出典:淑徳大学社会福祉研究所総合福祉研究 № 25
Keywords:般若経,相依性,慈悲業
■ はじめに(本稿の目的と取り上げる範囲)
ソーシャルワークがその根底に据える「価値観」「人間観(対象者観)」をソーシャルワーク初学生に教授していく際,我々教師は迷うことなく欧米型の援助観,すなわちキリスト教的「価値観」「人間観(対象者観)」を根底に据えつつ,ソーシャルワーク教育全体の構成をつくりあげてきているといっても過言ではない.このことはさまざまな社会福祉士養成テキストで取り上げられているソーシャルワークの「価値観」「人間観(対象者観)」に関わる単元を調べても明らかである.
他方,福祉相談の現場では,深刻な生活状況下で悩み苦しんでいる子どもたち,その家族,高齢者,障がい者からの相談件数は減ることがないばかりか,日々その複雑さを増すばかりである.こうしたなか,キリスト教的「価値観」「人間観(対象者観)」に基づくソーシャルワーク援助の捉え方に加え,“別のアングル”からも見えてくる“捉え方”を加えて,より幅広くソーシャルワークの「価値観」「人間観(対象者観)」を学生に教授していくことはできないかと考えた.
筆者はそのなかにあって,我が国に古くから浸透・定着してきている仏教,特にそのなかでも多くの人々の「救い(済度)」に関与してきている大乗仏教の仏教教義のなかに,ソーシャルワーク教育が今後取り込んでいかなければならない「価値観」「人間観(対象者観)」に関わる貴重なヒントが多く隠されているのではないかと捉えている.
以上の研究動機に基づきつつ,本稿では,大乗仏教がその根底に据えてきた教義のなかからソーシャルワークにつながる教義の特徴を見い出していくとともに,原始仏教,釈迦の仏教とは異なる大乗仏教固有の援助(済度)に対する認識のしかた,さらには相手(衆生)と向き合う際の根底を形成するものが,ここ最近ソーシャルワークにおいて着目されているホリスティックな援助観とも重なり合えるのかも含め考察していく.
■ Ⅰ 大乗仏教について(その経緯と特徴)
従来より仏教にはいくつかの流れ(流派)があると言われてきて久しい.その一つに仏教自体の起源(根源)である釈迦による仏教がある.釈迦による仏教は出家を基本としており,特別な修行が求められる(修行に専念するため無職無収入が基本).二つ目には,スリランカ,タイ,カンボジア,ミャンマー,ラオス等で信仰し続けられている上座部仏教(小乗仏教という呼称があるが大乗仏教側からの貶称と言う説有り)がある.そして三つ目がそこから約5百年ほど後に誕生した新しいかたちの仏教として興ってきた大乗仏教である.
大乗仏教は東アジアを中心に信仰され続けている仏教になる.大乗仏教の教義は釈迦の仏教教義とは異なる教義とされており,佐々木曰く「すべては修行者たちの宗教体験をベースに生み出されたもの」であり「修行するなかで『これこそがブッタの伝えたかったことのはずだ.私は仏教の正しい有り方を体験した』というインスピレーションやひらめきがあったからこそ,信念を持って『お釈迦様の本当の教えはこれである』と主張した」と指摘している.また佐々木は「大乗的な教義については,部派グループのどこか一カ所から誕生したというわけではなく,いろいろな場所で多発的に生まれた」のであり「地域ごと,時代ごとに様々な新式の仏教が生み出され,そうした小さな流れが一つになり,やがて振り返ってみれば,それは大乗仏教という大きな潮流になっていた」と指摘する(佐々木 2017:31-32).
そして釈迦の仏教において,“現世にブッダ(最高の存在)は一人”と捉えられているのに対し,大乗仏教では“ブッタは一人ではなく,在家にあって悟りの修行を積むことによってもブッダの一人になれる”と,まさに画期的な新しい“道”を拓いていった.
<参考情報>
・聖徳太子の「法華経」に対する捉え方
⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、
⇒「治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある。
⇒一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない。
⇒どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので、
⇒山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない。
⇒聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである。
⇒こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記
■ Ⅱ 大乗仏教教義から見えてくる独自の“救済(済度)観”
“誰かに助力する”その“ありかた”は,古今東西を問わずソーシャルワーク援助の基盤となる重要な部分に相当する.これまで筆者は拙稿のなかでそうした“援助観”をテーマとする考察をいくたびかおこなってきた1).仏教教義において,この“誰かに助力する”うえでの“ありかた”をある意味象徴するものとして“利他”という救済(済度)観がある.
まず,釈迦の仏教における利他の捉え方は「自利をベースにした利他(よき手本となって皆を導き,最終的に自分が成仏するという自利のための利他)」を指している.さらに釈迦の仏教による場合,“悪い行為”は業(ごう:次の生まれ変わりへと引き寄せる力)につながり,「六道」2のなかであるひとつの命を終え,またそのなかの何かに生まれ変わり,そして生と死の転変をひたすら繰り返していくと捉えられている(佐々木 2017:53).その「輪廻」を断ち切るには,ひたすら瞑想修行に励み,業の力を弱め・消し去り,輪廻を最終的に立ち切ることが志向されていった.また諸々の衆生は「五蘊」3)を構成している基本要素が相互に関連し合い,要素間の因果則,業の因果則に準じてかたちづくられていくと捉えられている.
したがって釈迦の仏教においては,輪廻の概念はあるものの,“神秘的とされるような要素”はほとんど存在していないとされる.まさに釈迦の仏教は,佐々木が指摘するように「心の苦悩を自分の力で消したい人には論理的,理性的でほぼ完ぺきな宗教」とされた.
<参考情報>














出典:出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
一方,大乗仏教における利他の考え方は,
「自分を犠牲にして誰かを救うこと(日常生活において利他の気持ちで周りを助けていく善行)」,すなわち「自己犠牲の利他」(佐々木 2017:42)を目指している.そしてのちに“日常の善行”はこれに匹敵する別の行為,例えばブッダを崇め,供養する諸々の行い(善行)等によって置き換えても“可能”と解釈されていく.
いずれにせよ大乗仏教の場合は,利他の気持ちを持って諸々の善行を積むことがブッダに至る“修行”と捉えられていった.
また「大乗経典は,それ以前に民衆の間で愛好されていた仏教説話に準拠したり,仏伝から取材をしたりしながら,その奥に哲学的意義を内包させつつ,さらに一般民衆の好みに合うように制作されていった宗教的文芸作品」とも言われている(中村 2002:59).
こうして大乗仏教では,最初から民衆に寄り添うかたちで救済(済度)が捉えられていった.また佐々木は,数ある大乗経典で最古のものである『般若経(多種有るなかで基本とされ教義はほぼ共通)』
で注目すべきこととして,「『本来は輪廻を繰り返すことにしか役立たないはずの業のエネルギーを,悟りを開いてブッダになり,涅槃を実現するために転用することができる』ととらえ直した点」に着目する(佐々木 2017:55).
大乗仏教ではこれを「回向(業のエネルギーを輪廻とは別の方向に向けること)」と呼んでいる.大乗仏教がその後,無量無数無辺の衆生のなかへ急速に広まっていったことを考え合わせると,釈迦の仏教では救われない人,そこから漏れ出ていってしまう人への執着と,彼らの存在(実態)が示す大きさへの着眼は,ソーシャルワーク援助のなかで寄り添い続けていかねばならない人々ともどこか重なるところがあるように思われる.
また,『般若経』では「この世は因果則を越えた,もっと超越的な法則によって動いている」とし,釈迦の仏教でいうところの輪廻を生み出す業の力を断ち切る“出家を前提とした修行”ではなく,それがかなわない多くの人々の苦難に向き合うにも,在家にありながら救いの道を歩めるようにした.
まさに日常生活のなかにあって正しく生きていくこと,日常の善行,見返りを求めずに人と接し,自分を戒める姿勢と慈悲の心を持ち,自分を常に第三者の目で冷静に見つめること等を“ブッダに至る悟りのエネルギー”に転用させ,在家にありながらもブッダへの道を歩むことができるとしていったのである.
さらに,何か不思議で超越的な力がこの世に存在し,実際には無理だろうけれどなんとかこうならないか,という夢や希望がもてるような神秘の力が『般若経』のなかに潜んでいた.
そのことで新たに救われる人が出てきたことは,まさに着目すべきことである(佐々木 2017:70-72).このことは,釈迦の仏教という枠から漏れ出てしまう衆生を済度するために,釈迦の仏教が構築する世界観を無化し「空」という概念をつくりかえることにつながっていく(佐々木 2017:64)
以上からも,釈迦の仏教でいう“修行によって涅槃にたどりつく(悟りを開く.輪廻を止める)ことと,大乗仏教でいう“ 日常における善行”は,“異なる行為”として位置づけられた.