■聖徳太子の根本思想
◆仏教受容の最初期の聖徳太子の立ち位置(認識)
・「勝鬘経」「維摩経」「法華経」の三教を選んで注釈(解説書=三教義疏)した姿勢
⇒世俗生活を肯定する立場から三教を選定し、注釈をした。
⇒太子はいうまでもなく、摂政という最高政治に携わる世俗の人であり、
⇒人間が生きていくうえの倫理の指針として、
⇒また統治の根本原理として
⇒仏教を採択したのである。
⇒したがって仏教の理想は
⇒僧侶(出家)によって実現されるだけではなく、
⇒社会的な実践課題でなければならなかった。
・「維摩経」の「第三章 弟子」に注釈(維摩経義疏)して、
⇒「山としてかくれなければならない山はなく、世として避けなければならない世はない。・・・
⇒汝らは、彼此といった差別の心から、世俗を捨てて山にかくれ、かえって身心を迷いの世界に現している」といい、
⇒仏教の実践は、
⇒世俗的生活の中にあることを強調している。
⇒現実(世俗)に対する積極的な働きかけという日本仏教の特徴的性格は、
⇒すでに仏教受容の初期段階で胚胎(はいたい)していたのである。
・「維摩経」の趣旨は、
⇒大乗仏教の精神を日常生活の中に生かすことを主張しており、戯曲的構成の妙をもって知られている。
⇒大乗仏教の根本思想である「空観」によると、
⇒輪廻(現実)と涅槃(理想)はなんら異なるものではないと教えている。
⇒理想の境界はわれわれの迷いの日常生活と離れては存在しなし、
⇒空の実践としての慈悲行は行動を通じて実現される。
⇒この立場が徹底されて、ついに出家生活を否定して、
⇒在家の世俗生活のうちに仏教の理想を実現しょとする宗教運動が起こったが、
⇒その所産の代表的経典が「維摩経」であり、「勝鬘経」なのである。
<参考:般若心経の『色即是空 空即是色』の概念のイメージ化:真空の揺らぎ>
玄奘三蔵(602年~664年)が漢訳した「般若心経」は大乗仏教の教理を短い一巻に凝縮した。
鳩摩羅什(くまらじゅう:344年~413年)の旧訳も有る。他に「妙法蓮華経」や「維摩経」の漢訳もあり、特に「妙法蓮華経」は日本の宗派に学ばれ、鎌倉仏教の基礎になった。
尚、聖徳太子の生きた時代は574年~622年。
出典:https://studiogooda.hatenablog.com/entry/20170719/1500427832 18 不確定性原理 【宇宙とは】宇宙との対話
注)義疏とは:伝統的な中国文化において、経典の本文(または注釈を含む)の内容を詳細に解説した書物を指す。「義」は意義を示し、「疏」は疏通の意味。経義を疏通することを目的としている。
尚、「疏通」は、直訳すると「通じること」を意味する。一般的には、コミュニケーションや理解が円滑に行われることを指す。 例えば、人々が意見を交換し、理解し合うプロセスは疏通の一例。
■普遍的国家への建設に着手した聖徳太子
・人類の歴史を見ると
⇒地球上のいろいろな地域に渡って、それぞれの文化圏があり、その文化圏が発展して、ある段階に到達すると、
⇒諸々の部族の対立を超えて、
⇒それぞれの地域ごとに、統一国家、普遍国家というような総合的、包容的な組織が形成される。
⇒そして、その組織を基礎づけるものとして、
⇒仮に名づければ、普遍的思想と呼ばれるものが、そこに要請されてくる。
⇒これは、人類の歴史を見て、すべての文化圏について、多かれ少なかれいわれることであると思う。
・聖徳太子の偉大な事業も
⇒日本においてある歴史的な転換が行われた、その時期における一つの大きな歴史的現象であった。
⇒ほかの国の似たような現象なり、思想なりと比べてみて、
⇒はじめて日本の独自性、さらに限定していうんらば、聖徳太子の独自性というものが出てくるのではないか、
⇒それが太子の精神を解明する一つの手がかりになるのではないかと考えるのである。
・普遍的国家とは
⇒民族の差異、時代の差異を超えて実現されるべき普遍的理法、または普遍的な使命が存在し、
⇒それを具現することに意義をもっていることを確信していた帝王の建設した国家をいう。
⇒それは決して、異民族を支配しようとする意図があったとかなかったとかいうことは無関係である。
⇒その理想は、世界のいろいろな文化圏において歴史上の一定の時期に成立したものである。
⇒つまり、普遍的な宗教も、出現した最初の時期においては、
⇒若干の種族また集団の宗教にすぎなかったのであるが、
⇒やがてそれらの普遍的宗教を信仰した帝王、または統治者に採用され奨励されることによって、
⇒普遍的国家を通じてのみ、
⇒普遍的宗教として発展することができたのである。
⇒それゆえに、個々の普遍的宗教については、最初には萌芽の時期にあった段階がある。
⇒のちには、その宗教が絶対的権威を認められていた中世思想の段階がある。
⇒その中間に、
⇒われわれは普遍的国家あるいは普遍的帝王というものが存在した、
⇒という事実を考慮しなければならないのである。
⇒すなわち、古代において、
⇒一つの文化圏におけるもろもろの部族の政治的軍事的対立の状態がうち破られて、
⇒その文化圏の政治的統一が確立っされた場合に、その文化圏における普遍的国家というものが成立した。
⇒そうして、それらの文化圏においては、次のことがらが起こった。
①その文化圏全体を支配統治する一つの強大な国王(または統治者)が出現し、かれの属する王朝の基礎が確立する。
②精神的な面においては、諸部族対立の時代には見られない新しい指導理念が必要とされる。
③その指導理念を、あるいはその指導理念の精神的な基調を、なんらかの普遍的な世界宗教が提供する。
④その指導理念は、確定された文章表現(たとえば詔勅)のかたちで、公に一般の人々に向かって表現される。
⑤普遍的な世界宗教は、この統一国家において急激に発展する。
これらの特徴は、以下にあげる諸々の帝王のすべてに共通するものである。
■東洋の普遍的帝王
◆インド
・アショーカ王(紀元前三世紀)が現れてその範型を示している。
⇒全インドをのみならず近隣の地域を統一した歴史的事実はよく知られている。
⇒かれは仏教を信奉し、仏教が国教的な地位を獲得し、やがて世界宗教として諸国に広がる基礎がつくられた。
・インドにおける仏教の発展と衰退
【発展】
・マウリヤ朝のアショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)が出て、インド全体をほぼ統一し、古くからのバラモン教的遺制を除去するために、仏教を保護し、その布教に尽力した。
⇒それによって仏教は国教ともいうべき地位を占め、インド全体に広まった。
⇒アショーカ王は、仏教の普及と人々の幸福を追求するため法(ダルマ)に基づく政策を推進した。
※アショーカ王の柱には下記のような碑文(道徳的訓戒に近い)
- 生き物を大切にし無駄に殺さないこと
- 宗教対立しないこと
- 親の言うことを良く聞くこと
- 年上は敬うこと
- 礼儀正しくすること
- 嘘をつかないこと
- 僧侶や精神的探求者に敬意を払うこと
- 弱い者イジメしないこと
出典:https://jp.mangalamnepal.com/2020/08/Ashoka-the-Great.html
<法(ダルマ)について>
・ダルマは仏教の中心的概念であり、私達の信仰と人生に大きな影響を与える。
- 仏陀の教え:
- ダルマはブッダ(釈尊)の教えを指す。
- 真理と法則:
- サンスクリット語の「dharma」は「保つこと」「支えること」を意味し、それより「法則」「正義」「真理」「最高の実在」「宗教的真理」の意味にもなる。
- ダルマは、人生と宇宙の法則を示し、私たちが歩むべき道を指します。
- 浄土真宗の視点:
- 浄土真宗では、ダルマは阿弥陀如来のご本願であり、私たちが歩むべき道を示しています。
- 阿弥陀如来の慈悲に包まれ、念仏を称えることで、私達は如来の智慧の光に照らされて、安らぎを得ることができるとの視点。 (注)中国の善導大師(613年~681年):称名念仏を中心として浄土思想を確立した。特に「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏を広め、浄土の荘厳を絵図にして教化し、庶民の教化に専念し、『観経疏』等の著作を通じて、浄土宗(法然上人:1133年~1212年)や浄土真宗(親鸞:1173年~1262年)に多大な影響を与えた。
尚、同王は他の諸宗教も援助した。
【仏教の衰退】
・7世紀にムスリンのイスラム帝国(カリフ国)が中央アジアに侵入
⇒同地域の仏教は衰退し始めた。
⇒一神教であるイスラム教は偶像崇拝を否定する理由で
⇒仏教及び寺院等は徹底的に破壊され、大半が消滅した。
インド 世界最古の仏教大学跡 ナーランダ遺跡 西塔遺跡
◆シナ(中国)
・梁(りょう)の武帝(502年~549年統治)や、あるいはむしろ隋の文帝(581年~604年統治)がそれにあたるのではなかろうか、と考えられている。
⇒梁の武帝は菩薩開戒(ぼさつかい)を受けて皇帝菩薩を自称し、在俗のまま経を講じ、造寺や僧侶の育成につとめた。この姿は推古期の聖徳太子の態度に対応する。
⇒北朝の武帝(560年~578年統治)は廃仏も行ったが、みずから皇帝如来たることを自負して、仏教の国家管理を始めた(ヒンドゥー法典にも同様の特徴が見られる)。これは日本の律令時代における宗教の国家統制を思われる。
⇒南朝の陳では仏事法令による鎮護国家をめざした。これは日本の平安時代における仏教のありかたに対応する。
⇒とくに隋の文帝廃仏と戦乱のあとをうけて、シナ全体を統一し、
⇒シナ仏教全盛時代の端緒を開いた。
⇒文帝はみずから「転輪聖王(てんりんじょうおう」と称し、敬虔な信徒であり、教団のパトロンであった。
注)隋の文帝:中国をおよそ300年ぶりに再統一した(589年には南朝の陳を滅ぼして中国を統一)初代皇帝で、彼の治世において律令制が整備された。
文帝は581年に「開皇律令」を公布し、これは高度に体系化された法典であり、律令の完成形とされた。
律令制は、刑法に相当する「律」と行政法や民事法に相当する「令」から成り立っている。文帝の律令制は、国家の統治体制を法的に整備し、均田制や租庸調制、府兵制などの精度を導入し、科挙制を創設した。これにより、中央集権的な国家運営が可能となり、隋の統治が安定した。
文帝の治世は「開皇の治」といわれ、後継の唐王朝からも評価された。
※開皇の治:有能な官僚を用いて内政に努める(政治の安定化)。
出典:https://sekainorekisi.com/world_history/%E9%9A%8B%E3%81%AE%E7%B5%B1%E4%B8%80/
◆朝鮮半島
・古代で朝鮮半島全体を統一したのは新羅である(それ以前には高句麗・新羅・百済三国が対立していた)。
⇒朝鮮の歴史において、聖徳太子(574年~622年)に対比し得る人を求めると、新羅第23代の国王である法興(ほうこう)王(514年~540年統治)、次に真興(しんこう)王(540年~576年統治)になるのではないだろうか。
⇒仏教は五世紀ごろから行われていたが、法興王の15年(528年)になって、宮廷一般に行われるようになった。
⇒つづいて真興王の治世に、仏教が非常に盛んになった。このとき仏寺がたくさん建てられ、人びとが出家して僧になる現象が頻繁に現れた。
⇒この王のとから新羅が高句麗を制圧して、全体を統一するようになった。そして仏教が国家的な宗教になった。
⇒以降仏教は年とともに盛んになり、わが国に伝えられた。
⇒法興王の「法興」という名前は、聖徳太子にゆかりのある法隆寺、法起寺などを連想させる。聖徳太子ゆかりの寺には「法」という字のつくものが多い。
⇒法興王のつくった寺の一つに仏国寺が有り、現在の韓国の慶州郡に残っている。この寺は奈良の古い寺の雰囲気・造りとよく似ている。
仏国寺(世界遺産) 法隆寺(世界遺産)
◆日本
・聖徳太子(574年~622年)
⇒文化的統一国家の基礎を築き、普遍的宗教としての仏教によって、国を基礎づけようとした。
⇒聖徳太子以前の日本では、
⇒豪族が土地と人民を所有し、独自の習慣法を行っていた。
⇒ところが聖徳太子によってそれらはすべて統合され、
⇒やがて大化の改新(645年)において律令国家として制度化されるようになったのである。
◆チベット
⇒ソンツェンガンポ王(581年~649年)
⇒チベットは山国で交通も不便で、言語もいろいろと違ってたいへなことであったが、全チベットを統一した。
⇒この場合に仏教が積極的な基礎を提供したのである。
※最近の研究によると
同王が仏教をとり入れたのではなく、実際の導入者は少し遅れて出たティデックツェン王(704年~754年)であり、
その妃の金城公主(きんじょうこうしゅう:シナ人であるが)が仏教移入を勧めたといわれ、中央チベットに五つの寺が建立された。
そのときに積極的なアドバイスを行い指導したのが金和尚(法名は無相)である。かれは新羅の王子であった。かれは中国の奥地四川省の成都にいて、そこからチベットに入り指導した。
このことから当時、唐を中心にして朝鮮半島から中国、さらに奥地を通ってチベットに至るまでの一つの大きな精神の動きがあったことがわかる。
サムイェー寺
◆南アジアではさらに遅れて現れた
・ミャンマー(ビルマ)では、アナウラーター王(1044年~1077年統治)
アーナンダ寺院
・カンボジアでは、ジャヤヴァルマン七世(1181年~1215年統治)
プリヤ・カーン寺院(アンコール遺跡) 壁面に彫られた観世音菩薩
※仏教とヒンズー教の習合寺院
・タイでは、ラーマ・カムヘン王(1277年~1318年統治)
ラーマ・カムヘン大王碑文 サパーンヒン寺院
※碑文の内容はスコータイ王朝が資源に富み、商人には税が課せられない理想的な国家であったことが説明され、王自身が住民と直接接し、裁判が行われた様子や、問題を解決していた様子などが描かれている。
■帝王の思想の表明
・聖徳太子(574年~622年)
⇒604年に。「十七条憲法」を発布された。日本における最初の法律である。
・チベットのソンツェンガンポ王(581年~649年)には「十六条法」があり、
・インドのアショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)には、石柱及び岩石に刻された多数の詔勅(しょうちょく)があり、数は定められていないが、種々の教えが説かれている。
◆共通性
・いずれも表現形式の上では道徳的訓戒に近い。
⇒つまり、倫理的な反省が述べられているというこである。
⇒法律的なやかましい議論はしておらず、根本精神を明らかにしよとしている点で共通である。
⇒とくにチベット人はこの点をはっきり自覚していた。
⇒「十六条法」は「人の法」であって、「神の法」に対するものである。
⇒前者が倫理的なものであるのに対して、後者は宗教的なものである。
⇒そして、両者が合して、「法の体系」を構成する。
⇒むろん、これに対応すような見解は、西洋にもあったのであり、例えばギリシャのアンティフォンは、自然の法と人為の法ー人間がつくった法と、区別している。
⇒ただ、アショーカ王や聖徳太子の場合には、それらを総括して「法(ダルマ)」と呼んでいる。
・このような基本的な法にもとづいて具体的な法律が制定されるわけである
⇒チベット人はそれを「統治の法律」と呼ぶ。
⇒ソンツェンガンポ王は、「殺害と盗みと姦通を罰することに関する法律を制定した」といわれている。
⇒日本では、聖徳太子のときに、根本精神が確立して、
⇒大化の改新以降の律令は、それを執行するについての法律規定を述べている。
⇒インドではアショーカ王前後のマウリヤ王朝時代に行われた具体的な法律は、おそらく「カウティリヤ実利論」のなかに含まれていると考えられるが、後代の付加をかなり多く含んでいるため、これこれであるとはっきつきとめることは困難である。
・差異をあげると
⇒ソンツェンガンポ王の「十六条法」は、一般民衆に向かって一般的な道徳を説いているのに対して、
⇒聖徳太子の「十七条憲法」は、公の道、すなわち国家のことに関するかぎりの人の道を説いたものであって。
⇒その中でとくに焦点があわされているのは、官史としての道徳的な心がけであるといえる。
⇒アショーカ王の詔勅は、大部分は一般人に向かって説かれたものであり、若干の詔勅が官史に向かって告げられている。
注)律令:東アジアでみられる法体系であり、日本では天皇を中心とした統一国家を作り出すために唐から取り入れられた。具体的には以下の点が律令に含まれている。
- 律: 刑法に相当し、刑罰を詳細に定めています。
- 令: 行政法や民事法に相当し、官制、税制、田制、兵制、学制などを規定しています。
日本では7世紀後半から8世紀にかけて、飛鳥浄御原令、大宝律令、養老律令などが制定され、律令国家が完成した。
注)大化の改新(645年):日本史上初の本格的な政治改革で、蘇我氏の独裁を滅ぼして天皇中心の政治に転換した出来事。具体的には、以下の点が改革された。
- 氏姓制度の廃止:豪族を中心とした政治から、天皇中心の政治へと移行した。
- 律令国家の成立:中大兄皇子と中臣鎌足によって推進され、日本で初めての元号「大化」が定められた。
- 男女の法の制定:男女の権利や義務を明確に規定した。
- 鍾匱の制の開始:鍾(しょう)と呼ばれる官職を設け、国政を運営した。
この改革は、日本の政治体制に大きな変革をもたらし、その後の律令制度の基盤を築いた重要な出来事とされている。
出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44138660U9A420C1000000/
■十七条憲法の成立(604年)
◆聖徳太子の憲法
・大化の改新に先立つこと40年前ごろに既に現れていた。
⇒「十七条憲法」の成立は、『日本書記』には、推古天皇12年4月に、聖徳太子「みずから肇(はじ)めて憲法十七条を作りたまいき」としるされている。
⇒推古天皇12年は甲子(かっし)の年にあたり、甲子革命というシナの「緯書(いしょ)」の思想にもとづいて、わが国最初の統一王朝、仏法による理想国家の実現を宣言するにふさわしい年だからである。
⇒当時の社会は、まったく内外とも危機的な様相のなかにあった。
⇒太子は、このときにこそ、国政の方針を明らかにし、進むべき道を示そうという決意のもとにこの憲法を制定したのであろう。
・十七条憲法 一に曰く
「和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず。隣里に違(たが)う。しかれども、上和(かみやわら)ぎ、下睦(しもむつ)びて、事を、論(あげつら)うときは、事理(じり)おのずから通ず。何事か成らざらん。」
⇒「和をもって貴しとし」という言葉は推古朝における豪族の結合の必要性と、仏法による理想国家の建設という課題に照合するものであり、
⇒「十七条憲法」が、推古朝の現実的要請と普遍的理想の実現に応えた社会的・倫理的な思想でることは疑いを容れない。
・十七条憲法の用語とその思想
⇒「詩経」「書経」「孝経」「中庸」「礼記(らいき)」「左伝」「論語」「孟子」「荘子」「墨子」「韓非子」「管子」「説苑(ぜいえん)」「韓詩外伝」「千字文」「文選(もんぜん)」「史記」「漢書」などの諸書の字句を材料として用い、
⇒独創的な文書を表現しているといわれる。
⇒その思想の根拠を三つに大別すれば
⇒仏教・儒教・法家の説といいうるのであって、
⇒そのうち、十一条と十五条は法家の説
⇒ほかは仏・儒の思想によって成り立っているといわれている。
⇒聖徳太子は「十七条憲法」を通じて、
⇒官僚制度を中央集権的に編成しなおすことで、朝廷の権威を増大するという政治的実践とともに、
⇒仏教による理想国家の建設を図り、具体化したのであるが、
⇒憲法に盛られた思想のなかには今日のわれわれにも教えるとろころが多い。
注)ヤマト政権(聖徳太子と推古天皇)が直面した内外の危機的状況:以下はその要点。
- 朝鮮半島での影響力喪失:
- 朝鮮半島では、高句麗と百済が抗争していた。百済はヤマト政権と関係が深かったが、新羅によって併合され、ヤマト政権の影響力は失われた。
- 伽耶地域も新羅によって滅ぼされ、ヤマト政権は朝鮮半島での立場を失った。
- 内部対立(政治的対立):
- 蘇我馬子は、第33代推古天皇(593年~628年在位)の治世に共同で政治を行っていた大臣であるが、推古天皇の在位中に対立も生じた。尚。聖徳太子と蘇我馬子の関係は複雑であり、政敵としての側面も存在していたが、一方で、仏教信仰を共有し、政治的にも協力していた側面もある(第31代用明天皇没後、皇位継承に絡み、丁未の乱(587年)で蘇我馬子と共同で廃仏派の物部守屋を討ち取り、物部氏を滅ぼした)。
- 蘇我入鹿は第34代舒明天皇(629年~641年)の皇位系継承を巡って643年に山背大兄王(聖徳太子の息子)と対立した。この対立により、蘇我入鹿が焼き払いを行い、山背大兄王ら一族は自害したとされている。
- この事件も一つの契機になり、大化の改新(645年)へと繋がっていった。
- 隋の台頭と国際的緊張:
- 隋が中国を統一し、南北朝時代の分裂を終わらせました。隋は高句麗に軍隊を送り、ヤマト政権にとって脅威になった。
- ヤマト政権は国際的緊張に直面した。
出典:https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/secure/4309/syoutokutaishi.pdf
注)任那(ミマナ)とは:4世紀から6世紀頃に朝鮮半島南部に存在した日本(倭)の領有地域を指す。日本書記によれば、日本は楽浪・帶方郡時代(前108年から後313年)に朝鮮半島と交渉を行っていたことが確認されている。
注)甲子(かっし)革命:中国の伝統的な暦法に基づく概念であり、政治的な変革が起きる運命の年とされている。
具体的には、西暦年を60で割って4が余る年が甲子年になる。甲子年の4年後には、王朝交代の革命年として、天命が改まり、徳を備えた人に天命が下されとされている。この概念は「甲子革令」とも呼ばれ、日本の平安時代以降では、甲子年に改元が行われることで厄災を避ける目的で採用されていた。
◆共同体の原理としての『和』
・ある文化圏全体にわたっての統一を図るということになると、
⇒そこで『和』の精神が協調される。
⇒諸国において和の思想がとくに強調されるようになったのは、
⇒やはり人類も社会的生活の発展におけるある段階においてであり、
⇒それはつまり普遍的な国家の確立を目ざす帝王が、
⇒いろいろの部族を統一したときに強調したことである。
⇒もろもろの部族的対立を超克したところに普遍的国家が成立したのであるから、
⇒そこにおいて、まず第一に力説されるのは、
⇒共同体の原理としての『和』である。
・「西蔵(チベット)王統記」に伝えられている十六条によると
⇒第一条として「争う者は罰すること重し」という。
⇒アショーカ王も和の精神を強調している。
⇒もとの言葉でいうと、サマヴァーヤ(samavāya)ということを、アショーカ王も尊んでいる。
⇒これだけを第一にとりあげているということはないけれども、
⇒アショーカ王の詔勅はいろいろであるが、その中で和の精神を強調している。
⇒サマヴァーヤ(samavāya)というのは、ヴァイシェーシカ哲学の術語で『和合』と漢訳する。
⇒属性とか運動が、一つの実体に内蔵している、従属しているー英語ではinherenceというが、
⇒その関係をヴァイシェーシカ哲学では、『和合』という。
⇒インド哲学の教科書では、これだけ出てくるから、それが「和合」という語の意味かと思うけれども、そうではない。
⇒もともとインドでは、サマヴァーヤ(samavāya)という言葉が使われたのは、『仲良くする』という意味である。
⇒それが元の意味なのである。
⇒それがたまたま哲学のほうに取り入れられて、少し専門的な意味に使われるようになったのが、ヴァイシェーシカ哲学のサマヴァーヤ(samavāya)なのである。
⇒だからこの言葉を、玄奘三蔵は「勝宗十句議論(しょうしゅうじっくぎろん)」の中で、『和合』と訳している。これは直訳である。そして正しい訳である。ただ、inheren(属性とか運動が、一つの実体に内蔵している、従属している)という意味は伝えていない。
⇒このサマヴァーヤ(samavāya)ー和合、仲良くするということを、アショーカ王のが強調した。
⇒これは仏教にもとづいていることは、いうまでもない。
・和の思想が
⇒憲法十七条全体を通じて強調されている根本のものである。
⇒『和』が説かれているのであって、単なる従順ではない。
⇒ことを論じて事理を通ぜしめる。議論そのものが、互いに会話というか、協和というか、その気分の中で行われる。
⇒『和』の概念が
⇒儒教から受けたものであるという解釈もなされており、「論語」に「和するを貴しと為す」という句がある。
⇒ただ、「論語」のその個所では、主題が『礼』であり、和ではない。
⇒ところが聖徳太子の場合には、人間の行動の原理としての『和』を唱えている。
⇒つまリ、太子が、礼とは無関係に、真っ先に『和』を原理として揚げている。
⇒これは実は、仏教の慈悲の立場の実践的展開を表しているものだといえる。
・仏教でも
⇒和合とか和敬とかいう語がしばしば用いられている。
⇒あるいは儒教で伝えられた言葉かもしれないが、
⇒仏教における原理的なものを表現するのに適した語であると思われたために、
⇒シナの仏教徒がこの和という字を用いて訳した。
⇒この観念を聖徳太子がとり上げて、仏教的な精神で生かそうとしたのであろう。
◆共同体の紛争を止める(紛争の否定⇒怒りを捨てる):聖徳太子は第一条に和を唱えている
【十七条憲法 一に曰く】
「和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず。隣里に違(たが)う。しかれども、上和(かみやわら)ぎ、下睦(しもむつ)びて、事を、論(あげつら)うときは、事理(じり)おのずから通ず。何事か成らざらん。」
【口訳】
おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心が有り、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。
・太子の人間観と「十七条憲法」
⇒人はともかく偏頗(へんぽ)なものであり、したがって、共同体の内部において、あるいは団体と団体とのあいだに、つねに争いをひき起こしがちなものであるが、
⇒このような抗争を克服して和を実現すること、共同体を真に共同体として形成すべきことを強調している。
⇒そうして、和の思想は「十七条憲法」全体を通じて強調されている。
⇒『和』をそこなうような行動言語を遠ざけねばならない。
⇒アショーカ王はいう、「粗暴・乱暴・憤怒・高慢・嫉妬のような、これらのことがらは、汚れに導くものである」と。
⇒ソンツェンガンポ王も、「あらゆる人に平等にして、嫉妬なきこと」「言語は柔和にして、言葉少なきこと」「挙動は高邁にして、内心は寛容なること」を教えている。
・仏教的精神と和
⇒聖徳太子は『和』を重んじて、当時の社会生活の基調にしょうとしたが、
⇒調和を重んずる思想はすでに原始仏教(釈尊の教え)において表明されている。
⇒それはまた中道の理想につながるものである。
⇒聖徳太子は、さらに、事を討論する場合に怒りを捨てるということが、
⇒「ともにこれ凡夫のみ」という人間の相対性の自覚によってのみ可能であることを説いている。
【十七条憲法 十に曰く】
こころのいかり<忿>を絶ち、おもてのいかり<瞋>を棄てて、人の違(たが)うことを怒らざれ。
人みな心あり。心おのおの執(と)るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれ非とする。われからなずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫(ぼんぶ)のみ。是非の理、詎(たれ)かよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきごとも。
ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。
【口訳】
心の中で恨みに思うな。目に角(かど)を立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。
人にはみなそれぞれ思うとろがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、自分が正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。しかし自分がかならずしも聖人なのではなく、また他人が必ずしも愚者なのでもない。両方ともに凡夫(ぼんぶ)にすぎないのである。正しいとか、まちがっているとかいう道理を、どうして定められようか。おたがいに賢者であったり愚者であったりすることは、ちょうどみみがね<鐶>のどこが初めでどこが終わりだか、端のないようなものである。
それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人びとの意見を尊重して同じように行動せよ。
・解決点に落とし込む術と「十七条憲法」
⇒いかりを去って平静に和の気持ちをもって論ずるならば、事理はおのずから通ずる。
⇒かくしてこそ、会議による決定ということも可能になる。
⇒和の精神というものをもっていなければ、違った意見は決して解決点に到達しない。
⇒果ては狭い範囲で人と人とが、あるいは集団と集団とが深刻に対立するにいたる。
・アショーカ王もまた自己反省の必要を説いている。
⇒ひとは一般に「われはこの善い事をなしとげた」といって、(自己の)善いことのみを見るのが常である。しかるに「われわれはこの悪いことを行った」とか、あるいは「これこそ(われの有する)汚れなるものである」といって、(自己の)悪事を見ることをしない。一方では、このことは実に自省しがたいことで有るが、他方では実にかくのごとく観察しなければならない。
⇒すなわち「粗暴・乱暴・憤怒・高慢・嫉妬のような、これらのことがらは、汚れに導くものである。ねがわくは、実にわれわれはこれらのために亡ぼされないように」と
・これらの帝王が抱いている普遍的な法の観念
⇒法はインドのダルマ(dharma)である。
⇒つまり、謙虚な反省にもとづく共同体活動の基準には、
⇒宗教がなければならぬと考えられた。
⇒だから、その宗教を、法ーダルマーという言葉で呼んでいる。
⇒今日でもインドあるいは南アジア諸国では、このダルマという言葉を使っている。
⇒例えば仏教のことは、バウダ・ダルマと呼び、キリスト教のことをクリスティ・ダルマと呼んでいる。
⇒聖徳太子(574年~622年)の場合には、いうまでもなく仏法である。第二条におい「篤く三宝を敬え」といい、
⇒ソンツェンガンポ王(581年~649年)は「十六条法」のある所伝によると、第一条において、「三宝に対して信仰と尊敬を生ずること」をいい、第二条では「正法を欣求(ごんぐ)し、成就すること」を教えている。
⇒「正法」とはこの場合仏教を指している。
⇒さらに、もっとさかのぼって、アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)の場合を見ると、
⇒一般人民に対して述べた岩石詔勅および石柱詔勅のなかでは、信仰の自由を表明していて、
⇒とくに仏教だけを尊崇すべきことは教えていないが、
⇒仏教教団の人びとに対する詔勅のなかでは、「ブッダと法とサンガ」すなわち三宝に対する帰依を表明している。
・「何故仏教にたよらねばならぬか」という理由について、聖徳太子はいう。
【十七条憲法 二に曰く】
三宝とは、仏と法と僧なり。すなわち四生(ししょう)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん。人、はなはだ悪しきもの少なし。よく教うるをもて従う。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。
【口訳】
まごころをこめて三宝をうやまえ。三宝とはさとれる仏と、理法と、人びとのつどいとのことである。
それは生きとして生けるものの最後のよりどころであり、あらゆる国々が仰ぎ尊ぶ究極の規範である。
いずれの時代でも、いかなる人でも、この理法を尊重しないということがあろうか。人間には極悪のものはまれである。教えられたれたらば、道理に従うものである。それゆえに、三宝にたよるものでなければ、よこしまな心や行いを何によって正しくすることができようか。
・「十七条憲法」のこの第二条の二つのポイント
⇒一つは、仏教の教えというものは、普遍的な理を述べるものであるという。だからいかなる人でも従うべきであるというこである。
⇒もう一つは、徹底的な悪人はいないという思想で、これは仏教では非常に重要である。そしてまた、東洋思想の一つの特徴である。東洋思想とは、南アジアと東アジアのことである。西アジアになると、だいぶ違ってくる。
⇒西洋では悪人は絶対に救われない。神に背いたものは地獄に落ちてしまう。そこには永遠の罰が待ち受けている。
⇒ところが、東洋には徹底的な悪人に対する憎しみという観念はない。悪人も悪の報いを受ければ、いつかは救われる。東洋思想と西洋思想との根本的な相違が、こういうところに表れているのであり、聖徳太子の言葉は非常に意義が深い。
注)システィーナ礼拝の最後の審判:中央に君臨したイエス・キリストが死者に対して裁きを下しており、向かって左側には天国に昇天する人々が、右側には地獄へ堕ちる人々が描かれている、神に背いた者は地獄へと落ちていく姿が描かれている一方で、悔い改めたことで復活の可能性が生じた人々も存在する。(1994年6月に訪問済み)
注)「笑い閻魔と笑い鬼」:日本庭園「徳明園(高崎市)」でも洞窟観音の観音像と同様「高橋楽山」による石彫作品を沢山見ることができます。その中の云わば“らしい”作品の代表がこの「笑い閻魔と笑い鬼」と言えます。なぜ閻魔と鬼が酒を飲んで笑っているのか??決してふざけて徳蔵と楽山が制作した作品ではないようです。その答えが、閻魔像の反対側に立つ石碑(石文)の中に、徳蔵の言葉として彫り込まれております。
「吉は逆に成りけり 仏笑わず 鬼笑う」
滝見観音を右手に拝観し三途の川を渡り短い洞窟を抜けると「笑い鬼と笑い閻魔」に会うことができます。洞窟を堺に、手前が観音の居られる極楽の世界、洞窟を潜り抜けると閻魔と鬼の地獄の世界が表現されています。仏の世界と閻魔の世界では「めでたさや喜び」は逆となります。
観音信仰に厚かった洞窟観音創設者「山田徳蔵」の戒めの言葉であったと共に、彼の回遊式庭園づくりの一つの趣向だったのでしょう。
人それぞれの解釈があって良い「石文」です。ご来園の際にはぜひこちらをご参拝頂き、ゆっくりと流れる時間の中で、ご自分なりの解釈に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。(2024年3月訪問済み)
出典:https://www.facebook.com/100067682917062/posts/176114090581548/
◆普遍的な理法の観点
・聖徳太子およびその下にある一連の官僚群によっては
⇒仏教は、なんびとも遵守すべきところの普遍的な教説という自覚のもとに摂取され受容された。
⇒仏教のことを「四生(四種類のあらゆる生けるもの」の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり」と評価し、
⇒仏・法・僧(教団のつどい)の三宝のうちでも
⇒とくに法すなわち教法を重要視した。
⇒したがって、「いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん」と説いてる。
⇒聖徳太子によれば、あらゆる生きとして生けるものの「規範」となっているものが「法」であり、
⇒仏というものは実は「法としての身体(法身)であり、それが「理と和合すること」がサンガであるという。
⇒その内実においては、「法」という一つの原理に帰一しているのである。
・アショーカ王の場合
⇒よりどころとなったものは、もろもろの宗教の対立を超えた法(ダルマ)であって、
⇒必ずしも仏教だけではなかった。
⇒仏教はバラモン教・ジャイナ教・アージーヴィカ教と並んで、アショーカ王の保護を受けていた一つの宗教にすぎなかった(もっとも、アショーカ王が仏教をとくに力を入れて保護支援していたことも、同様に事実であるが)。
⇒だから、アショーカ王と他のアジア諸国の帝王とのあいだには根本的な差違があるように見えるが、
⇒これらの歴史的事実を作り出した理念について考察してみると、それほど異なったものではない。
⇒聖徳太子の場合にあっては、普遍的な理法を説く思想体系としてはその当時には仏教だけしかなかったのである。
⇒だから、仏教を「四生の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)」としてとり上げたのは当然である。
⇒ところが、アショーカ王の場合には、もろもろの宗教の思想体系がかなり高度に発達していたので、
⇒普遍的な思想体系であることを誹謗するもの仏教以外にいくつもあった。
⇒だからそれらをすべてとり上げねばならなかったのである。
⇒しかし、よく考えてみると、すべての宗教にわたってそれらの説く普遍的な理法を承認するというところに仏教の本質は極まるのであるから、
⇒アショーカ王と聖徳太子などのあいだに本質的な相違は存在しない。
・仏教の特性
⇒聖徳太子もソンツェンガンポ王も、ともに仏教を尊崇しそれに帰依したにもかかわらず、民族固有の信仰を禁止したりすることがなかった。
⇒それぞれの土着の信仰として、日本では神道が、チベットではボン教が、今日にまで依然として存続している。ミャンマーでは精霊の信仰が民衆のあいだではなお行われている。シナでは仏教と道教とが融合している。
⇒こういう仏教文化圏の動きを考慮すれば、
⇒推古天皇の十五年にいたって「今、朕が世に当たりて、神祇を祭祀(いわ)うこと、豈に怠りあらんや。故(か)れ群臣ともにために心を竭(つく)して、よろしく神祇を拝(うやま)いまつるべし」という詔の発せられた理由も理解することができるであろう。
⇒総じて、古来日本人のあいだでは寛容・宥和の精神が顕著であるが、その成立しうる論理的根拠はいかなるものであろうか。
⇒日本人のあいだには現象界のすべてのものにその絶対的意義を認めようとする思惟方法が働いているが、
⇒それによるならば、人間の現実世界におけるすべての思想にいちおうはその存在意義を認めることになる。
⇒そうすれば、それらすべてに対して寛容・宥和の精神をもって対することになる。
⇒っこういう思惟方法は聖徳太子の場合にも明らかに表れている。
⇒太子によれば、仏教の究極の趣旨を説いたと見なされる「法華経(ほけきょう)」は
⇒一大乗教を教えるものであり、「万善同帰」を語るものである。
⇒それゆえ「法華経」の趣旨のことを「万善同帰」道とも称するのである。
注)法華経の「万善同帰」の概念:あらゆる善行が実相に帰結するとされ、悟りに至るために欠かせない善行を実践することを意味する。
法華経は大乗仏教の代表的な経典であり、中国や日本などで広く信仰されており、この経典は28品から成り、前半の迹門では、仏教の教えや実践方法が詳しく説かれ、例えば方便品では、一つの真実へ導くための方法が説かれている。経典の中で「万善同帰」の理念が述べられており、善行を積み重ねて成仏への道を歩むことを意味している。
法華経は、諸経の王とも称され、日本に仏教が伝わった初期に聖徳太子が解説書(法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)を書いたことでも知られている。中国の智者大師は法華経によって天台宗を開き、日本の最澄はこれを伝えて天台法華経を創設した。
法華経は「一仏乗」の思想を強調しており、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便として、一仏乗こそが真実であることを明にしている。
注)一仏乗とは:特に大乗仏教で、仏と成ることのできる唯一の教えを指す。この概念では「一」は唯一無二を意味し、「乗」は衆生を乗せて仏果に運ぶ教法を表す。一仏乗(一乗や仏乗とも呼ばれる)は、すべての人が成仏できると説く教法である。
■統一国家の運営
◆普遍的国家
・氏姓の組織による豪族の世襲的特権とその政治的支配権とを原則的に否認するものであった。
⇒豪族や門閥は、新たな統一国家において官僚としての地位を与えられることによってのみ、
⇒政治的支配権を保持することができた。
⇒この特徴は、隋の文帝の場合でも、聖徳太子の場合でも同じであった。
・新たに確立された統一国家の中心となるものは
⇒官僚であるから、官僚のあいだで道義心が確立していなければならない。
⇒聖徳太子は、日本の歴史において『善』と『悪』とをはっきりと対立的にもち出した人である。
⇒聖徳太子の臨終のときに王子たちになされた遺誡は「もろもろの悪しきことをばなすなかれ。もろもろの善きわざを行え」ということであった。
⇒これは原始仏教以来の仏教倫理の原則として伝えられている教えであり、
⇒太子はそれをまず王室の人びとが実現すべきであり、
⇒そこから出発してしだいに人びとのあいだに及ぼすべきであると考えていたのである。
⇒では、それが具体的に国家の政治にどう具現されるべきであるか。太子は教える。
【十七条憲法 六に曰く】
悪を懲らし善を勧むるは、古の良き典なり。ここをもって、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、国家を覆(くつがえ)す利器なり。人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。また佞(かだ)み媚ぶる者は、上に対しては好みて下の過(あやま)ちを説き、下に逢いては上の失(あやまち)誹謗(そし)る。それ、これらの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。
【口訳】
悪を懲らし善を勧めるということは、昔からの良いしきたりである。だから他人のなした善は、これを隠さないで顕し、また他人が悪をなしたのを見れば、かならずそれをやめさせて、正しくしてやれ。
諂ったり詐(いっわ)ったりする者は、国家を覆し滅ぼす鋭利な武器であり、人民を絶ち切る鋭い刃のある剣である。また、おもねり媚びる者は、上の人びとに対しては好んで目下の人びとの過失を告げ口し、又部下の人びとに出会うと上役の過失をそしるのが常である。
このような人は、みな主君に対しては忠心なく、人民に対しては仁徳がない。これは世の中が大いに乱れる根本である。
⇒この精神は古くはアショーカ王の場合にも見られる。かれは善はなしがたく、悪はなしやすいということを嘆じている。
⇒善はなしがたい。なんびとでも善をなしはじめる者は、なしがたいことをなすのである。われはすでに多くの善いことを行った。したがって、わが諸皇子・諸皇孫ならびにそれらよりも以降の子孫で、壊劫(えこう)にいたるまでも、われに倣うてかくのごとく行う者どもは、すなわち善事を行うことになるのであろう。これに反して、この善事の一部分でも捨て去る者は、悪事をなすことになるであろう。実に悪はなしやすい。
⇒「悪はなしやすい」ということは、仏典のなかに説かれていることである。
・司法行政に関しては、裁判の公平と敏活とが要求される。聖徳太子は教える。
【十七条憲法 五に曰く】
あじわいのむさぼり<饗>を絶ち、たからのほしみ<欲>を棄てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(さだ)めよ。それ百姓の訟(うったえ)は、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)るを、いわんや歳を累(かさ)ねてをや。
このごろ訟を治むる者、利を得るを常とし、賄(まいない)を見てはことわりもうす<讞>を聴く。すなわち財あるものの訟は、石をもって水に投ぐるがごとし。乏しきものの訟は、水をもって石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知らず。臣道またここに闕(か)く。
【口訳】
役人たちは飲み食いの貪りをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。人民のなす訴えは、一日に千件にも及ぶほど多くあるものである。一日でさえそうであるのに、まして一年なり二年なりと、年を重ねてゆくならば、その数は測り知れないほど多くなる
このごろのありさまを見ると、訴訟を取り扱う役人たちは私利私欲を図るのがあたりまえとなって、賄賂を取って当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。だから財産のある人の訴えは、石を水の中に投げ入れるようにたやすく目的を達成し、反対に貧乏な人の訴えは、水を石に投げかけるように、とても聴き入れられない。こういうわけであるから、貧乏人は、何をたよりにしてよいか。さっぱりわからなくなってしまう。こんなことでは、君に仕える官吏(かんり)たる者の道が欠けてくるのである。
⇒太子の教えは非常に具体的である。現代のわれわれの問題としても、いろいろ思いあたるところがある。
⇒アショーカ王も、官吏に対してはとくに人民の利益と安楽をはかり、法に従って裁判・処罰を行い、公平ならんことを訓示し、また寛容と刑罰の軽いことを尊重している。
・この要求はさらに一歩を進めて、官吏は人格者でなければならないという。
⇒いかに制度を整えても、それを運営する人びとが邪悪な人びとであるならば、国は乱れる。職務を乱してはならない、と太子はいう。
【十七条憲法 七に曰く】
人おのおの任あり。掌(つかさど)ること、濫(みだ)れざるべし。それ賢哲、官に任ずるときは、頌(ほ)むる音(こえ)すなわち起こり、姧者(かんじゃ)、官を有(たも)つときは、禍乱すなわち繁(しげ)し。世に、生まれながら知る人少なし。よく念(おも)いて聖となる。事、大小となく、人を得てかならず治まる。時、急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これによりて、国家永久にして、杜撰(しゃしょく)危うからず。故に、古の聖、官のために人を求む。人のために管を求めず。
【口訳】
人には、おのおのその任務がある。職務に関して乱脈にならないようにせよ。賢明な人格者が官にあるときには、ほめる声が起こり、よこしまな者が官にあるときには、災禍や乱れがしばしば起こるものである。世の中には、生まれながらして聡明な者は少ない。よく道理に心がけるならば、聖者のようになる。およそ、ことがらの大小にかかわらず、適任者を得たならば、世の中はかならず治まるものである。時代の動きが激しいときでも、ゆるやかなときでも、賢明な人を用いることができたならば、世の中はおのずからゆたかにのびのびとなってくる。これによって国家は永久に栄え、危うくなることはない。ゆえに、いにしえの聖王は官職にために人を求めたのであり、人のために官職を設けることはしなかったのである。
⇒これは千三百年前に説かれた教えであるが、いかに高度に発達した国家機構においてもなお適合することであろう。『官のために人を求む、人のために管を求めず』という言葉は、今日の政治家や官僚に対する痛烈な皮肉のように聞こえる。
・とくに聖徳太子が官吏に対して嫉妬をいましめていることは注目すべきである。
⇒嫉妬は健全な共同体の発達をはばむものであるから
⇒普遍的国家の帝王はみなこれをいましめている(アショーカ王の石柱詔勅の第三章、ソンツェンガンポ王十六条法の第十三条)。しかし聖徳太子が非常に詳しく教誡していることは興味深い。
【十七条憲法 十四に曰く】
群臣百寮、嫉妬あることなかれ。かれすでに人を嫉(うらや)むときは、人またわれを嫉む。嫉妬の患(うれ)え、その極(きわまり)を知らず。このゆえに、智おのれに勝るときは悦ばず。才おのれに優るときは嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百歳にしていまし今賢に遇(あ)うとも、千載にしてひとりの聖を持っこと難(かた)し。それ賢聖を得ずば、何をもってか国を治めん。
【口訳】
もろもろの官吏は、他人を嫉妬してはならない。自分が他人を嫉(そね)めば、他人もまた自分を嫉む。そうして嫉妬の憂いは際限のないものである。だから、他人の智識が自分よりもすぐれているとそれを悦ばないし、また他人の才能が自分よりも優れていると、それを嫉み妬むものである。このゆえに、五百年をへだたて賢人が世に出ても、また千年たってから聖人が世に現れても、それをを斥(しりぞ)けるならば、ついに賢人・聖人を得ることはむずかしいであろう。もしも賢人・聖人を得ることができないならば、どうして国を治めることができょうか。
⇒人びとの嫉妬心がすぐれた人を引き倒してしまうということは、日本にとくに顕著な現象である。
⇒ここで嫉(ねた)みが悪徳とされているのであるが、ユダヤでは必ずしもそうとは考えられなかったらしい。モーゼの十誡のなかに、「われエホバ汝の神は嫉む神なれば、われを悪(にく)む者にむかいては父の罪を子にむくいて三、四代におよぼし、われを愛しわが誡命(いましめ)を守る者には恩恵(めぐみ)をほどこして千代にいたるなり」という。
⇒こういう宣言は東洋では見られない思想である。
・統治者の種々の心がけを述べたあとで、聖徳太子の「十七条憲法」は、その最後において、独裁を排し、衆とともに論ずべきことを教えている。
【十七条憲法 十七に曰く】
それ事はひとり断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。かならずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。ゆえに衆と相弁(あいわきま)うるときは、辞(こと)すなわち理を得ん。
【口訳】
重大なことがらはひとりで決定してはならない。かならず多くの人びとともに議論すべきである。小さなことがらは大したことはないから、かならずしも多くの人びとに相談する要はない。ただ重大なことがらを議論するにあたっては、あるいはもしか過失がありはしないかという疑いがある。だから多くの人びととともに論じ是非を弁(わきま)えてゆくならば、そのことがらが道理にかなうようになるのである。
⇒これは第一条に、事を論ずるには『和の精神』をもってすべしと教えていることに対応している。
⇒これが発展して、大化改新後の詔勅には『不可独制』として、君主の独裁を不可としている。
・独裁を不可とする思想
⇒この思想はどこから受けつがれてたか。
⇒日本神話の物語っている古い政治のやり方は、主宰神或は君主の独裁ではなくして、河原の会議である。
注)天の安河原(あまのやすのかわら):日本神話において重要な場所。特に『古事記』や『日本書紀』に登場し、この場所は、高天原(たかまがはら)において神々が集まり、重要な会議を開く場所とされている。
特に有名なのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れた際に、八百万(やおよろず)の神々がこの河原に集まり、天照大神を岩戸から出すための策を練ったというエピソード。
寧ろ天神会合して. 一種の共和政治を設立していたので、政治上の大事が起れば、天の安河原に会議を開き、その議員中の最賢明なる者の言葉によって万事決議していた 。
出典:岩戸神楽乃起顕。国貞改豊国画(1844年頃)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:The_Origin_of_Iwato_Kagura_Triptych_(Amaterasu)_by_Utagawa_Kunisada_c1844.png
⇒また、原始仏教僧団の議事法は多数決などを含み、かなり微細な点まで規定されているので、あるいはそれも影響したのではないか、とも考えらる。
⇒ただアショーカ王もソンツェンガンポ王もとくに衆論に聞けということは説いていないのに、
⇒聖徳太子が強調したことは注目すべきである。
⇒日本における君主政治は、独裁制とは異なるものとして発展した。
■治者の思想
◆聖徳太子の場合には、
・ほかの国々の仏教諸帝王に見られない意図が顕著に表明されている。
【十七条憲法 三に曰く】
詔(みことのり)を承りてはかならず謹(つつし)め。君をば天とす。臣をば地とす。天は覆い、地は載(の)す。四時(しいじ)順(したが)い行いて、万気通うことを得(う)。地、天を覆わんとするときは、壊(やぶ)るることを致さん。ここをもって、君言(のたま)うときは臣(しん)承る。上(かみ)行うときは下靡(なび)く。ゆえに詔を承りてはかならず謹め。謹まずは。おのずから敗れん。
【口訳】
天皇の詔を承ったときは、かならずそれを謹んで受けよ。君は天のようなものであり、臣民たちは地のようなものである。天は覆い、地は載せる。そのように分の守りがあるから、春・夏・秋・冬の四季が順調に移り行き、万物がそれぞれに発展するのである。もしも地が天を覆うようなことがあれば、破壊が起こるだけである。こういうわけだから、君が命ずれば臣民はそれを承って実行し、上の人が行うことに下の人びとが追随するのである。だから天皇の詔を承ったならば、かならず謹んで奉ぜよ。もしも謹んで奉じないならば、おのずから事は失敗してしまうであろう。
⇒アショーカ王の場合にも自分の詔勅を徹底せしめようという意欲は強烈であった。あのように多くの石柱を建てたり、多くの岩石の面を磨いて詔勅文を刻んだのは、人びとに読ませるためなのである。
⇒しかし、アショーカ王の場合には、帝王であるがゆえに有する権威を強調するという思想が認められない。かれの言葉は、普遍的な理法を説くがゆえに尊敬されるべきなのであるとしている。
⇒ソンツェンガンポ王の「十六条法」のなかにも、「君に対する忠」ということは一言も教えられていない。
⇒ところが、聖徳太子の場合に強調されているのは、
⇒中央集権的君主制の国家における君・臣・民の関係である。
⇒その臣は、君命をうけて民を治めるのである。
⇒民を治める本は「礼」すなわち風儀或は広義の道徳であて、もし上に立って民を治めるものが道義を欠くときには、民は決して治まるものではなく、また民が道義を欠いているならば、上に立つものがどれほど努力しても、罪を犯すものは続出する。だから<群卿百寮>は礼を以て本としなくてはならぬ。
⇒以上の君・臣・民の関係は、シナから学んだものであると共に、また数世紀以来日本において醸成されつっあるものであった。中央集権はこの関係の成立に従って拡大されて行ったのである。
⇒然るに今やその関係を自覚するに当たって、君臣上下の秩序は神話に含まれた現神(あらがみ)思想によってでなく、天地自然の理によって、
⇒また臣と民との関係は私の支配としてでなく、礼による治世として、把握されたのである、
⇒これは大化改新の際の私有地私有民の廃止と密接に関連する問題であろ。(和辻哲郎「日本倫理思想史」)
・帝王の権威を強調する思想は第十二条においてとくに顕著である。
【十七条憲法 十二に曰く】
国司・国造、百姓に歛(おさ)めとることなかれ。国に二者ないs。民に両主なし。率土(そつと)の兆民は王をもって主とすなす。所任の官司はみなこれ王臣なり。何ぞあえて公と、百姓に賦歛(おさめと)らん。
【口訳】
もろもろの地方長官は多くの人民から勝手に税を取り立ててはならない。国に二君はなく、民に二人の君主はいない。全国土の無数に多い人民たちは、天皇を主君とするのである。公の徴税といっしょにみずからの私利のために人民たちから税を取り立てるというようなことをしてよいということがあろうか。
⇒大化改新以前は、豪族が私有地・私有民を擁していた時代に、
⇒この条文がなにを意味するかが学者のあいだで問題とされているが、
⇒この十二条は、推古時代に実現されていた限りの中央集権的直轄領経営に基づいたものであり、
⇒やがて大化の改新の私有地・私有民の廃止によって、
⇒全国的に実現されるにいたった、ちょうどその点を示している。
⇒すなわち、「直轄領の地方官に対して、君・臣・民の関係を説き、君のために民を治める臣が治める民から貪り取る如きことをすべきでないと戒めている」(和辻哲郎「日本倫理思想史」)のであるとしても、ともかく、君の権威を強調しているのである。
⇒「国に二君なし、民に両主なし」などというところは、顕著に日本的であり、絶対主義的天皇制を予示するものである。
⇒インドやチベットのおびただしい文献にも、こういう強調のしかたは見あたらないようである。キリスト教の優勢であった西洋にも見当たらないであろう。
注)日本の律令制(7世紀から8世紀):中央集権的君主制の一例。天皇を頂点とする統治体制が確立され、地方の豪族たちが中央政府の官僚として組み込まれた。大宝律令の制定により、全国的な統治機構が整備され、中央集権的あ国家運営が行われた。
【大化の改新:645年】日本史上初の本格的な政治改革で、蘇我氏の独裁を滅ぼして天皇中心の政治に転換した出来事。具体的には、以下の点が改革された。
- 氏姓制度の廃止:豪族を中心とした政治から、天皇中心の政治へと移行した。
- 律令国家の成立:中大兄皇子と中臣鎌足によって推進され、日本で初めての元号「大化」が定められた。
- 男女の法の制定:男女の権利や義務を明確に規定した。
- 鍾匱の制の開始:鍾(しょう)と呼ばれる官職を設け、国政を運営した。
この改革は、日本の政治体制に大きな変革をもたらし、その後の律令制度の基盤を築いた重要な出来事とされている。
【大宝律令:701年】中央政治の仕組み:天皇を頂点とし、二官(神祇官と太政官)と八省(中務省、式部省、治部省、民部省、大蔵省、刑部省、宮内省、兵部省)からなる中央政府の構造を定めた。
地方政治の仕組み: 全国を国、郡、里に分け、中央から派遣される国司が地方を統治する体制を整えた。
税制: 租(米)、調(特産物)、庸(布や労働)などの税を定め、地方と中央の財政基盤を確立した。
出典:https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/taiho-ritsuryo/
出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44138660U9A420C1000000/
注)中国の中央集権体制:秦の始皇帝(紀元前221年)が雛形を作り、漢の武帝(紀元前141年~紀元前87年:在位)が強化・発展させ、隋の文帝(581年~604年:在位)が律令制を整備し、科挙の創設して仕上げを行った。
・律令制の意図:後漢の衰退(25年~220年)、三国時代(魏・呉・蜀)、西晋、五胡十六国と東晋、南北朝時代と約350年続いた分裂時代を終わらせた文帝は、国が混乱する原因であった豪族たちを排し、皇帝と国の権力強化に尽力した。そのため律令を定め、豪族を官僚化し、中央集権化を進めた。加えて「科挙」を採用し、人物本位で官僚を選ぶようにしました。なお科挙の制度は清の時代(1644年~1912年)まで続いた。
・秦の始皇帝の中央集権体制の特徴:体制を築き上げ、中国の統治システムの基礎を作った。
- 郡県制の導入:全国を郡と県に分け、中央から官僚を派遣して直接統治をした。
- 法治主義の徹底:法家思想に基づき、厳格な法治主義を実施した。。
- 思想統制:焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)と呼ばれる言論・思想統制を行い、反対意見を抑えた。
- 統一政策:文字、度量衡(長さ、量、重さ)、貨幣、車軌(車軸の長さ)を統一し、行政や徴税を 円滑にした。
- 万里の長城の建設:北方の匈奴からの侵入を防ぐため、長城を強化・延長した。
・武帝の中央集権体制の特徴:中央集権体制の確立とともに、漢王朝の繁栄と拡大をもたらした。
- 郡県制の強化:地方の豪族の力を抑え、中央から派遣された官僚による直接統治を強化した。
- 儒教の国教化:重仲舒(とうちゅうじょ)を重用し、儒教を国家の基本理念とした。
- 経済政策の改革:塩や鉄の専売制を導入し、国家財政を強化した。
- 対外拡張政策:匈奴や南越など周辺地域への積極的な軍事遠征を行い、領土を拡大した。
- 思想統制:儒教以外の思想や学問を抑制し、統一的な思想体系を確立した。
・隋の文帝の中央集権体制の特徴:強力な中央集権体制を確立
- 科挙の創設:官僚登用制度として科挙を導入し、能力主義に基づく官僚の選抜を行った。
- 郡県制の強化:地方の豪族の力を抑え、中央から派遣された官僚による直接統治を強化した。
- 大運河の建設(経済政策):経済と軍事の両面で重要な役割を果たす大運河を建設し、南北の交通と物流を改善し、経済発展を促進した。
- 法治主義の徹底:法家思想に基づき、厳格な法治主義を実施した。
- 統一政策:度量衡(長さ、量、重さ)や貨幣の統一を行い、行政や徴税を 円滑にした。
⇒日本書記によると、すでに推古天皇の二年春二月に「皇太子および大臣に詔して、三宝を興隆(おこ)さしむ。このとき、もろもろの臣連(おみむらじ)等、おのおのの君親の恩(めぐみ)のために、競いて仏舎(ほとけのおおとめ)を造る。すなわちこれを寺という」とある。
⇒インドでも寺塔等を建てた場合に、「亡き父母の冥福のために」ということばはしばしばいうけれども、「君の恩に報いる」云々ということはいわない。インド人は国王は盗賊と区別のないものだと考え、蛇のようなものだと説いている。
⇒ここにも日本における仏教受容の特殊性が認められる。
⇒また当時の日本人は、日本的な帝王観が普遍的・世界的意義をもっているとうぬぼれていた。
⇒推古天皇の八年に朝鮮の新羅・任那(みまな)の二国の王が使いを遣わして調(みつぎもの)をたてまつったが、そのときの奏状に、「天上(あめ)に神有(ま)す。地(つち)に天皇有(ま)す。この二神(ふたはしら)を除きては、いかでまた畏(かしこ)きことあらんや」と記している。
⇒これはどこまでも日本的な見解である。
⇒インド人は神々とバラモンとを二種の神々と呼んでいるから、見解がぜんぜん異なる。
⇒日本的な特殊性が普遍的意義をもっていると思いなしていた誤認。ーこれが後世まで支配していたところに後代日本の悲劇に一つの原因があると考えられる。
⇒国家の首長が族長的権威を強く保持している場合には、普遍的宗教を採用・確立した帝王は、なんらかの神的存在の顕現であるとされるようになる。
⇒日本の聖徳太子はシナ天台の南嶽慧思(なんがくえいし)禅師の生まれかわりであるという伝説が日本で成立し、その伝説は古代シナでもかなり広く知られていた。
⇒しかし、それよりももっと有名なのは、聖徳太子が観音菩薩の化身であるという思想であり、
⇒たとえば親鸞の「皇太子聖徳奉讃」によって一般に知られている。
救世観世音(くせかんぜおん)大菩薩 聖徳皇(しょうとくおう)と示現して
多々(父)のごとくすてずして
阿摩(あま)(母)のごとくにそいたもう
⇒他方チベットでも、ソンツェンガンポ王はあやはり観音菩薩の化身と考えられた。観音菩薩はまずかれとしてチベット人のあいだに現れたという。
⇒ところで、このような伝説はアショーカ王の多数の伝記類には表れていないし、隋の文帝についてもおそらく伝わっていないであろう。
⇒西洋の諸皇帝については、キリスト教の教義のうえからも不可能である。
・日本とチベットのみ何故にこのような伝説が成立したか
⇒これはおそらく両国において支配者の族長的権威が強く、それと結びついて仏教が発展したということによるのであろう。
⇒チベットでも古来宗教的権威と世俗的権威との一致が顕著である。
⇒族長的権威ということは、それに慣らされて教育されたわれわれ日本人にとっては当然のことだが、一歩外から見ると、おかしなことである。
⇒この事実に関する反省なしに、漠然と仏教を眺めることは無意味ではなかろうか。
⇒そして、こういう事実を念頭においてこそ、過去における聖徳太子や聖武天皇の普遍的宗教帰依が大きな意義をもつといわねばならない。
⇒歴史的にはなんの連絡もない日本仏教とチベット仏教との一致は、もっと掘り下げて研究する必要があるのであろう。
注)文字が読めなかった民衆における観世音菩薩の理解:観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)は、民衆にとって非常に親しみやすい仏様として理解されていた。彼女は慈悲の象徴であり、困っている人々や苦しんでいる人々を助ける存在とされている。
【文字が読めない民が理解できるために】
口伝と説法
- 口伝:お坊さんや僧侶が、観世音菩薩の話を口伝えで広めた。お寺での説法や、村々を巡っての布教活動を通じて、観世音菩薩の慈悲深い行いが語られた。
- 説法:お寺での説法や法話を通じて、観世音菩薩の教えが民衆に伝えられた。これにより、文字を読めない人々も仏教の教えを理解することができた。
絵画や彫刻
- 絵画:観世音菩薩の姿を描いた絵画や掛け軸が、お寺や家庭に飾られた。これにより、視覚的に観世音菩薩の姿を知ることができた。
- 彫刻:観世音菩薩の像が多くの寺院に安置され、民衆はこれを拝むことで観世音菩薩の存在を身近に感じることができた。
民間伝承と物語
- 民間伝承:観世音菩薩にまつわる伝説や物語が、民間で語り継がれた。これにより、観世音菩薩の慈悲深い行いが広く知られるようになった。
- 物語:観世音菩薩の奇跡や救済の物語が、絵本や紙芝居などの形で伝えられた。
これらの方法を通じて、文字を読めない民衆でも観世音菩薩の慈悲深い救済者としてのイメージを理解し、信仰することができた。
法隆寺(夢殿)夢違観音像(観音菩薩立像) 千手千眼十一面観音
出典:右図) https://kyobashi.keizai.biz/headline/684/ 聖地チベット-ポタラ宮と天空の至宝-
※チベット仏教における位置づけ
チベット仏教では、チベットの国土に住む衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベット仏教の四大宗派に数えられるゲルグ派の高位の化身ラマで、民間の信仰を集めているダライ・ラマは、観音菩薩(千手千眼十一面観音)の化身とされている。居城であるラサのポタラ宮の名は、観音の浄土である、ポータラカ(Potalaka、補陀落)に因む。チベットでは、観音菩薩はチェンレジー(spyan ras gzigs)として知られるが、これは「観自在」を意味する「spyan ras gzigs dbang phyug」を省略したものである。(Wikipedia)
■「大乗仏教」と「上座部仏教」が分かれた理由とそれぞれの特徴
◆分かれた理由と時期
・主に仏教の教えや戒律の解釈の違い
⇒釈迦(紀元前563年~紀元前483年頃)の死後、弟子たちは釈迦の教えをどのように解釈し、実践するかについて
⇒紀元前3世紀(紀元前300年~紀元前201年)頃に意見が分かれた。
⇒仏教の教えを広く大衆に広めることを目指した大乗仏教と
⇒仏教の戒律を厳格に守ることを重視する上座部仏教に。
⇒この分裂は『根本分裂』と呼ばれている。
出典:https://www.koumyouzi.jp/blog/902/
【大乗仏教のアウトライン】
大乗仏教は他者の救済と慈悲の実践を重視
- 目的:他者の救済を重視(利他行)。
- 修行方法:六波羅蜜の実践(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)。
- 広がり:中国、朝鮮、日本(北伝仏教)
<大乗仏教の特徴>
大乗仏教は、初期仏教(上座部仏教)とは異なり、より広範な救済を目指す教えとして発展した。
- 普遍的な救済:大乗仏教は、すべての生きとし生けるものの救済を目指します。出家者だけでなく、在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げています。
- 菩薩の道:菩薩(Bodhisattva)という概念が重要で、菩薩は自らの悟りを求めるだけでなく、他者の救済をも目指します。菩薩は修行を通じて他者を助けることを重視します。
- 空(くう)の教え:万物が本質的には無常であり、独立した永続的な自己を持たないことを指します。この「空」の概念は、大乗仏教の中心的な教義の一つです。
- 大乗経典:大乗仏教には独自の経典があり、代表的なものには『般若経』、『法華経』、『浄土三部経』、『華厳経』などがあります。
- 如来蔵思想:すべての衆生が仏性を持ち、修行を通じて仏となる可能性があるとする教えです。
- 地域的な広がり(北伝仏教):大乗仏教は、インド、中央アジア、中国、朝鮮、日本などの国々で広く信仰されている。
日本の仏教の多くの宗派も大乗仏教に分類されており、戒律は宗派ごとにさまざまに解釈。
出典:https://president.jp/articles/-/42220?page=6
【上座部仏教のアウトライン】
上座部仏教は個人の修行と戒律の遵守を重視
- 目的:個人の悟りを目指す(自利行)。
- 修行方法:戒律を厳格に守る。
- 広がり:スリランカや東南アジア(南伝仏教)
<上座部仏教の特徴>
釈迦の教えを忠実に継承し、厳格な戒律と個人の修行を重視する仏教の一派で、スリランカで大成した。
- 戒律の重視:上座部仏教では、出家者(比丘)に対する戒律が厳格に守られている。これはセックスしない、酒を飲まない、金銭に触れないなど、227の戒律が含まれている。
- 個人の修行:上座部仏教は、個人が修行を通じて悟りを開くことを目的としている。これは、大乗仏教が他者の救済を重視すうのとは対照的である。
- パーリ語仏典:上座部仏教は、パーリ語で書かれた仏典を使用し、これを通じて釈迦の教えを伝えている。
- 口伝の伝統:仏典は「読む」書物というよりも「詠む」書物として、声を介して身体に留める伝統が培われている。
- 地域的な広がり(南伝仏教):上座部仏教は、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス、スリランカなどの国々で広く信仰されている。
上座部仏教は、釈迦の教えを純粋な形で保存し続けることを目指しており、その厳格な戒律と個人の修行を重視する姿勢が特徴。
■文化交流政策
◆普遍的な理法を政治の上に実現しようとめざす帝王
・自国の門戸をふさぐことを好まない。
⇒これらの帝王はみな、外国の先進国の文化を取り入れて、自国の文化を高めている。
⇒アジアのこれらの国々で、文字がつくり出されたのは、だいたいこれらの帝王によってである。
⇒仏典が大規模に移入されたのも、この時代のことである。非常にに似ている。
◆アショーカ王は
⇒使節を遠くエジプト、シリア、マケドニア、キレーネー、エペイロスに派遣し、自己の理想を伝えようとしたし、
⇒またかれの王朝がこれらの国々から使節を受け入れたことは碑文や文献にしるされている。
⇒使節派遣には政治的意義の強いものであったかもしれないが、かれの詔勅の文面からみると、
⇒アショーカ王の宗教的・倫理的理想を伝えるものであった。
⇒それに対応するもののごとく、仏教教団も諸地方に伝道者を派遣したと伝えられている。
⇒スリランカ、ミャンマー、ヒマーラヤ山麓などに仏教が広まったのも、かれの時代のことであるという。
⇒ともかく詔勅と史書との伝えるところによると、アショーカ王の文化交流事業は、東洋と西洋とにわたって世界的規模において行われたのであった。
⇒それはまた仏教の世界的伝播のための通路を開くものであった。
⇒普遍的宗教の世界的伝道ということは、人類の歴史においてアショーカ王の時代にはじめて起こったことなのである。
注)原始仏教の時期:釈尊(ゴータマ・ブッダ)が生きていた時代から、釈尊の入滅後100年までの期間を指す。具体的には、紀元前6世紀頃から紀元前4世紀頃までの時代。
この時期は、釈尊の教えが直接伝えられ、後に部派仏教へと分裂する前の仏教の初期段階を示す。
注)原始仏教の禁止事項(無仏像):原始仏教では偶像崇拝が禁止されていたため、釈尊の姿を直接表現することは避けられていました。その代わりに、釈迦の足跡(仏足石)や菩提樹、法輪などの象徴的なシンボルが用いられていた。
これらのシンボルは、釈尊の教えや存在を象徴的に表現する手段として重要な役割を果たしていた。特に仏足石は、釈迦が歩んだ道を示すものとして信仰の対象となっていた。
仏足石は、お釈迦様(釈尊)の足跡を彫った石。現在、寺院では仏像を祀ることは当り前ですが、お釈迦様の滅後から紀元前100年頃まではお釈迦様の仏像が作られることはありまぜんでした。理由は諸説ありますが、悟りを開き人智を超えた存在であるお釈迦様を、人間が表現することは不可能と考えられていました。人びとは仏像のかわりに、菩提樹や法輪、などお釈迦様にまつわる持ち布を描いてお釈迦様を表現しました。特によく描かれたのがお釈迦様の足跡を描いた仏足跡です。人々はそこにお釈迦様が立っておられるとイメージしながら、手を合わせたです。薬師寺の仏足石は、側面の銘文より天平勝宝(753)に作られたことがわかります。古代の仏足跡は例が少なく、薬師寺不足石は現存する最古の仏足跡です。出典:https://yakushiji.or.jp/guide/garan_daikodo.html 薬師寺の仏足石
【参考情報:薬師寺(法相宗)の仏足石は長安の普光寺のものを写している】
唐の長安にあった善光寺は法相宗に属していた。法相宗は玄奘三蔵がインドから持ち帰った唯識説を基にした宗派で、彼の弟子にあたる慈恩大師基(窺基)が開いた。
注)マウリヤ朝のアショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)
出典:右図)https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/v-buttou-1.htm
注)サーンチー(Sanchi、梵: साञ्ची Sāñcī):大仏塔や寺院跡、アショーカ王の石柱跡などの仏教建築群や、精緻な仏教彫刻で知られる仏教遺跡である。この遺跡からは、紀元前3世紀から紀元後12世紀にかけての仏教建築や仏教美術の興亡を知ることができる。
http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html
注)クシャーナ朝のカニシカ1世(144年~171年):仏教の保護者としても知られ、彼の治世下でガンダーラ美術が発展し、初めて釈尊(ブッダ)の像、仏像がつくられた。
マウリヤ朝は、アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)の死後、急速に衰退。
紀元1世紀頃には、「クシャーナ朝」がインダス川流域を支配していた。
仏教は、クシャーナ朝でも保護された。
しかし、“出家した者のみが救われるという考えは、利己的である”という批判が出始めます。
その考えのもとに生まれたのが、大乗仏教でした。
インダス川の上流域は、中央アジアとつながる東西交易の重要な拠点でした。
そのため、大乗仏教は、中央アジアを経て中国へ、そして、朝鮮半島、日本にまで伝わった。
出典:https://www.kawai-juku.ac.jp/spring/pdf/text201958-535673.pdf
※【大乗仏教のアウトライン】
大乗仏教は他者の救済と慈悲の実践を重視
- 目的:他者の救済を重視(利他行)。
- 修行方法:六波羅蜜の実践(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)。
- 広がり:中国、朝鮮、日本(北伝仏教)
【上座部仏教のアウトライン】
上座部仏教は個人の修行と戒律の遵守を重視
- 目的: 個人の悟りを目指す(自利行)。
- 修行方法:戒律を厳格に守る。
- 広がり:スリランカや東南アジア(南伝仏教)
出典:http://koekisi.web.fc2.com/koekisi2/page004.html
注)ガンダーラ美術(=ギリシャ仏教美術):紀元前後にヘレニズムの影響を受けたバクトリア(現在のアフガニスタン北部からイラン東部)地域のグレコ・バクトリア王朝で、ギリシャ彫刻の手法を用いて写実的な仏像や菩薩像が作られ、仏像崇拝の流行が起こった。
ガンダーラ仏像の特徴は、螺髪が波状の長髪で、目の縁取りが深い容姿でそびえ立つ姿がまるで西洋人のように見える。着衣の皺も深く刻まれて、自然な形状である。作品はほとんどがレリーフ(浮彫)であり、多くがストゥーパ基壇の壁面に飾られた。ガンダーラ彫刻はクシャーナ朝のカニシカ1世(144年~171年)の治世において多くの発展を遂げた。ガンダーラから始まった仏像彫刻の技術は、インド本土はもちろん、中央アジアを経て、中国大陸・朝鮮半島・日本にまで伝わった。
※仏像は、大乗仏教の発達とともに盛んになっていき、弥勒菩薩(みろくぼさつ)や阿弥陀如来(あみだにょらい)など、さまざまな仏の像が生まれた。
出典:左図)https://butsuzou.themedia.jp/posts/7717652/ 右図)https://www.louvre-m.com/collection-list/no-0010 下図)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
・後漢の衰退(25年~220年)、三国時代(魏・呉・蜀)、西晋、五胡十六国と東晋、南北朝時代にかけて国が混乱(混乱の原因として地方豪族の存在)し、
約350年続いた分裂時代を終わらせたのが隋の文帝は589年に南朝の陳を滅ぼして中国を統一し中央集権体制の仕上げを行った)。
この350年間に西方から伝わった仏教、また民間から発展した道教が文化が中国社会に影響を与えた。
仏教の隆盛に伴い、敦煌・雲崗・龍門などでは、石窟、石仏、仏画が盛んに作られ、描かれた。これらはインドのガンダーラ・グプタ様式や、中央アジアの様式に影響されている。
注)四大訳経家:鳩摩羅什(くまらじゅう:344~413頃)、真諦(しんたい)三蔵(499~569)、玄奘三蔵(600~664)、不空(ふくう)三蔵(705~774)の4人のことを指し、仏典の翻訳に功績を残した人物として重んじられています。
注)五胡十六国時代(304年~439年)⇒中国の歴史の中でも特に混乱した時期だったが、中国における宗教の概念を一変させた時代でもあった。
その最大の特徴は、外来宗教である仏教の受容の仕方に現れている。
五胡の君主の大多数は非漢民族(異民族)ではあったが、儒教を尊崇する君主もあれば老荘思想を志向する者も見られた。そんな中で当時の社会不安が高まり、戦乱が打ち続く華北において飛躍的に拡がったのは、仏教であった。
五胡の君主たちは、自らが仏教徒となると共に、仏教による民衆教化を図った。
【この時期の仏教特徴】
- 仏教の普及と寺院の建立:
- この時代、多くの仏教寺院が建立された。特に洛陽を中心に900以上の寺院が建てられ、1万人以上の門下生が集まった。
- 重要な仏教僧の活動:
- 仏図澄(ぶっとちょう)や鳩摩羅什(くまらじゅう)などの名僧が活躍し、仏教の教えを広めた。彼らは翻訳活動や教義の普及に努め、中国仏教の基礎を築いた。
- 仏教と国家の関係:
- 仏教は国家とも密接に関わり、時には国家の軍事行為に協力することもあった。また、仏教僧はスパイや使者として利用されることもあった。
- 仏教の社会的影響:
- 仏教は囚人や逃亡者、女性や子供など、社会の様々な層に影響を与えた。仏教寺院は避難所や教育の場としても機能し、社会的な役割を果たした。
五胡十六国時代は仏教が中国社会に深く根付く重要な時期であった。
※鳩摩羅什の主な漢訳:『妙法蓮華経』(法華経)、『阿弥陀経』、『摩訶般若波羅蜜経』、『維摩経』、『大智度論』、『中論』等。尚、摩訶般若波羅蜜経は般若思想の核心を伝えるもので、後の仏教哲学や実践に大きな影響を与えた。
※聖徳太子の三経義疏:①勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏(ぎしよ)、②維摩経(ゆいまぎょう)義疏(ぎしよ)、③法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)。義疏とは経典の注釈又は解説。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A6%AC%E5%AF%BA_(%E6%B4%9B%E9%99%BD)白馬寺(洛陽郊外にある仏教寺院):中国で最も古い仏教寺院の一つで、後漢時代に建立されたが、五胡十六国時代にも重要な役割を果たした
出典:左図)https://nomurakakejiku.jp/column/post-18425.html
出典:左図&真中図)https://nomurakakejiku.jp/column/post-18425.html 右図)Wikipedia東大寺盧舎那仏像
【隋時代(581年~618年)に生まれた天台宗】
天台宗の起源と発展
- 創設者:天台宗は、智顗(ちぎ)によって創始された。智顗は天台山(浙江省天台県)に住み、そこで教えを広めた。
- 教義:天台宗は『法華経』を根本経典とし、五時八教や一心三観などの教義を発展させた。これにより、仏教の教えを体系的に整理し、多くの信徒を引き付けた。
- 本尊:特定の本尊はない。一般に多くの寺院では釈迦牟尼仏(法華経に説かれるお釈迦様)を本尊としている。他に阿弥陀如来や薬師如来を本尊とする寺院もある。
天台宗の影響
- 国家との関係:天台宗は隋の第2代皇帝煬帝(ようだい)の帰依を受け、国家の庇護のもとで発展した。智顗(ちぎ)は天台山に国清寺を建立し、天台宗の中心地とした。
- 文化的影響:天台宗は中国の仏教文化に大きな影響を与えた。特に、禅宗や華厳宗など他の仏教宗派にも影響を与え、その教義は広く受け入れられた。
日本への伝播
- 最澄の役割:日本では、平安時代に最澄(伝教大師)が唐に渡り、天台宗の教えを学んだ。帰国後、比叡山に延暦寺を建立し、日本における天台宗の基盤を築いた。
出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO18258790Z20C17A6AA2P00/
※堂内は外陣と中陣、内陣に分かれる天台仏堂特有の形式をとる。僧侶が祈りをささげ、本尊の秘仏、薬師如来を安置する宮殿(くうでん)が置かれた石畳の内陣は、中陣より約3メートル低い。つまり中陣にいる一般参拝者と同じ高さに、本尊がある設計になっている。
同寺総務部の礒村良定主事は「天台宗では人間はだれでも仏になることができる、と説いている。参拝者が見上げるのではなく、本尊と対等にすることでそれを表している」と話す。
天台宗は、中国仏教の中でも特に体系的で深遠な教義を持つ宗派として、歴史的に重要な位置を占めている。
◆聖徳太子の時代
・朝鮮半島との
⇒交渉が盛んであり、多くの使節を派遣し、また帰化人を受けれている。
⇒のみならず、シナ大陸に向かって直接に遣隋使が派遣された。
・相手の隋の開創者は文帝であるが、
⇒かれはシナの歴史においてもっとも国際的色彩の強かった隋唐文化の基礎をつくったのである。
注)文帝に次いで皇帝となった子の「煬帝(ようだい)」:男性だけでなく女性までも動員した大規模な土木工事、さらに高句麗遠征を強行したため民衆の反発を受けた。
各地には反乱が起き、官僚であった「李淵」が挙兵して隋を倒し、唐を建てた。隋はわずか二代、37年で滅びたが、その国家体制は唐に継承された。
李淵=初代皇帝高祖が建てた唐は、7世紀から10世紀初頭まで、長期にわたり中国を支配した。その支配が周辺諸地域にも及ぶ世界帝国となり、国際的な文化も発展。その礎を築いたのは、二代目皇帝の李世民=太宗。太宗は律令制の整備など内政を充実させ、また有能な家臣の話に耳を傾けた。安定した政治体制が整ったこの時代は「貞觀の治」と呼ばれている。
唐文化の特徴は、遊牧民文化をもとにした質実剛健な文化、そして漢文化を継承する南朝の華麗な文化が融合したことがあげられる。また、日本から遣唐使が派遣されたように、外国との交流が盛んになり、国際性豊かな文化が発展した。ササン朝ペルシアのイラン文化、ビザンツ帝国やイスラーム世界との接触、シルクロード交易も行われ、都の長安は国際都市としてのにぎわいを見せた。
出典:https://sekainorekisi.com/glossary/%E5%94%90/
【インドを発祥とする密教の中国への伝来】7世紀頃に中国に伝えられた。特に唐の時代に盛んになり、多くの寺院で信仰が広がった。代表的な寺院としては、長安(現在の西安市)にある青龍寺が挙げられる。この寺院は582年に創建され、711年に青龍寺と改名された。
青龍寺は、空海(第18次遣唐使:804年)が密教を学んだ場所として有名。空海はここで恵果法師から教えを受け、日本に密教を伝えた。
・密教が当時の唐では最先端の仏教と言われた理由
- 即身成仏の思想:密教では、修行を通じて現世で仏になることができるとされていた。この「即身成仏」の思想は、他の仏教宗派とは異なり、現実的で実践的な教えとして受けいれられた。
- 儀式と修行の魅力:密教は、曼荼羅や真言、印契などの儀式や修行法を重視した。これらの儀式は視覚的にも魅力的で、信者に強い印象を与えた。
- 現世利益:密教は、現世での利益(現世利益)を強調した。病気の治癒や災難の回避など、具体的な利益をもたらすと信じられていたため、多くの人々に支持された。
- 政治的支持:唐の皇帝や貴族たちが密教を支持したことも大きな要因。特に、皇帝が密教の儀式を通じで国家の安定や繁栄を祈願することが一般的であった。
これらの要因が重なり、密教は唐の時代に最先端の仏教として広まった。
上図)https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/19573(東寺:空海が表現した立体曼荼羅)
下図)https://toji.or.jp/mandala/(東寺の立体曼荼羅配置図)
尚、インドのグブタ朝(4世紀~6世紀)以降、仏教は徐々に衰退していき、特に、ヒンドゥー教が民衆に広く浸透し、仏教は都市部での支持を失い始めた。このため、仏教は新たな形態を模索し、密教として再編成された。(密教は7世紀頃にインドで誕生)
◆チベットでも、ソンツェンガンポ王(581年~649年)もまた国際的な人であった。
⇒かれは唐から文成公主を妃として迎え、またネパールからも妃を迎えたが、両妃とも仏教徒であった。
⇒この王は前にチベットには文字がなかったので、王は文字の字を習わせるために、トンミサンボータという人を十六人の留学生とともにインドに派遣した。
⇒かれは文字を習い、若干の仏典をもって帰国した。
⇒ここではじめてチベット文字がつくられたが、それはチベット語に即応したものであった。
⇒かれは八つの文法書を著した。
注)現在のチベット仏教の特徴
- 顕教と密教の併修:チベット仏教は、顕教(大乗仏教の教え)と密教(タントラ)の両方を重視する。これにより理論と実践の両面から仏教を学べ、修行することができる。
- ラマ制度:チベット仏教では、ラマ(師僧)を非常に重要視する。特に、ダライ・ラマやパンチェン・ラマなどの高位のラマは、宗教的指導者として尊敬されている。
- 輪廻転生の教え:チベット仏教では、輪廻転生の考え方が重要。人々は業(カルマ)によって次の生を決定されると信じられており、修行を通じて解脱を目指す。
- 曼荼羅と儀式:チベット仏教では、曼荼羅や儀式が重要な役割を果たす。これらの修行の一環として行われ、視覚的にも精神的にも深い意味を持っている。
これらの特徴が、チベット仏教を他の仏教と区別する要素となっている。
インドでは、紀元前2500年ごろ、北西部のインダス川流域に古代文明が興った。
「インダス文明」である。
その後、いくつもの国が興亡を繰り返し、古代インド社会を形成していく。
古代インド(紀元前1500年~紀元前1000年頃)では、「ヴァルナ」と呼ばれる、身分についての観念が広まっていました。
ヴァルナによって、人々の身分・階級は厳密に分けられました。
最上位は、複雑で厳密な祭式を執り行う司祭者「バラモン」。
その下に、王侯・武士。
続いて、農牧民や商人などの平民。
さらに、征服された人々からなる隷属(れいぞく)民(みん)。
最下位には、「不可触民(ふかしょくみん)」と呼ばれる人たち。
これが、後の「カースト制度」につながっていきます。
このような社会状況の中で、インドの人々の間に強く広まっていったのが、「輪廻(りんね)」の思想。
人は、生まれてから、病(やまい)の苦しみ、老いの苦しみを経て、死に至る。
死んだ後は、すぐにまたどこかで何かに生まれ変わり、同じ苦しみを味わう。
それを、過去から未来永劫まで、際限なく繰り返していかなければならない。
この輪廻から逃れることを「解脱(げだつ)」という。
解脱するには、出家して修行をし、悟りを開くことが必要だと考えられていた。
出典:https://www.nhk.or.jp/kokokoza/sekaishi/contents/resume/resume_0000000680.html?lib=on
出典:https://gigazine.net/news/20070405_sand_mandala/
■以下は「上座部仏教」
◆ミャンマーのアナウラーター王(1044年~1077年:在位)は
⇒ある修行僧によって仏教の正しい信仰に帰したというが、
⇒かれはモーン族の王のもとに使者を派遣して仏教の三蔵をくれるようにと頼んだ。
⇒しかし、この王が拒絶したので、
⇒アナウラーター王は軍隊を派遣して、国王と仏典と人びとを首都パガンにつれてきたという。
注)仏教の三蔵:仏教の経典を三つのカテゴリーに分類したものである。
- 経蔵(きょうぞう):釈迦の説法や教えを集めたもの。例えば、「阿弥陀経」や「法華経」などが含まれます。
- 律蔵(りつぞう):僧侶の戒律や規則をまとめたもの。僧団の生活や道徳に関する規定が記されています。
- 論蔵(ろんぞう):経蔵や律蔵の注釈や解釈を集めたもの。仏教哲学や思想に関する書物が含まれます。
これら三つの蔵を総称して「三蔵」と呼び、仏教の教えを体系的にまとめたものである。
出典:https://tripping.jp/asean/myanmar/bagan/81378 シュエジーゴン・パゴダ
◆カンボジアのジャヤヴァルマン七世(クメール王朝の国王:1181年~1220年在位)は、
⇒アンコール・トムの外壁を築き、国外にも領土を拡張したが、
⇒自分は熱心な仏教信者で、スリランカから伝統的保守的な仏教を移入して、
⇒寺院・僧院・病院などを建てた。
出典:https://www.tnkjapan.com/blog/2019/06/24/angkor_thom/ アンコール・トム寺院
◆◆普遍的宗教の採用支援を行ったこれらの帝王◆◆
◆宗教(仏教)の興隆を図る為に
①多数の寺院・僧院を建立した。
②希望者の出家を許し、僧尼を政治的経済的に保護した。
③僧院・寺院には土地を寄進した。
④経典や仏像を整備した。
こういう特徴は、どこの国でもこれらの帝王に共通である。
・アショーカ王の場合には
⇒さらに、釈尊(釈迦)にゆかりのある土地を巡拝し、多数のストゥーパを建設した。
・隋の文帝の場合には
⇒北周の武帝の破仏のあとを受けて、むしろ仏教復興というかたちをとって行われた。
⇒文帝が多数の舎利塔を建立したのは、アショーカ王が八万四千のストゥーパを建てたという伝統に触発されたのではないか、と論議されている。
◆これらの普遍的帝王の宗教上の教師
・アショーカ王にはウパグプタ、
・隋の文帝には天台大師智顗(ちぎ)や浄影(じょうよう)寺の慧遠(えいおん)がいた。
・チベットのソンツェンガンポ王の場合には、まだ仏教をはじめて導き入れたばかりであったために宗教上の名は伝えられていないが、
・チベット仏教を確立したチソンデツァン王(738年~786年在位)には大学者カマラシーラ(蓮華戒)がいた。
・聖徳太子の場合には高麗から来た僧恵慈(えじ)や百済からの僧慧聡(えそう)が師であった。
■商業資本家との相互関係(win・win)を築いたアショーカ王
◆象徴としての『古代ローマの通貨』がアショーカ王の時代の仏教遺跡から出土
・アウレウス(金貨)、デナリウス(銀貨)、セステルティウス(青銅貨)、ドゥボンディウス(青銅貨)、アス(銅貨)等。
・サーンチーのストゥーパ遺跡から出土。サーンチーはインドの中部のマディヤブラデーシュ州に位置し、アショーカ王が建てた仏教遺跡の一つ。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC
・商業資本家たちが果たした重要な役割
⇒特に海外との交易が活発に行われた。
⇒アショーカ王の時代、インドはすでに広範な交易ネットワークを持っており、これはアラビア半島、東アフリカ、東南アジア、さらに地中海地域までが含まれていた。
⇒商業資本家たちは、これらの地域との交易を通じて、香辛料、宝石、織物、象牙などの高価な商品を輸出し、同時に金、銀、ワイン、オリーブ油などを輸入していた。
・交易を奨励したアショーカ王の時代の主な政策と交易モデルの原型構築
⇒治世下でインドの経済は大いに繁栄した。
⇒政策は交易路んお安全を確保し、商人たちが安心して活動できる環境を整えることに重点を置いた。
⇒また、アショーカ王の仏教への改宗とその教えの広まりも、交易ネットワークを通じて他の地域に影響を与えた。
◆貿易風を利用した海上交易
・マウリヤ朝(アショーカ王)の衰退後のサータヴァーハナ朝
⇒デカン高原からインド洋沿岸までを支配する大国へと成長。
出典:https://gusyakensekaishitankyu.com/?p=8302