■釈迦は教義(ドグマ)をもつこと自体を否定した~中村元の主張~
右記URLの転記:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99 Wikipedia 仏教
◆歴史に実在した人物としての釈迦
・「仏教というものを説かなかった」と主張する。
⇒釈迦が「説いたのは、いかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道である。
⇒ところが後世の経典作者は仏教という特殊な教えをつくってしまったのであると述べ、
⇒仏典(いわゆる「お経」)が説く「仏教の教義」の多くは後世の創作であると指摘した。
(中村元・訳『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』岩波文庫、1980年)
【中村元の主張の根拠】
原始仏典『スッタニパータ』第803偈でも、釈迦は明確に「教義」をもつこと自体を否定している。
803. Na kapapyanti na pure-k-kharonti,
Dhammā pi tesaṃ na paṭicchitāse, na brāhmaṇo sīla-vatena neyyo, Pāraṃgato na pacceti tādī ti.
かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』p.180 (岩波文庫、1984/5/16))
中村元は、
仏教は、普通は「法を説く」と言われているのに、ここでは「法」(dhamma)を否定している。 その意味は<教義>なるものを否定しているのである。教義を否定したところに仏教がある[ちなみに、ここで paṭicchitāse というのは『リグ・ヴェーダ』の語法が残っているのであり、この詩句が非常に古いことを示している]。(同書 p.384)
と力説している。
中村は、歴史に実在した釈迦の最期の言葉にも着目する。
パーリ仏典『大パリニッバーナ経』によれば、釈迦が臨終の直前に語った生涯で最後の言葉は、
Handa dāni bhikkhave āmantayāmi vo vayadhammā saṅkhārā,
appamādena sampādethā!
さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」と(中村元・訳『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』p.168 岩波文庫、1980年)
であった。同様の文言は、漢訳仏典にも、『長阿含経』巻四(遊行経)「是故比丘、無為放逸、我以不放逸故、自致正覚、無量衆善、亦由不放逸得。一切万物無常存者。此是如来末後所説。」や『大般涅槃経』巻下「汝等當知、一切諸行皆悉無常。我今雖是金剛之體、亦復不免無常所遷、生死之中極爲可畏。汝等宜應勤行精進、速求離此生死火坑。此則是我最後教也。我般涅槃、其時已至。」その他に釈迦の最後の教えとして収録されている。
中村は自著(中村元選集[決定版]第12巻 p.347『ゴータマ・ブッダⅡ』春秋社)の中で
仏教の要訣は、
無常をさとることと、修行に精励することとの二つに尽きることになる。
<無常>の教えは、
釈尊が老いて死んだという事実によってなによりもなまなましく印象づけられる。
それがまた経典作者の意図であった。仏教の本質は、ここに尽きるのである。
とまで言い切っている。
中村の弟子で仏教学者の植木雅俊は、さまざまな原始仏典を引用し、釈迦が主張した「本来の仏教」を以下のように推定復元している(植木雅俊『今を生きるための仏教100話』pp.340-341より引用 平凡社新書、2019年)
本来の仏教の目指した最低限のことは、
- 徹底して平等の思想を説いた。
- 迷信やドグマを徹底的に否定した。
- 絶対神に対する約束事としての西洋的倫理観と異なり、人間対人間という現実において倫理を説いた。
- 「自帰依」「法帰依」として自己と法に基づくことを強調した。
- 釈尊自身が「私は人間である」と語っていたように、仏教は決して人間からかけ離れることのない人間主義であった
などの視点である。
【中村の弟子で仏教学者の植木雅俊氏の諸書籍より】
注)原始仏典『サンユッタ・ニカーヤー』第1巻:弟子が釈迦にむかって「君、ゴータマさんよ」と気さくに呼びかけるのが定型句となっており、釈迦の神格化は見られない 。
注)原始仏典『スッタニパータ』第927偈:釈迦は迷信を否定し、呪法や夢占い、手相や顔相など相の占い、星占い、鳥や動物の声による占い、呪術的な懐妊術や医術を信奉することを仏教徒に禁じた。
また歴史に実在した釈迦は徹底した平等主義者であり、原始仏典『スッタニパータ』第608偈-第611偈は人間は本質的に平等であると説く。
釈迦は女性や在家信者も弟子として出家信者と同等に扱い、教えを説いた。原始仏典『テーリー・ガーター』に出てくるアノーパマーという在家の女性は、釈迦の教えを聞いて阿羅漢の一つ手前のステージ「不還果」まで到った 。
植木雅俊『仏教、本当の教え』第1章でも、同様の考証が展開されている。
時代がくだるにつれ、仏教の教義は精緻な学問大系として発展した。
その過程で、上記の推定復元による「本来の仏教の目指した最低限のこと」から逸脱する教義を説く宗派も生まれた。
注)中村元の主張の根拠:釈迦(ゴータマ・ブッダ)が「仏教」という特定の宗教体系を説かなかったと主張している。
- 歴史的背景:釈迦が生きた時代には、現在のような「仏教」という体系的な宗教は存在していなかった。釈迦は自身の悟りの経験を基に、人々に対して個々の状況に応じた教えを説いていた。
- 教えの内容:釈迦の教えは、特定の教義や儀式に依存するものではく、むしろここの実践や内面的な悟りを重視していた。彼の教えは「ダルマ(法)」と呼ばれ、普遍的な真理や道徳的な指針を示すものであった。
- 後世の発展:釈迦の死後、彼の教えは弟子たちによって体系化され、後に「仏教」として発展した。この過程で、釈迦の教えが一つの宗教体系として確立されていった。
中村元先生の研究は、釈迦の教えを歴史的・文化的な文脈で理解し、後世の解釈や発展を考慮することの重要性を強調している。
■中村 元 私の履歴書 知の越境者 より転記
◆東京大学の印度哲学科を卒業した際に恩師である宇井伯寿先生よりの助言(申し聞かせる)
・仏教研究者が最初から仏教の研究に入って行くと
⇒なかなか古来の宗教の立場に立った教義学の考えから脱出できないものである。
⇒学者は、若いうちはその源流であるインドの思想を研究して、
⇒視野を広くしておくと、
⇒仏教を客観的に見ることができる。
・日本人の学者であるならば、
⇒かならず後には伝統的な仏教を手掛けるようになるから
⇒若いうちにはインド思想の勉強をするがよい。
・研究の第一歩としては、
⇒インドの本流の哲学思想であるヴェーダ―ンタ哲学を手がけるように勧めれた。
⇒これが私の学者としてのその後の歩みを定めた、本質的な方向づけであった。
注1)ヴェーダ―ンタ哲学
⇒インド思想史上最重要な意義を有し、インドの哲学の主要潮流を形成している代表的哲学であり、いわばインド人の血とともに伝わり、インドの土に密着して離れない哲学思想である。
出典:https://www.japan-acad.go.jp/pdf/youshi/047/nakamura.pdf
◆東洋人の思惟方法ー両極に分かれた評価
・判断推理の表見形式が、諸民族によって異なるということ、
⇒また本来普遍宗教であるはずの仏教がいずれかの民族に受容されると、
⇒やがて変形してしまうという過程に、
⇒それぞれの民族の伝統的思惟方法がはたらいていることを、
⇒インド人、中国人、チベット人、日本人について比較論証したものである。
・この書の評価
⇒一部の読書人には衝撃を与えた。相当多くの人々が歓迎したが、
⇒専門家たちの間では評判の悪い書であった。
◆サンスクリット語を学ぶ
・インド文明の基準となる言語はサンスクリットである。
⇒日本や中国では梵語(ぼんご)と呼ばれている。
⇒紀元前四世紀ごろの文法家パー二二が文法を確立して以来今日に至るまで、
⇒インドでは高級文書語として、文学・学術などで使われて来ている。
⇒日本には恐らく奈良時代(710年~793年)にはすでに伝えられ、
⇒法隆寺に伝わる貝葉(ばいよう)に書かれている悉曇(しったん)文字もこの一種である。
◆原始仏教の研究ー釈尊の姿、客観的に
長年にわたっていろいろの研究を手がけてきたが、力を入れた一つは、原始仏教の研究である。
・日本の仏教は
⇒他のアジア諸国には見られない独自の宗派仏教であるから、
⇒各宗派の開祖についての研究は大変なもので
⇒微に入り細をうがって究明されている。
・ところが、ゴータマ・ブッダ(釈尊)が何を教えたか、ということは、
⇒あまり注意されていない。
・釈尊の教えについては
⇒普通、南アジア諸国に伝わるパーリ語の聖典が古いものだと考えられ、
⇒ヨーロッパの学者が批判的吟味をはじめた。
⇒特に二十世紀に入って鋭い分析を示したのはイギリスのリス・ディビス等、日本では宇井伯寿先生や和辻哲郎先生等。
⇒それによると、パーリ語聖典の中にも古く成立した部分と新しく成立した部分があるというのである。
⇒しかしその後は深く論究されることもなく、ことに第二次世界大戦という邪魔が入ったので、約50年打ち捨てられていた。
・この問題を究明するためには、
⇒恣意的になされてはならず、
⇒客観的な基準を設定せねばならぬと思い、
⇒言語学的、文献学的、考古学的基準によって論述することにした。
⇒その方法によって、歴史的人物としての釈尊の姿を浮かび上がらせようとした。
⇒ブッダの伝記と言われるいわゆる仏伝文学なるものは、かなり後世になって、場合によっては五百年も後になってまとめられたものであるから、
⇒そのまま採用することはできない。
⇒そこで古い経典の中に表れる断片的資料を集成し、検討して、いちおうまとめてみたのが
⇒ゴータマ・ブッダー釈尊伝(法蔵館、1958年)である。
⇒さらにその後の研究を加えた約十年後にゴータマ・ブッダー釈尊の生涯(春秋社)という分厚い書として刊行した。
注2)前者は手っとり早く分かる書であるというので、依然として刊行されている。
・同様の手法により最初期の仏教の成立した事情を考察したのが
⇒続いて刊行された原始仏教の成立(春秋社)である。
⇒ヴェーダの宗教との関連にみならず、当時のジャイナ教の異同関係も追及した。
・思想に関しても同様の手続きによって研究されねばならい。
⇒原始仏教の思想(上・下)において
⇒原始仏教の思想そのものが相当に複雑な発展過程をたどっていることを解明した。
・仏教は
最初の時期から「いかに生きるべきか?」
ということを問題としていたのであるから
⇒これを忘れはならない。
⇒原始仏教の生活倫理(1972年)においては
⇒現実に即した解明につとめたつもりである。
・有る人の書評
⇒「大変なことが書いてありますね」
⇒たしかに、もしもこれを読まれたら
⇒既成教団の教義が崩壊するようなことが書かれている。
⇒しかし、それにもかかわず、
⇒仏教界に何の反響もなく、何の騒ぎも起きないのは、
⇒恐らく一般には読まれていないからなのであろう。
・仏教のエキュメニズム
⇒インド政府主催の第一回国際仏教文化会議での基調講演を行い
⇒特に最初期の仏教の特徴を論じた。
⇒「ずいぶん批判的なことを言いましたね」と言われたが
⇒最初期の仏教の思想的立場を明確にすることができたならば、
⇒諸国の仏教徒が
⇒宗派根性を捨て去って、
⇒一体となって協力する足場を提供することになるであろうと思われる。
◆仏典の翻訳・注釈ー原文本来の平易さで
・仏典は難しとか、分かりにくい、とかいう嘆きをよく耳にする
⇒しかし、そんなはずがない。
⇒少なとも初期の聖典は、
⇒パーリ語以前の、古代東部インド語とかマガダ語とか呼ばれる
⇒民衆の俗語で書かれていたのであるから、
⇒民衆は聞いただけですぐ分かったにちがいない。
⇒何のことだか分からないような難しい表現で訳す人がいたならば、
⇒原趣意をゆがめているのである。
・最古の仏典であるスッタニパータの翻訳を引き受ける
⇒この翻訳は簡潔で分かりやすいものであることをめざした。
⇒世のいわゆる多くの仏典翻訳とは色調を異にするものとなった。
⇒やさしく翻訳するというと、
⇒何か元のものを崩して、いいかげんにやったと思われるかもしれないけど、
⇒実は逆である。
⇒ものものしい翻訳というものの方がかえって虚飾であり、こけおどしである。
・私の平易な訳というものは、
⇒原文に無理を加えたものではくて、
⇒かえって原文に近い直訳なのである。
⇒これは原典と対照されるならば、はっきりと理解されるであろう。
⇒ただし、原文を見ない平易な訳というものは、
⇒文学的、教育的には差し支えないが
⇒学問的には採用できない。
・なるべく耳で聞いて分かるような訳にしたいと思ってつとめた。
⇒古代インド人は、この経典を耳で聞いただけですぐ分かったはずである。
⇒訳文には常用漢字以外の漢字はほとんど使わなかった。
・他の原始仏典も次々と岩波文庫その他で刊行
⇒ブッダ最後の旅、ブッダの真理のことば・感興のことば、仏弟子の告白、尼僧の告白等。
⇒これらはいずれも一番古い典籍であり、パーリ語文法ではこなせない。
⇒また、辞書があまり役に立たない。
⇒字句の意義だけについても綿密な考証を必要とする。
⇒結局、本文よりも注釈考証のほうが長くなった。
⇒漢訳やパーリ文注釈書のみならず、西洋の信頼できる翻訳も参照した。
・面白いことに気づいた
⇒漢訳文を原文と対照してみると、
⇒中華民族独特の思惟方法や伝統的価値観によって文書をゆがめている。
⇒また西洋人の翻訳も決して適切ではない。西洋人の価値観に基づいて原意をゆがめている。
◆仏教の論理学ー記号論理学使い検討
・西洋の論理学の根本原理
⇒互いに矛盾する二つの命題があるとき、
⇒真理はこのいずれか一方にあるとして、
⇒第三の道を認めないのが西洋の論理学の根本原理である。
【例題】
政治家に向かって
「あなたは次の選挙に立候補なさいますか?」
と聞いた場合に、その政治家が
「わしはのう、次の選挙に立候補するのでもないのじゃ
立候補しないのでもないのじゃ」
・この場合、西洋の形式論理学によると
⇒上記の立言は誤謬である。
⇒排中律の原則を侵しているからである。
⇒排中律というのは、互いに矛盾する二つの命題があるとき
⇒真理はこのいずれか一方にあるとして、
⇒第三の道を認めない。
・ところが仏教の論理学である因明(いんみよう)によると
⇒これにもとづく推理は真偽不定となる。
⇒多くに日本人は上の立言を『不定』と受け取っているのはなかろうか。
・論理学は
⇒本来、普遍的な学問であるべきはずのものであるが、
⇒このように、現実に成立した論理学体系は、
⇒論理学者を生み出した歴史的社会的基盤に制約されている。
⇒こういう問題があるので、インド論理学や仏教論理学は
⇒新たな視点から研究解明されるべきであると思う。
・インド古代思想の中で論理学と関係の深い
⇒ヴァイシェーンカ学派の典籍とニャーヤ学派のニャーヤ・スートラ等の邦訳をてがけてみた。
⇒勝宗十句議論という書も翻訳した。
⇒この書は十のカテゴリー論の立場から書かれているので、
⇒アリストテレスの、十のカテゴリー論との比較も行った。
・仏教論理学の研究のためには
⇒分かりやすい表現にする必要が有ると思い、
⇒東大在職中から演習に使っていたダルマキールティの論理学小論と
⇒インド論理学の術語の集成を立正大学法華経緊急所の紀要に昭和五十六年に掲載して
⇒後学の人々のための一助とした。
・仏教論理学は
⇒因明として
⇒奈良の法隆寺、薬師寺、興福寺などに伝えられているが、
⇒その根本典籍である慈恩大師の因明入正理論疏の邦訳(大東出版社)には手こずった。
⇒なんとかやり終えたが、果たしてそれでよいのか、どうか。
・昭和二十六年に米国スタンフォード大学の哲学研究所で見た光景
⇒衝撃的であった。
⇒論理学の研究というのに、
⇒教授と学生とが黒板に数式ばかり書いて議論している。
⇒記号論理学での論理計算をしているのである。
⇒そこで私は考えた。では、大乗仏教の基本である空の論理を
⇒記号論理学で解明すれば、どういうことになるのか?
⇒これも試みで英文で発表したが
⇒米国大学教授による正反の意見が誌上で発表された。
⇒将来にゆだねられるべき問題であろう。
・インド哲学の論理を西洋論理学の最新の手法である記号論理学で検討してみようと考えたのは
⇒インドの哲学書には、関係代名詞をいくつも用いた複文からなる陳述が非常に多く
⇒一般の西洋論理学の表現形式に書きかえることは極めて困難であるが、
⇒記号論理学だとそれが割りに楽に解明できると思われたからである。
◆比較研究ー日本思想に新しい光
・私が英文の日本思想史(1967年刊行)を書いたのも、比較という手法をとると、
⇒日本思想史でも新しい視点から見直されることになると思ったからである。
⇒この中で、私は聖徳太子時代の日本を
⇒世界史的レベルで普遍国家としてとらえ、
⇒中世思想については、
⇒中世のキリスト教やインドの宗教と比較し、
⇒近世では
⇒江戸時代初期の禅僧、鈴木正三の研究を通じて、
⇒キリスト教と仏教の出会いや近代思想の芽生えなどを論じたのが、
⇒外国人から注目された。
注)思想研究者の立場から判断する三経義疏(さんぎょうぎしょ)の真贋論争
【真贋論争】
歴史研究者にとっては重大問題であるかもしれないが
思想研究者にとってはどちらでもよい問題である。
たとい帝王や執政者が実際に書いたものであったとしても、
人間の真実をとらえていなければ、それは価値の乏しいものである。
反対に無名の庶民が書いたものであっても、
その所論が正しくて人間の真実を把捉しているならば、その書は尊重されるべきである。
出典:聖徳太子 地球志向的視点から 中村元著 東京書籍 P167~P168
個人的感想:中村氏の視点は「今(現在)」に生かせるかに立脚しており、共感できる。
・日本宗教の近代性(春秋社、1994年)という本を書いた。
⇒この書がドイツ語に翻訳された。
⇒なぜ取り上げてくれたのか、というと
⇒この書は結局、日本における宗教と資本主義の問題を論じているの
⇒マックス・ウェーバーに対する反論になるというのである。
・現在では比較研究があらゆる分野で進み、
⇒宗教にも及んでいる。
⇒ヨーロッパの国々において、
⇒異教が悪魔の宗教であるという考えは過去のものとなりつつある。
・比較思想学会ー種、実るまで十数年
⇒世界的な比較研究の大きな流れにくらべて、
⇒我が国の悦岳研究は
⇒西洋哲学、インド哲学。中国哲学、倫理学、宗教学、美学という風に細かく分かれていて、
⇒相互のあいだの連絡が無い、比較研究ということは、てんで行われなかった。
⇒これでは全きものとしての『人間』を把握することができないと思って、
⇒世界の諸思想潮流の比較の必要性を唱えた。
⇒賛成する人もなかないないので、
⇒唱えているだけではダメだ。自分で書き著さねばならぬと思った。
⇒海外における諸研究の紹介を主にして比較思想論(岩波全書、1959年:昭和34年)を刊行した。
⇒昭和47年ころから奔流のような動きが始まった。
⇒学界の海外との交流が深まり、世界の潮流が分かってきたことや、
⇒比較文化論をはじめとする比較研究の隆盛がやっとわが国の学界にも押し寄せてきたのである。
・比較思想学会の設立(昭和48年)と会長辞任(昭和58年)の最終講演
⇒私は辞任しても、決してこの学会を見捨てるのではありません。
⇒決してこういう研究をやめるわけでもありません。
⇒皆さんのために一番槍となります。
⇒昔の城攻めのとき、一番槍は多くの矢を受けて必ず死にます。
⇒しかし、その勇気ある行動によって城攻めの道が開かれるのです。
⇒今後いろいろ紆余曲折はあるだろうが、私のめざしている方向の動きが
⇒必ず本筋のものになると確信している。
◆仏教語大辞典編集ー原稿紛失を乗り越えて
・仏教の書物はむずかしい、とよく苦情をいわれる
⇒それは漢訳された経典が今のわれわれにわかりにくいのであって、
⇒もとのインドのことばで書かれた最初期のもは、だいたい平易であった。
⇒それは当時の俗語で書かれていたのである。
・最初期の仏典には
⇒仏教独自の術後というものは。ほとんど存在しない。
⇒みなウバニシャッドやジャイナ教その他当時の諸宗教と共通な材料やことばを使っている。
⇒だから現代の仏典はいまの日本に共通なことばで表現するべきではなかろうか。
⇒こういう目的のために、
⇒まずわれわれの祖先が仏教語をどのように翻訳したか、そのあとを調べてみょうとした。
⇒そうすれば、日本の伝統に即した表現が可能となるはずだ。
⇒戦後すぐ荒廃の中から、これに着手した。
⇒研究室の諸君の協力によって、平安時代以降の古典、和文の仮名法語などに、
⇒仏教語がどのように解釈されているかを調べて収録し、
⇒一応「仏教語邦訳辞典」として謄写版刷りで昭和23年に刊行した。
⇒続いて不足を補い、充実したものをつくりたいと思い立ち、その後もこの仕事を継続した。
⇒昭和42年には二百字詰め原稿用紙で、空白も多いが約四万枚、三万語近くの原稿を作成し、
⇒一出版社から刊行する予定であった。
⇒社長の死と出版社が東京都から道路拡張のため期日を定めた移転命令が出て、
⇒その混乱のうちに原稿が紛失してしまった。
・再度のやり直し
⇒昭和43年1月に再開し、昭和50年2月に「仏教語大辞典」が発行されたが、
⇒着手してから三十余年、新たに再開してから八年を費やした。
◆東方学院-無常の喜び、小学問所
・昭和48年に東京大学を定年退職するとともに、東方学院を開講
⇒真理探究の意義にかんがみ、
⇒見失われるおそれがある『人間の回復』を目指し
⇒本学院の理想に賛同する学者個人と、そのもとにそれぞれ参集する学徒とによって構成される共同体としてのグループの連合である。
⇒いわば個人指導の場の共同体である。
⇒学歴、年齢、職業、国籍、性別などにとらわれない。
⇒勉強したい人だけが来るのである。
⇒規則で縛ることをしない。
⇒自分で聞きたい講義だけを聞く。
⇒学位や免状がもらえないから事業として発展の見込みはない。
⇒企業ではないから、若い学者を育成することも主眼にしている。
◆新たな決意ー学問の開拓、先頭を行く
・老人が真っ先に立って新しい学問を開拓する必要がある
⇒若い学者は、既成の大学に遠慮して、なかなか新しい学問を展開しない。
⇒それが生活の問題とからんでいるので、なかなか難しい。
⇒自然科学だと、実験の結果が研究のとおりであれば、いくら大家が反対してもそのとおり承認される。
⇒ところが人文科学には実験がないから、大家がダメと言われたら、それっきりになる。
⇒だから老人は新しい進路を開く義務があると思う。
・この年になって新しジャンルへ足を踏み入れていまった
⇒雑誌「現代思想」に「論理の構造」という論文を連載している。
⇒それは西洋論理学のみならず東洋思想を生かした新しい論理学のつもりである。
⇒その歩みはやがて領域を広げるであろう。
■智(叡智の智)の巨人「中村元先生」の業績概要(COPILOTの回答より)
1.文化解明と歴史的思想研究
・非凡な語学力(サンスクリット(梵字)等を含む)と厳格な文献学的手法を駆使して、インドの文化を歴史的・思想的に解明。
⇒インドの歴史と思想文献を、インド人の生活や社会的現実と連関させてとらえ、その上でインド思想の意義を理解しようと心がけ、大きく進展させた。
2.初期仏教研究
・初期仏教聖典に基づいて「ゴータマ・ブッダが何を教えたか」を究明した。
⇒言語学的、文献学的、考古学的根拠に基づいて客観的に考察し、
⇒歴史的人物としてのブッダの姿を浮かび上がらせました。
・また、仏典の言葉を
⇒平易で精確な邦訳で提供し、一般読者から専門家までアクセス可能にしました。
3.比較思想研究
・インドの思想を他の文化圏と比較し、
⇒世界思想史の構築に成功しました。
・東洋人の思惟方法を独自の方法論で解明し、
⇒人類に普遍的な思想の解明に貢献しました。
4.論理と倫理の研究
・普遍的な論理学体系を構築することを目指し、論理と倫理の分野において偉大な仕事をしました。
⇒「論理の構造」や「構造倫理講座」を執筆し、人類共通の思考の枠組みを探求しました。
中村 元先生は、これらの業績を通じて、仏教やインドの哲学的思想を広く普及させ、多くの人々に影響を与えました。
■「構造倫理講座」
・倫理学においてインド思想と西洋思想の両面からさまざまなテーマに取り組んでいる。
⇒以下に、特に「論理の構造」や「構造倫理講座」の第3巻である「<生命>の倫理」に焦点を当てた内容を紹介
1.生命の倫理構造
・インド哲学だけでなく、ギリシャ哲学やベルクソン、ラッセル。ショーペンハウアー、ライプニッツなどの西洋哲学も駆使して、
⇒生命の倫理について探求しています。
⇒魂、身体、個人と生命の関係を辿り
⇒生命の尊さについて考察しています。
2.構成と無限の過去
・人格の独自性を説明するために
⇒無限の多くの原因や条件が異なる事を強調しています。
・人々は遠い過去から受けている無限のはたらき(仏教では「恩」と表現)によって
⇒独自の存在と個性を持っている。
⇒この視点から、「唯我独尊」が成り立つと説いています。
3.未来形成のはたらき
・未来は多数の人々の協力によって形成される一方で
⇒甲と乙という人それぞれが独自の未来形成のはたらきをもっていると指摘しています。
・個人は
⇒可視的に世界においては単なる単位であるが、
⇒独自の過去を背負っている点で、
⇒まったく独自の存在であると述べていいます。
中村元先生の「構造倫理講座」は、哲学が倫理学に興味を持つ方々にとって、深い洞察を提供しています。