Nāgārjuna における空と縁起/斎藤明著~『中論偈』第24 章・第18 偈の解釈をめぐって~

出典:

 周知のように、天台教学の基礎をなす真理(諦)観に円融の三諦説がある。本稿は、その三諦説の源流となったナーガールジュナ(龍樹、150-250頃)作の『中論偈』第24 章・第18 偈がもつ意味を再考したい。当該の詩頌は、

「縁起、それをわれわれは空と呼ぶ。それは[質料因等に]依っての表示であり、それこそが中道である。」

という内容で、鳩摩羅什はこれを「衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義」(青目釈『中論』T 30, 33b11-12)と訳出した2。」

 上に引用した『中論偈』第24 章・第18 偈の解釈をめぐっては、従来、中村元[1964]に代表されるように、『中論偈』のテキストでは、縁起=空=仮名=中道という理解であり、これに対して、同偈を空諦、仮諦、中諦の三諦を説く偈頌とみる「三諦偈」解釈は、天台教学(=中道第一義諦)における独自の理解にもとづいた発展的な解釈である、というような受けとめ方が一般的であった。

 近年、斎藤[1998]śūnyatā(空[性]、空そのもの)、śūnyatārtha((空義、「空」の意味対象)、śūnyatāyām prayojanam((空用、空であるときの有用))という空の三義を説く同章・第7 偈の解釈を中心に、同章全体の構成を考察した3。

本稿では、従来の研究をふまえたうえで、「空」の意味対象を論じる第24 章・第18 偈に焦点を当て、Nāgārjunaにおける空と縁起の関係を再考する4。考察に際しては、同章全体の文脈、『中論』の他章におけるーとくに「空」「縁起」「依っての表示」と、それらに関連する「固有の本質(自性)(svabhāva)等の主要術語についてナーガールジュナの言明、ならびに第24 章・第18 偈に対する諸注釈を参照したうえで論を進めたい。

■ I 『中論偈』第24「聖なる真理(聖諦)の考察」 章の内容と構成