出典:
■ 龍樹(ナーガールジュナ)(150─250年頃)
龍樹は中観派の祖であるが、八宗の祖ともいわれるように、あらゆる宗派の教えの根本すなわち大乗仏教の本質を表した論師ということになろう。大乗仏教の本質とは、空(くう)の智慧、他者の救済(利他行)、六、(十)波羅蜜等である。他者の救済を教えの根本に据えるところが大乗仏教の大乗仏教たる所以である。このことを空の智慧の下に説くのが龍樹である。したがって、あらゆる宗派の祖師といわれる。
龍樹に帰せられる著作のうち、浄土教との関係の深いものも含め主なものを挙げると、『中論』『廻諍論』『空七十論』『六十頌如理論』『宝行王行論』『勧誡王頌』『大智度論』『十住毘婆沙論』である。
龍樹の主著といわれる『中論』は、全体で二七章、四五〇偈弱からなる、経典以外では世親の『倶舎論』と共に最もよく読まれ研究されてきた仏教哲学書である。
そこに説かれることは、縁起すなわち「空(くう)」である。その意味は、戯論寂滅(けろんじゃくめつ)、縁起に集約されよう。以下にこのことを表す。
我々の見、考えることは自己の経験により形成されてきた多分に思い込み、決めつけと言い得るものであり、虚心に真実を見、考えているものではないという反省に立ち、正しい知見を得さしめるのが「空(くう)」と知ることになるかと思われる。
この意味で「空」であると知る智慧とは、先入観、固定観念の払拭を目指す英知といってよい。
我々の先入観、固定観念の根本は「戯論(けろん)」にあると説かれる。この戯論を鎮めることが戯論寂滅(けろんじゃくめつ)といわれ、自ら造った束縛からの自由、解脱に連なるということである。
では、その戯論とは何か、その意味を『中論』の注釈書、月称(600─650年頃)の『明らかなことば』から取り上げよう。
『明らかなことば』PrasP ch.18,p.350,13-17
業と煩悩との滅から解脱がある。
まず、諸の業と煩悩とは分別から起こる。また、それらの分別は無始以来の輪廻において繰り返し繰り返し経験してきた知識とその対象、言葉とその対象、行為と行為をなす人、道具と作用、壺と布、冠と車、色(物質的なもの)と受(精神的なもの)、女と男、利益と不利益、楽と苦、名誉と不名誉、非難と称讃などの特徴をもった種々様々な戯論から生起する。この世間的なあらゆる戯論は、空性において全ての存在の自性は空性であると見るときに滅せられる。
二重線(太文字)を施した箇所が龍樹の『中論』第十八章五偈である。ここに表される戯論の意味とは、自己の経験の蓄積により作り上げた思考の枠組みといえよう。そこには誤解が含まれており、偏見の温床ともいえよう。したがって、貪り、怒り、無知の根本であると龍樹は究明している。この根本原因が明らかとなれば、それを除くことが、解脱への道(どう)となる。
「自性(じしょう)分別(ふんべつ)」とは、自ら思い込んだ固有の性質(自性)ありと別け隔てすること格差を設けることであり、それは優越感、劣等感、差別意識、偏見、他者を見下すことにつながりやすい。
したがって、他者の救済、他者への思いやり、すなわち慈悲心は希薄となろうから分別を除く必要がある。このことによって誤った営み(業と煩悩)が正され得ることになる。空の智慧に目覚めることとは偏見、差別意識の不条理に気付くことに始まる。すなわ
輪廻において形成された思い込み(自性)→戯論→分別→業と煩悩→さらなる輪廻
輪廻から解脱への道(どう)は、自性の空性(縁起・無自性)→戯論の滅→分別の滅→業と煩悩との滅→解脱
この解脱への経緯が「縁起」ということになる。
<参考情報>
■『空』を例える
・口の中にツバが出来れば、自然とツバを飲み込む(下図の右側)
⇒そのツバを一旦コップに出して、それを飲み込む事は出来ない(下図の左側)
⇒「ツバ」そのものは変わらない


(物質的存在としての本体がない→固定的に永遠に存在する本体はない→無自性=空)

・汚い「ツバ」は存在しない
⇒「汚い」と思う(=「苦」の原因)は妄執

■妄執(苦)を離れるのが『空』
・物質的存在としての本体がない
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性=空

■『空」の教え
・分別(認識)からの開放
⇒妄執(苦)を離れる事

■苦しみの原因(要因)
・分別(認識)にある

■空の教え
・すべての執われを離れる
⇒空の教えが仏教として真実(仏説)であることを証明することであった
・龍樹がした証明
⇒釈尊が説いた「縁起」と「中道」から明らかにしていく
■空が仏説であることを論説(『根本中頌』第24章第18偈(げ))
◆縁起=空=中道
・縁起は
⇒何かを因として
⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること
⇒そういうものを「因施設」と呼んでいる
・空
⇒名付けられた諸々が「空」
・中道
⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない
⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)
⇒つまり実体がない=空
⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)
⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが
⇒それが中道である
■龍樹
・「相依性の否定」
⇒空であるから
⇒相互依存は成立しないと論証した

■執着から離れる
・名付けることを排する



出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~
■ 空と縁起
「空」という仏教思想は、その意味するところが誤解されたものは他にないといっていい程、誤解されやすい最たるものであろう。なぜなら、空であれば、全ては空虚なものとなり努力することも無意味となり、まして衆生救済はあり得ず仏教そのものも成り立たないのではないかという類のものである。
この種の誤解は仏教内外から向けられ、今に始まったことではなく龍樹の時代からそうであったのである。それは『中論』第二十四章から知られてくる。それに対し龍樹は、空だからこそすべては成立し、空こそが縁起であることを述べている。この道筋を見てみよう。
もし、この全てのものが空であるなら、生は存在せず、滅は存在しない。汝(中観派)にとって四つの聖なる真理は無であることになろう。(24-1)
四つの真理が存在しないから、智、(煩悩を)断じること、(道を)修すること、証(悟りを得ること)もあり得ない。(24-2)
法(教え)と僧(教団)とが存在しない場合、どうして仏が存在しようか。そのように[空であると述べる]汝は三宝も破壊しよう。(24-5)
[それらに対する、龍樹による答弁は以下のものである]
そこで、我々は次の通り答える。汝は空性を説くことの目的を、空性を、また空性の意味を理解していない。したがって、以上のように混乱させられている。(24-7)
二つの真理に依存して諸仏の教えは説き示される。世間における世俗的真理と最高の意義からの真理とである。(24-8)
この二つの真理の区分を知らない人々は、ブッダの説法に関する深い真理を知り得ない。(24-9)
ここで龍樹自らが述べるように、世間で正しいとされるものは尊重される。
しかし、それは自分にとっての常識や戯論(けろん)の域を出るものではない。また誤解や偏見の寂滅に至ったものでもなく、勝れた真実からは程遠いといえよう。
空であることが妥当するものには全てが妥当する。空であることが妥当しないものには全てが妥当しない。(24-14)
縁起であるものを我々は空であると説く。それ(縁起)は[因]によって仮に設定されたものである。それこそが[一方に偏向しない]中道である。(24-18)
縁起とは、この世界の全てのものは、種々な原因から起こっていることという因果関係のことであるが、種々な原因によってというのは、他の力によってということである。戯論の領域に留まる限り、自己の力によってと思い間違いをし、他者への思いやりが欠如しやすい。そこで、大乗仏教は空の智慧により縁起を他者の救済、廻向の思想、慈悲において表そうとするのである。
<参考情報>







出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え」2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記
■ 縁起に非ざるも──自性(じしょう)
上の『明らかなことば』における戯論の解説から知られるように、例えば、「道具と作用」ということに関して、ナイフを取り上げてみると、それは果物の皮をむいたり、切り分けたりするのに極めて有効である。他方、それは凶器ともなり極めて危険なものである。諸刃の刃といわれるのはこのことである。「楽と苦」についても、一方の人にとっては楽しいと感じられることも、他方の人にとっては苦痛でしかない場合もある。これは人の経験や努力の積み重ねによっても、時代や土地柄によっても異なり多様性をもつ。
このように、我々の見たり、聞いたりする事柄には、他から独立した一義的な意味があるわけではないにもかかわらず、つい自分の思い込みや決め付けによって、その意味を捉えてしまう。
このように、これにはこの固有の性質があると思い込んでしまったものを、龍樹は「自性」と呼び、実際には、そのような自性はなく「無自性(むじしょう)」である、なぜなら、諸条件によって成り立っていることが「縁起」であるから、自性とは諸条件により成り立っていることとは反対にそれ自身で成立する性質ということになり、縁起とは反対に因と縁とによらないものであり、そういう自立的な性質は存在しないからである。
これは、何の特徴もないことをいっているのではなく、一方的な思い込みとしての性質はないといっているのである。われわれの陥りやすい弱点を指摘し、その自覚の下に正しい認識に立つことが、「戯論」を脱する方向性をもった「道(どう)」を歩むことになるというのである。このことを龍樹は『中論』第十五章などで
固有な性質(自性)が諸の因と縁とによって生起することは不合理である。自性が因と縁とによって生起したものなら、それは作られたものということになろう。(15-1)
しかしながら、自性が、どうして作られたものであろうか。なぜなら、自性は作られたものでなく、他に依存しないものであるからである。(15-2)
もし、自性として存在するということがあるなら、それは無となることはないであろう。なぜなら、自性が別のものになることは決してあり得ないからである。(15-8)
有るというのは常住と把握することであり、無いというのは断滅という見解である。したがって、賢明な人は、有ることと無いこととに依存してはならない。(15-10)
もし、空でないなら、到達し得ていない(修行の段階)に(向上して)到達することも、苦悩の尽きる段階に到達するための行為も、あらゆる煩悩を断じることもなくなる。(24-39)
自性が存在し「空」でないとしたら、何も変わらないことになり、修行によって努力することによって進歩し向上するという変化も起こらないことになるというのである。「空」であるからこそ、全てに変化をもたらし得るのである。
したがって、誤った行為によって罪を犯したとしても、悔い改め新しい行動を起こせば、自己に変化を起こし得るということである。
龍樹は、上で見た『中論』以外にも多くの著作を残している。龍樹作とされるものにも、はたして『中論』を表した龍樹と同一論師による作なのかと疑問の呈されるものもある。大部の『般若経』である『大品(だいぼん)般若経』の注釈とされる『大智度論』、後代の浄土教思想の展開に大きく影響した『十住毘婆沙論』も同様である。
『大品般若経』、『大智度論』、『十住毘婆沙論』は、何れも龍樹より約百年後の鳩摩羅什(344─413年)により訳出されたものである。後二論書に関し、龍樹作の真偽の検討も含め、その両著に踏み込まないことには、大乗仏教の大論師である龍樹の思想を説明できないとも考えられる。
『般若経』と『中論』とは、「空」「縁起」「無自性」を説く点で共通している。『大智度論』の全てではないとしても、龍樹の著した部分も存在すると考えるなら、龍樹は『大品般若経』に精通していたと見られる。むしろ大乗諸経典に広く通じることなく『中論』を著したと考えることはできないし、広く経典に依存しない論師はいないといってもよい。なぜなら、論を著わす場合についても仏説である経典の教えから逸脱してはならないし、何よりも論述の正当性は仏典に基づくことによって確保され得るからである。
<参考情報>

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え」2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記
上の『大品般若経』には、空の思想に立った菩薩の行として六波羅蜜がテキストの全てに渡って詳述され、また菩薩の誓願、廻向、他者の救済という点でも『無量寿経』や浄土教思想と相通じるものが広く説かれている。このことは、『大品般若経』を紐解けば一目瞭然である。「空」を説く経典に他者の救済など説かれないのではないか、という先入観はありがちかも知れないが、事実は全く異なる。
■ 『十住毘婆沙論』と廻向
廻向とは自ら行った善なる行為を無上菩提へと向けることである。それは自己のためではなく衆生の為にである。
ここに大乗仏教の菩薩の利他行としての廻向がある。元来、業(ごう)の思想においては、自ら行った行為(業)、それは善なる行為であっても、悪なる行為であっても、その結果(業報)を引き受けるのはその行為者であるこの自分自身なのである。自己責任の原則は厳格である。
一方、悪業を行った結果、苦悩の真っただ中にいる衆生はどうなるのか、自己責任を負うに負えない幼い子や自己や災難で突如この世を去った人々は、どうなるのか、自己責任など何もない幼い子が虐待によって、なぜ死ななくてはならなかったのか、その後の人生はどうなったのか、
このことを思う時、自己責任の原則を超えるものがなくてはならない。でなければ、他者の救済は成立しない。
大乗仏教の修行者達は、このことを真剣に問うたはずである。それに答えるものが廻向の思想であるといってよい。自分の行いを他者のために役立てる。この誓いをなすのが菩薩である。自己の救いがあるとすれば、あらゆる衆生が救済されてからである。法蔵菩薩の誓願、四十八願もこのことに始まる。以下、『十住毘婆沙論』について具体的に見ていこう。
除業品 第十
我が所有る福徳は 一切を皆な和合して 諸もろの衆生の為めの故に 正しく仏道に廻向す
罪は応さに是の如く懺すべく 勧請し福を随喜し 無上道に廻向すること 皆な亦た応さに是の如くすべし
諸仏の所知の如く 我れ罪を悔し勧請し 随喜し及び廻向することも 皆な亦た復た是の如し
ここに自己の福徳を衆生のために、無上菩提に向けるという廻向の思想が表わされている。自己の犯した罪が懺悔により許され得るのも、自己のあらゆる福徳が衆生のために無上菩提に向け、衆生の利益(りやく)になり得るのも、自己の行為と他者の行為とは別物であると区別する「自性」がないからであり、即ち「空」であるからである。
したがって菩薩の行為を因とし縁として衆生の救済が成立し得る、すなわち「縁起」ということになる。あえていえば、龍樹の『中論』の空、縁起、無自性と何ら異なるものではない。
だからといって、『十住毘婆沙論』は龍樹作であるとの証明にはならないとしても、反対に龍樹作を疑う明確な根拠もない。現段階においては、龍樹作の可能性を探る方が意味があると思える。なぜなら、自己の仏教思想の完成に向けて他者の救済という鋭い意識が『大品般若経』を熟知していたであろう龍樹にあったに違いないからである。
付言しておきたいことは、元々、「廻向」と「空」とは、別々のものではない。『大品般若経』攝五品第六十八には、菩薩は廻向するとき、誰が、何をもって、どこに廻向するかという思いを起こしてはならない。すなわち三輪清浄ともいうべき空に基づく廻向でなくてはならないことが説かれている。また「空」であるからこそ他者の為にという廻向も成立し得る。

■ 菩薩の誓願による行(ぎょう)の仏教から阿弥陀仏信仰へ