聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記

■一定の方針に従って、独自の見識にもとづいて選び講義した

世俗生活を肯定する立場で選定した三経

三つの経典の意義を解説した書物で、日本風漢文で書かれているので、日本人が書いたもに違いない。

おそらく今残っている日本の本の中でいちばん古いものである。

日本の古典というと「古事記」とか「日本書記」をいうが、まとめられたのは奈良時代になってからである。

聖徳太子が書いた「三経義疏」はそれ以前のもであるから、非常に古く、日本最古の古典である。

注)義疏とは:伝統的な中国文化において、経典の本文(または注釈を含む)の内容を詳細に解説した書物を指す。「義」は意義を示し、「疏」は疏通の意味。経義を疏通することを目的としている。

 尚、「疏通」は、直訳すると「通じること」を意味する。一般的には、コミュニケーションや理解が円滑に行われることを指す。 例えば、人々が意見を交換し、理解し合うプロセスは疏通の一例。

・三つの経典の解説書

①勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏(ぎしよ)

維摩経(ゆいまぎょう)義疏(ぎしよ)

③法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)

■勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏(ぎしよ)

・如来蔵:tathāgata-garbha:タターガタ・ガルバ

⇒聖徳太子は人間の現実を成立せしめる根底として「勝鬘経(しょうまんぎょう)」の説く「如来蔵」の概念を採用し想定していた。

如来蔵は如来の母胎という意味である。

⇒生きとして生けるものは、いつかは如来すなわち仏となりうるものであるが、

⇒しかし煩悩の汚れにまつわられていて、仏となりうる本性が現れていない。

⇒だが仏となりうる可能性を否定することはできない。

汚れにまつわられている状態のうちにある真実そのもの<在纒位(ざいでんい)の法身(ほつしん)>を「如来蔵」と呼ぶ

⇒これは「勝鬘経(しょうまんぎょう)」その他の経典に説くところであるが、

聖徳太子は、この概念を自分の思想の根幹にすえたのである

注)勝鬘経(しょうまんぎょう):仏教における中期大乗仏教の経典であり、勝鬘とは国王の妃の名である勝鬘夫人という在家の女性信者が仏教の教えを説くのを釈尊が横で聞いて、「その通りだ、その通りだ」と言って承認されたという筋書きである。

一乗真実と如来蔵の法身が説かれている。

これも仏典として、世界の宗教史上においても珍しいことであり、在家の女性が教えを説いたものが経典として伝えられるというこは、歴史的事実であったかどうかわからないにしても驚くべきである。

この概念が述べられている一節を原文の漢文の書き下し

⇒生死は即ち是れ顚倒(てんとう)なり、如来蔵即ち是れ真実なり。

⇒今ま一切衆生に皆な真実の性有(あ)るを明かす。

⇒もしこの性が無くんば、即ち一化便(すなわ)ち尽きて草木と殊ならず。

⇒この性が有るに由(よ)るが故に、相続し断ぜずして終(つい)に大明を得(とく)す。

⇒故に生死は如来蔵に依(よ)ると云う。

⇒この中の如来蔵は、

もし理を正因と為(な)さば、皆な理を如来蔵と為し、

若(も)し神明を正因と為(な)さば、皆な当(来)の果を如来蔵と為す。

上記を現代語に直す

⇒「生死」というのは、真実を不真実と見る逆さまの見解たる顚倒(転倒)であり、

⇒「如来蔵」というのは、まさに真実そのものである。

⇒いまここでは、すべての生けるものたちはみな真実という本性をもっていることを明らかにしている。

⇒もしも人びとにこのような本性がなかったならば、

⇒人間としての迷いの生存がひとたび尽きてしまうと、草木となんら異なるところがないものになる。

⇒このような本性があるからこそ、それがずっとつづいて、ついには最高のさとりを得ることができるのである。

⇒だから「生死は如来蔵に依る」というのである。

⇒このうちの「如来蔵」というのは

もしも普遍的な真理である道理そのものをさとりの正しい原因とするならば、

すべてその道理自体が如来蔵であり、

もしも人びとの心をさとりの正しい原因とするならば、

その心によって報われた結果が如来蔵である。

・如来蔵の本体は仏そのものである。

⇒大乗仏教一般の見解によると、仏には三つの身体がある。

①法身(ほつしん:仏そのもの)。これはすがたや形をもたず、不可説である。

②報身(ほうじん:仏としての果報、すなわちあらゆる美徳を享受する身体)。これは円満な相好(そうごう)を具有する。

③応身(おうじん)または化身(けしん)。衆生を導くために仮にすがたを現した仏の身体。

⇒法身はいかなるはたらきをも起こすことなく、不可説であり、静止していて、仏の応身または化身が衆生を救うというはたらきをするのである。

法身(ほつしん:仏そのもの)について、聖徳太子は次のようにいう

⇒法身そのものは生ずることはないが、しかしただ衆生を導こうと欲するがゆえに、やはり生を受けるすがたを現ずる。(勝鬘経義疏)

法身そのものがはたらきを起こすのである

根源的なものは静止しているのではなくて、流動的なのである。

<参考:般若心経の『色即是空 空即是色』の概念のイメージ化:真空の揺らぎ

玄奘三蔵(602年~664年)が漢訳した「般若心経」は大乗仏教の教理を短い一巻に凝縮した。

鳩摩羅什(くまらじゅう:344年~413年)の旧訳も有る。他に「妙法蓮華経」や「維摩経」の漢訳もあり、特に「妙法蓮華経」は日本の宗派に学ばれ、鎌倉仏教の基礎になった。

 尚、聖徳太子の生きた時代は574年~622年。

出典:https://studiogooda.hatenablog.com/entry/20170719/1500427832 18 不確定性原理 【宇宙とは】宇宙との対話

・聖徳太子は、実践の目標についていう

⇒さとりを得る因としての行いは種々に異なっているけれども、

⇒体得する結果は「法身」というただ一つの結果である。(勝鬘経義疏)

これも仏教一般の見解とは異なっている。

・大乗仏教一般によると、修行の結果到達するものは仏の報身である。

⇒報身としては修行の果報として得られる身体で、あらゆる美徳をそなえていて、法身とは異なっている。

⇒法身はすがたを離れたものである。

・太子によると

⇒仏道の実践はわれわれを究極的なものに到達せしめるものである。

◆仏教でもっとも尊重する「三宝(さんぽう)」に関する聖徳太子の独自の見解

三宝とは

仏(さとった人)と法(真理)と僧(サンガ。信徒のつどい)という三つのものをいうのであるが、

⇒従前の多くの仏教者の見解によると

これら三つは別々の観念であり、別々に帰依尊崇するものであった

別体三宝(梯橙(だいとう)三宝)・・・非究竟・・・事(現象面のすがた)

梯橙三宝」とは、三宝がわれわれを導く梯子(はしご)としての意義をもっているというものである。

ところが聖徳太子はそれらを一体であると主張し、「一体三宝」ということを説いた

一体三宝(同体三宝)・・・最極・・・理(本性のことわり)

同体三宝」とは、三宝が究極においては同体であるという。

仏教全体の体系化の試み

・仏教内におけるもろもろの異説を綜合して体系化するために、

⇒シナの南朝では涅槃宗によって三教五時説が唱えられ、一般に影響を及ぼしていた。

⇒これがのちに天台大師により五時八教の説として再組織され発展されるための素材となったのである。

⇒聖徳太子における五時説は涅槃宗のその説を踏襲したものである。

涅槃宗の三教五時の説はつぎごとくである。

頓(とん)教  華厳(けごん)

 頓教とは、すぐにさとりを開くことを説く教え

漸(ぜん)教  阿含(あごん)  般若(はんにゃ)  維摩(ゆいま)  法華  涅槃  

 頓教とは、漸次に高い境地に達することを説く教え

 五つの主な経典が五つの時期に説かれたというのである

不定(ふじょう)教  勝鬘(しょうまん)等

 不定教とは、上記の両者のうちのどちらも定まっていなもの

上記の体系において

「勝鬘経」「維摩経」「法華経」は

⇒すでに重要な地位を占めていた。

⇒なた上記の三つの経典はすでにシナの学者において盛んに購読されていた。

⇒だから聖徳太子が上記の三つの経典をとり上げたことは、決して突飛ではないのであるが、

⇒とくにっこの三つのみを選んだことには、やはり理由がなければならない。

「勝鬘経」は、国王の妃である勝鬘夫人によって説かれたものであるという立て前であり、

「維摩経」在俗の資産家維摩居士が主人公である。

⇒また「法華経」現実生活を肯定し、意義づける経典であると考えられていた。

⇒だから、これら三つの経典を選んだということは、

世俗生活を肯定する聖徳太子の基本的立場からは当然の帰結であったのである

維摩経(ゆいまぎょう)義疏(ぎしよ)

維摩(ゆいまぎょう):Vimala-kirti:ビィラマラ・キールティという長者(富貴の人)を主題とした経典である。

⇒ビィマラとは「穢れがない」、キールティとは「誉れ」という意味で、

⇒「穢れがなき誉れ」という意味で、その音を写して維摩という

⇒「維摩経」のテーマはこうである。

⇒釈尊の弟子たちが維摩のところに行くと、いろいろ質問されてやっけられる。

⇒そして自分の至らぬことを悟らされる。

⇒最後に維摩が本当の教えを説く。

⇒そして、最後のぎりぎりの境地まで達すると、

黙然無言(もくねんむごん)であったというのである

⇒文殊菩薩は最高の真理というのは言葉では説かれないもので、「文字もなく説もなし」という。

⇒そして維摩さん、あなたはどう考えですかといって促すと、

⇒維摩はただじっと座って黙然無言であった。

文殊は「言葉にはいえない」ということを言葉に出していってしました

ところが維摩は身をもって体現している。無言の行を行っている。

⇒「話してはいけない」といったとすると、これはも無言を破ってしまったことになる。

⇒維摩はこの無言を実践して、

⇒絶対の真理というものは概念化を超えたところにあるもので

対立の彼方にあるということを表現しているのである。

・対立を超えたということになると

⇒世俗の世界の外に宗教があるとすると、もうそこに対立を認めたことになる。

⇒世俗と宗教、俗なるものと聖なるものと対することになる。

対立していることにおいて、宗教的な聖なるものは絶体ではない

⇒もしも本当の絶対であるならばすべてを含んだものでなければならない。

⇒すると宗教の真理の境地というものは世俗の彼方にあるものではなく、

⇒われわれが毎日起きて顔を洗い、ご飯をいただき、茶を喫し、歩いて出かける、

この平凡な日常生活の中に偉大な真理があるわけで、

それを超えたところに宗教の境地があると思ってはならない

だから、維摩居士は世俗の長者なのである。出家した僧ではない

・普通であると、僧が信者に向かって教えを説くのであるが、

⇒「維摩経」のテーマはまったく逆である。

⇒その筋書は、世俗人である維摩が、

⇒出家者である僧たちに教えを説いて聞かせるということである。

これは世俗の宗教、在家仏教の主張である

⇒聖徳太子は、ここに思いを馳せた。

⇒聖徳太子の生涯を見ると、太子は出家した僧ではなく、あくまでも世俗の政治家として天皇を補佐したのである。

⇒その理論的根拠がここにある。

・十七条憲法における維摩経義疏との関係

⇒「維摩経義疏」のなかの「仏国品」のに、

⇒「万善これ浄土の因なることを明かす中に凡(およ)そ十七事あり」(万善がすべてさとりにいたる原因であることを明かすなかに十七の善行がる)とある一説に姉崎正治氏は注目し、

⇒この十七事と十七条の関係を強調して、聖徳太子が我が国に仏教の思想をひろめようとした意図の所産として、十七条を考えている。

「維摩経」

・(一説によると)紀元前二世紀から1世紀前半に成立を見た「般若経」の思想を受けてはぼ紀元後二世紀ごろまでにインドで成立した。

⇒この経典のサンスクリット語原文は他の典籍に引用されている断片のはかは散佚(さんいつ)して現存せず、

⇒外国語訳には漢訳三本(支謙(しけん)訳、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳、玄奘訳)、チベット訳一本(チョエニッルチム訳)が残っている。

⇒とくに鳩摩羅什の漢訳した「維摩詰所説経(ゆいまきっしょうせつきょう)」は名訳の誉れ高く、過去のシナ・日本の伝統的文化に大きな影響を与えた。

・「維摩経」の趣旨は、

大乗仏教の精神を日常生活の中に生かすことを主張しており、戯曲的構成の妙をもって知られている。

⇒大乗仏教の根本思想である「空観」によると、

輪廻(現実)と涅槃(理想)はなんら異なるものではないと教えている。

⇒理想の境界はわれわれの迷いの日常生活と離れては存在しなし、

⇒空の実践としての慈悲行は行動を通じて実現される。

この立場が徹底されて、ついに出家生活を否定して、

在家の世俗生活のうちに仏教の理想を実現しょとする宗教運動が起こったが、

⇒その所産の代表的経典が「維摩経」であり、「勝鬘経」なのである。

■法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)

法華経とは、アジアの至る所で尊崇されている経典

⇒南アジアは伝統的保守的仏教の国、いわゆる小乗仏教(上座部仏教)の国であるから違うが、

⇒その他のネパール、チベット、蒙古、シナ、朝鮮、日本という国々では「法華経」は尊崇されている。

聖徳太子から始まり、最澄、日蓮、今日のいわゆる新興宗教とつながっている。

注)「法華経」

  1. 成立と特徴:
    • 大乗仏教の初期に成立した経典であり、法華経絶対主義、法華経至上主義が貫かれている。
    • 28章から成り立っており、あらゆる仏教のエッセンスが凝縮されています。
  2. 名前の意味:
    • 梵語での原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』で、「正しい・法・白蓮・経」という意味。
    • 「白蓮華のように最も優れた正しい教え」とも訳される。
  3. 内容:
    • 法華経は、人々が平等に成仏できるという新しい仏教思想を説いている。
    • 菩薩(悟りへの修行者)や如来(悟りを得た人)の存在が描かれており、密教にも影響を与えた。

・これは何を頼りしているかというと

⇒ただひたすら「南無妙法蓮華経」を唱え、ここに日蓮の生命があると考えている。

⇒このように、「法華経」は現在に生きている教典である。

・聖徳太子の「法華経」に対する捉え方

⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、

「治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある

一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない

どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので

山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない

⇒聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである。

⇒こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。

<参考>浄土宗の開祖である法然上人が念仏(南無阿弥陀仏)を唱えることに意義を見出した出会い。

法然上人(1133年~1228年)は善導大師の主著『観無量寿義疏』を拝読し、阿弥陀如来に救われたとされている。

善導大師(613年~681年)は、中国の唐時代に活躍した高僧で、その教えは、南無阿弥陀仏(念仏)を唱えることで、生死を超えて浄土へ往生する道を示した。

法然上人は「専修念仏」という教えを広め、人々が「南無阿弥陀仏」を唱えることで死後に平等に浄土へ往生できると説いた。

出典:https://jodo.or.jp/jodoshu/lifetime/ 浄土宗

色々な社会事業を行った行基菩薩

⇒「法華経」の精神はここにあるのだと思って

⇒「法華経をわが得しことは薪伐(たぎりこり)菜摘み水汲み仕えてぞ得し」という歌を詠んだが、

⇒実は「法華経」の中にこういうエピソードがある。

⇒過去世に釈尊が行者としてある仙人のもとに仕えて、

⇒菜を摘んできたり、水を運んだり、薪を伐って運んだりして奉仕したという。

すると行基は人に対して奉仕するという、ここに「法華経」の神髄があると思ったのである

⇒本当に行基菩薩が作った歌かどうかわからないが、昔からそう伝えられている。

⇒日蓮も、ああ、ここに「法華経」の精神が有ると感激した。これが現代にいたるまでずっと生きているのである。

注)行基菩薩(668年~749年)の社会事業例

  1. 交通整備と橋の建設:
    • 行基は弟子たちを率いて、交通の難所に橋を架け、堤を築き、道路を整備した。これにより交通の便を向上させ、人々の生活を助け、地域社会に大きな影響を与えました。
  2. 水利施設の整備:
    • 行基はため池や淡を造り、農耕灌漑施設を整備した。
  3. 宿泊収容施設「布施屋」の建設:
    • 使役夫(税として納められていた諸国の産物を都へ運ぶ労働者)が路傍で餓死する問題を解決するために、「布施屋」という宿泊施設を建てた。
  4. 全国津々浦々に寺院を建立:
    • 行基は機内だけでなく、全国に多くの寺を建てた。彼の布教活動は広範で、人々から「行基菩薩」と呼ばれた。
  5. 大仏造営と大僧正の位授与:
    • 東大寺の大仏造営に協力し、大仏造営費の勧進に起用された。その功績により、日本最初の大僧正の位を授けられた。

当時の国家仏教の規定により、寺や僧の行動を制限されており、民衆への直接的な仏教布教は禁止され、行基の社会事業は一部で禁止されていたこともあった。

朝廷からは「小僧行基」と名指しで布教活動を禁じられたこともあったが、彼はめげずに活動を続けた。行基の指導による墾田開発や社会事業の進展は、政府(国家権力)が恐れていた「反政府」的な意図を持っているわけでなく、地方豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったため、731年(天平3年)に禁圧が緩められた。

行基は法相宗に属し、法相宗(唯識宗)の開祖は、慈恩大師。彼は玄奘三蔵の弟子であり、玄奘三蔵が翻訳に注力した唯識の経典を託されたことから、その注釈書を著して法相宗を開いた。

 尚、日本の法相宗の総本山は奈良県奈良市にある薬師寺

出典:https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111c10.html

◆「法華経」

・「維摩経」とほぼ同時代の第一期大乗経典の成立期(1~2世紀)に成ったと推定されている。

⇒この経典は、サンスクリット語本・漢訳本・チベット語訳本のほか、さまざまな国語に翻訳され、

⇒仏教を信仰するアジア全域に流布されているが、とくにシナと日本では、絶大な尊崇を得た。

⇒シナでは鳩摩羅什の漢訳「妙法蓮華経」が著名だが、鳩摩羅什ととも経典翻訳に加わった道生(どうしょう)は、注釈書「妙法蓮華経」を著した。光宅寺法雲は道生の解釈をうけついで、「法華経義記」をしるしたが、

隋代の天台智顗(ちぎ)にいたると、「法華経」を根幹として壮大な理論体系を作り上げられた。

この天台法華哲学が最澄(767年~822年)によって日本にもたらされ、比叡山に日本天台宗が開かれた。

⇒叡山は日本における学問・真理探究の聖地となり、「法華経」を中心に代表的な仏教の諸思想を結集し、集約して、仏教哲学としていよいよ特性を発揮するようになった。

これを天台本覚(ほんがく)思想と呼び、

⇒平安時代の宗教・思想のみならず、文学・絵画等、文化の各ジャンルに深い影響を及ぼした。

⇒鎌倉新仏教の祖師たちも、みな叡山で天台法華思想、本覚思想を学んだが、

⇒とりわけ日蓮と道元は「法華経」に強い関心をしめした。

⇒日蓮(1222年~1282年)は「法華経」の中の実践精神を重んじ、

⇒だび重なる弾圧と迫害を通じてしだいにその理想を実現するためには、

⇒世俗の政権との抗争をあえて辞せず、理想的世界の建設に力を注ぐようになる。

⇒日蓮にあっては「法華経」は世界観・人間観確立のための指針であるばかりなく、

⇒政治理念・政治的実践の方法論としても受けとめられるようになったといえよう。

⇒これは、後世の日蓮主義者にいたるまで見られる特徴である。

⇒一方、道元(1200年~1253年)は大著「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」を著したが、

⇒そこには経典としては「法華経」がもっとも多く引用されており、

⇒あたかも「法華経」の一大注釈書、ないしは法華理論の解説とも読みうる場合もある。

注)「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」:禅僧である道元が執筆した仏教思想書で、日本仏教史上で最高峰に位置し、難解さという点でも注目されている。

道元(曹洞宗の開祖)は、真理を正しく伝えたいという思いから、日本語かつ仮名で著述している。当時の仏教者の主著は漢文で書かれていた中で、異例の取組であった。

公安(禅問答)を中心に、禅の教えを詳細に説いており、悟りについて考える「現成公安」の巻

  1. 「現成」の意味:
    • 「現成」は「悟りの実現」を意味する。
    • つまり、悟りとは目の前に実現されていることを指す。
  2. 「公案」の意味:
    • 「公案」は元々は中国の公文書を指す言葉。
    • 禅宗では、「一人ひとりに与えられた禅の課題」として使われる。
    • 修行者はこの課題を通じて悟りに近づこうとする。
  3. 「現成公案」の内容:
    • この巻では、迷いや悟り、修行、生と死、仏と衆生など、すべての存在について説かれている。
    • 仏法は相対的な区別から離れたものであり、悟りは自己と自然が一体であることを理解すること。
  4. 要約:
    • 「現成公案」は、悟りを実現するための課題であり、自己と世界を理解するための鍵となる内容。

・法華経の経文では

⇒「常に座禅を好んで閏(しず)かなるところにあって、その心を修摂(しゅしょう)せよ」と一般に読み下されており、諸注釈書もそのように解釈している。

⇒ところが「法華義疏」では

⇒「常に座禅を好む小乗の禅師に親近するな。・・・その意味は、間違った(顚倒した)分別の心があるから、世の中を捨てて、かの山間に入り、常に座禅を好む」ことは、親近してはならない境に入れるべきである」としるされている。

聖徳太子は、「聖」と「俗」を区別する考えはなく、

⇒世にあって仏教の理想の実現する道をくりかえし説いている。

⇒ここに聖徳太子の仏教の受容と普及における社会への積極的な姿勢を見ることができる。

■思想と行為の一致の立場に立つ聖徳太子

聖徳太子の思想(私的感想:2項対立の解消(=否定化)する事で対等(日常性の意義)を見出す)

善を実践するのに二つのしかたがある

⇒なんらかの報いをもとめてなす善を「報善」という。

⇒これに対して、なにものをもとめることなく、ただなさねばならぬという意識をもってなす善を「習善」という。(勝鬘経義疏)

行いはただ凡夫の行いであるが説は凡夫の説でない

⇒ということがどうしてありえようか。

⇒またただ行いのみ舎利弗(しゃりほつ:シャーリプトラ。釈尊の十大弟子の一人)に属しているが、

⇒かたよった教えは舎利弗のものではないということがありえようか。(維摩経義疏)

⇒ところで「万善同帰」の教えによると

⇒人間の実行するいかなる善も、すべて同じく絶対の境地に帰着するというものである。

・聖徳太子によれば、

⇒本来聖人もなければ下愚もなく、すべて本来同一の仏子である。

こういうふうに聖徳太子は世俗の道徳教をもって仏教の入門と見なした。

⇒「法華経義疏」のなかにも外道・邪教に言及してはいるが、それはインド伝来の表現法を用いたにすぎない。

⇒太子の外道・邪教は、老荘の学及び儒教を意味していない。また、「仏教」と「外道」との区別は存在しない。

⇒汝は「仏はわが師である」と考えているけども、

仏は空であり、異教徒(外道)も空であるから、ともに一相であって、二つの別のものではない

⇒ゆえに異教徒もまた汝の師である。

⇒もしも異教徒が汝の師でないならば、すべては空であって二つのものの対立がないということわりのゆえに、

⇒仏もまた汝の師ではないということになるのである。

インドの仏教においては、出家・修行僧に施すことは、世俗の貧乏人に施すよりもはるかに功徳があると考えられていた。

ところが聖徳太子はこの区別を否定していまった。かれはいう。

⇒「維摩経」の文章に「大なる幸福もなく、小さな幸福もない」というのは、

⇒絶対的真理の上から見ると、

⇒聖者に施すと大きな幸福を得、凡夫に施すと小さな幸福を得るというような区別がないということを明かすのである。

⇒このような区別を否認してしまうことのできる者には、

⇒福田(ふくでん)のはたらきがあるというべきである。

⇒ところが汝はそのようなことができない。どうして福田のはたらきがありえようか。(維摩経義疏)

⇒「益をなさず、損をもなさい」とは、絶対的立場から見ると、

⇒聖者に施してのちに福を得、凡夫に施して損を見るということのないことを明かしているのである。(維摩経義疏)

⇒また仏を敬うことも乞食の人を愛するのも、ともに等しい功徳があるという。

この議論は、「聖」と「俗」との区別を消し去るものである

⇒後世の日本仏教に見られる世俗化への動きが、ここに理論的に基礎づけられているのである。

仏教受容の最初期の聖徳太子の立ち位置(認識)

「勝鬘経」「維摩経」「法華経」の三教を選んで注釈(解説)した姿勢

⇒太子はいうまでもなく、摂政という最高政治に携わる世俗の人であり、

⇒人間が生きていくうえの倫理の指針として、

⇒また統治の根本原理として

仏教を採択したのである。

⇒したがって仏教の理想は

⇒僧侶(出家)によって実現されるだけではなく、

⇒社会的な実践課題でなければならなかった。

・「維摩経」の「第三章 弟子」に注して

⇒「山としてかくれなければならない山はなく、世として避けなければならない世はない。・・・

⇒汝らは、彼此といった差別の心から、世俗を捨てて山にかくれ、かえって身心を迷いの世界に現している」といい、

仏教の実践は、

世俗てき生活の中にあることを強調している。

現実(世俗)に対する積極的な働きかけという日本仏教の特徴的性格は、

すでに仏教受容の初期段階で胚胎(はいたい)していたのである。