一 木 諭 の 意 図
仏教が世界宗教たりうるのは、深遠なる哲理を有するによるものであるが、悠久三千年にわたって展開しているのは実践行の裏付けが存するに外ならない。
天台教学また然り。『智目行足到清涼池』なる名言は、如実にこの教相・観心二門双資を物語っている。
この中、槻心門は摩訶止観一部十大章に説かれ、中心となるべき第七正修章の略説として第一大意章に五略を述べて、四種三昧を説いている。その四種三味の中、常坐三味・常行三味は阿弥陀仏を中心とした行法で、これをもって天台円頓止観の実践行法としているので、古来ここに説かれる念仏を止観念仏と呼んでいる。従って、この止観念仏は、天台の観心門に大きな地位を占めているのである。
ひるがえって、伝教大師最澄の将来による、いわゆる止観念仏に端を発した叡山浄土教をみるに、慈覚大師円仁の五台山念仏の将来によって大きく展開し、さらに、恵心僧都源信によって教学・実践ともに組織大成されるに至り、日本浄土教の母胎としての役割を果したが、叡山(すなわち日本天台)内で称えられた叡山浄土教は、決して天台宗の寓宗的な存在ではなく、筆者はむしろ法華至上主義に立脚した叡山仏教として、時機相応の仏法を念仏に見出し、これを慨心門の実践法として取りあげた、いわば止観の発押としての叡山浄土教とみたいのである。以下、叡山浄土教展開史上において、キー・ポイントを占める最澄・円仁・恵心の天台沙門としての浄土思想と、その実践法とを考察しょう。
二 最澄と止観念仏
日本天台の開創者伝教大師最澄(七六七ー八二二)の伝記書には、彼最澄が弥陀信仰をもっていたことを立証する積極的な資料は見当らない。また、彼の確実な著作の中からも、浄土教に関する文献は一つも見出すことはできない。ただ、断片的ではあるが、『守護国界章』下ノ中巻、『授菩薩戒儀」第十一広願の条、『七難消滅護国頌』などに、願生や唱念に関する文が見られるので、最澄が浄土願生者であったろうことは推察されるが、彼の念仏思想が如何なる性格をもつものてあったかは、以上の資料だけでは不十分である。
そのために、筆者は以前に、最澄入康前後の中唐仏教の状況と、中唐天台と浄土教との関連性とを究明し、最澄の受容した念仏思想を明確化しようと試みた。その結果、最澄の入府(八○四ー八○五)前後の中唐仏教では、諸宗の教学を綜合し、種々の行法を〇修する傾向が強く動いていたことが判明した。華厳の澄観(七三八ー八三九)や訳経僧飛錫や五会念仏の創唱者法照などの諸学僧は相当大きく天台教学の影響を受けている。
また逆に、当時の天台教団にも、密教や禅や浄土教が浸透して、最澄入唐当時の天台山にも、こうした綜合〇修の傾向にあったもののようであって、最澄の円・密・禅・戒の四宗相承も、これら綜合仏教たる性格をもつ日本天台宗の開創も、法華の開会思想によることもさることながら、一面また、こうした中唐仏教の反映とも考えられるのである。
もちろん、中国天台の開創者天台大師智顗にも、すでに法華信仰とともに弥陀信仰をもっていたのであって、それが徐々に天台教団内に発達していって、西暦七世紀後半から八世紀前半にかけて、『観無量寿経疏』一巻、『阿弥陀経義記』一巻、『十疑論』一巻、『五方便念仏門』一巻などが智顗に仮託されて成立したのである。したがって、六祖荊渓大師湛然(けいけい だいし たんねん:七一一~七八二)が法華三大部に対して、『釈籖』、『文句記』、『輔行」を著わして天台の玄旨を発揮した頃には、すでに相当浄土教が中唐天台に浸到していたことが了解される。
一方、最澄の入唐求法期間の師、道邃和尚・行満座主・順暁阿閣梨等で、最も深い因縁を結んだのは道邃和尚であり、彼の膝下台州竜興寺浄土院で入唐中の大部分を過ごした。
道邃(どうすい)和尚(七祖)は、荊渓(六祖)の付法の高弟であり、この和尚から親しく止観の講義を受けた最澄が、荊渓の浄土思想を充分受容し継承したことは想像に難くない。なお、最澄は、入唐以前から摩訶止観に深い関心をもっていたもののようで、延暦七年に至り、先に結んだ草唯を改修して一宇の坊舎を建立し、これを『一乗止観院』と呼んでいることも、摩訶止観に示された行法を実践する道場を意味したものに外ならぬのである。
このようにみてくると、最澄の基本的な念仏思想は、摩訶止観に説かれた四種三味の中の常坐・常行両三味の念仏、すなわち、いわゆる止観念仏であったと考えられる。
この止観念仏をみるに先立ち、摩訶止観の組織をみると次のようである。

摩訶止観一部十大章は十広とも呼ばれるが、その中心となるのは第六方便章と第七正修章である。すなわち正観に入るに先立ち、先づ二十五方便を修し、次に十乗観法によって十境を観じ、一念三千・三諦円融を証得するわけである。この止観一部十広を略説したのが第一大意章の五略であり、この中、修大行の内容をなすものが四種三昧である。これをみても、四種三昧が、摩訶止観の重要な地位を占めていることがわかるであろう。
この中、常坐三昧は、常坐の一行を修するから一行三昧ともいい、文殊説文殊問両般若経の説に基づき、独り、あるいは多衆と共に、九十日間坐ったまま、一仏(荊渓はこれを弥陀に限定した)の名を称えて、実相を観ずるものである。方法として身の開(坐)、遮(行、住、臥)、口の説黙(黙を常とし、疲病、睡蓋、内外の障等により心散乱せぱ仏名を称す)、意の止観(端坐正念して、縁を法界に繋け、念を法界に一(もっぱ)らにす)を説いている。
常行三昧は、仏立三昧ともいい、般舟三昧経に基づき、弥陀を本尊として、九十日間常に一人道場内の弥陀本尊のまわりを歩き巡って阿弥陀仏の名を唱え、十方の諸仏の来立をみるものである。実践法として、身の開(行)、遮(坐、住、臥)、口の説黙(唱念供に運び、或は先念後唱、先唱後念、唱念休息せず、歩々、声を、念々唯阿弥陀仏にあり)、意の止観(弥陀の依報正報を観ず)を説いている。
これら、阿弥陀仏を中心とした両三昧の実践法をみるとき、そこには、身口意三業相応の念仏法が強調され、弥陀を唱うるは、十方の仏名を唱うると功徳等しいと弥陀の優越性を主調し、称名は意業の観念を増長せしめる補助的な方法であることを述べている。かかる点は止観念仏の特色であって、止観の発揮としての叡山浄土教の淵源たる所以である。
最澄は、以上のような止観念仏を比叡山へ将来されたのであるが、この念仏は、法華至上主義に立脚した天台宗において、円頓止観の一行法として取り入れられたのであり、そこに、後世、叡山において法華と念仏とが何等予盾なく、よく調和して〇修〇行されて行った所以が存するものと考えられる。
三 円仁と五会念仏
最澄の高弟の一人慈覚大師円仁(七九四ー八六四)の遺された功績の第一は、何といっても台密の充実である。円仁の入唐求法もこの目的のためであり、密教典籍の将来にあった。帰朝後においても金剛頂経疏七巻、蘇悉地経疏七巻等の名著をものし、また、顕密二教判を立てて円珍・安然らとともに台密教学を樹立完成させた。
それと共に特筆さるべきは、五会念仏(五台山念仏)の伝承である。円仁の十箇年に及ぶ入唐旅行の行程は、自著である『入唐求法巡礼行記』四巻に明瞭であるが、開成五年(八四○)五月五台山の竹林寺に詣でた記事を、
(開成五年)五月一日。天晴。巡二五台一去・従二停点一普通西行十七許里。向レ北過二一高嶺一。行十五里。到竹林寺。断中、価見索諸州来求二受戒一沙弥数十人圭。在寺候口。斎後巡二礼寺一。有二般舟道場一。曽有秀法照和尚於此堂修学念仏三味一。有勅揃二号大冊和尚一、遷化来近一二百年一。今造影安二置堂異一。又画仏陀波利儀鳳元年来一到川門一見一一老人一之影圭。