■東北で初めて国宝になった仏像の正体|藤原仲麻呂の息子だった?徳一の謎(注:一つの視点が紹介されている)
出典:https://www.youtube.com/watch?v=IabKGBcmCUE
制作者:AIによる歴史の謎配信チャンネル










<参考情報>

出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44138660U9A420C1000000/



■三一権実論争(三乗が権(仮り)で一乗が実(真)であるとの論争
一方、一三権実論争(一乗が権(仮り)で三乗が実(真)であるとの論争とも言われる
※『法華経』の読み方をどうするか、どこに注目するかということをめぐったのである。結果、三乗説と一乗説が対立した。なぜ、そうなるのか。話はインドまでさかのぼる。(松岡正剛氏の見解)



<参考情報>

出典:https://hapbooks.com/post/%E9%BE%8D%E6%A8%B9%E3%81%A8%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE/
<参考情報>
・龍樹を大事にしている宗派
⇒三論宗、華厳宗、天台宗、真言宗

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~
<参考情報>
■法相宗:唯識の肝/八識

清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分」は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分」である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分」で「識」の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけですよ。
出典:サブタイトル/「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|前編
<参考情報>
<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い):スケール』>
■同じパターンが繰り返される系とは
・あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。
⇒つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。(スケールフリー)



出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
<参考情報>
循環だけを強調していると、同じところで堂々巡りをしている印象なので、「一と多」というバイナリーを出してきて、それについても離二辺である、ということが明確に主張されるようになる。一と多の相互包含は、複数の「識」どうしがお互いに含み合うところからそう言われるわけです。
空海だと《循環構造》を「相応」、《一と多の相互包含》を渉入と言いますね。渉入自在と言ったりする。それがまさに一即多なんです。「相応」というのは「識」のなかの見分(≒認知主体)と相分(≒対象世界の現れ)が循環的に対応しているということです。空海は、それはヨーガyogaだとも言っている。英語のyokeと同じでヨーガには「くびき」という意味があり、牛が二頭繋がれるように、「つなぐ」意味あいがあるわけですよね。これがヨーガであり、即だという言い方を空海はしている。
出典:サブタイトル/『今日のアニミズム』から『空海論/仏教論』へ~清水高志+奥野克巳 対談転記~
<参考情報>
■六境(対象物)・六根(感覚器官)・六識(感覚作用)・意識(こころ)に収険される

■唯識の肝:八識
・前五識 (眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
・第六 意識
⇒上記六識に以下2識を加える(認識の深化)
・第七 未耶識(マナシキ:自己中心化⇒外界から入る情報を自分の都合の良いように解釈する)
■第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)

◆第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識
・個々人の見聞、経験等の情報が全て書き込まれ、ため込まれる
⇒良くも悪くも「ため込まれた情報」は更新される
⇒次第に個々人の倫理観が形成される「心の働き」の領域

・何を第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ)にため込む事が大事か
⇒七仏通誡偈(ひちぶつつうかいげ)
⇒自らその意を浄めよ(第七 未耶識との衝突(矛盾))
※第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)
■仏の教え(何を第八 阿羅頼耶識に蓄えるか)
・第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置(ハードディスク)=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識
⇒自らその意をき浄めよ

■禅観
・入力情報を屈折させない仕掛け
⇒呼吸を整えて

出典:第741回花ホテル講演会 タイトル:「法相宗は面白い ~こころを観る唯識~」 講師: 高次 喜勝 氏(YouTube)
<参考情報>
さて、今夜の千夜千冊は木内堯央(ぎょうおう)の『最澄と天台教団』にした。木内さんは東京墨田の天台寺院・如意輪寺の長男として生まれ、西巣鴨の大正大学に進み、天台密教の研究者になった。最初の著書が『伝教大師の生涯と思想』(第三文明社)で、次が教育社歴史新書の本書だ。本格的な研究書には『天台密教の形成 日本天台思想史研究』(渓水社)などがある。同じく天台教学研究者の木内堯大は息子さんである。
本書は最澄とその門流の動向を知るにはもってこいなのだが、「始原としての最澄」を語るには少し足りない。そこでもう一冊、最澄のダイナミックな端緒に戻った本を紹介しておく。昨年刊行されたばかりの師茂樹の『最澄と徳一』(岩波新書 2021)だ。刊行まもなく話題になった。最澄と徳一(とくいつ)のあいだで交わされた激越な論争を通して、最澄の仏教思想の背景にひろがる問題を見定めたものだ。
徳一は法相宗の学僧で、はやくから東国とくに会津に拠点を広げていた。ポレミックな学僧で、最澄に対しても空海に対しても論争を挑んだ。
■徳一大師像

徳一は南都の仏教に反発し、奈良から東国(茨城や福島)へ赴き、各地で寺院を建立。会津に開いた慧日寺(えにちじ)は広大な敷地を有し、信仰を求める人々がぞくぞくと集まった。「仏都会津」といわれる由縁。
最澄との論争は昔から「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん)とよばれてきたもので、三乗説と一乗説のどちらが仮(=権)で、どちらが真(=実)なのかを決めようという論争をいう。三乗説の徳一がふっかけ、一乗説の最澄が受けて立った。論争は5年に及んだ。
なぜそんなことが平安初期の日本で争われるのかというと、『法華経』の読み方をどうするか、どこに注目するかということをめぐったのである。結果、三乗説と一乗説が対立した。なぜ、そうなるのか。話はインドまでさかのぼる。
紀元1世紀前後、ブッダ以来の数世紀にわたった原始仏教教団のいくつかの部派活動の中から、いわゆる大乗グループが登場した。大乗グループはそれまでの部派仏教時代の活動を「小乗」と貶称して、小さな乗りもの(乗=教法)に乗っている連中だとみなした。そのうえで大乗グループは小乗グループとの区別をあきらかにするため、新たな経典(大乗経典)をつくろうとしていた。
その手の試みはすでに般若経の編纂グループが先行していたのだが、それに続くもので、できれば決定版にしたい。『法華経』である。
ひるがえって、もとからの小乗グループは、仏教の教えを伝え導くことができるのはブッダただ一人、釈迦仏だけだと考えてきた。それゆえ修行者はブッダを理想のモデルとして、一人ひとりがさまざまな執着を断ち、輪廻から解脱するために阿羅漢(あらかん)をめざす。なかで、その境地にかなり近づいた者は菩薩、すなわちボーディサットヴァ(菩提薩埵、略して菩薩=悟りを求める人)と称ばれるところにまでは達するが、とはいえブッダになるわけではない。そう、考えてきた。
これに対して大乗グループは、釈迦仏以外にもブッダ(覚者)はありうると主張した。菩薩もブッダをめざしつつ、自分だけではなく衆生(多くの他者)を悟りに導こうとしているのなら新たに「菩薩乗」とみるべきだと主張し、たんに教えを聞く修行者はブッダになろうとしていないのだし、自分だけの覚醒にこだわっているのだから「声聞乗」(しょうもんじょう)にすぎないとみなした。また、教えを聞くことなく独力で解脱をめざす者たちもふえてきたようだが、かれらは別して「縁覚乗」(えんがくじょう)などと称ばれるべきだとした。
こうして、修行者を教えを聞いて悟ろうとする声聞乗(小乗)、自身の悟りを求める縁覚乗(中乗)、一切衆生のために仏道を広める菩薩乗(大乗)という「三乗」の見方ができあがっていったわけである。このうち声聞・縁覚乗を「二乗」とも名付け、大乗を進む者を「一乗」と名付けた。
大乗グループは、これらのことがブッダの語りによって展開されている経典が存在するべきだと考えて、かなり長い時間をかけて『法華経』を仕上げた。そこではブッダは「私が小乗や二乗の道があると説いたのは、大乗に導くための方便だった。本来の道は一乗なのだ」と語っているようにした。前半の迹門で二乗を重視しておきながら、後半の本門では一乗を重視させたのである。
出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~





<参考情報>
法華経は28品で構成されている。品は「ほん」と読む。ただし28品であることにはそれほどの意味がない。あれこれ書き換えや着替えをして入念に仕上げてみたらこうなったというものだ。
次のようになっている。ふつうは「序品第一」「方便品第二」「薬草喩品第五」というふうに示すのが日本の仏教学の慣習になってはいるが、上記でもそうしてきたように、わかりやすく算用数字をあてた。
1「序品」、2「方便品」、3「譬喩品」、4「信解品」、5「薬草喩品」、6「授記品」、7「化城喩品」、8「五百弟子受記品」、9「授学無学人記品」、10「法師品」、11「見宝塔品」、12「提婆達多品」、13「勧持品」、14「安楽行品」、15「従地湧出品」、16「如来寿量品」、17「分別功徳品」、18「随喜功徳品」、19「法師功徳品」、20「常不軽菩薩品」、21「如来神力品」、22「嘱累品」、23「薬王菩薩本事品」、24「妙音菩薩品」、25「観世音菩薩普門品」、26「陀羅尼品」、27「妙荘厳王本事品」、28「普賢菩薩勧発品」。
この構成が大きくは前半と後半に巧みに分かれるのである。前半の1~14品までを「迹門」(しゃくもん)、後半の15「従地湧出品」からを「本門」(ほんもん)というのだが、ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。図解をすると次のようになる。

法華経の構成
図で示してあるように、このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」だ。そのほかいろいろ複雑な“幅タグ”がついているけれど、いまはこれらの区分けは無視しておかれたい。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっているということだ。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。ブッダ存在学になる。
こうすることによって、前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは理念的永遠のブッダだというふうになった。そこがまことにうまくできている。これがもし詭弁的構成でないのなら、まさに超並列処理というものだ。
ぼくはこの絶妙を知ったときには、心底、感嘆した。キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと、どうにも釈然としないところがのこるのだが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それをはるかに勝るものがある。なにより、語り手のブッダが聞き手の菩薩たちにこのことを自身で説いているというドラマトゥルギーとしての根性がいい。
いったい誰がこういう文巻テキスト編集作業ができたのか。もはやその当初の着手者の名はのこらないけれど、おそらくは当初の文巻というものが下敷きになって、そこに多くの“加上”と“充填”が加わっていったにちがいない。
出典:サブタイトル/梵漢和対照・現代語訳 法華経 [訳]植木雅俊~松岡正剛の千夜千冊より転記~
大乗グループはその後も大乗経典のヴァージョンをいろいろ編纂し、しだいに大乗仏教という大きな仕組みをつくりあげた。アショーカ王やカニシカ王がこれを採用し、大乗仏教は菩薩乗を広げるムーブメントになっていった。
やがて時代がたって、大乗仏教にもいくつかの考え方の差異が出て、宗派がいくつも分立していくと、新たな問題が出来(しゅったい)してきた。いったい『法華経』に語られた「三乗は方便、一乗が本当」というメッセージは文字通り受け取っていいのかどうかということだ。とくに中国に入って経典が次から次へと漢訳されていったことで、解釈のちがいや混乱が錯綜した。
漢訳経典に混乱が出てきたのは致し方がなかった。インドでの経典成立の順に漢訳されたわけではないからだ。ただし混乱したままではまずい。どの経典を原型とみなし、どの経典がそれに続いたのかを判定する必要が出てきた。これを仏教史では「教相判釈」(きょうそうはんじゃく、略して教判)という。
竺道生や慧観による教判が試みられ、天台智顗の「五時八教」説でおよその流れが確立した。ブッダは「華厳→阿含→方等→般若→法華」という5段階で説いていったとみなすのがいい、それが仏教を最も深く理解していくのにふさわしい順番であるという説だ。これは歴史的な経典成立の順ではなく、仏説を理解する認識の順によるもので、そこがユニークだった。
智顗の五時八教説によって、『法華経』を学修するすべての信仰者が「法華一乗」になっていくというスコープが提出されたのである。智顗はそのように認識するためのベーシック・テキストにあたる『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』も書いた。天台三大部だ。ここに天台法門が確立した。
この見方が日本にも踏襲され、最澄はこの説に従って日本の天台をまとめたいと決断した。法華一乗である。しかし法相宗では、それとは別に「五姓各別説」を唱えて、一乗でまとめるのではなく、あくまで三乗それぞれの悟りを追求するべきだとした。ここにおいて法相の徳一から「天台の法華一乗の解釈は納得できない」というクレームが投げかけられたのである。
論争のいきさつは猖獗をきわめるのでここでは省くけれど(師茂樹『最澄と徳一』を読まれたい)、最澄は徳一の掲げた疑問にかなり対応して、自身の天台教学の形成に与かった。それは、青年最澄が仏教に向かうにあたって発願した思いと一致するものだった。

「三乗が方便、一乗が本当」ということを説明する物語では、【一乗】は「大白牛車」(大きな白牛が引く牛車)によって喩えられる。この白牛はコブウシと考えられ、古い時代からインド周辺で神聖視されてきた。バビロニア南部のウルの遺跡の記録や、インダス文明の印章(図版)にもコブウシの姿が見える。

「五時」とは、教化方法などを判釈した順序に従って、華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五期に分類したものである。「八教」は、理解の仕方で分類された「化儀の四教」と、教えの内容と対象を示した「化法の四教」を指す。例えば「化儀の四教」の「頓」は一瞬で理解することで、「漸」は段階を経ての理解にあたる。また「化法の四教」の「蔵」は、二乗(声聞と縁覚)の教えであり、「別」は菩薩乗の教えを示した。
出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~

<参考情報>
■普遍的宗教を奉ずる帝王は博愛の精神に基づく人道主義的活動を行う
◆聖徳太子は
・大阪に四天王寺を建てたが、
⇒それは日本における社会救済事業の最初の試みとして有名である。
【そこには四院がつくられた】
①施薬(せやく)院
⇒薬草を栽培して人びとに分かち与えた。
②療病院
⇒誰でも男女ともにいっさいの病人を寄宿させた。
⇒出家した僧尼でも、病気のあいだは戒律に禁じられてあるものでも好きなまま食べさせ、
⇒病気がなおればまた戒律を守らせた。
③悲田院
⇒貧窮孤独な人を住まわせて養い、もし元気を回復したならば、四院の雑事に働かせた。
④敬田(きょうでん)院
⇒人びとをして悪を断じ善を修せしめてさとりを得させるための修養の道場である。
また、個人的には太子が片岡山で飢えた人を憐れんだという伝説もある。


出典:https://www.shitennoji.or.jp/shotokutaishi.html 四天王寺
・観音菩薩は
⇒大乗仏教におけるっ重要な菩薩(修験僧)で、人々の苦しみを救う存在として広く信仰されている。
⇒観音菩薩は、観世音菩薩や観自在菩薩とも呼ばれ、救う相手や状況に応じて様々な姿に変身することができるとされている。
⇒例えば千手観音や十一面観音などが有名。

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html
■このような救済活動には
・当時の都市部で実施されたが、多額の資金も必要になる。国家運営者以外の僧がどのように資金を調達したのかが次のテーマになる。そのヒントになるのが奈良時代に活躍した行基の社会事業活動の概要を紹介する。
【行基大師(668年~749年)の社会事業】
- インフラ整備:行基は橋や道路の建設、治水工事などを行い、交通の便を改善した。これにより、農業や商業の発展が促進された。
- 貧民救済:行基は、病気や飢えに苦しむ人々のために布施屋(無料の宿泊施設)を設置し、食事や宿泊を提供し、多くの人々(病人や貧困者等)の救済を行った。
- 治水工事:行基は、治水工事を通じて衛生環境の改善にも努めた。これにより、疫病の蔓延を防ぎ、健康な生活環境を提供した。
- 薬草の利用(医療活動):行基は、薬草を用いた治療法も広めた。彼の活動は、単なる宗教的な布教にとどまらず、実際の人々の健康を守るための具体的な手段を講じるものであった。
- 寺院建立:行基は多くにの寺院を建立し、これらの寺院を拠点にして地域社会の発展に寄与した。
<医療活動の背景>
・行基は、疫病や飢饉が頻発していた奈良時代に生きた。当時の民衆は、病気や貧困に苦しんでおり、行基はその救済に力を入れた。
<民衆への布教禁止令>
・僧尼令:奈良時代に朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止。無許可での布教活動を禁じていた。
この法律の背景には、仏教が国家の統治に重要な役割を果たしていたことがあった。朝廷は仏教を通じて国の安定を図ろうとし、僧侶や尼僧の資格(税金逃れを封じる)や行動を国家が管理し、僧侶たちの活動を厳しく監視していた。
・その禁を破って行基集団(僧俗混合宗教集団:利他行集団)を形成し、畿内を中心に民衆や豪族などの階級を問わず広く人々に仏教を説いた。
⇒当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。
尚、僧尼令の処分者は行基のみ。
【7世紀半ばの社会背景と大乗仏教の「菩薩道:利他行」】
朝廷(王権)によって主導されてきた造寺・造仏は、地方豪族層に拡大し、各地に氏寺を造営していた。こうした仏教の普及の中で、僧たちの中には、衆生の救済を実現しようとする大乗仏教の菩薩道を実践しようと、造道、造橋などの社会事業を行うものも登場してきた。
・道昭の社会事業もその一つである。
⇒道昭は日本における法相宗の祖であり行基の師である。
⇒行基もこの道昭が行った大乗仏教の菩薩道実践の一環として社会事業を展開したのである。
尚、大乗仏教の「菩薩道」とは、自利・利他行を成就して悟りに至る道をいい、『利他行』とは他者を救済する行いを意味するが、この利他行を実践することも悟りに結実する修行であるとし、行基の各種社会事業はまさにこの「菩薩道」の実践そのものであった。
※道昭:遣唐使の一員で653年に唐に渡り、玄奘三蔵に師事して法相宗の教えを学んだ。帰国後、法相宗の教えを広めるたに尽力した。
道昭の晩年には全国に遊行しながら各地で土木事業を行った。特に橋や道路の建設に力を入れ、多くの地域でインフラの整備に貢献した。
道昭の土木事業は、彼の宗教的な活動とともに、地域社会の発展にも大きな影響を与えた。
【社会事業の資金提供者:地域の豪族】
- 資金提供者:橋や道路の建設、治水工事などの土木工事は、地方の豪族の資金提供によって支えられていた。これにより、農業生産力の向上とその成果を生かす商業(物流)の発展が促進された。
- 民衆の生活環境の改善:行基の活動は、豪族の土地も潤す結果となり、彼の教えに従う民衆が増加した。

(出典:https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111c10.html)
【行基は薬師寺(法相宗)にて教学(唯識)を学ぶ】
・法相宗は玄奘三蔵が開いた仏教の一派で、その教えは『唯識』。
⇒唯識とは、すべての現象は心の働きよって生じるという仏教の哲学。玄奘三蔵はこの教えを中国に持ち帰り、弟子の慈恩大師によって法相宗として体系化された。
・唯識と行基の社会事業への深い繋がり
- 唯識の学びと実践:行基の社会事業は、『唯識』の「心の働きが現実を作る」という考え方に基づいている。具体的には、行基は人々の苦しみを取り除くはために、心の働きが重要であると考えた。
- 貧民救済・インフラ整備:社会事業を通じて、人々の生活を改善しようとした。これらの活動は、唯識の「利他行」(他人のためにっ行動すること)を実践するものであり、他人の苦しみを取り除くことで自分自身も幸福になるという考え方に基づいている。
行基の活動は、唯識の教えを具体的な形で実践したものであり、彼の社会事業は唯識の理念を体現していると言える。
※日本では薬師寺と興福寺が法相宗の総本山。
【弾圧の対象から大仏勧進】
743年、天然痘の流行、飢饉、政争等相次ぐ社会不安の高まりから、聖武天皇は国家の安定を願い「盧舎那仏造営の詔」を発しました。この大事業に対し大仏造営の勧進役に行基が起用されました。莫大な費用を調達し、多くの人夫を集めて行う一大公共事業を担えるのは、行基をおいて他にはいないと判断されたと考えられています。
その2年後、当初は弾圧の対象であった行基が、聖武天皇によって我が国最初の「大僧正」に任じられ、官僧の頂点に立つこととなりました。行基が亡くなった749年の「続日本紀」には、彼が果たした業績や恩恵等から「行基菩薩」と記録されており、行基の残した様々な足跡は古代における民の力を活用したインフラ整備の事例として、時を越え我々に語り継がれることとなりました。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~③人道主義活動と社会奉仕の精神/行基大師・忍性律師が引き継ぐ~中村元著より転記&今日的な継承事例(無縁社会を有縁化する「人間菩薩」の思想と実践)
































