出典:

■ はじめに
『スッタニパータ』(経集)の最古層である第四章「八つの詩頌の章」と第五章「彼岸に至る道の章」のなかには、ブッダ(仏陀)の金口直説が残されている。そこに見られるブッダの中心思想の一つは、中道である。中道とは両極端の否定である。ナーガールジュナ(龍樹)は、ブッダの中道思想を受け継ぎ、『根本中頌』を著した。難解な『スッタニパータ』と『根本中頌』は、両方を重ね合わせると意味が浮き上がってくる。そのとき、『根本中頌』は『スッタニパータ』の註釈書のように見えてくる。それゆえ、ナーガールジュナは第二のブッダと呼ばれている。ブッダにはナーガ(龍)という異名もあり、ナーガールジュナはブッダの思想だけでなく、称号も受け継いでいる。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』の解脱への道は、ブッダによって中道という涅槃への道となった。そしてブッダの中道を、ナーガールジュナは受け継ぎ『根本中頌』を著した。本論文では、ブッダとナーガールジュナの中道思想を考察する。
(註)
【ブッダの中道思想】MMK 24.18d: pratipat saiva madhyam l「それは、すなわち中という道である」
【ブッダにはナーガ(龍)という異名もあり】SN 518: nago ti katham pavuccati l「〔サビヤ〕どうして、龍と呼ぶのですか」。SN 522: agum na karoti kini loke sabbasamyoge visajja bandha nani sabbattha na sajjati vimutto nago tadi pavuccate tathatta ti l「〔ブッダ〕世間で悪業を少しも作らず、すべての束縛を離れ、すべての束縛に執着しない解脱者、そのような人が龍と呼ばれる、と」。SN 845: yehi
vivitto vicareyya loke na tani uggayha vadeyya nago l「〔ブッダ〕龍は、〔欲望を〕離れて世間を遍歴するから、それら(他人の意見)を取り上げて、論争してはならない」。
■ ウパニシャッド文献の「再生しない」
ブッダ以前のウパニシャッド文献としては、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』が思想的に重要である。仏教用語が確立するまでの初期の仏典では、ウパニシャッドやジャイナ教などの用語が使われいた。たとえば意味は異なるが、『スッタニパータ』第五章のタイトルにもなっている「彼岸に至る道」(パーラーヤナ)という言葉は仏教独自の言葉ではなく、すでに前三五〇年頃のパーニニの『アシュターディヤーイー』などのなかに出てくる。
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』の末尾は、このウパニシャッドの結論を述べている。

〔学生期に〕学問の師(アーチャールヤ)の家でヴェーダを学習し、残った時間で人生の師(グル)のために規定に従って祭祀を行う。家〔住期〕に清浄な場所で聖典読誦を行い、宗教的義務を備えた人間を育てる。
〔林住期と遊行期に〕すべての感官を自分のなかに引っ込める。〔すべての住期で〕神聖な場所以外では、すべての生き物を殺生しない。命ある限りこのように生活する。そのような人は、ブラフマンの世界に到達する。彼は再び戻ってこない。彼は再び戻ってこない。
ここでの主題は、解脱への道である。命ある限り、四住期の規定を守って生きれば、解脱できることが述べられている。「感官を自分のなかに引っ込める」とは瞑想のことである。「再び〔この世に〕戻る(punar.vartate)は、再生の意味である。「再び戻ってこない」(na punar.vartate)とは生まれ変わってこない、再生しない、つまり解脱するという意味である。
次に、神道を行く者は再生しないことが、『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』で表現されている。

意所成のプルシャは電光の世界に行き、彼ら(神道を行く人々)をブラフマンの諸の世界に行かせる。彼らはこのブラフマンの諸の世界において、遙か遠くに住む。彼らは再び戻ってこない。
解脱への道が述べられている。ウパニシャッドの解脱観では、解脱とはブラフマンの世界に行くことである。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』八・一五・一と同様に、解脱した者は再び戻ってこない(na punar.vr・tti)、つまり再生しないことが述べられている。
(註)
【仏教用語が確立するまでの初期の仏典では、ウパニシャッドやジャイナ教などの用語が使われいた。】たとえば、仏教の四苦(生老病死)はウパニシャッドの生死観を受け継いでいる。後藤敏文「Yajnnavalkyaのアートマンの形容語とBuddhaの四苦」『印度學佛教學研究』(八八、一九九六)九四─一〇二参照。その他、中村一九八四:四四二、後藤敏文「「業」と「輪廻」─ヴェーダから仏教へ─」『印度哲学仏教学』(二四、二〇〇九)一六─四一など参照。
【〔林住期と遊行期に〕すべての感官を自分のなかに引っ込める。】「感官を自分のなかに引っ込める」。シャンカラの註による。ChUBh ad ChU8.15.1: sampratisthapya upasamhrtya l「『安住させて』〔つまり〕引っ込めて」。この表現は後に発展して『ウダーナヴァルガ』Udanavarga)や『バガヴァッドギーター』Bhagavadgita)で、亀が肢体を引っ込めるという比喩で表現されるようになる。UV 26.1: kurmo yathangani svake kapale samadadhitatmavitarkitani | anihsrito hy anyam ahethayanah parinirvrto napavadeta kamcit |「亀が肢体を自分の甲羅に引っ込めるように、自分の思惟を引っ込めて、他人に依存せず、他人を悩まさず、完全な涅槃に入り、誰をも非難してはならない」。BhG 2.58: yada samharate cayam・ kurmo nganiva sarvasah | indriyanindriyarthebhyas tasya prajna pratisthita |「亀が肢体をすべて引っ込めるように、感官を感官の対象からすべて引っ込めるとき、彼の智慧は安住している」。
【「感官を自分のなかに引っ込める」とは瞑想のことである。】感官の制御が瞑想であることは、『カタ・ウパニシャッド』(Katha Upanisad)で言われている。KathU 6.11cd: tam yogam iti manyante sthiram indriyadharanam |「瞑想(ヨーガ)とは、感官をしっかりと捉まえておくことであると、彼らは考える」。
【つまり解脱するという意味である。】ブッダ以後の文献である『バガヴァッドギーター』のなかでも「再生しない」という表現は見られる。BhG 8.16: a brahma bhuvanal lokah punaravartino rjuna | mam upetya tu kaunteya punarjanma na vidyate |「ブラフマーの世界から〔すべての世界に至るまで〕、諸の世界は再生する、アルジュナよ。しかし、私(ヴィシュヌ神)に至れば、クンティーの子(アルジュナ)よ、再び出生することはない」。「再生」の意味でpunarjanman (再び出生すること)という言葉が使われているが、avartin「戻ってくるもの」がjanman「出生」と言い換えられており、思想の発展が見られる。なお、「再生」(punar-a√vrt)という表現は、ウパニシャッド文献で頻出する「再死」(punarmrtyu)という言葉と関連性があるようにも見える。再死は祭祀による生天(svargaja)と関連する。
【次に、神道を行く者は再生しないことが、『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』で表現されている。】同じ内容が『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』(Chandogya Upanisad)にもある。ChU 4.15.5: candramaso vidyutam |tatpuruso manavah | sa enan brahma gamayati | esa devapatho brahmapathah | etena pratipadyamana imam manavam avartam navartante navartante |〔彼らは〕月から電光の世界に〔行く〕。その(電光の世界にいる)プルシャは人間ではない。彼(プルシャ)は彼ら(人間)をブラフマン〔の世界〕に行かせる。これが神の道であり、ブラフマンの道である。この(神の)道を歩みつつある人々は、この人間の渦中に生まれない。彼らは生まれない。
■ 『スッタニパータ』の「再生しない」
ブッダはウパニシャッドを援用する。さらに『スッタニパータ』五一四 は『根本中頌』二五・一〇に引用されており、この韻文はブッダとナーガールジュナとの直接のつながりを示す重要な詩頌である。ブッダは次のようにサビアに説法する。

「自ら作った道によって、サビアよ」と世尊(ブッダ)は〔答えた〕。「完全な涅槃に達し、疑いを越え、非生存と生存とを捨て、〔修道を〕完成し、再度の生存が尽きた人、それが比丘である」。
ここでの主題は涅槃への道である。そして、生存(bhava)と非生存(vibhava)という両極端を捨てるべきことが説かれている。両極端の否定は中道である。生存と非生存という両極端を捨てた道、つまり中道が完全な涅槃への道である。生存は身体のある状態、非生存は身体のない状態である。生存と非生存の繰り返しが、輪廻である。「再度の生存が尽きた人(khinapunabhavo)」という表現は、「再び戻ってこない(na punar-a√vrt)というウパニシャッドからの援用である。『スッタニパータ』の他の箇所でも、再生しないという意味の表現はある。

〔ブッダ〕「それ(煩悩)が、何の因縁〔で生じたもの〕なのかを知る人々は、それ(煩悩)を取り除く。聞け、ヤッカ(夜叉)よ。彼らは、以前に渡ったことのない、この渡りがたい激流を渡る。再び生存しないために」と。

〔ブッダ〕「なぜなら、この無明は大きな無知であり、それによってこの輪廻は長いからである。しかし、明知に至った衆生たちは、再び生存に戻ってこない」と。

〔ブッダ〕「正しく見る者であり、ヴェーダの達人である賢者たちは、正しく知って、魔の束縛に打ち勝って、再び生存に戻ってこない」と。

〔ブッダ〕「それゆえ、賢者たちは〔苦の発生を〕よく知って、執着が消滅するから出生が消滅することをよく知って、再び生存に戻ってこない」と。

〔ブッダ〕「生存の渇愛を断ち、心が寂滅した比丘は、出生する輪廻を越えている。彼に再度の生存はない」と。

〔ブッダ〕「それゆえ、あなたは、ピンギヤよ、不放逸であれ、物質を捨てよ、再び生存しないように」。

〔ブッダ〕「それゆえ、あなたは、ピンギヤよ、不放逸であれ、渇愛を捨てよ、再び生存しないように」と。
ウパニシャッド文献では「再生しない」は、「戻ってこない」(na punar-a√vrt)と表現されていたが、『スッタニパータ』では「生存しない」(na puna√bhu, apuna√bhu)と表現されており、「戻る」(avartate, avrtti)が「生存」(bhava)に置き換えられている。
仏教では、生存(bhava)は無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死という十二因縁(十二支縁起)の第十番目として重要な言葉であり、輪廻を象徴する言葉である。なお、意味は同じで、異なる表現として「再び生と死を受けることもない」や「再び母胎に入らない」というものもある。
その一方で、ブッダはウパニシャッドの解脱への道で用いられている神道やブラフマンの世界という概念を継承することはなかった。
<参考情報>



■解脱⇒涅槃
・六道輪廻のサイクルの外(涅槃)
⇒右図の赤字枠




出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
(註)
【『スッタニパータ』の他の箇所でも、再生しないという意味の表現はある。】「再生」ではなく「別生」という表現もある。SN 82散文= SN 569散文:khina jati vusitam brahmacariyam karaniyam naparamitthattaya ti |「出生は尽きた。梵行は完成した。なすべきことはなし終えた。別生はない、と」。中村一九八四:二六七参照。
【仏教では、生存(bhava)は無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死という十二因縁(十二支縁起)の第十番目として重要な言葉であり、輪廻を象徴する言葉である。】たとえば、生存(bhava)は輪廻を表現する言葉として『ダンマパダ』(Dhammapada)や『ウダーナヴァルガ』のなかでは、次のように言われている。DhP 348: munca pure munca pacchato majjhe munca bhavassa paragu | sabbattha vimuttamanaso na punan jatijaram upehisi || = UV 29.57: munca purato munca pascato madhye munaa bhavasya paragah |sarvatra vimuktamanaso na punar jatijaram upesyasi |「前を捨てよ、後を捨てよ、中間も捨てよ。生存の彼岸に達した人は、完全に心が解脱しており、再び生と死を受けることがない」。DhP 351: nitthangato asantasi vitatanho anangano |acchidda bhavasallani antimo yam samussayo || = UV 26.28: nisthagato hy asamtrasi na vikanthi na kaukrtih | acchetta bhavasalyanam antimo sya samucchrayah |「究極の境地に至り、恐れなく、欲望なく、煩悩(悪業)のない人は、生存の矢を断ち切っている。これが彼の最後の身体である」。『ダンマパダ』のパーリ語anangano(煩悩がない)が、『ウダーナヴァルガ』のサンスクリットではna kaukrtih(悪事がない、後悔がない)となっており、ここの解釈は難しい。『ダンマパダ』と『ウダーナヴァルガ』の和訳については、中村元『ブッダの真理のことば・感興のことば』(岩波文庫、一九七八)を、『ダンマパダ』の和訳については、中村一九七八と藤田宏達訳『ブッダの詩Ⅰ』(講談社、一九八六)を参照した。
■ 『スッタニパータ』の中道
『スッタニパータ』のなかでの中道とは、両極端の否定である。

賢者は、両極端に対する欲望を捨て、接触をよく知り、貪らず、自ら非難するようなことを行わず、見聞したことに汚されない。

両極端に対して、生存と非生存に対して、現生と来生に対して、欲求することがない人は、諸の存在しているものに対して、執着であると決定し、住処(執着)はまったく存在しない。

〔ティッサ・メッティア〕「誰が両極端をよく知っていて、よく考えていて、中間にも汚されないのですか。あなた(ブッダ)は、誰を偉大な人と呼ぶのですか。誰が現生で愛執を超えたのですか」。

〔ブッダ〕「彼(涅槃に達した比丘)は両極端をよく知っていて、よく考えていて、中間にも汚されない。彼を偉大な人と私は呼ぶ。彼は現生で愛執を超えている」と。
両極端に対する欲望や執着が否定されている。それは煩悩であり、ブッダにとっては否定されるべきものである。
(註)
【両極端に対して、生存と非生存に対して、現生と来生に対して、欲求することがない人は、諸の存在しているものに対して、】ここでのdhammesuは、SN 798のdittham va sutam mutam va silabbatam「見たこと、経典、考えたこと、戒禁」のことであると思われるので、「諸の存在しているものに対して」と和訳した。なお、荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』(講談社学術文庫、二〇一五、初版 一九八六)214は、dhammesuを「さまざまな宗教的真理」と解釈する。
■ 『根本中頌』の中道
ナーガールジュナは、ブッダの言葉を以下のように引用する。

また師(ブッダ)は、生存と非生存との断滅を説かれた。それゆえ、「涅槃は存在するものでもなく、存在しないものでもない」ということは正しい。
ここでの主題は涅槃とは何かである。ナーガールジュナは涅槃の存在と非存在、つまり涅槃は永遠にあらゆるところで存在し、かつ涅槃は永遠にあらゆるところで存在しないという両極端を否定する。その根拠は、『スッタニパーパータ』五一四の「非生存と生存とを捨て」(vibhavan ca bhavan ca vippahaya)というブッダの言葉である。『スッタニパーパータ』五一四と『根本中頌』二五・一〇によって、ブッダとナーガールジュナが直接繋がっていることがよくわかる。
次に帰敬偈を考察する。

滅することなく、生じることなく、断ずることなく、常住でなく、一つでなく、多数でなく、来ることなく、行くこともなく、戯論が寂滅しており、吉祥な縁起をお説きになった、諸の説法者のなかで最上の人である正覚者(ゴータマ・ブッダ)に、私は帰依する。
この帰敬偈は、すでに見てきた『スッタニパータ』七七八以下で言われている両極端の否定としての中道をナーガールジュナがまとめたものである。帰敬偈は八不の縁起を説くと言われているが、その内容は中道である。ブッダが言う両極端の否定を、ナーガールジュナは帰敬偈で述べる。つまりナーガールジュナは、滅と生、断と常、一と異、来と出という両極端を否定する。
以下、ナーガールジュナの中道思想をいくつか見てみる。

自性と他性を、そして存在と非存在を見る人々は、ブッダの教説のなかに真理を見ない。『カティヤーヤナの教え』のなかで、「ある」と「ない」の二つが、「存在」と「非存在」を知る世尊によって否定された。

彼(如来)が自性として空であるとき、「ブッダは入滅後、存在する」とか「存在しない」という考えは、まったく正しくない。戯論を超越し、不滅の人であるブッダを戯論する彼ら全員は、戯論に打ちのめされており、如来を見ない。

すべてのものが空であるとき、何が無限で、何が有限で、何が無限かつ有限で、何が無限でなくかつ有限でもないのか。何が同じで、何が別で、何が常住で、何が無常で、何が無常かつ常住で、さらに何が両方でないのか。〔涅槃は〕すべての認識の寂滅であり、戯論寂滅であり、吉祥である。ブッダは、いかなる所でも、誰に対しても、どんな法をも説かなかった。
涅槃への道は中道であり、言語表現を超越している。ブッダは、涅槃への道という法(ダルマ)を戯論寂滅であると説いたが、その法を戯論として説いているわけではない。それゆえ、ナーガールジュナは「ブッダは、いかなる所でも、誰に対しても、どんな法をも説かなかった」と述べるのである。
<参考情報>
■『空』を例える
・口の中にツバが出来れば、自然とツバを飲み込む(下図の右側)
⇒そのツバを一旦コップに出して、それを飲み込む事は出来ない(下図の左側)
⇒「ツバ」そのものは変わらない


(物質的存在としての本体がない→固定的に永遠に存在する本体はない→無自性=空)

・汚い「ツバ」は存在しない
⇒「汚い」と思う(=「苦」の原因)は妄執

■妄執(苦)を離れるのが『空』
・物質的存在としての本体がない
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性=空

■『空」の教え
・分別(認識)からの開放
⇒妄執(苦)を離れる事

■苦しみの原因(要因)
・分別(認識)にある

■空の教え
・すべての執われを離れる
⇒空の教えが仏教として真実(仏説)であることを証明することであった
・龍樹がした証明
⇒釈尊が説いた「縁起」と「中道」から明らかにしていく
■空が仏説であることを論説(『根本中頌』第24章第18偈(げ))
◆縁起=空=中道
・縁起は
⇒何かを因として
⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること
⇒そういうものを「因施設」と呼んでいる
・空
⇒名付けられた諸々が「空」
・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である
■龍樹
・「相依性の否定」
⇒空であるから
⇒相互依存は成立しないと論証した

■執着から離れる
・名付けることを排する



出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~
(註)
【涅槃への道は中道であり、】ナーガールジュナが『根本中頌』のなかで、涅槃への道を説いている箇所は僅かである。MMK 18.5: karmaklesaksayan moksah karmaklesa vikalpatah | te prapancas tu sunyatayam nirudhyate |「業と煩悩の滅から解脱がある。業と煩悩は分別から〔生じる〕。それら(分別)は戯論から〔生じる〕。しかし、戯論は空性〔体験〕のなかで滅する」。MMK 26.11-12 : avidyayam niruddhayam samskaranam asambhavah | avidyaya nirodhas tu jnanenasyaiva bhavanat ||tasya tasya nirodhena tattan nabhipravartate | duhkhaskandhah kevalo yam evam samyag nirudhyate |「無明が滅したとき、潜在印象(行)は生じない。しかし、無明の滅は、まさにこの知識の修習(瞑想)から〔ある〕。〔十二支の先行する〕それぞれが滅することによって、〔後続する〕それぞれが生じてこない。このように純苦蘊は完全に滅せられる」。この箇所の和訳に関しては、五島清隆「龍樹の縁起説.─『中論頌』第二六章「十二支の考察」について.─」(『仏教学会紀要』一六、二〇一一)三五─六二を参照した。
■ おわりに
ウパニシャッド文献において、はじめて解脱への道が示された。神道やブラフマンの世界という概念やブラフマンという言葉を排除し、離欲や瞑想という解脱の原因を、そして再生しないという意味の表現をブッダは取り入れた。
ウパニシャッドの解脱への道を、中道という涅槃への道とした。ナーガールジュナは、ブッダの「生存と非生存の断滅」という両極端の否定という中道思想を根拠にして、涅槃を説いた。それは「涅槃は存在するものでもなく、存在しないものでもない」のであり、涅槃は言語表現できないものである。涅槃への道は中道であり、言語表現を超越しており、したがって言葉が寂滅している。寂滅(upasama)とは言葉(prapana)が滅した(upasama)世界、言葉を超越した世界のことである。この世界は言葉をともなわない実在世界であり、吉祥(siva)である。言葉は両極端(ubhayanta)という二元対立を基本としており、その超越が中道(madhyama pratipat)である。
(註)
【離欲】解脱の原因である離欲の例を挙げておく。B.U 4.4.6: athakamayamano yo kamo niskama aptakama atmakamo na tasya prana utkranti | brahmaiva san brahmapy eti |「それゆえ、〔アートマン以外に〕欲望のない人、欲望がなく、欲望を離れ、〔アートマンに対する〕欲望に満足し、アートマン〔だけ〕を求める人、その人の諸感官(プラーナ)は〔死ぬときに新たな身体へ入るために〕上方へ出ていかない。彼はブラフマンそのものであり、ブラフマンに行く」。B.U 4.4.7: yada sarve pramucyante kama ye sya hrdi sritah | atha maryo mrto bhavaty atra samasnuta iti |「彼の心臓に宿るすべての欲望が取り除かれるとき、死すべき者(人間)が不死となり、この世でブラフマンに至る」など参照。
【瞑想】解脱の原因である瞑想の例を挙げておく。KathU 6.18: mrtyuproktam naciketo tha labdhva vidyam etam・ yogavidhim ca krtsnam | brahmaprapto virajo bhud vimrtyur anyo py evam yo vid adhyatmam eva |「ナチケータスは、死神から教えられた知識と瞑想(ヨーガ)の方法をすべて得て、ブラフマンを得て、激情から離れ、不死となった。他の人もまた、アートマンに関して知れば、このようになる」SU 2.15: yadatmatvena tu brahmatattvam dipopameneha yuktah prapasyet |ajam dhruvam sarvatattvair visuddham jnativa devam mucyate sarvapasaih |「ヨーガ行者は現生で、灯火の喩えのように、アートマンの本質〔を自ら覚知すること〕によってブラフマンの本質を見るだろう。そのとき不生であり、不変であり、清浄であり、すべての本質をともなうものである神を知って、すべての足枷から解脱する」。MuU 3.1.8cd: jnapras.dena visuddhasattvas tatas tu tam pasyate niskalam dhyayamanah |「知識の明瞭さによって、内官(サットヴァ)が清浄となったとき、瞑想しながらこの部分のないもの(アートマン)を人は見る」。MuU 3.2.5cd: te sarvagam sarvatah prapya dhira yuktatmanah sarvam evavisanti |「彼ら賢者たちは、あらゆる所で、すべてのものに遍在しているもの(アートマン)に到達し、ヨーガを実修しながらそのすべてのものに入る」。