■仏教の分裂

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html
注)クシャーナ朝のカニシカ1世(144年~171年):仏教の保護者としても知られ、彼の治世下でガンダーラ美術が発展し、初めて釈尊(ブッダ)の像、仏像がつくられた。

マウリヤ朝は、アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)の死後、急速に衰退。

紀元1世紀頃には、「クシャーナ朝(カニシカ王)」がインダス川流域を支配していた。
インダス川の上流域は、中央アジアとつながる東西交易の重要な拠点であった。
そのため、大乗仏教は、中央アジアを経て中国へ、そして、朝鮮半島、日本にまで伝わった。

出典:2022年7月14日 2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の11回目

出典:https://www.kawai-juku.ac.jp/spring/pdf/text201958-535673.pdf
仏教は、クシャーナ朝(カニシカ1世:144年~171年)でも保護された。
しかし、“出家した者のみが救われるという考えは、利己的である”という批判が出始める。
その考えのもとに生まれたのが、大乗仏教。
※インドの仏教学者龍樹(ナーガールジュナ:150 – 250 年頃):あらゆる存在は固定的な実体を持たず、空であると説く教えを確立。
・中観派(ちゅうがんは:龍樹を祖とする)は、
⇒縁起の法を重視し、
⇒あらゆるものは相互依存関係の中で変化し続けると説きます。
⇒このことから、固定的な実体や本質を認めない「空」の思想を体系化しました。
【大乗仏教のアウトライン】
大乗仏教は他者の救済と慈悲の実践を重視
- 目的:他者の救済を重視(利他行)。
- 修行方法:六波羅蜜の実践(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)。
- 広がり:中国、朝鮮、日本(北伝仏教)
<大乗仏教の特徴>
大乗仏教は、初期仏教(上座部仏教)とは異なり、より広範な救済を目指す教えとして発展した。
- 普遍的な救済:大乗仏教は、すべての生きとし生けるものの救済を目指します。出家者だけでなく、在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げています。
- 菩薩の道:菩薩(Bodhisattva)という概念が重要で、菩薩は自らの悟りを求めるだけでなく、他者の救済をも目指します。菩薩は修行を通じて他者を助けることを重視します。
- 空(くう)の教え:万物が本質的には無常であり、独立した永続的な自己を持たないことを指します。この「空」の概念は、大乗仏教の中心的な教義の一つです。
- 大乗経典:大乗仏教には独自の経典があり、代表的なものには『般若経』、『法華経』、『浄土三部経』、『華厳経』などがあります。
- 如来蔵思想:すべての衆生が仏性を持ち、修行を通じて仏となる可能性があるとする教えです。
- 地域的な広がり(北伝仏教):大乗仏教は、インド、中央アジア、中国、朝鮮、日本などの国々で広く信仰されている。
【上座部仏教のアウトライン】
上座部仏教は個人の修行と戒律の遵守を重視
- 目的: 個人の悟りを目指す(自利行)。
- 修行方法:戒律を厳格に守る。
- 広がり:スリランカや東南アジア(南伝仏教)

■空とは何でしょう? ―中観派(ちゅうがんは)の教えを学ぶ
出典:第16回 愛宕薬師フォーラム平成26年5月26日 別院真福寺/講師:東京大学教授 斎藤 明 先生
空についての五つの誤解
空とは何でしょう? 最初に、空についての代表的な五つの誤解をみることで、空を考えるきっかけにしたいと思います。
一つ目の誤解は、「空は非存在(無)を意味するから、ある種のニヒリズム(虚無主義)である」というものです。これは、空を何も存在しないことと誤解したうえでの批判です。
そして二つ目が、「それゆえ空の説は、伝統的な仏説のみならず、すべての言語習慣や倫理・道徳を無意味なものとする。だから、空では倫理も成り立たない」という批判です。これもまた、空を非存在と誤解したうえでの非難なのですが、実際にはむしろ逆で、空、つまりすべては固有の本質をもたず変化しうるという理解に立つときに、言語習慣も道徳も修行によって凡夫が仏になることも可能になるというのがナーガールジュナ(龍樹)の考えでした。
三番目の誤解は「初期仏教の中心的な思想が無我、非我であるのに対して、空の思想は大乗仏教において初めて登場した」というものです。
修行時代のゴータマは、生老病死という問題を根源的に克服できる道を求めたわけですが、縁起の道理を見抜いたときに、四苦を克服できるのはニルヴァーナ(涅槃)という境地であり、日常の経験を超越した自分が四苦を解決するのではないということを悟りました。そして、苦しみは過度に自分自身に執着することから生じるのであり、ニルヴァーナのために無我、非我を説きました。このように、お釈迦さまが説かれたのは無我ということであり、空という考えはお釈迦さまの時代にはなかったという誤解です。
縁起を悟ったブッダは、縁起にもとづき存在か非存在かという偏ったものの見方をしない「中道」を説き、それを根拠に「無我(心身の諸法は我をもたないこと)」「非我(心身の諸法は我でないこと)」を自覚することの重要性を語っていました。初期の仏教では、ここにいう無我の意味で空を説いています。
また、後にみるように無我を観想する三昧を「空三昧」と呼び、「無相三昧」「無願三昧」と並ぶ「三三昧」の一つとしてその重要性を強調していました。こうしてみると、空は大乗仏教になってから登場したわけではなく、ブッダの時代からすでにあった思想を、さらに敷衍して「諸法は固有・不変の本質をもたない」という意味で説いたという流れであることが分かると思います。
四番目は「空は無自性、つまりすべての事物が、それ自身の固有の本質を欠くことを意味する」というものです。一見すると正解のようにも聞こえますが、ただしこれは「空」という言葉の意味を述べているのであって、「空」という語が用いられたのは、「空でない」という誤解、つまり「事物には固有の本質がある」という錯覚が人びとにあるからだというのです。ただしポイントは、「空」という言葉の意味に尽きるのでなく、「空」という言葉で表現された「空そのもの」が探究され、体得されるべきである、というところにあります。このことは後に述べたいと思います。
最後の五番目の誤解は「空の思想は、唯識や如来蔵、仏性、本覚などの他の大乗思想と矛盾する」というものです。唯識説は、すべては識のみであるという思想で、識の存在を認める。如来蔵説はすべての有情(衆生)は如来の見えざる子(胎児)であると説き、仏性説によれば、すべての有情は仏の本性をもっているという。一方また、本覚思想はすべての有情は本来目覚めているという思想です。
空の説はこれらと矛盾するという批判ですが、これもまた誤解にもとづいています。これらの説は、煩悩に限定して空を説くなど、空の意味合いを微妙に変えるのですが、空の説そのものを否定することはありません。
空をめぐるこのような五つのポイントを念頭に置いたうえで、これからもう少し詳しく空についてみていきたいと思います。
空と空観の実践
空の語源はサンスクリット語のシューンヤで、「家に人がいない」とか「王国に王がいない」というような時に使われ、「期待される何かを欠いた」状態を示します。ですからシューンヤ自体は「空(から)の」「うつろな」「欠いている」「ない」「寂しい」などや、数学のゼロを意味します。この空を仏教では「AはBを欠いている」あるいは「AにはBがない」などと用いました。この場合のAには「諸法」が、Bには実体的な「自我(アートマン)」や実体的な「固有の本質」などが入ることになります。
空ということばの使われ方を歴史的に見ていきますと、初期仏教やその後のアビダルマ仏教の時代には禅定と結びついた実践的な意味合いが強調されます。例えば『スッタ・ニパータ』(1119)には「つねに心して自我に固執する見解をとり除き、世間を空と観察せよ。そうするなら死を乗り超えるであろう。」とあり、先ほどの三番目の誤解の箇所でみたように、「無我(非我)観」にもとづいて五蘊など自分を構成する要素、世間を構成する諸要素(諸法)が無我であると、空を観察することの重要性が説かれています。
やがて、自我と我所(自我の所有するもの)が空であると観察する「空三昧」、無常を知るために事物には固定した特徴がないことを観察する「無相三昧」、過度に期待することなく願い求めるものがないことを観察する無願三昧の、三つの瞑想を実践する「三三昧」が説かれるようになります。
『般若経』、ナーガールジュナの空
このような背景のもと、『般若経』は、実践徳目として智慧の完成(般若波羅蜜)の重要性を強調します。そしてブッダの悟りの本質もこの智慧の完成であるとし、智慧の完成を求める者すべてを菩薩と呼びました。そして菩薩は、悟りや涅槃をも含むあらゆるものに固定した特徴を見ることがなく、すべてに無執着であるとして、この無執着のあり方を「空」と呼びました。
『般若経』が智慧の完成とともに、無執着のあり方としての空を強調したのは、当時のインドで最有力の部派であった説一切有部が、諸法、すなわち心身の諸要素――ひろくは事物の構成要素――には固有・不変の本質がある、と解釈することへの強い批判があったからです。そしてこの『般若経』の空をより詳細に考察し、伝統部派による縁起解釈に対して、「縁起する、すなわち原因によって生じるものごとは固有の本質をもたない」という空の立場から改めて批判したのがナーガールジュナでした。
冒頭の四番目の誤解でみたように、空の立場からは、すべてのものは他に依存して生起するのだから、固有・不変の本質をもった存在、言いかえるなら固定的な存在としてあり続けることはない。氷と水の関係で考えてみますと、氷が水からできるのであれば、氷と水が別だとか同じだとか言うことはできません。そこには連続性もあり不連続性もあります。様態や働きによって名前も変わります。このように、氷と水は同じか別かという問いは、観点によって答えも違ってくるのです。これがブッダの本意であり、縁起の正しい捉え方なので、『般若経』の縁起(=空)解釈こそが本来のブッダの教えに直結しているのだと論じたのです。
概念(戯論)からの解放
また空の立場からは、ものごとは役割に応じて名前が変わるので、いま仮に「空」ということばで「ものごとは空である、すなわち固有の本質を持たない」と表現しているが、「空」という表現そのものが究極(=勝義)であるわけでもない、とも言います。つまり、本来は言語表現されえない、いいかえれば、概念によって間接的に指し示すことはできても、「空であること」は直接に体得されることが期待されるということです。とはいえ、ブッダの悟りであるその勝義的な真理(第一義諦)が人々に理解されるためには、「空」などの世間の言語表現が必要不可欠で、それを世俗真理(世俗諦)とも呼びました。
もとより、事物に固有の本質はないが、そこに固有の本質があるかのような錯覚はある。それが錯覚にすぎないこと気づかせるために、「空」という否定的な響きのある言葉が選びとられたとナーガールジュナは言います。ただし、空が正しく理解されるというのは、錯覚を錯覚であると気づくこと、それによって煩悩の根源に巣くう概念化(戯論)という心のはたらきから解放されることを意味しています。
ナーガールジュナによれば、このような理解こそがひとびとを煩悩から解放し、じつはそれこそがブッダ自身の本来の煩悩論にほかならないというのです。
(構成/智山教化センター)
■Google AI回答(中観派の教え)
AI による概要
■中観派は、
⇒大乗仏教における二大哲学学派の一つで、
⇒あらゆる存在は固定的な実体を持たず、空であると説く教えです。
この教えは、インドの仏教学者龍樹(ナーガールジュナ)によって確立され、彼の主著『中論』にまとめられました。
・中観派は、
⇒縁起の法を重視し、
⇒あらゆるものは相互依存関係の中で変化し続けると説きます。
⇒このことから、固定的な実体や本質を認めない「空」の思想を体系化しました。
【中観派の主な教えは以下の通りです】
・空(くう)の思想:あらゆる存在は固定的な実体を持たず、相互依存関係の中で変化し続けるため、空であると説きます。これは、縁起の法を根拠としています。
・縁起(えんぎ)の法:すべての現象は、他のものとの関係性によって生じ、変化し続けるという法則です。
・中道(ちゅうどう)の思想:存在するか、存在しないかという二つの极端に偏ることなく、中間の道を進むべきであると説きます。
・無自性(むじしょう)の思想:すべての存在は、固有の自己存在を持たないと説きます。
・二諦(にたい)の教え:世俗諦(現象界の相対的な真理)と勝義諦(空という絶対的な真理)の二つの真理を区別し、両者を統合的に理解することを説きます。
中観派の教えは、固定的な見方や偏った考え方を捨て、より広い視野で物事を捉えることを促します。
■空海の仏教総合学 その8 第七章 大乗の論理学を問う
出典:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-52.html エンサイクロメディア空海/空海論遊/長澤弘隆のページ
一、覚心不生住心(かくしんふしょうじゅうしん)
大乗のレベルの二番目、「出世間心」の第四段階で、具には中国・日本の三論宗、インドでは中観(ちゅうがん)派の中観思想である。
インドの初期大乗仏教を代表する論師の龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ)は、釈尊の「此あるが故に彼あり、此滅するが故に彼滅す」という縁起観(「此縁性(しえんしょう)縁起」)を敷衍し、「此」と「彼」を「生」と「滅」に、あるいは「常見」と「断見」に、あるいはまた「同一」と「別異」や、「来る」と「去る」にと、対立的な二項の概念に置き換えた。
そして、その対立的な二項は「片方がなければ別な片方もない」互いに依存する「相依相待(そうえそうたい)」の関係にあって、片方だけで自ら実在するものではないとした(「相依性(そうえしょう)縁起」)。
龍樹によれば、いかなる存在や事象もこの「相依性縁起」生のものであるから、それ自体で自ら生滅をしない「無自性」であり、対立的な二項に執著せず、二項のどちらでもない真ん中(中・中道)をとることが大乗の「空」の立場である。
唯識は、瞑想中に生じる認識世界での認識するもの(識)と認識されるもの(対象)の二項がともに自ら在る個体的な実在ではなく、「無自性」であって執著するべきではないと主張するが、龍樹は論理学的な方法で対立的な二項のどちらにも執著すべきでないことを明かした。
これは、小乗の「説一切有部」などが「諸法」を「実有」とし、「此れあるが故に彼あり、此れ滅するが故に彼滅す」の縁起観を実在論で固定化することへの批判であった。
「覚心不生住心(かくしんふしょうじゅうしん)」とは、唯識でも「依他起性」を言うように、いかなる存在や事象も生滅をくり返しているが、それは「此あるが故に彼あり、此滅するが故に彼滅す」で、「此」「彼」の対立的二項の相依相待の関係で生滅していて、存在や事象自らが独自に生滅しているのではない(「本不生」)、そのことを深く覚るのがこの心位である、という意味である。
二、中観思想の要諦
(一)中観派が所依とする三つの論書
中観派が所依とする論書に、中観思想のもとになった龍樹の『中論』(厳密には『根本中頌』)と『十二門論』、そして龍樹の弟子提婆(だいば、デーヴァ)の『百論』がある。これらを三論と言い、中国・日本ではインドの中観派を三論宗と言った。
(二)「八不(はっぷ)中道」
『中論』に説かれる中観思想で、具には「不生不滅」・「不常不断」・「不一不異」・「不来不去(ふこ)」で、いかなる存在や事象も「相依相待」の「相依性縁起」によって生滅するもので、みな「無自性」・「空」であるから、
①「自ら生じるのでもなく(不生)」(生滅の否定)
②「自ら滅するのでもなく(不滅)」(生滅の否定)
③「常住不滅なもの(「我」(アートマン))があるわけでもなく(不常)」(「常見」の否定)
④「滅すれば二度と生じないのでもなく(不断)」(「断見」の否定)
⑤「主体とその主体のはたらきは同一でもなく(不一)」(主体とそのはたらきの否定)
⑥「主体とその主体のはたらきは別異でもなく(不異)」(主体とそのはたらきの否定)
⑦「来るのでもなく(不来)」(運動・移動の否定)
⑧「去るのでもない(不去)」(運動・移動の否定)
のである。
この対立的な二項の両項を否定し真ん中を採る論理は、例えば「浄」と「不浄」、「長」と「短」、「業(ごう、カルマ)」と「作者」(宿業をつくる者)などによってのちに言及される。
(三)「空・仮(げ)・中」
これも『中論』に説かれる中観思想で、すなわち、「八不中道」でもわかるように、いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。
また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。
この「空・仮・中」を、「三諦(さんたい)」(三つの真理)と言って特別重視したのが天台であった。
中国天台の開祖とされる慧文(えもん、慧聞)は、龍樹の「中観」思想を拠り所にして禅を修め、「空・仮・中」を観想して「次第三観」・「隔歴(きゃくりゃく)三諦」と「円融(えんゆう)三諦」・「一心三観(いっしんさんがん)」を説いたが、従来これは「空・仮・中」の誤解だとする見方がある。
すなわち『中論』は、あらゆる存在や事象が「無自性」であることを「空・仮・中」の三の面から一元的に説いたのだが、慧文は「空・仮・中」をそれぞれ「空諦」・「仮諦」・「中諦」と分解して「三諦」とし、「空諦」を観想して「見思惑(けんじわく)」を断じ、「仮諦」を観想して「塵沙惑(じんじゃわく)」を断じ、「空諦」と「仮諦」を対立二項としてその真ん中の「中諦」を観想し、「無明惑(むみょうわく)」を断じ中道を達観するのである(「次第三観」・「隔歴三諦」)。
それに対し、「三諦」を同時に観想し(「一心三観(いっしんさんがん)」)、それぞれが互いに相入し合い円融であると達観するのを「円融三諦」とした。
<参考情報>
空観思想(=中道:龍樹/ナーガールジュナ)を基盤にして
『天台思想』と『華厳思想』





出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
(四)真俗「二諦」
これも『中論』に説かれる中観派の代表的思想。
空海は、『中論』・『十二門論』・『百論』の三論とも、この「二諦」を説くのが「宗」(主旨)だと言っている。
龍樹は、相対的な「空」の論理を徹底した結果、釈尊のサトリであった「四諦」・「八正道」や解脱・涅槃さえも相対化し、その執著を否定しなければならない論理的なジレンマに陥った。そこで、サトリなどの世界を絶対化して「真諦(しんたい)」(「勝義諦(しょうぎたい)」・「第一義諦(だいいちぎたい)」)とし、釈尊の説法のようにコトバによって説かれた真理の世界を「俗諦(ぞくたい)」(「世俗諦(せぞくたい)」)とした。これによって「真諦」はコトバを超えた「言亡慮絶(ごんもうりょぜつ)」の絶対の真理だから二項対立の相対とはならなくなった。
三、縁起説あれこれ
釈尊の「十二因縁」にはじまる縁起説は、実は仏教教理の中心思想の一つで、存在論や認識論や空間論あるいは「法界」論として仏教思想史を縦横に流れ、最終的には空海の「六大縁起」に収まるのであるが、ちなみに主な縁起説についてここでふれておく。
先に述べたように、釈尊は「十二因縁」(「此縁性縁起」)を説いて「無明」~「老死」の苦の連鎖を滅した。
<参考情報>







出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
小乗のアビダルマは、釈尊が「十二因縁」に説いた煩悩は、「三世」にわたっての業因によるものとした(「業感(ごうかん)縁起」)。
大乗の中観派は対立的な二項による「相依性縁起」を言い、唯識派はすべての存在や事象は「アーラヤ識」の顕現に過ぎないとした(「阿頼耶識縁起」・「頼耶識縁起」)。
さらに『大乗起信論』では、すべての存在や事象は「真如」(「如来蔵」)が縁に従って顕れたものと言い(「真如縁起」・「如来蔵縁起」)、華厳は「法界」そのものが「真如」であり、すべての存在や事象は互いに相入し合って重々無礙であると言った(「法界縁起」)。
その上に立って、空海は、「法界」は「真如」のような抽象的なものではなく、実在の地・水・火・風・空・識の「六大」から成り、その「六大」が清浄の故に融通し合っていて無礙であり、「法界」即ち大日如来も「六大」所成であり、実在の故に色や形を有していて、「阿字」で言語化もできるとした(「六大縁起」)。
<参考情報>
■仏教(釈尊)は
・あらゆるものに実体は無いとする


■法界縁起とは



■法界縁起
・円融無碍と性紀のアプローチがある

■円融無碍













出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
四、中観の三国伝灯
釈尊の「無執著」は、アビダルマで「五蘊無我」となり、初期大乗の『般若経』で「空」になった。「空」は、アビダルマの「諸法」の「実有」説に対抗し、それを否定した。大乗は利他行をもって小乗と次元を異にするが、大乗の大乗たる所以はこの「空」を説くことにある。
この「空」の思想を最初に説いたのが、初期大乗経典の『般若経』である。『般若経』には、『八千頌般若経』・『二万五千頌般若経』・『十万頌般若経』・『大般若経』そして『金剛般若経』・『般若心経』などがあり、この『般若経』の成立の時代を龍樹も共有していた。龍樹が著した大作『大智度論』百巻(=仏教百科事典)は『二万五千頌般若経』の註釈である。龍樹を祖とする中観思想は、初期大乗の『般若経』の影響下で興った。
(一)インドの中観派
龍樹は、『中論』・『十二門論』を著し、釈尊が説いた「十二因縁」の苦の因果律を受け継ぎ、「此あるが故に彼あり、此滅するが故に彼滅す」の「此縁性縁起」をさらに徹底し、「相依相待」の縁起説を展開し、それを中観思想の根拠にした。
龍樹の弟子提婆は『百論』を著し、他宗の説を百挙げ「空・仮・中」をもってそれらを退けた。
龍樹・提婆の中観思想は、「説一切有部」などの「実有」説を論破するのに有効であったが、「実有」説の論者からは逆に「無」に偏するニヒリズムであると批判され、それに対する反論や弁明を強いられることになった。
その後約二百年して、仏護(ぶつご、ブッダパーリタ)が出て『中論』の註釈書『根本中論註』を著し、中期中観派の草分けとなった。仏護は自ら他宗と論争せず、他宗から批判されたら自説を論証すればいいという立場(「帰謬論証派」(「プラーサンギカ」))をとった。
仏護の学友に清弁(しょうべん、バーヴァヴィヴェーカ・バヴヤ)がいて、同じく『中論』の註釈書『般若灯論』や『中観心論』を著し、陳那(ディグナーガ)のような論理で「空」の体得を論証できるとした。
清弁は当時盛んになってきていた「プラーサンギカ」に対抗し、自説を積極的に論証し論争相手を批判する立場(「自立論証派」(「スヴァータントリカ」))をとった。
以後、中観派は「プラーサンギカ」と「スヴァータントリカ」に分れて論陣を張る。
「プラーサンギカ」には、まもなくして月称(げっしょう、チャンドラキールティ)が出て『中論』の註釈書『浄明句論』(『プラサンナパダー』)や『入中論』を著した。月称は『プラサンナパダー』で清弁や陳那の論理学を批判し、「空」は論理でなく実践によって体得するものだと説いた。
余談ながら、龍樹の『中論』は「偈頌(げじゅ)」と言われる短文だけで書かれているため、『中論』の理解には註釈が必要だった。清弁の『般若灯論』と月称の『プラサンナパダー』はかっこうの註釈書で、中観思想を学ぶ際には今でもこの二書はかならず参照することになっている。『般若灯論』には漢訳(『般若灯論釈』)とチベット訳があり、『プラサンナパダー』にはサンスクリット本がある。月称のあとには、寂天(じゃくてん、シャーンティデーヴァ)が出て『入菩提行(にゅうぼだいぎょう)論』を残した。
「スヴァータントリカ」には、後期になり智蔵(ジュニャーナガルバ)が出て『二諦分別論』・『瑜伽修習(ゆがしゅうじゅ)道』を著し、後期中観派の草分けとなった。
同じ頃、寂護(じゃくご、シャーンタラクシタ)とその弟子の蓮華戒(れんげかい、カマラシーラ)が出て、それぞれ『中観荘厳(ちゅうがんしょうごん)論』・『真理綱要』や、『中観光明論』・『修習次第』・『入瑜伽修習』を著した。
寂護は、七六一年に、チベット王のチソン・デツェンに招かれてチベットに入国し、サンスクリットを教えると同時に、蓮華生(パドマサンバヴァ)と協力して、七七五年サムイェー寺の建設に着手し、七八七年落慶法要を行った。寂護は蓮華生とともにチベット仏教の開祖にあたる。

サムイェー寺
蓮華戒は、師の寂護がチベットに入ったあともナーランダー寺に残ってタントラなどを講じていたが、七八七年に、寂護亡きあと、王命で敦煌からチベットに連れてこられた唐の禅僧の摩訶衍(まかえん、マハヤーナ)と「宗論」(「サムイェー宗論」)を闘わせられることになり、サムイェー寺に招かれた。結果は、摩訶衍の無念無想の禅には「妙観察智」の欠があるとした蓮華戒に軍配が上がった。寂護がはじめてチベットにもたらしたインドの中観思想が中国の禅にまさったのである。
その後、九世紀に、解脱軍(げだつぐん、ヴィムクティセーナ)や獅子賢(ししけん、ハリバドラ)が出て、弥勒の『現観荘厳論』の唯識説を中観の立場からそれぞれ註釈した。この後の中観論師では、チベットの中興の祖といわれるアティーシャを忘れてはならない。
(二)中国の三論宗
龍樹に発する中観思想は、『中論』・『十二門論』・『百論』の三論の漢訳(いずれも鳩摩羅什訳、五世紀の前後)とともに中国に伝わった。
鳩摩羅什は「四哲」とか「十哲」と言われる弟子を残し、三論・成実の中国における基礎をつくった。その「四哲」のなかに僧肇(そうじょう)がいて、龍樹の「空」を学んで『肇論』を著した。五世紀前後のことである。
その後、羅什の法系は三論・成実兼学をしながら南北に分れ、南地で成実研究の名をはせた僧導(そうどう)が『二諦論』・『成実論義疏』を著し、僧導からは孫弟子になる智林(ちりん)は『二諦論』・『毘曇雑心記』・『注十二門論』・『注中論』を著した。
僧導と並んで成実学者だった北地の僧嵩(そうこう)やその弟子僧淵(そうえん)も、三論を兼学している。
その後、『成実論』が盛んに研究され論じられる一方で、三論は衰微の道を歩むことになったが、南朝時代の六世紀前半、僧朗(そうろう)が出て、南北二派に分れていた三論宗を統合し、梁の武帝は成実よりも三論を学ぶよう命じた。
僧朗の弟子に僧詮(そうせん)がいた。僧詮は根拠地の摂山(せつざん)の三論学派を取りまとめ、三論一筋に進んだ。山中の坐禅を宗とし山中師・止観師とも言われた。
僧詮の門下に「四哲」がいて、そのなかに法朗(ほうろう)がいた。五五八年、陳の武帝の命で興聖寺に住み、約二十年の間に吉蔵などを育てた。
吉蔵は、安息国(パルティア)系の血を引く安氏の出自で、法朗のもとで三論の教学を学び、隋の時代の六世紀半~七世紀初、『三論玄義』をはじめ『大乗玄論』・『二諦義』・『中観論疏』などを著し、中国三論宗の大成者となった。
しかし、次の唐の時代には他宗の隆盛に隠れるようになり、三論宗は学問仏教へと変容していった。
(三)日本の三論宗
日本には、推古三十三年(六二五)に、吉蔵の弟子で高句麗の僧慧潅(えかん)が元興寺に三論を伝え、中国の呉から渡来していた福亮(ふくりょう)と智蔵の親子がその慧潅から学び、そのうち智蔵は唐に渡って吉蔵に師事、帰国して法隆寺に三論をもたらした。下って、智蔵の弟子の道慈が八世紀の初め入唐し、十六年後帰国して大安寺に三論を伝えた。
元興寺の三論はその後智蔵の弟子智光と礼光が法統を受け継ぎ、奈良時代は「南都六宗」の一つとして栄えた。平安期には、のちに醍醐寺の開祖となる聖宝(しょうぼう、理源大師)が、この元興寺流の三論を究め三論宗中興の祖と言われた。
<参考情報>
聖宝、醍醐寺を開く
平安時代の貞観16年(874)、天智天皇の流れをくむ聖宝は、東大寺において諸宗を学んだのち、醍醐味の水が湧き出る笠取山を見出し、草庵を結んで准胝・如意輪の両観音菩薩像を安置しました。醍醐寺の始まりです。
加持祈禱や修法(儀式)などの実践を重視した醍醐寺は、その効験によって多くの天皇や貴族たちの心をとらえました。真言密教の二大流派のうち小野流の拠点となり、多くの僧が集まる根本道場と位置付けられた醍醐寺
醍醐寺 木造如意輪観音坐像

出典:https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NS010/NS010.html
大安寺流の三論は、道慈に師事した善議(ぜんぎ)が唐に渡り、帰国後大安寺で三論を講じ、法将と呼ばれた。その善議を師としたのが、空海仏道入門の師の勤操である。
しかし、天長六年(八二九)に空海が大安寺別当になってから真言宗になった。平安期以降宗としては次第に衰退していくが、仏教の基礎学として他宗からもよく学ばれた。
余談ながら、勤操のもとで大安寺所属の沙弥になった空海は、おそらく形式的には三論宗に属していたであろう。ある研究者によると、空海があわただしく官僧になり一年遅れの第十六次遣唐使船に乗れたのは、当時三論宗を志す学僧が少なく、留学生の三論宗枠に欠員があったからで、空海はその三論宗の枠で唐に渡れたのだと言う。
それはそれとして、空海の時代、日本の仏教は法相宗であろうと三論宗であろうと華厳宗であろうと、元興寺であろうと大安寺であろうと東大寺であろうと、天台宗であろうと真言宗であろうと、比叡山であろうと高野山であろうと、他宗兼学が当たり前であった。学僧はみな、他宗の学僧と交わり他宗の寺をたずね他宗の勉強を怠らなかった。
五、中観の「空」と慈悲・利他
およそ中観派を通観してわかるように、中観思想とその論師たちは「空」を論理化するのに一生懸命だった。そして、しばしば「「空」のまた「空」」と言われるように、「空」に固執するあまり「空」が「空」を呼ぶ「否定即否定」のジレンマに陥った。そのため、大乗が大乗たる所以の一つだった「慈悲」・「利他」がどこかにいってしまった。
大乗は、菩薩が「空」の理を現実に「自利」と「利他」で実践することが要請される。
「自利」行は、布施・持戒・精進・忍辱・禅定・般若の「六波羅蜜」を行ずることであり、「利他」は衆生済度のために慈悲に基づく行いをすることである。慈悲とは「空」の心情的な発露である。
然るに、中観派の論師は、アビダルマの「実有」説の論破に夢中で、菩薩も大慈悲も利他も説くところとしなかった。『中論』が論じたのは、因縁であり、去来であり、六根・六境であり、五蘊であり、六大であり、貪りであり、生・住・滅の「三相」であり、行為であり、過去存在であり、火と薪の問題であり、始めと終りの問題であり、苦であり、形あるものであり、集合であり、自性であり、解脱と輪廻であり、業と果報であり、アートマンであり、時間であり、因と果であり、生滅であり、如来であり、顛倒であり、四諦であり、涅槃であり、十二因縁であり、常住であった。
結果として、中観思想はたしかに学派を形成し、学問仏教としては仏教史に確固たる地位を築いたが、インドからチベットに伝えられてその命脈を延長した以外は、中国でも日本でも、唯識・法相ほどには支持を得られなかった。その原因は、くり返しになるが、あまりに「空」に偏したことであろう。
しかし、それでも空海は、『御遺告』で、わが亡きあと、三論と法相を密教とともに兼学することを遺言している。別当となった大安寺の伝統である三論を絶やしたくなかったこともあろう。仏道入門の師で若い頃から数々の指南を受けてきた勤操への恩義もあろう。だが、空海の遺言の真の意味は、「空・仮・中」をわかっておかなければ大乗の言う「空」がわからず、唯識の理解にも支障をきたす。唯識の「三界唯心」がわからなければ華厳とてわからない。華厳がわからなければ、わが密教もわからない。みな思想史としてつながっている。だから、三論はおろそかにしてはいけない。そういうことだったであろう。
<参考情報>
■『唯心』と『空観思想』は究極的には同じ




出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
六、「空」を引き算の文化にした日本の精神性
天台の「止観」から出た禅は、鎌倉時代に栄西の臨済宗・道元の曹洞宗となって大きく発展した。とくに臨済禅は、禅宗寺院に禅の境地を具象化した禅宗庭園(枯山水・池泉式など)を造り、茶の湯や茶室・茶庭を生み出し、水墨による山水画や禅画や書にも道を拓いた。
ムダを省き、虚飾を落し、モノコトの実相だけを残す引き算の文化。引いて引いてけずってけずって「唯、足ることを、知る」少欲知足の文化。すなわち、大乗の「空」の境地を庭園の美に移し、茶の湯の「和敬清寂」・「一期一会」の心に変換し、墨液の濃淡だけによるモノクロの妙に変えた。
禅宗庭園に足跡を残したのは、
大分県九重町の龍門寺の龍門瀑や甲府市の東光寺に池泉庭園をつくった蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、鎌倉建長寺の開祖)であり、
京都の天龍寺・西芳寺や、多治見市の永保寺や、鎌倉市の瑞泉寺や、甲州市の恵林寺などの庭園を設計した夢窓疎石(むそうそせき)であり、
京都東福寺の芬陀院(ふんだいん)や、山口市の常栄寺や、益田市の萬福寺・医光寺に雪舟庭をつくった雪舟等楊(せっしゅうとうよう、水墨画の雪舟)であり、
哲学者西田幾多郎が眠る京都妙心寺の霊雲院に枯山水を造り、龍安寺石庭も手がけたと言われる子建西堂(しけんせいどう)であり、
そして京都大徳寺孤篷庵(こほうあん)や、江戸幕府の政僧といわれた崇伝(すうでん)が住した南禅寺の金地院(こんちいん)や、浜松市の井伊家菩提寺・龍譚寺(りゅうたんじ)に池泉庭を造り、奉行として桂離宮や仙洞御所や二条城や名古屋城等の修築にあたった小堀遠州であり、
さらには時代が進んで京都の東福寺と塔頭の龍吟庵(りゅうぎんあん)や光明院、あるいは大徳寺の瑞峯院や松尾大社、高野山の福智院、さぬき市の四国霊場志度寺(しどじ)、太宰府市の光明禅寺、長野県木曽町の木曽義仲の菩提寺興禅寺、泉南市の林昌寺、周南市の漢陽寺などに作庭した重森三玲(しげもりみれい)である。

小堀遠州作 臨済宗妙心寺派 大池寺 枯山水(借景)滋賀県甲賀市水口町
この具象禅(ぐしょうぜん)とも言うべき庭園文化は、自然の美や四季の移り変りを和歌に詠んできた日本人の自然好みの精神風土に合致したのであろう、庭を造ることは禅寺に限らず、離宮や神社や城や武家屋敷のほか資産家の別荘や一般住宅にも及んで、住環境の上で確固たる地位を築いた。
茶の湯には、大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん、一休和尚で有名)に師事した村田珠光(むらたじゅこう)がいて「わび茶」の源流となり、さらには堺の豪商で歌人の武野紹鷗(たけのじょうおう)が出て、京都の町衆の藤田宗理・十四屋宗陳(もづやそうちん)・十四屋宗悟(もづやそうご)に習い、のちに千利休をして「術は紹鷗」と言わしめた。
紹鷗の門弟である千利休は、人も知る「わび茶」を大成し、今も「茶道」が日本を代表する文化として光彩を放っている基礎を築いた。織田信長亡きあと、天下人になった太閤秀吉にも「茶頭(さどう)」として仕えたが、派手好みの秀吉に利休の「わび茶」はわからなかった。
もともとは堺の商家の出で、紹鷗について茶を習い、紹鷗と同じく、堺の南宋寺に参禅して臨済禅を学び、南宋寺の本山である京都大徳寺とも誼(よしみ)を通じた。
簡素にして簡略、必要最低限のしつらえに徹し、何物もなくただ一服の茶に「一期一会」の万感をこめ、モノの価値でなく無言のうちの以心伝心に、茶の妙覚を見出した。一服の茶以外に何もないもてなしの申し訳なさ、モノのなさを客に侘びる「茶禅」である。
利休は秀吉以外の戦国武将とも親しく交わり、蒲生氏郷(がもううじさと、キリシタン大名)・細川忠興(ほそかわただおき、夫人がキリシタン)・古田織部(ふるたおりべ、織部焼で有名)・芝山監物(しばやまけんもつ)・瀬田掃部(せたかもん)・高山右近(たかやまうこん、キリシタン大名)・牧村兵部(まきむらひょうぶ、キリシタン大名)の「十哲」のほかにも、荒木村重(あらきむらしげ、信長に謀反で有名)・織田有楽斎(おだうらくさい、信長の弟)・金森長近(かなもりながちか、初代高山藩主)や前田利長(まえだとしなが、利家の長男、初代加賀藩主)らがいる。
利休の「わび茶」はその後大名の間で広がり、片桐石州・小堀遠州・織田有楽斎など流派をなし、「大名茶」などと言われた。明治になって、岡倉天心が欧米に「茶道」を紹介したことは日本文化の国際化にとって大きな貢献となった。
中国の水墨画を日本にもたらしたのは、先に述べた蘭渓道隆や無学祖元(むがくそげん)といった渡来僧であった。禅僧の習いとして達磨大師をはじめ祖師の像や、仏教・道教の人物や、あるいは春の蘭・夏の竹・秋の菊・冬の梅といった花鳥草木を画題とした。
初期(十四世紀)の水墨画には、可翁(かおう、寒山図、蜆子和尚図)や黙庵(もくあん、布袋図、白衣観音図)や鉄舟徳済(てっしゅうとくさい、芦雁図、蘭竹図)が出て日本の水墨画に端緒をつけた。
十五世紀には山水画が本格化し、京都相国寺から如拙(じょせつ、瓢鮎図)・周文(水色巒光図、竹斎読書図)・宗堪(そうたん、芦雁図)・雪舟(秋冬山水図、山水図、天橋立図)が輩出し、東福寺からは明兆(みんちょう)が出た。
この時代、中国南宋時代の水墨画、とくに夏珪(かけい)・馬遠(ばえん)・牧谿(もっけい)・梁楷(りょうかい)・玉澗(ぎょくかん)のものが好まれた。
また、「阿弥派(あみは)」と言われる「同朋衆(どうぼうしゅう、足利将軍の近くで雑務・芸能に従事する一遍の時宗系僧、阿弥は阿弥陀仏の阿弥)」の流派も出た。能阿弥(のうあみ)と芸阿弥(げいあみ)と相阿弥(そうあみ)の親子三代は、連歌をよくし、表具を営み、書画の鑑定を行い、自らも山水画を書いた。
やがて、狩野派の絵師たちが長く画壇を代表する時代が続くが、彼らは山水画に彩色を加え色彩画とした。
然るに、引き算の精神文化はまた、宮本武蔵の「剣禅一如」や、山本常朝(鍋島藩藩士)の「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」(『葉隠』)に発展した。
しかし、武士道の切腹すなわち「即非」の自決は、太平洋戦争中、東条英機の「生きて虜囚の辱めを受けず」になり、あまた将兵が敗戦濃厚の戦地で自決し、特攻隊になり、人間魚雷になり、沖縄では島民の集団自決となり、武士の美学は集団ニヒリズムになってしまった。
臨済禅を西洋哲学にした西田幾多郎は、晩年の太平洋戦争のさなか、ニヒリズムの「狂気」をいやというほど見聞きしただろう。自らも思索した「自己否定」の論理が、自分の目の前で「即非自決」の「狂気」に変質していく歴史の現実をどんな気持ちで見たであろうか。
戦後、「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」は、三島由紀夫の美学を市ヶ谷自衛隊本部での自決へと引導し、秋月龍珉(あきづきりょうみん)は「死んで生きるが禅の道」と隠喩する。
七、禅を知って禅をとらず
室町時代以降、日本の諸文化に大きな貢献をした禅であるが、空海は唐における禅の隆盛をよくよく知っていながら禅に見向きもしなかった。
禅は、六世紀の前半インド僧の菩提達磨(ぼだいだるま、ボーディダルマ)によって中国に伝えられ、その弟子慧可(えか)が発展させ、空海が長安にいた頃は非常にさかんで、禅僧も禅寺も多く、南宗禅系の百丈懐海(ひゃくじょうえかい、馬祖禅の馬祖道一の弟子)らの時代だった。長安に滞在中、あるいは長安からの帰途、洛陽でも揚州でも潤州でも常州でも、禅僧や禅寺と親しく交わり、流行の南宗系の禅もよく知っていたはずである。
然るに空海は、禅と同じく中国で体系化された法相や三論や天台や華厳を「十住心」に入れながら、禅を入れなかった。
<参考情報:十住心>
(1)異生羝羊心(いしょうていようしん)
⇒異生(凡夫のこと)や羝羊(おひつじ)のように動物的な本能に支配されている愚かな者の段階
(2)愚童持斎心
⇒愚かな童子のように人倫の道を守り、五戒・十善戒をたもつ。善いことをしょうとする段階
(3)嬰童無畏心(ようどうむいしん)
⇒嬰児にも似た凡夫や外道が人間世界の苦悩を厭って、天上の楽しみを求めて天上に生まれたいと思って修行をする段階。
⇒凡夫や外道はいかにすぐれていても、偉大な仏に比べれば劣弱で愚かであることは、あたかも嬰児のごとくである。
以上は、仏教外の教えを奉じている人々の段階である。
・次に、仏教内部の人々が奉ずる異なった思想段階が登場する。
■第四段階から第十段階の心のあり方:仏教のあり方

出典:サブタイトル/空海『十住心論』の思想~空海につづけ!#03(種智院大学オンライ講座より転記~
なぜか。
まず空海は、サトリをめざす瞑想修行、すなわち観法を、空海は「止観」を超えて「三密行」による「速疾成仏」で決着していたから、サトリに至るのに時間がかかる禅には感心しなかったであろう。
密教の「速疾成仏」を知った空海には、漸悟であろうが頓悟であろうが、ただ坐りつづけ、煩悩を断じ、深層心理を止め、長い時間をかけ、「止観」の極に到ろうという禅の成就法は、空海にとっては非現実の不成就法に等しかった。
空海にとってサトリとは、この身に、現実に、仏との「一体無二」観が現前することであり、しかも無限に近い修行の果てではなく、今、発心したこの瞬間に、「速疾」に、「仏」と一体に「成る」、ことでなくてはならなかった。「即身成仏」がそれであり、その術を師恵果和尚から教理とともに伝えられ、しかも真言伝持の第八祖になった。
<参考情報>

■空海の回答
・2種類の成仏がある






↓



↓





出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
空海は長安からの帰途、洛陽・揚州・潤州を経て常州の天寧(禅)寺に立ち寄った。少しの間滞在したであろう。天寧(禅)寺の門前には古運河が通じていて、空海らは労せずして門前の埠頭から上陸できたと思われる。天寧(禅)寺には、そののち「空海大師留学処」の看板が掲げられたという。
この寺は唐代(六四九年)の創建で当初は広福寺と称された。空海が参拝した頃はその名であっただろう。大変規模の大きな禅院であったらしく、清代に建てられたという今の大雄宝殿の威容がそれを彷彿とさせる。
揚州や潤州や常州で禅寺を拝しながら、空海には自己肯定的な確信が起きていたであろう。それは、唐土に学び禅が唐代仏教のなかに大きな位置を占めていることを目の当りにしていながら、禅にはまったく目もくれない自分に対し「それでいい、まちがいはない」と充分に納得している感慨であった。
言うまでもなく空海は中国の歴史・思想・宗教・文芸の全般に通じていた。唐語も、長安の周辺に通じる程度に話せた。仏教に関しても中国で確立した三論・法相・華厳をつとに学び、実際に唐土にきて現に華厳宗第四祖澄観の「四種法界」説を聞き、さらに華厳が禅と融合しながら唐土で大きな広がりを見せているのも見た。それでも空海は、中国で大成した禅を知っていて禅をとらなかった。
山林や海浜の修行で虚空蔵菩薩との合一体験をもつ空海にとり、仏教の生命線である解脱や開悟というものは、無限に近い時間をかけた修行の果ての非現実ではなく、この生身に、この瞬間に、即時即身に、顕現する現実でなければならなかった。空海は、サトリの成就の条件に「速さ」と「身体ごと」をえらんだのである。
なぜかについて、もう一つ。
禅のサトリとは、「空」を観念で理解するのではなく腑に落とすことであり、あらゆる事物が「相即相入」して障礙がない華厳の「法界縁起」を観じて「空」に入ることであり、鏡のような静かな海面にすべての存在や事象が映し出され、海水のなかではすべてのものが溶け合って円融であるように、「法界」もその通りだと観じること(「海印三昧」)である。
禅は瞑想で「空」の肯定的な側面である「真如」・「法性」を華厳思想で知りながら、あるいは「本来成仏」を言ってわが身に「仏性」を認めながら、実際はその本来成仏している自己を瞑想や修行生活を通じて否定する。
空海の密教は、禅と同じく華厳の「真如」・「法性」を土台にして、本有の「菩提心」(「仏性」「仏種」)という「空」の肯定的なベクトルをさらに発展させた。空海に言わせれば、禅は華厳をとりながら華厳らしい肯定的な「空」を損なっているのである。
なぜかについて、さらに一つ。
禅は個人が覚って救われればいい。しかし空海の密教は、この国全体が大日如来の仏国土であることによって、国王(天皇)をはじめ、そこに生きるありとあらゆる「衆生」が救われる鎮護国家にまで及ぶ。禅に利他がないのは声聞・縁覚と同じ小乗で大乗の空ではない。
禅は「不立文字」の故、法を説かなくていい。「果分」(サトリの境地、「仏智」)はコトバで言えないという。空海は「声字」は「実相」であり、「果分」は可説である。サトリの境地は、コトバで説くことができるとした。
空海は、日本初の庶民のための私立学校「綜芸種智院」を開設し、故郷讃岐の満濃池を修築し、大和の益田池も修築し、大輪田の泊(おおわだのとまり、今の神戸港)の修築も行った。空海にとってコトバで説くことができることと社会事業は一体であり、とりもなおさずそれは如来の大悲の実践である。「果分」を不可説とし如来の大悲には遠い禅に、それは不可能だと、空海は喝破していたのにちがいない。
■「龍樹菩薩の生涯とその教え」より転記
出典:2022年7月14日 2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の11回目
■仏教が柔軟(大乗仏教が生まれる土壌)になった要因
・破僧の定義を再定義した
⇒アショーカ王の時代(紀元前304年~紀元前232年)
⇒異なる教えを説いても、集会や会議に出れば破僧ではない




■八千頌(はちせんじゅ)般若経(紀元前後~50年)
・キーワード
⇒物質的存在としての本体がない
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性/空

■『空』を例える
・口の中にツバが出来れば、自然とツバを飲み込む(下図の右側)
⇒そのツバを一旦コップに出して、それを飲み込む事は出来ない(下図の左側)
⇒「ツバ」そのものは変わらない


(物質的存在としての本体がない→固定的に永遠に存在する本体はない→無自性/空)

・汚い「ツバ」は存在しない
⇒「汚い」と思う(=「苦」の原因)は妄執

■妄執(苦)を離れるのが『空』
・物質的存在としての本体がない
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性/空

■『空」の教え
・分別(認識)からの開放
⇒妄執(苦)を離れる事

■苦しみの原因(要因)
・分別(認識)にある

・『空』に通じる詩

・分別(認識)からの開放
⇒妄執(苦)を離れる事

・龍樹が生まれる前の仏教界においての『空の教え』について

・上座部仏教界からの批判(=空の教え)

【上座部仏教のアウトライン】
上座部仏教は個人の修行と戒律の遵守を重視
- 目的: 個人の悟りを目指す(自利行)。
- 修行方法:戒律を厳格に守る。
- 広がり:スリランカや東南アジア(南伝仏教)

<参考情報:インドの歴史(釈迦から龍樹)>
■釈迦(紀元前565年~紀元前486年)、




■アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)、


■統一国家のない混迷期
・メナンドロス王と仏教徒の対話
⇒ミリンダ王の問い
⇒紀元前2世紀頃の仏教の姿を伝えている

■カニシカ王(144年~171年)、ナーガールジュナ(2世紀中頃:カニシカ王と同時代)






出典:主タイトル/龍樹(ナーガールジュナ)/中村元著から転記~原始仏教へのルネサンス~より抜粋
■龍樹の立ち位置
・『空の教え』が
⇒お釈迦様の教えであることを論証した


<参考情報>










出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
■八千頌(はちせんじゅ)般若経(紀元前後~50年)との出会い
・七宝の箱に入った教典


・八千頌(はちせんじゅ)般若経
⇒本体がない
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性/空




・龍樹を大事にしている宗派
⇒三論宗、華厳宗、天台宗、真言宗



■重要な著作
・根本中頌(こんぽんちゅうじゅ)
⇒釈尊の中道の教えに基づいて
⇒「空性」こそが釈尊の教えであることを論証する











■釈尊の中道の教えに基づいて
・「空性」こそが釈尊の教えであることを論証する



■空の教え
・すべての執われを離れる
⇒空の教えが仏教として真実(仏説)であることを証明することであった
・龍樹がした証明
⇒釈尊が説いた「縁起」と「中道」から明らかにしていく

■縁によって本体は変わる
・口の中にあるツバ(縁)は自然と飲める(汚くないツバと心で思う)
⇒一旦、口の中にあるツバをコップに出したツバ(縁)は飲めない(汚いツバと心で思う)
⇒固定的な汚いツバは永遠に存在しない

■八千頌(はちせんじゅ)般若経(紀元前後~50年)
・キーワード
⇒本体がない
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性/空



■空が仏説であることを論説(『根本中頌』第24章第18偈(げ))
◆縁起=空=中道
・縁起は
⇒何かを因として
⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること
⇒そういうものを「因施設」と呼んでいる
・空
⇒名付けられた諸々が「空」
・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である

■縁起とは
・名付けられた「兄」と「弟」の関係は
⇒お互いに相手がいなければ成立しない
⇒それ自体としては成立しない
⇒つまり自性を持たない=空(相依性の否定)


■釈尊の悟り




・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である
⇒無自性/空


■相依性の否定




■後世の人々は逆に
・相互依存が縁起だと捉えた

■龍樹
・「相依性の否定」
⇒空であるから
⇒相互依存は成立しないと論証した

■執着から離れる
・名付けることを排する





■我々が勝手に昆虫というカテゴリを付けた(名付けた)
・実体はない
⇒無自性=空

■名付けられたも=有為

■昆虫とそれ以外の相互依存関係自体が成立しない
・無自性=空であるから





■大乗仏教において慈悲が登場する根拠
・「善」「悪」の両方を包含していくことができる
⇒善人・悪人を救う事ができる悟りの境地
⇒空を根底にしているから
⇒慈悲が可能になる




■継時的な因果関係
・老人は
⇒若者から起こる
⇒それは若者が変化するから老人になる
⇒若者が縁起的存在(=空)であるからこそ
⇒老人になるという変化が起きる

■縁起とは
・名付けられた「兄」と「弟」の関係は
⇒お互いに相手がいなければ成立しない
⇒それ自体としては成立しない
⇒つまり自性を持たない=空(相依性の否定)
⇒つまり本体がないと言える
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性/空

・自性(もし「若者:名付けられた」という)があって
⇒変わらない(本体がある)としたら

■自性
⇒固定的に永遠に存在する本体


■空の教え
・すべての執われを離れる
⇒空の教えが仏教として真実(仏説)であることを証明することであった
・龍樹がした証明
⇒釈尊が説いた「縁起」と「中道」から明らかにしていく
◆縁起=空=中道
・縁起は
⇒何かを因として
⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること
⇒そういうものを「因施設」と呼んでいる
・空
⇒名付けられた諸々が「空」
・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である


・自性(もし「若者:名付けられた」という)があって
⇒変わらない(本体がある)
■縁起とは
・名付けられた「兄」と「弟」の関係は
⇒お互いに相手がいなければ成立しない
⇒それ自体としては成立しない
⇒つまり自性を持たない=空(相依性の否定)
⇒つまり本体がないと言える
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性/空


【参考情報:即身成仏(そくしんじょうぶつ)/Microsoft Copilotからの回答】
密教における重要な思想で、「この身のままで仏となる」という考え方です。一般的な仏教では、長い修行の末に成仏するとされますが、密教では、修行を通じて現世で悟りを開き、仏の境地に達することが可能だと説かれています。
【参考情報:親鸞聖人の有名な言葉/Microsoft Copilotからの回答】
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という一節があります。これは『歎異抄』第三条に記されており、悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象であるという「悪人正機説」を示しています。
この言葉は、「善人でさえ往生できるのだから、まして悪人はなおさら救われる」という意味ですが、単純に悪人が優遇されるということではありません。むしろ、自力で善を積もうとする者は阿弥陀仏の本願を疑う心が生じやすく、逆に自らの罪深さを自覚し、他力にすがる者こそが救われるという考え方です。
この思想は、親鸞聖人が比叡山での厳しい修行を経て、法然上人の専修念仏に出会い、阿弥陀仏の本願にすべてを委ねることこそが救いであると確信したことに由来します。

■善・悪を超えた悟りの境地
・相依存の否定
・継時的な因果関係
⇒無分別/言葉(名付け)からの開放(執着を離れる)






・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である
⇒無自性/空



■釈尊の悟り=中道
・両極を排する中道
⇒「有」と「無」のどちらにも実体を見ない
⇒「空の教え」こそが
⇒釈尊の真意である中道
◆縁起による「空の教え」=中道における「空の教え」
・縁起=中道


■龍樹が重要視した原始経典の一説
・中道によって法を説くのである


・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である
⇒無自性/空

■空が根底にあるので
・釈尊は中道を説いた


■釈尊の正式な後継者としての確立
・原始経典の真髄から出発
⇒中道

■大乗仏教 vs 上座部仏教の論争を超える
・釈尊の教えに根ざした龍樹の空観(=中道)

■龍樹の著作




■大乗仏教の「空に教え」
・釈尊の真意であることを明らかにした
⇒「空の教え」を源に
⇒唯識、天台、華厳等の仏教思想が生まれた
・分別を超える
⇒無分別

■昆虫とそれ以外の相互依存関係自体が成立しない
・無自性=空であるから





■大乗仏教において慈悲が登場する根拠
・「善」「悪」の両方を包含していくことができる
⇒善人・悪人を救う事ができる悟りの境地
⇒空を根底にしているから
⇒慈悲が可能になる

■空の思想史/立川武蔵~松岡正剛の千夜千冊~
出典:https://1000ya.isis.ne.jp/0846.html
色即是空、空即是色――。『般若心経』のこの言葉は、日本人なら誰でも知っている。おそらく仏典中で最もよく知られたフレーズだろうが、誰もが意味がわからないフレーズでもあろう。
たとえば、「色」は物質的な実在のこと、「空」はそれがないことをいうのだが、それでは「世の中、なんにもありません」というだけで、さて本当にそういう意味なのか、気になってくる。仏教はそんな「空」や「無」を持ち出して、どうするつもりだったのかと思えてくる。
ぼくもけっこう悩まされたものだった。いったいこれは東洋のニヒリズムなのか、まったく西洋が気がつかなかったものなのか――。青年時代、ブッダは「諸行無常」と「諸法無我」と「一切皆苦」を説いたと知って、いったいこの空漠たる思想は何なのか、人間はこんな空虚と苦渋に耐えられるのかと思ったものである。そして、それでもなお「空観」におよんだ仏教というのは、なんと強引で、かつ否定に富んでいて、かつ論理において自在なのかと思ったものだった。
実際には、「空」という概念や「空」という意味は、時代によってかなり動いてきた。仏教史は「空」をどのように解釈してきたかという歴史だったといってよい。
ところが、このような「空」をひたすらめぐって各時代を一気に貫いて語る書物は、あるようで、なかった。「空」を哲学談義するものは多かった。「空の思想」の最初の歴史的な出現となった『大般若経』や、「空の論理」の根源的な思索者ともいうべき2世紀の哲人ナーガールジュナ(龍樹)についても、中村元の名著『龍樹』をはじめ、それなりの取り組みがある。が、時代を貫くものはあまりない。だから、本書は(いまだわかりにくいところも多いのではあるが)、得がたい一冊だということになる。
著者によると、本書は2002年の愛知学院大学と名古屋大学の講義をもとにしたらしい。それを吟味して推敲したようだ。ぼくもかつては千葉大学の特別講義を『情報の歴史を読む』(NTT出版)として、また最近は『帝塚山講義』というブックレットを「松岡正剛編集セカイ読本」(デジタオ)に5冊にわたって入れているが、ときに講義というのは執筆よりも大胆な試みをすることがある。つい1カ月ほど前の涼しい真夏に読んだばかりだが、本書からもさまざまな示唆を得た。
空とはカラッポということである。たんにカラッポのものがあるというのではない。仏教における空は、すべての実在性を空じて、いっさいがカラッポだと言っている。空でわかりにくければ、無だと言っている。
ふつうなら、こんなばかなことはありえない。われわれはすべての実在とともにあるのであって、どう考えても机も眼鏡も音楽もあるとしか思えない。それらを燃やしても灰がある。CDの音楽が消えてもCDはあり、CDを捨てても楽譜が残る。人も実在だが、その人が死んでも物質は残る。宇宙ですらカラッポではない。ダークマターに満ちている。
しかし仏教、とりわけ初期大乗仏教は、すべてが空だと言ってのけたのだ。そればかりか、神の存在も自己の存在も否定した。神もなく自己もなく、世界すらない思想、それが「空の思想」である。ここを、キリスト教のように神の存在を認めたら、他のすべてのものも実在することになる。そして、そこから神を別格に扱うには、そこにキリスト教のように実在の階層をつけることになる。仏教はある時期からそれを拒否し、否定した。
そして、神もなければ、人もないというふうに考えた。そのあからさまな全否定に身を乗り出した。いや、そのように考えることで何かが変わると考えた。
しかし、そんな「空漠の連打」を修行や思索にもちこんだことがどうして成立したのかということになると、いまひとつはっきりしない。いったい仏教はどうしてこんなとんでもない空虚を相手にするような、稔りのなさそうな発想に至ったのか。そこを考えようというのが、また仏教の本懐なのである。
空の思想を眺める前に、最初に理解しなければならないのは、空は概念として孤立(自立)していないということだろうか。わかりやすくいえば空は「空じる」という動作的な過程であらわれる意味であって、すなわち思惟であって、行為なのである。
次に、インド思想においては古来より(インダス文明やヴェーダの時代より)、基体と属性を“一対”で考える特徴をもっていたことを考慮しておく必要がある。「この本は重要だ」というメッセージは、「本」という基体に、「重要」という属性が載っていると考える。「この紙は白い」というのも、「紙」という基体に「白」という属性が加わったというふうに見る。これはサンスクリット語やパーリ語の語法から派生した。本書で立川武蔵が何度も強調したことだ。
この基体を「ダルミン」(dharmin有法)といい、そこに乗った属性のほうを「ダルマ」(dharma法)という。インド思想において存在というときは、もっぱらこのダルマのほうをさすことが多い。ただし、ヒンドゥ哲学(バラモン正統派)では、たとえば「本」という実在をどんどんなくしていこうとすると、いったい何が残るかという議論に対して、基体のダルミンが残ると考えたのだが、仏教ではすべてがなくなっていくと考えた。この違いがあとになって大きな意味をもつ。
もうひとつ、インド哲学と仏教を分けた見方がある。基体(ダルミン)と属性(ダルマ)のあいだにどのような区別があるのかという議論のとき、インド思想一般では、明確な区別があるという実在論の立場と、それは名前の付け方の違いだとする唯名論の立場とがあった。
ぼくが30代前後に熱中したインド六派哲学という哲学全盛時期があるのだが(第96夜参照)、なかでミーマンサー、ヴァイシェーシカ、ニヤーヤが実在論派、ヴェーダーンタが唯名論派、ミサーンキヤやヨーガはその中間の立場をとっていた。
実は大乗仏教は、このヴェーダーンタ派の唯名論をおおまかには踏襲する。踏襲するのだが、そこにまったく新たな展望を加えていった。「空」はそこから出所した。
ヒンドゥ哲学から仏教が出てきて発展していったインド仏教思想の前半史は、おおざっぱに3段階が設定できる。第Ⅰ期はブッダから1世紀くらいまで、第Ⅱ期が1世紀から600年くらいまで、第Ⅲ期インド大乗仏教の消滅までである。
このうち第Ⅰ期の前期のアショーカ王までの時代を、ふつう「原始仏教」といい、後期の大乗仏教成立までは「部派仏教」という。原始仏教での特徴は、ヴェーダの権威を認めなかったことにある。したがってブッダは、ブラフマン(梵)もアートマン(我)も否定した。だからブッダの弟子たちは、この考え方を前提に三蔵(経・律・論)をつくっていった。
それが後期の部派仏教では、宇宙原理としてのブラフマンについてはあいかわらず認めなかったのだが、小さな多数のブラフマンを認めようとした。いわば個我宇宙のようなものを認めた。これがその後に小乗仏教になる。自我を含んだ認識仏教だ。しかし、いくつもの多数の個我宇宙というのは、へたをすると言葉の数だけの個我宇宙になりかねない。
そこで、これを痛烈に批判する仏教思想家があらわれた。それがナーガールジュナ(龍樹)である。ナーガールジュナに始まる空の思想を「中観」という。さらに続いてマイトレーヤ(弥勒)やヴァスバンドゥ(世親)が出て、「唯識」をおこした。唯識はどこかで個我宇宙とも絡んだが、中観はいっさいを空じた。
ナーガールジュナ登場以降、ヴァスバンドゥの出現までを、第Ⅱ期の大乗仏教時代という。25年前の『遊学』(存在と精神の系譜)では、このナーガールジュナとヴァスバンドゥにぼくはかなりの肩入れをしたものだった。
ナーガールジュナの中観思想は、「空」と「縁起」の思想を同時化したものである。これが独創的だった。
そもそも「空」は、サンスクリット語の形容詞「シューニヤ」と抽象名詞「シューニヤター」の合成的な訳語である。漢訳では「空性」(くうしょう)と訳されることも多い。
シューニヤは、厳密にいうと「あるもの(y)において、あるもの(x)が存在しない」という意味である。それゆえ「yはxに関して空である」とか「yにxが欠けている」「xがyにない」というふうに使われる。
こうして「空」とは、いったんは「xがyにない」ということでになる。
一方、「縁起」とは、「yはxに依っている」と言う意味をあらわしている。「xはyの原因にあたる」という意味をいう。ナーガールジュナはこれをさらに、「xはyに依り、yはxに因っている」というふうに相互同時にみたけれど、ともかくもそこにはなんらかの因果(因縁)関係がある。
さてそうだとすると、「空」と「縁起」はどのようにxとyの関係をあらわすことになるのだろうか。縁起しあっているxとyが、互いに空じあっているとはどういうことか。そのところ、ナーガールジュナの『中論』では次のような偈になっている。
(1)どのようなものであれ縁起なるものは、
(2)われわれはそれを空性とよび、
(3)それゆえそれは仮のもの(仮に言葉で述べたもの)で、
(4)だからそこには中なるものがある。
これではわかりにくいだろうから(ナーガールジュナの書き方は、ふつうの論理ではわからないようになっている。とくにテトラレンマとよばれる四句否定法を駆使していた)、ざっと結論をいうのなら、ナーガールジュナはxとyの空の在り方も、xとyの縁起の有り方も、実は言葉の過信を捨ててかからないかぎりは議論できないことを見抜いたのである。
すなわち、「空」を感じるにはその「空」をめぐる言葉を捨てながら進むしかなく、そのときなお、仮の言葉の意味を捨てながらも辛うじて残響しあう互いの「縁起」だけに注目すれば、本来の「空」を感じる境地になるだろうと説いたのだ。
これは、仏教思想において初めて言語の虚飾を払った哲学として特筆される試みで、中観とは「空の思想」であって、「言葉を空じる試み」であったわけである。
<参考情報>


出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
仏教の「空の思想」は、ナーガールジュナの時代に一方で累々と編集されつつあった『大般若経』や各種般若経典によっても、澎霈と立ち上がっていった。般若思想の時代である。
詳細は略すけれど、この般若思想が漢訳され中国の仏教に入ってきたとき、「空」はナーガールジュナとは別の方途で苛烈になってきた。それは、中国語の「空」が「空(す)いている」という意味をもち、漢訳仏典はこの「空(す)く」という語感をもつ「空」をこそシューニヤの訳語に選んだことと関連した。
それで何がおこったかといえば、ちょっとはしょって言うが、たとえば玄奘が漢訳した『般若心経』において、「五蘊皆空」(照見五蘊皆空)という大胆きわまりない表現に達したのだった。これは「空の思想史」における大きな飛躍である。ここがわからないと、インド仏教と中国仏教が切断され、かつまた日本仏教における「空の思想」が見えなくなってくる。
玄奘の「五蘊皆空」を字義通り訳してみると、「世界と人間を構成する五蘊(色・受・想・行・識)は五種にすぎず、それはしかしそれでも本来は空である」というふうになる。玄奘はこう言ってのけたのである。
のみならず、ここでふたたび冒頭の「色即是空」の話になるのだが、もともとは「色」と「空」とが近づくためには相当相応の修行が介在していたのに、この両者も一挙に近づくことによって、つまり「色即是空」の「即」が入ることによって、「空」の速度は俄然高速になったのだった。「空」はじっとなどしていない。つねに高速で動きまわれる行為者なのである。
実は玄奘は、サンスクリット語の「スヴァパーヴァ」を「自性」と訳さずに、「皆」というふうにした。「自性」をすっとばしたのだ。これは大きかった。余談になるが、日本の坊さんの多くは、この「なくなった自性」のほうにばかりとらわれていて、いっこうに「色即是空」の説明がつまらない。
ともかくもこうして「空」は中国において新たな発展をとげることになる。
中国仏教における「空」は、天台と華厳と禅においていっそう独得のものになる。
天台では北斉の慧文がナーガールジュナの『中論』を読んで愕然と悟り、「一心三観」を会得した。われわれの心にはつねに瞬間瞬間で三つの観点が集中しているという見方である。これが天台大師智顗をへて、「空・仮・中」の三諦止観や三諦円融の思想になった。空から形やはたらきがあらわれるときは、それは「仮」となり、形やはたらきが隠れるなら「空」となり、この両者が融和しているときは「中」となるという、有名な摩訶止観である。「仮のまま空、空のまま仮、仮のまま中」などという。
華厳の法蔵による「空」の議論はさらに大胆で劇的である。またまた色即是空の話を例にすると、法蔵の『般若心経略疏』は「色即是空」を二別して止揚するという方法をとっていた。『般若心経』の色即是空は、よく知られているように、次の4段階のステップを踏んでいる。法蔵はこの4ステップそのままに「空」の議論をそこへ内蔵してみせた。
(1)色不異空(色は空に異ならず)
(2)空不異色(空は色に異ならず)
(3)色即是空(色はすなわち、これ空なりて)
(4)空即是色(空はすなわち、これまた色なり)
法蔵はこの四句を「空をもって色をのぞむ」と「色をもって空をのぞむ」に分けて考察し、そこにそもそも自と他の関係が、「合わせれば全部となるような関係」のように潜在して、その自他を補償しているとみた。まるでメルロー=ポンティである。
その考察ぶりを集約すると、(1)では、自は「空」を他は「色」をさす。こうすることで、法蔵は自である空を否定することが、他である色を成立させると考えた。(2)では他である色が“眠っている”とみなし、自としての空があらわれると考えた。それが(3)では自と他、すなわち空と色とが同時に成立し、(4)ではその自他がともに“眠る”とみた。
ようするに、最初に空が隠れて色が現れ、色が隠れて空が出現し、色と空がともにあらわれ、ともに隠れていくという展開を想定したのである。この色即是空が出没するところが、華厳にいう「法界」になる。
華厳の空観はインドの中観とはちがっている。むしろ属性(ダルマ)に応じる基体(ダルミン)をあえて復活させて、その基体そのものが対応力をもたせた。華厳はそのような“一対”の相互的な柔構造の提案によって、その後の空の思想をダイナミックなものに変えていったのである。
この華厳の影響を初期に強くうけたのが中国禅である。最初こそボーディ・ダルマの面壁坐禅に始まった禅林も、五祖の弘忍から一方に慧能が出て、他方に華厳禅ともいうべき神秀が出たことで、一方では中国独自の「無」の思想(老荘思想など)の仏教化をもたらすとともに、他方ではつねに空観をともなう天台禅と華厳禅の併走をつくっていった。
こうして華厳禅の登場は、たとえば日本における明恵のような、また道元のような、すぐれて「空」に放下した逸材を輩出させることになったのである。
だいぶん急いだが、「空」は東洋の思想の底辺をゆさぶりつづけたラディカルな高速の正体だったのだから、まぁ、これでいいだろう。