出典:https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=196
私たちがよくお唱えする「南無阿弥陀仏」には、天台宗の教えがすべて凝縮されています。阿弥陀の三文字に次の意味が込められています。
阿:原因があって結果が生じるという縁起の教え
弥:すべてのものは関わり合い融合して存在するという諸法実相の教え
陀:すべてのものが仏さまになる可能性をもっているという悉有仏性の教え
縁起の教えで
「原因が苦しみを生じるからこそ何事にも執着せず」、
諸法実相の教えで「全てが自分に関わるからこそ他者を思いやり」、
悉有仏性の教えで「私たちも仏さまになれるからこそ仏さまの境地にいたることができる」と思うことができるのです。
このような気持ちで「南無阿弥陀仏」と唱えることが大切です。
より詳しい内容を記します。
私たちが、「南無阿弥陀仏」とお唱えしたならば、仏の悟り、諸法実相、一切衆生悉有仏性を伝えられないことはありません。
「南無阿弥陀仏」と唱える時には、『観心略要集』の「仏の名を念ずるとは…謂く阿弥陀の三字に於いて、空仮中の三諦を観ずべきなり。彼の阿とは即ち空、弥とは即ち仮、陀とは即ち中なり。」と、「南無阿弥陀仏」と唱えながら一心三観するのです。
三観とは、中論の「因縁所生の法は、我れ説きて即ちこれ空、また名づけて仮名なり、またこれ中道の義とす」であり、「縁起・無自性・空」と観想するのです。
一心三観の空観は一切の存在を、
「縁起、因縁和合して仮和合している存在は、→無自性であり、実体はなく、→空である」と、心を無執着の世界へ、空へと運ぶことです。
一心三観の仮観は、
この現実を見たなら、縁起、因縁和合して仮和合している存在あると認識するのが仮観です。
菩薩は「諸法は、因縁和合して仮和合している存在は→無自性であり、実体はなく、→空である。(空に留まることなく)空は→無自性であり、実体はなく→諸法は縁起、因縁和合して仮和合している。」と、仮(有)から→空(無)へ、空(無)から→仮(有)へと進まなければなりません。それ故、因縁和合なる世界なればこそ、心を縁の社会にかけて、衆生無辺誓願度となるのです。
一心三観の中観は、
一切の存在や、有無を分別する、迷いを離れた、本来の、自性清浄の心は、凡夫、聖人に隔て無く、生死因果の世界に改まらず、三世に常住にして、有無、二辺(仮、空)に左右されず、同時に、一体無二にして、二辺同時に矛盾なく、こだわらない、動ぜられない、涅槃寂静なる世界に、心を運ばせることです。
更に、「往生要集」の第四章 「正修念仏」の五念門は、
一、礼拝門――阿弥陀仏を礼拝する。
二、讃嘆門――阿弥陀仏を讃嘆ずる。
三、作願門――菩提心(悟りを求める心)を起こす。
四、観察門――阿弥陀の姿を観想する。
五、廻向門――善根を一切衆生と自らのさとりのために振り向ける。
であり、恵心僧都の念仏思想的根拠、作願門には、「およそ浄土に往生せんと欲せば、要ず発菩提心を源となす…菩提心とは、仏にならんと願う心であり、それは、…上は菩提を求め、下は衆生を求う心、四弘誓願の心を保持し行ずるのである」と。そこで、四弘誓願の心で「南無阿弥陀仏」と唱えるのです。
衆生無辺誓願度 ― 縁因仏性 ― 応身の菩提の因 ― (仮)
煩悩無辺誓願断 ― 正因仏性 ― 法身の菩提の因 ― (中)
法門無尽誓願知 ― 了因仏性 ― 報身の菩提の因 ― (空)
無上菩提誓願証 ― 仏果菩提を願求する (心)
仏性の一心三観は
仏性開顕の三原則、三因仏性の正因仏性(中)、縁因仏性(仮)、了因仏性(空)で「南無阿弥陀仏」と唱えます。
正因仏性は、私たちは、「幸せに」なれる存在であると信じ、確信することであり、
了因仏性とは、それぞれの「努力」であり、
縁因仏性とは、人々の励ましです。
この、三因が一体となり、「幸せに」(悟り)向かって進み入るのであります。
本覚の一心三観(修禅寺決)とは、
「心と佛と及び衆生この三、無差別」が「中・空・仮」である。「南無阿弥陀仏」をとなえるとともに、心(己心・中)と佛(仏のこころ・世界、宇宙・空)衆生(人々の心・社会・仮)とは一体無二であると観想します。
臨終の一心三観は
「南無妙法蓮華経」(修禅寺決)です。
<参考情報>
■大乗仏教の特徴
大乗仏教は、初期仏教(上座部仏教)とは異なり、より広範な救済を目指す教えとして発展した。
- 普遍的な救済:大乗仏教は、すべての生きとし生けるものの救済を目指します。出家者だけでなく、在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げています。
- 菩薩の道:菩薩(Bodhisattva)という概念が重要で、菩薩は自らの悟りを求めるだけでなく、他者の救済をも目指します。菩薩は修行を通じて他者を助けることを重視します。
- 空(くう)の教え:万物が本質的には無常であり、独立した永続的な自己を持たないことを指します。この「空」の概念は、大乗仏教の中心的な教義の一つです。
- 大乗経典:大乗仏教には独自の経典があり、代表的なものには『般若経』、『法華経』、『浄土三部経』、『華厳経』などがあります。
- 如来蔵思想:すべての衆生が仏性を持ち、修行を通じて仏となる可能性があるとする教えです。
- 地域的な広がり(北伝仏教):大乗仏教は、インド、中央アジア、中国、朝鮮、日本などの国々で広く信仰されている。
日本の仏教の多くの宗派も大乗仏教に分類されており、戒律は宗派ごとにさまざまに解釈。

出典:https://president.jp/articles/-/42220?page=6
【隋時代(581年~618年)に生まれた天台宗】

天台宗の起源と発展
- 創設者:天台宗は、智顗(ちぎ:538年~598年))によって創始された。智顗は天台山(浙江省天台県)に住み、そこで教えを広めた。
- 教義:天台宗は『法華経』を根本経典とし、五時八教や一心三観などの教義を発展させた。これにより、仏教の教えを体系的に整理し、多くの信徒を引き付けた。
- 本尊:特定の本尊はない。一般に多くの寺院では釈迦牟尼仏(法華経に説かれるお釈迦様)を本尊としている。他に阿弥陀如来や薬師如来を本尊とする寺院もある。
天台宗の影響
- 国家との関係:天台宗は隋の第2代皇帝煬帝(ようだい)の帰依を受け、国家の庇護のもとで発展した。智顗(ちぎ)は天台山に国清寺を建立し、天台宗の中心地とした。
- 文化的影響:天台宗は中国の仏教文化に大きな影響を与えた。特に、禅宗や華厳宗など他の仏教宗派にも影響を与え、その教義は広く受け入れられた。
<参考情報>
■天台智顎(ちぎ:538年~598年)
・真実の仏教を求めて – 天台宗を開く
天台大師は今から1400余年前に霊山天台山にこもられ『法華経』の精神と龍樹の教学に基づき 教理と実践の二門を兼備した総合的な仏教を確立され、新しい中国独自の仏教、真実の仏教である天台宗を開かれました。
隋晋王広(煬帝)の尊崇篤く、隋代第一の学匠として「智者大師」の号を賜わり、 わが国では高祖天台智者大師とお呼びし、篤く尊崇され、伝教大師(最澄)により伝えられた。
・天台三大部
48歳の時、陳の皇帝に請われて天台山を下山、 金陵の名刹光宅寺で『法華経文句』を開講されました。 その後、陳は隋により滅ぼされ、首都金陵も戦場となります。 大師は戦乱を避け故郷の荊州に帰郷されました。 ここで玉泉寺を建立され、『法華玄義』と『摩訶止観』を 講説されました。これらは天台宗の聖典として弟子の章安灌頂により筆録され、天台三大部と称されています。
出典:http://www.shiga-miidera.or.jp/doctrine/tendai/index.htm 三井寺
日本への伝播
- 最澄の役割:日本では、平安時代に最澄(伝教大師:767年~822年)が唐に渡り、天台宗の教えを学んだ。帰国後、比叡山に延暦寺を建立し、日本における天台宗の基盤を築いた。

出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO18258790Z20C17A6AA2P00/
※堂内は外陣と中陣、内陣に分かれる天台仏堂特有の形式をとる。僧侶が祈りをささげ、本尊の秘仏、薬師如来を安置する宮殿(くうでん)が置かれた石畳の内陣は、中陣より約3メートル低い。つまり中陣にいる一般参拝者と同じ高さに、本尊がある設計になっている。
同寺総務部の礒村良定主事は「天台宗では人間はだれでも仏になることができる、と説いている。参拝者が見上げるのではなく、本尊と対等にすることでそれを表している」と話す。
天台宗は、中国仏教の中でも特に体系的で深遠な教義を持つ宗派として、歴史的に重要な位置を占めている。


<参考情報>
◆「法華経」
・「維摩経」とほぼ同時代の第一期大乗経典の成立期(1~2世紀)に成ったと推定されている。
⇒この経典は、サンスクリット語本・漢訳本・チベット語訳本のほか、さまざまな国語に翻訳され、
⇒仏教を信仰するアジア全域に流布されているが、とくにシナと日本では、絶大な尊崇を得た。
⇒シナでは鳩摩羅什の漢訳「妙法蓮華経」が著名だが、鳩摩羅什ととも経典翻訳に加わった道生(どうしょう)は、注釈書「妙法蓮華経疏」を著した。光宅寺法雲は道生の解釈をうけついで、「法華経義記」をしるしたが、
⇒隋代の天台智顗(ちぎ:538年~598年)にいたると、「法華経」を根幹として壮大な理論体系を作り上げられた。
⇒この天台法華哲学が最澄(767年~822年)によって日本にもたらされ、比叡山に日本天台宗が開かれた。
⇒叡山は日本における学問・真理探究の聖地となり、「法華経」を中心に代表的な仏教の諸思想を結集し、集約して、仏教哲学としていよいよ特性を発揮するようになった。
⇒これを天台本覚(ほんがく)思想と呼び、
⇒平安時代の宗教・思想のみならず、文学・絵画等、文化の各ジャンルに深い影響を及ぼした。
⇒鎌倉新仏教の祖師たちも、みな叡山で天台法華思想、本覚思想を学んだが、
⇒とりわけ日蓮と道元は「法華経」に強い関心をしめした。
⇒日蓮(1222年~1282年)は「法華経」の中の実践精神を重んじ、
⇒だび重なる弾圧と迫害を通じてしだいにその理想を実現するためには、
⇒世俗の政権との抗争をあえて辞せず、理想的世界の建設に力を注ぐようになる。
⇒日蓮にあっては「法華経」は世界観・人間観確立のための指針であるばかりなく、
⇒政治理念・政治的実践の方法論としても受けとめられるようになったといえよう。
⇒これは、後世の日蓮主義者にいたるまで見られる特徴である。
・一方、道元(1200年~1253年)は大著「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」を著したが、
⇒そこには経典としては「法華経」がもっとも多く引用されており、
⇒あたかも「法華経」の一大注釈書、ないしは法華理論の解説とも読みうる場合もある。
注)「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」:禅僧である道元が執筆した仏教思想書で、日本仏教史上で最高峰に位置し、難解さという点でも注目されている。
道元(曹洞宗の開祖)は、真理を正しく伝えたいという思いから、日本語かつ仮名で著述している。当時の仏教者の主著は漢文で書かれていた中で、異例の取組であった。
公安(禅問答)を中心に、禅の教えを詳細に説いており、悟りについて考える「現成公安」の巻
- 「現成」の意味:
- 「現成」は「悟りの実現」を意味する。
- つまり、悟りとは目の前に実現されていることを指す。
- 「公案」の意味:
- 「公案」は元々は中国の公文書を指す言葉。
- 禅宗では、「一人ひとりに与えられた禅の課題」として使われる。
- 修行者はこの課題を通じて悟りに近づこうとする。
- 「現成公案」の内容:
- この巻では、迷いや悟り、修行、生と死、仏と衆生など、すべての存在について説かれている。
- 仏法は相対的な区別から離れたものであり、悟りは自己と自然が一体であることを理解すること。
- 要約:
- 「現成公案」は、悟りを実現するための課題であり、自己と世界を理解するための鍵となる内容。
・法華経の経文では
⇒「常に座禅を好んで閏(しず)かなるところにあって、その心を修摂(しゅしょう)せよ」と一般に読み下されており、諸注釈書もそのように解釈している。
⇒ところが「法華義疏」では
⇒「常に座禅を好む小乗の禅師に親近するな。・・・その意味は、間違った(顚倒した)分別の心があるから、世の中を捨てて、かの山間に入り、常に座禅を好む」ことは、親近してはならない境に入れるべきである」としるされている。
⇒聖徳太子(574年~622年)は、「聖」と「俗」を区別する考えはなく、
⇒世にあって仏教の理想の実現する道をくりかえし説いている。
⇒ここに聖徳太子の仏教の受容と普及における社会への積極的な姿勢を見ることができる。
■ 聖徳太子が行った経典の解説書:法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)
・「法華経」は現実生活を肯定し、意義づける経典であると考えられていた。
⇒この経典を選んだということは、
⇒世俗生活を肯定する聖徳太子の基本的立場からは当然の帰結であったのである
■法華経とは、アジアの至る所で尊崇されている経典
⇒南アジアは伝統的保守的仏教の国、いわゆる小乗仏教(上座部仏教)の国であるから違うが、
⇒その他のネパール、チベット、蒙古、シナ、朝鮮、日本という国々では「法華経」は尊崇されている。
⇒聖徳太子から始まり、最澄、日蓮、今日のいわゆる新興宗教とつながっている。
注)「法華経」
- 成立と特徴:
- 大乗仏教の初期に成立した経典であり、法華経絶対主義、法華経至上主義が貫かれている。
- 28章から成り立っており、あらゆる仏教のエッセンスが凝縮されています。
- 名前の意味:
- 梵語での原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』で、「正しい・法・白蓮・経」という意味。
- 「白蓮華のように最も優れた正しい教え」とも訳される。
- 内容:
- 法華経は、人々が平等に成仏できるという新しい仏教思想を説いている。
- 菩薩(悟りへの修行者)や如来(悟りを得た人)の存在が描かれており、密教にも影響を与えた。
・これは何を頼りしているかというと
⇒ただひたすら「南無妙法蓮華経」を唱え、ここに日蓮の生命があると考えている。
⇒このように、「法華経」は現在に生きている教典である。
・聖徳太子の「法華経」に対する捉え方
⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、
⇒「治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある。
⇒一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない。
⇒どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので、
⇒山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない。
⇒聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである。
⇒こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。
■「法華経」の精神はここにあるのだと思って(行基)
⇒「法華経をわが得しことは薪伐(たぎりこり)菜摘み水汲み仕えてぞ得し」という歌を詠んだが、
⇒実は「法華経」の中にこういうエピソードがある。
⇒過去世に釈尊が行者としてある仙人のもとに仕えて、
⇒菜を摘んできたり、水を運んだり、薪を伐って運んだりして奉仕したという。
⇒すると行基は人に対して奉仕するという、ここに「法華経」の神髄があると思ったのである。
⇒本当に行基菩薩が作った歌かどうかわからないが、昔からそう伝えられている。
⇒日蓮も、ああ、ここに「法華経」の精神が有ると感激した。これが現代にいたるまでずっと生きているのである。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記
注)行基菩薩(668年~749年)の社会事業例
- 交通整備と橋の建設:
- 行基は弟子たちを率いて、交通の難所に橋を架け、堤を築き、道路を整備した。これにより交通の便を向上させ、人々の生活を助け、地域社会に大きな影響を与えました。
- 水利施設の整備:
- 行基はため池や淡を造り、農耕灌漑施設を整備した。
- 宿泊収容施設「布施屋」の建設:
- 使役夫(税として納められていた諸国の産物を都へ運ぶ労働者)が路傍で餓死する問題を解決するために、「布施屋」という宿泊施設を建てた。
- 全国津々浦々に寺院を建立:
- 行基は機内だけでなく、全国に多くの寺を建てた。彼の布教活動は広範で、人々から「行基菩薩」と呼ばれた。
- 大仏造営と大僧正の位授与:
- 東大寺の大仏造営に協力し、大仏造営費の勧進に起用された。その功績により、日本最初の大僧正の位を授けられた。
当時の国家仏教の規定により、寺や僧の行動を制限されており、民衆への直接的な仏教布教は禁止され、行基の社会事業は一部で禁止されていたこともあった。
朝廷からは「小僧行基」と名指しで布教活動を禁じられたこともあったが、彼はめげずに活動を続けた。行基の指導による墾田開発や社会事業の進展は、政府(国家権力)が恐れていた「反政府」的な意図を持っているわけでなく、地方豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったため、731年(天平3年)に禁圧が緩められた。
行基は法相宗に属し、法相宗(唯識宗)の開祖は、慈恩大師。彼は玄奘三蔵の弟子であり、玄奘三蔵が翻訳に注力した唯識の経典を託されたことから、その注釈書を著して法相宗を開いた。
尚、日本の法相宗の総本山は奈良県奈良市にある薬師寺

出典:https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111c10.htm
<参考情報>
■縁起とは
・名付けられた「兄」と「弟」の関係は
⇒お互いに相手がいなければ成立しない
⇒それ自体としては成立しない
⇒つまり自性を持たない=空(相依性の否定)
⇒つまり本体がないと言える
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性=空

・自性(もし「若者:名付けられた」という)があって
⇒変わらない(本体がある)としたら

■自性
⇒固定的に永遠に存在する本体


■空の教え
・すべての執われを離れる
⇒空の教えが仏教として真実(仏説)であることを証明することであった
・龍樹がした証明
⇒釈尊が説いた「縁起」と「中道」から明らかにしていく
◆縁起=空=中道
・縁起は
⇒何かを因として
⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること
⇒そういうものを「因施設」と呼んでいる
・空
⇒名付けられた諸々が「空」
・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である


・自性(もし「若者:名付けられた」という)があって
⇒変わらない(本体がある)
■縁起とは
・名付けられた「兄」と「弟」の関係は
⇒お互いに相手がいなければ成立しない
⇒それ自体としては成立しない
⇒つまり自性を持たない=空(相依性の否定)
⇒つまり本体がないと言える
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性=空


【参考情報:親鸞聖人の有名な言葉/Microsoft Copilotからの回答】
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という一節があります。これは『歎異抄』第三条に記されており、悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象であるという「悪人正機説」を示しています。
この言葉は、「善人でさえ往生できるのだから、まして悪人はなおさら救われる」という意味ですが、単純に悪人が優遇されるということではありません。むしろ、自力で善を積もうとする者は阿弥陀仏の本願を疑う心が生じやすく、逆に自らの罪深さを自覚し、他力にすがる者こそが救われるという考え方です。
この思想は、親鸞聖人が比叡山での厳しい修行を経て、法然上人の専修念仏に出会い、阿弥陀仏の本願にすべてを委ねることこそが救いであると確信したことに由来します。

■善・悪を超えた悟りの境地
・相依存の否定
・継時的な因果関係
⇒無分別=言葉(名付け)からの開放(執着を離れる)


↓




・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である
⇒無自性=空=中道



■釈尊の悟り=中道
・両極を排する中道
⇒「有」と「無」のどちらにも実体を見ない
⇒「空の教え」こそが
⇒釈尊の真意である中道
◆縁起による「空の教え」=中道における「空の教え」
・縁起=中道


■龍樹が重要視した原始経典の一説
・中道によって法を説くのである


・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である
⇒無自性=空=中道

■空が根底にあるので
・釈尊は中道を説いた


■釈尊の正式な後継者としての確立
・原始経典の真髄から出発
⇒中道

■大乗仏教 vs 上座部仏教の論争を超える
・釈尊の教えに根ざした龍樹の空観(=中道)

■龍樹の著作




■大乗仏教の「空に教え」
・釈尊の真意であることを明らかにした
⇒「空の教え」を源に
⇒唯識、天台、華厳等の仏教思想が生まれた
・分別を超える
⇒無分別

■昆虫とそれ以外の相互依存関係自体が成立しない
・無自性=空であるから




↓

■大乗仏教において慈悲が登場する根拠
・「善」「悪」の両方を包含していくことができる
⇒善人・悪人を救う事ができる悟りの境地
⇒空を根底にしているから
⇒慈悲が可能になる

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~
<参考情報>
概念(戯論)からの解放
また空の立場からは、ものごとは役割に応じて名前が変わるので、いま仮に「空」ということばで「ものごとは空である、すなわち固有の本質を持たない」と表現しているが、「空」という表現そのものが究極(=勝義)であるわけでもない、とも言います。
つまり、本来は言語表現されえない、いいかえれば、概念によって間接的に指し示すことはできても、「空であること」は直接に体得されることが期待されるということです。
とはいえ、ブッダの悟りであるその勝義的な真理(第一義諦)が人々に理解されるためには、「空」などの世間の言語表現が必要不可欠で、それを世俗真理(世俗諦)とも呼びました。
もとより、事物に固有の本質はないが、そこに固有の本質があるかのような錯覚はある。それが錯覚にすぎないこと気づかせるために、「空」という否定的な響きのある言葉が選びとられたとナーガールジュナは言います。
ただし、空が正しく理解されるというのは、錯覚を錯覚であると気づくこと、それによって煩悩の根源に巣くう概念化(戯論)という心のはたらきから解放されることを意味しています。
出典:サブタイトル/龍樹(ナーガールジュナ)~大乗仏教の基盤を整えた空観(=中道)/大乗仏教徒が安心して修行できる根拠をザックリ知る~中項目:■空とは何でしょう? ―中観派(ちゅうがんは)の教えを学ぶ/第16回 愛宕薬師フォーラム(東京大学教授 斎藤 明 先生)
<参考情報>
■時間概念が否定
因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる。
まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。
時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋している。ところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。
過去や未来がたとえ無であったとしても、その名前や概念が成立していること自体が重要であり、
概念や名前、即ち「仮名」があることによって「現在」も把握できる、ということである。
しかもそのような「仮名」という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた「現在」だから、結局、その「現在」も空虚である、という論証の仕方である。
同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである。
つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである。
これが龍樹の「戯論」という語の背後に隠れている「仮名」の積極的意味であると思われる。
つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故。「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである。
出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学
<参考情報>
例:空観思想(=中道:龍樹/ナーガールジュナ)を基盤にして
『天台思想』





出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
<参考情報:Google chrome AI回答>
三諦(さんだい)
天台宗で説かれる「空諦(くうたい)」、「仮諦(けたい)」、「中諦(ちゅうたい)」の三つの真理を指します。
- 空諦::一切のものは実体がない、空であるという真理です。
- 仮諦::一切のものは、因縁によって仮に存在しているという真理です。
- 中諦::空でもなく、仮(有)でもない、空と仮を共に受け入れる中道の実相を示す真理です。
天台宗では、これらの三つの真理はそれぞれ別々に存在するのではなく、互いに融け合い、一念の中に全てが顕現している「円融三諦(えんゆうさんだい)」として説かれます。
<参考情報>




■同じパターンが繰り返される系とは
<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>
・あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。
⇒つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。
















<参考情報>

仏教の悟りの要件の一つに、『重々帝網』という言葉があります。『インドラの網』、『重々無尽』、『事事無碍』ともいわれます。
これは帝釈天の宮殿を覆う網の結び目に宝玉が付いていて、全体を照らす、同時に全体は個々の宝玉の中に反映されている、部分は全体を表わし,全体は部分に集約されています。すなわち相互依存性の理解が大切という教えです。
出典:https://www.health-research.or.jp/library/pdf/forum24/fo24_selector01.pdf
■唯識所変のIndra’s Net

出典:https://hironobu-matsushita.com/%E5%94%AF%E8%AD%98%E6%89%80%E5%A4%89%E3%81%AEindras-net/


■相即と相入





■反対の視点


出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
<参考情報>

出典:左図&真中図)https://nomurakakejiku.jp/column/post-18425.html 右図)Wikipedia東大寺盧舎那仏像

出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44138660U9A420C1000000/