■法を見、仏を見る事と同義
・ニルヴァーナといっても、ブッダといっても、
⇒何も奇異なるものではない。
⇒それはもろもろの原因や条件の連鎖の網によって相依って起こっている諸事物のほかに求むべきものではなく、
⇒諸法の縁起せる如実相を体得した場合に初めて「さとりを開いたもの」(覚者)といわれるのであるから、
⇒「縁起を見る」ということは極めて重要な意味を有する。
⇒『中論』の第二四章(四つのすぐれた真理の考察)の最後の詩(第四〇詩)に、
⇒「この縁起を見るものは、すなわち苦、集(じゆう)、滅および道(どう)を見る」というが、
⇒これは古くから伝えられている句である「縁起を見るものは、すなわち法を見る」を書き換えたものであろう。
⇒すなわち「法」という語を「苦、集、滅、道」と書き換えたものでるが、
⇒四諦(したい)によって一切諸法を摂することができるから(『俱舎論』一巻、三枚以下)、
⇒このように変形したのも何らさしつかえないはずである。
⇒さらにこの「縁起を見る者ものは、すなわち法を見る」の後ろに、ときには次に「法を見るものは、すなわち仏を見る」という句が付加されていることがある。
⇒クマーラジーヴァはそれと予想して上の詩を、
⇒「是の故に経の中に説く。若し因縁の法を見ば、則ち能く仏を見、苦集滅道を見ると為す」と余分な言葉を入れて訳しているし、
⇒青目(しょうもく:ピンガラ)の註釈には、
⇒「若し人、一切法の衆縁(多くの縁)より生ずるを見ば、是の人即ち仏の法身を見る。智慧に増益(ぞうやく)して、能く四聖諦の苦集滅道を見る。四聖諦を見ば、四果(四つの到達境地)を得、諸苦悩を滅す。是の故にまさに空の義を破するべからず」(大正蔵、三〇巻、34ページ下)といい、
⇒『般若経』も同様に説明している(大正蔵、三〇巻、127ページ下)。
・したがって「縁起を見ること」「法を見ること」「仏を見ること」の三つは同じことを意味している。
⇒この場合の相関関係によって成立していること、縁起は相依性の意味であるから、諸法の統一関係、すなわちそれぞれの法を成立せしめる根拠を意味している。
⇒そうして「縁起を見る」とはこの統一関係を体得することである。
⇒「縁起をと対格(accusative)をもっていわれるが、
⇒決して縁起なるものを客体化して把捉しようとするのではなくて、
⇒これを主体的に理解するのでる。
⇒したがって「縁起を見る」ことの内容を概念をもって表現することは不可能である。
・さらにこの「縁起を見ること」は「法を見ること」である。
⇒この場合、法が縁起の理法を意味するならば、全く問題はないはずである。
⇒またこの「法」を、後世ものといわれるような性質の概念とみてもさしつかえない。
⇒何となれば、法がそれぞれの法として成立しているのは全く相依によるのであり、
⇒縁起から切り離して法を考えることはは不可能であるからである。
⇒したがって「法を見る」といっても、
⇒説一切有部で想定したような独存孤立としているダルマの本体(法の自性)を認めるという意味ではない(『プラサンナバダー』559ページ「)。
⇒またブッダという独立な実存があるわけなくて、
⇒縁起をさしているにほかならないから、「縁起を見ること」が同時に「仏を見ること」でもありうる。
■縁起を見ることで凡夫から覚者へ
・この「縁起を見ること」ということは種々に説明されている。
⇒それはとりも直さず空を体得することであるとか(『大乗縁生論』、大正蔵、三二巻、482ページ)、諸法実相に入ることであるとかいわれる(『プラサンナバダー』559ページ、そのほか)、
⇒そうして縁起で見るならば一切の戯論(けろん)が滅するとも説かれている(同書11ページ)。
⇒またすでに原始仏教聖典のうちに、「縁起を見るならば前際中際後際(過去・現在・未来)に関して愚感に陥ることなし」(『維阿含経』一二巻、『俱舎論』九巻、一二枚以下など)と説かれているが、
⇒『中論』はこれを受けて第二七章(誤った見解の考察)において詳しく説明している。
⇒これらの諸説明は異なった点に着目しているけれども結局同一趣旨のものであろう。
・要するに縁起説の意味する実践とは、
⇒われわれの現実生存の如実相である縁起を見ることによって
⇒迷っている凡夫が転じて覚者となるというのである。
⇒故に、何人であろうとも縁起を正しく覚る人は必ず等正覚者(ブッダ)となるであろうという趣意のもとに、
⇒無上等正覚者を成ぜんがためにこの縁起説が説かれたのであると説かれている(『稲幹経』)。
⇒したがって大乗の『大般涅槃経』(南本、二五巻、三〇巻)においては、ついに、十二因縁は仏性であると説かれるに至った。
⇒さらに等正覚者(ブッダ)を成ずることがニルヴァーナであるから、
⇒縁起を見ることがただちにニルヴァーナに入ることである。
⇒したがってブッダバーリタは縁起の教えを「一切の戯論(けろん)を滅したニルヴァーナの都に至る正しくめでたい道」と説明している(ブッダバーリタ註、2ページ)。
■縁起の如実相を見る智慧
・この縁起の如実相を見る智慧が<明らかな智慧>(Prajñā 般若)である(『さとりの行いへの入門』パンジカー、344ページ)。
⇒『大智度論』においては、諸法実相を知る智慧が般若波羅蜜であると説明されている(一八巻、大正蔵、二五巻、109ページ上)、
⇒結局縁起を見る智慧を意味していることに変わりはない。
⇒したがってチャンドラキールティは自著『入中観論』のなかで、「相依性の真意を見る人は、般若に住するが故に滅を得る」といい、
⇒あるいは「甚深なる縁起の真性を見る菩薩は般若波羅蜜清浄によって滅を得る」ともいう。
・般若波羅蜜に関しては古来種々に説明されているけれども、
⇒要するに諸法が互いに相依って起こっているという縁起の如実相を見る(さとる)ところの智慧であるといってさしつかえないであろう。
⇒このように解することによって、『中論』のもとの詩句の中には一度も「般若」という語が現われていないにもかかわらず、
⇒縁起を説く『中論』の詳しい名称に「般若」(Prajñā)という語が含まれているゆえんもおのずから明らかであろう。
■無明の断滅と縁起の逆観
・この般若によって縁起を見るならば、無明が断ぜられる。
⇒「この縁起の如実無顚倒なる修習(じゅうじゅう)の故に無明(無知)は断ぜられる」(『プラサンナバダー』559ページ)とチャンドラキールティはいう。
⇒諸法実相を見るならば無明が断ぜられるともいうが(同書559ページ)これも同じ意味である。
・無明が断ぜられるためには、
⇒無明は実有であることはできない。
⇒もしも実有であるならば、それを断ずるということは不可能である。
⇒ナーガールジュナは『中論』の第二三章(顚倒した見解の考察)において、
⇒誤った見解(顚倒)なるものが一般に成立しないことを主張している。
⇒さらに『大智度論』においては一層積極的にこのことを説明している。
⇒すなわち十二因縁を説いた後で、「また次に菩薩が無明の体(本質)を求むるに、即時に是れは明らかなり。
⇒いわゆる諸法実相を、名づけた実際(究極の根拠)と為す(九〇巻、大正蔵、二五巻、697ページ上)という。
⇒すなわち、「無明」をそのものは「明」に基礎づけられている。
・無明とは「諸法実相を解しないこと」(『さとりの行いへの入門』パンジカー、352ページ)である。
⇒無明を断ずるというのは、人間存在の根源への復帰を意味する。
⇒したがって無明を断ずることが可能なのである。
⇒ここにおいて縁起の逆観が基礎づけられていることを知る。
⇒無明が滅するが故に十二因縁の各項がことごとく滅しうることなる。
⇒『中論』の第二三章(顚倒した見解の考察)においては誤った見解(顚倒)を論破した後で、
⇒「このように顚倒が滅するが故に、無明が滅する。無明が滅したときに形成力(行)なども滅する」(第二三詩)といい、
⇒第二六章においても、
⇒「無明が滅したときもろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない。
⇒しかるに無明の滅することは、知によってかの(十二因縁)修習(連続的念想)からくる」(第一一詩)
⇒「〔十二因縁のもろもろの項目のうちで〕
⇒それぞれの(前の)ものの滅することによって、
⇒それぞれの(後の)ものが生じない。
⇒このようにして、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する」(第一二詩)という。
⇒したがって『中論』は縁起の逆観を成立せしめていることがわかる。
■最初期の仏教の正統な発展
・そこで問題が起こる。
⇒縁起を見ることによって無明が滅することは了解しやすいが、
⇒何故に、無明が滅することによって十二因縁の各項がことごとく滅することになるのであろうか。
⇒ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。
⇒しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。
⇒この矛盾をナーガールジュナはどのように解していたのであろうか。
⇒『中論』にはこの解答は与えられていない。
⇒しかしながら、われわれが自然的存在の領域と法の領域を区別するならば、
⇒縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。
⇒自然的存在の領域は必然性によって動いているから、
⇒覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。
⇒ブッダも飢渇もまぬがれず、老死をまぬがれなかった。
⇒ブッダも風邪をひたことがある。
⇒しかしながら法の領域においては
⇒諸法は相関関係において成立しているものであり、
⇒その統一関係が縁起とよばれる。
⇒その統一関係を体得するならば
⇒無明に覆われていた諸事象が全然別ものとして現れる。
・したがって覚者の立場から見た諸事象は、
⇒凡夫の立場に映じている諸事象のすがたの否定である。
⇒したがって自然的存在としての覚者には
⇒何らの変化が起こらなかったとしても、
⇒十二因縁の各項がことごとく滅するという表現が可能であったのであろう。
・この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観は
⇒すでに最初期の仏教において説かれている。
⇒ナーガールジュナはこれを受けて、
⇒その可能であることを非常な努力をもって論証したのであるから、
⇒この点においてナーガールジュナの仏教は、
⇒意外なことには、
⇒或る意味で最初期の仏教の正統な発展であると解してもさしつかえないであろう。
<参考情報>



■解脱⇒涅槃
・六道輪廻のサイクルの外(涅槃)
⇒下図の赤字枠


出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
<参考情報>
■原始仏教経典一般ならび小乗の十二因縁の説
⇒『中論』においては二種の縁起説が説明されている。
⇒すなわち第一章から第二五章までに出てくる縁起は
⇒全く論理的な「相依性のみの意味なる縁起」であり、
⇒第二六章において初めて小乗のいわゆる「十二因縁」を説明している。
・この第二六章の説明は全く十二支を
⇒時間的生起の前後関係を示すものとみなしている。
⇒今その時間的生起関係を示す語に傍点を附してみる。
1)無明(むみょう / avidya) – 無知(真理に対する無理解)
⇒「無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)をみずから為し、その業によって迷いの領域(趣)に行く」
2) 行(ぎょう / samskara) -潜在的形成力( 意志、行動の形成力)
⇒「潜在的形成力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る。そうして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する(第二詩)。
3) 識(しき / vijnana) – 識別作用(意識)
4)名色(みょうしき / namarupa) – 身心(心と物質:精神と肉体)
5)六処(ろくしょ / ṣaḍāyatana) – 心作用の成立する六つの場(六つの感覚機能:眼、耳、鼻、舌、身、意)
⇒名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。
6) 触(そく / sparśa) – 感覚器官と対象との接触
⇒六入が生じてのち、感官と対象との接触(触)が生ずる」(第三詩)。
「眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意:さい)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる」(第四詩)
7) 受(じゅ / vedana) – 感受作用(感覚)
⇒「色と識と眼との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生ずる」(第五詩)
8)愛(あい / tṛṣṇā) – 盲目的衝動(渇愛、欲望)
⇒「受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するとき四種の執着(取)を取る」(第六詩)
9)取(しゅ / upādāna) – 執着(取り込む)
⇒「取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである」(第七詩)
10)有(う / bhava) -生存( 存在、存在状態)
⇒その生存はすなわち五つの構成要素(五陰:ごおん)である。生存から<生>が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望ーこれらは<生>から生ずる。このようにして、このたん〔に妄想のみ〕なる苦しみのあつまり〔苦陰:くおん〕が生ずるのである」(第八詩・第九詩)
11)生(しょう / jāti) – 生まれること
12)老死(ろうし / jāramaraaṇa) – 無常なすがた(老化と死)
・このように全く時間的生起の関係に解釈され、
⇒チャンドラキールティの註釈においては一つの項から次の項が生ずることを説明するために、
⇒いつも「それよりも後に」という説明が付加されている。
⇒またナーガールジュナは他の書おいて十二因縁を三世両重の因果によって説明しているし、
⇒中観派は極めて後世に至るまで三世両重の因果による説明に言及している。
・しかしながらナーガールジュナが真に主張しようとした(第二五章まで)縁起が
⇒十二有支(うし)でないことは明らかである。第三章八詩に、
⇒「<見られるもの>と<見るはたらき>とが存在しないから、識(3:識別作用)などの四つは存在しない。
⇒故に収(9:執着)などは一体どうして存在するのであろうか」というが、
⇒各註釈についてみると「識などの四つ」とは識と触と受と愛とを指し、
⇒さらにピンガラの註釈には「見と可見との法が無き故に、
⇒識と触と受と愛という四法は皆な無し。愛等が無きを以ての故に、四取等の十二縁分もまた無し」
⇒と説明しているから、『中論』の主張する縁起が十二有支の意味ではなくて、相依性の意味であることは疑いない。
⇒さらに注目すべきことには『無畏論』においては第二六章は十二有支を観ずるの章とあり、またチャンドラキールティの註釈においては第二六章のなかに、「縁起」(またはそれに相当する語、例えば衆因縁生法)という語が一度も使用されていない。
⇒故に最も古いこの二つの註釈においては、ただ縁起とのみいう場合には常に相依性を意味していて、十二有支の意味を含んでいなかったといいうる。
出典:サブタイトル/NN1-3.『中道』と『縁起』(Ⅱ)~『中論』は諸行無常を『縁起』によって基礎づけている~(龍樹:中村元著より転記)