出典:https://arscombinatoria.jp/omi/news/61
2025.03.05
「仏教が見ている」

菩薩とは何か。仏教にはなぜ釈迦だけでなく菩薩がいるのか。現代における菩薩とは何なのか。参集した一同の問いはやまない。三井寺の観音堂で「別世界」について思いを馳せる長吏の福家俊彦。
年の瀬の迫る12月19日、第八回「還生(げんしょう)の会」が開催された。2022年5月に第一回がスタートしてからいよいよ最終回である。テーマは「大乗仏教と菩薩の倫理 ―他者とどう関わるか」。講師の末木文美士氏は「菩薩の根本問題は他者にある」と打ち明け、これを受けて「日本人は菩薩のアナロジーでイエス・キリストを理解した」とゲストの佐藤優氏は切り返し、三井寺長吏の福家俊彦は人間の深層にあるとされる阿頼耶識について語り、交わし合いは「冥」の深いところを目指して降りていく一日となった。その一端をレポートする。

開催場所は三井寺の観音堂。西国三十三所の十四番札所であり、本尊の如意輪観音(重要文化財)は33年に一度開帳される秘仏だ。写真は本尊の前にある常に拝むことができる如意輪観音像。
百間の和泉佳奈子は静かに口火を切った。
「会場を観音堂に選んだのは、やはり観音様であること。菩薩がテーマだったので、福家長吏が最後は観音堂でいこうと決めました」
まさしく観音菩薩の前で仏教の学び直しを行う趣向である。そして、この観音堂こそは、近江ARSのメンバーと松岡正剛は初めて出会った場所だった。
「松岡は『“仏教が見ている”という感覚を還生の会で共有したい。“仏教が見ている”という状態が、実は日本の仏教を知る鍵なんだ』と言っていました。還生とは、あえて迷妄に入って再び覚悟するという意味だとも語っていました」と和泉は振り返る。ちなみに書籍『別日本で、いい。』の第三幕のタイトルは、「仏教が見ている」である。和泉はこれまでの還生の会のプログラムをやわらかく高速で振り返った。
第1回 日本仏教の見方 ―近江からはじまる
第2回 国家と宗教 ―最澄の目指したもの
第3回 草木は成仏するか ―日本仏教の自然観・人間観
第4回 中世仏教のダイナミズム ―鎌倉仏教観の転換
第5回 土着と論争 ―近世仏教の魅力
第6回 近代仏教の苦闘 ―グローバルか、ナショナルか
第7回 神と仏の間柄 「―神道」は如何にして成立したか
第8回 大乗仏教と菩薩の倫理 ―他者とどう関わるか
一度潜って再生する、これが還生の意味である。ひらたく言えば、「いないいなあばあ」である。

「近江ARSでは一人一人がいろんなところから集まって、力を組み合わせることによって、ゆくゆくは祝祭的な場作りができたらと思っています。単なるイベントではなく、日本を貫いている仏教を学んでいきたいです」(和泉佳奈子)
<参考情報>
ぼくも『日本仏教史』から読み始めた。とくに天台本覚については末木さんのものをずっと追った。しばしば目から鱗が落ちた。あのころは後に「失われた十年」と言われたほど不毛の時期で、世界は湾岸戦争が、日本はバブル崩壊がおこったあとの十年で、グローバリズムに擦り寄る日本の姿があまりに醜悪だったので、ぼくはできるかぎりメディアから遠ざかり、ひたすら沈潜して「世界と日本の関係を新たに観相するための8つほどの視軸」をたて、それらを解読するにあたって読み込むべき数十冊のキーブックにとりくんでいた。
文化人類学系のもの、複雑系に関するもの、遺伝科学や脳科学の本、チューリングマシンもの、グノーシスから神秘主義に及ぶもの、いろいろな著作や問題作を選んだが、そのうちの一冊が『日本仏教史』だった。サブタイトルは「思想史としてのアプローチ」。日本思想史を日本仏教のボラタリティでフィルタリングするという見方だ。『図説日本の仏教』全6巻(新潮社)の思想解説を担当執筆したものも散りばめられていた。論考版は『日本仏教思想史論考』(大蔵出版)にまとまっている。
その後、多くの著作をものされたが、末木さんの本はできるだけいろいろ読んだほうがいいように思う。仏教思想の網目が歴史的かつ俯瞰的に見えてくるだけではなく、日本思想の骨法がわかる。シンタクスとセマンティクスの両方がわかる。『草木成仏の思想』(サンガ)、『日本仏教の可能性』(新潮文庫)、『浄土思想論』(春秋社)、『中世の神と仏』(山川出版社)、『近代日本と仏教』(トランスビュー)など、お勧めだ。
もっと複合的に通史をマッピングしたいなら『日本仏教史』とともに、『日本宗教史』『日本思想史』(いずれも岩波新書)、『日本思想史の射程』(敬文社)、『仏教:言葉の思想史』(岩波書店)を併読するのがいいだろう。
ちなみに末木さんの父上は論理学者の末木剛博で、「遊」創刊前後のころ、ぼくはこちらの末木さんの『東洋の合理思想』(講談社→法蔵館)の影響を受けた。ヴィトゲンシュタイン(833夜)、分析哲学、西田幾多郎(1086夜)、東洋思想にとりくんでおられた。父子ともに短歌や茶道に明るい。
ついでながら弟の末木恭彦は東海大・駒沢大の中国哲学の研究者で、子供時代は兄ともどもに「ガロ」や少女マンガに夢中になっていたらしい。兄貴はタカラヅカのファンでもある。
今夜はそうした末木さんの試みを、比較的最近の『日本仏教入門』を通して、ざっと紹介したい。その話に入る前に、ぼくが日本仏教を考えなおすきっかけになった少しエピソディックな話を挟んでおく。
出典:サブタイトル/日本仏教入門 末木文美士~松岡正剛の千夜千冊より転記~
第1部 伝え
福家俊彦「別所から別日本へ」
福家は菩薩という難解なテーマを理解するためのキーワードとして、「ロゴス的知性」と「レンマ的知性」を挙げた。文化人類学者の中沢新一氏による分類である。前者は、二項対立で考える二分法や論理学をもとに構築された西洋の科学や思想を指す。これに対して、後者は、古代インドからの論理学や思考様式である。ジレンマという言葉がある。2つのうちどちらかを選ばなければならない状況を指すが、レンマ的知性においては、選択肢が3つある「トリレンマ」や選択肢が4つに及ぶ「テトラレンマ」もある。ロゴス的知性の外にはレンマ的思考が広がっていると言える。ちなみに、テトラレンマは大乗仏教を大成した龍樹(サンスクリット名:ナーガールジュナ。2世紀のインドの僧侶)が駆使した論法でもある。
<参考情報>
■初期のキリスト教にはもっと違った思想がいくつもありました。
・とくにアレキサンドリアの教父の書いたものをご覧になると面白いと思います。
⇒クレメンス(2世紀の人物)とかオリゲネスなどの人は
⇒キリストの道はロゴスであることを主張しています。
⇒ロゴスは何もキリスト教だけに現れるはずのものではないといいます。
⇒つまりキリスト以前にキリスト教があったということをいっています。
⇒クレメンスは仏陀に言及して、
⇒インド人の間では仏陀を信じているものがいるが、
⇒その仏陀の教えはロゴスに基づいて現れるというのです。
⇒だからキリスト以前に真理を説いた人が多くいるのであり、
⇒最後に出たのがイエスであったというなるのです。
⇒こんな考え方においては異端というものはなくなります。
⇒宗教的真理を説いた人を歴史的人物としてのキリストだけに限る考え方は維持できなくなりましよう。
⇒だからさきに挙げた「キリストがたとえこの世に千回現れてこようとも」という表現もでてくるわけです。
⇒禅で無功用ということを申しますが、
⇒この境地になることだと思います。
⇒チベットの詩人ミラレーバ(1040年~1123年)も「正しさということは信者の直接の目的というよりはむしろ悟りの副産物である」といっています。
⇒そこで現実肯定の考え方が出てくるのです。
注)アレキサンドリアの教父であるクレメンスの解釈
世界の根本にロゴス(logos)がある
これはダルマ(法)と非常に似ているが、宇宙の真理であるロゴスが現れて聖者になる。
その現れがキリストだという。
キリスト以前にもロゴスが現れがあり、ロゴスを明らかにした人がいる。
たとえばソクラテスがそうであり、ヘラクレイトスがそうである。
それから、インドではBoutaという偉い聖者がいたと書いてある。
キリストという一人の人を特別に偉くみるのではなくて、
偉大なロゴスというものがあって、
その現れだという解釈で、非常に仏教的である。
こういう思想(ロゴスの現れが聖者)は、
後代のキリスト教によると、異端、邪教として退けられてしまうが、
初期にはそういう思想があった。
【クレメンスの思想の特徴】
ギリシャ哲学と文学がキリスト教へ人々を導くために存在したと考え、その思想的な遺産をキリスト教へ継承しようとしたことにある。特にロゴス=キリストであるとした「ロゴス・キリスト論」は、ギリシア思想とキリスト教神学を結びつけた。
注)ロゴス(logos):古代ギリシア哲学において「言葉」「理性」「論理」などを意味し、さまざまな文脈で使われてきた。
【古代ギリシャ哲学におけるロゴス】
- ヘラクレイトス: ヘラクレイトスは、ロゴスを宇宙の根本原理とし、すべてのものが変化しつつもロゴスによって秩序づけられていると考えた。
- ソクラテスとプラトン: ソクラテスは対話を通じて真理を探求し、プラトンはロゴスを理想的な形而上学的実体と結びつけた。
【キリスト教におけるロゴス】
ヨハネの福音書: 新約聖書のヨハネの福音書では、ロゴスは神の言葉として描かれ、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されている。ここでロゴスはイエス・キリストを指し、神の啓示としての役割を果たす。
【インド哲学における視点】
ブッダ: 仏教では、絶対的な存在を否定し、無常や縁起の教えを重視します。ブッダは悟りを通じて真理を見出し、ロゴスに相当する概念として「ダルマ(法)」を説きました。ダルマは宇宙の法則や真理を意味し、個々の存在がそれに従っているとされる。
注)ダルマ:仏教の中心的概念であり、私達の信仰と人生に大きな影響を与える。
- 仏陀の教え:
- ダルマはブッダ(釈尊)の教えを指す。
- 真理と法則:
- サンスクリット語の「dharma」は「保つこと」「支えること」を意味し、それより「法則」「正義」「真理」「最高の実在」「宗教的真理」の意味にもなる。
- ダルマは、人生と宇宙の法則を示し、私たちが歩むべき道を指す。
出典:サブタイトル/禅の世界思想史的位置づけ~禅研究所紀要 第04・05号 中村元~転記
<参考情報>
■テトラレンマ:Google AIの解答
テトラレンマ(四句分別)は、2世紀のインドの僧龍樹(ナーガールジュナ)が主著『中論』(根本中頌)で駆使した論理的枠組み。
ある事象に対し「Aである」「Aでない」「AでもありAでもない」「AでもなくAでもない」という4つの可能性を全て否定し、固定的な実体を認めない「空(くう)」を説くための手法。
テトラレンマ(四句)の基本構造
龍樹は、あらゆる存在や概念が固定的な実体(自性)を持つという考えを否定するために、以下の4つの局面を否定(非)します。
- 「ある」(是):実体があるという主張の否定
- 「ない」(非):実体がないという主張の否定
- 「あるでもあり、ないでもある」(亦是亦非):両方を認める考えの否定
- 「あるでもなく、ないでもない」(非是非非):両方とも否定する考えの否定
これら4つのいずれの立場にもとらわれない(四句を否定する)ところに、実体のない「空」という真理が明らかになると『中論』は説きます。
中論における目的
- 空(くう)の確立:すべての事象は「縁起」(相互依存)によって存在しており、不変の自己本質を持たないことを示す。
- とらわれの否定:実在(有)や虚無(無)という極端な思考から離れ、中道(ちゅうどう)に立つ。
テトラレンマは矛盾を指摘するだけではなく、言葉や論理の限界を超えた空の真理を、逆に論理(否定)を使って論証する「空の時代」の強力なツールとして中観派(中論の思想を継承する人々)に受け継がれました。
⇒実体視を否定し、固定観念を超越する思想です。
1. テトラレンマ(四句分別)の定義:具体例(『中論』第一章)
物事は「自ら生じる(自生)」「他から生じる(他生)」「自他から生じる」「原因なく生じる(無因)」のいずれでもない。
2. 『中論』における「空」の論理
- 龍樹の目的:認識の対象となるあらゆるもの(縁起)に、固定的な不変の実体(自性)を認めない。
- 二項対立の超越:存在と無存在という極端な見方(二見)を離れ、中間(中道)に立つ。
- 機能:言語や思考で捉えられる「有」「無」を排し、真実の姿(如実知見)に到達する手法。
3. テトラレンマの特徴
- 否定の否定:3つ目、4つ目の選択肢を含むことで、単純な排中律を回避し、思考の限界を超えようとする。
- パラコンシステント論理:現代では、矛盾を排斥せずに真理を追究する「矛盾許容論理」としても注目されている。
- 絶対矛盾的自己同一:観察主体と対象の分離を無境界にする論理として扱われる。
『中論』では、この四句分別を27の章にわたって展開し、時間、運動、感覚、自己といったあらゆる事象が「実体としては存在しない(空である)」と帰結させています。
出典:Google 検索
<参考情報:『中論』の四つのレンマ>





出典::東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)

「どのようにして菩薩行を実践していくか。今、世界中で戦争が起きている。ウクライナ、ガザ、シリア。こういう時代こそもう一度ベトナム戦争を見直すのがいいのではないかと感じている」(福家俊彦)
さらに福家は人間の深層にあるとされる「阿頼耶識」について思いを巡らせながら、仏教も研究した博覧強記の南方熊楠、近代言語学の父といわれるソシュール、ベトナム戦争に反対して焼身供養した僧侶のティック・クアン・ドック、フランスの思想家ジュリア・クリステヴァまで、洋の東西を問わずに次々に取り上げてゆく。話のしめくくりは、近江ARSの次なる展望だった。
「ロゴス的知性だけでなく、レンマ的知性を組み合わせた形で我々の意識が成り立っている。その出口の一つである芸術を重んじたい。近江ARSは「別所」からスタートしている。外側の空間や間(ま)をもった場所を、心の中にも、物理的にも、この近江からなんとか作っていきたい」
<参考情報>

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分」は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分」である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分」で「識」の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけです。
出典:サブタイトル/「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|前編
<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い):スケール』>
■同じパターンが繰り返される系とは
・あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。
⇒つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。(スケールフリー)


■レヴィ=ストロースから解釈する世界の構造
小野:いろんなジャンルの世界が同時にあるという世界認識は一般的なものになりつつある。それを踏まえて、清水さんがつくろうとしている「全部を統一した哲学」について聞いてみたいです。
清水:僕がやろうとしたのは、二項対立をいくつもつくって一巡させるということです。レヴィ=ストロースは、神話のなかに二項対立があったら、それをいくつも増やして複雑にそれらの関係を読み解いていきました。神話の思考では、「男と女」という二項対立があるなら、「両性具有」「無性者」と両者を媒介するような中間のものを「第三項」としてとりながら、最初にあった「男と女」の起源を説明するように、ぐるっと一巡するんですね。それによって構造ができて、差異の体系ができているのが神話だと、レヴィ=ストロースは言っていたんです。
たとえば、「火にかけたものは文化的で食べられる」「生のものは自然のままのもので食べられない」という考えがあるとします。しかし、タバコは火にかけても食べたら死んでしまうし、ハチミツは火にかけなくても食べられる。こういうものを「媒介」、ぐるっと回って永遠に原理を遡行しなくてもいい構造をつくっているものを「縮約」と言います。「媒介」と「縮約」によって神話を考えることができるんです。
小野:『今日のアミニズム』では、レヴィ=ストロースの「縮約」と仏教を関連づけて論じられています。
清水:ナーガールジュナは『中論』などで、「《A》がなければ《非A》がない」「《非A》がなければ《A》がない」という構造を、縁起にまつわる「相依性(そうえしょう)」というあり方で説きましたが、あれも実は「縮約」をつくっているんです。
音楽も、ラヴェルの『ボレロ』などは、「縮約」しながら繰り返して、変奏しながら縮約形をとって終わります。
レヴィ=ストロースは、神話もそのようにしてあると言っていて、なるほどと思いました。
出典:続・虚実と世界 〜 アニミズムと世界認識
<参考情報>
循環だけを強調していると、同じところで堂々巡りをしている印象なので、「一と多」というバイナリーを出してきて、それについても離二辺である、ということが明確に主張されるようになる。一と多の相互包含は、複数の「識」どうしがお互いに含み合うところからそう言われるわけです。
空海だと《循環構造》を「相応」、《一と多の相互包含》を渉入と言いますね。渉入自在と言ったりする。それがまさに一即多なんです。「相応」というのは「識」のなかの見分(≒認知主体)と相分(≒対象世界の現れ)が循環的に対応しているということです。空海は、それはヨーガyogaだとも言っている。英語のyokeと同じでヨーガには「くびき」という意味があり、牛が二頭繋がれるように、「つなぐ」意味あいがあるわけですよね。これがヨーガであり、即だという言い方を空海はしている。
出典:サブタイトル/『今日のアニミズム』から『空海論/仏教論』へ~清水高志+奥野克巳 対談転記~
<参考情報:法界縁起とは>





出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
<参考情報:原始仏教(釈尊)が考えた心の動き(六識説)と阿頼耶識>
インド論理学では、「《A》がある」「《非A》がある」「《A》かつ《非A》」「《A》でも《非A》でもない」という、第一レンマ、第二レンマ、第三レンマ、第四レンマと呼ばれるものを駆使するんですが(四句分別)、それは構造の論理なんですね。十二支縁起(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死→無明……の繰り返し)でも、重要なのはそれぞれの構成要素ではなく、実はループ構造なんです。



出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
<参考情報>

出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4 第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所
縁起で語られていることは、人間の煩悩の増大、生成の局面です。「無明があるから行がある……」といったように。しかしナーガールジュナは、縁起の本質がこのループ構造そのものであることに気づいた。そうすると、「《A》があるから《非A》がある。《非A》があるから《A》がある」という関係になるんですが、これは《A》と《非A》をまたいだ第三レンマな「中」にあたるものです。実際には、そのループのなかでは、すべての要素が順々にこうした第三レンマになる。
しかも逆観といって、このループ構造を「《A》がないから《非A》がない。《非A》がないから《A》がない)という風に逆転させることを仏教では説きますから、原因においては・・・・・・・「《A》でも《非A》でもない」という第四レンマが成り立つ。
非常にミニマムで抽象系ですが、釈迦が縁起と「離二辺の中道」というかたちで「どちらの極にも行かない」第四レンマを最初から語っている背景には、レヴィ=ストロースが「第三項による媒介」とか、「縮約」とか読んだものがあるのです。
たぶん、仏教以前の神話の思考、野生やアニミズムの思考を、仏教がそういうかたちで抽象化したんです。だからこそ、その構造にいろんな地域のいろんな「野生の思考」が融和して、むしろ温存されたところもあると思います。たしか、レヴィ=ストロースも、仏教が早くに成立したからそれらが融和されたということを言っていました。ある意味、日本も聖徳太子の時代に仏教を採用したからこそ、各地の宗教やシャーマニズムを統合できたところがあると思うんですね。
僕は「文化の核心部分は何でできているか」という理屈を考えてみたかったんです。
たとえば、「人間と自然の関係(主体/対象)」「一/多」「含む・含まれる(内/外)」という三種類の二項対立「トライコトミー(trichotomy、三分法)」を考えるとします。多くの場合、こうした二項対立は、「主体」に「一」というバイアスがかかっていたり、対象に「多」というバイアスがかかっていたりしますし、その逆パターンもあります。
三種類の二項対立を混ぜ合わせツイストさせて解くと、永遠に原因を遡るわけでもなく構造ができるのではないかというアイデアだったんです。最近は、プラトンをレヴィ=ストロース的に読んでいます。プラトンも二項対立を複雑化しているのですが、レヴィ=ストロースを補助線にすると「あ、これは野生の思考だな」とわかる。むしろそう読まないとわからないところがいっぱいあるんですよ。
出典:■続・虚実と世界 〜 アニミズムと世界認識 哲学者 清水高志× 『広告』編集長 小野直紀 『広告』虚実特集号イベントレポート
■六境(対象物)・六根(感覚器官)・六識(感覚作用)・意識(こころ)に収険される

■唯識の肝:八識
・前五識 (眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
・第六 意識
⇒上記六識に以下2識を加える(認識の深化)
・第七 未耶識(マナシキ:自己中心化⇒外界から入る情報を自分の都合の良いように解釈する)
■第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)

◆第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識
・個々人の見聞、経験等の情報が全て書き込まれ、ため込まれる
⇒良くも悪くも「ため込まれた情報」は更新される
⇒次第に個々人の倫理観が形成される「心の働き」の領域

・何を第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ)にため込む事が大事か
⇒七仏通誡偈(ひちぶつつうかいげ)
⇒自らその意を浄めよ(第七 未耶識との衝突(矛盾))
※第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)

■禅観
・入力情報を屈折させない仕掛け
⇒呼吸を整えて

出典:第741回花ホテル講演会 タイトル:「法相宗は面白い ~こころを観る唯識~」 講師: 高次 喜勝 氏(YouTube)
第2部 語り
末木文美士「大乗仏教と菩薩の倫理」
「合理性を突き詰めていけば真理にたどり着くという近代的な考え方が1990年代ぐらいから行き詰まってきた」
そう語り始めた末木氏が注目しているのは、昨年ノーベル文学賞を受賞した韓国の作家ハン・ガンだ。今回のテーマである「菩薩」を考えていくにあたり、その根本問題は「他者」だという。いかに他者と共にあるのか。これが菩薩の問題であり、逆に言えば、他者論という問題への仏教の答えが、「菩薩」という考え方である。他者とは、「了解不可能であるが関わらざるを得ない存在」である。一言でいえば、他者とは「わからない存在」である。
ハン・ガンの小説には、まさに他者が描かれているという。『菜食主義者』は他者の痛みや苦しみとどれだけ関わり得るかを綴り、また、『別れを告げない』では他者との通底することができるかどうかが模索されている。
ここで仏教学に立ち返ると、菩薩とはサンスクリット語のbodhisattaの音写である菩提薩埵(ぼだいさった)を略した言葉である。「悟りを求める衆生」「仏になるための修行中の衆生」という意味をもつ。仏教の始まりであるブッダから、菩薩が誕生するまでの変遷は、自利(小乗)から利他(大乗)への転回であり、「歴史上のたった一人のブッダ」から「衆生を救うためのたくさんのブッダ」への発展でもあった。

観音堂の書院にて講義を行う末木文美士氏。「『法華経』を受持する菩薩は「地涌(じゆ)の菩薩」と言いますが、これはまさしく新たな死者のパワーを受けた仏というものを受け止めていくことのできる存在」
ここから末木氏は大乗仏教を代表する経典『法華経』の解説に踏み込んでいく。実は『法華経』は従来語られてきた二部構成(迹門と本門)ではなく、下記のように三つの段階に分かれて成立してきたことが近年の研究でわかってきたという。
第1類 「存在としての菩薩」
第2類 「実践としての菩薩」
第3類 「模範としての菩薩」
とりわけ核となるのは、第2類の中にある「見宝塔品 第十一」。この章の中でブッダ(釈迦如来)が、死者であるブッダ(多宝如来)と空中の宝塔の中で隣り合って座るシーンがある。「二仏並坐」という。これにより死者のパワーを受けたブッダは、さらなる力を得る。まるでSFのような展開だが、この世(顕)とそうでない世界(冥)とのつながりを強く示唆する一幕である。
「十界互具」という仏教用語がある。世界は仏、菩薩、縁覚、声聞、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の十で成り立っており、そしてこの世界の一つ一つそれぞれが十の世界を備えているという考え方だ。端的に言えば、仏も心に地獄を持っているということ。心に地獄を持っていて、地獄を理解しているからこそ、仏は衆生を救うことができるのだという。
<参考情報>
『法華経』は「諸経の王」と言われます。これは、『法華経』が「皆成仏道」(皆、仏道を成ず)、つまりあらゆる人の成仏を説いていたからです。誰をも差別しないその平等な人間観は、インド、ならびにアジア諸国で古くから評価されてきました。
日本でも仏教伝来以来、『法華経』は重視されてきました。飛鳥時代、奈良時代を見ても、聖徳太子は『法華経』の注釈書『法華経義疏』(六一五年)を著し、七四一年に創建された国分尼寺では『法華経』が講じられました。尼寺ですから、女人成仏が説かれた経典として注目されたのでしょう。鎌倉時代に入っても、道元が『正法眼蔵』の中で最も多く引用している経典は『法華経』ですし、日蓮は、『法華経』独自の菩薩である「地涌の菩薩」「常不軽菩薩」をわが身に引き当て、「法華経の行者」として『法華経』を熱心に読みました。
『法華経』はまた、文学や芸術にも影響を与えています。『源氏物語』には、八巻から成る『法華経』を朝夕一巻ずつ四日間でレクチャーする「法華八講」の法要が光源氏や藤壺、紫の上などの主催で行なわれる場面が出てきます。『法華経』の教えを分かりやすく説いた説話集や、『法華経』の考え方を根拠にした歌論、俳論も多く書かれていますし、近代では宮沢賢治が『法華経』に傾倒していたことはよく知られています。美術の分野でも、長谷川等伯、狩野永徳などの狩野派の絵師たち、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳など、安土桃山時代から江戸時代の錚々たる芸術家たちが法華宗を信仰していました。
『法華経』には、一見すると非常に大げさな、現代人の感覚ではつかみがたい巨大なスケールの話が次から次へと出てきます。しかし、その一つひとつにはすべて意味があります。私は『法華経』をサンスクリット原典から翻訳する中で、その巧みな場面設定に込められた意味、サンスクリット独特の掛詞で表現された意味の多重性、そして、そこに貫かれた平等思想を改めて発見することができました。そうした表現が持つ意味を解説しながら、あらゆる人が成仏できると説いた『法華経』の思想を読み解いていくことにしましょう。
出典:サブタイトル/思想として『法華経』を読む—植木雅俊さんが読む『法華経』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】より転記 ■植木雅俊さんによる、『法華経』読み解き
<参考情報>
■インド仏教史の概要
『法華経』は、釈尊(お釈迦さま)が亡くなって五百年ほど経った頃(一世紀末~三世紀初頭)に、インド北西部で編纂されたと考えられています。『法華経』の説く思想は、この時代、特に当時の仏教界が直面していた課題と密接に関係しています。そこで、まずはインド仏教史の概略からお話しすることにしましょう。これを知っておくと、『法華経』という経典の位置づけが分かり、内容もより理解しやすくなります。
最初は原始仏教の時代です。原始仏教とは初期仏教とも言い、釈尊在世(中村元先生によると、前四六三~前三八三)の頃、および直弟子たちがまだ生きている頃の仏教を指します。
紀元前三世紀頃、インド亜大陸をほぼ統一したアショーカ王の命により、息子(あるいは弟)のマヒンダによってセイロン(現スリランカ)に仏教が伝えられました。アショーカ王の妻の出身地が西インドで、マヒンダはそこで話されていたパーリ語の仏典をセイロンに伝えたため、ここにパーリ語で原始仏教が保存されることになりました。釈尊の生の言葉に近いものが残ったわけで、これは後世の我々にとって本当に幸運なことでした。
釈尊滅後百年ほどが経った頃、紀元前三世紀に第二回仏典結集が行なわれ、そこで仏教教団は保守的な上座部と進歩的な大衆部に分裂します(根本分裂)。それがさらに枝分かれし、二十の部派にまで広がります(枝末分裂)。その中で最も有力だったのが、説一切有部という部派です。権威主義的で資金も豊富であり、後に「小乗仏教」と批判されるのはこの部派のことを指します。小乗仏教という言葉は、一般的には大乗仏教以外の仏教すべてというようなかなり曖昧な使われ方がされていますが、龍樹の著とされる『大智度論』によると、厳密にはこの説一切有部のことです。以下、本書で小乗仏教と言う場合は、この説一切有部のことを指します。
こうして、紀元前三世紀末頃までに、仏教は説一切有部を最有力とする部派仏教の時代に入りました。
そして前二世紀頃、「覚りが確定した人」を意味する「菩薩」の概念が現れます。これは覚りを得る前、ブッダになる前の釈尊を意味するものとして、小乗仏教が発明した言葉です。釈尊滅後、その言動を記したさまざまな仏伝が書かれるようになりますが、「あれだけ偉大な釈尊なのだから、過去にはきっと遙かな長い時間をかけて修行されたに違いない」という思いから、長い修行のある時点で、燃燈仏(ディーパンカラ)という仏が「あなたは将来、仏になるだろう」と釈尊に予言(授記)した、という物語が作られました。そこで、仏になることは確定したが、まだ仏になっていない状態の釈尊を何と呼ぶかということで、覚り(bodhi)と人(sattva)をつなげてbodhi–sattva(菩提薩埵、略して菩薩)とし、「覚りが確定した・・・・・人」という意味の言葉ができたのです。
これに対して、紀元前後頃、菩薩という言葉の意味を塗り替える動きが興おこります。すなわち、bodhi-sattvaを「覚り(bodhi)を求める・・・・人(sattva)」と読み替え、覚りを求める人は誰でも菩薩であると考える大乗仏教が興ったのです。小乗仏教では菩薩と呼べる存在は釈尊と未来仏の弥勒(みろく:マイトレーヤ)だけでした。それをあらゆる人に解放したのです。
しかし、大乗仏教が興ったからと言って小乗仏教がなくなったわけではありません。勢力としてはむしろ小乗仏教の方が大きく、大乗仏教の方はまだ小さな勢力でした。こうした大小併存の時代の中で、まず、大乗仏教の側から小乗仏教の出家者たちを痛烈に批判する『般若経』が成立します。そして紀元一~二世紀頃には、保守的で権威主義的な部派仏教を糾弾する『維摩経』が成立しました。
こうした流れに対し、紀元一~三世紀頃、小乗と大乗の対立を止揚(アウフヘーベン)する、つまり対立を対立のままで終わらせず、両者を融合させてすべてを救うことを主張するお経が成立しました。それが『法華経』なのです。
出典:サブタイトル/思想として『法華経』を読む—植木雅俊さんが読む『法華経』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】より転記 #2 インド仏教史の概要——植木雅俊さんが読む『法華経』
<参考情報>
その手の試みはすでに般若経の編纂グループが先行していたのだが、それに続くもので、できれば決定版にしたい。『法華経』である。
ひるがえって、もとからの小乗グループは、仏教の教えを伝え導くことができるのはブッダただ一人、釈迦仏だけだと考えてきた。それゆえ修行者はブッダを理想のモデルとして、一人ひとりがさまざまな執着を断ち、輪廻から解脱するために阿羅漢(あらかん)をめざす。なかで、その境地にかなり近づいた者は菩薩、すなわちボーディサットヴァ(菩提薩埵、略して菩薩=悟りを求める人)と称ばれるところにまでは達するが、とはいえブッダになるわけではない。そう、考えてきた。
これに対して大乗グループは、釈迦仏以外にもブッダ(覚者)はありうると主張した。菩薩もブッダをめざしつつ、自分だけではなく衆生(多くの他者)を悟りに導こうとしているのなら新たに「菩薩乗」とみるべきだと主張し、たんに教えを聞く修行者はブッダになろうとしていないのだし、自分だけの覚醒にこだわっているのだから「声聞乗」(しょうもんじょう)にすぎないとみなした。また、教えを聞くことなく独力で解脱をめざす者たちもふえてきたようだが、かれらは別して「縁覚乗」(えんがくじょう)などと称ばれるべきだとした。
こうして、修行者を教えを聞いて悟ろうとする声聞乗(小乗)、自身の悟りを求める縁覚乗(中乗)、一切衆生のために仏道を広める菩薩乗(大乗)という「三乗」の見方ができあがっていったわけである。このうち声聞・縁覚乗を「二乗」とも名付け、大乗を進む者を「一乗」と名付けた。
大乗グループは、これらのことがブッダの語りによって展開されている経典が存在するべきだと考えて、かなり長い時間をかけて『法華経』を仕上げた。そこではブッダは「私が小乗や二乗の道があると説いたのは、大乗に導くための方便だった。本来の道は一乗なのだ」と語っているようにした。前半の迹門で二乗を重視しておきながら、後半の本門では一乗を重視させたのである。
出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~
<参考情報>
法華経は28品で構成されている。品は「ほん」と読む。ただし28品であることにはそれほどの意味がない。あれこれ書き換えや着替えをして入念に仕上げてみたらこうなったというものだ。
次のようになっている。ふつうは「序品第一」「方便品第二」「薬草喩品第五」というふうに示すのが日本の仏教学の慣習になってはいるが、上記でもそうしてきたように、わかりやすく算用数字をあてた。
1「序品」、2「方便品」、3「譬喩品」、4「信解品」、5「薬草喩品」、6「授記品」、7「化城喩品」、8「五百弟子受記品」、9「授学無学人記品」、10「法師品」、11「見宝塔品」、12「提婆達多品」、13「勧持品」、14「安楽行品」、15「従地湧出品」、16「如来寿量品」、17「分別功徳品」、18「随喜功徳品」、19「法師功徳品」、20「常不軽菩薩品」、21「如来神力品」、22「嘱累品」、23「薬王菩薩本事品」、24「妙音菩薩品」、25「観世音菩薩普門品」、26「陀羅尼品」、27「妙荘厳王本事品」、28「普賢菩薩勧発品」。
この構成が大きくは前半と後半に巧みに分かれるのである。前半の1~14品までを「迹門」(しゃくもん)、後半の15「従地湧出品」からを「本門」(ほんもん)というのだが、ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。図解をすると次のようになる。

法華経の構成
図で示してあるように、このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」だ。そのほかいろいろ複雑な“幅タグ”がついているけれど、いまはこれらの区分けは無視しておかれたい。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっているということだ。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。ブッダ存在学になる。
こうすることによって、前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは理念的永遠のブッダだというふうになった。そこがまことにうまくできている。これがもし詭弁的構成でないのなら、まさに超並列処理というものだ。
ぼくはこの絶妙を知ったときには、心底、感嘆した。キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと、どうにも釈然としないところがのこるのだが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それをはるかに勝るものがある。なにより、語り手のブッダが聞き手の菩薩たちにこのことを自身で説いているというドラマトゥルギーとしての根性がいい。
いったい誰がこういう文巻テキスト編集作業ができたのか。もはやその当初の着手者の名はのこらないけれど、おそらくは当初の文巻というものが下敷きになって、そこに多くの“加上”と“充填”が加わっていったにちがいない。
仏は霊山浄土にて 浄土も変へず身も変へず
始めも遠く終はりなし されども皆これ法華なり
こうして、菩薩行の本来とブッダの永遠の性格を説明する後半は「本門」に集中させることができ、それにあたって使われる方便は前半部の「迹門」でも存分にアイドリングしておけるようになったわけである。
その前半のアイドリングを示す恰好なところはいくつもあるのだが、そのひとつ、ふたつを示しておきたい。
4「信解品」に、仏弟子たちが“あること”を告白している注目すべき一節がある。仏弟子たちが、私たちは世尊が説いた教理をすべて「空・無相・無願」というふうにあらわしてきたが、私たちは耄碌したのかもしれない。そう言っている一節だ。

四人の仏弟子がブッダを前に懺悔し、礼拝する図
(「法華経曼荼羅」第四軸 信解品)
この仏弟子たちというのは小乗の教徒たちである。「空・無相・無願」というのは、悟りにいたる三つの門のことを、すなわち「三解脱門」をさす。三つの門はのちに寺院の「三門」(山門)に擬せられたものでもあるが、無限定・無形相・無作為にいたることをいう。ところが、これを小乗教徒たちがどうやら虚無的に理解したらしい。だから耄碌したのかもしれないなどと自分たちのことをニヒルに語った(法華経の編者がわざとそう語らせた)。“あること”の告白とはこのことだ。
そこでブッダは有名な「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもって、窮子たる小乗的ニヒリズムの徒たちの迷妄を解き、大乗の可能性をひらく。この一節は、そのような小乗から大乗へのメタファーによる転換を示している。
つまり法華経の編者たちは、ブッダの教えが声聞・縁覚にとどまる小乗教徒(部派仏教徒)によって曲解されていることをもって、これを新たな展開の契機にもっていきたかったのである。ただしその説明はすこぶるメタフォリカルだった。そのことが4「信解品」の書きっぷりに浸み出したのだ。

屋敷で働く窮子(貧しい子)に、長者が全財産を贈与するという喩話
またたとえば、2「方便品」には、舎利弗が3回にわたってブッダに説法を願う場面がある。それに応じてブッダは説法を始めようとするのだが(三止三請)、そのときちょっと意外な場面になっていく。5000人の出家者・在家者がその場から一斉に立ち去ってしまったのだ。これから始まる法華経的説法を聞こうとしない。いったい「5000人の退席」(五千起去)とは何なのか。最高のブッダにおいて、どうしてそんなことがおこるのか。
大乗仏教の真髄に向かえそうもない連中の、その増上慢をあらかじめ戒めたというのがフツーの解釈だ。しかしもう少し深読みすると、法華経を侮ってはいけない、わかったつもりで聞くのなら、文脈から去りなさい。編者たちはそう言っておきたかったのだ。それにしてもわざわざ5000人もの退席を見せておくというのは、なんとも大胆な演出だった。

真理は語ることができないとして
説法を拒否したブッダ
法華経にはこういうふうに、「引き算」から入る文脈が少なくない。そのうえで「足し算」をする。引けばどうなるかというと、アタマの中に空席ができる。そこへ新たなイメージの束を入れるのだ。そういうことを随所で巧みにやっている。イメージの束だから、ついついメタフォリカルになるけれども、それを怠らない。これは法華経に一貫した際立つ特徴なのである。
それゆえ、ここは肝腎なところになるのだが、完成した法華経を読みこんでみると、方便や比喩はたんなるレトリックではなかったことがしだいにわかってくる。方便やレトリックによって聞き手に空席や空隙をつくり、そこに新しい文脈の余地を立ち上げること、それこそが法華経にひそむ根底の“方法の思想”だとも言えたのである。
だからこそ法華経は前半部でこそ声聞や縁覚の「二乗作仏」(にじょうさぶつ)を説くのだが、後半部では「久遠実成」(くおんじつじょう)を説いて、これをメビウスの輪のごとくに統合してみせられたのだ。
釈迦の御法(みのり)は唯一つ 一味の雨にぞ似たりける
三草二木は品々に 花咲き実なるぞあはれなる
さて、まとめていえば、法華経の外観はよくできた物語だった。ドラマ仕立てのスペースオペラなのだ。場面も移っていくし、登場人物も多い。『レッドクリフ』の比ではない。だからまさに物語になっているのだが、そこには別々にできあがったエピソードやプロットをできるかぎり一貫したスクリプトのなかに収めようとしているのが、よく見える。つまり編集の苦労のアトがよく見える。
そのことを説明するには、ここで1「序品」→2「方便品」→3「譬喩品」というふうに、1品ずつの内容をかいつまむべきだろうけれど、今夜はよくある法華経入門書のようにそれを踏襲することはやめておく。そのかわり、最も構成が絶妙なところだけをあらためて指摘する。
法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。そのきっかけが、これまで述べてきた大勢の「地湧の菩薩」たちの出現だった。
つまりこの「一品二半」の蝶番には、前半の「二乗作仏」の説明を後半の「菩薩行」の勧めに切り替えるデバイスがひそんでいたわけである。そのため、ここで自力と他力が重なっていく。現実的な迹仏(しゃくぶつ)と理想的な本仏(ほんぶつ)が重なっていく。その重なりをおこす蝶番が、ここに姿をあらわすわけなのである。地涌の菩薩はそのためのバウンダリー・コンディション(境界条件)だったのだ。
この蝶番の機能のことを法華経学では「開近顕遠」(かいこんけんのん)、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)、「開権顕実」(かいこんけんじつ)などという。近くを開いて遠きを顕わし、形になった迹仏から見えない本仏を見通し、方便とおぼしい例の教えから真実の教えを導く、ということだ。
ともかくもこのように、法華経はなんとも用意周到に編集構成されていた経典だったのである。やっぱりハイパーテキストだったのだ。なぜそうなったかといえば、理由は明白だ。そもそも大乗仏教のムーブメントは西暦前後に萌芽したものだけれど、法華経はまさにそのムーブメントの渦中においてそのコンストラクションを編集的に体現したからだった。
それをあらためて思想的に一言でいえば、次のようになろう。ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と
我が身ひとつは界(さか)ひつつ 十方界には形(かたち)分け
衆生(しゅじょう)あまねく導きて 浄光国には帰りたし
ふりかえってみると、そもそもブッダはバラモンの哲学や修行の批判から出発した。宇宙の最上原理であるブラフマン(梵)と内在原理であるアートマン(我)への帰入を解いたバラモンから、自身のありのままをもって世界を見ることによって離脱することを考えた。道は険しかったけれど、ブッダはついに覚悟してバラモン社会から離れていった。
覚悟したブッダが気がついたことは、世界を「一切皆苦」とみなすことだった。それによって、人間が覚醒に向かってめざすべきものは「諸行無常」の実感であって、「諸法無我」の確認であり、そのうえでの「涅槃寂静」という境地になることだろうと予想した。
これはむろんたやすいことではない。ブッダはみごとに悟りをひらいたけれど、その精神と方法がそのまま継承できるとはかぎらない。継承者がいなくて縮退することは少なくない。そういう宗教なんて歴史上にはゴマンとあった。そこで、ブッダが説いた方法をもっと深く検討し、どのように継承すればいいかということが議論され、そうとうに深く研究されてきた。その方法が「縁起」によって相互の現象を関係させつつも、それらを次々に空じていくという「空」の方法だったのである。
「空」や「縁起」がどういう意味をもっているかは、ここに話しだすとさすがにキリがないので、846夜にとりあげた立川武蔵『空の思想史』などを見てもらうこととして、しかし、ここでブッダ継承者たちのあいだで予想外の難問が生じてしまった。「空」と「縁起」を感じるにあたって、当時の多くの信仰者たちは自分の覚醒ばかりにそれをあてはめていったのだ。
それはあとからみれば、それこそが声聞・縁覚の二乗の限界だった。しかしこれを切り捨てることなく、二乗作仏の試みをして、さらに菩薩行をもってその流れに投じさせるには、ひとまずは声聞・縁覚に菩薩を加えた三乗のスキームによって、これを大乗に乗せていかなくてはならない。当初の大乗ムーブメントは、その難関にさしかかったのである。その「2+1」を進めるには、どうすればいいのか。三乗を方便としつつ、これを一乗化していく文脈こそが必要とされたのだ。
これを法華教学では「三乗方便・一乗真実」の教判という。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗もろとも、一仏乗にしていこうというスキームだ。「2+1=10」という方法だ。
さてさて、ところで、こういう言い方をするのは、なんとなく気がついただろうけれど、インド的な見方というより、実は中国仏教が得意とするハイパーロジカルな表現力なのである。実はこれまで述べてきた迹門と本門という分け方も、中国法華学によっている。天台智顗の命名だった。中国仏教はこういう議論が大好きなだったのである。ついでにその話をしておきたい。
古童子(いにしえどうじ)の戯れに 砂(いさご)を塔となしけるも
仏と成ると説く経を 皆人(みなひと) 持(たも)ちて縁結べ
法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本ののち、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に届いた。ここで法華経が漢訳されると、これには中国的解釈が徹底して加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していった。

宋版『妙法蓮華経』
出典:サブタイトル/梵漢和対照・現代語訳 法華経 [訳]植木雅俊~松岡正剛の千夜千冊より転記~
<参考情報>
法華経このたび弘めむと 仏に申せど聴(ゆる)されず
地より出てたる菩薩達 その数 六萬恒沙(ろくまんごうしゃ)なり
津島さんの「法華経に速度を与えよう」で始まったぼくの風変わりな法華経青春縁起は、その後はちょっとばかり落ち着いて、そのかわり日蓮の影響も手伝って、だんだん質的に変化して、いつしか自分でも手に負えないほど巨きくなった。
理由ははっきりしている。大乗仏教における「菩薩」や「菩薩行」とはいったい何かということが気になってきたからだ。
このことに関してはいまならいろいろのことが言えそうなのだが、それを今夜はとりあえず端的にいえば、法華経が演出した「地湧(じゆ)の菩薩」の満を持した覚悟の意味と、「常不軽(じょうふきょう)菩薩」の不思議なキャラクタラリゼーションの意図を追いかけたいということ、このことに尽きている。
地湧の菩薩は法華経の15「従地湧出品」(じゅう・じゆしゅつほん)に登場する。その名の通り、大地を割って出現した六万恒河沙の菩薩たちをいう。ブッダが涅槃に入ったのち、その教えが伝わりにくくなり、その信仰の本来の意図の布教が躊めらわれていたとき、ついに地面から出現したのが地湧の菩薩たちだった。たいそう劇的なことには、この地湧の菩薩が出現してくる瞬間、法華経全巻がここで大きく転回していくのである。
この構成演出はすばらしい。それとともに、ここに菩薩の意味がついに明示されていた。かれらは「知っての通りの待機者」だったのだ。
お恥ずかしいことに、ぼくは長らく仏教における菩薩とは何者なのか、何を担っている者なのかということがわからなかった。なぜ悟りきった如来にならないで、あえて菩薩にとどまっているのか。そこにどうして「利他行」(りたぎょう)というものが発生するのか。そこがいまひとつ得心できていなかった。こんな宗教はほかには見当たらない。菩薩はエヴァンゲリオンではない。他者にひっこむものなのだ。凹部をもったものなのだ。
そういう謎が蟠っていたのだが、それを払拭したのが法華経の「地湧の菩薩」だったのである。いや、法華経における「地湧の菩薩」の巧みな登場の“させかた”だったのだ。つまりはこれは、法華経におけるブッダが示した鍵に対する凹んだ鍵穴だったのである。

地涌の菩薩の一団の出現
(「法華経曼荼羅」第十四軸部分)
実際には菩薩(ボーディ・サットヴァ)とは、ブッダが覚醒する以前の悟りを求めつつある時期のキャラクタリゼーションをいう。しかし法華経においては、その格別特定のブッダの鍵がカウンター・リバースして、いつのまにか菩薩一般という鍵穴になったのだ。
というふうには感じているのだが、まだこのことに関してはぼくの思索が現在進行形している途次なのである。
不軽大士(ふきょうだいし)ぞ あはれなる
我深敬汝(がじんきょうにょ)と唱へつつ
打ち罵り悪しき人も皆 救ひて羅漢と成しければ
一方の常不軽(じょうふきょう)菩薩のほうは、法華経20の「常不軽菩薩品」に登場する。鳩摩羅什の漢訳では「常に軽んじない菩薩」(不軽)という漢名をもっているのだが、サンスクリット原典では一見、「常に軽蔑されている菩薩」とも読めるようになっている。
植木さんはそこを、こう訳した。「常に軽んじないと主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」というふうに。うーん、なるほど、なるほど、これならよくわかる。ネーミングの意図を汲み上げた訳になっている。そうであるのなら、この菩薩は鍵と鍵穴の関係をさらに出て、菩薩と世界の、菩薩と人々との“抜き型”そのものになったのだ。フォン・ユクスキュル(735夜)ふうにいえば、その“抜き型”のトーンそのものになったのだ。
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)がこのような、比類なくアンビバレントな名前をもっていること自体も意味深長なのだが、そのうえでこの菩薩は何をするかというと、乞食のような恰好のまま、誰だって成仏できますと言い歩く。そこがまたもっと不思議なのである。だいたい、そんな安直なことを急に言われても、誰も納得するはずがない。かえってみんなに罵られ、石を投げられ、打たれたりする。それなのに常不軽菩薩はあいかわらず誰に対してもひたすら礼拝をする。あるいはひたすら菩薩の気持ちを述べる。それしかしない。そればかりする。

石を投げる人々に礼拝する常不軽菩薩
この常不軽菩薩のキャラクターが法華経全巻において燻し銀のごとく光るのだ。これは「愚」なのである。「忍」なのである。いわば常不軽菩薩は「誰も知らない菩薩者」として法華経に登場してきたのだった。それゆえ、ひっくりかえしていえば、この菩薩こそ“何の説明もないすべての可能性”だったのだ。
出典:サブタイトル/梵漢和対照・現代語訳 法華経 [訳]植木雅俊~松岡正剛の千夜千冊より転記~

講師の話す机の脚元にそっと置かれた書籍たち。それぞれの講師の推薦図書である。

近江ARSの竹村光雄が第3部の「巡り」について案内。手にしているのは自ら編集した「還生の会」のしおり。松岡正剛の言葉の引用による「還生の会」ダイジェスト解説になっている。本文は透かし紙を使って印刷し、これを丸三ハシモトの黄色い絹弦で綴じた。「透かし紙に印刷すると、ちょっとたぐり寄せたときに像がはっきりする。還生の会では、この“ちょっとたぐり寄せる”を感じが重要」と竹村は企図を明かす。

建築家の三浦史朗が今回のしつらいのために持ち込んだ菩薩像。小さな菩薩像が角材の上に乗せてあるのではなく、この太い角材から菩薩像が彫り出されている。
第3部 巡り
百体観音堂、観月舞台、絵馬堂の観覧とふるまい
巡りは、お堂の中から外に出て、観音堂の境内を参加者に観覧してもらうひと時だ。観音堂のそばには百体観音堂、観月舞台、絵馬堂がある。百体観音堂では石山寺座主・鷲尾龍華による西国三十三所観音霊場の解説が行われ、観月舞台では大津市歴史博物館学芸員の横谷賢一郎がその由来を語った。叶匠壽庵を率いる芝田冬樹と叶衆はぜんざいをふるまい、三井寺執事の福家俊孝が三井寺茶でもてなし、参加者たちは体をあたためた。

西国三十三所の十三番が石山寺、十四番が三井寺であり、両寺が観音信仰でつながっていることを語った鷲尾龍華。『法華経』の「普門品 第二十五」には、観音菩薩は三十三の姿に変身して人々を救うと書かれており、これが西国三十三所の由来であるという。
<参考情報>
松岡
観音はね、サンスクリット語ではアヴァローキテーシュヴァラ(avalokiteśvara)というんです。なんともすばらしい名称だけれど、もともとはどういう意味をもっているのかというと、接頭辞の ava は「離れて、遠く」という意味でね、lokita は「光る・輝く」の lok から派生していて、これは「見る、受けいれる」という意味になっている。ということは、ここまでで、「離」をもって見る、その光景を受け入れるということなんだね。
別番
うーん、そうか。その話をしたかったわけですか。それならそれと早く言ってもらえばいいんです。
松岡
うん、まあね。でも、最初から言うのはね。しかも、これで話は終わらない。次の Īśvara は「響く」の語幹が変化したもので、声とか音という意味になるわけだ。ということは、ね、ava-lokita-svara とは、「離」をもって遠くに響きを見て受け入れるとなって、それを縮めれば「遠くに音を観る」となるわけです。それゆえ「観音」とか「観世音」とかと漢訳できることになる。だから観音は、遠い音でも聞きとどけてくれるイコンなんです。それを「音を観る」ともみなした。なんだか世阿弥(118夜)の「離見の見」を思わせもするよねえ。
別番
観音は「離見の見」ですか。
松岡
でも、これまた簡単じゃない。仏教では、観音が聞く音は妙音とはかぎらないからね。美しい音とはかぎらない。仏教が重視した本来の音は「苦」の音です。
別番
そうですね、ブッダの仏教は「一切皆苦」という認識をもって始まりますからね。
松岡
そうだよね。仏教は、まず「苦」の音を聞けるかどうかから発進する。でも、その苦境も単純なものじゃない。「四苦八苦」というように、いろいろの苦があった。四苦というのはちゃんと名前がついていて、「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」というものです。それを放っておくと八苦にさえいたる。人生、苦ばっかりなんだよね。
別番
もともとブッダの原始仏教の出発点に謳われた「四諦」(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のトップに、苦諦が上がっていたほどですよね。
松岡
そうだね。では、その苦って何かといえば、むろん苦しみのことです。苦しみのことではあるけれど、仏教ではどういうことを苦しみと見るかというと、「うまくいかない」「望みどおりにならない」と思ってしまうことが苦しみなんです。
別番
望みどおりにならない苦しみ‥‥。
松岡
三枝さんに『宗教のめざすもの』(佼成出版社)という本があって、そこにサンスクリット語で「苦」をドゥフカというのだが、それは自分の内部に自己矛盾がおこってしまうことなのだという説明がされているんです。これはまことに深い解釈です。「私が私自身で背いてしまっている」ということ、それが苦しい。ドゥフカとはそれなんだというんです。
別番
自分で勝手に自己矛盾をおこしていることが、それが「苦」の本質なんですか。
松岡
そうです。つまりはいっとき「欲」をもってみたのに、それを自分で達成できなかったことが苦しみなんだね。これって、よくあることだよね。
別番
よくあるどころじゃないですよ。しょっちゅうです。このことこそ、今日の社会でも一番の問題ですよ。「アイデンティティ・クライシス」も「引きこもり」も「癒しの社会」も。
松岡
ということは、つまり「苦」の問題は「欲」との裏返しにあるんだね。それが仏教の基本的な見方です。けれども仏教なんて、ふつうは高度資本主義にも高度情報社会にもまったく無縁だと思われているため、今日のわれわれは「欲望が苦悩をつくっている」とはほとんど感じられなくなっているよね。その欲望はほとんど商品になり、その商品にわれわれはびっしり囲まれていて、しかも社会の大半がドゥルーズ=ガタリ(1082夜)のいう「欲望機械」になっているわけだから、処置がない。だからこそ、ときにはそろそろ仏教を、観音とともに本気で見たほうがいいということです。仏教では欲望に関知しない苦しみなどないというほどに、「欲」と「苦」の関係を突き刺して見つづけたんだから。
別番
「欲と苦」はくっついていたものですか。
松岡
そうです。そして、そういう世の中の苦境の声を、観音は聞くんだね。遠くからの声も「離」において聞く。

妙法蓮華経観世音菩薩普門品(ふもんぼん)第二十五
(浅草寺蔵)
別番
観音って、そもそもはどういう仏さんなんですか。
松岡
『法華経』の第25章に「普門品」(ふもんぼん)があるでしょう。観音がよく出てくるので、別名を「観音経」と呼んできた。三枝さんも昭和49年に『法華経』の現代語訳を出されたのだけれど、これはクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が漢訳した『妙法蓮華経』ではなくて、サンスクリット本にもとづいていた。それはともかく、「普門品」には13回も同じフレーズがくりかえし出てくるんです。何だか、わかる?
別番
「念彼観音力」(ねんぴかんのんりき)ですか。
松岡
おっ、さすがだね。そうだ、「念彼観音力」というフレーズだ。かつて泉鏡花(917夜)が好いた言葉だったよね。最近では美輪明宏(530夜)さんが「私、苦しいときはいつも念彼観音力を唱えるの」と何度も言っている。
別番
でも、意味はわからない。
松岡
念彼というのは「彼方を念じる」ということで、there を感じることです。here には苦境のわれわれがいる。there に観音さんがいる。だから念彼観音力とは、「彼方におはします観音の力を念じる」という思いをあらわしているわけだ。では、もしもその観音さんがわれわれの声を聞きとどけてくれるなら、どうなるか。すぐに救ってくれるんじゃないんです。観音はまず魔物を退散させてしまう。
別番
闘ってくれるんですか。
松岡
そうなんだ。障害を取り除いてくれる。それが観音力なんです。一種の浄化作用力と言っていいかと思うけれど、その力がきわめて多様で、ダイナミックで、変幻自在なんだね。いざとなれば苦境の元凶との戦闘を辞さないし、また、姿をいろいろ変えて障害を取っ払うために協力をしてくれる。そういう力。
別番
ということは、観音さんはわれわれ世間の者たちの苦境の声を聞いて、それがまっとうな叫びなら苦境の対象を打ち砕いてくれるというわけですか。アキハバラでダガーナイフをふるう前に、観音さんに会うべきでしたね。
松岡
妖面を取り払ってくれたかもしれないね。どのように破砕してくれるかというと、「普門品」には、時と所に応じて三十三の姿に変化(へんげ)して救済に乗り出すとある。
別番
変化する。姿を変える。ヘンシーン!ですね。
松岡
それがなんとも驚くべき変身力です。化けものじみているとも言えるし、それでこそ念彼観音力(ねんぴかんのんりき)の正体だとも言える。だからこそ観音さんは泉鏡花のお気にいりだったんだよね。鏡花にとっては化けものこそが神聖だったからね。今夜の話に我田引水すれば、観音こそふだんは炭男で、変じて三十三の火元にならんというわけです。

観音三十三応身図
(東京国立博物館蔵)
別番
どういうふうに三十三変化するんですか。
松岡
三十三変化するだけじゃなくて、いろいろ変身する。かつてはね。たとえば『千光眼観自在菩薩秘密法経』では二五化身が、『首楞厳経』では三十二応現が、『阿婆縛抄』では二十八化身が語られている。それがいつしか、『法華経』の普及と根本経典化がすすむにつれて、「普門品」の三十三変化が定着した。
別番
ああ、そういうことですか。で、どういう観音の姿に変化するんですか。
松岡
もちろん、いろいろだ。三十三観音には楊柳観音・白衣観音・魚籃観音・水月観音・岩戸観音から蛤蜊(はまぐり)観音・一葉観音・滝見観音までがズラリとありますね。これでは、まるで何でも合体ロボのごとく観音さまになってしまっているとおぼしいんだけれど、これはきっと、庶民に愛された物語が曲がり角にさしかかったときに何かが出てきそうなトポスやキャラクターとして、三十三の観音があてがわれたのであったからだろうね。
別番
魔界の曲がり角に姿を変えた観音さんが待ってくれている。まさに物語の真骨頂ですね。
松岡
そうね。そうして、こういうふうにいったん変化が定着すれば、そこからはいくつもの発想や企画が生まれていったんだね。その企画の代表例が、ひとつは三十三観音のヴァージョンで、もうひとつは三十三の観音霊場。中世の僧侶たちは案外、PDS(プラン・ドゥ・シー)が好きなんですよ(笑)。
別番
そうか、観音霊場はそうやって企画されたんですか。
松岡
観音霊場が三十三ケ所になるのは、12世紀に園城寺の覚忠というお坊さんが西国の33ケ寺を選んだことから広まったようだね。それまでは、そんなものはなかった。覚忠もPDSが好きだったんだ(笑)。そのうち観音霊場はどんどん拡張されて、西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十三所などというふうに、各地にいろいろ組み上がっていった。すでに100カ所をこえているとも聞いてます。
出典:サブタイトル/観音菩薩&『大乗とは何か 三枝充悳 ~松岡正剛の千夜千冊より転記』~

「観音堂は、京都の清水寺と同じく懸造(かけづくり)になっています。なぜ崖に建てるかというと、もともと観音様が南インドの補陀落(ふだらく、サンスクリット語でポタラーカ)という山に住んでいるとされており、その山をもどいて再現しているのです」(横谷賢一郎)

三井寺執事の福家俊孝の淹れる三井寺茶と、叶 匠壽庵の叶衆によるぜんざいのおもてなし。ぜんざいには柚子の皮を浮かべて香りづけをしている。

叶 匠壽庵の芝田冬樹代表と叶衆。当日は雪のちらつく寒風が吹き込んでいたので、甘くあたたかいぜんざいに参加者たちは大喜びだった。

しつらいについて語る三浦史朗。背景に飾られている写真は、自らが所蔵する十文字美信の写真。滝を撮影した2点の写真により、「顕」(見えるもの)と「冥」(見えないもの)を表そうと試みた。

同じくしつらいを解説する三井寺執事の福家俊孝。菩薩像と懸魚(げぎょ)を室内で組み合わせて展示するという大胆な表現。
<参考情報>
私は、私たちの中に流れ込んでいる思想的伝統を
分析し、解明し、そして批判的に新たな思想形成を
準備してゆく、その最善の手がかりとして
仏教を考えてみたい。私はそれをかりに
「方法としての仏教」と呼んでいる。——『思想としての仏教入門』
あれは慈円(624夜)、山崎闇斎、清沢満之(1025夜)を続けさまに読んでいたころだった。ある確信がやってきた。日本の思想史や文化史はできるかぎり「抜き型」で語られるのがいい!
では、仏教という抜き型によって日本を眺めるとどうなるのか。また仏教を日本という抜き型で射貫いていくと、どうなるのか。日本仏教にはインド仏教や中国仏教や東南アジア仏教と異なる「トーン」があるはずだが、それをどう語ればいいのか。今夜は末木文美士(すえきふみひこ)を選んだ。
日本思想の大きな特徴は、
常に外来思想に決定的に規定されながら、
その中でどのように独自なものを打ち出せるかということが
求められてきたところにある。その外来思想は、
前近代においては中国思想であり、
近代においては西洋思想であった。——『日本思想史』
日本を眺めるための仏教は、インド的な原始仏教やシルクロード仏教や中国仏教を通してスクリーニングされてきた。これが日本仏教というものだ。スクリーニングというのは、さまざまな抜き型によって日本仏教が編集されてきたことをいう。
6世紀の半ば、仏教は欽明天皇の時代前後に中国や朝鮮半島からやってきた。日本人には「蕃神」(あだしくにのかみ)に見えた外来宗教である。それを受けた蘇我馬子や一部の豪族や仏師らは氏族仏教をプレゼンテーションした。
すぐさまそれなりの日本化をおこして、ひとつは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」に象徴されるややニヒルな信仰論に、もうひとつは大仏開眼や南都六宗に象徴される鎮護国家型の仏教になっていった。そこには北魏仏教・新羅仏教・隋唐仏教のフィルターがかかっていた。
大きな転換点のひとつは、聖武天皇が行基から菩薩戒を受け、鑑真を招聘して「仏門プロ」をつくることにしたことだ。本格的戒律の導入だ。これで六宗型(倶舎・成実・律・三論・法相・華厳)の奈良仏教が伽藍を並べて栄えたが、いくぶん大雑把になったり、道鏡の登場などで偏向したりもした。王法と仏法もくっつきすぎていた。
そのため最澄・空海による戒律と即身成仏思想と密教による革新がおこり、そこからは黒田俊雄(777夜)のいう「顕密体制」(顕教と密教のダブルスタンダード)が作動するようになるのだが、また専修念仏や鎌倉新仏教の動向が興っていったのだが、さあ、大筋、こんな説明でいいのかということが問われる。
そこを問うたのが末木文美士だった。歴史の中の日本仏教だけでなく、近代仏教や今日の仏教の在り方まで、日本語や神祇神道との関係から生死の哲学としての仏教まで、いろいろ問うた。とくに宗教史を通しては、「顕と密」よりも「顕と冥」を問うた。このことについては今夜の最後に説明する。
人間の現象として現れているこの世界「顕」の裏側には、
「冥」(みょう)と呼ばれる世界があり、
「冥」の世界に死者や神仏がいる。この感覚は、
中世には広く共有され、神道が形成されていく中でも
重要な意味をもつようになります。
この世の秩序の外にある暗闇の世界が、
この世の秩序と密接に関わっているのです。——『日本仏教入門』
以上、日本仏教を「抜き型」で見るという視点から末木さんの本が語る主旨の一端を急ぎ足で辿ってみたのだが、本書の序文をはじめ、このところ末木さんが自身でクローズアップしているのは「顕」と「冥」というテーマなのである。最後にその話をしておきたい。
末木さんの本ではやや異色な著作にあたる『哲学の現場』(トランスビュー)がある。「日本で考えるということ」というサブタイトルが付いている。前半、日本人が西洋の哲学を相手にした近代の思想家たちの流れを瞥見し、半ばの第5章「他者の壁」でブーバー(588夜)、レヴィナス、清沢満之(1025夜)を比較しながら、他者を存在一般の延長で捉える限界を指摘しつつ、関係こそが存在に先立つのだから、他者の問題については「私もまた私にとって他者であり、私の外」であるような見方がこれからは重要になるだろうことを持ち出している。
そこから、他者は範型が異なることが多いので安易な類型化はふさわしくないこと、そのような多様な他者がいるところにも思いを致すべきであること、そのことを日本では「顕」に対する「冥」の存在の認知として理解する方法をもったという考察へと入っていく。
天台座主でもあった慈円(624夜)が書いた『愚管抄』このかた、歴史や現在や将来を語るには「顕わるるもの」とともに「隠くるるもの」を同時に見なければならないという見方が断続的に重んじられてきた。それが「顕」と「冥」である。たんに光と影を語るというのではない。
これは光と影、顕と冥、生者と死者は別々のことを別の言葉で語っているという認識をもつということだ。そうしないと日本の歴史はわからないと、慈円は言ったのだ。それなら「顕」に対するに「冥」の言葉をある程度はふんだんに扱えるようにしなければならない。とくに顕冥にかかわる言葉、顕冥から逸れる言葉についての比較と比肩が重要だ。
のちに本居宣長(992夜)は歴史や現実の「顕」の現象を見るには「ただの詞(ことば)」でも役立つが、「冥」を見るにはそれなりの「あやの詞」が必要になると訴えた。「顕」に回収できない「冥」の言葉や意味の世界が厳然とありうるということである。
さかのぼって、天台本覚が仏性・真如・如来蔵を動かすには、経典などを検証したうえでの仏教的な「あやの詞」が必要で、安然の作業はまさにそのためのものだったとも言えたのである。それをすることで、仏教思考が既存の魔術から脱して、新たな再魔術化がおこせるのだった。
末木さんは別の本、『現代仏教論』(新潮新書)にこう書いている。「私が最近提案している「顕」と「冥」の世界観は、ある意味では、まさしく脱魔術化の後の再魔術化の一つの提案ということもできます」と。
この再魔術化という言い方は、デカルトが物心を切り離した哲学を構築したのに対して(デカルトは物質と精神を別々に扱った)、のちのちベイトソン(446夜)らがこれを統合して、デカルトが中世的な魔術思考を否定して近代哲学礎を築いたことを、あらためて再魔術化して今後の哲学や科学や思想を議論するべきだとしたのにもとづいている。モリス・バーマン(1241夜)の『デカルトからベイトソンヘ』(国文社)に詳しい。
再魔術化ではないが、量子力学のデヴィッド・ボーム(1074夜)が『全体性と内蔵秩序』(青土社)で明在系(エクスプリケート・オーダー)だけでは物理の真理は語れない、暗在系(インプリケート・オーダー)の語りこそがカギを握っているという議論をしたのも、顕と冥との関係を思い合わさせた。
しかし、このことをもっと如実に秘めていると思われるのは、仏教の変遷であり、とりわけ日本仏教の転移のありかただったのである。
中世においては「顕」なる領域は、
常に「冥」の世界に囲まれていた。
「冥」は神仏や死者の世界であり、それは
我々にはうかがい知れず、
それだけにどんな厄災をもたらすか知れず、
どのように対応するかが重要な問題になった。——『哲学の現場』
編集工学では「開ける」と「伏せる」を方法的に重視する。もともと歴史の中には早くから「開けられたもの」と、グノーシスや新プラトン主義やカバラのように「伏せられたもの」があった。
それらを「開ける」のは学問的には大事な作業だが、そうしたからといって、それらがなぜ「伏せられた」かはわからない。むしろ、今日のわれわれはそのような「開け伏せ」のあった歴史の文脈に学びつつも、新たな「開け伏せ」に向かわなければならない。ぼくはこのような考え方をずっとしてきた。
そうしてきたのは、「顕」の方法と「冥」の方法とは、その根底の表象力や伝達力において異なるものを操業させてきたということに学びたいからだった。たとえば、出雲神話は高天が原神話の表象力では解けない。それを平田篤胤らが指摘した。
なぜこんなことがおこるのか。わかりやすい譬え話にすると、盗られてはならないものを隠すには、どうするかというと、容易に見当がつかない場所を選ぶか(ポーの推理小説のように)、隠し場所に鍵がかかっていてその鍵が見つからないか(コンピュータならコードナンバーがわからないか)、そもそも何が鍵で何が鍵穴なのかの関係が見いだしにくいか、このいずれかの処方をするはずである。永久に見つからないようにしたいのなら、そんなものは棄却してしまえばいいのだが、そうはしたくない。そこには秘密や真実の根拠がひそむので、なんらかの方法で解錠にたどりつかせたいわけなのだ。
出雲神話の成立を想定すると、そのような鍵と鍵穴が「冥」の言葉で綴られていた。オオナムチ、スクナヒコナ、クエビコは「顕」のイコノロジーでは説明しがたい。
そのため篤胤のような壮大な仮説が、きっと鍵と鍵穴はこれだろうと指し示しながらいつしか登場することになるのだが、そこにはどうしても「冥」の世界の全き想定が必要なのである。そういう世界を想定しなければ出雲も解けなかったのだし、出雲神話をつくったほうからすると、本来の秘密や真実を全面的に(あるいは暗示的に)共有してもらわなければならないからだ。
この共有の謎は、ギリシア的な『ユリシーズ』には薄く、インド的な『バカヴァッド・ギーター』(1512夜)に、はるかに深かった。
話を日本仏教に戻すと、なぜ日本の寺院は葬式仏教を重んじたのか。そこには「冥」の世界の土台やネットワークが必要だったから、お寺と死者が相互陥入していてほしかったからだというふうに解釈できる。ただし、近代以降の仏教はそのようには日本仏教の「冥」を重視したり、説明したりできるようにはしてこなかった。これは怠慢による。
いま、日本における「冥」はかなり後退させられ、粗末に扱われ、また多くの者が誤解するように位置に貶められている。そのかわり前面化しているのがコンプライアンスというものだ。
では、こんな状況の中でどんな方針がもてるのかというと、はなはだ心もとないけれど、21世紀の日本に「顕」と「冥」がもっと語られていくようにするには、以上のような「開け伏せ」を今後にも企んでいくのがいいだろうと思われる。伏せながら提出し、少しずつ開いていくようにする。そうするには末木さんがそうしてきたように、仏教をふんだんに活用することなのである。
これはパース(1182夜)が「アブダクション」(仮説形成)と名付けた方法に近いとも思われるけれど、もっと仏教史的に言うのなら、仏性や如来蔵が「ありのまま」のところに措かれているにもかかわらず、そこを開けようとすると、よほど本気でかからないと鍵も鍵穴も見つからなくなっていくというような、そんな「開け伏せ」になっていくような気もする。
まさに末木さんは、そういう「開け伏せ」を著作を通してやりつづけてきた。これからもそうされていくだろう。
なんだか勝手な案内になってしまったが、では、ごめんなさい、この続きは8月21日の三井寺で末木さん本人からの話で深めていただくことになる。
出典:サブタイトル/日本仏教入門 末木文美士~松岡正剛の千夜千冊より転記~
第4部 語り
大谷栄一 近代日本における「菩薩の倫理」
佛教大学社会学部教授の大谷栄一氏が登壇。近代仏教を研究しており、以前に松岡が大変高く評価していた『増補改訂 近代仏教スタディーズ』(法藏館)の編者の一人。また、近江ARSの書籍『別日本で、いい。』にも「近代化した日本仏教」という文章を寄稿している。
大谷氏は、『法華経』に影響を受けて活動した近代日本の法華経信仰者を紹介した。次の4人である。
綱脇龍妙(つなわきりゅうみょう):日蓮宗僧侶/ハンセン病療養所を自ら開設し、治療に一生を捧げた
井上日召(にっしょう):右翼運動家/血盟団のテロによる国家改造を目指した
松平俊子:教育家/昭和女子大学の創成期に女子教育に尽力した
宮沢賢治:文学者/創作を通して万人が幸福になれる理想郷を追い求めた
4人はいずれも『法華経』に記されている菩薩行を自らの信念とした。中でも「常不軽菩薩品 第二十」に出てくる不軽菩薩を心のよりどころとしたのが、綱脇龍妙と宮沢賢治だ。賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」のデクノボーのモデルが不軽菩薩である。「常に軽蔑された男」という意味の名前を持つこの菩薩は、出会う人すべてに「私はあなたを軽蔑しません。あなたがたは修行をしたらさとりに到達する如来になれるでしょう」と礼拝したという。

大谷栄一氏は「松岡さんの千夜千冊で自分の著作『近代日本の日蓮主義運動』について言及してもらったことがあり、励みになった」と語る。近代仏教の特徴は「現世中心主義」「生者中心主義」「在家主義」の傾向が強いことにあるという。
<参考情報>
『法華経』の掛詞で代表的な傑作は、「常不軽(じょうふきょう)」菩薩と漢訳されたサンスクリット語のサダーパリブータ(sadāparibhūta)と言っていいでしょう。この名前には、以下に述べるように天才的なレトリックが用いられております。竺法護は、その菩薩の名前を「 常被軽慢(じょうひきょうまん)」菩薩、すなわち「常に軽んじられる」菩薩と訳しました。肯定の受動形です。鳩摩羅什は、「常不軽」菩薩と漢訳しました。「常に軽んじない」菩薩ですから、否定の能動形です。2 つの訳は、〈肯定に対して否定〉、〈受動に対して能動〉というように、全く逆です。この食い違いも長い間、謎とされてきました。
この菩薩のサンスクリット語名「サダーパリブータ」という複合語は、次のように分解できます。
① sadā+paribhūta
② sadā+aparibhūta
「サダー」(sadā)は「常に」を意味する副詞で、「パリブータ」(paribhūta)が、「軽んずる」という意味の動詞「パリブー」(pari-bhū)の過去受動分詞ですから、「軽んじられた」という意味になります。そして、②の「アパリブータ」(aparibhūta)の「ア」は、英語のハッピー(happy)の反対語アンハッピー(unhappy)のアン(un)と同じように、否定を意味する接頭辞です。ですから、「アパリブータ」は「軽んじられなかった」を意味します。 ①で訳せば、「常に軽んじられた」となり、これは竺法護の訳になります。②で訳せば、「常に軽んじられなかった」となります。「常に軽んじない」という鳩摩羅什の訳は、このいずれからも導き出すことができません。ですから、これまで日本の多くの学者は、鳩摩羅什は間違っていると言ってきました。岩波文庫版でも、中央公論社版でも、「常に軽んじられた菩薩」という訳になっています。いずれも、鳩摩羅什訳の「常不軽」、すなわち「常に軽んじない」を一顧だにしていません。
そこで、私はサンスクリット語の文法書を調べました。教科書的な文法書では、以上の 2 つの訳になりますが、もっと高度な文法書を開くと、「過去受動分詞は能動の意味で用いられることもある」と明記されていました。そうなると、①と②について、〈否定と肯定〉、〈受動と能動〉を組み合わせて解釈すれば、次の四つの訳が可能になります。
①「常に軽んじなかった」(否定・能動)=鳩摩羅什訳
②「常に軽んじた」(肯定・能動)
③「常に軽んじられた」(肯定・受動)=竺法護訳、岩波文庫、中央公論社版『法華経』
④「常に軽んじられなかった」(否定・受動)
このように並べると、サダーパリブータという菩薩について語られている章のストーリーをそのまま順番に並べていることになります。
すなわち、主人公の菩薩は、もっぱら経典を読誦(どくじゅ)することなく、「私はあなたを常に軽んじません」と言って、誰に対しても合掌して回るわけです。すると言われた人たちから、「お前がそんなことを言うと、お前は俺を馬鹿にしていることになる」と受け取られます。人々から、 常に軽んじていると思われてしまいます。そして、ぶん殴られたり、石を投げつけられたり、罵られたりします。こうして、 常に軽んじられることになります。この菩薩は、そんなことをされても、決して感情的にならず、危害を加えられそうになったらその場から走り去り、振り返ってまた、「あなたも仏になります」と言い続けました。そして、臨終間際になって、天から『法華経』の法門が聞こえてきます。この菩薩は、その『法華経』を素直に受け入れて、200 万・コーティ・ナユタ年もの寿命を延ばします。それによって六根清浄(ろっこんしょうじょう)を得たその菩薩の姿をみて、これまで軽んじていた人たちが信服随従(しんぷくずいじゅう)するようになりました。すなわち 常に軽んじられないものとなったわけです。
先の 4 つの掛詞は、以上のストーリーの流れをそのまま表わしていたわけです。これは天才的な命名でしょう。
ただ掛詞というのは、外国語への翻訳が難しいものです。1 つの言葉に複数の意味がありますから、その意味全部を込めて翻訳することは困難です。その中の代表的な意味で訳すしかありません。鳩摩羅什は、最も中心的な①の意味で「常不軽」と訳しました。
竺法護は枝葉の意味の③で訳しました。鳩摩羅什の訳のほうが勝れているのは明らかです。 竺法護は、両親が月げっし氏の人で、インド人ではありますが、 敦煌(とんこう)生まれであるために、サンスクリット語に日常的に触れていたわけではありません。それに対して、鳩摩羅什は、父親がインド人であり、西域のクチャ(亀茲:きじ)国で生まれ、7 歳で出家し、9 歳から仏教学やサンスクリット文法学の中心地であるカシミールで勉強しています。竺法護が教科書的な文法で翻訳していたのに対して、鳩摩羅什はサンスクリット文法学を知り抜いて漢訳しており、その違いは歴然としております。それにもかかわらず、日本の仏教学者の多くは、教科書的な文法の竺法護の訳が正しいと考えていたわけです。
竺法護訳よりも鳩摩羅什訳のほうが勝れていることは、これで理解していただけたと思います。しかし、それよりもっとよい訳は、この 4 つのすべてを訳したものです。だから、私は、
「常に軽んじない〔と主張して、 常に軽んじていると思われ、その結果、 常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる〕菩薩」(植木訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』下巻、363 頁)
と訳しました。長いでしょう。私は、これを第 19 章(鳩摩羅什訳では第二十)のタイトルにしました。岩波書店の編集担当者に「タイトルが、4 行になりますけどいいですか?」と確認しました。「植木さん、それは世界で初の訳でしょ?」「はい」「じゃあ、それでいきましょう!」ということで、植木訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』下巻、第 19 章のタイトルは 4 行になっています。
出典:サブタイトル/『法華経』 絶妙だった鳩摩羅什訳ー 植木雅俊 転記
<参考情報>
その冒頭で、「世界で最も抽象名詞の多い、言語はなんだと思いますか」と問いかけたんです。皆さんご存じないかと思いますが、サンスクリット語なんです。ドイツ語を学んでおられる方が聞いたら、「いや、ドイツ語だろう」とおっしゃるかもしれません。「フライハイト」(Freiheit)のように形容詞のfrei(自由な)にheitという語尾をつければ「自由」という抽象名詞になります。でも、これは形容詞に限られていますよね。サンスクリットの場合は、名詞であれ、形容詞であれ、副詞であれ、tāいう語尾を付ければ抽象名詞になるんです。だからサンスクリット語の辞典を見ますと、形容詞や、名詞や、副詞の単語の後ろに必ず「~tā」という語が出てくるんです。名詞、形容詞、副詞の数だけ抽象名詞があることになります。だから世界で最も抽象名詞の多い言語はサンスクリット語なんです。
例えば、śuklaという単語があります。これは「白い」という意味です。それにtāを付ければśuklatāとなります。日本語の適切な訳がないので、私は「白性(しろせい)」と訳しておきます。これがどういうふうに使われるかといえば、例えば日本語では、「この紙は白い」と言います。英語でも、 This paper is whiteですね。ドイツ語でも、フランス語でも似たような、「主語十be動詞十補語主語」で表現すると思います。ほとんどの世界の言語ではそのような文章構造で表現されます。ところが、サンスクリット語では、ちょっと違った表現が用いられます。インド人は「この紙は白性を持つ」という表現を好むんです。「この紙は白い」と言えば、その紙に「白い」という現象を見ています。ところが、「この紙は白性を持つ」というのは、現象として白を見ているけれども、それが白であるのは、それを白たらしめているものが背後にあって、その結果、白く見えるのだというのです。
わかりますか?、インド人の頭の構造は、日本人と違うんです。インド人は、目の前にある物事そのものに囚われないんです。そこにある物事の背後にあるものを見ているんです。それを表現するために抽象名詞が必要だったんです。白という現象があれば、その白を白たらしめているものが背後にある。この花が花であるというのは、花たらしめているものが背後にある・・・というように、現象を見ているのではなくて、その現象をそうあらしめている普遍的な真理といったものを見ているという特徴があると言えると思います。
そういったものの見方ですから、ものに囚われない。普遍性と抽象性を重視する、だからインド人はいち早くゼロを発見することができたわけです。数というのは、りんごが何個とか、羊が何頭とか、ものに即して数を認識しますよね。
ところがインド人は、ものに即しないんです。ものから離れて、一、二、三・・・という数字そのものが独り歩きするんです。そして、その数をもてあそんで、三より一少ないのは二だ、二より一少ないのは一だ 、では一より一少ないのは何だ?というふうにして、ゼロという概念がすぐ出てくるんです。りんごが一個、二個、三個と 、ものに即して数をとらえている人たちからゼロという概念は出てきにくいと思います。
そこへ持ってきて、位取りを発明したのもインド人でしょう。一の位、十の位、百の位、千の位・・・。この方法で行けば、ゼロを次々と書き足していけば巨大数が簡単にできるでしょう。ゼロを何個足してもいいわけです。だから、巨大数がインドでは簡単に思いつくんです。
例えば阿僧祇(あそうぎ)という数があります。聞いたことがありますか。数学の教科書に、巨大数を列挙した中に書いてあるものもあります。これは、一説に十の五十九乗(1059)・・・ゼロが五十九個つく数字です。サンスクリット語のアサンキャ(asaṅkhyā)、またはサンキェーヤ(asaṅkheyā)の音を漢字で当てたものです。そんな数は、皆さんの日常生活で必要ですか? 必要ないでしょう。こんな数は、身の回りにある物事にとらわれず、物事の背後にある普遍性・抽象性を見ているインド人のものの見方だったからこそ思い付くことができたわけです。
さらに漢数字を考えても、漢数字は、一、十、百、千、万・・・中国の古代においては、万までしか数はなかったようです。私は、専門ではないんですけれども。古代においては万で終わりだった。ところが必要に迫られて、億とか、兆とか、京(けい)とか、核(がい)・・・といった数が追加されていった。でも、この表現では、数を示すその文字がある数までしか表現できません。
1059の場合は、サンスクリットのasaṅkheyā(阿僧祇:あそうぎ)と音写したことで漢字表記できるようになっていますけれども、1066という数を一文字で表す文字は中国にはないと思います。
ものに即して考えた人たちは、ゼロも、巨大数も思いつかないだろうし、表現する手立てもないというような違いが出てきます。それはやっぱり、ものに即してものごとを考えない、現象の背後にあるものを見ていくという国民性というか、インド人の思考方法のなせる業だと思います。
インド人のものの見方として、もう一つ、「一つの現象を絶対化しない」ということが挙げられます。
その逆の例として、エジプト人がメソポタミアに来てビックリした話を紹介します。エジプト人は、生まれた時から、ナイル川を見て育ちます。そのナイル川を見て、川というものは南から北に流れるものだ思って育った。ところが、メソポタミアにやって来て、チグリス川、ユーフラテス川を見た。その川は、北から南に流れていた。そこで、「エーッ、川が北から南に流れていている!」とビックリしたという話しです。
こで言えることは、―つの現象を見て、それが全てだと思ってしまっていた。だから、他の現象を見てビックリしてしまったということですね。
ところがインド人は、―つの現象を見ても、これをone of themとしか見ないわけです。そういう特徴があります。だからインドの古代においては、歴史書がないし、地理書もないんです。―つの歴史的な出来事も、「それは偶然そうなっただけであって、たくさん可能性がある中の一っにしかすぎない、我々は、そんな一現象に興味はない。その背後にある普遍的な真理のほうに興味があるんだ」・・・というので、歴史書や、地理書を残さなかったわけです。だから、未だにお釈迦さんがいつ生まれたのかということは特定できない。議論が百出しています。そのかわり、ギリシャ人と中国人は、記録癖がある。だからギリシャ人と中国人が書き残したものを手がかりにして、お釈迦さんが誕生したのはこの頃だ、亡くなったのはこの頃だというのを推定するしかないわけです。
そのように、インド人は普遍性を探究する。目の前にあるものごと、現象、事物そのものには典味がない。その背後にある普遍性を見るという特徴があるということをご理解いただければいいかと思います。
インド哲学において重要な概念は、ダルマ(dharma)と言っていいかと思います。ダルマには、①習慣、②義務、③社会秩序、④善を行い、⑤真理、⑥宗教的義務、⑦法則、⑧教え、⑨本質、⑩事物、ものごと・・・など極めて多義的です。
それは、中国で「法」と漢訳されました。これが複数形になると、「諸法」と漢訳されて、「あらゆるものごと」「あらゆる事物」という意味になります。
このdharmaにtāという接尾辞をつけると女性の抽象名詞になります。ダルマ(dharma)が「法」、ダルマター(dharmatā)が「法性(ほつしょう)」と漢訳されました。
「法を法たらしめるもの」、先ほどは、「白を白たらしめるもの 」という意味でした 。 こ の場 合 は 、 「法の本性」 「現象を現象たらしめるもの 」という意味になります。
西域の出身で中国にやって来て、サンスクリットの仏典を漢訳した名翻訳家、天才的な翻訳家がいます。鳩磨羅什 (くまらじゅう:クマーラ・ ジーヴ ァ )といいます。この人が、そのdharmatā を「諸法実相」と漢訳しました 。「諸法」というのは、「あらゆるものごと」。その「あらゆるものごと」の背後にある「 真 実 の在り方」というのが 「実相」ということです。 その翻訳語が、般若経や法華経という経典に出てまいりますけれども、その言葉があるように、インドでは 「現象としてのものごと 」「諸法 」 (dharma) よりも 、「ものごとをそうあらしめている、その背後にある実在」、即ち「 実相」、あるいは 「法性」 ( dharmatā) を見ようという傾向が強かった 。
漢学を学ばれている方には、「法」が本質的、「相」が表層的なものという思いが強いと思います。それは、仏教においても基本的には正しいことです。
ところが、中国で「法」と漢訳された「ダルマ 」という言葉は、既に述ぺたように幅広い意味を持っていて、「真理」「事物」「現象」というようにこの 一語に本質面と表層面の両極端の意味が含まれています。だから、中国語本来の意味する「法」に比べて、 「ダルマ 」の翻訳語としての「法」の意味することには、多くのはみ出している部分があるということに注意しなければなりません 。「諸法」というように複数形になった時は、「あらゆる現象/事物」という表層的な意味のほうが強くなります。
この「諸法実相」ということが、実は、日本文学、日本の芸術論に多大な影態を与えたという話を今からいたします。
平安時代後期から鎌倉時代初期の歌人で藤原俊成(しゅんぜい)という人がいました。藤原定家(ていか)のお父さんです 。京都の冷泉家(れいぜいけ )は、その流れをくむ家系です。そこに俊成による 『古来風鉢抄 (こらいふうていしょう)』という和歌論が残されています。 その冒頭に次の 言葉が出てきます。
歌のふかきみちを申すも、空仮中の三諦に似たるによりて、かよはしてしるし申すなり。
聞いたこともないようなちょっと難しい言葉が出てきて申し訳ありません 。 こ こ は 、「うたのふかきみち」、歌の深い道はどうあるべきか、ということを語っているんですが、
ここに「空 ・仮・中の三諦」という言葉があります。これは中国の天台大師智顛(ちぎ)の用いた言葉です。これは法華経方便品(ほうぺんぼん)で「諸法実相」を存在論と因果論の視点から論じた「十如是(じゅうにょぜ)」という考え方から展開されたものですから、「諸法実相」 の別表現です (詳細は、拙著『江戸 の大詩人章を 参 照 )。だから 、「諸法実相」と置き換えてもかまいません。内容的には同じことです。
そこで 、「諸法」と「実相」の関係はどうなるかと言え ば 、「諸法」そのものが「実相」ではない 。目に見えている現象、その現象そのものが「実相」ではない 。けれども 、「実相」というものは、「諸法」を通じて現れてくる。例えば「氷山の一角」という言葉がありますが、氷山の一角 、その水面から出ている部分だけを見て、それが全体だと考えるのは間違いですね。けれども、その水面下にもっと大きな氷の塊があるということを認識して、氷山の一角を見る場合は違いますよね。
その両方を踏まえるということが、「諸法実相」 という意味になってくるわけですが、その考えを、藤原俊成は和歌論に当てはめたわけです。諸法と実相の両方を見極めて、そのいずれか 一方に偏ることなく、諸法に即して実相を見る。その実相を、諸法を通して表現するというような形で、和歌論を展開したわけです。
例えば、桜を愛で、月を眺め、風を感じ、現象 ・事物としての花鳥風月を歌に 詠みこみます。 そこに詠み込むのは、”も の “で す。現象です。三十 一文字 に ”も の “とか現象を羅列するわけです。言葉自体も「諸法」です。けれども 、 ”も の “とか現象としてのものごとをそこに羅列しながら、それで終わりじゃなく、そういったものを通じて、その背後にある実在、即ち実相を表現しようとするところに 「歌のふかきみち」があるんだ、というようなことを藤原俊成は言ったわけです。
室町時代の連歌師で、 宗祇(そうぎ)という人がいました 。その人は、次のように言いました。
歌の道は只慈悲を心にかけて、紅栄黄落を見ても生死の理を観ずれば、心中の鬼神もやはらぎ、本覚真如(ほんがくしんにょ)の道理に帰す可(べ)<候(そうろう) 。
木の葉が紅く染まって栄華の盛りを極め、あるいは黄色くなって落葉する。そういった自然現象を通して、あらゆるものが生死ー生まれては死に生まれては死にを繰り返している、という道理を達観する。それによって万物を貫く、本来あるがままの真実に即した道理が達観されてくる、というようなことを言ったわけです。だからそこにも、「諸法実相」という考え方が貫かれているのではないかと思います。
その「諸法実相」というものの見方が、日本文学でどのように反映されているのかという例を松尾芭蕉の作品に見ることができます。芭蕉の代表的な作品と言えば次の旬でしょう。
古池や 蛙飛び込む 水の音
ここには 、「古池」「蛙」「水の音」といった”もの“ という名前を羅列してあるだけです。私は、俳句をたしなむような風しろうと流な人間ではございません。詩人でもなんでもございません。ど素人の私の考えを、恥を承知で今から述ぺます。私がここにいて、古池が向こうにある。そのほとりに蛙がいる。その蛙が、水の中にポチャンと飛び込んだ 。すると 、その水面が波紋を描いて広がっていった。さらにはそのボチャンという音が音波となって私の耳に届いて、さらに私を通り過ぎて後方に広がっていって、宇宙大の広がりを感じさせるんてすね。そこに「古池 」「蛙」「水の音」という”もの“を並べることによって、宇宙の広がりの中に私が居るー ‘という思いを私は感じます。
それは 、”もの“という諸法を羅列することによって宇宙の広がりの中に居る私、という実相を表現しているんではないかという気がいたします。
その違いは、松尾芭蕉とほぽ同時代の俳人である小林 一茶の俳句と比ぺるとよくわかると思います。例えば、次の句が有名です。
痩せがえる蛙負けるな一茶これにあり
我と来て遊べや親のない雀
やれ打つな蠅が手をする足をする
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
幾ら並ぺても、ここに 宇宙の広がりや、実相は感じられません 。ここには、生き物に対する優しさは満ちあふれています。けれども実相というものはほとんど感じられません。それはもう松尾芭蕉の句に比べれば格段の違いがあるんじゃないかと思います。
その松尾芭蕉の俳諧論をまとめた人たちがいます。各務支考(かがみしこう)という人です。この人は『俳諧十論』を書いています。その中に「法華経を要として」と前置きして、この『俳諧十論』をまとめたというのです。あるいは 『虚実論』と いう本も書いていまして、「実を以て方便の門を開き」とあります。これは法華経の方便品第 二という、第 二章の言葉を踏まえてこの『虚実論』を書いたということです。そこには 、
虚に居て実をおこなふぺし。実に居て虚にあそぶぺからず。
とあります。すなわち、虚構によって真実を表現するべきであって、その逆であってはならない、というような意味です。ここでいう虚構(フィクション)と真実(ノンフィクション)という比較は、これはある意味では、「諸法」と「実相 」の関係に置き換えられるような気がします。
聖徳太子の言葉 に 、「世間は虚仮(こけ)なり」というのがあります。
世間とは、現象の世界です。それを「虚仮」、すなわち虚にして仮であると言っております。それと同様に諸法も虚であり仮であるということができます。
その「虚」によって「実」を表現していくということと通じているんじゃないかと思います。松尾芭蕉は『奥の細道』を書きましたけれども、それはフィクション化されています。
それに対して、曽良が書いた『曽良旅日記』のほうは、事実をありのままに、そのまま書いています。けれども面白くも何ともない 。記録でしかない。
松尾芭蕉はフィクション化して、なかったことをあったかのように創作しながら、 書き加えたりしています。その結果、非常に客観的で優美な永遠の旅人の世界を表現することに成功しています。
それは 、「虚に居て実を表現する」ということの芭蕉自身による実践だったと思います。だから 、「虚実論」というのは、ある意味では、「諸法実相論」の応用ではないかというふうに思います。
出典:サブタイトル/インド仏教の日本文学への影~和歌、俳句を中心に~仏教思想研究家 植木 雅俊 転記
<参考情報:Google chrome AI回答>
三諦(さんだい)
天台宗で説かれる「空諦(くうたい)」、「仮諦(けたい)」、「中諦(ちゅうたい)」の三つの真理を指します。
- 空諦::一切のものは実体がない、空であるという真理です。
- 仮諦::一切のものは、因縁によって仮に存在しているという真理です。
- 中諦::空でもなく、仮(有)でもない、空と仮を共に受け入れる中道の実相を示す真理です。
天台宗では、これらの三つの真理はそれぞれ別々に存在するのではなく、互いに融け合い、一念の中に全てが顕現している「円融三諦(えんゆうさんだい)」として説かれます。
<参考情報:仮名/天台智顗(ちぎ)の教学>
この「仮名」を正当に評価し採用しているのが、天台智顗(ちぎ)の教学である。天台では仮名を単純にして「仮」と称するのだが、「仮」は前述のように、無でもあり有でもある。それはちょうど、「可能性」の概念が。無でもあり有でもあるのと同様である。また、そのように捉えることが「中」である。つまり、有り得ることは有ること、有ることは有り得ること、という連関をわきまえて一切を「亦有亦無」の論理の中に包摂すること、これが「中」である。同時にその「捉える」ということがまた、一種の「有」となり、有の限界を究めればそれは空となる。このように、「空」と「仮」と「中」は、それぞれ独自の機能を持ちつつ、相互に関連し合うという論理を展開するのが、三諦円融の理である。この論理は龍樹の「空」説や「仮」説をなくしては存在し得ないと言ってよい。
時間が成立しないことは天台智顎の『摩訶止観』にある「四運心」の説明にも出てくる。『業、若し未来ならば、未来は未だ有らず、如何ぞ業あらん。業、若し現在ならば、現在は念念住せず、念若し已に去らば即ち過去に属す、念若し未だ至らざるは即ち未来に属す、起に即して即ち滅す、何者が現在ならん。」このよう未来は無い、過去も無い、起と滅の間には微塵の刹那も無く、現在もない、という徹底した三世否定は龍樹から受け継がれたものである。
出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~
佐藤優 「菩薩とイエス・キリスト」
作家で元外交官の佐藤優氏は、同志社大学神学部で学んだクリスチャンである。
「結論から言うと、宗教には救済するために聖なる領域と俗なる領域を仲介する人が必要です。キリスト教の場合はイエス・キリスト。その機能をキリスト教信者のわれわれから見ると菩薩にあるように見える」
佐藤氏の原点にあるのは、チェコスロバキアのプロテスタント神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカ(1889〜1969年)である。
フロマートカの人生は、母国の困難と共にあった。隣国ドイツに台頭したナチスにより、チェコスロバキアは解体されてしまったため、一時的にフロマートカはアメリカに渡るが、共産国家と化したチェコスロバキアに戦後の1947年に帰国する。共産主義は無神論であるため、キリスト教とは相容れない体制である。共産主義者に対して、彼は次のような趣旨の発言をしていたという。
「貧しい者、虐げられた者と共にいるのがキリスト教だったはず。我々は近代に入ってからその機能を果たしていただろうか。さぼっていた。だから共産主義が生まれた。キリスト教の不作為によって共産主義が生まれた」

プロテスタントのカルヴァン派の佐藤優氏。末木氏との共通項は、京都学派の哲学者・田辺元(はじめ)に関する著作がある点だ。『冥顕の哲学1 死者と菩薩の倫理学』(末木氏)と『学生を戦地へ送るには 田辺元「悪魔の京大講義」を読む学生を戦地へ送るには』(佐藤氏)である。田辺は戦時中の京都大学で教鞭をとり、多くの学徒を戦場へ見送った。戦後は懺悔し、「死の哲学」を構想した。
フロマートカは「対話」を重視した。共産主義者と対話を重ねた結果、相手側に変容が起こり、「人間の顔をした社会主義」がチェコスロバキアの共産党の指導思想となった。それが1968年の「プラハの春」という民主化運動につながるのである。
フロマートカは「我々はむしろ我々を非難する人たちに対して、共産主義者に対して敬意を払って、そこから学び取るんだ。あの人たちの中に真理がある」とも語っていたという。佐藤氏は、フロマートカは不軽菩薩と通底しているものがあると言う。さらに言えば、われわれ日本人は、菩薩のアナロジーでイエス・キリストを理解したのだという。
第5部 交わし
最後は鼎談の二本立て。前半は大谷栄一氏、末木文美士氏、福家俊彦氏の鼎談を行った。進行役の福家は、「菩薩行の実践者にフーテンの寅さんを加えたらどうかなと思っていた」と話した。末木氏は阿頼耶識や、自己と他者の関わりについて再び言及した。大谷氏は、宮沢賢治の『春と修羅』の中で「四月の気層のひかりの底を唾しはぎしりゆききするおれはひとりの修羅なのだ」という一文には、十界互具の思想が背景にあると指摘した。

「他者を理解できるかという問題は、あえて「普遍」ではなくて「通底」という言い方で考えたい。つまり、自分の個を突き破った時に何か他者と通底し得るものがあるのではないか」(末木文美士氏)
後半は佐藤優氏、末木文美士氏、鷲尾龍華氏の鼎談。進行役の鷲尾は、キリスト教と仏教の救済について触れた。佐藤氏はエマニュエル・トッドの『西洋の敗北』を取り上げ、欧米の宗教と世俗化について言及した。

対話の中で、佐藤氏から福家と鷲尾に向かって、YouTubeやインスタグラムによる動画配信を勧める一幕もあった。
最後は会場との質疑応答や感想の交わし合い。公共性、阿頼耶識、通底、ビジネスと宗教といったキーワードともとに交わし合った。江戸学者でイシス編集学校学長の田中優子氏は、現代における救済や祈りについて思いを述べた。

「なんで観音巡りがあるのか 観音様に相談しても何も答えてくれません。だけどそこに救済を見ているのです。救われるのです。何にも言ってくれない観音様に救済されるものが人間なのです。それは自分と向き合っているから、自分と向き合いながら自分の個の狭い世界に戻るのではなくて向き合いながらもっと大きなところに関わるからです」(田中優子)
会のラストには、近江ARSのチェアマン・中山雅文が「還生の会」全8回を終えて感謝とともに、これからの抱負を述べた。
「松岡さんは一番最後に日本をやりたい、それは仏教を通じてやりたいと言っていました。そうしたなかで三井寺の福家さんと出会い、始まったのが近江ARSでした。今回の菩薩というテーマを通して、近江ARSを今後も続けていくことが大事だと感じました」
第一期を終えた「還生の会」は、新たに第二期へと歩み始めている。

8回を終えて思いを新たにする中山。近江ARSはすでに新たなステージに向かって走り出している。背景の赤い庭は、MGS照明設計事務所による演出だ。

「一寸」という名の交流会。生姜湯、焼き餅を入れたお吸い物、近江の八菜、鮒寿司、精進料理のほろかべで参加者をもてなした。日本酒は冨田酒造の七本槍、平井酒造の熊蟄穴を用意した。参加者たちは近江の味覚に舌鼓を打ち、一日の感想を交わし合った。
近江ARS本部
滋賀県大津市栗林町3番1号
中山事務所内
近江ARS総局
東京都千代田区九段南2-2-8
松岡九段ビル 百間内
聖徳太子(地球志向的視点から)~③人道主義活動と社会奉仕の精神/行基大師・忍性律師が引き継ぐ~中村元著より転記&今日的な継承事例(無縁社会を有縁化する「人間菩薩」の思想と実践)より一部抜粋
■普遍的宗教を奉ずる帝王は博愛の精神に基づく人道主義的活動を行う
■聖徳太子は
・大阪に四天王寺を建てたが、
⇒それは日本における社会救済事業の最初の試みとして有名である。
【そこには四院がつくられた】
①施薬(せやく)院
⇒薬草を栽培して人びとに分かち与えた。
②療病院
⇒誰でも男女ともにいっさいの病人を寄宿させた。
⇒出家した僧尼でも、病気のあいだは戒律に禁じられてあるものでも好きなまま食べさせ、
⇒病気がなおればまた戒律を守らせた。
③悲田院
⇒貧窮孤独な人を住まわせて養い、もし元気を回復したならば、四院の雑事に働かせた。
④敬田(きょうでん)院
⇒人びとをして悪を断じ善を修せしめてさとりを得させるための修養の道場である。
また、個人的には太子が片岡山で飢えた人を憐れんだという伝説もある。


出典:https://www.shitennoji.or.jp/shotokutaishi.html 四天王寺
◆このひとつひとつは、また他の普遍的国家の帝王も行った
③悲田院に対応するものとして
・アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)は
⇒教法大官という官職をもうけて、慈善事業ないし社会事業に関することをも管理させた。
⇒かれの王室は施与を行うことに熱心であり、諸方に遊園や施しの家をつくった。
⇒孤独なる者および老人に対しては特別に顧慮を示している。
①施薬(せやく)院に対応するものとして
・アショーカ王は
⇒薬草の栽培に力を注いだ。
⇒人に効あり獣に効ある薬草は、それがまったく存在しない地方には、どこへでも輸送させ、栽培させた。
⇒また樹根も果実もない地方には、いたるところにこれを輸送させ、栽培させた。
・聖徳太子も
⇒群臣とともにくすりがり(薬猟)を行い、また施薬院を建立した。
②療病院に対応するものとして
・アショーカ王は
⇒人間のための療病院と獣のための療病院とを諸方に建設した。
⇒かれの領土のみならず、南方のインド人諸国や西方ギリシャ人諸国もこれに倣った。

出典:右図)https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/v-buttou-1.htm
注)サーンチー(Sanchi、梵: साञ्ची Sāñcī):大仏塔や寺院跡、アショーカ王の石柱跡などの仏教建築群や、精緻な仏教彫刻で知られる仏教遺跡である。ここにはアショーカ王の治世に関する多くの碑文が残されており、これらの碑文には、療病院の設立に関する記述も含まれている。
・カンボジアのジャヤヴァルマン七世(クメール王朝の国王:1181年~1220年在位)は
⇒慈善院設立命令書(アーロギャーシャーラ)を出し、多くのの病院を建設した。
注)病院建設:首都アンコール・トムを中心に、主要な道路沿いに102の病院を建設した。
これらの病院は、病人の療養と薬剤の供給を目的としており、ジャヤヴァルマン七世自身も病人の治療に関与していたとされている。
彼の慈善活動は碑文にも記されており、「身体を冒す病は心も蝕む。民の苦しみが大きくなれば王の苦しみもそれだけ大きくなる」と述べている。
具体的な病院の遺跡としては、アンコール・トムの北に位置するニャック・ポアン遺跡が有名。この遺跡は、かって病を治すための施療院として使われていた。
他にも、バンテアイ・クデイやタ・プローム、プリヤ・カーンなどの寺院も再建され、これらの場所には病院も併設されていたと考えられている。

出典:https://www.tnkjapan.com/angkor_wat/neak_pean ニャック・ポアン遺跡

プリヤ・カーン寺院(アンコール遺跡) 壁面に彫られた観世音菩薩
【上座部仏教の要素と大乗仏教の要素が共存: プリヤ・カーン寺院】
ジャヤヴァルマン七世は、カンボジアのクメール王朝の王で、彼の治世中に上座部仏教が広がった。上座部仏教は、仏教の中でも最も古い伝統を持っ宗派で、主にスリランカ、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア等で信仰されている。この宗派は、パーリ語の仏典を用い、釈迦の教えを忠実に守ることを重視している。
一方、観音菩薩は大乗仏教におけるっ重要な菩薩(修験僧)で、人々の苦しみを救う存在として広く信仰されている。観音菩薩は、観世音菩薩や観自在菩薩とも呼ばれ、救う相手や状況に応じて様々な姿に変身することができるとされている。例えば千手観音や十一面観音などが有名。

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html

出典:https://www.koumyouzi.jp/blog/902/
■このような救済活動には
・当時の都市部で実施されたが、多額の資金も必要になる。国家運営者以外の僧がどのように資金を調達したのかが次のテーマになる。そのヒントになるのが奈良時代に活躍した行基の社会事業活動の概要を紹介する。
【行基大師(668年~749年)の社会事業】
- インフラ整備:行基は橋や道路の建設、治水工事などを行い、交通の便を改善した。これにより、農業や商業の発展が促進された。
- 貧民救済:行基は、病気や飢えに苦しむ人々のために布施屋(無料の宿泊施設)を設置し、食事や宿泊を提供し、多くの人々(病人や貧困者等)の救済を行った。
- 治水工事:行基は、治水工事を通じて衛生環境の改善にも努めた。これにより、疫病の蔓延を防ぎ、健康な生活環境を提供した。
- 薬草の利用(医療活動):行基は、薬草を用いた治療法も広めた。彼の活動は、単なる宗教的な布教にとどまらず、実際の人々の健康を守るための具体的な手段を講じるものであった。
- 寺院建立:行基は多くにの寺院を建立し、これらの寺院を拠点にして地域社会の発展に寄与した。
<医療活動の背景>
・行基は、疫病や飢饉が頻発していた奈良時代に生きた。当時の民衆は、病気や貧困に苦しんでおり、行基はその救済に力を入れた。
<民衆への布教禁止令>
・僧尼令:奈良時代に朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止。無許可での布教活動を禁じていた。
この法律の背景には、仏教が国家の統治に重要な役割を果たしていたことがあった。朝廷は仏教を通じて国の安定を図ろうとし、僧侶や尼僧の資格(税金逃れを封じる)や行動を国家が管理し、僧侶たちの活動を厳しく監視していた。
・その禁を破って行基集団(僧俗混合宗教集団:利他行集団)を形成し、畿内を中心に民衆や豪族などの階級を問わず広く人々に仏教を説いた。
⇒当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。
尚、僧尼令の処分者は行基のみ。
【7世紀半ばの社会背景と大乗仏教の「菩薩道:利他行」】
朝廷(王権)によって主導されてきた造寺・造仏は、地方豪族層に拡大し、各地に氏寺を造営していた。こうした仏教の普及の中で、僧たちの中には、衆生の救済を実現しようとする大乗仏教の菩薩道を実践しようと、造道、造橋などの社会事業を行うものも登場してきた。
道昭の社会事業もその一つである。道昭は日本における法相宗の祖であり行基の師である。行基もこの道昭が行った大乗仏教の菩薩道実践の一環として社会事業を展開したのである。
尚、大乗仏教の「菩薩道」とは、自利・利他行を成就して悟りに至る道をいい、『利他行』とは他者を救済する行いを意味するが、この利他行を実践することも悟りに結実する修行であるとし、行基の各種社会事業はまさにこの「菩薩道」の実践そのものであった。
※道昭:遣唐使の一員で653年に唐に渡り、玄奘三蔵に師事して法相宗の教えを学んだ。帰国後、法相宗の教えを広めるたに尽力した。
道昭の晩年には全国に遊行しながら各地で土木事業を行った。特に橋や道路の建設に力を入れ、多くの地域でインフラの整備に貢献した。
道昭の土木事業は、彼の宗教的な活動とともに、地域社会の発展にも大きな影響を与えた。
【社会事業の資金提供者:地域の豪族】
- 資金提供者:橋や道路の建設、治水工事などの土木工事は、地方の豪族の資金提供によって支えられていた。これにより、農業生産力の向上とその成果を生かす商業(物流)の発展が促進された。
- 民衆の生活環境の改善:行基の活動は、豪族の土地も潤す結果となり、彼の教えに従う民衆が増加した。

(出典:https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111c10.html)
【行基は薬師寺(法相宗)にて教学(唯識)を学ぶ】
法相宗は玄奘三蔵が開いた仏教の一派で、その教えは『唯識』。唯識とは、すべての現象は心の働きよって生じるという仏教の哲学。玄奘三蔵はこの教えを中国に持ち帰り、弟子の慈恩大師によって法相宗として体系化された。
・唯識と行基の社会事業への深い繋がり
- 唯識の学びと実践:行基の社会事業は、『唯識』の「心の働きが現実を作る」という考え方に基づいている。具体的には、行基は人々の苦しみを取り除くはために、心の働きが重要であると考えた。
- 貧民救済・インフラ整備:社会事業を通じて、人々の生活を改善しようとした。これらの活動は、唯識の「利他行」(他人のためにっ行動すること)を実践するものであり、他人の苦しみを取り除くことで自分自身も幸福になるという考え方に基づいている。
行基の活動は、唯識の教えを具体的な形で実践したものであり、彼の社会事業は唯識の理念を体現していると言える。
※日本では薬師寺と興福寺が法相宗の総本山。
【弾圧の対象から大仏勧進】
743年、天然痘の流行、飢饉、政争等相次ぐ社会不安の高まりから、聖武天皇は国家の安定を願い「盧舎那仏造営の詔」を発しました。この大事業に対し大仏造営の勧進役に行基が起用されました。莫大な費用を調達し、多くの人夫を集めて行う一大公共事業を担えるのは、行基をおいて他にはいないと判断されたと考えられています。
その2年後、当初は弾圧の対象であった行基が、聖武天皇によって我が国最初の「大僧正」に任じられ、官僧の頂点に立つこととなりました。行基が亡くなった749年の「続日本紀」には、彼が果たした業績や恩恵等から「行基菩薩」と記録されており、行基の残した様々な足跡は古代における民の力を活用したインフラ整備の事例として、時を越え我々に語り継がれることとなりました。
■普遍的帝王としての『聖徳太子』の独自性
・聖徳太子の出現ということも、
⇒人類の思想史の流れにおける、
⇒ある一定の時期に現れた一つの共通な事象の一環である。
⇒しかし、また他の国々の場合と異なって、所得太子には独自のものがある。
⇒いろいろの点に見られるが、
⇒ことに普遍的な宗教の精神を
⇒社会や国家の上に生かそうとして、
⇒それを実際に具現したという意義において、
⇒他の国々の諸帝王よりも卓越しているというべきであろう。
注)大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)の違い:蘇我氏は臣(おみ)と言う身分の一族であり、臣の中でも代表的な一族であったので大臣(おおおみ)という地位を得ていた。物部氏は連(むらじ)と言う身分の一族であり、連の中でも代表的な一族だったので大連(おおむらじ)という地位を得ていた。
臣は畿内周辺の有力豪族であり、傍系ではあるが遠く皇族の血を引く一族の中から有力な豪族が選ばれた。一方の連は、地方の有力豪族であり、皇族とは別系統ながら神々の血を引く一族であった。
■社会奉仕の精神
■聖徳太子の仏教:日本において根をおろした仏教かつ普遍的な意義を有す
・その顕著な特徴として社会生活における活動を強調する思想
⇒これはもともと日本人に特徴的なように思われる。
⇒原始神道が農村の農耕儀礼と密接に結びついているものであり、
⇒神道の神々が生産神として表象されて今日にいたっていることは、周知の事実である。
⇒外国文化との接触交渉が行われるようになって、日本人はシナの宗教を知るが、
⇒その際、多少は老荘思想の影響を受けたけれども、
⇒しかしとくに儒教を選び取った。
⇒すなわち、種々多様なシナ思想のうちで、
⇒とくに具体的な人間結合関係における実践の仕方を教える儒教を採用し、摂取したのである。
⇒老荘思想は、ややもすれば個人的な人間結合関係から逃れ出て、
⇒山林にこもっておのれ一人の静安なる生活を求めるという隠遁主義に傾く傾向があるので、
⇒多くに日本人はこのような傾向を好まなかったのである。
⇒ところが、儒教はもとももと現実的な教説であり、
⇒はたしてそれを宗教と呼びうるかどうかが問題とされているほどであって、
⇒もっぱら人間結合関係に即しての行動のしかたを規定しているから、
⇒この点に関するかぎりは、儒教の移入にあたってなんらの摩擦を生じなかった。
・仏教の場合
⇒さまざまな問題を提起した。
⇒仏教は出世間の教えであることを誹謗する。
⇒仏教哲学においては、
⇒「世間」を超えたところに「出世間」の絶対の境地を認める。
⇒仏教教団における中心存在はみな出家者であり、
⇒家族のみならずあらゆる特殊な人間結合関係の束縛から脱(のが)れ出た人である。
⇒仏教は
⇒出家を説くから人間結合関係を破壊するものであるということが、
⇒シナにおいて儒教の側から盛んに非難された。
⇒日本においても同様に、近世になってから国学者や漢学者たちが盛んに非難している。
⇒仏教が伝来した当時にもおそらく同様の避難がなされたであろう。
⇒それにもかかわらず、仏教は江河の勢いで流れ入り、
⇒明治維新前においては日本はまったく仏教国の観を呈するにいたった。
・具体的な人間結合関係を重視する日本人が、
⇒人間結合関係を破壊すると非難される仏教をいかにして受容したのであろうか。この問題を考える。
⇒原始仏教においてはその教団の中心を構成していたものは、
⇒出家者である男性(比丘:びく)と女性(比丘尼:びくに)とであった。
⇒在俗信者は
⇒出家修行者を援助し保護するとともに、その精神的な指導教化に従っていた。
⇒仏教ばかりでなく、当時の一般の宗教教団は、
⇒バラモン教をのぞいてその他はみな、出家修行者がその中心となっている。
⇒原始仏教はその社会的習慣に従ったままである。
⇒原始仏教の出家修行者たちは、
⇒世俗の汚れから離れてまず自分だけで理想的な社会(サンガ)を構成し、
⇒その宗教的道徳的感化のもとに世人を指導しようと努めたのである。
⇒だから出家したからといって、すぐに人間結合関係を破壊するとはいえない。
⇒のみならず、当時の社会においては、
⇒多くの人びとの出家を必要とする社会的な理由があったのである。
⇒しかしながら、日本の風土においてはインドとは社会的生活状態が異なるために、
⇒特殊な人間結合関係のうちにあって人間社会に奉仕することが要請される。
⇒このような要請にとっては、原始仏教の思想はどうもしっくり適合しないのである。
⇒そこで、原始仏教およびそれを継承している伝統的・保守的な仏教を
⇒『小乗(=上座部仏教)』という名のもとに貶斥(へんせき)して、
⇒とくに大乗仏教を採用したのである。
⇒大乗仏教は、
⇒クシャーナ族が北インドを支配した時代以降、すなわち紀元後に表面に現れ出た民族的な仏教であった。(クシャーナ朝のカニシカ1世(144年~171年))
⇒大乗仏教のうちのすべてがそうではないが、
⇒そのうちのあるものは世俗的生活のうちにおいて絶対の真理を体得すべきことを教える。
⇒日本人は仏教を受容するにあたって、
⇒とくにこのような性格のものを選び取った。
⇒また、本来はこのような性格をもたない教説をも、
⇒ことさらにこうした性格を与えて受け取った。
⇒『日本は大乗仏教の行われる国である』(大乗相応の地)という定型句の成立した理由は、
⇒このような基盤を顧慮してのみ理解できるのである。
注)仏教の分裂:根本分裂と呼ばれている。

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html
<参考情報>釈迦(紀元前565年~紀元前486年)、アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)、カニシカ王(144年~171年)

出典:https://www.koumyouzi.jp/blog/902/
【大乗仏教のアウトライン】
大乗仏教は他者の救済と慈悲の実践を重視
- 目的:他者の救済を重視(利他行)。
- 修行方法:六波羅蜜の実践(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)。
- 広がり:中国、朝鮮、日本(北伝仏教)
<大乗仏教の特徴>
大乗仏教は、初期仏教(上座部仏教)とは異なり、より広範な救済を目指す教えとして発展した。
- 普遍的な救済:大乗仏教は、すべての生きとし生けるものの救済を目指します。出家者だけでなく、在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げています。
- 菩薩の道:菩薩(Bodhisattva)という概念が重要で、菩薩は自らの悟りを求めるだけでなく、他者の救済をも目指します。菩薩は修行を通じて他者を助けることを重視します。
- 空(くう)の教え:万物が本質的には無常であり、独立した永続的な自己を持たないことを指します。この「空」の概念は、大乗仏教の中心的な教義の一つです。
- 大乗経典:大乗仏教には独自の経典があり、代表的なものには『般若経』、『法華経』、『浄土三部経』、『華厳経』などがあります。
- 如来蔵思想:すべての衆生が仏性を持ち、修行を通じて仏となる可能性があるとする教えです。
- 地域的な広がり(北伝仏教):大乗仏教は、インド、中央アジア、中国、朝鮮、日本などの国々で広く信仰されている。
日本の仏教の多くの宗派も大乗仏教に分類されており、戒律は宗派ごとにさまざまに解釈。

出典:https://president.jp/articles/-/42220?page=6
注)クシャーナ朝のカニシカ1世(144年~171年):仏教の保護者としても知られ、彼の治世下でガンダーラ美術が発展し、初めて釈尊(ブッダ)の像、仏像がつくられた。
マウリヤ朝は、アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)の死後、急速に衰退。
紀元1世紀頃には、「クシャーナ朝」がインダス川流域を支配していた。
仏教は、クシャーナ朝でも保護された。
しかし、“出家した者のみが救われるという考えは、利己的である”という批判が出始めます。
その考えのもとに生まれたのが、大乗仏教でした。
インダス川の上流域は、中央アジアとつながる東西交易の重要な拠点でした。
そのため、大乗仏教は、中央アジアを経て中国へ、そして、朝鮮半島、日本にまで伝わった。

出典:https://www.kawai-juku.ac.jp/spring/pdf/text201958-535673.pdf

出典:左図)https://butsuzou.themedia.jp/posts/7717652/ 右図)https://www.louvre-m.com/collection-list/no-0010 下図)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

■仏教を受け入れるにあたっての態度:世俗的生活のうちにおいて絶対の真理を体得すべきこと
・聖徳太子が世俗生活を肯定する立場で選定した三教とその「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」
⇒聖徳太子の「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」とは、
①勝鬘経(しょうまんぎょう)
②維摩経(ゆいまぎょう)
③法華経(ほっけきょう)
⇒とに対する注釈であるが、数多い仏教の諸経論のなかからとくにこの三経が選ばれたということは、
⇒まったく日本人的な思惟方法にもとづいてされたことである。
①勝鬘経(しょうまんぎょう)は、
⇒国王の妃であり在俗信者でもある勝鬘夫人が釈尊の旨を受けて教えを説いたものであり、
②維摩経(ゆいまぎょう)は、
⇒在俗信者(資産家)である維摩居士が逆に出家修行者たちに対して教えを説くという戯曲的構想のもとに、在俗生活のうちにおける真理の体得を教えている。
③法華経(ほっけきょう)によれば、
⇒仏の教えに帰依するいっさいの衆生が救われるということになっている。
⇒太子自身も終生一個の在俗信者であった。太子みずから「仏子勝鬘」と称したことが伝えられている。
⇒ゆえに聖徳太子の意図は、
⇒世俗生活のままで具体的な人間結合関係のうちにおいて仏教の理想を実現しようとするほうに重点が置かれていたのである。
・聖徳太子の「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を通じて見ると
⇒日常生活の上の個々の実践的行為に絶対的な意義を見いだそうとしている。
人間結合関係における活動を重視するゆえに、
ひとたび仏教的反省を経たならば、
汚濁苦悩の世界がそのまま楽しみの境地となる。
「物(もつ)<衆生>を(教)化せんとするのがゆえに、
生死(しょうじ)を観(み)ること国のごとし」。
生死輪廻(しょうじりんね)の世界において実行するところのあらゆる善が、
やがては人びとをして仏の位にいたらしめる原因となる。
「無量の万善(まんぜん)は同じく成仏(じょうぶつ)に帰す」
・ここで注目すべきは、宗教的な究極の境地は、
人間を超越した神的存在によって授けられるのではなく、
人間結合関係における実践を通じて実現されるのである。
「仏としての果(報)は万(よろず)の善によって起こる」。
⇒大乗仏教においては利他行を強調するが、
⇒聖徳太子はとくにこの点を強調し、
仏や菩薩たる者は、一切衆生を供養すべきであると考えた。
そのため、ときには経典の文句に対して無理な解釈を施してある。
・聖徳太子の「法華経」に対する捉え方
⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、
⇒「治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある。
⇒一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない。
⇒どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので、
⇒山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない。
⇒聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである。
⇒こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。
■社会的な奉仕を強調した聖徳太子
◆勝鬘経(しょうまんぎょう)に
⇒「財を捨(しや)すとは‥‥一切衆生の殊勝の供養を得るとなり」とあるのに対して、
⇒「語は少しく倒せり。まさに殊勝の一切衆生を供養することを得というべし」と説明する。
⇒つまり、経典の文句を恣意的に書きかえて、奉仕精神を力説しているのである。
◆「法華経(ほっけきょう)では
⇒「常に座禅を行え」と勧めているのに、
⇒聖徳太子はその文書を
⇒「常に座禅を行うような人に近づいてはならぬ」という意味に改めている。
⇒その趣意は、つねに座禅ばかり行っていたのでは利他行が実践できないからというのである。
◆聖徳太子と同様の思想は
⇒その後の仏教を一貫して流れている。
⇒伝教(でんぎょう)大師最澄によれば、出家者も在俗者も同一理想を実現すべきであり、<真俗一貫>。
⇒弘法大師空海によれば、現実に即して絶対の理を実現すべきである<即時而真(そくじにしん)>。
⇒そうして、この態度がその後の仏教においてさらに発展し、日本仏教の特性を示すこととなる。
◆この態度にもとづいた仏教の道徳も
⇒また変容された。
⇒たとえば、布施(施し与えること)ということは仏教の強調する重要な徳目であるが、
・インド人は
⇒これを徹底的に実行すべきであると考えた。
⇒多数の仏教経典のなかには、財産のみならず国・城・妻子さえも、いや、自分の身体さえも捨てて他の人8あるいは生きもの)に与えてしまうことが称揚されている。
⇒そのような徹底した捨離・無一物の生活を、インド人は修行者の理想として描いていた。
・具体的な人倫を重視する日本人の現実の倫理観にとっては、
⇒このような極端なことは許されない。
⇒聖徳太子は、「施し」の意義を
⇒「身体以外の所有物を捨ててしまう」というだけに限定している。
⇒人倫をも無視して極端にまで達するインド人の思惟傾向がここに修正されつつ、
⇒仏教が摂取されたのである。
⇒我が国において宗教の真理が
⇒現実に具現され展開されるための基礎が
⇒聖徳太子によってつくられたということができるであろう。
◆行基大師(668年~749年)の社会事業
・このような救済活動には当時の都市部で実施されたが、多額の資金も必要になる。国家運営者以外の僧がどのように資金を調達したのかが次のテーマになる。そのヒントになるのが奈良時代に活躍した行基の社会事業活動の概要を紹介する。
【行基大師(668年~749年)の社会事業】
- インフラ整備:行基は橋や道路の建設、治水工事などを行い、交通の便を改善した。これにより、農業や商業の発展が促進された。
- 貧民救済:行基は、病気や飢えに苦しむ人々のために布施屋(無料の宿泊施設)を設置し、食事や宿泊を提供し、多くの人々(病人や貧困者等)の救済を行った。
- 治水工事:行基は、治水工事を通じて衛生環境の改善にも努めた。これにより、疫病の蔓延を防ぎ、健康な生活環境を提供した。
- 薬草の利用(医療活動):行基は、薬草を用いた治療法も広めた。彼の活動は、単なる宗教的な布教にとどまらず、実際の人々の健康を守るための具体的な手段を講じるものであった。
- 寺院建立:行基は多くにの寺院を建立し、これらの寺院を拠点にして地域社会の発展に寄与した。
<医療活動の背景>
・行基は、疫病や飢饉が頻発していた奈良時代に生きた。当時の民衆は、病気や貧困に苦しんでおり、行基はその救済に力を入れた。
<民衆への布教禁止令>
・僧尼令:奈良時代に朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止。無許可での布教活動を禁じていた。
この法律の背景には、仏教が国家の統治に重要な役割を果たしていたことがあった。朝廷は仏教を通じて国の安定を図ろうとし、僧侶や尼僧の資格(税金逃れを封じる)や行動を国家が管理し、僧侶たちの活動を厳しく監視していた。
・その禁を破って行基集団(僧俗混合宗教集団:利他行集団)を形成し、畿内を中心に民衆や豪族などの階級を問わず広く人々に仏教を説いた。
⇒当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。
尚、僧尼令の処分者は行基のみ。
【7世紀半ばの社会背景と大乗仏教の「菩薩道:利他行」】
朝廷(王権)によって主導されてきた造寺・造仏は、地方豪族層に拡大し、各地に氏寺を造営していた。こうした仏教の普及の中で、僧たちの中には、衆生の救済を実現しようとする大乗仏教の菩薩道を実践しようと、造道、造橋などの社会事業を行うものも登場してきた。
道昭の社会事業もその一つである。道昭は日本における法相宗の祖であり行基の師である。行基もこの道昭が行った大乗仏教の菩薩道実践の一環として社会事業を展開したのである。
尚、大乗仏教の「菩薩道」とは、自利・利他行を成就して悟りに至る道をいい、『利他行』とは他者を救済する行いを意味するが、この利他行を実践することも悟りに結実する修行であるとし、行基の各種社会事業はまさにこの「菩薩道」の実践そのものであった。
※道昭:遣唐使の一員で653年に唐に渡り、玄奘三蔵に師事して法相宗の教えを学んだ。帰国後、法相宗の教えを広めるたに尽力した。
道昭の晩年には全国に遊行しながら各地で土木事業を行った。特に橋や道路の建設に力を入れ、多くの地域でインフラの整備に貢献した。
道昭の土木事業は、彼の宗教的な活動とともに、地域社会の発展にも大きな影響を与えた。
【社会事業の資金提供者:地域の豪族】
- 資金提供者:橋や道路の建設、治水工事などの土木工事は、地方の豪族の資金提供によって支えられていた。これにより、農業生産力の向上とその成果を生かす商業(物流)の発展が促進された。
- 民衆の生活環境の改善:行基の活動は、豪族の土地も潤す結果となり、彼の教えに従う民衆が増加した。

(出典:https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111c10.html)
【行基は薬師寺(法相宗)にて教学(唯識)を学ぶ】
法相宗は玄奘三蔵が開いた仏教の一派で、その教えは『唯識』。唯識とは、すべての現象は心の働きよって生じるという仏教の哲学。玄奘三蔵はこの教えを中国に持ち帰り、弟子の慈恩大師によって法相宗として体系化された。
・唯識と行基の社会事業への深い繋がり
- 唯識の学びと実践:行基の社会事業は、『唯識』の「心の働きが現実を作る」という考え方に基づいている。具体的には、行基は人々の苦しみを取り除くはために、心の働きが重要であると考えた。
- 貧民救済・インフラ整備:社会事業を通じて、人々の生活を改善しようとした。これらの活動は、唯識の「利他行」(他人のためにっ行動すること)を実践するものであり、他人の苦しみを取り除くことで自分自身も幸福になるという考え方に基づいている。
行基の活動は、唯識の教えを具体的な形で実践したものであり、彼の社会事業は唯識の理念を体現していると言える。
※日本では薬師寺と興福寺が法相宗の総本山。
【弾圧の対象から大仏勧進】
743年、天然痘の流行、飢饉、政争等相次ぐ社会不安の高まりから、聖武天皇は国家の安定を願い「盧舎那仏造営の詔」を発しました。この大事業に対し大仏造営の勧進役に行基が起用されました。莫大な費用を調達し、多くの人夫を集めて行う一大公共事業を担えるのは、行基をおいて他にはいないと判断されたと考えられています。
その2年後、当初は弾圧の対象であった行基が、聖武天皇によって我が国最初の「大僧正」に任じられ、官僧の頂点に立つこととなりました。行基が亡くなった749年の「続日本紀」には、彼が果たした業績や恩恵等から「行基菩薩」と記録されており、行基の残した様々な足跡は古代における民の力を活用したインフラ整備の事例として、時を越え我々に語り継がれることとなりました。
◆忍性律師(にんしょうりつし)
・鎌倉後期の真言律宗の僧(1217年~1303年)で、
⇒一時、四天王寺の別当をしていた。
⇒忍性は、奈良の北部般若坂のところにも、ハンセン氏病患者の収容施設を建てた。
⇒北山十八間戸(きたやまじゅうはつけんど)という。
⇒忍性は、病人を背負っては、奈良の町へ連れていって買い物をしてやったという。
⇒かれの建てた施設は火災焼けたが、土地の人が惜しんで、元禄時代に昔とそっくりのものを建てたという。
⇒般若坂に訪れてわかったことは、そこにいると、遠くの方に興福寺の塔と、法隆寺の塔が見えて、
⇒病人たちは心の安らぎが得られる。
⇒かれはそこまで考えていたのである。
<北山十八間戸の位置と再現施設>

・その後の忍性律師の活動方面
⇒東(関東)へ下って、諸方でたいへんな活動をした。
⇒例えば、鎌倉の大仏の近く桑ヶ谷では療病舎を建てた。
⇒親しい人でも疎い人でも、その区別なしに病人が集まった。
⇒だれでも、機嫌はどうかと尋ねたという。
⇒そこで20年間に病の癒えたものは四万六千百人。亡くなった人は一万四百五十人。
⇒会わせて五万七千二百五十人の人が、そこで療病看病を受けたということになるが「性公大徳譜」などに伝えられている。
⇒また、鎌倉の極楽寺には、当時の活動状況を示した絵巻が残っている。

極楽寺の山門 極楽寺の井戸(粥を施すために使用) 桑ヶ谷療養所跡
注:桑ヶ谷療養所跡は大仏と長谷寺の間にひっそりと石碑が建立されていた(2024年6月26日訪問)
・それ以外の忍性律師の活動
⇒諸国に橋を架けること189か所、水田の開墾22か所、180町歩に及ぶ。
⇒道路の改修71か所、井戸の掘削33か所、浴室と療病所と乞食の収容所とを、おのおの5か所につくり、
⇒乞食する人たちのためには、布の衣三万五千着を与えた。
⇒鎌倉では、極楽寺門前から由比ヶ浜へ通ずる切り通しを開いた。
⇒これは、由比ヶ浜の波が荒く、それをよけることによって船の着くのを便利にするためで、
⇒幕府はその志に感じて、直接、間接にこれを助けたが、これは大変なことである。
⇒関西では、宇治橋の修築が、以前は叡尊律師(忍性の師)が手がけたものだとされていたが、
⇒後になると、忍性がつくったのであろうというような推定も、「洛陽名所集」の中で述べられている。
注)四天王寺の別当(べっとう):寺院の統括や監督を行う重要な地位。この役職は、寺の運営や管理を担当し、歴史的には多くの著名な僧侶がこの地位に就いていた。
例えば、鎌倉時代には忍性が別当として四天王寺に入寺し、社会福祉事業を推進した。また、弘安5年(1282年)には、天台座主の最源と園城寺長吏の隆弁が別当の地位を巡って争った際、叡尊(えいそん)が朝廷の要請を受けて別当に就任した。
四天王寺の別当は、単なる管理者ではなく、寺の精神的な指導者としての役割も果たしてきた。歴史を通じて、四天王寺の別当は寺院の発展と地域社会への貢献に大きな影響を与えてきた。
注)叡尊(えいそん):真言律宗の僧侶であり、忍性の師。叡尊は鎌倉時代中期に活躍し、戒律の復興や社会福祉活動に尽力した。叡尊は西大寺を拠点に活動し、貧民や病人の救済にも力を注いだ。
忍性は叡尊の教えを受け、同じく貧者や病人の救済に尽力した。彼らの活動は、当時の社会に大きな影響を与えた。
注)真言律宗の開祖:平安時代初期の弘法大師空海は真言宗の創始者であり、真言律宗の教義の基礎を築いた。しかし、真言律宗として形を整えたのは叡尊。叡尊は戒律の復興と社会福祉活動に力を入れ、真言律宗を復興した。
注)真言宗:創始者は弘法大師空海。
- 教義: 密教の教えを基にしており、特に即身成仏(生きたまま仏になること)を重視する。密教の儀式や真言(マントラ)を唱えることが特徴。