■主要論敵は説一切有部
・中観派は
⇒自己の反対派を概括して自性(じしょう)論者、または有自性論者と総称している。
⇒それは事物または概念の「自性」すなわち自体、本質が実在すると主張する人々である。
⇒『中論』はこれに対して無自性を主張したのであるから
⇒『中論』を徹底的に研究するためには有自性論一般を広く考察せねばならない。
⇒説一切有部(略して有部)を有自性論者の代表としてその根本思想を論ずる。
・説一切有部
⇒従来の中国・日本の仏教(大乗仏教)において説一切有部は、
⇒小乗仏教(上座部仏教の一派)の代表的な学派として、仏教の中で最も低級な教えのように思われていた。
⇒しかしそれは、その思想が大乗仏教の思想と正反対の点があり、
⇒またた社会的には説一切有部(小乗仏教の諸派のうちで)が最も有力であったので、
⇒大乗仏教側から盛んに論難しまた貶したわけである。
⇒説一切有部の思想はそれ自体として深い哲学的意義をもっているから、
⇒それをもっとよく理解し、正当に評価する必要がある。
◆説一切有部の立場
・根本思想
⇒「一切が有る」と主張したといわれている。
⇒昔から日本ではふつう「三世実有(さんぜじつう)、法体恒有(ほつたいごうう)」であるといわれている。
⇒「一切有」という句とあわせていうと、「一切の実有なる法体が三世において恒有である」といいうる。
⇒この句の意義を闡明(せんめい)すれば説一切有部(以下有部と称す)の根本思想を知りうるはずであるから、これを分けて考察したい。
第一「法」および「法体」を有部はいかの解したか
第二「実有」とはいかなる意味か
第三「一切」とはいかなる意味か
⇒第四「三世において恒有である」とはいかなる意味か
・有部における法の概念
⇒仏教思想は、つねに法に関する思索を中心として発展している。
⇒これに対して大乗仏教、たとえば『中論』は「法有(ほうう)」対して「法空(ほうくう)」を主張したのであると解せられる。
⇒法(dharma)という語を語源的に説明すれば、√dhrであり、これからdharma(ダルマ)という名詞がつくられた。
⇒√dhrとは「たもつ」という意味であるから、法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが語源であるといわれている。
⇒これはインド一般に通ずる用例であり、これがもととなってさらに種々の意義がこの語に附加されている。
⇒パーリ語聖典において用いられている法の意義は種々であるが、その中で純粋に仏教的な用法はただ一つで、他の用法はインド一般に共通であるといわれている。
⇒パーリ語の註釈(ちゅうしゃく)でいうnissattaまたはnissattanijjivataがそれであり
⇒ドイツのW・ガイゲルはこれを「もの」と訳している。
⇒日本でも伝統的に法とは「もの」「物柄」であると解釈されている。
⇒ここで問題が起こる。
⇒法の原義は「きまり」「法則」「軌範」であるのに
⇒何故後世、伝統的に「もの」と解釈されるに至ったのであろうか。
⇒「理法」という意味から発して一見全然別な「もの」という解釈に至るには哲学的な理由があるのではなかろうか。
⇒一般に法の原意から法有の主張の導き出される経過を考察したい。
・法の体系の基礎づけ
⇒仏教成立の当初においては、
⇒自然的存在の領域を基礎づけ可能ならしめるところの法の領域を、
⇒自然的存在の領域から区別して設定し、
⇒仏教はもっぱらこの法の領域を問題とした。
⇒原始仏教は自然認識の問題を考慮の外においている。
⇒もしも自然的存在だけを問題としているのであるならば、
⇒その所論はそれほど難解なものではないだろし、仏教徒でない人でも容易にその所論を理解しうるであろう。
⇒ところが仏教は
⇒実践的宗教者の関心事と映じた「法」をとりあげたのである。
⇒法とは
⇒一切の存在の軌範となって、存在をその特殊性において、成立せしめるところの「かた」であり、
⇒法そのものは超時間的に妥当する。
⇒したがって、この解釈は「理法」「軌範」という語源的な解釈とも一致する。
⇒法は自然的存在の「かた」であるから
⇒自然的事物と同一視することはできない。
⇒そうしてその法の体系として、
⇒五種類の法の領域である個体を構成する五つの集まり(五蘊:ごうん)、
⇒認識及び行動の成立する領域としての六つの場(六入)等が考えられる。
⇒しかしながら法の体系をいかに基礎づけるか、すなわち法の体系を可能ならしめる根拠はどうか、という問題に関しては、なお考究の余地を残していた。
⇒原始仏教聖典の初期に属する資料からみると、
⇒これを基礎づけるために縁起説が考えられていたことを知りうる。
⇒「法」の体系を縁起によって成立せしめようとするのである。
⇒縁起に関しても種々な系列が考えられ、
⇒後になってついに十二支の系列のもと(十二因縁)が決定的に優勢な地位を占めるようになった。
注)五蘊(ごうん):仏教において、人間の存在を構成する五つの要素を指す。これらの要素は、すべての現象が無常であり、実体のないものであることを示している。以下に五蘊のそれぞれの要素について説明。
五蘊(ごうん)の構成
- 色(しき、Rūpa): 物質的な要素や肉体を指す。具体的には、目に見える形や物質的な存在、感覚器官などを含む。
- 受(じゅ、Vedanā): 感受の要素。感覚によって得られる快、不快、中立の感覚や感情を指す。
- 想(そう、Saṃjñā): 表象の要素であり、知覚や認識を指す。これにより、物事を識別し、名称や概念を与えることができる。
- 行(ぎょう、Saṃskāra): 意志や心の働きを指す。これには、意図、意志、行動、精神的な傾向や習慣が含まれる。
- 識(しき、Vijñāna): 意識の要素。外部の対象物を認識し、識別する能力を持つ意識の働きを指す。
五蘊(ごうん)の意義
五蘊は、個々の存在がこれらの要素の集合体であり、実体がないことを理解するための教え。仏教では、これらの要素が相互に依存し合って存在しており、固定された自我や実体は存在しないと説かれている。この理解は、執着や煩悩を超えて悟りに至るための重要なステップとなる。
出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4 第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所
注)六根と六入の違い:仏教における感覚機能の説明に関連する用語ですが、微妙に異なる概念を指す。
違い(1)対象の有無:
- 六入:感覚器官とその対応する対象の相互作用を強調している。
- 六根:感覚器官そのものを指し、対象は含まれまない。
違い(2)概念の広がり:
- 六入:感覚のプロセス全体をカバーしており、感覚器官が外界と接触して生じる知覚のプロセスを説明している。
- 六根:主に感覚器官の存在と機能に焦点を当てている。
【六入】
1.眼(げん) – 色(しき):視覚の器官とその対象
2.耳(に) – 声(せい):聴覚の器官とその対象
3.鼻(び) – 香(こう):嗅覚の器官とその対象
4.舌(ぜつ) – 味(み):味覚の器官とその対象
5.身(しん) – 触(そく):触覚の器官とその対象
6.意(い) – 法(ほう):意識の器官とその対象
【六根】
1.眼根(げんこん):目、視覚の器官
2.耳根(にこん):耳、聴覚の器官
3.鼻根(びこん):鼻、嗅覚の器官
4.舌根(ぜっこん):舌、味覚の器官
5.身根(しんこん):体、触覚の器官
6.意根(いこん):心、意識の器官
注)十二因縁(じゅうにいんねん):仏教における因果関係の連鎖を説明する教えであり、すべての現象が互いに依存し合って生じることを示している。以下に十二因縁の各段階を説明。
十二因縁の段階
- 無明(むみょう、Avidyā): 無知や無明。真理を知らないことから苦しみが始まる。
- 行(ぎょう、Saṃskāra): 意志や行為。無明によって生じた意識や行動の種子。
- 識(しき、Vijñāna): 識別の意識。行によって生じる意識の芽生え。
- 名色(みょうしき、Nāmarūpa): 心身。識によって生じる心と身体の結合。
- 六入(ろくにゅう、Ṣaḍāyatana): 六根。名色によって生じる感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)。
- 触(そく、Sparśa): 接触。六入によって生じる感覚の接触。
- 受(じゅ、Vedanā): 感受。触によって生じる感覚の受け取り(苦、楽、中性)。
- 愛(あい、Tṛṣṇā): 渇愛。受によって生じる欲望や執着。
- 取(しゅ、Upādāna): 取著。愛によって生じる執着や取り込み。
- 有(う、Bhava): 存在。取によって生じる存在や生存の状態。
- 生(しょう、Jāti): 生まれ。存在によって生じる生まれの過程。
- 老死(ろうし、Jarāmaraṇa): 老化と死。生まれによって生じる老いと死。
意義
十二因縁は、人生の苦しみや輪廻の連鎖を解き明かすための重要な教え。この因果の連鎖を理解することで、苦しみの原因を見極め、それを克服する方法を学ぶことができる。
◆縁起を軽視した有部
・原始経典の末期(紀元前4世紀頃)から縁起説は
⇒通俗的解釈をもちこまれるようになり、
⇒そうして生あるもの(有情:うじょう)の生死流転する状態にあてはめて解釈されるようになるにつれて、
⇒縁起説が法の体系を基礎づけている意義が見失われるに至った。
⇒すなわち縁起説によって法の統一関係が問題とされ出してからまもなく
⇒縁起説は法の統一の問題を離れて別の通俗的解釈に支配されるようになったのである。
⇒かくて有部の時代(紀元前3世紀から紀元後1世紀頃)となると、縁起説は全く教学の中心的位置を失い、ただの附加的なものにすぎなくなった。
・なぜ有部は法有を主張したのか
⇒有部は縁起によって法の体系を基礎づける立場を捨てしまった。
⇒その代わり法を「有り」とみなすことによって基礎づけた。
⇒何故に有部の学者は法有を主張したのであろうか。
⇒すでに経蔵の中に、有と無との二つの極端説(二辺)を排斥した経があり、
⇒有部の学者は明瞭にこのことを知っていたにもかかわず、
⇒何故に仏説に背いてまで法の「有」を主張したのであろうか。その理由を検討したい。
注)経蔵(きょうぞう、Tripiṭaka):仏教の三蔵(さんぞう、Tripiṭaka)の一つであり、仏陀の教えをまとめた経典を集めたものを指します。三蔵とは以下の三つのカテゴリーで構成されています。
三蔵の構成
- 経蔵(きょうぞう、Sūtra-piṭaka): 仏陀の教えや説法を集めた経典の集まり。具体的には、さまざまな仏教の経典(Sūtra)を収めている。これには、四阿含経(しあごんきょう、Agama)や大乗経典(Mahāyāna Sūtras)などが含まれる。
- 律蔵(りつぞう、Vinaya-piṭaka): 仏教の戒律や僧伽(そうぎゃ、Sangha)の規則を集めたもの。これは、僧侶が守るべき規律や生活のルールを記述している。
- 論蔵(ろんぞう、Abhidharma-piṭaka): 仏教の教理や哲学的な解説を集めたもの。これは、仏教の教えをより体系的に整理し、解説している。
経蔵の意義
経蔵は、仏教徒にとって仏陀の教えを学ぶための重要なリソース。これらの教えは、瞑想や修行、日常生活の指針となり、悟りに至る道を示している。
・ゴータマ・ブッダ(釈尊)は
⇒もろもろの存在が生滅変遷するのを見て
⇒「すべてつくられたものは無常である」(諸行無常)と説いたといわれる。
⇒それはわれわれの生存の相を観察するに
⇒一切の存在は刹那刹那に生滅変遷するものであり、
⇒何ら生滅変化しない、常住な実体は存在しない、ということを意味している。
⇒当時の仏経以外の諸思想が、絶対に常住不変なる形而上学的実体を予想していたから、
⇒ブッダはこれを排斥して
⇒別にすべてつくらっれたものの無常を説いたのである。
⇒ところが諸行無常を主張するためには何らかの無常ならざるものを必要とする。
⇒もしも全く無常ならざるものがないならば、
⇒「無常である」という主張も成立しえないのではないか。
⇒もちろん仏教である以上、無常に対して常住なる存在を主張することは許されない。
⇒またその必要もないであろうが、無常なる存在を無常ならしめている、より高次の原理あるはずではないか、という疑問が起こる。
⇒一般に自然的存在の生滅変遷を強調する哲学は
⇒必ずその反面において不変化の原理を想定するのが常である。
⇒故にゴーダマ・ブッダが
⇒有・無の二つの極端説を否定したにもかかわらず
⇒有部が「有」を主張して著しく形而上学的立場をとった理由もほぼ推察しうるものであるが、
⇒何故にとくに法の「有ること」を主張したのであろうか。
注)形而(けいじ)上学的実体:哲学の分野において重要な概念。
意味
- 形而上学:物理的な現象の背後にある本質や存在の根源を探究する哲学の一分野。
- 実体:存在の基本的な要素や本質を指す。
形而上学的実体
形而上学的実体とは、現象の背後にある究極的な存在や本質を意味する。これは、物理的な世界や経験を超えたものとして理解され、存在そのものの根源的な性質を探究するもの。形而上学的実体は、物質的な形や変化に依存せずに存在する本質的な要素とされている。
例えば、プラトンのイデア論における「イデア」や、アリストテレスの「実体」は形而上学的実体の概念に該当する。
・「有り」の論理的構造
⇒元来「あり」という概念は二種に分化されるべき性質のものである。
⇒一つは「である」「なり」であり、
⇒他は「がある」である。
※「である」「がある」という語は説明の便宜上、和辻哲郎博士『人間の学としての倫理学』P33以下から借用した。
⇒西洋の言語でははっきり分化していないが、日本語では明確に分かれている。
⇒中世以来の伝統的な西洋哲学の用語にあてはめれば、
⇒前者(「である」「なり」)はessentiaであり、
⇒おおまかにいえば、前者(「である」「なり」:essentia)を扱うのは形式論理学であり、
⇒後者(「がある」:existentia)を扱うのは存在論または有論(Ontologie)であるといってよいであろう。
⇒例えば「これはAである」という場合に、「であること」essentiaが可能である。
⇒それと同時に「Aがある」ということがいえる。
⇒すなわちAの「があること」existentiaが可能である。
⇒一般に「であること」essentiaは「があること」existentiaに容易に推移しうる。
⇒更に「があること」(existentia)には二種考えられる。
⇒一つは時間的空間的規定を受けているAがあるという意味でのexistentiaであり、
⇒他は時間的空間的規定を超越している普遍的概念としてのAである。
⇒この二種の「があること」のうち、
⇒第一のほうを取扱うのは、自然認識であり、哲学問題外である。
⇒第二の「がある」を取扱うのは哲学であり、
⇒これを問題として「ありかた」を基礎づけようとする哲学者がたえず簇出(そうしゅつ)する。
⇒たとえばプラトンのイデア等。
⇒法有の立場もこの線に沿って理解すべきではなかろうか。
・法有の成立する理論的根拠
⇒法とは自然的存在を可能ならしめているありかたであり、
⇒詳しくいえば「・・・であるありかた」である。
⇒たとえば受とは「隋触:ずいぞく(外界からの印象)を領納:りょうのう(感受)す」といわれ、
⇒「感受されてあること一般」である。
⇒個々の花、木などの自然的事物は法ではないが、
⇒その「ありかた」としての、たとえば「感受されてあること」は法である、とされる。
⇒さて、その個々の存在はたえず変化し生滅するが、
⇒それの「ありかた」としての「感受されてあること一般」は変化しないものではなかろうか。
⇒すなわち法としての「受」はより高次の領域において有るはずである。
⇒存在はつねに時間的に存するが、
⇒法は「それ自身の本質(自相:じそう)を持つ」ものとしてより高次の領域において有るから、
⇒超時間的に妥当する。
⇒かくして法は有る、すなわち実在する、とされた。
⇒したがって「一切有」という場合の「あり」はまさしく漢字の「有」の示すように「がある」の意味である。
⇒これを要約すてれば、初期仏教における「・・であるありかた」としての法が、
⇒有部によって「・・・であるありかたが有る」と書き換えられたのである。
⇒「である」(essentia)から「がある」(existentia)へ、
⇒essentiaからexistentiaへと論理的に移っていったのが、
⇒法有の立場を成立する論理的根拠である。
⇒論理的な脈絡を大づかみにとらえれば、上記のようにいうことも可能であろう。
・法と本性
⇒法という語を語源的に説明すれば、√dhrであり、これからDharma(ダルマ)という名詞がつくられた。
⇒法は√dhr「たもつ」という語源から出た語であるが、
⇒後期の註釈(ちゅうしゃく)によれば、「それ自身の本質(自相)を持つから法である」といわれるに至った。
⇒これに対して大乗仏教では反対に「それ自身の法質をたもつことを欠いているから法ではない」と主張する。
⇒この「それ自尊の本質」を有部は「もの」とみなしたのである。
⇒有部は「もの」の実在を主張したといわれるが、
⇒その「もの」とは、
⇒それ自身の本質(自相)の意味で、
⇒経験的事物と混同することはできない。
⇒「ものが実在する」というのも
⇒「それ自身の本質について」有るという意味であり、
⇒自然的存在(例:花瓶、車等)として実在するものではないであろう。
⇒それ自身の本質(自相)というのも、
⇒本性(自性)というのも決して別なものと考える必要はないが、
⇒さらにその「それ自身の本質」または「本性」も法と異なるものではない。
⇒しからば何故に、法と異ならない本性(自性)という概念を有部は持ち出したのであろうか。
⇒それに対する答えは与えられていないが、解決の手がかりは与えられている。
⇒たとえば識(識別作用)や受についていえば、
⇒識とか受とかいう「ありかた」としての法のessentiaは
⇒それぞれ「各々了別(それぞれを区別して認識すること)」「隋触を領納す」であるが。
⇒それをexistentiaとみた場合に、本性、本質といわれるのであろう。
⇒「・・であるありかた」としての法が
⇒一つの実在とみなされ、
⇒「ありかた」が有るとされた場合に、
⇒それが本性といわれるのである。
⇒「本性」とは「・・が(で)あること」(existentia)にほかならない。
⇒「であること」(essentia)が実在されたものである。
・「法」と「もの」
⇒法と本性、本質とは別なものではないから、
⇒本性や本質が「もの」とされる以上、
⇒「法」も「もの」とされるに至った。
⇒すなわち法はvastu、bhāva(もの)などの語に書き換えられていることもあり、
⇒『中論』では「法」(dharma)よりもむしろ、「もの」(bhāva)のほうが多く用いられているが、
⇒それは『中論』が仏教以外の諸派をも含めて排斥しているから「もの」(bhāva)という語を用いたのであり、意味は法と同じである。
⇒それ故に、「およそ諸法は体(自体)、性(本質)、法、物(実体の本質)、事(実体)、有、名は異にして義(意味)は同じ。
⇒この故に或いは体と言い、或いは法と言い、或いは有と言い、或いは物と言う。
⇒皆これ有の差別ならざるはなし、正音(しょうおん)は私婆婆(svabhāva:自性のこと)と言う」
⇒と説かれるようになった。
⇒こういうわけで法は「もの」であるとする解釈が成立するに至ったのであるが、
⇒この「もの」というのはけっして経験的な事物ではなくて、
⇒自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」であることに注意せねばならぬ。
⇒一例として虚空について論じれるならば
⇒「空は無碍(むげ)なり」(『倶舎論』)第一品・第五詩)というのも
⇒虚空という自然的存在を主張しているのではない。
⇒「無碍(むげ)なること一般」という「ありかた」が法の領域において「もの」として有る、とされているのである。
⇒「虚空は但無碍をもって性と為す」(『倶舎論』一巻、三枚裏)とあるから、
⇒「無碍」というexistentiaを法の領域におけるexistentiaとして、それを虚空とみなしたのである。
⇒ちなみにここにいう「虚空」は
⇒自然界の一つの構成要素としての「虚空界」とは異なるものであることを忘れてはならない。
⇒われわれが眼を開けて眺める大空は「虚空界」であって、
⇒つくられない不変の三つの原理(三無為)の一つとしての「虚空」ではない。
⇒したがって有部は一切の「もの」の実在を主張したといわれ、
⇒もし法あるいはその本質(自性・自相)が「もの」という語で書き換えられているとしても、
⇒有部はけっして自然的存在としての「もの」の実在を主張したのではない。
⇒存在(もの)をあらしめる「ありかた」を「もの」とみて、
⇒すなわち「もの」の本質を実体とみなしたのである。
⇒故に「法有」の「有」とは
⇒「経験界において有る」という意味に解することはできないと思う。
⇒法が
⇒自然的存在を意味すのではないことは和辻博士やドイツのH・ベック、ローゼンベルクらの学者の指摘したことであるが、
⇒上記のように解するならば、
⇒法の体系を説いた初期の仏教から、
⇒法有の主張が導き出されたことは何ら不思議ではない。
⇒法の概念から論理的に導き出しうることである。
・命題も実在
⇒以上は「ありかた」としての法を中心として考察したのであり、
⇒概念の中に含まれるところのものである。
⇒ところがわれわれはその他に法有の立場の注目すべき特徴を認める。
⇒有部は概念のみならず判断内容すなわち命題がそれ自身実在することを主張した。
⇒つくられたものども(諸行)は無常である。
⇒しかしながら「諸行は無常である」という命題自身は変易しない。
⇒もしもその命題自身が変易するならば、
⇒つくられたものどもは無常である、とはいえなくなる。
⇒故に命題自身、すなわち「句」(も実有であるとされ、
⇒五位七十五法の分類の中に心不相応行法の中に入れられた。
注)説一切有部の五位七十五法の二大分類:有為法と無為法に分けられ、存在と現象を理解するための基礎となる。
有為法(ういほう、Saṃskṛta-dharma)
有為法は、因果関係によって生起し、変化や消滅する法。これらは条件によって生じ、無常であるとされている。有為法は次の五位に分かれている:
- 色法(しきほう、Rūpa-dharma):
- 物質的な存在を指します。具体的には、五蘊の中の「色(しき)」に対応。
- 心法(しんほう、Citta-dharma):
- 心そのものや意識を指す。主に六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を含む。
- 心所法(しんしょほう、Caitasika-dharma):
- 心の働きや感情、思考、意図などの心の随伴現象を指す。
- 心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう、Caitasikasaṃprayukta-dharma):
- 心の動きや作用と直接関連しない現象を指すが、心の状態に影響を与える法。
- 色不相応行法(しきふそうおうぎょうほう、Rūpasaṃprayukta-dharma):
- 物質的な現象と直接関連しないが、物質に影響を与える法。
無為法(むいほう、Asaṃskṛta-dharma)
無為法は、因果関係によって生じることのない、変化しない法。これらは時間や条件に依存せず、常住不変のものとされている。無為法は次の三法に分かれている:
- 虚空無為(こくうむい、Ākāśa-asaṃskṛta):
- 空間そのものを指す。虚空は無限であり、変化することがない。
- 択滅無為(たくめつむい、Pratisaṃkhyānirodha):
- 智慧によって煩悩や執着が消滅した状態を指す。
- 非択滅無為(ひたくめつむい、Apratisaṃkhyānirodha):
- 煩悩や執着が自然に消滅した状態を指す。
これらの分類は、仏教の修行や哲学において非常に重要。現象の本質を理解し、解脱や悟りに至るための指針となる。
■空の論理
◆『中論』の否定の論理の目的としての<縁起>の解明
・最終目的は
⇒もろもろの事象が互いに相互依存または相互限定において成立(相因持)しているということを明らかにしょうとするものである。
⇒すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして存在するから、
⇒もしもその相関関係を取りさるならば、
⇒何ら絶対的な、独立なるものを認めることはできない、というのである。
⇒ここで<もの>という場合には、
⇒インドの諸哲学学派が想定するもろもろの形而上学的原理や実体をも意味しうるし、
⇒また仏教の説一切有部が規定する<五位七十五法>の体系のうちのもろもろダルマ(法)を含めて意味しうる。
⇒例えば『中論』の第二章(運動の考察)において、
⇒去るはたらき、去る主体、去っておもむくところを否定した。
⇒「かくのごとに思惟観察せば去法(去るはたらき)も去者(去る主体)も所去処(去っておもむくところ)も、
⇒これらの法は皆な相因持す。
⇒去法(去るはたらき)に因って去者(去る主体)有り。去者(去る主体)に因って去法(去るはたらき)有り。
⇒この二法に因らば則ち去るべき処あり。定(さだ)んで(決定的に)有りと言うを得ず、定(さだ)んで無しと言うを得ず」(大正蔵、三十巻、50ページ)
・縁起を明かす『中論』
⇒この<相因持せること>を別の語で「縁起」とよんでいる。
⇒チャンドラキールティの註によると
⇒「不来不去なる縁起の成立のために、世間に一般に承認された去来の作用を否定することを目的として」、
⇒第二章における否定の論理が説かれているという(『プラサンナパダー』92ページ)。
⇒故に不来不去を説くのは実は縁起を成立させるためなのである。
⇒ことごとく縁起を明かすために述べられている。
◆否定の論理の文章をいかに理解すべきであるか
・『中論』の否定の論理を解明するあたって、
⇒まずその書の立場の原意を知るためにどの註釈(ちゅうしゃく)によるべきか、ということが問題になる。
・最も重要なチャンドラキールティの註釈と採用する理由
⇒①詳しく註釈を施してあるために思想を充分に理解しうる。
⇒②サンスクリット文であるために思想を明白に理解することができるので、従来クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)び訳にのみよっていた解釈の誤謬を訂正し、不明な箇所の文章の意義を明らかになしうる。
⇒③年代は後になるが、大体においてナーガールジュナの原意に従っていると思われる。
⇒『中論』の本来の詩句は詩句だけでも大体理解しうるほど、主語・述語・客語がみなそなわっていてほとんど註釈を必要としない。
⇒また『中論』における論破排撃(破邪)の論理は、
⇒概念や判断内容の実在性を主張する論理(法有の立場:説一切有部)を排斥しているのであり、
⇒概念や判断内容を説明しているのではないから、著しく異なった解釈をされるということはなかったであろう。
・法有の立場を攻撃
⇒『中論』が「法有」の立場を相手にしているという歴史的連関を考慮するならば、
⇒容易にこの主張を理解しうる。
⇒すでに述べたように法有とは
⇒経験的事物としての「もの」が有る、という意味ではない。
⇒自然的存在として「もの」をして、
⇒それぞれの特性において「もの」として有らしめるための「かた」「本質」としての「もの」が有る、という意味である。
⇒「・・であるありかた」が有る、と主張するのである。
⇒essentiaをessentiaとしてとどめずにより高き領域におけるexistentiaとして把握しようという立場である。
⇒より低き領域において存在する(bestehen)ものはより高き領域おいて有る(sein)。
⇒したがって法有の立場では
⇒作用をたんに作用としてみないで、
⇒作用を作用としてあらわし出す「かた」「本質」が形而上学的領域において実在していると考える。
⇒たとえば註釈書の第二章の始めにおいては法有の立場の人は、
⇒「作(作用)あるをもっての故に、まさに諸法ありと知るべき」といって
⇒「去る」という「かた」「本質」が実在することを主張している。
⇒「去りつつあるもの」もわれわれによって考えられ、または志向されいる「あり方(かた)」であるから、
⇒たんに意識内容たるにととまらず、背後の実在界に根拠を有するものとみなされる。
⇒したがって「去りつつあるものは去る」という場合には、
⇒「去りつつあるもの」という一つの「あり方」としての形而上学的実在に関して、
⇒「去る」という述語を附与する判断であらねばならぬ。
⇒ところが法有の立場は、
⇒それぞれの「あり方」をそのまま実在とみなすから、
⇒「去りつつあるもの」という「あり方」と「去る」という「あり方」とは全く別のものとされ、
⇒「去りつつあるものは去る」といえばそれは拡張的判断であり、
⇒二つの去るはらきを含むことになる。
・ナーガールジュナの論点
⇒この二つの去るはたらきを綜合する根拠はいずれに求むべきか。
⇒「あり方そのもの」(法のみ)であり、
⇒他のいかなる内容をも拒否している二つの実体がいかにして結合しうるのであろうか。
⇒論敵のもっているこの困難は全く「法有」という哲学的態度から由来している。
⇒もちろん『中論』の主要論敵である有部は
⇒「去ること」というダルマ(法)を認めていたのではなく、
⇒いわゆる運動を否定して言われる。
⇒しかしならが「去ること」も一つの「あり方」であるから、
⇒一般に法有の立場に立てば、「去ること」をも実体視せねばならず、
⇒そうだとすると種々の困難が起こることをナーガールジュナは強調したのである。
⇒この点は経部(上座部仏教の一派)という学派が有部に対して、
⇒もしも法有の立場を国執するならば七十五法以外のすべての「あり方」をも実体視せねばならぬでないか、という種々のその弱点を攻撃しているのと同一態度である。
・運動の否定の論理(『中論』の論法の基礎)
⇒自然的存在の領域における運動を否定してのではなく、
⇒法有の立場を攻撃した。
⇒「去りつつあるものは去る」の論理について
⇒「〔すでに第二章において〕<いま現に去りつつあるもの>と<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とによって、すでに排斥されてしまった。(第三章・第三詩後半)
⇒「いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものについて、このように説明されている。(第七章・第一四詩後半)
⇒「いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないもの(についての考察)によって説明されおわった。(第十章・第一三詩後半、第十六章・第七詩後半)という。
⇒ナーガールジュナは第二章の論法を極めて重要視していたらしい、
⇒ま第二章の第一詩をみると
⇒「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。
⇒さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない」
⇒(「先ず已去(いきょ)は去らず。未去も去らず。已去と未去とを離れたる去時も去せず」クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳)
⇒とあるが、厳密にいえば、「已(すで)に去られた<時間のみち>(世路)は去られない。未だ去られない<時間のみち>(世路)も去られない。現在去られつつある<時間のみち>(世路)も去られない」という意味である。
⇒今ここでは不明瞭であるが、便宜上クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳語を参照しつつ上記のように訳し、以下も同様にする。
⇒(したがってこの、第二章は直接には行くこと(「去」)を否定し、ひいては作用を否定する。
⇒また<時間のみち>(「世路」または「世」)を問題としているから現象的存在である<有為法>全体の問題にもなってくる。
⇒その理由を諸註釈についてみるに、
⇒まず「已去」とは已(すで)に去られたものであり、
⇒すなわち「行く作用の止まったもの」であるから
⇒作用を離れたものに作用のあるはずはない。
⇒したがって、すでに去ったものが、さらに去られるということはありえない。
⇒また、<未去>も去らない。
⇒<未去>とは行く作用の未だ生ぜざるものであり、去るという作用をもっていないからである。
⇒「未去が去る」ということは常識的にはわかりやすいかもしれないが、
⇒「去る」とは現在の行く作用と結合していることを意味しているのであり、
⇒両者は全く別なものであるから、「未去が去る」ということは不可能である。
⇒さらに<現在去りつつあるもの>(去時)なるものが存在すると思っているが、
⇒<現在去りつつあるもの>を追究すれば
⇒已去(いきょ)とか未去かいずれかに含められてしまう。
⇒チャンドラキールティはここのとを強調している。
注)有為法(ういほう、Saṃskṛta-dharma)
有為法は、因果関係によって生起し、変化や消滅する法。これらは条件によって生じ、無常であるとされている。有為法は次の五位に分かれる:
- 色法(しきほう、Rūpa-dharma):
- 物質的な存在を指します。具体的には、五蘊の中の「色(しき)」に対応。
- 心法(しんほう、Citta-dharma):
- 心そのものや意識を指す。主に六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を含む。
- 心所法(しんしょほう、Caitasika-dharma):
- 心の働きや感情、思考、意図などの心の随伴現象を指す。
- 心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう、Caitasikasaṃprayukta-dharma):
- 心の動きや作用と直接関連しない現象を指すが、心の状態に影響を与える法。
- 色不相応行法(しきふそうおうぎょうほう、Rūpasaṃprayukta-dharma):
- 物質的な現象と直接関連しないが、物質に影響を与える法。
・「去りつつあるものは去る」が去る」の論理
⇒已去(いきょ)とか未去とが去らないということは誰でも常識的に理解しうるものであるが、
⇒しかし現在の<去りつつあるもの>(去時)が去らないということはいえないはずでないか、
⇒という疑問が起こる。第二詩に問うていう。
⇒「動きの在するところには去るはたらきがある。
⇒そうしてその動きは<現在去りつつあるもの>(去時)にあって
⇒<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないが故に
⇒<現在去りつつあるもの>(去時)のうちに去るはたらきがある。
⇒これに対してナーガールジュナは答える
⇒「<現在去りつつあるもの>(去時)のうちにどうして<去るはたらき>がありえようか。
⇒<現在去りつつあるもの>(去時)のうちに二つの<去るはたらき>はありえないのに」(第三詩)
⇒われわれが「去りつつあるもの」というときには、
⇒すでに「去るという作用」と結びついている。
⇒もしも「去りつつあるものが去る」というならば、
⇒その「去りつつあるもの」がさらに「去るはたらき」と結びつくことになる。
⇒それは不合理である。
⇒もちろん「去りつつあるもの」というだけならば、
⇒それはさしつかえない。
⇒しかしながら「<現在去りつつあるもの>(去時)が去る」とはいえないと主張する。
⇒さらに、「<去りつつあるもの>に去るはたらきが有ると考える人には、
⇒去りつつあるものが去るが故に、去るはたらきなくして、
⇒しかも<去りつつあるもの>があるという(誤謬)が付随して来る」(第四詩)
⇒もしも「去りつつあるものが去る」という主張を成立させるためには、
⇒<去りつつあるもの>が<去るはたらき>を有しないものでなければならないが、
⇒このようなことはありえない。次に
⇒「<去りつつあるもの>に<去るはたらき>が有るならば、
⇒二種の去るはたらきが付随して来る。
⇒{すなわち}<去りつつあるもの>をあらしめる去るはたらきと、
⇒また、<去りつつあるもの>における去るはたらきとである」(第五詩)
⇒すなわち、もしも「去りつつあるものが去る」というならば、
⇒主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と
⇒あらたに述語として附加される「去」と二つの<去るはたらき>が付随することになる。
⇒二つの去るはたらきを認めるとすると、さらに誤謬が付随する。
⇒「二つの去るはたらきが付随するとならば、
⇒(さらに)二つの<去る主体>(去者)が付随する。
⇒何となれば、去る主体を離れて去るはたらきはありえないから」(第六詩)
⇒すなわち<去る主体>と<去るはたらき>とはお互いに相い依って成立しているものであり、
⇒<去るはたらき>があるとすれば必ず<去る主体>が予想される。
⇒故に<去るはたらき>が二つあるとすると
⇒<去る主体>も二つあらねばならぬことになる。
⇒このように全くありうべからざる結論を付随してひき起こすから、
⇒「去りつつあるものが去る」ということはいえないと主張している。
⇒この議論は真にプラサンガ(『中論』の論理)の論法の面目を最も明確に示しており、
⇒第二章の論理の中心は上述のところで尽きている。
・「三時門破」の論法
⇒『中論』の第七詩から第十一詩までは去者と去法とを対比せしめて、これを論破し、
⇒第十二詩から第十四詩までは去の発(ほつ:はたらきを始めること)を論破し、
⇒第十五詩から第十七詩までは住(とどまること)を論破している。
⇒第七詩から第十七詩まではただ問題を取替えただけで、
⇒みな、上述の六詩までと同じ論法が用いられてある。
⇒嘉祥大師吉蔵はこの論法を一括して「三時門破」の論法と名付けている。
⇒上述の論法と似た議論は『中論』のうちの各所に散見する。
・「第二章」の哲学的意義
⇒『中論』は何故「去りつつあるものが去る」という二つの去るはたらきが随伴すると主張するのであるか。
⇒ナーガールジュナは「二つの去るはたらきが付随して起こる」という。
⇒すんわちかれは「去りつつあるもの」の「去」と、「去る」の「去」と
⇒意味が異なるとみていたのである。
⇒故にナーガールジュナは「去りつつあるものが去る」という判断を
⇒解明的判断ではなくて、
⇒もし強いて名づければ拡張的判断、または総合的判断とすべきであると考えていたに相違いない。
注)解明的判断:「去りつつあるものが去る」という命題は「日本人は人である」という命題と同様に形式論理学的にみるならば何ら誤謬を含んでいない。
これは解明的判断、または分析的判断であって、主語である「去りつつあるもの」「日本人」という概念の中に述語の「去る」「人」という概念がすでに含まれている。主語を分析して述語を導き出すのであるか少しも不合理ではない。
■論争の意義
◆「有」の主張に対する批判
・「破邪」の意味の考察
⇒『中論』は論争の書である。
⇒東アジアの伝統的な表現では「破邪(はじゃ)」をめざしているという。
⇒『中論』の「破邪」すなわち否定の論理は、
⇒あらゆる概念の矛盾を指摘して、事実に反してまでも概念を否定した、と西洋の学者によって一般に解釈されている。
⇒しかしながらはたして『中論』は「概念の矛盾」を指摘したのでああろうか。
⇒一方的断定的な主張は何も述べられていない。
⇒空観から出発する大慈大悲の利他行が何故成立するのか、
⇒その意義は理解されないこととなりはしないであろうか。
⇒『中論』のいわゆる「破邪」とはどのような意味であるかを考察しよう。
・『中論』の論理ープラサンガ
⇒そもそも基本的な態度として、<空>の哲学は定まった教義なるものをもっていない。
⇒中間派はけっして自らの主張を立てることはしないという。
⇒このことはすでにナーガールジュナの明言したとろこである。かれは発言した。
⇒「もしもわたしに何らかの主張があるならば、
⇒しからば、まさにそれゆえに、わたくしには理論的欠陥が存することになるであろう。
⇒しかるにわたくしには主張は存在しない。
⇒まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない」
⇒と、その著書の中の『異論の排斥』で説いている。
⇒ナーガールジュナの弟子であったアーリャデーヴァも同様の趣意でいう。
⇒「もしも〔事物が〕有るとか、無いとか、有りかつ無いとかいう主張の存在しない人ーいかに長い時間を費やしても、かれを論詰する事は不可能である(『四百論』第十六章25)
⇒したがって哲学者チャンドラキールティは、
⇒「中間派にとってはみずから独立な推論をなすことは正しくない。
⇒何となれば〔二つ〕立論の一方を承認することはないからである」(『プラサンナパダー』16ページ)
⇒といい、さらに同書(18-19ページ)で一般に主張命題(宗:しゅう)も理由命題(因)も実例命題(喩:ゆ)も用いてはならぬと主張している。
⇒したがって『中論』の用いる論理は推論ではなくしてプラサンガ(帰謬(きびゅう)論法)である。
⇒プラサンガとは
⇒けっして自説を主張するのではなくて、
⇒論敵にとって願わしからざる結論を導き出す事なのである。
⇒「実にわれわれは{論敵にとって}願わしからざる論理によって論敵の議論を暴露せしめる」とチャンドラキールティは豪語している。(『プラサンナパダー』399ページ)
⇒他派の主張を極力排斥するが、それはけっしてそれと反対の主張を承認するという意味ではない。(『プラサンナパダー』24ページ)
⇒「プラサンガ」とはこのような意味の論理であるから、
⇒厳密な意味では論証とみなすことはできない。
⇒したがってプラサンガは帰謬(きびゅう)法と訳される。
⇒中観派の哲学者たちは、
⇒自分達の立場が論破されることはありえない、という確信をいだいていた。
⇒そうして大乗仏教が、(禅を含めて)神秘的な瞑想を実践しえたのは、
⇒そのような思想的根拠があったからである。
⇒この論法は後代の東アジアに継承された。
⇒中国では僧肇(そうじょう:374年~414年)が<有>と<無>とが何ものかについて絶対的にまた普遍的に述語されることはありえないと主張した。
・破邪の論法の解釈
⇒ナーガールジュナはこのプラサンガ(帰謬(きびゅう)論法)といういわゆる「破邪」の論法によって、
⇒当時の諸学派によって論議されていた種々の哲学的問題を縦横自在に批判したのである。
⇒その破邪の論法は
⇒各章において各問題を扱う態度は非常に類似している。
⇒すなわちごくわずかの基本形式が種々に形を変えて適用されている。
⇒故に『中論』の論法を説明するには、
⇒ただその代表となるべき論法についてその特質を明らかにすれば
⇒『中論』の論法全体を説明するための鍵を与えることになると思う。
⇒『中論』における否定的表現の代表的なものは、
⇒「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」という八種の否定である。
⇒東アジア諸国ではこれを「八不(はっぷ)」と呼んでいる。
⇒八不を論じていく。
⇒そのうちで最も基本的なものと思われる「不来不去」にういては既に<運動の否定>として解明した。
◆不一不異
・一異門破
⇒『中論』の第二章(運動の考察)おいては、
⇒運動というものは過去にも未来にも現在にも存在いえないという議論(三時門破、第一~第一七詩)の次に
⇒第一八詩から第二一詩によって去るはたらきと去る主体との不一不異を証明している。
⇒嘉祥大師吉蔵はこれを「一異門破(いちいもんぱ)」と名付けている。
⇒一異門破の代表としてこの部分のチァンドラキールティ註を訳出してみよう(『プラサンナパダー』101~105ページ)
⇒「また、もしも去るはたらきが去る主体を離れて存するとしても、あるいは離れないで存するとしても、
⇒いかように考察されようとも去るはたらきは成立しえない、とといことを述べていわく
⇒「去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるというのは正しくない。
⇒また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない」(第一八詩)
⇒それでは、どういうわけで正しくないのでのあるか。答えていわく。
⇒「もしも去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるならば、
⇒作る主体と作るはたらきとが一体であるあることになってしまう」(第一九詩)
⇒もしもこの去る作用が去る主体と離れていない(すなわち去る主体と)異ならないのであるならば、
⇒その時には作る主体と作用との同一なることが有るであろう。
⇒それ故にこれは作用であり、これは作者(作る主体)であるという区別はないであろう。
しかるに切断作用と切断者との同一であることはありえない。
⇒それ故に去るはたらきがすなわち去る主体であることは正しくない。
⇒また去る主体と去るはたらきの別異なることもまた存しないということをあきらにしよとしていわく、
⇒「また、もしも去る<主体>は<去るはたらき>から異なっている分別するならば、
⇒<去る主体>がなくても<去るはたらき>があることになるのであろう、
⇒また<去るはたらき>がなくとも<去る主体>があることになるのであろう」(第二〇詩)
⇒何となればもしも去る主体と去るはたらきの別異であることが有るならば、
⇒その時には去る主体は去るはたらきと無関係であろう。
⇒また去るはたらきは去る主体と無関係であると認めらるであろう。
⇒あたかも布が瓶とは別に成立しているようなものである。
⇒しかるに去るはたらきは去る主体とは別に成立しているとは認められない。
⇒また去る主体は去るはたらきとは異なっているということは正しくない。
⇒といったことが証明された。それ故にこういうわけであるから、
⇒「一体であるとしても別体によっても成立することのないこの〔<去るはたらき>と<去る主体>との〕二つはどうして成立するのだろうか」(第二一詩)
⇒上述の理論によって一体だとしても、あるいは別体であるとしても成立しないところの去る主体と去るはたらきの両者がいまどのように成立するのであろうか。
⇒それ故にいわく
⇒「この二つはどうして成立するのであろうか」と
⇒去る主体と去るはたらきとは成立することはない、という趣意である(『プラサンナパダー』104~105ページ
・法有の矛盾を突く
⇒たんに去るはたらきと去る主体という関係を離れて、これを一般的に解釈すれば次のようにいえると思う。
⇒相関関係にある甲と乙との二つの「ありかた」が全く別なものであるならば両者の間には何らの関係もなく、
⇒したがってはたらきも起こらない。
⇒さらに甲であり乙であるということも不可能である。
⇒甲であり乙であるといいうるのは両者が内面において連絡しているからでる。
⇒故に甲と乙が全然別異であるということはありえない。
⇒また甲と乙が全然同一であったならば、
⇒両者によってはたらきの起こることもなく、
⇒また甲であり乙であるという区別もなくなってしまうであろう。
⇒故に両者は全然同一でありえない。
⇒ここにおいても『中論』が
⇒たんなる実在論を攻撃しているのではなくて、
⇒法有(説一切有部)を説く特殊な哲学の根本的立場を攻撃していることがよく分かっる。
⇒たんなる実在論においては、
⇒ここに一人の人が有り、
⇒その人が歩むからその人を<去る主体>といい、
⇒歩む作用を抽象して<去るはたらき>というにすぎないから、
⇒両者の一異という問題は起こらない。
・法有(説一切有部)の立場は
⇒自然的存在を問題にせず、
⇒その「ありかた」が有る、となすのであるから、
⇒一人の人が歩む場合に
⇒「去る」という「ありかた」と「去る主体」という「ありかた」とを区別して考え、
⇒それぞれに実体視せねばならないはずである。
⇒法有(説一切有部)の立場を理論的にどこまでも突き詰めていけば
⇒結局ここまで到達せねばならない。
⇒しからば両者の一異如何が問題とされることなる。
⇒ナーガールジュナは実にこの点を突いたのである。
・ナーガールジュナの姿勢
⇒概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を指摘したのではない。
⇒概念の形而上学的実在性を附与することを否定したのである。
⇒「去るはたらき」や「去る主体」を否定してのではなく、
⇒「去るはたらき」や「去る主体」という「ありかた」を実有であると考え、
⇒あるいはその立場の論理的帰結としてそれらが実有であると認めざるをえないところの
⇒ある種の哲学的傾向を排斥したのである。
⇒このように相関関係にある二つの概念は、
⇒一に非ず異に非ずと主張する「一異門破」は、
⇒『中論』において各処において用いられている。
・五求門破(ごぐもんは)
⇒『中論』における他の論法、たとえば五求門破は
⇒チァンドラキールティのいったよう(『プラサンナパダー』212ページ)
⇒「一異門破」から論理的必然性をもって導き出されたものである。
⇒すなわち甲と乙とが、
⇒(1)<同一のもであること>と
⇒(2)<別異のもであること>と、
⇒(3)甲が乙を有することと、
⇒(4)甲が乙のよりどころであることと、
⇒(5)乙が甲の上に依っているものであることを
⇒否定するのが、
⇒「五求門破」(五つの見方による論破)であるが
⇒(1)と(2)とを否定すると、
⇒(3)(4)(5)はおのずから否定されることになるという。
⇒したがってこの「一異門破」の及ぼした影響は非常に大きいとなねばならない。
◆不生不滅
⇒『中論』においては、不生不滅も作用に関して立言されることであるから、
⇒不来不去の証明の場合と同じ論理を用いる。第二章の最初において、
⇒「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。
⇒さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない」(第一詩)
⇒と論じたと同様に、
⇒「いま現に生じつつあるものも、すでに生じたものも、未だ生じていないものも、けっして生じない。
⇒「いま現に去りつつあるものも、すでに去ったものも、未だ去らないもについて、このように説明されている」(第七章・第一四詩)
⇒「未だ滅びないものも滅びない。すでに滅んでしまったものも滅びない。いま現に滅びつつあるものもまた同様に滅びない」(第七章・第二六詩)という。
⇒故に不生不滅はもちろんのこと、他の一切の作用に関しても第二章の三世門破を用いうるわけである。
⇒議論の根本的態度はすでに『中論』全体を通じてほぼ一貫している。
🔶不断不常
不断不常を主張し合う<法有(説一切有部)>と<法空(中観派)>
元来ブッダは
仏教以外の諸派の説を
断または常の見解に隋するものとして排斥した。
かりそめにも仏経徒たるものは
けっして断滅と常住との偏見を持つことは立場上許されない。
すなわちいかなる個人存在もまたいかなる事物も
永久に存在する(常住)と考えてはならない。
また反対にただ消え失せてしまうだけである(断滅)と考えてはならない。
この両方の見解はともに排斥されねばならない。
「不断不常」は仏教徒にとっては絶対の真理である。
・しかしながら有部(説一切有部)のように
⇒ダルマ(法)を独立の実体とみなし、
⇒これが過去現在未来の三世に恒有であるならば、
⇒著しく集積説に近くなるから、
⇒これははたして「不断不滅」を説いたブッダの最初の思想に忠実であるといいうるのであろうか。
・有部と対立する学派であった経部(上座部仏教の一派)の主張
⇒すでにこの点に着目して、もしも説一切有部が主張するような「三世実有法体恒有」の説を許すならば、
⇒常住という理論的欠点に隋するのではないか、といって有部を攻撃している。
・有部の反論
⇒ダルマ(法)それ自体(法体)は恒有するけれども、
⇒「世を経」から、すなわち過去現在未来という時間的規定を受けるから
⇒「常住」の理論的欠点には陥らない、といって極力弁解している。
⇒しかしならが依然として有部にはこの弱点がつきまとっている。
・ナーガールジュナの主張
⇒まさしくこの弱点を突いたのである。
⇒法有(説一切有部)の立場の人は極力自己の説が「断」または「常」の理論的欠点に陥らないということを証明しているのに対して、
⇒ナーガールジュナは、たとえ相手がそのように証明するにしてもやはり「断」と「常」との理論的欠点に陥るといって攻撃している。
⇒たとえば第一七章第一七詩において「法有」の立場に立つ人々は、
⇒「そうして心から個人存在の連続が〔起こり〕。
⇒また個人存在の連続から果報の生起が有り、果報は業に基づいているから、断でもなく、また常でもない」といいい、また第二〇詩において、
⇒「仏によって説かれた<業が消失しないという原理>は、
⇒空であって、しかも断絶ではなく、輪廻であってしかも常住ではない」と説いているのに対して、
⇒ナーガールジュナは
⇒「何故に業は生じないのであるか。それは本質をもたいないもの(無自性)であるからである。
⇒またそれが不生であるが故に(生じたものではないから)、滅失することはない」(第二一詩)と答えている。
⇒その意味は、仏<業が果報を受けないで消失することはないという原理>を説いたとしても、
⇒それは業が本体のないもの(無自性)であるから不生なのであり、
⇒したがって不滅(不失)であるというのであり、
⇒相手(正量部:上座部仏教の一派)の理解するような意味ではないというである。さらに次の第二二詩によると、
⇒「もしも業がそれ自体として(自性上)存在するならば疑いなく常住であろう。
⇒また業は作られたものではないことになるであろう。
⇒何となれば常住なるものは作られることがないからである」と答え、
⇒以下さらに反駁(はんぱく)を続けているが、要するにナーガールジュナは
⇒業がそれ自体(自性上)有るならば、「常住」という理論的欠点に陥るが、
⇒業が自体の無いもの(無自性)であるからこそ、「常住」という理論的欠点に陥らないと主張している。
⇒また第二一章第一五詩において法有の立場の人が、
⇒「有〔の立場〕を承認している人にとっては、
⇒断滅ということも無いし、また常住ということも無い。
⇒〔われわれの〕この生存というものは結果と原因との生起、消滅の連続であるからである」と主張するのに対して、
⇒ナーガールジュナは、
⇒「もしも結果と原因との生起と消滅との連続が生存であるならば、
⇒消滅がさらに生ずることは無いから、原因の断滅が隋(したが)い起こる」(第二一章第一六詩)
・「断滅」に堕ったとして論破
⇒<法有(説一切有部)>の立場も<法空(中観派)>の立場も共に、
⇒「不断不常」を真の仏教であるとみなして、
⇒自己の説においては断常の理論的欠点が無いことを互いに主張し合っている。
⇒どちらがブッダの真理に近いかという問題に関しては、なお独立の研究を要するが、
⇒ナーガールジュナによれば、
⇒実有なる法(ダルマ)を認めようとすると
⇒それが存続すれば「常住」という理論的欠点に隋し、
⇒滅すれば「断滅」という理論的欠点に陥るから、
⇒法有(説一切有部)の立場においては「不断不常」ということは不可能である。
⇒反対にダルマ(法)が実体の無いもの(無自性)であるからこそ「不断不常」といいうる、と解するのである。
⇒すなわち、一、異、去、来、生、滅を論破したように「断」「常」を論破したのではなく、
⇒「不断不常」であると自ら称する相手の説を、
⇒実は「断常」に陥ったものであるとして、それを論破したのであるから、
⇒他の「論難」(破邪)の論法とは幾分内容を異にしている。
◆『中論』における否定の論理の歴史的脈絡
・実念論思惟の排斥
⇒『中論』はけっして従前の仏教のダルマ(法)の体系を否定し破壊したのではなくて、
⇒法を実有とみなす思惟を攻撃したのである。
⇒概念を否定したのではなくて、
⇒概念を超越的実在と解する傾向を排斥したのである。
⇒「であること」(essentia)を、より高き領域における「があること」(existentia)となして実体化を防いだのである。
・四有為相と有部
⇒われわれの身心が軽やかな気持(軽安:きょうあん)になることがある。
⇒その軽やかな気持というはたらき(ダルマ)が生起するやいやな、次の瞬間には消滅するけれども、細かく分けていうと、その間に、
⇒(1)生起し、(2)生起したその状態をたもち、(3)その状態が変化し、(4)消滅する、という四つの段階がある。
⇒それぞれの漢訳では(1)「生」、(2)「住」、(3)「異」、(4)「滅」とよぶ。
⇒これらは有為のダルマの無常の姿を示す特質であり、四有為相(しういそう)とよぶ。
⇒ところで説一切有部の教学によると、
⇒これら四つは独立の原理(ダルマ)であって、
⇒人に「軽やかな気持」が起きるときには、
⇒「生」という独立の実体としての原理がはたらくから、それが生ずるのである。
⇒それがとどまるのは「住」という原理がはたらくからで、
⇒またその軽やかな気持が変化すのは「異」という原理がはたらくからであり、
⇒またそれが消滅するのは「滅」という原理がはたらくからである。
⇒ところで「生」という原理が「軽やかな気持」にはたらいてそれを生ずるためには、
⇒「生生」(生を生起させるもの)という別の原理がはたらく。
⇒それを漢訳で「隋相(ずいそう)」という。
⇒では、「生生」(生を生起させるもの)を生ぜしめる原理は何か、というと、
⇒もとの「生」という原理(本生)がはたらく。
⇒したがって無限遡及にはならない。
⇒「住」と「住住」、「異」と「異異」、「滅」と「滅滅」とのあいだにも同様の関係があるという。
⇒こういう見解をナーガールジュナは批判するのである。
⇒したがって『中論』および『俱舎論』においてこのような思想を攻撃する論法を比較することは無意味ではないと思う。
・「大毘婆沙論」と「俱舎論」との対比
⇒さて、『中論』第七章の第一詩には、
⇒「もしも生ずること(生:しょう)が<つくられたもの>(有為)であるとするならば、
⇒そこ(すなわち生)には三つの特質(〔相〕、すなわち生、住、滅)が存在するであろう。
⇒もしもまた生がつくられたないもの(無為)であるならば、
⇒どうしてつくられたものをつくられたものとする特質(有為相)があろうか」とあるが、
⇒前半は「俱舎論」に
⇒「諸行の有為なることは、四つの本相(ほんそう)による。本相の有為なることは、四つの随相(ずいそう)による」あるのに対応し、
⇒後半は「大毘婆沙論」によると
⇒分別論者は、「四有為相は無為であり、性強盛であるが故に有為相でありうる」(三八巻、大正蔵、三七巻、198ページ)と説いていたと伝えられているから、あるいはこのような説にあたっているのかもしれない。
⇒第二詩は次のようにいう。
⇒「生などの三〔相:すなわち生、住、滅〕がそれぞれ異なったものであるならば、
⇒有為〔のもの〕の〔生・住・滅という〕特質をなすのに充分ではない。
⇒それらが合一するならばどうして同一時に同一のところにあることができるであろうか」
⇒「俱舎論」では主として後半が問題とされている。後半をピンガラの註釈では、
⇒「もしも〔それらが〕和合すとせば、それらは共に相違(矛盾せる)法なり。
⇒何んぞ〔同〕一時に俱(とも)にあらんや」というのみであるが、
⇒「俱舎論」をみると説一切有部が
⇒「もし有為なる色等の自性を離れて、生等の物(生起の原理などの実体)が有ることは、また何の非理かあらん」と反論しているのに対して、経部(上座部仏教の一派)はそれを論難して、
⇒「〔同〕一の法が〔同〕一時に、即ち生と住と衰異と、俱に有りと許すべきか」(「俱舎論」五巻、一六枚右ー左)と前置して、
⇒「また住等の三つの用(ゆう:はたらき)は俱に現在ならば、まさに一つの法の体が一つの刹那の中に、即ち安住と衰異と壊滅と有るべし。
⇒もしも時に住相が能(よ)くこの法を住せしめ、即時に異滅が能く衰壊せば、
⇒その時にこの法を安住と名づくとせんや。衰異と名づくとせんや。壊滅名づくとせんや」と論じ、また後の方では、
⇒「〔同〕一の法が〔同〕一時の中において亦(また)住し亦滅せば、正理(しょうり)に応せず」
⇒というからこの論法は『中論』と同じである。
⇒第三詩は次のようにいう。
⇒「もしも生・住・滅に、さらに〔それらを成立せしめたるための〕他の有為相があるならば、
⇒こういうわけで無限遡及(無窮:むぐう)となる。
⇒もしも〔これらの生・住・滅に、さらに他の有為相が〕存在しないならば、
⇒それら(生・住・滅)は有為ではないことになってしまう」
⇒この詩の前半と同じことを第一九詩の前半でもいう。
⇒「もしも他〔の<生>〕がこ〔の生〕を生ずるとするならば、そこで<生>は無限遡及となってしまう」
⇒この第三詩の前半や第一九詩の前半と同じ意味のことを、ヴァスバンドゥは「俱舎論」において論じている。
⇒「この生等の相は既に是れ有為なり、応(まさ)に更に別に生等の四相有るべし。
⇒もしもさらに相あらば、すなわち無窮(むぐう)を致すべし。かれに復(ま)た余の(他の)生等の相有るが故に」(五巻、一二枚左)
⇒また他のところでも、
⇒「豈(あ)に本相が、所相の法のごとく一々に応じ四種の隋相あるべく、これも復た各々四ならば、展転して無窮(むぐう)なるにあらざらんや」という。
⇒この議論はすでに「大毘婆沙論」に見えている(三九巻、大正蔵、二七巻、200ページ下)
⇒「問う、生相に復(ま)た余の(そのほかの)生相有りや、いやな。
⇒もししからば、何の失かあらん。もし有らば、これに復(ま)た余の(他の)〔生相〕有り、
⇒かくのごとくして、展転して応に無窮(むぐう)を成(じょう)すべし。
⇒もし無くば誰かこの生を生じて、しかし他の〔生を〕生ぜんや」
⇒「答う、応にこの説を作(な)すべし。生も復(ま)た生有り」
⇒「問う、もししからば、生相は応に無窮(むぐう)を成(じょう)すべし」
⇒無限遡及になりはしないか、という疑問に対して次のような返答がなされている。
⇒「〔一〕この説を作(な)すもの有り。この無窮(むぐう)を許すとも亦た過〕失有ること無し。
⇒三世寛博なるに豈に住する処無からんや。
⇒この因縁に由って生死(しょうじ)は断じ難く、破し難く、越え難し。。
⇒また同一刹那の故に無窮(むぐう)の〔過〕失無し。
⇒〔二〕余師有りて説く。諸行の生ずる時に三法が俱(とも)に起こる。
⇒一には法、二には生、三には生生。この中にて生は能く〔過〕二法を生ず。
⇒謂(い)わく、法および生生なり、生生は唯だ一つの法を生ず、〔それは〕謂(い)わく生なり。
⇒この道理に由って、無窮(むぐう)〔過〕失無し」
⇒このように「大毘婆沙論」には二種の答えが述べられているが、そのうちで後者が「俱舎論」に採用され、また『中論』にも述べられている。
⇒「俱舎論」(五巻、一二枚左ー右)においても、
⇒「応に更に有りというべし。しかれども無窮(むぐう)には非ず。所以は何ぞ。頌にいわく。これに生生等有り。大と一とにおいて能く有り」という。
⇒すなわち生生が本生を生じ、本生が生生を生じるから、無限遡及(無窮:むぐう)の難点はありえないということを詳しく論じている。
⇒『中論』もこの議論を受けて第四詩において、
⇒「生を生起させるもの(生生)〔と称させらるる生〕はたんに生というもとの原理(本生)の生にすぎない。さらに本生は生生を生じる」という反対派の議論を紹介している。
⇒第一三詩では次のようにいう。
⇒「この未だ生ぜざる生がどうしてそれ自体を生ぜしめるであろうか。
⇒もしもすでに生じたものが生ぜしめるのだとすると、
⇒すでに生じたのにどうしてさらに生ぜられるであろうか」
⇒これと全く一致しているのではないが、類似した議論が「俱舎論」にみえている。
⇒「たとい未来の生に作用(さゆう)ありと許すとも、如何んが未来を成(じょう)ぜんや。
⇒応に未来相を説くべし。法の現在する時には生の用(はたらき)はすでに謝す(消え失せている)。
⇒如何んが現在を感ぜやん」(五巻、一六枚右)
⇒第一九詩では次のようにいう。
⇒「もしも他〔の<生>〕がこ〔の生〕を生ずるならば、そこで<生>は無限遡及となっていまう。
⇒またもし不生であるのに生じたのだとするならば、一切はみなこのようにして生ずるであろう」
⇒前半はすでに論じたから省略する。後半は「俱舎論」の
⇒「もしも生が未来に在って、生の法を生ぜば、未来の一切の法は何ぞ俱に生ぜざる」(五巻、一七枚左)に相当するのであろう。
⇒第一三詩では次のようにいう。
⇒「いま現に消滅しつつあるものが住するということはありえない。
⇒またいま現に消滅しつつあるのではないものはありえない」
⇒これは生住滅の三相または生住異滅の四相を立てる有部の痛いところを突いている。
⇒仏教によれば一切は無常であるはずなのに住(続)という原理を立てるのは何故であろうか。仏説に背反するおそれはないか。
⇒これも「大毘婆沙論」少なからず問題となっていることであって、
⇒住を有為相のうちに入れない学者も当時存在していたほどである(「大毘婆沙論」三九巻、大正蔵、二七巻、201ページ中ー下)
⇒『中論』のこの主張もこの系統を受けているのかもしえない。
・論法の独創性と共通性
⇒このように第七章だけについてみても『中論』の主張は、「大毘婆沙論」および「俱舎論」にみえているところの、
⇒有部を攻撃する学者たちの説(とくに経部)と共通なものが少なくない。
⇒『中論』は経部をも含めて論破しているから中観派と経部とをただちに一括して論ずることはできないが、その論法に共通なものがあるという事実は否定できない。
⇒したがって三世門破・一異門破のような一般的な、また『中論』の根本となる論法はナーガールジュナ自身の独創になるらしい、またナーガールジュナ自身もそれを誇示しているようであるが、
⇒第七章のように、ある特定の派の体系を相手としているところでは、
⇒中観派以外のある派(たとえば経部)がその派(有部)に対して向けた攻撃の論理と共通のものが少なからず存在する。
◆否定の論理の比較思想論的考察
・東西における対比
⇒ナーガールジュナの運動否定の論理は、
⇒しばしばゼーノーンの運動否定論に対比される。
⇒ナーガールジュナとゼーノーンとの間には類似の存することはしばしば指摘され、
⇒特に運動の否定の議論が似ているのであるが、
⇒ゼーノーンとナーガールジュナとの間には根本的な相違が存する。
⇒ナーガールジュナについては、R・パニッカルによって「否定判断は判断の否定である」と評されている。
⇒これはつまり、中観派の運動否定論は、
⇒運動に関する肯定判断の否定であるというのが適当であるということに帰着する。
⇒しかし注目すべきことは、
⇒運動の観念についての批判は、
⇒運動に関する判断を問題にしているのではなく、
⇒きわめて実念論的な仕方で、つまり実在する実体とみなされた(「運動」という)観念についてなされたのであった。
⇒詭弁とも思われるようなナーガールジュナの論法はいろいろであるが、
⇒関係概念を実体視する考えかたーとくに説一切有部において最も顕著であったがーを攻撃した。
⇒こういう批判はプラトーンの対話篇の中にも現れている。
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⇒
◆否定の論理の目的としての<縁起>の解明
・『中論』の目的
⇒以上「八不」(「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」という八種の否定)をてがかりとして
⇒簡単に『中論』における否定の論理を検討したのであるが、
⇒このように『中論』が種々なる否定の論理によって
⇒<法有>の主張を排斥しているのは一体何を目的としていたのであろうか。
⇒最後の目的は、
⇒もろもろの事象が互いに相互依存または相互限定において成立(相因持)しているということを明らかにしょうとするのである。
⇒すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして存在するから、
⇒もしもその相関関係を取りさるならば、
⇒何ら絶対的な、独立なものを認めることはできない、というのである。
⇒ここで<もの>という場合には、
⇒インドの諸哲学学派が想定するもろもろの形而上学的原理や実体を意味しうるし、
⇒また仏教の説一切有部が想定する<五位七十五法>の体系のうちもろもろのダルマ(法)を含めて意味しうる。
⇒何であってもよいのである。
⇒たとえば『中論』の第二章(運動の考察)において、
⇒去るはたらき、去る主体、去っておもむくところを否定したあとで、
⇒ピンガラはいう。
⇒「かくのごとに思惟観察せば去法(去るはたらき)も去者(去る主体)も所去処(去っておももくところ)も、
⇒これらの法は皆な相因持す。
⇒去法に因って去者有り。去者に因って去法有り。この二法に因らば則ち去るべき処あり。
⇒定(さだ)んで(決定的に)有りと言うを得ず、定んで無しと言うを得ず」(大正蔵、三〇巻、50ぺージ下)
・縁起を明かす『中論』
⇒この<相因持せること>を別の語で「縁起」とよんでいる。
⇒チァンドラキールティの註によると、
⇒「不来不去なる縁起の成立のために、世間に一般に承認された去来の作用を否定することを目的として」、
⇒第二章における否定の論理が説かれているという(『プラサンナパダー』92ページ)。
⇒故に不来不去を説くのは実は縁起を成立させるためなのである。
⇒また不生不滅を主張するのも、「不滅などによって特徴づけられた縁起」(同書12ページ)を明らかにするためであり、
⇒また、不一不異を説くのも、「不一不異なる縁起の法を解せしめんがための故に」(『般若灯論釈』七巻、大正蔵、三〇巻、84ぺージ上、86ページ下)である。
⇒また不常不断は最初期の仏教以来縁起の説明において常に説かれていたことでありーっこれは後に説明するー、
⇒いま『中論』において不常不断なる縁起が説かれているのもすこしも不思議ではない。
⇒したがって八不(「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」という八種の否定)は縁起を明かすために説かれていることであるから、
⇒チァンドラキールティは、
⇒「論書(『中論』)の闡(せん)明すべき目的は、不滅等の八つの特徴によって特徴づけられた縁起である」(『プラサンナパダー』3ページ)と断言している。
⇒八不がそのまま縁起なのである。
⇒このように、『中論』における否定の論理が
⇒ことごとく縁起を明かすために述べられているのであるから、
⇒『中論』全体が縁起を明らかにしている、という推定が確かめられたこととなる。
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