったのです。
それがぼくの印象でいえば、1987年にNHKのディレクター出身の阿満利麿さんが『法然の衝撃』(人文書院・ちくま学芸文庫)を発表してからあたりでしょうか、じょじょに変化がおきてきた。阿満さんはこの本で、法然の本願念仏は「死者の冥福」を祈るためのものではなく、「普遍宗教がもつ救済原理」を「死」の本質を見据えて根本的に提唱していることを強調していました。これで風向きが変わってきたのではないか。折しも春秋社も『法然全集』全3巻を揃えました。
それから10年ほどすると、新しい風が法然に向かっていることがだんだんはっきりしてきます。一部の思想界で、法然こそ革命的な宗教者だった、真のアヴァンギャルドだったというふうになってきた。とくに仏教界のアウトサイダーで、プリンストン大学で日本仏教を教えていた町田宗鳳さんが、『法然』(法蔵館)と『法然対明恵』(講談社選書メチエ)を連打したのが大きかったかもしれない。町田さんは禅の修行をしてから大学教授になったという変り種で、ぼくも何度か対談をしてきた仏教コスモポリタンです。『法然対明恵』が書店に並んだときは中村雄二郎さん(792夜)が、彼はいいねえと注目していた。他の著書を読むとちょっと横着なところもあるのですが、法然論はかなり本格的でした。
まあ、このことは別のところでちゃんと議論してみたいと思います。今夜のことでいえば、ぼくがあらためて思うには、あえて自身を「乱想の凡夫」に断固として立たせたところが、やはり法然の図抜けて秀抜なところで、かつその後の編集透過力(スクリーニング力)を富ませたところだったということです。ただ、そこに流れているものとは何なのかといえば、まだまだいろいろなことを言いたい気がします。
ところで、途中に紹介した『法然の衝撃』の阿満利麿さんは、法然の革命性を日本における初めての「宗教的価値の絶対化」だったと見ました。また、町田宗鳳さんは日本仏教が現世的な「生の宗教」から、初めて本格的な「死の宗教」に向かって革命的な転換をはかったと見ていました。
このような「死」をめぐって日本仏教を考えるという見方は、途中にも一言ふれておいたのですが、最近の末木文美士さんの日本仏教史にも顕著な見方です。いっとき日本の仏教は“葬式仏教”だというふうに批判にさらされていたのですが、どうももう一度そこを考えなければ、何も始まらないのではないかというのです。
そのへんのことも、またどこかで書きたいと思います。今夜は、まだ寝るまでに時間があれば(あまり眠くならないようであれば)、かねて頼まれていた町田康君(725夜)の小説『浄土』の文庫化のための解説締切りがもうすぎているので、そちらにかかろうかと思います。実はさっきから、『浄土』のあやしい場面がちらちら出入りもしていたのです。うまく書けるかどうかは、わかりません。では、今夜は南無阿弥陀仏、ナムアミダブ、ナムアミダブ‥‥‥
出典:サブタイトル/法然 選択本願念仏集~松岡正剛の千夜千冊より転記~
<参考情報>
◆浄土教
・一部の大乗教徒は
⇒現世を穢土(えど)であるとして、彼岸の世界に浄土求めた。
⇒阿閦仏(あしゅくぶつ)の浄土たる東方の妙喜国、弥勒菩薩の浄土である上方の兜率天(とそつてん)などが考えられ、
⇒これらの諸仏を信仰することによって来世にはそこに生まれことができると信じていたのである。
⇒後世もっとも影響が大きかったのは阿弥陀仏の浄土である極楽世界の観念である。
⇒阿弥陀仏の信仰は当時の民衆の間に行われ、諸大乗経典の中に現れているが、とくに主要なものは次の浄土三部教である。
⇒『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』二巻 漕魏、康僧鎧(こうそうがい)訳
⇒『仏説観無量寿経』一巻 宗、畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)訳
⇒『仏説阿弥陀経』一巻、後秦、鳩摩羅什(くまらじゅう:クマーラジーヴァ)訳
・浄土経典は
⇒五濁悪世(ごじょくあくせ)の衆生のために釈尊が阿弥陀仏による救いを説いた経典であるということを標榜している。
⇒阿弥陀仏とは原語音訳の省略であって、その意味を訳して無量寿仏(mitāyus:アミターユス)または無量光仏(Amitābha:アミターバ)という。
⇒阿弥陀仏は過去世には法蔵比丘という修行者であったが、
⇒衆生済度の誓願(四十八願)を起こして、長者・居士・国王・諸天などとなって無数の衆生を教化し諸仏を供養して、ついにさとりを開いた。
⇒この世界から西方に向かって
⇒十万億の仏国土を過ぎたところに極楽浄土があり、かの仏は現にそこにまいまして法を説いている。
⇒そこには身心の苦がなく、七宝より成る蓮池がり、美しい鳥の鳴声が聞え、天の音楽が奏せられている。
⇒阿弥陀仏に心から帰依する者は、その極楽世界に生まれることができる。
⇒この仏が過去世に修行者であったときに立てた四十八の願のうちの第十八願に、
⇒「もしわれ(未来の世に)仏となることを得んに、十万の衆生が至心に信じねがって、わが国に生まれんと欲し、乃至十たび念ずるも、もし(わが国に)生ぜずんば、われは正覚(しょうがく)を取らじ(仏とはならず)」と誓ったが、
⇒いまや仏となりたもうたから、仏を念ずる人は必ず救われるはずであるというのである。
⇒善男子(ぜんなんし)あるいは善女人(ぜんにょにん)が無量寿仏の名号を聴聞し、心に念ずるならば、その人の臨終に当たって無量寿仏は声聞および菩薩の聖衆(しょうじゅ)をつれてかれの前に立つ(来迎)。
⇒そこで現世の意義が後代の浄土教では大いに問題となるが、
⇒すでに経典の中で六度の実践が強調されている。
注)浄土教における六度の実践の特徴
浄土教では、特に阿弥陀仏への信仰と念仏の唱和が中心となる。以下に、浄土教の文脈における六度の実践について説明する。
- 布施:物質的な布施に加えて、念仏を通じて他者への精神的な支援を行うことが重視される。
- 持戒:浄土教でも戒律を守ることは重要ですが、特に念仏を日々の生活の中で実践し、他者とともに阿弥陀仏の浄土を目指すことが強調されている。
- 忍辱:他者に対する寛容と慈悲の心を持ち、困難な状況でも念仏を唱え続けることが強調される。
- 精進:念仏の実践を絶え間なく続けることが、浄土教の修行者にとっての精進となる。
- 禅定:瞑想や集中は重要ですが、浄土教では念仏そのものが瞑想行為としての役割を果たす。
- 智慧:阿弥陀仏の誓願と浄土の教えを深く理解し、信仰を通じて智慧を得ることが目指される。
浄土教の六度の実践は、阿弥陀仏の慈悲と誓願に基づき、信仰と念仏を中心に据えた修行法。これにより、修行者は自らの浄土への往生を確信し、他者にもその道を示すことができる。
出典:サブタイトル/龍樹と世親:森山清徹著転記~戯論(概念化)寂滅(縁起=空)&浄土教思想~
七、道綽と末法思想
中国浄土思想に一つの潮流を作った曇鸞は、『浄土論註』冒頭において難易二道の判別根拠として「五濁の世・無仏の時」という時代の問題を劈頭(へきとう)に挙げている。
これは典拠である『十住毘婆沙論』には全く見られなかった問題意識であり、また世親の『浄土論』にもこのような内容が指摘されているということはない。
<参考情報>
■世親の『往生論』の体系
『往生論』においては、五念門及び五門として表され、特に五門において菩薩の達成する利他行としての阿弥陀仏国へのあらゆる衆生の救済を目指す修行法である。この菩薩の到達した五門の意義は菩薩の利他行一般ではなく、人力ではなす術のない如何ともし難い他者の究極的な救済を目指す点にある。それは阿弥陀仏(法蔵菩薩)の本願による以外には達成できないものである。
一方、大乗の瑜伽行派(唯識派)の修行法(五道)には直接的には利他行の完成としての、あらゆる衆生の救済は説かれていない。それは阿弥陀仏への帰依を根本に据えているか否かにあると考えられる。
しかし、『往生論』と世親の著した唯識論書における思想との共通性を見出すとすれば、それは他者の救済の実現を目指す善巧方便廻向という点においてであると考えられる。すなわち、
「方便」とは、他者を思い遣り自己の利益に執着する心を離れ分け隔てなく衆生を救済する方法である。
「廻向」とは、自ら修した善行を他者が安楽世界に生まれることのために差し向けることである。
ここにいう他者とは、単なる他の人というのではなく短命で、多病で、事故で、戦火で、自然災害で、この世を去った人々、虐待でこの世を去った子供達のことである。その後、多くの世間の人々から忘れ去られた人々や子供達である。善行を積む間もなかった人々、他の衆生の救いは、どうなってしまうのか。
彼らの救済は、どういう方法であり得るのか。そこに菩薩の誓願(本願)の端緒があると考えられる。その救済の手だてが方便と廻向とである。
五念門の行法に続いて菩薩の利他、方便、廻向を表わす前に、浄土が願われ描写されるのは、あらゆる衆生(三悪趣を含む)の救済があり得るのは、菩薩の誓願(本願)が達成された阿弥陀仏の安楽国でしかあり得ないからであると考えられる。ここに、龍樹が、世親が浄土教思想を表わそうとした必然性があったと考えられる。
(下図:2026年1月2日 興福寺 北円堂 外から参拝/2025年11月 東京国立博物館 運慶展 見学)

出典:サブタイトル/法然 選択本願念仏集~松岡正剛の千夜千冊より転記~
浄土思想が時代意識と明確に結びついたことは、
実に中国における展開なのである。
そして、この時代という問題を、教相判釈として思想的に位置づけた人物が道綽であった。
即ち、『安楽集』第三大門における、
當今は末法にして、現に是れ五濁悪世なり、唯浄土の一門ありて、通入すべき路なり。
(『真聖全』一・四一〇頁)
という文がそれである。釈尊を去ること久しい末法・五濁悪世という時代状況において、聖道の仏教は証し難く、凡夫は時機相応の教として浄土を求めるべきことを勧めるのである。
しかし一見するとこの考えは、問題は全て末法という時代のせいにしてしまって、無疑問的に浄土を求めればいいといった、現実逃避の理論に聞こえてしまうかもしれない。
果たして道綽の真意はどのようなものであったのだろうか。
『安楽集』において末法が問題とされるのは、主として、第一大門の第一、教興の所由を明かす箇所と、第三大門第三の衆生の輪廻無窮を明かす箇所である。
この二箇所では、どちらも末法における衆生の根機をもとに聖浄二門の判別が行われているのだが、論点が少し異なっている。
第一大門では、
釈尊を遠く離れた時代において仏道を修する者は、時機相応の行として、阿弥陀仏の名を称えるべき旨が述べられている。
そしてその理由として道綽は、
まことに衆生、聖を去ること遙遠にして、機解浮浅暗鈍なるに由るが故なり。ここをもつて韋提大士、自らおよび末世の五濁の衆生の輪廻多劫にして徒に痛焼を受くるを哀愍するが故に、能く仮に苦の縁に遇ひて出路を諮開すること豁然たり。大聖慈を加へ極楽に勧帰せしむ。
(『真聖全』一・三七九)
と述べている。ここでは『観経』をもとに、末法時の衆生の在り方が韋提希の要請を通して、浄土教興起の機縁となっていることが明かされる。
そして、もう一方の第三大門の方には、
當今は末法にして、現に是れ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみ有りて、通入すべき路なり。この故に『大経』に云く、若し衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続して我が名字を称せんに、若し生れざれば正覚を取らじ
(『真聖全』一・四一〇)
とある。こちらでは、末法時の衆生が浄土一門において仏道を求めるべき理由について、道綽取意による『大無量寿経』の本願が掲げられている。
つまり第一大門では、『観経』の教説を通じ、浄土教興起の機縁として末法という時代が捉えられており、
第三大門では、その末法時の衆生が浄土に依るべき根本的な理由として『大無量寿経』の願文が掲げられている。
このことから、浄土教とは、末法という時代の問題を機縁とすることによって開かれる教説であり、その浄土の本質は本願にこそあるとするのが道綽の思想的立場であったと考えられる。
ここに本願を基軸とした末法への大きな思想転換がみられる。
末法は、本願を立脚地とすることによって、単に年表的に時代状況を示す概念ではなく、時代の問題を通じて自己を批判的に見つめる眼を生み出すのである。
深く時を知ることは、深く自己を知ることと別ではない。
浄土教興起の必然性は、
この時と機の自覚されたところに起こり得る。
本願との値遇にこそあると言えるだろう。
ところで、親鸞において、
本師道綽大師は 涅槃の広業さしおきて 本願他力をたのみつつ 五濁の群生すすめしむ
(『真宗聖典』四九四頁)
と讃じられているように、もともと道綽は『涅槃経』の講者であった。
『続高僧伝』には、
大涅槃部偏所弘傳。講二十四遍。晩事瓉禪師。修渉空理亟沾徽績。
(『大正蔵』五〇・五九三c)
とあるように、かつては『涅槃経』を弘く伝えて、二十四回にわたって講を開き、その後は慧瓉の下に弟子入りし、空理を学んでいたという。
しかし、道綽は『安楽集』第三大門においてこのような問いを立てている。
又問て曰く、一切衆生皆佛性有り。遠劫より以來應に多佛に値ふべし、何に因てか今に至るまで仍自ら生死に輪廻して火宅を出でざるや。
(『真聖全』一・四一〇)
一切衆生にはみな仏性があると言われているのに、
衆生が今に至るまで迷いの世界の輪廻を免れ得ないのは何故なのか。
この自問はまさに「一切衆生悉有仏性」という『涅槃経』の課題が、
道綽自身の現実において間に合わなくなってしまっていたことを吐露している。
そして『安楽集』において、この問いに答えるものこそが、
前に尋ねた末法における聖浄二門の教判なのである。
道綽の生きていた時代は、
まさに中国の一大変革期である。
北周の侵攻とそれに伴う未曾有の廃仏危機、そして、南北の統一と隋帝国の誕生。その後も煬帝の圧政やそれに反乱する民衆の暴動、そして唐の建国。
目まぐるしく移り変わる時代状勢の渦中に道綽はその身を生き、一仏教者として苦悩していた。
事実、道綽の時代を見つめる眼は鋭い。
もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。
(『真聖全』一・四一〇項)
時代の中に、まさに暴風駛雨の如き人間の悪性を捉えていた道綽は、
是を以て、諸仏の大慈、浄土に勧帰せしめたまふ。たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精に常によく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、定んで往生を得ん。
(『真聖全』一・四一〇項)
とそこにこそ衆生が浄土を求めるべき必然性を見出したのである。
<参考情報:再掲示>
■シナ(中国)
◆普遍的国家とは
・民族の差異、時代の差異を超えて実現されるべき普遍的理法、または普遍的な使命が存在し、
⇒それを具現することに意義をもっていることを確信していた帝王の建設した国家をいう。
⇒それは決して、異民族を支配しようとする意図があったとかなかったとかいうことは無関係である。
⇒梁(りょう)の武帝(502年~549年統治)や、あるいはむしろ隋の文帝(581年~604年統治)がそれにあたるのではなかろうか、と考えられている。
・梁の武帝は
⇒菩薩開戒(ぼさつかい)を受けて皇帝菩薩を自称し、在俗のまま経を講じ、造寺や僧侶の育成につとめた。
⇒この姿は推古期の聖徳太子の態度に対応する。
・北朝の武帝(560年~578年統治)は
⇒廃仏も行ったが、みずから皇帝如来たることを自負して、仏教の国家管理を始めた(ヒンドゥー法典にも同様の特徴が見られる)。
⇒これは日本の律令時代における宗教の国家統制を思われる。
・南朝の陳では
⇒仏事法令による鎮護国家をめざした。
⇒これは日本の平安時代における仏教のありかたに対応する。
・とくに隋の文帝は
⇒廃仏と戦乱のあとをうけて、シナ全体を統一し、
⇒シナ仏教全盛時代の端緒を開いた。
⇒文帝はみずから「転輪聖王(てんりんじょうおう」と称し、敬虔な信徒であり、教団のパトロンであった。
注)隋の文帝:中国をおよそ300年ぶりに再統一した(589年には南朝の陳を滅ぼして中国を統一)初代皇帝で、彼の治世において律令制が整備された。
文帝は581年に「開皇律令」を公布し、これは高度に体系化された法典であり、律令の完成形とされた。
律令制は、刑法に相当する「律」と行政法や民事法に相当する「令」から成り立っている。文帝の律令制は、国家の統治体制を法的に整備し、均田制や租庸調制、府兵制などの精度を導入し、科挙制を創設した。これにより、中央集権的な国家運営が可能となり、隋の統治が安定した。
文帝の治世は「開皇の治」といわれ、後継の唐王朝からも評価された。
※開皇の治:有能な官僚を用いて内政に努める(政治の安定化)。

出典:https://sekainorekisi.com/world_history/%E9%9A%8B%E3%81%AE%E7%B5%B1%E4%B8%80/
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~②普遍的国家への建設と十七条憲法~中村元著より転記
このように道綽における末法とは、
単なる社会意識にとどどまるものではない。
また実体的に年数や状況を問うような質のものでもなかった。
時代の濁りを通じて、
そこに人間の機根を見定め、その悪性の自覚を促すところに、
道綽における末法という時代意識の本質があったのである。
また、そこにおいて必然的に、
浄土の教えと弥陀の本願が見出されることとなる。
つまり「ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」という教判は、
聖浄二門を比較した上で、
二者択一として浄土が選ばれるものではなく、
末法・五濁悪世の現実を生きざるを得ない者として、
自らの業が引き受けられたとき、そのとき唯一の道が浄土となる。
言うなれば末法という時代が、各人の悪性の自覚を潜って、浄土を要請するのである。
このような道綽の末法観は、
前に尋ねた末法成立史からみた思想的本質を見事に捉えている。
そして、このことは直弟子の善導において二種深信として自覚的に深化され、
国を越え、やがて法然、親鸞へと受け継がれていくのである。
日本においては主に社会的危機意識として受容されていた末法思想であったが、
本願念仏の系譜においては、
特に道綽・善導を介し、
機の自覚と密接に結びつく形で、
独自に展開されていたと言えるだろう。
<参考情報:再掲示>
■称名念仏:中国の善導大師(613年~681年)が称名念仏を中心として浄土思想を確立した。特に「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏を広め、浄土の荘厳を絵図にして教化し、庶民の教化に専念し、『観経疏』等の著作を通じて、浄土宗(法然上人:1133年~1212年)や浄土真宗(親鸞:1173年~1262年)に多大な影響を与えた。
浄土宗の開祖である法然上人が念仏(南無阿弥陀仏)を唱えることに意義を見出した出会い。
法然上人(1133年~1228年)は善導大師の主著『観無量寿義疏』を拝読し、阿弥陀如来に救われたとされている。
善導大師(613年~681年)は、中国の唐時代に活躍した高僧で、その教えは、南無阿弥陀仏(念仏)を唱えることで、生死を超えて浄土へ往生する道を示した。
法然上人は「専修念仏」という教えを広め、人々が「南無阿弥陀仏」を唱えることで死後に平等に浄土へ往生できると説いた。

上図出典:https://jodo.or.jp/jodoshu/lifetime/ 浄土宗 (善導大師の記述先:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記)
八、おわりに
以上、管見ながら、末法思想の日本的展開を通して、そこから末法思想の持つ思想的意義を確かめることを試みた。
前述したように、正像末の三時観とは、年数に異説はあるものの、全て釈尊の入滅から起算されるものであった。
故にそれはどこまでも釈尊を中心に据えた仏教史観であると言える。
釈尊在世の時代を仏教のピークと考えるならば、その時代から遠く離れる程、教えの効力もまた失われてくることとなるのは必然である。
しかし、一方で親鸞は『正像末和讃』において、
像末五濁の世となりて 釈迦の遺教かくれしむ 弥陀の悲願ひろまりて 念仏往生さかりなり
(『真宗聖典』五〇二頁)
と、釈尊の教説が見失われつつある末法五濁の時代において、
むしろ弥陀の悲願は広まっていくのだと述べるのである。
ここに三時観とは全く異なる体系を持つ仏教史観がある。
親鸞は『大無量寿経』を真実の教に見定め、釈尊の出世本懐を、
如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり
(『真宗聖典』二〇四頁)
と述懐している。これは、釈尊と共に始まり、釈尊の入滅と共に衰退していくような、
釈尊中心の仏教、すなわち「釈迦教」から
弥陀の本願を開説する教主としての新たな釈尊観を打ち出した
「二尊教」への転換を意味している。
言うなればそれは、死せる釈尊の威光から脱却し、
法の発見者としての釈尊を見出すことである。
「乃往過去久遠無量不可思議無央数劫」なる無限の諸仏の歴史の展開の中に、
釈尊出世の背景を見出すことである。
そして、この本願の仏教史観において、
末法とは、
自己の存在を根底から問い返す危機意識として内面化され、
本願値遇の契機としての思想的意義を持つのである。
故に本願念仏の思想に触れるものは、
この末法という時代を、
教理的な概念としてではなく、
各人において自覚的に体認されることが求められるのである。
そのためには、自らが生きる時代の現実を真摯に見つめていくことが何よりも重要となるだろう。
煩瑣な教学論理に埋没するのではなく、
時代と共に複雑化・多様化していく現代の問題に積極的に眼を向け、耳を傾け、
そこから自らを言い当てるような教えを聞き取っていくことこそが、
仏教の歴史的展開の中で、
この末法という思想が生み出されてきたことの本意にかなうものであると考えるのである。
<参考情報>
◆聖徳太子の著した『三経義疏』の中に正像の二時は記述されながらも、末法の語は未だ登場していない事などから窺える
出典:註(6)より:末法思想の日本的展開~親鸞仏教センター研究員:花園一実氏の研究論文を転記
<参考情報>
日本の古典というと「古事記」とか「日本書記」をいうが、まとめられたのは奈良時代になってからである。
聖徳太子が書いた「三経義疏」はそれ以前のもであるから、非常に古く、日本最古の古典である。
注)義疏とは:伝統的な中国文化において、経典の本文(または注釈を含む)の内容を詳細に解説した書物を指す。「義」は意義を示し、「疏」は疏通の意味。経義を疏通することを目的としている。
尚、「疏通」は、直訳すると「通じること」を意味する。一般的には、コミュニケーションや理解が円滑に行われることを指す。 例えば、人々が意見を交換し、理解し合うプロセスは疏通の一例。
・三つの経典の解説書
①勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏(ぎしよ)
②維摩経(ゆいまぎょう)義疏(ぎしよ)
③法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)
■勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏(ぎしよ)
・如来蔵:tathāgata-garbha:タターガタ・ガルバ
⇒聖徳太子は人間の現実を成立せしめる根底として「勝鬘経(しょうまんぎょう)」の説く「如来蔵」の概念を採用し想定していた。
⇒如来蔵は如来の母胎という意味である。
⇒生きとして生けるものは、いつかは如来すなわち仏となりうるものであるが、
⇒しかし煩悩の汚れにまつわられていて、仏となりうる本性が現れていない。
⇒だが仏となりうる可能性を否定することはできない。
⇒汚れにまつわられている状態のうちにある真実そのもの<在纒位(ざいでんい)の法身(ほつしん)>を「如来蔵」と呼ぶ。
⇒これは「勝鬘経(しょうまんぎょう)」その他の経典に説くところであるが、
⇒聖徳太子は、この概念を自分の思想の根幹にすえたのである。
注)勝鬘経(しょうまんぎょう):仏教における中期大乗仏教の経典であり、勝鬘とは国王の妃の名である勝鬘夫人という在家の女性信者が仏教の教えを説くのを釈尊が横で聞いて、「その通りだ、その通りだ」と言って承認されたという筋書きである。
一乗真実と如来蔵の法身が説かれている。
これも仏典として、世界の宗教史上においても珍しいことであり、在家の女性が教えを説いたものが経典として伝えられるというこは、歴史的事実であったかどうかわからないにしても驚くべきである。
・この概念が述べられている一節を原文の漢文の書き下し
⇒生死は即ち是れ顚倒(てんとう)なり、如来蔵即ち是れ真実なり。
⇒今ま一切衆生に皆な真実の性有(あ)るを明かす。
⇒もしこの性が無くんば、即ち一化便(すなわ)ち尽きて草木と殊ならず。
⇒この性が有るに由(よ)るが故に、相続し断ぜずして終(つい)に大明を得(とく)す。
⇒故に生死は如来蔵に依(よ)ると云う。
⇒この中の如来蔵は、
⇒もし理を正因と為(な)さば、皆な理を如来蔵と為し、
⇒若(も)し神明を正因と為(な)さば、皆な当(来)の果を如来蔵と為す。
・上記を現代語に直す
⇒「生死」というのは、真実を不真実と見る逆さまの見解たる顚倒(転倒)であり、
⇒「如来蔵」というのは、まさに真実そのものである。
⇒いまここでは、すべての生けるものたちはみな真実という本性をもっていることを明らかにしている。
⇒もしも人びとにこのような本性がなかったならば、
⇒人間としての迷いの生存がひとたび尽きてしまうと、草木となんら異なるところがないものになる。
⇒このような本性があるからこそ、それがずっとつづいて、ついには最高のさとりを得ることができるのである。
⇒だから「生死は如来蔵に依る」というのである。
⇒このうちの「如来蔵」というのは
⇒もしも普遍的な真理である道理そのものをさとりの正しい原因とするならば、
⇒すべてその道理自体が如来蔵であり、
⇒もしも人びとの心をさとりの正しい原因とするならば、
⇒その心によって報われた結果が如来蔵である。
・如来蔵の本体は仏そのものである。
⇒大乗仏教一般の見解によると、仏には三つの身体がある。
①法身(ほつしん:仏そのもの)。これはすがたや形をもたず、不可説である。
②報身(ほうじん:仏としての果報、すなわちあらゆる美徳を享受する身体)。これは円満な相好(そうごう)を具有する。
③応身(おうじん)または化身(けしん)。衆生を導くために仮にすがたを現した仏の身体。
⇒法身はいかなるはたらきをも起こすことなく、不可説であり、静止していて、仏の応身または化身が衆生を救うというはたらきをするのである。
・法身(ほつしん:仏そのもの)について、聖徳太子は次のようにいう
⇒法身そのものは生ずることはないが、しかしただ衆生を導こうと欲するがゆえに、やはり生を受けるすがたを現ずる。(勝鬘経義疏)
⇒法身そのものがはたらきを起こすのである。
⇒根源的なものは静止しているのではなくて、流動的なのである。
■維摩経(ゆいまぎょう)義疏(ぎしよ)
■維摩経(ゆいまぎょう):Vimala-kirti:ビィラマラ・キールティという長者(富貴の人)を主題とした経典である。
・ビィマラとは「穢れがない」、キールティとは「誉れ」という意味で、
⇒「穢れがなき誉れ」という意味で、その音を写して維摩という。
⇒「維摩経」のテーマはこうである。
⇒釈尊の弟子たちが維摩のところに行くと、いろいろ質問されてやっけられる。
⇒そして自分の至らぬことを悟らされる。
⇒最後に維摩が本当の教えを説く。
⇒そして、最後のぎりぎりの境地まで達すると、
⇒黙然無言(もくねんむごん)であったというのである。
⇒文殊菩薩は最高の真理というのは言葉では説かれないもので、「文字もなく説もなし」という。
⇒そして維摩さん、あなたはどう考えですかといって促すと、
⇒維摩はただじっと座って黙然無言であった。
⇒文殊は「言葉にはいえない」ということを言葉に出していってしました。
⇒ところが維摩は身をもって体現している。無言の行を行っている。
⇒「話してはいけない」といったとすると、これはも無言を破ってしまったことになる。
⇒維摩はこの無言を実践して、
⇒絶対の真理というものは概念化を超えたところにあるもので
⇒対立の彼方にあるということを表現しているのである。
・対立を超えたということになると
⇒世俗の世界の外に宗教があるとすると、もうそこに対立を認めたことになる。
⇒世俗と宗教、俗なるものと聖なるものと対することになる。
⇒対立していることにおいて、宗教的な聖なるものは絶体ではない。
⇒もしも本当の絶対であるならばすべてを含んだものでなければならない。
⇒すると宗教の真理の境地というものは世俗の彼方にあるものではなく、
⇒われわれが毎日起きて顔を洗い、ご飯をいただき、茶を喫し、歩いて出かける、
⇒この平凡な日常生活の中に偉大な真理があるわけで、
⇒それを超えたところに宗教の境地があると思ってはならない。
⇒だから、維摩居士は世俗の長者なのである。出家した僧ではない。
・普通であると、僧が信者に向かって教えを説くのであるが、
⇒「維摩経」のテーマはまったく逆である。
⇒その筋書は、世俗人である維摩が、
⇒出家者である僧たちに教えを説いて聞かせるということである。
⇒これは世俗の宗教、在家仏教の主張である。
⇒聖徳太子は、ここに思いを馳せた。
⇒聖徳太子の生涯を見ると、太子は出家した僧ではなく、あくまでも世俗の政治家として天皇を補佐したのである。
⇒その理論的根拠がここにある。
・十七条憲法における維摩経義疏との関係
⇒「維摩経義疏」のなかの「仏国品」の疏に、
⇒「万善これ浄土の因なることを明かす中に凡(およ)そ十七事あり」(万善がすべてさとりにいたる原因であることを明かすなかに十七の善行がる)とある一説に姉崎正治氏は注目し、
⇒この十七事と十七条の関係を強調して、聖徳太子が我が国に仏教の思想をひろめようとした意図の所産として、十七条を考えている。
◆「維摩経」
・(一説によると)紀元前二世紀から1世紀前半に成立を見た「般若経」の思想を受けてはぼ紀元後二世紀ごろまでにインドで成立した。
⇒この経典のサンスクリット語原文は他の典籍に引用されている断片のはかは散佚(さんいつ)して現存せず、
⇒外国語訳には漢訳三本(支謙(しけん)訳、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳、玄奘訳)、チベット訳一本(チョエニッルチム訳)が残っている。
⇒とくに鳩摩羅什の漢訳した「維摩詰所説経(ゆいまきっしょうせつきょう)」は名訳の誉れ高く、過去のシナ・日本の伝統的文化に大きな影響を与えた。
・「維摩経」の趣旨は、
⇒大乗仏教の精神を日常生活の中に生かすことを主張しており、戯曲的構成の妙をもって知られている。
⇒大乗仏教の根本思想である「空観」によると、
⇒輪廻(現実)と涅槃(理想)はなんら異なるものではないと教えている。
⇒理想の境界はわれわれの迷いの日常生活と離れては存在しなし、
⇒空の実践としての慈悲行は行動を通じて実現される。
⇒この立場が徹底されて、ついに出家生活を否定して、
⇒在家の世俗生活のうちに仏教の理想を実現しょとする宗教運動が起こったが、
⇒その所産の代表的経典が「維摩経」であり、「勝鬘経」なのである。
■法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)
■法華経とは、アジアの至る所で尊崇されている経典
⇒南アジアは伝統的保守的仏教の国、いわゆる小乗仏教(上座部仏教)の国であるから違うが、
⇒その他のネパール、チベット、蒙古、シナ、朝鮮、日本という国々では「法華経」は尊崇されている。
⇒聖徳太子から始まり、最澄、日蓮、今日のいわゆる新興宗教とつながっている。
注)「法華経」
- 成立と特徴:
- 大乗仏教の初期に成立した経典であり、法華経絶対主義、法華経至上主義が貫かれている。
- 28章から成り立っており、あらゆる仏教のエッセンスが凝縮されています。
- 名前の意味:
- 梵語での原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』で、「正しい・法・白蓮・経」という意味。
- 「白蓮華のように最も優れた正しい教え」とも訳される。
- 内容:
- 法華経は、人々が平等に成仏できるという新しい仏教思想を説いている。
- 菩薩(悟りへの修行者)や如来(悟りを得た人)の存在が描かれており、密教にも影響を与えた。
・これは何を頼りしているかというと
⇒ただひたすら「南無妙法蓮華経」を唱え、ここに日蓮の生命があると考えている。
⇒このように、「法華経」は現在に生きている教典である。
・聖徳太子(574年~622年)の「法華経」に対する捉え方
⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、
⇒「治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある。
⇒一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない。
⇒どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので、
⇒山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない。
⇒聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである。
⇒こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。
◆「法華経」
・「維摩経」とほぼ同時代の第一期大乗経典の成立期(1~2世紀)に成ったと推定されている。
⇒この経典は、サンスクリット語本・漢訳本・チベット語訳本のほか、さまざまな国語に翻訳され、
⇒仏教を信仰するアジア全域に流布されているが、とくにシナと日本では、絶大な尊崇を得た。
⇒シナでは鳩摩羅什の漢訳「妙法蓮華経」が著名だが、鳩摩羅什ととも経典翻訳に加わった道生(どうしょう)は、注釈書「妙法蓮華経疏」を著した。光宅寺法雲は道生の解釈をうけついで、「法華経義記」をしるしたが、
⇒隋代の天台智顗(ちぎ)にいたると、「法華経」を根幹として壮大な理論体系を作り上げられた。
⇒この天台法華哲学が最澄(767年~822年)によって日本にもたらされ、比叡山に日本天台宗が開かれた。
⇒叡山は日本における学問・真理探究の聖地となり、「法華経」を中心に代表的な仏教の諸思想を結集し、集約して、仏教哲学としていよいよ特性を発揮するようになった。
⇒これを天台本覚(ほんがく)思想と呼び、
⇒平安時代の宗教・思想のみならず、文学・絵画等、文化の各ジャンルに深い影響を及ぼした。
⇒鎌倉新仏教の祖師たちも、みな叡山で天台法華思想、本覚思想を学んだが、
⇒とりわけ日蓮と道元は「法華経」に強い関心をしめした。
⇒日蓮(1222年~1282年)は「法華経」の中の実践精神を重んじ、
⇒だび重なる弾圧と迫害を通じてしだいにその理想を実現するためには、
⇒世俗の政権との抗争をあえて辞せず、理想的世界の建設に力を注ぐようになる。
⇒日蓮にあっては「法華経」は世界観・人間観確立のための指針であるばかりなく、
⇒政治理念・政治的実践の方法論としても受けとめられるようになったといえよう。
⇒これは、後世の日蓮主義者にいたるまで見られる特徴である。
・一方、道元(1200年~1253年)は大著「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」を著したが、
⇒そこには経典としては「法華経」がもっとも多く引用されており、
⇒あたかも「法華経」の一大注釈書、ないしは法華理論の解説とも読みうる場合もある。
注)「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」:禅僧である道元が執筆した仏教思想書で、日本仏教史上で最高峰に位置し、難解さという点でも注目されている。
道元(曹洞宗の開祖)は、真理を正しく伝えたいという思いから、日本語かつ仮名で著述している。当時の仏教者の主著は漢文で書かれていた中で、異例の取組であった。
公安(禅問答)を中心に、禅の教えを詳細に説いており、悟りについて考える「現成公安」の巻
- 「現成」の意味:
- 「現成」は「悟りの実現」を意味する。
- つまり、悟りとは目の前に実現されていることを指す。
- 「公案」の意味:
- 「公案」は元々は中国の公文書を指す言葉。
- 禅宗では、「一人ひとりに与えられた禅の課題」として使われる。
- 修行者はこの課題を通じて悟りに近づこうとする。
- 「現成公案」の内容:
- この巻では、迷いや悟り、修行、生と死、仏と衆生など、すべての存在について説かれている。
- 仏法は相対的な区別から離れたものであり、悟りは自己と自然が一体であることを理解すること。
- 要約:
- 「現成公案」は、悟りを実現するための課題であり、自己と世界を理解するための鍵となる内容。
・法華経の経文では
⇒「常に座禅を好んで閏(しず)かなるところにあって、その心を修摂(しゅしょう)せよ」と一般に読み下されており、諸注釈書もそのように解釈している。
⇒ところが「法華義疏」では
⇒「常に座禅を好む小乗の禅師に親近するな。・・・その意味は、間違った(顚倒した)分別の心があるから、世の中を捨てて、かの山間に入り、常に座禅を好む」ことは、親近してはならない境に入れるべきである」としるされている。
⇒聖徳太子は、「聖」と「俗」を区別する考えはなく、
⇒世にあって仏教の理想の実現する道をくりかえし説いている。
⇒ここに聖徳太子の仏教の受容と普及における社会への積極的な姿勢を見ることができる。
■思想と行為の一致の立場に立つ聖徳太子
■聖徳太子の思想(私的感想:2項対立の解消(=否定化)する事で対等(日常性の意義)を見出す)
・善を実践するのに二つのしかたがある。
⇒なんらかの報いをもとめてなす善を「報善」という。
⇒これに対して、なにものをもとめることなく、ただなさねばならぬという意識をもってなす善を「習善」という。(勝鬘経義疏)
・行いはただ凡夫の行いであるが、説は凡夫の説でない
⇒ということがどうしてありえようか。
⇒またただ行いのみ舎利弗(しゃりほつ:シャーリプトラ。釈尊の十大弟子の一人)に属しているが、
⇒かたよった教えは舎利弗のものではないということがありえようか。(維摩経義疏)
⇒ところで「万善同帰」の教えによると
⇒人間の実行するいかなる善も、すべて同じく絶対の境地に帰着するというものである。
・聖徳太子によれば、
⇒本来聖人もなければ下愚もなく、すべて本来同一の仏子である。
⇒こういうふうに聖徳太子は世俗の道徳教をもって仏教の入門と見なした。
⇒「法華経義疏」のなかにも外道・邪教に言及してはいるが、それはインド伝来の表現法を用いたにすぎない。
⇒太子の外道・邪教は、老荘の学及び儒教を意味していない。また、「仏教」と「外道」との区別は存在しない。
⇒汝は「仏はわが師である」と考えているけども、
⇒仏は空であり、異教徒(外道)も空であるから、ともに一相であって、二つの別のものではない。
⇒ゆえに異教徒もまた汝の師である。
⇒もしも異教徒が汝の師でないならば、すべては空であって二つのものの対立がないということわりのゆえに、
⇒仏もまた汝の師ではないということになるのである。
・インドの仏教においては、出家・修行僧に施すことは、世俗の貧乏人に施すよりもはるかに功徳があると考えられていた。
⇒ところが聖徳太子はこの区別を否定していまった。かれはいう。
⇒「維摩経」の文章に「大なる幸福もなく、小さな幸福もない」というのは、
⇒絶対的真理の上から見ると、
⇒聖者に施すと大きな幸福を得、凡夫に施すと小さな幸福を得るというような区別がないということを明かすのである。
⇒このような区別を否認してしまうことのできる者には、
⇒福田(ふくでん)のはたらきがあるというべきである。
⇒ところが汝はそのようなことができない。どうして福田のはたらきがありえようか。(維摩経義疏)
⇒「益をなさず、損をもなさい」とは、絶対的立場から見ると、
⇒聖者に施してのちに福を得、凡夫に施して損を見るということのないことを明かしているのである。(維摩経義疏)
⇒また仏を敬うことも乞食の人を愛するのも、ともに等しい功徳があるという。
⇒この議論は、「聖」と「俗」との区別を消し去るものである。
⇒後世の日本仏教に見られる世俗化への動きが、ここに理論的に基礎づけられているのである。
■仏教受容の最初期の聖徳太子の立ち位置(認識)
■「勝鬘経」「維摩経」「法華経」の三教を選んで注釈(解説)した姿勢
・太子はいうまでもなく、摂政という最高政治に携わる世俗の人であり、
⇒人間が生きていくうえの倫理の指針として、
⇒また統治の根本原理として
⇒仏教を採択したのである。
⇒したがって仏教の理想は
⇒僧侶(出家)によって実現されるだけではなく、
⇒社会的な実践課題でなければならなかった。
・「維摩経」の「第三章 弟子」に注して、
⇒「山としてかくれなければならない山はなく、世として避けなければならない世はない。・・・
⇒汝らは、彼此といった差別の心から、世俗を捨てて山にかくれ、かえって身心を迷いの世界に現している」といい、
⇒仏教の実践は、
⇒世俗てき生活の中にあることを強調している。
⇒現実(世俗)に対する積極的な働きかけという日本仏教の特徴的性格は、
⇒すでに仏教受容の初期段階で胚胎(はいたい)していたのである。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記
<再掲示>
しかし、日本の場合においては、その様相は大きく異なって、
六世紀前半に百済から仏教が輸入されると、
仏教はそれまでの卜占祭祀を中心とする古神道と結びつき、
天皇の病平癒のために仏教が敬われ、
「護国三部経」によって、鎮護国家や除災招福が祈られるなど、国家守護の要として重用されてきた。
また、飛鳥時代には推古天皇の「仏法興隆の詔」や聖徳太子の「十七条憲法」など、早くから仏法中心の国家政策が進められてきたのである。
このように国家民衆と密接に関わる形で受容されてきたからこそ、仏教が時を経て衰滅していくという末法意識が芽生えたならば、それが国家の危機として認識され、社会問題として展開していった事は、ごく自然な流れだったのである。

<参考情報>
6世紀の半ば、仏教は欽明天皇の時代前後に中国や朝鮮半島からやってきた。日本人には「蕃神」(あだしくにのかみ)に見えた外来宗教である。それを受けた蘇我馬子や一部の豪族や仏師らは氏族仏教をプレゼンテーションした。
すぐさまそれなりの日本化をおこして、ひとつは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」に象徴されるややニヒルな信仰論に、もうひとつは大仏開眼や南都六宗に象徴される鎮護国家型の仏教になっていった。そこには北魏仏教・新羅仏教・隋唐仏教のフィルターがかかっていた。
大きな転換点のひとつは、聖武天皇が行基から菩薩戒を受け、鑑真を招聘して「仏門プロ」をつくることにしたことだ。本格的戒律の導入だ。これで六宗型(倶舎・成実・律・三論・法相・華厳)の奈良仏教が伽藍を並べて栄えたが、いくぶん大雑把になったり、道鏡の登場などで偏向したりもした。王法と仏法もくっつきすぎていた。
そのため最澄・空海による戒律と即身成仏思想と密教による革新がおこり、そこからは黒田俊雄(777夜)のいう「顕密体制」(顕教と密教のダブルスタンダード)が作動するようになるのだが、また専修念仏や鎌倉新仏教の動向が興っていったのだが、さあ、大筋、こんな説明でいいのかということが問われる。
出典:サブタイトル/インド仏教の日本文学への影~和歌、俳句を中心に~仏教思想研究家 植木 雅俊 転記
聖徳太子の言葉 に 、「世間は虚仮(こけ)なり」というのがあります。
世間とは、現象の世界です。それを「虚仮」、すなわち虚にして仮であると言っております。それと同様に諸法も虚であり仮であるということができます。
出典:サブタイトル/インド仏教の日本文学への影~和歌、俳句を中心に~仏教思想研究家 植木 雅俊 転記
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