日本における比較思想の展開ー弘法大師から始まる(中村元先生 秋季特別大会公開講演より)

■導入~東寺Webサイトからの転記~

https://toji.or.jp/kukai

三教指帰

延暦16年、797年、12月1日。24歳になった弘法大師空海は、『聾瞽指帰』
 ろうこしいき 
を書き上げました。のちに改定し『三教指帰』
 さんごうしいき 
といわれるものです。そのなかで、儒教、道教、仏教を比較して、仏教がどのように優れているかを解き明かし、真の仏教を求めて僧として歩みだすことを宣言します

綜藝種智院
しゅげいしゅち
の設立

弘仁14年、823年1月19日。嵯峨天皇は、官寺だった東寺を弘法大師空海に託しました。弘法大師空海50歳のできごとです。『御遺告
ごゆいごう
』のなかには、このときの心情が、「歓喜にたえず、秘密道場となす」と記されています。

弘法大師空海は、東寺を真言密教の根本道場と位置づけました。講堂、五重塔の工事に着手する一方、東寺から東に歩いて数分の場所に、一般の人々を対象とした私設の学校、綜藝種智院
しゅげいしゅちいん
を設立します

この開校にあたり弘法大師空海は、「物の興廃は必ず人による。人の昇沈は定めて道にあり」と述べています。「物が興隆するか荒廃するかは、人々が力を合わせ、志を同じくするかしないかにかかっている。善心によって栄達に昇るか、悪心によって罪悪の淵に沈むかは、道を学ぶか学ばざるかにかかっている」と、教育の必要性を語っています。

※東寺を真言密教の根本道場:密室で師から弟子へ教えを伝える真言密教の『師資相伝』を行う根本道場。(講堂に21体の諸尊像を配置した立体曼荼羅等)。一方、高野山を密教修行の道場に位置付けた。

■東寺 立体曼荼羅

出典:https://www.tnm.jp/modules/r_event/index.php?controller=dtl&cid=12&id=11128

出典:左図)http://www.enjyouji.jp/ 右図)2024年10月30日訪問(東京文化財ウィーク2024)

■比較思想の試みと体系化-哲学の奥にある根源的なものを目指す

日本における比較思想の展開ー弘法大師から始まる(中村元先生 秋季特別大会公開講演より転記)

◆比較思想を「我が国」で最初に行ったのが弘法大師

比較思想の体系的論述を『世界』で最初に行ったのも弘法大師

世界最古の民衆(庶民)の為の学校である『綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)=芸術も含む学問を総合する』を創設したのも弘法大使

人間は学ぶことはばらばらでもいいい。けれどそれを統一して実行に移す。生活に移す

以下の転記内容のURL:

https://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1989_16_hikaku_13_nakamura.pdf

■比較思想の成立背景(三つの対決:仏教批判者、哲人・知識人、放蕩人)

◆弘法大師の最初の比較思的想労作『三教指揮(さんごうしいき)』

三教すなわち儒教と道教と仏教の究極にあるものを解明するというものである

⇒遣唐使(第18次)として留学する以前のもので24歳の時である。

或る仏教僧との出会いで仏教に導き入れられる

私に虚空蔵聞持(こくうぞうもんじ)の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。

⇒その秘訣を説いている『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法:こくうぞうぼさつのうまんしょがんさいしょうしんだらにぐもんじほう』という経典には

⇒もしも人々がこの経典に示されている作法にしたがって、虚空蔵菩薩の真言すなわち

⇒『南牟(ナウボウ)・阿迦捨(アキャ̪シャ)・掲婆耶(ギャラバヤ)・唵阿唎迦(オムアリキャ)・マ唎慕唎(マリボリ)・莎嚩詞(ソワカ)』という陀羅尼(だらに)を百万遍となえれば、

すぐにあらゆる経典の教えの意味を理解し暗記することができると書いている

そこで私は(弘法大師)

⇒これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて、

⇒木を錐(きり)もみずれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待して、阿波の国の大滝岳(たいりょうたけ)によじのぼり、土佐の国の室戸岬で一心不乱に修行した。

⇒その私のまごころに感応して、谷はこだまで答え、

⇒虚空蔵菩薩の応化とされる明星は、大空に姿をあらわされた。

かれ(弘法大師)は浅ましい汚れた世の中を遁れる気持ちを起こした

⇒かくて私は、朝廷で名を競い市場で利を争う世俗の栄達には刻々にうとましくなるようになり、

⇒煙霞(もや)にとざされた山林の生活を朝夕にこいこがれるようになった。

⇒軽やかな衣服をまとい肥えた馬にまたがり、流れる水のように疾駆する高級車の贅沢な生活ぶりを見ると、

⇒電(いなずま)のごとく幻のごとき人生のはかなさに対する嘆きがたちまちにこみあげて、

⇒体の不具なもの、ぼろをまとった貧しい人を見ると、

⇒どのような因果でこうなったのかという哀しみの止むことがない。

⇒目にふれるものすべてが私に悟りへの道をすすめ、つなぎとめようがないように、

⇒私の出家の志をおしとどめることは誰にもできない。

ところが世間には、仏教を非難する人がいる

そこで自分(弘法大師)は他の思想と対決せねばならぬことになった。

ここに比較思想が成立する。

幾人かの親友知己

⇒私を仁義五常のきずなでつなぎとめようとし、

⇒忠孝の道を背くものとして見すてようとするが、

⇒私(弘法大師)はこう考える。

⇒生きとして生けるもののもちまえは同じではなく、

⇒空を飛ぶ鳥、水にひそむ魚といったようにそれぞれに性分の違いがある。

だから聖人が人をみちびくには、三種の教えを救いの網として用いるのであり

いわゆる「釈」と「李」と「孔」(仏教と道教と儒教)とがそれである

⇒この三種の教えには浅い深いとの違いはあるが、

⇒いずれもみな聖人の説いた教えである。

⇒その同じ教えの網のなかに身をおけば、

⇒忠孝の道にそむことなどありえないのだ。

⇒以上は、哲人、知識人との対決である。

哲学思想そのものが不要、無意味であり、考えるはいやだという人が世間にはいる

彼らとも対決せねばならない。

⇒更に母方の甥がいて、性質はひどくねじけ、狩猟や酒や女に昼も夜もおぼれこみ、賭博ややくざ稼業を日常の仕事にしている。

⇒思うに彼の習性は周囲の悪風に染められた結果であろうが、「彼」と「此」との二つの事、

⇒すなわち親友知己の反対甥の放蕩無頼とが、日ごとに私の心を発憤させた

この二種類の人々を説得するために『三教指揮』を著したのであるが

⇒空海はドラマ的な構想を以て対談を進めていく。

一遍のドラマを構想して

⇒亀毛(きぽう)先生に登場ねがって儒教を代表する客人(まろうど)とし

⇒兎角(とかく)先生をお願いしてその主人公とした。

⇒また虚亡隠士(きょぶいんじ)に登場ねがって神仙の道を入る道教の教理を述べてもらい

⇒仮名児(かめいじ:仮名乞児)をわずらわ世間を出離する仏教の教理を説明してもらい、

⇒ともに論陣をしいてそれぞれにならずもの蛭公(しつこう:蛭牙公子)をいましめた。

⇒ととのえて三巻とし、名付けて三教指揮(さんごうしいき)という。

・虚亡隠士(きょぶいんじ)とは、道教では「虚無」を説き、隠者として生きる道を説くからこのようになずけた。

・仏教を説く仮名乞児とは、実際に仏教を実践するものはビク、乞食者であるから「乞児」といい、仏教ではすべてのものは「仮名」であり、仮に設定されて名を与えられているだけであると説くので、このように名づけられたのであろう。

⇒このように三人の論客を登場させて互いに議論をさせるという戯曲的な構想は、日本では恐らく最初であろう。

上巻で儒教、中巻で道教、下巻で仏教というふうに、

⇒三種類の人々がそれぞれ自分の立場からの思想表明を行うのであるが、

最後に仮名乞児(かめいこつじ)はその所論を次のように結ぶ。

仮名乞児の所論

⇒かの仏陀が同一の言葉で妙(たえ)なる説法をおこなって人々の愚かな我執を打ちくだき、

⇒三千大千世界を引き抜いて別の世界を投げうち、

⇒大山を削らずにそのまま小さな芥子(けし)粒のなかに入れ、

⇒甘露(めぐみ)の雨をふらせて衆生をみちびき戒め、

⇒仏法を聞く喜びを心の糧として、

⇒そのなかに智慧と戒律をくるめ、

⇒一切衆生が太平の世を謳歌して腹づつみをうち土くれを叩き、

人民すべてが”君来たらば其れ蘇(よみがえ)らん”と歌って帝王の功績を意識しない理想の社会を実現し、

⇒無数の国々がその偉大な徳に帰一し、

⇒生きとして生けるものすべてがその功徳を仰ぎ慕って集まってき、

⇒最も尊きもの、最もすぐれたものとして、多くの人々を集め、

⇒人類至高の存在となるに至っては、ああ、なんと広大無辺ではないか、

⇒この大いなる覚(めざ)めをもつ雄猛の聖人、仏陀世界の徳は、

⇒まことに高くそびえたって、その高さは比べようもなく、窮(きわ)めようもない。

注)”君来たらば其れ蘇(よみがえ)らん”は伊勢物語(平安時代)と新古今和歌集(鎌倉時代の初期)に収録されている

注)帝王の功績を意識しない理想の社会の原型として中国で生まれた帝王の名前に三皇五帝と呼ばれる伝説上の帝王たちが登場する。彼らは理想的な統治を行ったとされ、中国文明の起源や国家・民族の起源を説明する役割を果たしている。

これこそ、まことに吾が師と仰ぐ仏陀の今に残されている教えであり

⇒広大な真如の法典における小さな水のあっまりでしかない。

⇒かの道教の仙人の小さな方術、

⇒儒教の俗にまみれた微々たる教えなど

⇒まったく言うに足りないものであり、立派とするには価しないのである。

このことば聞いて、亀毛(きぽう)先生(儒教を代表する客人)らは仏教に帰依すようになったという。

⇒彼らは、あるいわ憐み、あるいは恥じいり、おのれの無知を悲しむ一方、喜びに顔がほころんだ。

⇒彼らは仮名乞児の言葉につれてうなだれたり顔をあげたりし、その声にしたがって円(まる)くなり、また方(しかく)にもなった。そして喜び躍りあがってこういった。

⇒わたくしたちは幸運にも遇いがたい大導師にお目にかかることができ、

⇒鄭重(ていちょう)に出世間の最もすぐれた教えすなわち仏法について承(さげたまわ)ることができました。

⇒これは昔にも聞いたことがなく、後世にもまた聞くことができないものです。

⇒わたくしたちがもし不幸にして和尚にお目にかからなかったならば、

⇒いつまでも眼前の欲望に溺れ沈んで、

⇒かならずや『三途』すなわち地獄、餓鬼、畜生の世界に落ちていたこでしょう。

⇒しかし今かろうじてお導きをいただいたもので身も心もゆったりと安らぎました。

⇒たとえてみれば、春雷のとどろきに冬眠していた虫が戸を開いて始めて外に出、

⇒朝の太陽の運行に暗い夜の闇が氷の解けちるように明るくゆくようなものです。

⇒かの周公・孔子の儒教や老子・荘子の道教などは、

⇒なんと一面的で浅薄なものであることか、

⇒今からのちは、わが身の皮膚を剥ぎとって紙とし、骨を折りとって筆を作り、血を刺しとって絵具にかえ、しゃれこうべを曝して硯に使い、

⇒大和尚の慈愛あふれる教えを書きしるして、

⇒生まれかわり立ちかえる後々の世まで悟りの世界に向かう船とも車とも致したいとおもいます。

仮名乞児の立場

・他の諸宗教を排斥して捨てさせたものではない

他の諸宗教を生かしているのである

・仮名乞児はいった

⇒もとの席に戻るのがいい。

⇒これから『三教』すなわち儒教・道教・仏教を明らかにして、

⇒十韻二十句の詩を作り、きみたちの世俗的な歌と囃しに代わるものとしょう。

居諸破冥夜

三教褰痴心

性欲有多種

医王異薬鍼

日月の光は冥(くち)き夜の闇を破り

儒・道・仏の三教は痴(おろか)なる心を褰(みちび)く

衆生の習性と欲求はさまざまなれば

偉大な医師(くすし)・仏陀の治療法もさまざま

綱常因孔述

受習入槐林

変転耼(?)公授

依伝道観臨

三綱五常の教えは孔子に本づいて述べられ

これを学べば高官の列に入る

陰陽変化の哲学は老耼(?)が授け

師に就き伝授すれば道観に地位をもつ

注)三綱五常の教え

⇒儒教思想において重要な概念。人々が常に踏み行うべき道を指す。具体的には以下の要素から成り立っている。

三綱(さんこう):君臣・父子・夫婦間の道徳。これは社会的な関係における倫理的な原則を示す。

五常(ごじょう):仁・義・礼・智・信の五つの道義。これは人々の心のあり方や行動に関連する価値観。

⇒三網五常は社会的な調和と個人の徳を重視する儒教の基本的な価値観。

注)陰陽変化の哲学

⇒中国の道教から派生した概念で、人間の存在や自然界の二元性を示している。

陰陽の概念:陰と陽は、老子(実在が確認されていない哲学者)が創始した道教の枠組みで初めて登場した。陰と陽は「影と光」とも言い換えられ、すべての存在や現象に存在する二元性を表す。

⇒陰は「柔らかく、温かく、素朴で受動的、吸収しやすく、暗い」性質を持ち、陽は「粗く、ドライで大気のようで活動的、浸透しやすく、明るい」性質を持つ。

⇒陰と陽は相反する2つであり、お互いを補い合い、依存し合います。一方が他方に押し付けることはない。

陰陽の原則:陰と陽は反対であるが、排他的ではない。両方の世界には相手の要素が存在する(例:真っ暗な夜に月の光が輝く)。

⇒動的な均衡を保つ。陰が増加すると陽は減少し、その逆も同じ。両者は互いに共存し、調和を生み出す。

実践的適用:陰陽は、武術や中国医学などの実践的な分野でも活用されいる。

⇒自然の変化を受け入れ、バランスを保つことで、平穏な人生を歩む道を示している。

金仙一乗法

義益最幽深

自他兼利済

離忘獣与禽

仏陀の大乗ただ一つの真理は

教義も利益(りやく)も最も深淵である

自己と他者とを兼(とも)に利益救済し

獣や鳥をも決して見すてない

衆生の習性と欲求とはさまざまであり、種々のものを必要とすから、

そこで儒教も道教も必要なのである。

しかし、それらをすべてを生かすものは、仏教のみである

⇒という基本立場を表明している。

■比較思想の視点から

・自分の体験を追想するという自伝的比較思想論として

⇒西洋でこれに対比されるべきものは、アウグスティヌスの『告白』であろう。

⇒かれは19歳のときにキケロの対話篇『ホルテンシウス』を読んで深い感銘を受け。

⇒さらにマニ教。アカデメイア派の懐疑論、新プラトン派の哲学を経過して、

⇒ついにキリスト教に帰信した精神的遍歴が述べられている。

⇒この点で『三教指揮』と対比さるべきである。

・両者の間には大きな相違がある

アウグスティヌスは

他の諸思想や諸宗教を捨ててしまった

それらを生かすという意図は見られぬ

⇒かれを迷わせたものに言及しているだけである。

ところが空海は

それらすべてに存在意義を認めて、生かしている

注)アウグスティヌスの『告白』の書かれた時期:397年から翌年に至る。西欧において最初期に書かれていた自伝の一つであり、その後中世までおよそ1000年にわたってキリスト教徒の作家に強い影響を及ぼす雛形となった。

注)キケロの対話篇『ホルテンシウス』の書かれた時期:紀元前45年。この作品は、アリストテレスの「哲学のすすめ」に倣い、読者を哲学をすすめるプロトレプティスコとして書かれた。後世のアウグスティヌスに感銘を与えたことでも知られている。

空海の比較思想の体系学はさらに発展を示すことになる

⇒かれは804年に遣唐使(第19次)の一行に従って長安に入り、

⇒805年に青龍寺の恵果に師事し、806年10月帰国した。

⇒ときに空海は33歳であった。

⇒すばらしく大規模な活動を展開したのち830年に勅命により

『秘密曼荼羅十住心篇』10巻を撰述して献上した

⇒ときに空海は57歳であった。

⇒ただこの書はあまりにも膨大であったため、

⇒多くの引用文を省いて3巻にまっとめたのが『秘蔵宝鑰(ほうやく』である。

⇒撰述年代はさほど隔っていなかったらしい。

ここには、かれの多年の研鑽が盛り込まれて、体系的に詳論されている

段階的な比較思想論である

かれの知り得たあらゆる思想類型を十種にまとめ

それらが逐次、後のものが前のものを凌駕優越しているという構造をも持っている

それらを【十住心(じゅうじゅうしん)】と呼ぶ

心の境地の十種類のあり方で、空海が定めたものである

それらを順次に経由して高い境地に達するという

注)青龍寺の恵果阿闍梨と空海の関係:恵果阿闍梨から密教の正当な法を伝える阿闍梨のみに許された『伝法灌頂(でんぽうかんじょう)』(密教の奥義)の伝授を受け、日本に帰国した空海は、恵果阿闍梨から学んだ密教を基盤に真言宗を開いた。

『伝法灌頂(でんぽうかんじょう)』とは、儀式のやり方。

伝法灌頂の特徴

  1. 儀式の内容:伝法灌頂では、師匠が弟子の頂に如来の五智を象徴する水を注ぎ、仏の位を継承させる事を示す。この儀式は、密教の奥義を伝授するためのものであり、弟子が次の受者に教える資格を得ることを意味する。
  2. 四度加行:伝法灌頂を受けるためには、四度加行(しどけぎょう)という密教の修行を終える必要がある。この修行を経て、初めて伝法灌頂を受ける資格が与えられる。
  3. 歴史的背景:伝法灌頂は、元々インドで国王の即位や立太子の際に行われた儀式が、大乗仏教に取り入れられたもの。これが密教においても重要な儀式として発展した。

伝法灌頂は、密教の教えを次世代に伝えるための重要な儀式であり、密教の伝統と継承において欠かせない。

十住心(じゅうじゅうしん)

(1)異生羝羊心(いしょうていようしん)

⇒異生(凡夫のこと)や羝羊(おひつじ)のように動物的な本能に支配されている愚かな者の段階

(2)愚童持斎心

⇒愚かな童子のように人倫の道を守り、五戒・十善戒をたもつ。善いことをしょうとする段階

(3)嬰童無畏心(ようどうむいしん)

⇒嬰児にも似た凡夫や外道が人間世界の苦悩を厭って、天上の楽しみを求めて天上に生まれたいと思って修行をする段階。

⇒凡夫や外道はいかにすぐれていても、偉大な仏に比べれば劣弱で愚かであることは、あたかも嬰児のごとくである。

以上は、仏教外の教えを奉じている人々の段階である。

次に、仏教内部の人々が奉ずる異なった思想段階が登場する。

唯蘊無我新

⇒五蘊(ごうん)の諸法は実在するが。固体としての人間は仮のものであり、我は存在しないと考える段階。

⇒法有無我の説を奉ずる声明がこれに相当する。

⇒つまり小乗仏教のうちの最大の学派である切一切有部の思想である。

注)五蘊(ごうん)とは:色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つを指します。色は肉体、物質のこでです。あとの四つは、人間の精神作用です。人間存在のありようを、からだとこころに分けて見すえて、端的に示したものです。煩悩のおこるもととということです。(出典:温かなこころ 東洋の理想 (仏教の四つの真理)中村元:春秋社)

(5)抜業因種心

⇒悪業を抜き去ってのがれて、煩悩の原因である無明の種子(潜在的な可能性)を断ち切る心。

⇒すなわち十二因縁の相を観じ。生死の苦しみを離れる段階。

⇒縁覚がこれに相当する。つまり山林に籠って修行している孤独な修行者の思想である。

(6)他縁大乗心

⇒「他」とは、自分の主観に対する他のものであり、法界(宇宙)のあらゆるものを縁(対象)とする。

⇒教化の対象とする。

一切衆生をさとりに連れて行く乗りものであるから大乗という

⇒人無我と法無我をさとる段階。

⇒いかなる固定的なものも認めないのであるが、

⇒まだ対象を見る認識主観というものを認めている。

⇒大仏教の初門。法相宗がこれに相当する。つまり唯識説の立場である。

注)法相宗の総本山は奈良県奈良市にある薬師寺と興福寺。

(7)覚心不生心

⇒さとった心の立場から見ると、

⇒何ものも新たに生ずるということは無い。

⇒心も対象も不生、すなわち空あると観ずる段階。

⇒三論宗がこれに相当する。

⇒つまり前の段階である唯識説では、心の対象は空であるが、認識作用の主体である心は実在すると考えていたのに、

この段階では心も空であると考えるのである

⇒「覚心」という語についての説明は序文には出ていない。

⇒しかし空海は「大日経」の住心品(大正蔵。18巻3ページ中)の文章を引用しているので、その文句と符合するから、

「さとりを開いた心」または「本来さとっている心」の意に解する

注)三論宗:大乗仏教宗派の一つで、インドの中観派の龍樹の著作「中論」「十二門論」、及びその弟子である提婆(だいば)の著作「百論」を組み合わせて「三論」としている。この宗派は空を唱えることから「空宗」とも呼ばれ、無相宗、中観宗、無相宗大乗宗とも言われている。日本仏教においては、何都六宗の一つとされている。

以上はインドで成立した思想体系であるが、

シナにおいてはさらに、上記のものを凌駕する思想体系が成立した

(8)一道無為心

⇒宇宙には唯だ一つの道理があるだけであり、無為である。

⇒「無為」とは、あさはかな人間の智慧によって何ものかが人為的につくり出されることは無いさとる心の境地である。

⇒一実中道を説く一乗思想の段階。天台宗がこれに相当する。

⇒この立場においては、仏教の種々の実践方法がみな仏と成るための道であるということを認める。

注)天台手宗の総本山は比叡山延暦寺。伝教大師最澄によって開かれた。延暦寺は日本仏教の母山とも称され、多くの祖師がここで学び、出家得度している。本尊は薬師如来。

(9)極無自性心

⇒「無自性」とは孤立した実体は無いということである。

究極においては無自性・縁起であるということをさとる段階

華厳宗がこれに相当する

この立場によると、宇宙における一切の事物は互いに依存し条件づけ合って成立しているのあり

宇宙の中に孤立して存在するものあり得ないということを明らかにする

注)華厳宗の総本山は東大寺。東大寺は日本仏教の歴史的な寺院であり、華厳思想を伝える重要な場所。本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘慮遮那仏(びるしゃなぶつ=大日如来の別名)と一体になっている。華厳宗の教学には「十地品」や「入法界品」などが含まれており、修行者の階梯を説いている。

注)華厳思想の上に空海の「密教」が重なる説もある(松岡正剛:編集工学者)

(10)秘密荘厳心

⇒「荘厳」とは美しく飾られ、みごとにととのえられているということである。

秘密の隠れた究極の真理をさとった境地

真言宗の立場

⇒それはまた空海自身の説く真言密教の究極の立場である。

⇒ここにおいては宇宙の一切の事物が密教浄土のすがにほかならぬということになる。

⇒すばらしい浄土であるというのである。

このように仏教の諸思想をも含めて、一切の諸思想体系全体に渡って比較思想論の論述した人は、

西洋人にはいなかった

⇒僅かに近世になってヘーゲルとかディルタイに見られるだけである。

⇒ウインデルバンの「哲学史教科書」には思想を類型化しようとする試みは見られるが、

弘法大師のように段階的に把握しようとする試みは見慣れない

⇒ことにヘーゲルの弁証法においては、基本的原理はアウフヘーベンということであるが、それは止揚または揚棄と訳されように、

次の発展段階においては、前のものは棄てられることになる。もはや顧みられない

いわんや史的唯物論の立場に立つと

もはや古いものは捨てて顧みられない

⇒いわゆる「文化大革命」なるが、その適例である。

注)ヘーゲルの弁証法:対立する要素が統合され、より高いレベルの真理へと進化するという考え方に基づいている。この原理は、次の三段階で構成されています:

(1)テーゼ(主張):現状で絶対に正しいとされていること。

(2)アンチテーゼ(反対主張):テーゼに矛盾・否定する考えやアイデア。

(3)ジンテーゼ(統合):テーゼとアンチテーゼから導かれた、完成形。

この一連の思考方法を弁証法と呼び、物事や歴史の発展に適用されている。

また似たような見解を表明した人としてドイツのGeorg Misch(1878-没年不明)がいる。かえは生の哲学の立場に立ってその著「哲学の道(1926)」においては、人類の主要な哲学潮流として、ギリシャおよび西洋、インド、シナの三の思想を並べ、ギリシャの思想潮流は自然科学的、インドのそれは形而上学的、シナのそれを倫理的であると特徴づけ、それらの思想体系が現れたこと自体が哲学なのであるという。

しかしかれはこれらの潮流のあいだの優劣は論じていない。

・ところが空海の場合には

⇒前の発展段階が人間にとってはやはりそれなりに意味をもっている。

⇒完全に棄てられることはない。

⇒いかなる思想をも全体系のうちに生かすのである。

かれは人間のいただく誤った見解、煩悩に対しても温かい同情を示している

これに似たものとしてインドのマーダウ”ァ(14世紀)の「全哲学綱要」には

⇒諸体系を段階的に見なすという思想はあるが、

⇒弘法大師ほどに体系化されていない。

だからわれわれは比較思想は弘法大師に始まるというわけなのである

■空海の今日的意義

・人間が生きて安心立命を求める道を

体系的に把捉しようとしている点に存在する

⇒今日、宗教を重んぜよ、という声がある。

⇒しかし宗教をどこまでに限ったらよいか?はっきりしない。

⇒儒教は宗教であるか、ないか、議論されている。

⇒神道が宗教であるか、ないかということは、今の日本人にとって非常に重要な意味をもっている。

⇒共産主義の運動は、非常な情熱を伴い、排他的になるという点でしばしば宗教的であると評されている。

⇒しかし共産主義を宗教と呼ぶことはできないであろう。

⇒マルクス・レーニン主義は宗教に対して敵対的であった。

⇒だから、儒教や神道やマルクス・レーニン主義に一顧も与えないで宗教だけを論ずるならば、

⇒それは人間論として決して十全なものではない。

では、哲学が人間の問題を解決してくれるのか?

⇒しかし、記号論理学による論理計算をいかに精緻に行っても人間の悩みは解決されない。

⇒また認識論からは価値の基準は出て来ない。

⇒だから学校で、限られた意味の哲学だけを教えるといことは、無意味である。

⇒philosophiaという語を最初に用いたのはギリシャのオルフェウス教の共同体であったといわれているが、

かれらにとって、「哲学」とは?人生の「生き方」であった

ところが今日の日本では、哲学の原義が忘れられているのではないか?

⇒今日、日本諸大学では哲学の講義が盛んになされているが、

「人生論」に関する講義が一つもない

人間の「生きる道」を教えてくれない

⇒ただ西洋の哲学書に書かれていることの羅列と紹介だけだといった言い過ぎだろうか。

⇒今や日本の諸大学ではチグハグな、統一性のない、宗教や哲学に関する知識の切り売りがされているだけではないか。

⇒「生きる」という問題と無関係な知識の断片的取得だけだというならば、

⇒けっきょく精神分裂的症状が見られるだけである。

⇒思想の学問が混迷をつづけているということは

⇒現代日本における道徳の頽廃(たいはい)、教育の荒廃という恐るべき事実と決して無関係ではない。

⇒この点で思想の学問をしている人間は大きな責任を感ずるのである。

こういう実情を考えるとき、弘法大師が

あらゆる人間の生き方に理解を示し、それらを位置づけ、意義を段階的に認めて

全体系的な体系を示したということは、大きな意義がある

⇒そこには哲学だ、宗教だというようなケチな縄張り争いは見られない。

⇒人間のもつあらゆる欲望、要求、悩み、期待と希望に正面切って、

⇒まともに取り組んでいる。

人間の生きるべき道を示している

⇒これがまさにわれわれ比較思想学会のめざすところである。

「比較哲学」という語を用いないで、「比較思想」としたわけは、

哲学の奥にあるもっと根源的なものをめざしたのである

⇒世間には「哲学というものは無用である」と主張する人もいる。

⇒それも一つの思想である。

⇒われわれは哲学なしで生きることがはできるが、

⇒思想なしで生きることはできない。

それと同じ理由により、われわれは「比較宗教」よりもさらに根源的なものをめざしている

⇒むろん弘法大師からいきなり現代のわれわれにまで跳ぶわけではない。

⇒中間に立派な学者があった。富永仲基の「誠の道」も、同じようなものをめざしていたが、

⇒西周の「百一新論」も同じような思惟にもとづいている。

⇒「哲学」という語を初めて用いたのは西周であるが、かれの哲学は、重箱の隅を楊枝でほじくるようなものではなかった。

⇒だから弘法大師のような精神はのちの時代にも生きているのであるが、

⇒われわれはその根源を弘法大師のうちに見出すのである。

⇒弘法大師は、いかなる思想をも捨てなかった。

いかなる異端邪説をも、その由って来る所以を見定めて、それぞれ適当な位置に位置付けた

その上で、完き人間が進むべき道を示したのである

⇒そうしてその努力を継承し発展させることを、われわれ比較思想学会の氏使命であると確信する。

以上弘法大師の思想を主軸としていろいろ考えを述べたが、

⇒もちろん弘法大師の多数の著作のうちには現代において適切でない立言もいろいろ見られるであろう。

⇒しかしかれのめざした意図というもは、

⇒新しい人類の思想形成のために大きな意義をもっているのである。

⇒そのほか弘法大師の思想のうちには、西洋にもその対比を求め得るものが多い。

⇒陀羅尼を唱え、霊験を求めるということは、

⇒西洋においてもの呪術にたより、奇蹟を信じた信仰に対比される。

⇒信徒のあいだでは四国八十八ヶ所巡礼が行われて来たが、

⇒西洋でも恩籠を蒙り、贖罪の目的をはたすために聖地巡礼が行われてきた。

・弘法大師は

「仏はわれに入り、われは仏に入る」(入我我入)と説いたが

⇒これに対応する体験は、新プラトン派を中心にする神秘主義のうちに見られる。

エクスタシス(Exstasis)とエントゥシアスモス(Enthoussiasmos)に相当する

⇒キリスト教の神秘主義にも同様の神人合一の体験が見られる。

⇒絶体者の顕現の視覚的具現化(マンダラ)は西洋にもその志向を認めることができる。

⇒自然万物が救済され得るかどうかということも大きな問題とされた。

⇒これに対応する体験は、新プラトン派を中心とする神秘主義のうちに見られる。

⇒西欧における神秘宗教は東邦のオルブェウスの信仰やミトラ信仰に由来する。

⇒例えばギリシャ末期の新プラトン学派のプロティノスに見られるように、神たる一者から万物が発源することを説くことに始まり、それは精神・霊魂・物質という過程をとって発出する(光源から光の発するように、あるいは源泉から水の流出するように)と説く。

⇒この精神・霊魂・物質という過程を逆行して

⇒人間の場合には物質即ち意識に集中し更に観念の場所たる精神に遡及するこによって、

⇒やがては一者たる神との合一を成就し得るものである。

注)オルブェウスの信仰とは:古代ギリシャにおける密儀宗教であり、冥界を往還した伝説的な詩人オルブェウスを開祖としている。以下はオルブェウス教の特徴。

  1. 教義:
    • 魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱などが基本的な教義とされている。
    • 人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず、輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされていると信じられていた。
  2. 神話:
    • オルペウスによる神話によれば、ディオニューソス(バッコス)の心臓が一時的にゼウスの脚に縫い込まれ、その後セメレーの母胎に生まれ変わったとされている。
    • 人間の霊魂は「再生の輪廻(因果応報の車輪)」に縛られた人生へと繰り返し引き戻されると考えられていた。
  3. 終末論:
    • オルペウス神話によれば、死後にはレテの水(忘却)ではなくムネーモシュネーの泉の水(記憶)を飲むべきであり、祝福された来世への信仰が存在した。

オルブェウス教は、秘儀と同様に来世における優位を約束し、秘儀的な通過儀礼や禁欲的な道徳律を定めていた。

注)ミトラ信仰とは:古代ローマで隆盛した密儀宗教であり、太陽神ミトラスを主神として崇拝していた。以下はミトラ教の特徴。

  • 信者組織:
    • 信者は下級層で、主に男性で構成されていました。
    • 7つの位階を持つ組織がありました(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)。
    • 入信には試練を伴う入信式が行われました。
  • 起源と発展:
    • ミトラス神は古代インド・イランのミスラ信仰に由来し、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に広まった。
    • ミトラス教は紀元前1世紀に地中海世界に現れ、紀元後2世紀までには広く知られる密儀宗教となった。
  • 宗教形態の違い:
    • ミトラス教は公的でなく、信者以外には信仰の全容が秘密にされた宗教でした。
    • 古代イランのミスラ信仰とは宗教形態に大きな相違点があった。

ミトラ教は、ローマ帝国内で約300年間信仰され、キリスト教との類似点からも注目されている。

プロティノスの弟子たるポルフュリオスのプロティノス伝によれば

⇒プロティノス自身がその生涯において5年間に4度恍惚の状態において神との合一を達成したといわれる。

⇒新プラトン学派は既にギリシャの末期においてキリスト教の起って来る時代にあって宗教的色彩を最も強くもつものであるが、

⇒プロティノス以外は一般にヘルメス祈禱書(きとう)の中に示される合一の体験は最も原始的な前ヘラス的なものへと向かう反動であった。

⇒そしてそれらの人々と神との間におこる合一の手段は、

⇒いつもエクスタンス(霊魂が肉体から脱すること)とエントゥシアスモス(神が礼拝者の中にはいって来ること)とを通じて起るのである。

このExstasisとEnthoussiasmosが真言の入我我入と

全く同一の体験の少しく異なった表現であることに人は気付くであろう

⇒そして「汝が吾のあるところのものとなり、吾が汝のあるところのものとなるよう、

⇒花嫁としてその花嫁を迎える準備をなすべし」とか

⇒「吾は汝の中に、汝は吾の中に」「みどり児の女の腹に宿るごとく吾のうちに入り給え」

⇒という祈りとなるのである。

注)新プラント派とは:後3世紀に成立し、西洋古代哲学の棹尾を飾った潮流で、始祖とされるプロティノスは、プラトンのイデア論を徹底させ、万物は一者から流出したもの(流出説)と捉えた。この思想はプラトン主義の伝統を継承し、後世の哲学やキリスト教的な世界観に影響を与えた。

新プラトン主義は一者からの流出の観念を重視し、中世ヨーロッパのキリスト教思弁哲学の基盤の一つとなった。プロティノスやその後継者たちは、キリスト教徒にとっては異教徒であったが、中世哲学にも影響を与えた。ルネサンス期にはプラトンの思想とし新プラトン主義は区別されていないが、その後も文芸や美術に大きな影響をあたえた。

上図:イタリアの画家サンドロ・ボッティチェッリの作品。「プリマヴェーラ(春)」美しい春の光景を描いており、中央には春の女神「プリマヴェーラ」が立っている。周囲には三美神や風神などが絵がかれいる。この作品は親プラトン主義の影響を受けており、美と愛を中心的なテーマとして取り扱っている。

■弘法大師は

⇒多方面に功績のある人であったから、種々の面で論ぜられぶべきであるが、

比較思想の立場から特に注目すべきは、 

綜芸種智院(しゅうげいしゅちいん)を創設したことである

⇒それはかれの思想から論理必然的に導きだされたことである。

綜芸種智院(しゅうげいしゅちいん)は

日本で最初の庶民学校であった

⇒平安時代の初め頃の教育制度は平安京に大学、地方に国学があり、

⇒いずれも官吏(かんり)養成の機関であった。

⇒また貴族階級では

⇒それぞれの氏族の子弟を教育する学校を設置していたが、

⇒これらはいずれも一般庶民には門戸が開かれていなかった。

⇒そこで空海は天長五(828)年十二月十五日、京都の九条にある藤原三森(ふじわらただもり)の広い邸宅や土地を譲り受け、

⇒民衆のための学校を創設した。

⇒その教育方針や内容はなどは

綜芸種智院(しゅうげいしゅちいん)式並びに序によって知ることができる。

出典:https://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3/%E6%9D%B1%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

そこに表明されている理想は

「衆芸」すなわち諸の学問を「綜通」すなわち綜合して「智」すなわち知識を種(う)えることである

⇒それはまさに西洋における大学の理想に合致する。

⇒大学の原語名universityはunus(一つ)に諸の学問を向ける(verso)、統一するということ(ーtas.抽象名詞の語尾)に由来するラテン語universitasに由来する英語である。

⇒弘法大師は、この学問の理想を明白に表明した。

綜芸種智院(しゅうげいしゅちいん)の理想は

⇒まさに大学のあるべき真のすがたを明示している。

⇒ヨーロッパの遍歴学徒たちが、

⇒ボローニャやパリなどの学問中心地に集まってuniversitasと呼ばれる学問共同体を形成したには十二世紀に始まる。

⇒ところが弘法大師のこの学院は九世紀初頭であるから、

⇒西洋の大学より300年以上古い。

弘法大師こそ世界最古の大学創設者である

⇒インドのナーランダーの大学などはそれよりも古いが、

⇒その大学創設の理想を説いた文書は残っていない。

⇒世間の人々は

綜芸種智院(しゅうげいしゅちいん)の意義を軽く見て、

⇒民衆のカルチャーセンターくらいにしか考えないが、

事情は逆である

⇒政府のつくった学問界所は、官吏(かんり)養成機関にすぎなかった。

⇒寺院にあった学問所は、仏教の教義学を中心に教えていた。

いづれも目的が限定さている

ところが弘法大師のこの学院は

世俗と宗教とを一貫して綜合した

新しい学問をめざしていたのである

思うに、古来よりの九流・六藝は世を済(すく)うための舟や橋にも比すべきものであり、

一方、十蔵・五明(ごみょう)の仏の教えと学問は、世人を利益(りやく)する宝である。

だからこそ過去・現在・未来の三世におわす如来も、

仏教の学問と世間の学問とを兼ね学んで偉大なる覚(さと)りを成就されたのであり、

あらゆる菩薩賢聖(ぼさつけんじょう)も、

これらの教学にすべて通暁して完全なる悟りの智慧を証したもうたのである。

五味のうちの一味のみでご馳走ができたり、

五音のうちの一音のみで妙音を奏でることなど、

いまだかってそのためしはあるまい。

立身出世の要点、治国の道はいわずもがな、

この世で生死の苦を断じ、

彼岸にあって涅槃の楽しみを証することも、

この衆藝兼学の理(ことわり)を捨ててはなんびとといえども到達し得ないであろう。

それゆえに、欽明の帝以来の聖帝賢臣らが寺院を建立されて、

これを仰いで仏道を弘めたもうたのである。

しかしながら、寺院の僧侶は、一方に偏して仏教の経典のみ学習し、

大学の俊秀は、仏典以外の書物のみ読みふけっているのが実情である。

このようにして、三教(「釈」と「李」と「孔」(仏教と道教と儒教))の書や五明の書のような

全般にわたるものついては

ふさがりとどこおって通じない。

だかろこそ綜藝種智院を建てて、広く三教全般にわたって多くの学匠を招く次第である。

このうえは、三教の学を明らかならしめて無明(むみょう:根源的な無知)の闇路(やみじ)に迷う人々を導き、

五乗の教法を用意して等しく一様に人々を覚(さと)りの世界へ駆り立てんものと、切に願う次第である。

ただ当時、こういう独創的な学院は、経営は決して容易ではなかった。

詳細な内容は

https://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1989_16_hikaku_13_nakamura.pdf

のP95~P96を参照願います。以下一部抜粋して紹介する。

【師を招く章】

『論語』にいう、

「人は仁の美風のある所にこそ住むべきであり、

居所を択(えら)んで仁の気風のない所に止住するならば、どうして智者といえようか」と、

また同じ書に、「六藝に遊ぶ」という主旨の言葉もある。

『大日経』には、

「初めて伝教(でんぎょう)の阿闍梨(あじやり)になるには、

まず衆藝を兼ね学ぶべきである」とある。

『十地論』という、「菩薩は菩提(さとり)を成就するためにまず五明の学問を研究して法を求めるべきである」と。

だからかの善財童子は百十城を巡り歩いて五十三人の師を尋ね求め、

常啼(じょうたい)菩薩は常に一市に哭(こく)して般若の法を求め続けたという。

したがって、智慧を得るためには仁者の郷に処(お)るべきであり、

覚(さと)りを成就するためには五明の法に頼(よ)るべきである。

法を求めるには必ず大勢の資(たすけ)も必要である。

以上の四者が具備して初めて事業が完成する。

故にこの、処・法・師・資の四つの条件を設けて

多くの人々を利益し、救済しょとするものである。

処あり、法ありとしても、

もし師を欠ければ理解を得るすべがない。

だからまず師を招請しなければならぬ、

師に二種類があり、一つは仏道の師、二つは世俗の教師である。

前者は仏教の経典を伝え教えるもの、後者は仏教以外の典籍を教え弘(ひろ)めるためのものである。

仏法も世間の教えもともに習得すべきであるとは、

我が師の正しい訓(おし)えである。

・一つ仏道人伝授の心得のこと

右(上)、顕密二教を学習することは僧たる者の本分とすべき嗜(たしな)みであるが、

もしさらに仏教以外の書にも通じようと思うならば、俗の博士に一任しえ修学すべきである。

俗人であっても、仏教の経典・論書を学ぼうと心に願う者があれば、僧侶を師とすべきである。

その師たる者は、心は四無量心(しむりょうしん)・四摂法(ししょうぽう)に住して労苦を厭わず、貴賤の差別をせず、よろしく指導伝授すべきである。

注)顕密二教とは:(弁顕教二教論は)弘法大師によって著された仏教書。この著作は、顕教と密教の違いを明らかにし、密教の特質を強調している。

  • 顕教(けんぎょう):顕教は、応化身の仏が衆生の機根に合わせて言語でわかりやすく説く教えです。これは顕教の側からみて、方便の仮りの教えとされています。
  • 密教:密教は、自受用法性仏(法身)が自らの覚りの境界(真理そのもの)をありのままに説く教え。弘法大師は密教の特色を以下の4つの観点で指摘している。
  1. 仏身:密教は法身が説法する。
  2. 教法:密教は悟りの境地を説く。
  3. 成仏:密教は即身成仏を説く。
  4. 教益:密教はいかなる者をも救う。

『弁顕密二教論』は、密教の優越性を論じた重要な著作であり、空海の思想的立場を明らかにしている

一つ、俗教の博士の教授の心得のこと

右(上)、九経九流、三玄三史、七略七代について、もしくは詩歌・銘賦等の文学作品につき、

音や訓、句読あるいは通義などに精通している者で、

これらの文献にわたって一部の書・一帙(いちもつ)の本、いずれをとっても童蒙(どうもう)を啓発する学識のある者は、教師としてこの学院に住せらんよ。

もし仏道の人で心に仏教以外の典籍を学ばんと願う者があれば、才徳秀でた人、孝廉の士がそれぞれ適宜に伝授せられよ。

もし青少年の学生生徒で文学の読み書きを学ばんとする者があれば、儒教の先生は、慈悲の心をもち、忠孝を念頭において、貴賤貧富の隔てなく適宜に指導を与え、倦(う)むことなく諄々と教えられよ。

三界(この世界)の衆生はみなわが子であるとは大覚世尊(お釈迦様の尊称)のお言葉であり、

四界(世界中)はみな兄弟であるとは聖人孔子の名言である。

この言葉をよく仰いで忘れないようにせねばならぬ。

注)九経九流とは:儒教における9種類の経典を指している。これらは中国の古代思想家たちによって分類された。以下の9つの経典がふくまれる。

  1. 詩経(しきょう):詩歌の集成で、周代の詩文を含む。
  2. 書経(しょきょう):古代の書記文書や伝説的な出来事を記した文献。
  3. 易経(えききょう):変化と占いに関する経典で、六十四卦(64の象徴的な図形)を含む。
  4. 儀礼(ぎれい):礼儀や儀式についての文献。
  5. 礼記(らいき):儒家の礼制や倫理に関する著作。
  6. 周礼(しゅらい):周代の礼制についての文献。
  7. 春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん):春秋時代の歴史的な記録や注釈が含まれている。
  8. 春秋公羊伝(しゅんじゅうくようでん):同じく春秋時代の歴史的な記録や注釈。
  9. 春秋穀梁伝(しゅんじゅうこくりょうでん):春秋時代の歴史的な記録や注釈が含まれている。

これらの経典は、儒教の学問や思想の基盤となっている。

注)三玄三史とは:臨済宗の教義に関連する重要な概念。これは臨済宗の創始者である禅僧臨済義玄(Linji Yixuan)によって強調されたもので、彼の語録である『臨済録』に記されている。

三玄(さんげん):「三玄門」は道家の語に由来し、三つの奥深い道理を指す。具体的には、一玄門(一つの奥義を具えた門)が三要(三つの要点)を持つべきであり、それぞれの要点は「有権」(適切な方便を用いること)と「有用」(実践的な効果を持つこと)を備えているべきです。

この教義は、臨済宗の修行者にとって、深い理解と実践の指針となっている

注)七略七代とは:七略(しちりゃく)は、中国前漢時代に劉向と劉歆父子によって編集された朝廷の蔵書目録。『七略』自体は散佚(さんいつ)して現存していないが、『漢書』芸文志の基礎部分として残っている。この書物は、蔵書の解題(=収録)を含み、六芸・諸子詩天賦の三類されていた。

さらに、日本神話においても「神世七代」という概念がある。これは天地開闢の際に生成された7代の神々の総称で、陽神(男神)と陰神(女神)が含まれている。日本神話の神世七代は、神々の進化や物語の展開を表しており、7代目の伊邪那岐と伊邪那美がその完成形とされている。

一つ、師と弟子と、ともに糧食が必要であること

人たる者はぶらさがっているにが瓜ではないと孔子はの格言であり、

人はみな食によって生きる者であるとは釈尊の所説である。

したがって、その道を弘めようと思うならば、必ずその人々に飲食を与えねばならぬ。

道人・俗人たるを問わず、また先生と弟子たるを問わず、いやしくも学道に志す者にはみな等しく給費すべきである。

しかし、わたくし空海はもとより清貧を旨としているから、

まだ充分に必要経費を支弁できないが、

とりあえず若干の物資を費用として充当したのである。

もし、国に益し、人を利せんとする志があり、迷いを去り覚りを証せんと志し求める人があれば、

同様にたとえ些少(さしょう)たりともこの学園へ施入して、わが願いに協賛せられよ。

世々生々にわたり、ともどもの教えの力をかりて大衆に利益を与えたきものである。

天長五年(828)十二月十五日

大僧都空海記す

こういって綜芸種智院の式を結んでいる。

その教課内容は、民衆のためのものであったから程度は低かったかもしれない。

しかし学問の綜合という高い理想は、

いかに評価しても、過ぎるというこはない

空海の没後(774年~835年)、

この学院の経営は行きづまった

適当な後継者がいなかった

この学校は惜しくも承和十四(847)年に閉ざされた。

弟子たちはこれを売り払って、丹波大山荘を買い、東寺領とした。

しかし空海が示した学問と教育への熱意とその理想は

世界の教育史上高く評価されるべきである。

現在<教育の荒廃>ということが盛んに論ぜられているときに、

われわれは、祖先である弘法大師の理想を聴くべき点が大きいと思われる。

以上、いくつもの観点から、弘法大師空海が日本における比較思想の始まりであることを述べた。

(中村元(なかむら・はじめ、比較思想学会名誉会長)

注)欽明天皇(510頃~571年)とは:第29代天皇であり、その治世には仏教伝来が最も大きな出来事で、552年(欽明天皇在位13年目)に百済から仏教と経文が伝来し、「仏教伝来」として位置づけられている。欽明天皇は仏教の可否について群臣に問い、神道勢力である物部尾輿と中臣鎌子らは反対した。この出来事は、後の皇位継承問題にも影響を与えた。

一方、仏教勢力の中心は蘇我一族であった。皇位継承については、第30代敏達天皇から異母弟や異母妹へと気象され、史上初めて女性天皇である第33代推古天皇が誕生した。

注)聖徳太子(厩戸皇子)と推古天皇との関係:甥で第31代用明天皇の子。皇太子として摂政に任じて国政を執った。聖徳太子(574~622)は仏教の保護や冠位十二階、十七条憲法、遣隋使などの偉業を成し遂げ、日本の国家づくりに貢献したとされる。

出典:https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/secure/4309/syoutokutaishi.pd

■編集工学視点~松岡正剛氏の発想を手助けにして~

転記先:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/seigo/post-61.html

◆空海の多様性

・その中でも、私は空海の編集力に関心があるので、そのことを最初に話しておきたいと思います。

⇒ 空海の「仕事の特徴」を把握すべきだと思うのです。思索ではなく、仕事です

仕事をした空海という見方です

⇒すなわち、治水工事や潅漑工事にあたったり、教王護国寺の展示方法に苦心をしたり、水銀鉱脈を掘り起こしたり、その開創にあたって高野杉の使用に踏み切ったり、天皇家に手紙で進言したり、梵字の辞書をつくったり、学校を開設したりという、そ ういう仕事に注目するべきなのです

⇒なぜならば、これらはまさに、今日の日本が混乱している現在では、これからの日本人の誰かがなんとしても取り組むべき ことばかりであって、

⇒しかも、今日の政府や官僚や知識人たちがその方針を見失っていることばかりであるからです。

⇒ということは、ここでひとつ、空海をディベロッパーの本格派として見直し、ミュージアム・ディレクターとして評価し、データベースの設計者として、学校教育の革命家として、もっと言うなら何に投 資をすべきかという経済政策の立案者としてさえ、見直すべきだということなのです。 

⇒わかりやすい例を出しましょう。たとえば『文鏡秘府論』という書物があります。

これは、たい そう分厚い本ですが、その九〇パーセントは空海の著述ではありません

⇒内容は文章論や文体論や詩歌論 になっているわけですが、その大半が中国の理論や評釈の紹介に徹しているからです。

では、この大部の本が空海の産物ではないかといえば、そんなことはな い

ここには空海独自の配列が生きているし、省略も生きているのです

なによりも、空海のフィルターを通した中国詩文論の編集精華というものになってい る

つまり空海のフィルタリングやエディティングがめっぽう効いた世界になっているのです。  

⇒このような編集作業の数十倍・数百倍の 仕事を空海は一人でやってのけたのです。

いや、一人でやったわけじゃない。それぞれの仕事にふさわしいパートナーやコラボレーターを選り抜いて、その仕事 に必要な方向の完遂に向かってみせたのです。 

⇒もっと言うなら、空海の仕事の一部が藤原一族らの政府官僚になり、空海の仕事の一部が大学のシステムになり、空海の仕事の一 部が書道や詩文道という世界になり、そしてまた空海の仕事の一部が真言密教というものになっていったと考えるべきなのです。

つまりは、空海は以上のような 「日本の仕事の母」であり、その母体の一部に密教が組みこまれていたということになるのです

・なぜ空海はこんなに多くの仕事をなしえたのか、という問題です。

⇒また、それらは空海密教とどのようにつながっているのかというこ とです。

それは、空海は言語を研究したからである、あるいは表現を研究したからであるということ です

⇒これはまとめていえばコミュニケーションの本質を研究しようとしていたと言ってもいいかもしれません。

だからこそ『文鏡秘府論』を編集する必要も あったし

⇒『大悉曇章』や『梵字悉曇字母並釈義』を著す必要があったわけです。

⇒これらは空海にとってはあたりまえに必要な準備であったのです。 

空海のコミュニケーション研究

・第一には、マントラの研究。言語の研究。

これは根底では真言をあきらかにするということ

・第二には、真言を成立させているあらゆる要素

⇒たとえば文字や発音の起源と特質を研究したかったと思います。

⇒そのためには、阿吽の呼吸や文字の綴り方や書道のことも研究する必要がありま した。

⇒そしてこれをコミュニケーションとしての言語の問題や表現の問題に拡張したかったのでしょう。

⇒マンダラ制作や立体マンダラの展示はこの軸に入ります。

・第三に、空海はコミュニケーション・スタイルの研究にも目を向けていました。

⇒空海は“新生日本”をつくり たかったのですから、なんとしてでも日本のOSを開発しておこうと考えたのです。

⇒空海は「母国語」にとりくんだ

⇒母国語とはむろん日本語であるが、空海が生きた時代はまだ日本語システムが確立していない時代だった

⇒万葉仮名は 使われてはいたものの、まだ仮名はなく、

⇒仏教史にとって有名なことだが、読経時のボーカリゼーションを漢音にするか呉音にするかも、まだ定着していなかっ た。

ようするに日本語は揺動きわまりない状態にあった。 

このとき、唐語を完璧に習得し梵字や梵語さえマスターしようとしていた空海は

⇒未成熟な母国語にかぎりない愛着をおぼえ、その確立を 志した。

⇒学校もつくり、辞書もつくった。あまつさえ書道も確立してみせた。

⇒そのような母国語に対するマザープランは、のちに「いろは歌」が空海によってつ くられたのだという伝説になった。

⇒実際には「いろは歌」はもう少しのちに作成されたのではあるが、それも実は空海亡きあとの真言僧たちの研究によって作成 されたと考えられる。

⇒さらに、あまり知られていないようだが、「五十音図」さえ実のところは真言僧の”発明”だった。

⇒ようするに空海は母国語の完成を後世 に託して入定したのであった。

・こうした研究を通して

空海は人々が本質的なコミュニケーションをしあうための、次の場面を考えていったのです

⇒それが高野山の開創 や綜芸種智院の開設などの、いわゆる道場の創立につながります。

それには人々が単に集まるだけではうまくない

⇒世の中にはいろいろなレベルの人がいるからです。

そこでどんな認識のレベルの人でも順序よくステップを踏めるようにした。

それが集約され、大成されたのが『十住心論』でしょう。 

下記転記先:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/seigo/post-206.html

◆さきほど唱和されていた『般若心経』は

⇒玄奘がサンスクリットから漢字に翻訳したものですね。

けれども先ほどの読み方は中国語ではなく日本語的な発音によって漢字を音読したものでした

⇒日本人は、中国から仏教と漢字をほぼ同時に輸入しながら、

経典をそのまま中国語読みするのではなく

日本語らしい発音に置き換えて読むということを当初からやっていたんですね。

⇒漢字が入ってくるまでの日本は無文字社会だったわけですから、

⇒そのまま漢字の導入とともに中国語の国になってしまってもおかしくなかったんですが、

⇒そうはならなかった。しかも漢音や呉音の使い分けまでしました。

⇒いったいそれはなぜなのか

⇒空海の言語思想とそこから派生する『吽字義』や『声字実相義』を詳しく知りたいというふうに、やや偏ったアプローチをしていました。

下記転記先:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/seigo/post-209.html

カリグラファー空海

・カリグラファーとは

⇒カリグラフをつくる人ということで、書道家という意味です。

⇒カリグラファーと空海を呼びたくなった理由は、空海が非常にグローバルであるからです。

インド・中国・朝鮮半島すべての文字、書法、そしてここが大事なんですけれども音声(声)にまつわる森羅万象の形、そうしたものすべてを引き取って書く書家だったからですね。

カリグラファー空海にとって

⇒一番空間的にも時間的に遠い世界はインドです。仏教・密教の興った国ですね。

・密教という宗教文化、信仰システムは

⇒インドの小乗仏教や大乗仏教が興った後に

華厳経が爛熟し、

その華厳経が変質するころから南インドに芽生えてきたものです。

⇒その背景には王城都市の興隆というものがある。

⇒その華厳から密教への発展力がそのまま中国に入ってきて、独特の密教形態をとるわけですね。

⇒けれども、そこにはつねにインド的なものが響いていた。もともとあった訳ですけれども、それが大きくなったのです。そのインド・中国というものを空海は常に意識していました。

 出典:https://www.koumyouzi.jp/blog/902/

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html

⇒長安に行って二十年計画を二年以内で見切って帰ってきたのですけれども、そのあいだに十分に国際都市長安の中でインドの香りというものを嗅いでいるわけです。

中国の中のインド的なものは何かというと、なんといっても梵字です。

・梵字というのは

字素の一つ一つのエレメントがさまざまに組み合わさって一つのコスモグラムとして種子になったものです

⇒したがって、一字でひとつの世界観を象徴できるわけです。たとえば、神仏を象徴できる。

⇒大日如来とか阿弥陀如来とか、菩薩(ボーディサットバ)とか。

⇒そういう梵字はイコンそのものです。つまり文字そのものが神像・仏像になっている

たとえば、大日如来という如来はもともとはいなかったわけです

バイロチャーナという華厳経の中にいた毘慮遮那仏(びるしゃなぶつ)が

マハーという「もっと偉大なもの」という意味がくっついてマハーバイロチャーナとなり

それを訳すと大日如来になったわけです

⇒それはある意味では毘慮遮那というものを発展進化させたものです。

⇒そして大日如来というニューウェーブの強烈なイコンにしていった。さらにそれにふさわしい梵字も作られていったわけですね。

・梵字というのは合成文字

いろいろ組み合わさっている。私の用語で言うと編集ですし、もっと言えば創発です。

⇒エマージェントですね。そうやって大日如来が生まれたように、

密教の世界ではこのように梵字そのものが常に新たに生まれる可能性があるんです

出典:https://www.engakuji.jp/blog/samantabhadra-mantra/

注)普賢菩薩の梵字の真言

オン・サ・マ・ヤ・ストゥヴァンの5文字

サトバンの所が、さ+た+う゛ぁ+んをくっつけた文字になっています。
さ+た+う゛ぁの3つがくっつくことを、梵字悉曇では切り継ぎといいます。

普賢菩薩の真言の意味

オーン。汝は三昧耶なり」という意味となっています。

オンは帰依という意味で大体の真言の頭に付く決まり文句です。
三昧耶(samaya)とは、サンスクリット語の「約束、契約」といった意味で、薩怛鑁(stvaṃ)とは「生仏不二」の意味です。

生仏不二は、我々衆生と仏は二つで無い、つまり、「あなたは仏と同じです」という意味です。
薩埵(sattva)=衆生、バンは金剛界大日如来を表す種子ということで、2つの言葉をくっつけて「サトバン」となります。

ですから、「オン・サンマヤ・サトバン」の意味は、「あなたと仏は根本的には同じであるということを約束します」という意味になります。

なお、サトバンは金剛薩埵の種子(しゅじ)です。

金剛薩埵は真言宗では主人公と言ってもよい仏様で、そもそも、人が悟りを求めようと思った(これを「菩提心を起こす、発菩提心(ほつぼだいしん)」と言う)姿を現す仏様(菩薩)です。

菩提心を起こした仏教修行者を菩薩(菩提薩埵)といい、金剛薩埵はその象徴となる菩薩。
これから教えを実践して仏・如来となります。
なので、仏教修行者と仏は元を返せば同じ存在だったという意味で、「あなたと仏は根本的には同じである」というのです。

曼荼羅や教義などでは金剛薩埵と普賢菩薩がペアにされることも見られます。
これは普賢菩薩の普賢行願という「修行をしてみんなを救います」という10段階の誓いと、金剛薩埵の悟りを求める心を同一として、同体(見た目や名前は違うけど、実は同じ仏だった)されるようになりました。

【普賢菩薩の真言で心の支えとなる力を得る】

オン・サンマヤ・サトバン」が三昧耶戒の真言ということは、

三昧耶戒とは密教修行者として認められるための儀式です。
三昧耶戒は、色々な誓いを宣誓して、最後に契約の証として「オン・サンマヤ・サトバン」の真言が授けられます。

つまり、この真言を唱えることは、心の内に煩悩もたくさん有るけれど、悟りを求めたいと思う心も存在するということを、自分で気がつくきっかけとなるのです。

出典:https://www.engakuji.jp/blog/samantabhadra-mantra/

出典:https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-249.html

密教は

⇒本当は言語哲学にも深く入りこんでいるし、

「いろは歌」や「五十音図」のような文字言語システムにも多大な業績をあげているのですが、

⇒空海の書が最初にあまりに巨大にそびえてしまったためか、

密教教義が神秘的で難しすぎたためか、書道文化や生活文化とうまく交流しきれなかったんですね

⇒というよりも、空海の書を「大師流」と呼んでその真似をするばかりになってしまったわけです。

⇒空海の一書そのものの中に電気があり、霊気もあり、マントラそのものがその一字にあるのだということを見ていったほうがいいんじゃないかと思います。

注)梵字の発音別に50音を当てはめたもの

漢字に同じ音の字がたくさんあるように、梵字も同音異字が。沢山あります。また、宗派や時代によっても変遷します。

正式な梵字対応表ではないので、あくまで参考程度にお考え下さい。
※正式に50音に対応した梵字の体系はおそらく無いと思います。

出典:https://fukoku-kobo.net/html/page1.html

下記転記先:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/seigo/18.html

◆8世紀末の混迷時代(何度も遷都を迷った垣武天皇時代)に国の将来を構想した空海

・空海著『秘蔵宝鑰』の中の憂国公子と玄関法師の十四問答

⇒僧尼たちは頭を剃っても欲を剃らず

⇒衣を染めても心を染めていない

としかおもわれない当時の状況に業を煮やした憂国公子と

空海とおぼしい玄関法師が淡々と諌める有名な問答。

・玄関法師は焦りまくる公子に

⇒「麒麟や鳳凰が見えなくなったからといって、すぐ動物を絶滅してはならないし、

⇒如意宝珠が得られないようになったからといって鉱物を唾棄すべきではない。

⇒いまの世に聖者が見つからないといって、すぐに仏法を捨てるべきではない」と諭す。

まるで今日の世紀末(1990年代)の苛立ちに対する説法のようではないか。 

・だが、憂国公子もなかなか譲らない

⇒「たとえ聖者が見えなくとも、多少の大悟と智慧をもつ者くらいはいてもよさそうではないか」と反論をする。

⇒法師はそこで、現代はあきらかに末法であり、またその様相も随所に出ているが、

そのことを認めたうえで、断固として仏法の機能を確信するべきだと言う

⇒また、このような時代の人々には誰が賢者で誰が愚者であるかは見きわめられないのであって、

⇒優れた逸材がいても気がつかれにくいものなのだから、

そんなことで落胆せずに、王たる者は王法を確信し、仏教者はしっかり仏法を見つめていればそれでいい、そう説くのである。 

・空海はこの国に密教を適用するにあたって、

⇒透徹した見方をもっていた。

⇒すでに中国の歴史は、

⇒不空「密教ナショナリズム」と

⇒一行の「密教タオイズム」と

⇒恵果の「密教インターナショナリズム」ともいうべきを生んでいたが、

空海はそのいずれでもあって、そのいずれでもない独自の密教を

日本という国に定着させるための構想をもっていたのだったろう

⇒それぞれ一長一短はあるが、

⇒空海はそれらをこの国に適合させる「編集」が必要だと考えたのだった

・たとえば、唐では天文暦法の管轄部署と陰陽卜占の管轄部署は別である。

⇒前者は学術、後者は呪術であった。

⇒それが日本では一緒になっている。

この混合習合感覚が「日本という編集」なのである

⇒これが最澄にはわかりにくく、

空海にはよく見えていた

⇒諸国の関渡津泊を跋渉し、諸国の僧俗貴賎と接触してきたからであったろう。

⇒だからそこ空海は、憂国公子の焦燥と短慮を諄々と冷やすこともできたのである。

玄関法師に身をやつした空海が『秘蔵宝鑰』に勧めた「焦燥の克服」

今日では「複雑性」とか「複雑系」という概念が

⇒科学の領域や経済社会の領域でさかんにつかわれるようになっているが、

⇒ではこのような動向に対して、

本来はきわめて高度な複雑性をもっているはずの密教の立場から

⇒今日の複雑なシステムについての理解や共感の声が上っているかといえば、そうとは思えない。 

・複雑系の特徴のひとつは

⇒ある系から出た効果がふたたびその系の本体に自己代入的にフィードバックされることによっておこる特徴としてあらわれるのであるが、

出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4   第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所

https://www.youtube.com/watch?v=DsT7Ha2BDfo&ab_channel=NHK

上記URLの出典:[こころの時代] 数理科学者が語る脳から心が生まれる秘密 | NHK

⇒これは密教思想の一部の特徴とすこぶる近似していたりするのである。

⇒空海密教は『十住心論』や『秘蔵宝鑰』がそうであるように、

低次の情報編集体験を次々により高次の情報編集体験に自己代入することによって獲得されていくプロセスの自覚にあるのだから、

⇒ここには複雑系に似たフィードバック・システムが活用されていると見るべきなのだし、

⇒また秘密金剛心とか密厳荘厳心としか名付けえないマンダラ・ステートは、

⇒いわば複雑性の極みともいうべきものなのである。

⇒が、そのような関心で今日の「複雑さの時代」を凝視しようとしている人々は、残念ながらあまりいないように思われる。

科学の動向と密教との関係性はなかなか成り立っていないように見える

⇒密教は古代に成立したもので、その後の発展があったとはいえ、その内実の大半は宗教的なものだから、

⇒とうてい科学などと交差するはずがないという頑迷な見方が固定してしまっているからなのだろう。 

「意識の科学」という一条の光をそこにあててみさえすれば

⇒密教と脳科学はたちまち結びつき、認知科学と六派哲学や唯識論はたちまち交錯し、

⇒『即身成仏義』はマーヴィン・ミンスキーの『心の社会』やダニエル・デネットの『志向姿勢の科学』と連携するはずなのである。

誰かがちょっと勇気をもって「密教は意識の科学でもあろう」と言いさえすれば、いろいろな事は始まるはずなのだ。 

このような提案はカリフォルニアに育ったニューエイジ・サイエンスによっていろいろ試みられてきた。それこそ一九七〇年代の頃である。

⇒しかし、このような試みにその当時対応した仏教者や仏教研究者は、私の知るかぎりは鎌田茂雄さんと秋月龍治さんくらいのものだった。

⇒その後ずいぶんたって、たとえば玉城康四郎さんの『脳幹と解脱』のような試みが世に出たが、

⇒私の印象では、それは「ダンマの思惟」としては「速迅の意識」を描いてすばらしいものではあったのだが、

⇒科学の言葉を使っておられる部分のすべては、いまひとつ「科学のダンマ」にはなっていないように思われた。

いま、仏教者はあらためて

⇒メイナード・スミスの『進化する階層』や

⇒ジェラルド・エーデルマンの『脳から心へ』などを、

⇒クリスチャン・ド・デューブの『生命の塵』や

⇒フランシス・クリックの『DNAに魂はあるか』などを、虚心坦懐に読むべきなのだ。

⇒ここに思いつくまま挙げた四人のうち三人はノーベル賞科学者であるが、

⇒そこに綴られているのは、まさに仏教であり、密教であり、二十一世紀のための思索なのである。

出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4   第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所

「言語学と密教」というような問題ならば

これこそ空海の言語思想としっかり重なるところなのだから

⇒いまごろはとっくに「密教言語思想体系」あるいは「空海言語哲学」ともいうべきプログラムが

⇒巷の識者も覆い尽くし、ソシュールやヴィトゲンシュタインや、あるいはチョムスキーやバフチン以上に論議されるところとなっていてもおかしくなかったのである。

⇒とくに井筒俊彦さんが密教に手をさしのべられていれば、それだけでもずいぶん様相は変わったと偲ばれる。

⇒空海の「知」をもっと世界に知らせたいと思っている私としては、そこがやはり残念なことである。

・別の視点から

⇒密教思想や空海哲学の二十一世紀的な活用を考える必要があるということになる。

⇒が、このこと私の気持ちからすれば、実は十四年前に書いた『空海の夢』でそれなりに提案してあったことなのである。

多少は密教思想と空海哲学の「知」の未来化のヒントがどこにあるか、わかってもらえるはずだった

・二つの視点から空海密教の特色を明示しておく

ひとつは空海密教がとびぬけて優れた「編集の思想」であるということで

もうひとつは、その「編集の思想」は華厳を母体に考えぬかれた「編集の方法」によっていたということである

空海の「知」は類い稀れな「編集の知」というものである。

その驚くべき編集能力はすでに『三教指帰(さんごうしいき)』にたっぷりあらわれている。 

・このような知の持ち主は

⇒ヨーロッパにも、たとえばベーコンとかヴィーコとかホワイトヘッドとか、

⇒あるいはイタリア・ルネッサンスを構築したマルシリオ・フィチーノとかバロックの王者ロバート・フラッドとか、それなりに錚々たる編集知の持ち主がいるのだが、

なんといっても八世紀の段階で壮大な編集知を構想したという点では

⇒空海は他者との比類のしようがないほどで、

それに加えて東洋の知を徹底的に編集してみせたという点で、ナーガールジュナ(龍樹)やヴァスバンドゥ(世親)にもまったく手が出せないものだった。

ただし、当初の空海の編集力をもってしても、気になる手ごわい相手

空海にとっての未知の領域が控えていた。

それは、ひとつは『大日経』に代表される密教思想である

もうひとつは、華厳の法蔵や澄観が青年空海の前を全速力で進んでいたと見えたことである

⇒空海はこれに追いつき、これを追い越すことを考えた。

空海密教が法蔵や澄観の華厳思想を母体としていることは

⇒誰もが知っていることであるはずなのに、

あまり十全に議論されてはいない

⇒私はそのことが気になって『空海の夢』の第二六章に華厳から密教に出るというささやかな解読を試みておいたのだが、

⇒宮坂宥勝さんと鎌田茂雄さんと井筒俊彦さんをのぞいては、とくに関心を払う人には出会えなかった。

しかし、この点がわからないかぎり、空海密教の本質はまったく語れない

とくに空海密教が編集思想であることがわからない

⇒それにはまず、空海が長安にいるときに華厳僧たちがどれほど活躍していたかということを一瞥しておく必要がある。

長安の空海の日々は華厳の理解に多くの時間をさいていたのだが

どうもこのことが見えない人が多すぎるからである

・空海が長安に入ったのは三一歳のときだった

⇒西明寺に入ってみると、すでに三十年前からそこにいる日本僧永忠が華厳にやたらに詳しいことに驚いた。

⇒聞けば、カシミール僧の般若三蔵という老僧が六年前に『四十華厳』を漢訳したばかりだという。

⇒そこで空海は醴泉寺にいた般若三蔵のところに通う。

⇒また、宗密というすこぶる鋭利な華厳僧がいて、

⇒すでに新たな宗教人間哲学ともいうべき『原人論』を綴ったという。

⇒宗密は空海のわずか四歳年上の者だった。

⇒空海はこれらの人々の成果を懸命に学習しつつ、

その淵源が澄観という華厳の大立者に発していることを知る。 

その澄観は六六歳になっていた。のちの華厳宗第四祖である

⇒もともとは五台山清涼寺が本拠であるが、このころは長安の崇福寺に止宿しつづけていた。

⇒いろいろ尋ねれば、この澄観の影響指導下にいたのが般若三歳であることもわかってきた。

⇒実際にも『四十華厳』漢訳本の巻末には「太原府崇福寺沙門澄観評定」の記載が見える。香象大師澄観に認定してもらったのだった。 

⇒このような日々をおくりつつ、空海は澄観から出た宗密が新しい宗教哲学を創造しようとしているのに愕然となり、

⇒これに勝る宗教哲学を構想しようとしたはずである。

構想の母体は華厳思想におくしかないようにおもわれた。

⇒それほど華厳思想はすばらしい出来栄えになっていた。

が、その脱出口はどこなのか

⇒どうやら宗密は華厳から禅の方向に転出しようとしているらしい。

空海はその方向を採用したいとは思わない

むしろ新たな密教動向に賭けたいと決意する

それこそが恵果の金胎両部のマンダラ密教哲学だった

空海は華厳と密教をまったく新しく統合編集してしまうことに賭けたのである。 

・第一祖の杜順と第二祖の智儼の後、第三祖の法蔵がきわめて雄大な構想をつくっていた

⇒ここで華厳思想を要約するのはとうてい不可能であるが、わかりやすい成果をひとつだけあげるとすれば、

法蔵は、

⇒当時は声聞・縁覚・菩薩の三乗思想にこだわっていた仏教界に対して、

華厳別教の一乗思想を確立して

“業界思想”を止揚するとともに

そこに「該説門」という思索を吸収する新編集概念を提案することによって、

はやくも空観と唯識の両思想を華厳思想に吸収してしまっていたのである

⇒それだけではなかった。法蔵は『探玄記』という著書に、

⇒のちに澄観の心をも空海の心をも捉える

「十重唯識」(十玄)という卓越した構想を発表し、

人間意識のスペクトルの最高段階を「帝網無礙」という境地で言いあらわしていたのである。 

⇒これこそは空海が『即身成仏義』の偈において

「重重帝網なるを即身と名づく」と綴った”ルーツ”にほかならない

すなわち空海は、こうした法蔵を頂点とする華厳十玄思想があることを知り、

これを密教の方向に軌道展開させながら統合編集しようとしたのであった。

⇒二十年ほど前のことになるが、私は『弁顕密二教論』に「密厳華厳」という造語があったことにぶつかって、そうか、空海のルーツは華厳だったのか、と思ったものである

◆二十世紀は

多くのことを発明しながらも、その成果を回収しきれなかった世紀である。

⇒この一〇〇年間の二十世紀が到達した英知、たとえば相対性理論や量子力学、分子生物学や精神医学、言語思想や文化人類学などに見られる英知を、

⇒どのように一般化し、どのように活用したらいいのか、

⇒そのような自分たちが創りあげた思想成果の活用にすら、ほとんど手がまわらなかったのである。

われわれは自分たちが創りあげた極上の思想さえ咀嚼できない自己思想の砦にとどまったまま、二十一世紀を迎えるのである。

もうひとつ大きな問題が積み残されている

⇒それは、二十世紀以前の英知をどのように取り扱ったらよいかという問題だ。

⇒その最大な成果が宗教や論理や生死の哲学である。

⇒これらは現状では、もはや英知ではなく、ただの習慣や記憶になってしまったのだろうか。 

よくよく観察してみれば、実は多くの成果の奥には

これらを連携させ、相互に関係させうる共通の方法がひそんでいるはずであ

また共有構造もひそんでいるはずである

私はそのような視点で過去と現在の成果を通暁してみる方法を「編集の方法」と呼んでいる

編集とは

「別々のものを出会わせる」ということであり、

「お互いにひそむ関係を発見する」ということである。 

そしてこのとき、空海の方法が忽然と蘇るのだ

空海の編集思想と編集方法は

⇒ひとり古代密教の蔵にしまいこまれたものではなく、

二十一世紀の扉を開くものとして、ここに蘇るべきものなのである

おそらく、そのように空海の方法が蘇るには

⇒たとえばソクラテスやプラトンや大乗仏典が開発した対話の方法や、

⇒玄奘や道元やダンテやヴィーコが発見した翻案の方法や、

⇒そのほかいろいろの方法が一緒に蘇るはずである。

⇒なぜなら、編集は、空海密教がまさにそうであったように、

どんな思想や英知をも”即身”させるものであるからだ

■密教の教え-空海著『十住心論』第十住心(マンダラ)を読む

◆導入

転記先URLは以下

https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-270.html

第十住心 マンダラ

 人間は第一住心の生存欲を意識することから始まり、その思考能力よって人間中心主義の思想を発達させてきた。その間、ナーガールジュナによって考察された相対性の論理による諸相の存在の否定、すなわち空(くう)は、空海によって実在する万象を含む絶対空間の空(くう)として肯定されるが、論理によっては世界の真理を説明することができないとしたナーガールジュナの哲学的帰結により思想の階梯はこの段階で崩壊してしまった。

◆特異点

出典:https://www.youtube.com/watch?v=Fc0Caf6-GGw&t=3262s&ab_channel=%E6%9D%B1%E5%A4%A7TV%2FUTokyoTV

注)仏教では世界の創造を説かない:したがって造物主も認めない

万物は縁によって生じ、縁によって滅す(縁起説)ものの発生には必ず本がある。いかなるものも無からは生じないのだから、本にもまたその本がある。では原初の本は何か。もちろん誰かが造ったのではない。原初の本が生じたのだとすれば、それはどうして何から生じたのか。

だからそれは「生じた」のではない。だが生じたのでなければ、なぜ諸般のものはある(ようにみえる)のか。結局、生じたとか生じないとかを問えない原初の、思量を越えた事態を「本不生」といい、それを阿字で表して「阿字本不生(あじほんぶしょう)」というのである。

万物の根源は、万物自体がそこにあるように、やはり宇宙そのものであろう。そして万物の母なる宇宙は、やはり生命を生み育む母のように慈愛に満ちているであろう。

それは現代物理学が描くような暗黒の冷たい物質空間ではない。精神的・霊的存在であるわれわれを生み出した宇宙が、そのようなものであるわけがない。

されば、かくのごとき母なる宇宙を仏とみなして何の不思議もない。さらにそれを最高の尊称として大日如来と呼ぶことも

かくて阿字は宇宙仏たる大日如来の象徴となる。阿字を観想し、阿字を胸中におさめることは、自身と大日如来との本質的・本源的同一を体感することにほかならない。

上記参照先:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/miyasaka/post-12.html 阿字観の方法と意義

注)阿字本不生:密教の根本教義の一つで、「阿」の字が宇宙の根源を象徴し、本来不生不滅、すなわち永遠に存在するという意味を持つている。

【個人的感想:真空の揺らぎ≒空≒大日如来≒創造の瞬間(宇宙の根源観)】

そこで、第十住心において空海は言語による論理を超える多角的な表現メディアとして

 (1)「形象」:万象の色・かたち・動きによるすがた<大マンダラ>

 (2)「シンボル」:事物・事象の象徴性とそのことによる差別化と意味化<三昧耶(サンマヤ)マンダラ>

 (3)「単位」:文字と数量による意味の編集<法マンダラ>

 (4)「作用」:物質のはたらき/人の行動<羯磨(カツマ)マンダラ>

 の四種があることを示し、それらのメディアによって、世界の”すがた”とその”はたらき”の本質を伝達することができると提唱した。そのメディア<マンダラ>によって表現された真実の世界が第十住心なのである。

 空海の作成したマンダラには、胎蔵マンダラと金剛界マンダラがあり、前者は五つのいのちの力(生命力・生活力・身体力・学習力・創造力)によって発揮される根源的なそれぞれの五つの知が展開する生命世界のすがた図であり、後者はそれらのすがたをもつものが行なうはたらきを九つに分類して示す図である。

 その図によって世界の本質が無量に開示する。だからこの第十住心はすでに思想を超えている。

     金剛界曼荼羅                   胎蔵界曼荼羅

◆第十住心を読む

転記先URLは以下

https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/new-21.html

9世紀前半の淳和天皇の時代に、各宗にそれぞれの宗義を書いて差し出すように勅命があった。それに答え、空海(インド伝来の密教第八祖であり、真言宗の開祖)が執筆したのが『十住心(じゅうじゅうしん)論』十巻である。

 十巻の内、九巻目までが一般思想・哲学・宗教の歴史的発展の種々相を示し、その頂点の十巻目にインド伝来の最新仏教、すなわち密教の教えを説く。その教え、第十住心「秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)」の大意の章は、以下のような記述から始まる

 「秘密荘厳住心(生命のもつ無垢なる知)」とは、すなわちこれをつきつめていえば、自らの心の根底に目覚め、ありのままに存在する自らのすがたを知ることである。ありのままに存在しているすがたは、いわゆる「胎蔵マンダラ」図に示されるところであり、自らの心の根底の目覚めは、いわゆる「金剛界マンダラ」図に示されるところである。

 また、このようなマンダラ図には、生命のもつ無垢なる知が形成する世界を、

 (1)イメージ(色・かたち・うごきによる心象、絵図)によって表現する「大マンダラ」

 (2)シンボル(各仏尊を象徴する持物、つまり事物・事象の全体の中での象徴性)によって表現する「サマヤ(三昧耶)マンダラ」

 (3)単位(仏尊・仏格を表す種字、つまり世界の構成要素や事象の概念の元となる文字・数字という単位)によって表現する「法マンダラ」

 (4)作用(物質代謝・行為・作業・所作・立体展示物)によって表現する「カツマ(羯磨)マンダラ」

の四種類があり、

 それぞれの表現によって、

 (1)イメージはすべての対立を超越する最高の存在を示し

 (2)シンボルは一切が不二であることを示し

 (3)単位は世界の真理を示し

 (4)作用は物理的なはたらきを示す

とある。

 このような四種類のマンダラによって表現される世界は無限であり、その数量は大地の砂や、大海の水のように量(はか)り知れないとも記す。

 (大意は次のように以下つづく)

 『大日経』にいう、

 「さとりとは、ありのままの自らの心を知ることである」と。

まさにこの一句が無量の意味を含む。竪(たて)には、十重の意味の浅い深いを顕(あら)わし、横には、塵(ちり)のように広くて多い数を示す。

 また、「心に浮かぶ欲望と快・不快、それとその延長上にある思念・思想は、生命の有する知のもろもろの発達段階が秘めているところである。わたくしがいま、それらをことごとく開示する」。

というが、これが竪の説である。

 つまり、雄羊(おひつじ)のような性欲だけの暗い知から、順次に暗き知に背を向け、明るい知へと一歩一歩上昇する段階である。この段階はざっと十種ある。

 その十種とは、

 第一住心:生存欲

 第二住心:倫理心<善と徳>

 第三住心:真理<神/哲学>

 第四住心:無我

 第五住心:因果

 第六住心:唯識(ゆいしき)

 第七住心:空(くう)と中道

 第八住心:客体と主体の不二

 第九住心:あるがままの世界

 第十住心:生命のもつ無垢なる知によって形成される世界<マンダラ>

の十住心のことである。

 また、いう、

 「また次に、さとりの世界を正確に論述しようとするものは、知覚の対象が際限のないものであることを知るから、知覚を有する身体も量り知れないことを知る。身体の量り知れないことを知るから、生命のもつ無垢なる知の量り知れないことを知る。無垢なる知が量り知れないものであることを知るから、そのまま生きとし生けるものも量り知れないことを知る。生きとし生けるものが量り知れないことを知るから、そのまま自然の器(うつわ)は量り知れないことを知る」と。

 これはつまり横の意味である。生きとし生けるものの自らの意識(神経)は量り知れず、意識の無限の全体像を捉えることができないから、その意識は絶えず混乱し、混乱から目覚めることも、知ることもない。だからブッダは、生きとし生けるものの器量にしたがって、それなりにあるがままのさとりを開示されるのだ。

 (唯識思想によれば)意識は対象があって生じるから、それらを起こしているのが前五識(頭頂葉・後頭葉:視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の各知覚と姿勢・運動)と第六意識(前頭葉:思考・意志・感情)であるとし、知覚の対象がなければ、自我も存在しないとする説<無我>と、知覚を因とし、意識を果とする説<因果論>が、まず唱えられる。これが六識説である。

 次にそれらを文脈として、第七マナ識(言語野と側頭葉:言語と判断・記憶)が生じ、作用主体と作用による相対性の論理となり、物事の存在を論理的に証明しようとするが、相対性をはずしたところに個々の存在はなく、空(くう)の思想に至る。また、主体と客体とは同じであるとの認識、第八アーラヤ識(大脳辺縁系と視床下部:食欲・性欲・群居欲などの情動と呼吸・睡眠)に至る。これらを八識説とする。

 これらの意識の根源に第九アマラ(=無垢)識を置き、論理を超越したところの生命の実在に目覚めるのが九識説。

 そうして、その先に、無垢なる知そのものを形成する生命情報意識、ケンリツダヤ(フリダヤ)識が唱えられ、十識説となる。

 究極の仏典である『大日経』にも、生命のもつ無垢なる知の量り知れないはたらきと、そのはたらきによって維持されている量り知れない身体が説かれている。

 このような身体と知の究極を知るのは、とりもなおさず生命のもつ無垢なる知のちからとはたらき<秘密荘厳住心>の在りどころを明かすことである。

 だから、『大日経』にいう。

 「もしも、ブッダが生命のもつ無垢なる知の世界の境地に入ったならば、自らの生命と生命のもつ知のちからとそのはたらきをまのあたりにし、生命のありのままのすがたと、汚れのない知のちからと、そのちからが発揮する堅固な徳性と一体になる」と。

 このように、生命のすがたと、その生命のもつ無垢なる知のちからと、知のちからのはたらきは量り知れない。

 それらの一つひとつが、それぞれにイメージとシンボルと単位と作用による表現能力をそなえている。

 (その表現能力によって)生きとし生けるものすべてが、生命のありのままのすがたである無量の身体動作<身密:しんみつ>と、無垢なる知のちからの無量の表現・伝達<語密:ごみつ>と、知のはたらきとなる無量の想念・慈悲<心密:しんみつ>との三つの行ないをもつことになる。

1 法マンダラ心(文字が表わす世界の本質)

 真言とは、生命のもつ無垢なる知のちからが無量の文脈とコミュニケーションを秘めそなえるところ<語密>から、名づけたものである。梵語によって直接いえば、マンダラである。(密教の教科書『菩提心論』を記した)龍猛(りゅうみょう)菩薩これを秘密語と名づけている。

 かりに語密の真言の真理の教えについて、文字の真理を顕(あき)らかにすると、次のようになると「大日経」にいう、

 「真実の言葉の真理の教えとは、どのようなものであるか。説いていう」

-以下、悉曇文字(しったん:梵字の字母)のそれぞれに依託して、言葉の真実の意味が列挙される。

 例えば、「ア」字は一切諸法本不生(ほんぶしょう)の意(およそ人間が最初に口を開くときの音は、みな「ア」の音声がある。もし「ア」の音声を離れるならば、すべての言語はない。だから、「ア」字はもろもろの音声の母体であり、またもろもろの文字の根本とする。このようなことから、存在するもののすべては「ア」字にすでにあったものであるから、本来生起しないという意味)を表わすとする類(たぐい)がつづく。

 (中略)

 これらの類の字母の一つひとつの字音が、また十二種に音韻変化し、生命のもつ無垢なる知のちからとはたらきを示す言葉になる。そのちからとはたらきの数は量り知れない。

 このことを、『大日経』にいう、

 「ブッダは、生命のもつ無垢なる知のなす世界に入ったならば、ただちに真実の言葉をもって、生命の所作(知のはたらき)を示される」と。

 また、いう、

 「無垢なる知に目覚めた慈悲ある者たちよ。わたくし(ブッダ)の話す真実の言葉のはたらきは広大であり、生命世界の多様な種の境界を越えて、そのありのままの真理を示し、すべての生きとし生けるものをみな歓喜させるのである」と。

 また、いう、

 「(ブッダは)生命のもつ無垢なる知のちからとはたらきの量り知れないことを知るから、無心の相互扶助(慈・悲・喜・捨)の目覚めを得て、正しい完璧なさとりに至り、

 (1)物ごとの道理と非道理を知る知力。

 (2)生きとし生けるものの過去・未来・現在の因果と果報を知る知力。

 (3)生きとし生けるもののそれぞれの器量を知る知力。

 (4)生きとし生けるものの才能を知る知力。

 (5)生きとし生けるものの種々の欲求を知る知力。

 (6)生きとし生けるものの種々無数の性(さが)を知る知力。

 (7)一切の求める道の至るところを知る知力。

 (8)生きとし生けるものの過去を知る知力。

 (9)生きとし生けるものの宿命を知る知力。

 (10)実存の知力。

の十の知力をそなえ、煩悩と認識的存在と死と生存欲求を超越し、たくましく、生きとし生けるものに説法されるのである」と。

 また、「ア」字の五種の音韻変化を基礎として生命のもつ無垢なる知は表現され、言葉となる。すなわち、この字より発声された言葉が展開して、すべての説法となるのだ。つまり、「ア」字は法を説く者であると同時に法を聴く者である。

 すなわち、要素・概念を示す単位、すなわち文字・数字をメディア(媒体)として、真理が明らかにされるのだ。

 これが法マンダラのすがたであり、生命のもつ無垢なる知のちからが真実の言葉・文字を用いて、共に生けるものを真理の世界へと導くのだ。

 文字メディアだけでもこのようなはたらきをするのだから、他のメディア(イメージ・シンボル・作用)のはたらきも想像できよう。

2 四種マンダラ(四種のメディアによって表わされる世界の本質)

 いま、この『大日経』には、このような量り知れない四種類のマンダラのありかと、それらによって、世界の本質を説く利益とを明かす。

 ここで明かされるのは尽きることのない、究極の知のありかである。

 だから、経にいう、

 「あるとき、ブッダは生命のもつ無垢なる知のちからから成る、広大で堅固な世界の本質が開示している中で目覚められた。するとそこには、あらゆる生命の知のちからが繰り広げるはたらきのすべてが集まっていたのである」と。

 このことがどういうことかというと、そこにはあらゆる生命が秘めている無垢なる五つの知のちから

 (1)生命知:無垢なる知のちからとはたらきを生みだす生命の存在そのもの<法界体性智(ほっかいたいしょうち):真理の世界そのものの本性のもつ智>

 (2)生活知:清らかな呼吸・睡眠・情動を司る知<大円鏡智(だいえんきょうち):清らかな鏡に万象を映ずるように、一切万有をありのままに認識する智>

 (3)創造知:衣食住の生産と、その相互扶助を司る知<平等性智(びょうどうしょうち):あらゆる存在を平等なるものと認識する智>

 (4)学習知:万象の観察・記憶・編集を司る知<妙観察智(みょうかんざっち):あらゆる存在を差別あるものと認識する智>

 (5)身体知:運動・作業・所作・遊びを司る知<成所作智(じょうそさち):生きとし生けるものにはたらきかけ、救済し教化する活動的な智> 

と、それらの知を表現する四つのメディア

 (1)イメージ

 (2)シンボル

 (3)単位

 (4)作用

によって無尽の知のはたらきが開花していたのだ。

 ブッダというのは、このような生命のもつ無垢なる知のちからに目覚め、その無尽のはたらきを知る者のことである。そのことは『大日経疏(だいにちきょうしょ:大日経の注釈書)』に詳しく述べられている。

 無垢なる五つの知のちからは、(胎蔵マンダラ中心部の)五つの如来として表わされ、大日(だいにち)を中心に、四方に宝幢(ほうどう)・開敷華王(かいふけおう)・無量寿(むりょうじゅ)または阿弥陀(あみだ)・天鼓雷音(てんくらいおん)を配する。(因みに、無垢なる知のちからを示すのが如来でありその知のちからによって為すことのできるはたらきを示すのが菩薩であるから、四方の如来にはそれぞれにしたがう普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)・観自在(かんじざい)・弥勒(みろく)の各、菩薩が配される)

 また次に「如来(生命のもつ無垢なる知のちから)」が形成する世界の全体像は、イメージによって示すマンダラのすがたとなる。いわゆる胎蔵マンダラである。

出典:https://www.mikkyo21f.gr.jp/mandala/mandala_taizoukai/ 胎蔵界曼荼羅

 (また)「金剛(生命のもつ無垢なる知のちからのはたらき、つまり、生の活動原理)」は、その活動原理をシンボルによって示すマンダラのすがたとなる。

出典:https://www.mikkyo21f.gr.jp/mandala/mandala_kongoukai/ 金剛界曼荼羅 

(また)「法界(世界の真理)」は、それらを単位によって示すマンダラのすがたとなる。

 (また)「加持(生命のもつ無垢なる知のちからの行ないによる加護)」は、それが物理的なはたらきと知との合一を計ることから、作用によって示すマンダラのすがたとなる。

 そうして、それらが示す多角的なマンダラのすがたによって、無垢なる知をもつ生きとし生けるもののそれぞれの身量が、量り知れないものとなり、虚空のような広大無辺の真理の世界と一体であることが明らかにされるのだ。

 だから、『大日経』にいう、

 「ブッダの身体(動作)と言葉(表現・伝達)と心(想念・慈悲)の平等なるはたらきは、生きとし生けるもののそれらとも同等であって、その身量は際限なく、言葉と心の量もまた際限ない」と。

 (中略)

3 金剛頂経の説(金剛界マンダラの説明)

 また、『金剛頂経』に説く、

 「あるとき、金剛界遍照(へんじょう)如来<もちろん、ブッダのことであるが、そのブッダのさとりを普遍化すれば、生命のもつ無垢なる知のちからの永遠の存在そのものであり、その知の輝きが世界をあまねく照らすので、その徳をたたえ、金剛界遍照如来という。つまり大日如来(密教の第一高祖*)>は、自らのもつ無垢なる五つの知の原理<一には生活知、二には創造知、三には学習知、四には身体知、五には生命知によって構成される原理である。

つまり、これが(金剛界マンダラの中心をなす)五方の如来となる。これを順に東方:アシュク・南方:宝生(ほうしょう)・西方:阿弥陀(あみだ)または無量寿(むりょうじゅ)・北方:不空成就(ふくうじょうじゅ)・中央大日(だいにち)として配する>よりなる生命の四種のありのままのすがた(法身:ほっしん)<一には生命としての存在そのもののすがた(自性法身:じしょうほっしん)、二には個体そのもののすがた(受用法身:じゅゆうほっしん)、三には遺伝の法則によって、個性をもって変化するすがた(変化法身:へんげほっしん)、四には多様な種としてのすがた(等流法身:とうるほっしん)を指す。この四種のすがたに竪(たて)と横との二つの意味をそなえる。横は自らの利益のため、竪は他のための利益である。もっと深い意味については、個々にさらに追究するとよい>に、生の本来有している根本の活動原理<金剛界>がある(と説かれた)。

 (そうして、以下、金剛界マンダラの主構造が明かされる)

 (まず)中央の金剛界遍照如来は、四つの完成された知のはたらき<ハラミツ菩薩>をもつ。

一には代謝性<金剛(こんごう)>、二には相互扶助性<宝(ほう)>、三には法則性<法(ほう)>、四には作用性<カツマ>の各、ハラミツ菩薩である。四親近(ししんごん)の菩薩という。

(次に)中央の金剛遍照如来(法身としての大日如来)が四方に顕現(けんげん)させた如来

は、それぞれに四つの菩薩(知のちからのはたらきの原則)をしたがえる。

 東方:生活知の原理<アシュク如来>は、存在<金剛サッタ>・自由<金剛王(おう)>・慈愛<金剛愛(あい)>・喜び<金剛喜(き)>の四菩薩。

 南方:創造知の原理<宝生如来>は、生産<金剛宝(ほう)>・光合成<金剛光(こう)>・相互扶助<金剛幢(どう)>・開花<金剛笑(しょう)>の四菩薩。

 西方:学習知の原理<無量寿如来>は、観察<金剛法(ほう)>・道理<金剛利(り)>・原因<金剛因(いん)>・伝達表現<金剛語(ご)>の四菩薩。

 北方:身体知の原理<不空成就如来>は、救済作用<金剛業(ごう)>・自身の保護<金剛護(ご)>・障害の打破<金剛牙(げ)>・無心の遊び<金剛拳(けん)>の四菩薩。

の十六大菩薩である。

注)関連情報:東寺 立体曼荼羅配置図 21像

(A)「如来」グループ(中央ゾーン)
如来とは”いのちのちから”の意。いのちのちからとは”知(根源意識)のちから”を示す。(根源意識とは、内外の神経細胞によって直接的に捉えた生存環境や接触対象からの自然で無垢な情報の集積とその処理から成るあるがままの意識。ヒトにおいては無心にして感得する知の恵みの意識)

 ①大日如来(中心位置)
「生命力」〔法界体性智〕自然界のいのちの存在とその輝きによる知のちからを示す。
②阿シュク如来(後方、右位置)
「生活力」〔大円鏡智〕清らかな鏡に万象が映じるように無心にして生活することのできる知のちからを示す。
③宝生如来(前方、右位置)
「創造力」〔平等性智〕自然と調和することによって、平等となるかたちを生みだすことのできる知のちからを示す。
④阿弥陀如来(前方、左位置)
「学習力」〔妙観察智〕あらゆる存在のありさまを観察し、その本質を共有することできる知のちからを示す。
⑤不空成就如来(後方、左位置)
「身体力」〔成所作智〕無心の行為によって、生きとし生けるものに敬意をもってはたらきかけ、その個体としての生の輝きを発揮する知のちからを示す。

関連情報先:本サブタイトルない ■東寺講堂二十一体の神仏に見る”生命圏”の構図より

(次に)生きとし生けるものは、知覚の鉤(かぎ)<金剛鉤(こう)菩薩>によって、外界をとらえる。そうして、キャッチした外界を神経の索(なわ)<金剛索(さく)菩薩>によってわが身に引き寄せ、そのイメージ(ホログラフィ)を記憶の鎖(くさり)<金剛鎖(さ)菩薩>につなぎ観察し、その判別によって、快・不快の鈴(すず)<金剛鈴(れい)菩薩>を打ち振る。これが四摂(ししょう:知覚の四段階プロセス)菩薩である。

 (次に)生きとし生けるものは、物質によって癒される。香り<金剛香(こう)菩薩>・色彩とかたち<金剛華(け)菩薩>・光り<金剛灯(とう)菩薩>・潤い<金剛塗(ず)菩薩>。これが外の四供養(しくよう:四つの癒しの物質)菩薩である。

 (次に)生きとし生けるものは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によってとらえた事象の快・不快を表わし、その大いなる情感を喜び<金剛嬉(き)菩薩>・装い<金剛鬘(まん)菩薩>・歌い<金剛歌(か)菩薩>・舞う<金剛舞(ぶ)菩薩>によって示す。これが内の四供養(しくよう:四つの癒しの演技行動)菩薩である。

 これらの三十七の根本となる無垢なる知のちから<如来>とはたらき<菩薩>を原理として、生きとし生けるものすべてが行ないを為し、無量無辺の世界に存在しているのだ

 (中略)

 (また)五つの知(のちからを発揮する生命あるもの)は、その本体が固体(地)・液体(水)・エネルギー(火)・気体(風)・空間(空)の五つの粗大なる原質によって構成されたものであり、(それらの物質が集合してかたちを成し、エネルギーをつくり、生命を生みだしているから)そこに知の根源もある(物質が知を発揮しているのだ)。その物質のはたらきがしばらくも止むことがないとは、知のはたらきが絶え間ないことであり、その知のはたらきによって、自と他とを利益し、安楽ならしめるのであると。

 そうして、それらの無量の知が、身体と心にひそみ、生きとし生けるものの世界と、その生きとし生けるものが住む環境世界と、それらのものが共に相互扶助によって平等に生きている世界とにあまねく満ち、生命のもつ無垢なる知のちからのつとめ<身体動作と表現・伝達と想念・慈悲>は、いっときも止むことがないのだ」と。

*因みに、密教第二祖の金剛サッタ(こんごうさった)とは、生命のもつ無垢なる知に自らも目覚めた者であり、大日如来、すなわちブッダの教えの継承者たちのことである。その教えの数々は、やがて、ナーガールジュナ・ボディサッタ(龍樹菩薩)によって、空(くう)の論理『中論』として集約され、後世大乗仏教の多数の流れの基盤となる。その基盤上に密教も発展する。

4 法爾(ほうに:そのままの)自然(じねん)の法門

 問い。すでに第十住心「秘密荘厳心」のありかとするところ、および、かの身密・語密・心密の数量などを知った。いま、伝えるところの真言の教法は誰がつくったものなのか。

 答え。もろもろの法は自然にもともとあったものである。生命のもつ無垢なる知のちからというものも、もともと存在しているものである。それらの知のちからのはたらきによる人間の行ない(身体動作と表現・伝達と想念・慈悲)はつまるところ、みな等しく、そこから発せられる真実の言葉の相は、声字が永遠性をもつ。永遠であるから移らず、変化することがない。そのように、真言はありのままにもともと存在しているものであるから、つくられたものではない。もしつくられたものであるなら、それは生じたものになる。

 ものがもし生じるのならば、それは壊れるものである。現象は生起・保持・変化・消滅と移行するものであり、永遠性がなく実体をもたない(無我)。そのようなものであるならば、どうして、真実の言葉ということができるだろうか。だから、つくるものではなく、つくられるものでもない。たとえつくる者があっても、誰がそれを喜ぶだろうか。

 だから、この真言の相は、ブッダ(目覚めた者)が世に出ても、出なくても、またはすでに説かれ、またはまだ説かれず、または現に説かれていようとも、ありのままにもともと存在しているものは不変の理(ことわり)をもち、その本性と相は永遠である。だから、これは初めから定まったことである。生命のもつ無垢なる知のちからはありのままにもともと存在しているものであるから、それらが構成するマンダラの一つひとつの真実の言葉の相は、みなありのままのもの(法爾)であると。

 (中略)

5 真言の字門

 真言の教法とは、どのようなものなのか、説いていう。

 まず、基本的な字母(じも:インドの梵字の基本的な字音。根源となるのは四十七字)があり、それぞれの字に十二の音声の転換があって字を生じる。このそれぞれの十二字を本(もと)にして、一字で一音節、二字で一音節、三字で一音節。四字で一音節をなす字が展開する。すべてを合計すれば、一万字余りもある。

 この一つひとつの文字に、量り知れず限りない顕(けん:論理による教え)と密(みつ:実在による教え)との教義をそなえる。

 一つひとつの声、一つひとつの字、一つひとつの実相は、真理の世界をあまねく伝え、生命のもつ無垢なる知のちからのすべてのはたらきとなって、生きとし生けるものの器量にしたがって、論理による教えと、実在による教えを開示する。

 問い。梵字の字母は、世間の子供もみな読み習っている。この真言の教えとどのように異なるのか。

 答え。いま、世間で読み習っている悉曇章(しったんしょう:梵字の綴字法を説いたもの)というのは、本来は生命のもつ無垢なる知のちからそのものの言葉であったが、次々と伝授されて世間に流布している間に、字の真実の意義は、いまや失われてしまったものなのだ。世間で読み習っているのは、物の見かけから生ずる語(相)、夢想から生ずる語(夢)、妄想から生ずる語(妄執)、空想から生ずる語(無始)の言説に染まったものであり、真実の言説を得ない。もともとの字の意義の失われた言説は、すべてこれ妄語である。その妄語がいまや世間にはびこり、人びとを苦しめる原因となっている。

 もし、人びとが自らのもつ無垢なる知のちからより発せられる真実の言葉に目覚めるときは、あらゆる妄語から解放され、真理を得る。それは、(妄語を語ると迷いの闇に苦しみ、真実の言葉を語ると苦しみが除かれるように)言葉は毒にも薬にもなるといったことである。

 では、どのようにして、真実の言葉のありのままの意義を知るのか。

 「ア」字を例にとると、その五つの発声の違いによって、それぞれに、初めからそこに存在していること、静まり、際限のないことなどの意味が生ずる。

 また、「ア」字が展開して(つまり、言葉が展開して)、もろもろの真理の意味と、原因の意味と、結果の意味と、不二の意味と、生命のありのままのすがたの意味を説くことができる。すなわち、それらの意味を説くことこそが、言葉が生命そのものの存在を象徴していることの証しなのだ。

 また、「ア」字が展開して説かれる、生命のもつ無垢なる知の五つのちから、生命知・生活知・創造知・学習知・身体知も同じことである。

 これ以外の一つひとつの字義もまた、このようなことであり、生命のもつ無垢なる知のちからのもろもろのはたらきが、無量の雲のように湧きあがるから、限りない時間を費やし、一つひとつの字門の意味を説こうとしても、限りない時間はなお尽きてしまい、真言の実際の意味は説き尽すことができないのだ。だから、ありのままに字義を知ることである。

 (後略)

あとがき

 以前に『十住心論』のダイジェスト版を執筆したことがあるが、今回は、空海密教の核心となる第十住心「秘密荘厳心」のみを今日の視点から読み解いてみた。

 そこに展開されている十段階目の思想は、論理的文脈をすでに超えている。

 論理によっては存在を証明することができないと結論づけたのは、2、3世紀インドの仏教学者、ナーガールジュナ(龍樹)であったが、その空(くう)の考察を踏まえて、マンダラのイメージ・シンボル・単位・作用のメディアによって存在を証明しようとするのが、空海の思想の到達点である。

 精神世界の向上を論理と修行によって説くのが顕教、マンダラによって生命のダイナミズムを示し、実在する世界の真理に目覚めさせるのが密教であるが、現代思想のモダニズムとポストモダニズムの対比に似ている。

 今日の科学は、観察(イメージ)・分析(シンボル)・理論(単位)・技術(作用)を用いて文明を築き、生物学においては多様な種に共通する身体の仕組みと、その生態学によって自然界の秩序の原理を理解するに至ったが、一千年以前に、すでに空海はその思考方法に気づいていたのだ。

■空海の祈りの形~立体曼荼羅~

◆東京国立博物館 東洋館 TNM & TOPPAN ミュージアムシアター

・期間:2024年7月17日~2024年10月14日

⇒訪問日:20204年9月20日

⇒下記ミュージアムシアターの訴求ポイントを実体験し、大満足

出典:https://www.tnm.jp/modules/r_event/index.php?controller=dtl&cid=12&id=11128

TNM & TOPPAN ミュージアムシアター

VR(バーチャルリアリティ)による新しい文化財鑑賞方法の体験

⇒超高精細4K映像を映し出す迫力のスクリーンが提供する文化財の姿を

⇒あざやかに映し出し、かっての姿の再現や、まるで実物に触れられるかのような空間を楽しむことができる。

⇒ナビゲーターによるライブ上演でVR作品を楽しめる。

出典:https://www.tnm.jp/modules/r_event/index.php?controller=list&cid=12

◆VR作品『空海 祈りの形』

下記内容は同Webサイトからの転記

https://www.tnm.jp/modules/r_event/index.php?controller=dtl&cid=12&id=11128

弘法大師 空海が、言葉では表現できない究極の教えを伝えるために作り上げた「祈りの形」とは。

空海は804年に唐に渡って密教を学び、正統な後継者となって日本にその教えを持ち帰りました。

823年に東寺を帝より託された空海は、

密教の教えの中心となる建物を講堂と位置づけ、その建築に取りかかります。

空海が講堂内部に作り上げたのは、

言葉では表現できない究極の教えを伝える世界観

密教彫刻の最高傑作である東寺講堂の立体曼荼羅の魅力を

VRで解き明かしてゆきます。

・立体曼荼羅配置図

出典:https://www.tnm.jp/modules/r_event/index.php?controller=dtl&cid=12&id=11128

大日如来を中心に五智如来
ごちにょらい
。大日如来に対面して右側に、金剛波羅蜜多菩薩
こんごうはらみったぼさつ
を中心にした五大菩薩
ごだいぼさつ
、左側に、わが国にはじめて紹介された不動明王を中心にした五大明王
ごだいみょうおう
。須弥壇の四方には、四天王、そして梵天
<
帝釈天
たいしゃくてん
が警護するように配されています。

弘法大師空海は、大日如来を中心とした二十一尊の仏さまを講堂の須弥壇に登場させました。曼荼羅の中心に大日如来が描かれているように、東寺の中心に大日如来を安置して、寺域を巨大な曼荼羅にレイアウトしたのです。

須弥壇の四方には、四天王、そして梵天
<
帝釈天
たいしゃくてん
が警護するように配されています。

     金剛界曼荼羅                   胎蔵界曼荼羅

密教の教えをわかりやすく表現したのが曼荼羅です。曼荼羅には、胎蔵界曼荼羅
たいぞうかいまんだら
金剛界曼荼羅
こんごうかいまんだら
があり、それぞれ、理と智慧
ちえ
という教えを伝えています。

出典:https://toji.or.jp/mandala/ 東寺Webサイト

※金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅:真言密教における二つの重要な曼荼羅で、それぞれ異なる側面を表現している。

金剛界曼荼羅

  • 金剛界曼荼羅:大日如来の智慧を象徴している。中央に大日如来を配置し、周囲に四如来や菩薩が配置されている。
  • 9つの「会」と呼ばれる区画に分かれており、悟りに至るまでの段階を表している。
  • その構成は、時計回りに回ることで悟りを開いた仏が民衆に教えを説く道筋を、反時計回りに回ることで凡夫が悟りに向かう道筋を表している。

胎蔵界曼荼羅

  • 胎蔵界曼荼羅:大日如来の慈悲を象徴している。中央に大日如来を配置し、同心円状に院を配しているのが特徴。
  • 12の「院」と呼ばれる区画に分かれており、各院には特定の仏や菩薩が配置されている。
  • 大日如来の慈悲が放射状に広がり、教えが実践されていく様子を表している。

両界曼荼羅

  • 両界曼荼羅:金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を対にして掲げるもので、真言密教の教えを総合的に表現している。
  • 金剛界曼荼羅が智慧を、胎蔵界曼荼羅が慈悲を表し、両者は一体となって仏教の真理を示している。

これらの曼荼羅は、仏教の深い教えを視覚的に表現し、修行者が悟りに至るための道しるべとなるものである。

■東寺講堂二十一体の神仏に見る”生命圏”の構図

転記先URLは以下

https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-245.html

八二四年、東寺造営の長官に補任された空海は、その翌年に、「東寺講堂図帳」(今日でいう設計図面)を作成している。

その講堂の中に、密教の説く、

自然界に輝きをもたらしているいのちの “知(意識)のちから”

その”知のはたらき”の理念・原理と、

そのいのちの宿る生物の身体を、発生・成長・制御している “生体エネルギー”のはたらきと、

それらのいのちの生存の場である自然界を動かしている”道理”とによって

成り立つ世界(今日で言う”生命圏”)」を立体的に模式展示するためであった。

この展示館は、八三九年六月十五日に開館した。空海没後四年を経た年であった。着手が八二五年であるから、十四年の歳月を要して、展示計画が完成したことになる。

◆内部、神仏配置
(A)「如来」グループ(中央ゾーン)
如来とは”いのちのちから”の意。いのちのちからとは”知(根源意識)のちから”を示す。(根源意識とは、内外の神経細胞によって直接的に捉えた生存環境や接触対象からの自然で無垢な情報の集積とその処理から成るあるがままの意識。ヒトにおいては無心にして感得する知の恵みの意識)


①大日如来(中心位置)
「生命力」〔法界体性智〕(いのちそのものの存在の輝き)                   ⇒自然界のいのちの存在とその輝きによる知のちからを示す。


②阿シュク如来(後方、右位置)
「生活力」〔大円鏡智(だいえんきょうち)〕(無心にして生きられること)                     ⇒清らかな鏡に万象が映じるように無心にして生活することのできる知のちからを示す。


③宝生如来(前方、右位置)
「創造力」〔平等性智(びょうどうしょうち)〕(相互扶助によって生かされているいのちの平等性)           ⇒自然と調和することによって、平等となるかたちを生みだすことのできる知のちからを示す。


④阿弥陀如来(前方、左位置)
「学習力」〔妙観察智(みょうかんざっち)〕(知覚力によって感知している世界の本質とその伝達と共有)        ⇒あらゆる存在のありさまを観察し、その本質を共有することできる知のちからを示す。


⑤不空成就如来(後方、左位置
「身体力」〔成所作智(じょうそさち)〕(からだによって行なう、無心の行為)                  ⇒無心の行為によって、生きとし生けるものに敬意をもってはたらきかけ、その個体としての生の輝きを発揮する知のちからを示す。

(B)「菩薩」グループ(右側ゾーン)
菩薩とは”いのちの知のはたらき”の意。いのちの知のはたらきとは、すべての生物が”知(根源意識)のちから”により自然の中で無心に共生することができる、あるがままの”いのちのはたらき”を示す。また、金剛とは”原理”の意


①金剛波羅蜜菩薩(中心位置)
「生命の原理」生命圏の存在そのものの宇宙における唯一無二のはたらきによって、あらゆる生物が生きていることを示す。(地球上に生命圏が形成されなければ、生命の存在はなかった)
②金剛サッタ菩薩(後方、右位置)
「生活の原理」すべての生物は生命維持の根幹”呼吸”のはたらきによって、その生存環境を自然界に築き、連鎖、循環し、生きることができることを示す。
③金剛宝菩薩(前方、右位置)
「創造の原理」作りだされた万物のかたちは、環境を”因”として、共通の物質(固体・液体・エネルギー・気体・空間)が収斂した”果”であることによって、すべての生物が対等の生産(衣食住の相互扶助)のはたらきを為すことができることを示す。
④金剛法菩薩(前方、左位置)
「学習の原理」すべての生物は、その”知覚”と”知(根源意識)のちから”によって、モノ・コト・空間の<色彩とかたちとうごき・音のひびき・臭い・味・感触・法則>の違いを観察し、その適性(本質)を判断する学習能力を持ち、それらを記憶し、伝達しあうことができることを示す。
⑤金剛業菩薩(後方、左位置)
「身体の原理」与えられた持ち分の”知覚”と”運動”の能力により、すべての生物がその身体のもつ個性によって、住み場所となる空間(環境)に於いて活動し、生命圏の一員としての”役”を担うはたらきを為していることを示す。

(C)「明王」グループ(左側ゾーン)
明王とは”身体の発生と成長、制御を司る生体エネルギー”の意。(そのエネルギー、今日の科学によって知ることのできる”ホルモン物質”のはたらきに相似する)


①不動明王(中心位置)
「精力エネルギー」(〔視床下部ホルモン〕体温調節・下垂体ホルモン調節・個体維持欲求・情動行動の中枢としてのはたらきに相似)を示す。
②降三世明王(前方、右位置)
「成長エネルギー」(〔下垂体ホルモン〕副腎皮質・甲状腺・性腺の制御、成長ホルモン分泌のはたらきに相似)を示す。
③軍荼利明王(前方、左位置)
「環境適応エネルギー」(〔甲状腺ホルモン〕細胞代謝・呼吸量・エネルギー産生の促進、変態促進のはたらきに相似)を示す。
④大威徳明王(後方、左位置)
「気力エネルギー」(〔副腎ホルモン〕糖バランス・電解質バランス、性ホルモンの分泌、アドレナリン等ストレス反応調節のはたらきに相似)を示す。
⑤金剛夜叉明王(後方、右位置)
「骨格形成エネルギー」(〔副甲状腺ホルモン〕カルシウム・リン酸の調節、すなわち、身体を支え、強いちからの源となる骨格形成調節のはたらきに相似)を示す。

(D)「天」グループ(左右端と四隅に配置)
①梵天(右側)
「天地と言葉の創造神」
②帝釈天(左側)
「自然の運行の支配神」
<方位の守護神>
①多聞天(右隅奥)*毘沙門天ともいう。
「福徳を司る神」<北方>
②持国天(右隅前)
「国土の秩序を支える神」<東方>
③増長天(左隅前)
「五穀豊穣と万物の成長・繁殖を司る神」<南方>
④広目天(左隅奥)
「異文化、異言語を理解する神」<西方>

以上の、

いのちの”知のちから”「五智如来」と

そのちからが繰り広げる”知のちからのはたらき”「五菩薩」と、

あらゆる生物の身体を制御している”生体エネルギー物質”「五大明王」のはたらきによって

世界は融通無碍に形成され、限りなく彩られている。

その世界は神々「天」に託された”自然の道理”となる普遍的な願いによって守られている。

この”生命圏”の構図を立体的に展示したところ、それが東寺講堂となる

こうして、空海の構想した世界観は、二十一体の神仏像のすがたとその方位をもつ配置によって、京の都の一角を占める東寺の講堂の中に出現した。

その今日の世界観に結びつけることのできる空海の示すマンダラ世界は、エコロジカルな世界を希求する時代においてこそ、ますますの輝きを増すものであると思う。

(今日尚、誰もが、その時代を越えた”空海のメッセージ”を古の都に行けば見ることができるのだ)

■講堂:立体曼荼羅

出典:https://shishi-report-2.hatenablog.com/entry/touji-mandara

◆密教における如来、菩薩、明王の関係

関係性

  • 如来悟りを開いた最高の存在であり、仏教の教えを広める役割を持っています
  • 菩薩如来を目指して修行中であり、他者を救済することに専念しています
  • 明王如来の教えに従わない者を厳しく導く存在であり、如来や菩薩が優しく教えを説いても従わない者を力強く救済します

変身と同一性

密教の教えでは、如来が菩薩や明王の姿を取ることができるとされている。これは、如来が様々な方法で人々を救済するため。例えば、大日如来が不動明王の姿を取ることがある。このように、如来が菩薩や明王に変身することは、教えを広めるための手段と考えられている。

同一の存在か?

如来、菩薩、明王はそれぞれ異なる役割と特性を持っていますが、究極的には同じ悟りの境地を目指しています。したがって、如来が菩薩や明王に変身することができるという点では、ある意味で同一の存在とも言えるが、それぞれの役割や特性を考慮すると、異なる側面を持つ存在とも言える。

このように、如来、菩薩、明王は密教において相互に関連し合いながらも、それぞれの役割を果たしている。

如来(にょらい)

如来は、仏教において最高の存在であり、悟りを開いた仏のことを指す。代表的な如来には、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来などがある。如来は真理を悟り、他者に教えを説く役割を持っている。

菩薩(ぼさつ)

菩薩は、悟りを目指して修行中の存在であり、他者を救済することを使命としている。代表的な菩薩には、観音菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩などがある。菩薩は如来に次ぐランクであり、慈悲深い心を持ち、多くの姿で人々を助ける。

※菩薩に金剛が付加されている理由

金剛が「硬い」「不壊」を意味し、仏教の教えや悟りの堅固さを象徴しているから。具体的には、金剛波羅蜜菩薩、金剛法菩薩、金剛宝菩薩、金剛業菩薩、金剛薩埵菩薩(こんごうさったぼさつ)の五菩薩が配置されている。

これらの菩薩は、五智如来が人々を救済するために化身した姿とされ、それぞれが特定の智慧や徳を表している。例えば、金剛波羅蜜菩薩は智慧で人々を仏道に導く役割を持っている。

このように、金剛を付加することで、菩薩たちの役割や特性を強調し、仏教の教えの堅固さを示している。

明王(みょうおう)

明王は、如来の教えに従わない者を厳しく導く存在。恐ろしい姿をしており、如来や菩薩が優しく教えを説いても従わない者を力強く救済する。代表的な明王には、不動明王、愛染明王、隆三世明王などがある。

出典:https://ourage.jp/popular/166013/ 不動明王と4体の明王

四天王

仏教における四方を守護する四柱の神々。それぞれの役割と守護する方角は以下

  1. 持国天(じこくてん)東方を守護し、乾闥婆(けんだつば)や毘舎遮(びしゃしゃ)を眷属とします。
  2. 増長天(ぞうちょうてん)南方を守護し、鳩槃荼(くばんだ)や薜茘多(へいれいた)を眷属とします。
  3. 広目天(こうもくてん)西方を守護し、龍神や富単那(ふたんな)を眷属とします。
  4. 多聞天(たもんてん)北方を守護し、夜叉や羅刹を眷属とします。多聞天は毘沙門天(びしゃもんてん)とも呼ばれ、七福神の一柱としても知られています。

四天王は、須弥山(しゅみせん)の中腹に位置し、仏法を守護する役割を担っている。

四天王は帝釈天(たいしゃくてん)に仕え、仏教の教えを悪から守るたに活動している。

帝釈天(たいしゃくてん)

帝釈天は、元々インドの神話に登場する雷神インドラが仏教に取り入れられたもの。

帝釈天は天界の最高位に位置し、四天王を従える天主として知られており、仏教の二大護法善神の一つであり、仏法を守護する役割を果たす。

  • 役割:仏教の教えを守り、仏陀の説法を支援する存在。また、戦いの神としても知られ、悪を打ち破る力を持っている。
  • 象徴:白象に乗った姿や、金剛杵を持つ姿で描かれることが多い。

梵天(ぼんてん)

梵天は、インドのバラモン教における創造神ブラフマーが仏教に取り入れられたもの。

梵天は宇宙の根源を象徴し、仏教においても非常に重要な存在。

  • 役割:仏陀が悟りを開いた後、その教えを広めるように勧めたことで知られている。梵天がいなけっれば、仏教が広まることはなかったかもしれない。
  • 象徴:通常、四面四臂(顔が四つ、手が四本)の姿で描かれ、蓮華や水瓶を持つことが多い。

梵釈(ぼんしゃく)

帝釈天と梵天は、しばしば対で描かれ、「梵釈」と呼ばれる。彼らは共に仏教の教えを守護し、仏陀の脇侍として重要な役割を果たす。

注)ecoの視点から梵天(ぼんてん)を眺める:天地と言葉の創造神

注)ecoの視点から帝釈天(たいしゃくてん)を眺める:自然の運行の支配神

出典:https://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3/%E6%9D%B1%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

■密教

◆密教の伝播

出典:https://www.koumyouzi.jp/blog/902/

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html

大乗仏教のアウトライン】

大乗仏教は他者の救済と慈悲の実践を重視

  • 目的:他者の救済を重視(利他行)。
  • 修行方法:六波羅蜜の実践(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)。
  • 広がり:中国、朝鮮、日本(北伝仏教

<大乗仏教の特徴

大乗仏教は、初期仏教(上座部仏教)とは異なり、より広範な救済を目指す教えとして発展した。

  1. 普遍的な救済:大乗仏教は、すべての生きとし生けるものの救済を目指します。出家者だけでなく、在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げています
  2. 菩薩の道:菩薩(Bodhisattva)という概念が重要で、菩薩は自らの悟りを求めるだけでなく、他者の救済をも目指します。菩薩は修行を通じて他者を助けることを重視します。
  3. 空(くう)の教え:万物が本質的には無常であり、独立した永続的な自己を持たないことを指します。この「空」の概念は、大乗仏教の中心的な教義の一つです。
  4. 大乗経典:大乗仏教には独自の経典があり、代表的なものには『般若経』、『法華経』、『浄土三部経』、『華厳経』などがある。
  5. 如来蔵思想:すべての衆生が仏性を持ち、修行を通じて仏となる可能性があるとする教え。
  6. 地域的な広がり(北伝仏教):大乗仏教は、インド、中央アジア、中国、朝鮮、日本などの国々で広く信仰されている。

日本の仏教の多くの宗派も大乗仏教に分類されており、戒律は宗派ごとにさまざまに解釈

出典:https://president.jp/articles/-/42220?page=6

◆インドを発祥とする密教の中国への伝来

7世紀頃に中国に伝えられた。

特に唐の時代に盛んになり、多くの寺院で信仰が広がった

⇒代表的な寺院としては、長安(現在の西安市)にある青龍寺が挙げられる。この寺院は582年に創建され、711年に青龍寺と改名された。

青龍寺は、空海(第18次遣唐使:804年)が密教を学んだ場所として有名。

空海はここで恵果法師から教えを受け、日本に密教を伝えた。

密教が当時の唐では最先端の仏教と言われた理由

  1. 即身成仏の思想:密教では、修行を通じて現世で仏になることができるとされていた。この「即身成仏」の思想は、他の仏教宗派とは異なり、現実的で実践的な教えとして受けいれられた。
  2. 儀式と修行の魅力:密教は、曼荼羅や真言、印契などの儀式や修行法を重視した。これらの儀式は視覚的にも魅力的で、信者に強い印象を与えた。
  3. 現世利益:密教は、現世での利益(現世利益)を強調した。病気の治癒や災難の回避など、具体的な利益をもたらすと信じられていたため、多くの人々に支持された。
  4. 政治的支持:唐の皇帝や貴族たちが密教を支持したことも大きな要因。特に、皇帝が密教の儀式を通じで国家の安定や繁栄を祈願することが一般的であった。

これらの要因が重なり、密教は唐の時代に最先端の仏教として広まった

◆密教がインドで生まれた社会的背景

統一国家(社会の安定化)から分裂国家(社会の混乱)に変遷

⇒僧侶が托鉢する上で便利な都市と田舎の中間地帯に生活拠点を置いていたが、

分裂国家間での争いの多発により社会混乱が増し

都市部の住民の生活苦も増し、托鉢を行う事も困難になった

⇒都市住民からの托鉢(生活支援)策として従来型仏教(大乗仏教)を

『密教』に衣を変える動機が生まれた

・密教が発展した背景として以下のような複合要因も考えられる

  1. 民衆の支持密教は現世利益を強調し、民衆に対して具体的な利益を提供する教えを持っていた。これにより、民衆からの支持を得やすくなり、生活支援の一環として受け入れられた可能性がある。
  2. 儀礼と呪術:密教はヒンドゥー教の影響を受け、儀礼や呪術を取り入れることで、より実践的で効果的な教えを提供した。これにより、民衆に対する魅力が増し、支持を得ることができた。
  3. 経済的な要因:経済的な停滞や社会的な変動が続く中で、仏教僧が新たな生活手段を模索する必要があった。密教の教えがその一つの解決策となった可能性がある。

これらの要因以外にも下記の複合的な要因も作用し、密教がインドで発展したと考えられる。

  1. ヒンドゥー教の影響:密教は6世紀頃、ヒンドゥー教の影響を受けなっがら仏教の一派として整理した。ヒンドゥー教の呪術や儀式が仏教に取り入れられ、密教の基盤となった。
  2. 仏教の変遷:仏教は、初期の教えから大乗仏教へと進化し、その中で密教が発展した。特に、現世利益を重視する教えが強調され、民衆に受けれられやすくなった。
  3. 社会的背景:当時のインド社会では、ヒンドゥー教が広く普及しており、仏教はその影響を受けて変化を余儀なくされた。また、経済的な停滞や社会的な変動も、密教の成立に影響を与えた。
  4. ナーランダー僧院:密教の中心地となったナーランダー僧院は、仏教教学の中心地であり、多くの学僧が集まった。ここで密教の教義が体系化され、広まっていった。

これらの要因が重なり合い、密教はインドで成立し、その後、中国や日本にも伝わっていきました。

注)青龍寺の恵果阿闍梨と空海の関係:恵果阿闍梨から密教の正当な法を伝える阿闍梨のみに許された『伝法灌頂(でんぽうかんじょう)』(密教の奥義)の伝授を受け、日本に帰国した空海は、恵果阿闍梨から学んだ密教を基盤に真言宗を開いた。

『伝法灌頂(でんぽうかんじょう)』とは、儀式のやり方。

伝法灌頂の特徴

  1. 儀式の内容:伝法灌頂では、師匠が弟子の頂に如来の五智を象徴する水を注ぎ、仏の位を継承させる事を示す。この儀式は、密教の奥義を伝授するためのものであり、弟子が次の受者に教える資格を得ることを意味する。
  2. 四度加行:伝法灌頂を受けるためには、四度加行(しどけぎょう)という密教の修行を終える必要がある。この修行を経て、初めて伝法灌頂を受ける資格が与えられる。
  3. 歴史的背景:伝法灌頂は、元々インドで国王の即位や立太子の際に行われた儀式が、大乗仏教に取り入れられたもの。これが密教においても重要な儀式として発展した。

伝法灌頂は、密教の教えを次世代に伝えるための重要な儀式であり、密教の伝統と継承において欠かせない。

※東寺を真言密教の根本道場:密室で師から弟子へ教えを伝える真言密教の『師資相伝』を行う根本道場。(講堂に21体の諸尊像を配置した立体曼荼羅等)。一方、高野山を密教修行の道場に位置付けた。

■両界曼荼羅(金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅)

     金剛界曼荼羅                   胎蔵界曼荼羅

◆金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅

真言密教における二つの重要な曼荼羅で、それぞれ異なる側面を表現している。

金剛界曼荼羅

  • 金剛界曼荼羅:大日如来の智慧を象徴している。中央に大日如来を配置し、周囲に四如来や菩薩が配置されている。
  • 9つの「会」と呼ばれる区画に分かれており、悟りに至るまでの9つの段階を表している
  • その構成は、時計回りに回ることで悟りを開いた仏が民衆に教えを説く道筋を、反時計回りに回ることで凡夫が悟りに向かう道筋を表している。

出典:https://discoverjapan-web.com/article/31193

9つの「会(え)」:それぞれの会には特定の仏や菩薩が描かれ、以下のように分類されている。

  1. 成身会(じょうじんえ): 中央に大日如来を配置し、四方に四如来が描かれています。金剛界曼荼羅の中心的な会です。
  2. 三昧耶会(さんまやえ): 成身会の内容を、諸尊それぞれの三昧耶形で表現しています。
  3. 微細会(みさいえ): 成身会の内容を、三鈷杵(さんこしょ)の光背を持つ尊像で描いています。
  4. 供養会(くようえ): 成身会に描かれる諸尊が互いに供養し合う光景を描いています。
  5. 四印会(しいんえ): 成身会の内容を簡略化し、代表的な尊格のみで表現しています。
  6. 一印会(いちいんえ): 四印会をさらに簡略化し、大日如来のみで表現しています。
  7. 理趣会(りしゅえ): 中心に金剛薩埵を配置し、煩悩をも悟りに高められると説く理趣経の教えを表しています。
  8. 降三世会(ごうざんぜえ): 成身会などの菩薩の一部を不動明王や降三世明王に置き換えています。
  9. 降三世三昧耶会(ごうざんぜさんまやえ): 降三世会の内容を、諸尊それぞれの三昧耶形で表現しています。

これらの会は、金剛界曼荼羅全体で1461尊が描かれており、悟りに至るまでの段階を示している。

以下は右記両サイトからの転記:文)https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-302.html 図)https://www.mikkyo21f.gr.jp/mandala/mandala_kongoukai/02.html

胎蔵界曼荼羅

  • 胎蔵界曼荼羅:大日如来の慈悲を象徴している。中央に大日如来を配置し、同心円状に院を配しているのが特徴。
  • 12の「院」と呼ばれる区画に分かれており、各院には特定の仏や菩薩が配置されている。
  • 大日如来の慈悲が放射状に広がり、教えが実践されていく様子を表している。

出典:https://discoverjapan-web.com/article/31151

12の「院」:それぞれに特定の仏や菩薩が描かれ、以下のように分類されている。

  1. 中台八葉院(ちゅうだいはちよういん): 中央に大日如来を配置し、周囲に四如来と四菩薩が描かれています。
  2. 遍知院(へんちいん: すべての如来の智慧を象徴する三角形の火炎が中央に描かれています。
  3. 金剛手院(こんごうしゅいん): 大日如来の智慧と人々をつなぐ金剛薩埵が中心に描かれています。
  4. 持明院(じみょういん: 般若菩薩と四明王が描かれ、智慧と守護の象徴です。
  5. 蓮華部院(れんげぶいん): 観音菩薩が中心で、その大悲で煩悩を払い悟りへ導きます。
  6. 釈迦院(しゃかいん): 釈迦如来が中心で、説法印を結び、釈迦の徳を象徴する諸尊が並びます。
  7. 文殊院(もんじゅいん): 文殊菩薩が中心で、智慧を授け救う姿が描かれています。
  8. 除蓋障院(じょがいしょういん): 煩悩や苦しみを取り除く除蓋障菩薩が中心です。
  9. 虚空蔵院(こくうぞういん): 無限の智慧を持つ虚空蔵菩薩が中心です。
  10. 蘇悉地院(そしつじいん): 虚空蔵院の一部で、無限の世界に繋がることを実践します。
  11. 地蔵院(じぞういん): 地蔵菩薩が中心で、未来まで人々を教え救います。
  12. 最外院(さいげいん): 十二天や異教の神々が描かれ、内側の諸尊を守ります。

これらの院は、胎蔵界曼荼羅全体で414尊が描かれ、大日如来の慈悲が放射状に広がる様子を表している

以下は右記両サイトからの転記:文)https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-303.html 図)https://www.mikkyo21f.gr.jp/mandala/mandala_taizoukai/01.html

※上記両図は個人的な認識アプローチです

両界曼荼羅

両界曼荼羅:金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を対にして掲げるもので、真言密教の教えを総合的に表現している。

金剛界曼荼羅が智慧を、胎蔵界曼荼羅が慈悲を表し、両者は一体となって仏教の真理を示している。

■『十住心論』新ダイジェスト

転記先URLは以下

https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-270.html

空海の主著に『十住心論』がある。九世紀以前の人間思想を体系的に第一住心から第十住心の十段階にまとめたものであり、古代インドや中国の哲学・宗教を含む。

 その第一住心の前段において、心すなわち意識が人間にあるのは、地球上に自然が形成され、その自然の中で生命が誕生し、生命が意識をもつ存在であるからとしている。

 そのことを「自然世界」の章に、空海は次のような詩にして記している。

 生物の住みかとなる自然世界の詩

 自然(地球)はどのようにして誕生したのだろうか

 気体(ガス)が初めに空間に充満し

 水と金属が次々と出て

 (水蒸気は大気に満ち、重い鉄は中心部に集まり)

 地表は金属を溶かした火のスープにおおわれた。

 (やがて、地球全体が冷め始めると、水蒸気は雨となって地表に降りそそぎ)

 深く広大な海となり

 (冷めて固形化した巨大な岩石プレートはぶつかりあい)

 大地は持ち上がり、天空に聳え立った。

 (そうして、出来上がった)

 (空と海と)四つの大陸と多くの島に

 あらゆる生物が棲息するようになった。

 そうして、以下のような詩につづける。

 自然を構成する五大圏の詩

 宇宙は果てしなく<虚空圏>

 (その中に)大気に包まれたところ(地球)がある<気圏>

 (地球は)水を深々とたたえ<水圏>

 金属(と岩石)が地球を作り上げている<地圏>

 火(燃焼)の元素はどこにあるのだろうか<エネルギー圏>

 それらが自然に満ちている

 (ところで)自然に五大圏があるのは

 それらが、あらゆる生物が棲息するための環境となるからだ。

 また、前段の詩につづく各種世界の「生物の世界」の章において、五大圏によって構成されている自然には多種の生物が生存しており、それらは

 ・胎生(ほ乳類)

 ・卵生(鳥類・爬虫類)

 ・湿生(水棲類)

 ・化生(昆虫・両生類)

 に分類できるとし、それらの生物のもっている生きるための習性と共に、人間も同じ生きとし生けるものの仲間であると説く。

 このように、空海によってまとめられた思想体系は、自然・生物としての人類を意識したものであり、人間中心主義の思想ではなく、今日の科学が到達した生態学的視点をも思想の根底としてとらえている。

 そのような先見性をもとに、人間の心によって形成された十種の根幹となる思想を空海が『十住心』として分析しており、以下は、その説くところへの今日からのアプローチである。

 第一住心 生存欲

 第二住心 倫理<善と徳>

 第三住心 真理<神/哲学>

 第四住心 無我

 第五住心 因果

 第六住心 唯識(ゆいしき)

 第七住心 空(くう)

 第八住心 主体と客体

 第九住心 生命環境

 第十住心 マンダラ

第一住心 生存欲

 あらゆる生物は、生存の根幹をなす共通の生命活動を行なっている。

  • それは、呼吸することによって生き、夜になると眠り、眠っているときも呼吸し、そうして、日が昇ると起きて活動し、成長する。
  • からだを維持するために水と食べ物を摂取する。
  • からだには寿命があり、生殖によって子孫をつくり、個体を引き継ぐ。
  • 自然界を住み分け、同じ種が群れ、社会をつくる。
  • 上記の生存欲が満たされるか否かによって快・不快を感じ、個体の感情を示威し、生存権を主張する。

 以上の呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動の生存欲求が人間にとっても意識の起点であり、到達点でもある。人間は生存欲によって情動を起こすと、そのことを記憶していて、快・不快を想像することができ、それが欲望となる。そうして、そこから思想も芽生える。(思想とは、広い意味での生きている世界の快・不快に関するイデオロギーでもある)

第二住心 倫理<善と徳>

 あらゆる生物が上記の生存欲によって快・不快の情動を起こすことになるが、そのなかで飲食と生殖にともなう欲求において、動物の親が子に餌を運び与え保育することを本能的に為すことができることから、他に与え育てるといった心が自然界に当然のこととして存在していることになる。この心と行為の快、そのことを人間は”慈しみ”の心と”施し”の行為として自覚するようになった。この心を子育以外の人間関係にも展開したものが「徳」であり、この「徳」と以下の「善」によって、好ましい人間性が生まれるとする。

 また、人間は言葉によって意思を伝達し合うことのできる動物であるが、そのことによって直接的な生存欲の充足以外に、言動による快・不快をもが背負わされることになり、それらを含めて、人々に不快さを与える行為と言動として、殺生・盗み・邪淫・虚言・二枚舌・悪口・かざり言葉・むさぼり・怒り・邪見の十種があり、それらを「悪」とみなして、してはいけないことに気づく。したがって、してはいけないことを決してしないことが「善」である。

 一に、自己を含め、むやみにいのちを傷つけない。

 二に、他のものを盗まない。

 三に、姦淫しない。

 四に、嘘をつかない。

 五に、矛盾したことは言わない。

 六に、悪口を言わない。

 七に、余計なことは言わない。

 八に、欲深いことはしない。

 九に、怒らない。

 十に、邪まなことはしない。

 以上の「善」を守り、不快なことをお互いに為さないことによって、心は快であり、これに加えて「徳」を実践することができれば、人間関係は平穏である。

第三住心 真理<神/哲学>

 人間は生存欲を根底とした情動のもたらす欲望からの回避と、他への慈しみの心と施しの行為を行なうことを倫理として、人間関係の秩序を保つ知恵を身に付けたが、次に、世界の真理を生み出し、その世界観を共有することによってお互いの心を結び、社会の秩序を築くことに着手するようになった。その真理の一つが、人のちからを超える神の存在であり、その僕(しもべ)としての人間のあり方が模索されることになる。もう一つは、哲学すなわち、言葉の論理による真理の発見であり、その真理を共通認識として生きようとするものである。

(A)神

 人間はモノ・コトのイメージを自由に想像できる能力をもつ。

 だから、

 ・世界の創造主

 ・自然の運行を司るもの

 ・さまざまな願望

 などをイメージとしてとらえ、擬人化した。それが神である。

 そうして、自由なイマジネーションを展開し、時を費やして、その神々の住む理想世界を作りだした。(この世界は人々の心の総意にもとづくものであるから、真理に限りなく近い)

 人々は現実世界によっては実現することのないその神の世界に憧れ、その神を賛美し、その神に祈り、心の安らぎを得ることになる。

 非力な人間に対して、神こそが万物に対する慈悲と施しの実践者であり、その万能のちからにより、あらゆるものを創造することができる存在である。その意味で世界の誕生に関わり、その世界の運行と秩序を司り、絶対の倫理を行なうことのできる理想の人格を象徴する最高のイマジネーションが神であるから、それは真理以外の何者でもない。

 この神の出現によって、人間は想像世界と心を一体化させ、そこに真理を見出し、その絶対真理の下で生きるようになった。

(B)哲学

 神の出現によって、人間は祈ること、つまり、自己の意識を集中し、心の描き出すイマジネーションと一体となることにより、安らぎを得ることになったが、そのイマジネーションを展開する過程において、イマジネーションを概念化し、すなわち言語化し、論理の整合性によって真理を構築することを覚えた。それが哲学である。

 哲学的にとらえると世界の真理はどのようなことになるのか、以下は空海が第三住心に記している古代インドの各種哲学思想である。

□二元論(精神と物質)<サーンキヤ学派>

 人間にはプルシャ(精神)がある。その精神によって自己を観察すると、自己には自我があり、自我を形成しているのは知覚と行為である。

 知覚には耳・皮膚・目・舌・鼻があり、行為には声・手・足・排泄・生殖がある。

 また、自我によって音・感触・色・味・香りを感じ、自然の構成要素を空間・風・火・水・土に識別しているが、それらは人間の個々の意識によって生じた事柄である。この識別を生じさせているものが意識の対象となるプラクリティ(物質)である。

 物質は固定した本質を持たず、常に移り変わるものであるが、その物質によって発揮される快・不快を人間は自我だと思っている。

□因果論<サーンキヤ学派の祖カピラ・サーンキヤの弟子、ヴァールシャの説>

 「結果は原因によって生じ、原因の中に結果のすべての条件がある」と説く。

□カテゴリー論<ヴァイシェーシカ学派>

 すべての存在は六種のカテゴリーによって説明できるとする。

  1. 実体性(地・水・火・風・空間・方向・時間/自我・意識)
  2. 属性(色とかたち・味・香り・感触/数量/分類・結合・分離/相対性/作用/快感・不快感・欲求・嫌悪・意志)
  3. 運動性(上昇・下降・収縮・伸張・進行)
  4. 普遍性
  5. 特殊性
  6. 内属性(構造)

□禁欲論<ニガンタ派>

 マハーヴィーラを開祖とするジャイナ教の思想。

 すべての自然は殺してはならない。自然は生きものであり、地(土)・水・火・風(空気)・植物・動物は共にいのちあるものである。

 すべてのものを所有してはならない。すべてのものとは物質・家族・人間関係・欲求・精神などである。

□唯物論<ローカーヤタ派>

 アジタ・ケーサカンバリンの説く唯物論。

 善悪の行為に報いはない。死後に生まれ変わることもない。人間は地水火風の四つの物質から出来ているから、死ねば四つの要素に帰るだけである。また、布施に功徳があることもない。

 また、自然のちからは感じるまま、そのままであり、その背後に神秘は存在しない。生きていることの楽しみのみに幸福を求めよと説く。

□宿命論<アージーヴィカ派>

「アージーヴィカとはいのちある限りの意味。あらゆるものは宿命にしたがう」としたマッカリ・ゴーサーラの説く思想。

 自然のもつニヤティ(宿命)にしたがえば、人間は成功し、それにしたがわなければ不幸になるとする。

□不可知論<サンジャヤ派> 

「五感によって知覚できない事柄、すなわち概念による問答において、絶対に回答はない(議論によっては真理に到達できない)」とした立場を取る一派。サンジャヤ・ベーラッティブッダが唱えた。弟子に、後にガウタマ・シッダールタ(釈迦)の説く仏教に帰依することになるサーリブッダ(舎利弗)とマハーモッガラーナ(目連)がいた。

 たとえば「来世はあるのか」との問いに対し、

 「そうとは考えない。来世があるとも、それとは異なるとも、そうでないとも、また、そうでないのではないとも考えない」とする。

第四住心 無我

 さて、人間は倫理によって社会秩序を築くことと、神と哲学によって世界の真理に近づき、その真理に共感し、その世界を共有することを覚えたが、個人に立ち返れば、日々の欲望、すなわち自我によって生きている。

 自我とは、好き・嫌い、知りたい・知りたくない、欲しい・欲しくない、したい・したくないなど、体験する対象への個体別の心の反応である。

 その対象となるモノ・コトの色とかたちと動きを目が見、音を耳が聞き分け、匂いを鼻が嗅ぎ分け、味覚を舌が味わい、感触をからだが感じ取る。

 それらの五感によって感じ取ったものがイメージとなり、そのイメージによって快・不快が生じ、そこから感情が湧き起こり、それが情動となり、それを人は記憶する。

 この快・不快は何処からくるのだろう。第一住心の生存欲が充足されるか否かにその根幹があることはまちがいないが、そこには精神的・肉体的な個体差があって、それがそれぞれの自我になると思われる。それ故、感じる対象があって個々の自我は発揮されるということになる。

 そのように自我には固定した本質はなく、体験する対象によって生じている。その生じた感情を人は記憶していて、そこから快・不快が想像・増長され、欲望が生まれる。その欲望のことを人間は自我であると思っている。

 したがって、対象に実体はあるが、自我の実体は不確定であるというのが真理である。それが無我である。

第五住心 因果 

 自我による欲望を排し、直接的な知覚反応によらない概念によってモノ・コトを考察してみると、それらのことごとくが原因と結果によって成立していることを発見することができる。それが因果の論理である。

 その論理を用いて、人の一生における心のはたらきの因と果を洞察したのがガウタマ・シッダールタ、すなわちブッダ(紀元前五世紀、仏教の開祖)である。

「十二因縁説」

1、人は意識する能力をもって生まれてくる

2、だから、世界を識別することを性(さが)とする

3、識別することによって、あらゆるモノ・コトを分類し、それらに名まえをつける

4、分類され、名まえをつけられたモノ・コトを目・耳・鼻・舌・身体・意識によって知覚し、認識する

5、知覚されるモノ・コトは

 ・色とかたちとうごき

 ・声と音

 ・匂い

 ・味

 ・感触

 ・法則

 である

6、それらを認識することによって、あらゆる対象となる世界に遊ぶことができる

7、しかし、そのことによって心に快・不快を感じ

8、快・不快によって情動を起こし

9、情動を記憶することによって執着が生じ

10、その執着によって生きようとし

11、その生きようとする力によって生まれ生まれて

12、そして、老い、死ぬ

 そうして、ブッダは「人の執着が識別を因とし、情動を果としている」と気づき、次に、「因と果をもたらす識別は言語によって作りだされたものであるから、もともとの自然界には無いものである。因がなければ果は生じない」と悟った。

 「それがあるから、これもある」

 「それが生じなければ、これは生じない」<ブッダ>

(その解脱により世界を観察すれば、自然と生きとし生けるものすべてはあるがままであり、そのあるがままの無垢なる存在に対して、限りない”慈しみ”の心が生まれるとする)

第六住心 唯識(ゆいしき)

 第五住心によって、識別が人間の情動を生み出していると理解できたが、その情動から心を解脱させて後、人と人、人と自然が真にコミュニケーションできる心のはたらきのみが残ると知る。この心は自然によってもたらされる意識であり、人による識別を超えたところに実在するものである。したがって、関心はそのはたらきを為すことのできる意識の根幹に向かうことになる。

 意識の根幹を分析すると

 一、生存するための基本的な欲求を司っている意識<第八アラヤ識>

 二、言語による執着を司っている意識<第七マナ識>

 三、知覚によってとらえた情報を思考・記憶する意識<第六識>

 四、対象を知覚によってとらえる意識<前五識(五感)>

                 < >内「唯識論」による意識階層の名称

(・第八アラヤ識:さまざまな心の階層の基底をなす意識。第一住心の生存欲(呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居への欲求とそれらの欲求の充足度が惹き起こす快・不快の情動)を発動・制御している意識。

・第七マナ識:感受されたイメージを言語によって表現する意識。その自己の創作した作文により執着を惹き起こす。*このマナ識により心の悩みが生じている。

・第六識:知覚情報をイメージ化し、そのイメージを編集する意識。

・前五識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識により、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の知覚を得る意識。)

の八つの階層<識>によって構成されていて、それらの各識に対応する心がそれぞれに存在していると知ることができる。その階層別の無垢の心、すなわち慈しみ心を発揮し、実践するのが第六住心である。(そうして、第七マナ識による執着を説法によって解き放つことも)

第七住心 空(くう)

 紀元前五世紀に因と果の論理を用いたブッダの洞察によって、人間は識別による情動とその情動への執着によって、心に悩みを抱え込むようになったが、しかし、情動による執着が生きる原動力になっていることも事実であり、その執着に取って代わることのできる心のはたらきが慈しみである。その慈しみは「十二因縁説」の悟りによってもたらされる。

 仏教の唱える慈しみを如何に実践するか、そこから「唯識論」が生まれた。つまり、意識の階層を分析し、それぞれの心の階層に応じた慈しみのケアを行なおうとする教えである。その教えの実践は数百年にわたって試行錯誤を重ねながらもつづけられることになるが、やがて、仏教成立から七、八百年後に、そのブッダの悟りの原点に戻り、識別によって、ほんとうに存在の有無を証明することができないのかを考察する学者が出現する。それがナーガールジュナ(龍樹)である。その結果、存在は論理によっては識別できないことを論証する。そうして、以下の結論を得る。

 (モノ・コトの存在は)

 生じないし、消滅しない。

 断絶しないし、連続しない。

 同一ではないし、別でもない。

 去ることはないし、来ることもない。

 上記の結論を記した『中論(ちゅうろん)』によると、まず、「存在条件」の有無から始まり、「去来(動き)」「認識作用」「物質存在」「存在要素」「寿命(発生・持続・消滅)」へと論証は進み、究極の論理となる「作用と作用主体の相対性」によっても個々の存在を証明することはできないと考察する。

 空海は、そのナーガールジュナによる「相対性による存在の空」(果分不可説)の論理を超克し、「実在する絶対の一の空」(果分可説)を唱える。

 以下はそのことを説いた空海の詩文である。

 なんと大空は広々として静かなのだろう。

 万象をその中に一気に含み

 大海は深く澄みとおり、一つの水(水の元素)にすべての生物が宿る。

 このように一は無数の存在の母である。

 空間は現象が生じるための基(もとい)である。

 それぞれの現象は不変に存在しているものではないが

 それでも現象はそのままにして実在し

 「絶対の一の空」は現象の生じる場として存在している。

 その存在は特定の現象に留まることなく

 実在する現象は不変でないから

 あらゆる現象が生起しても空間はそのまま空である。

 このように空間があるから存在があり、存在があるから空間がある。

 存在の諸相は論理によって証明できなくても、現象と空間はそのままにして実在する。

 だから、存在は論理によっては空であり、空であるものが存在している。

 そのようにすべての存在が「絶対の一の空」に実在している。

 そうでないものは何物もない。

『十住心論』第七住心 大意の序より

 こうして、空海は実在する世界を”イメージと単位”によって示し、論理による存在の空を超えた。つまり、実在する空間としての空と、論理によっては捉えることのできない存在の諸相の空を一つにし、極めて物理学的な絶対の空の世界を拓いた。そうして、その世界を詩にして説いた。この実存世界を誰も否定できない。その世界の中でわたくしたちは生きている。

第八住心 主体と客体

 空間と物質の存在実体を観察と理論によって追究している物理学者のすがたは菩薩僧のすがたに似ている。

 只ひたすらに主観を排除し、みずからを客体化することによって、存在の本質と一体になり、真理を証明しようとしているすがたは、菩薩僧も物理学者も同じである。

 菩薩僧は十二年間も山林に籠もり、学問・修行をしなければならない。物理学者も絶対的な空間に住し、主観を排除してみずからを客体化して、数式に向かっていると言われる。

そのような心のあり方が第八住心である。

 物理学者のシュレーディンガー(量子力学の”波動方程式”を発見。一九三三年にノーベル賞受賞)もその著作の中でその心を語っている。

 「わたしの心と世界は同じ要素によってできている。両者の間ではお互いに参照するといったことができるが、その多くは証明できていない。この情況は心の問題と世界の問題の双方に言える。しかし、今、生きていることによって世界に対峙している自分の心がここにある。その瞬間、世界はたった一度だけわたしに与えられている。心と世界の両者は存在しているものでも認識されるものでもない。主体と客体はたった一つである」

 「たとえば、あなたが大地にからだを投げ出し、その上で大の字になれば、あなたは母なる大地と一つになることができるだろう。その瞬間、あなたは大地であり、不死身であると感じる。人は死ねば大地に戻るだろう。それは明日かも知れない、それでも、生きている今のあなたに対峙している大地はあなたがそこにいることによって、あなたの新しい努力と苦しみに向けてあなたを生み直している。瞬間、瞬間に移りかわる自然のすがたの数だけ、それを見つめているあなたを新たに生み直している。そう永久に、今だけ、今だけが列なっている」

 一人の物理学者がその思索によって菩薩の悟りに達していたー

第九住心 生命環境

 第七住心で「実在する絶対の一の空」を空海は唱えたが、その自覚によれば、物理学者の心と自然とは同体であるとの認識に至る。無機質を主体とした自然の移り変わりそのものが心に映り、意識を形成している。それが物理学的な絶対世界である。

 では、その絶対世界に生命を置くとどうなるのか、生命の住みかとしての自然に心の主体をもっていくと、そこにもう一つの生物学的な絶対世界が現れる。それが第九住心である。

 その絶対世界のことを空海はその著『声字実相義』に詳しく記している。

「いのちとその環境」

 つぎに、「いのちと、そのいのちの宿る生物と、生物の住みかとなる環境がすがたを現わしている」を考察してみよう。

 これには三つのこと<三種世間>が説かれている。

 第一に、生物のすがたに、色・かたち・動きがある。<衆生世間>

 第二に、環境にも、色・かたち・動きがある。<器世間>

 第三に、これらの、色・かたち・動きは、生物と環境にそれぞれにそなわっているものではなく、いのちの住みかとなる環境と、そこに住むものとの関係、すなわち、共生する関係(生態系)の中から生まれ出ている。<智正覚世間>

 上記の事柄に関し、『華厳経(けごんきょう)』(三世紀中央アジアで成立した経典)にも以下のように説かれている。

 『経』にいう。

 「いのちの有するからだは不思議である。そのからだは物質の基本要素である固体・液体・気体によってエネルギーを発生させる小宇宙(空間)の集合体である」

 またいう。

 「からだの一毛の中に多くのいのちの海(細胞)があり、一つひとつの毛にその海があり、その海がすべての生物にあまねくゆきわったっている」

 またいう。

 「一つの毛穴の中にも計り知れないほどの多くの海(細胞)がある。その量は微塵であり、いろんなはたらきをするために存在している。その微塵の海の一つひとつにいのちのはたらきを指図している遍照尊(へんじょうそん:DNA)がおり、細胞の集まりの中でいのちの真理を説いておられる。また、その細胞の中にはさまざまなはたらきを為す大小の生命(バクテリア各種)が含まれていて、その数は無限に等しい。そのように一個の生物のからだを形成している細胞の一つひとつには、それぞれのはたらきを為しているいのちがみな入っているのだ」と。

 今、上記の文章によって、(わたくし空海は)次のことを理解した。

 いのちとそのいのちを有する生物のすがたは大小さまざまである。

 ・生命圏全体のいのちのすがた。

 ・説明することができないほどの細胞の数をもつ大きな生物のすがた。

 ・少しの細胞の集まりによる小さな生物のすがた。

 ・一つの細胞のすがた。

 ・細胞の中のDNAのすがた。

 これらのいのちの大小が互いに内となり外となって共生し、融通無礙の生命環境を築き、そこを住みかとして生存している。人間もその一員であり、その中に組み込まれている。そのことを自覚せよと。(その生命圏のすがたは帝釈天の宮殿にあるという宝珠をつらねて作った網の一つひとつの宝石が互いに映じあっているようであるとも空海は記している)

第十住心 マンダラ

 人間は第一住心の生存欲を意識することから始まり、その思考能力よって人間中心主義の思想を発達させてきた。その間、ナーガールジュナによって考察された相対性の論理による諸相の存在の否定、すなわち空(くう)は、空海によって実在する万象を含む絶対空間の空(くう)として肯定されるが、論理によっては世界の真理を説明することができないとしたナーガールジュナの哲学的帰結により思想の階梯はこの段階で崩壊してしまった。そこで、第十住心において空海は言語による論理を超える多角的な表現メディアとして

 (1)「形象」:万象の色・かたち・動きによるすがた<大マンダラ>

 (2)「シンボル」:事物・事象の象徴性とそのことによる差別化と意味化<三昧耶(サンマヤ)マンダラ>

 (3)「単位」:文字と数量による意味の編集<法マンダラ>

 (4)「作用」:物質のはたらき/人の行動<羯磨(カツマ)マンダラ>

 の四種があることを示し、それらのメディアによって、世界の”すがた”とその”はたらき”の本質を伝達することができると提唱した。そのメディア<マンダラ>によって表現された真実の世界が第十住心なのである。

 空海の作成したマンダラには、胎蔵マンダラと金剛界マンダラがあり、前者は五つのいのちの力(生命力・生活力・身体力・学習力・創造力)によって発揮される根源的なそれぞれの五つの知が展開する生命世界のすがた図であり、後者はそれらのすがたをもつものが行なうはたらきを九つに分類して示す図である。

 その図によって世界の本質が無量に開示する。だからこの第十住心はすでに思想を超えている。

あとがき

 空海の包括的で普遍的な思考能力が『十住心論』を生み出したと思う。その体系は仏教思想の展開にとどまらず、古代インドや中国の哲学・宗教を含んでいる。そうして、注目すべきは千二百年前に思想といった枠を超えて、思考の十段階目として、世界の本質を表現するのに今日の科学における観察・分析・創造・技術手法に相当する四種の「マンダラ」を用いることを提唱していることである。そこには、近代人の思考方法と同じものがすでに存在している。

■空海若き日の哲学「三教指帰(さんごうしいき)」~戯曲~の詳細内容

■空海の総合教育の試み-「綜藝種智院の式とその序」<現代語訳>の詳細内容

■空海若き日の哲学「三教指帰(さんごうしいき)」~戯曲~

転記先URLは以下

https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/new-36.html

空海はその生涯(774-835)において、数多くの著作を残した。
 それらの著作によって、私たちは空海の思想を体系的に知ることができる。そうして、そこに書かれていることが神秘的なことなどではなく、大変論理的なものであると気づかされる。
 では、その著作とはどのようなものなのだろうか、それらは大きく三つのジャンルから構成されている。
 一つは、広義の人間学の展開である。人間の活動を身体・言語・意思とし、それらの究極の原理を説くことから、インド、中国のあらゆる宗教・哲学・思想を総合的に評価する比較思想論や、わが国初となる私立大学の教育論などを展開するもの。
 一つは、請来した仏教経典の概要を紹介し、その解釈をしたもの。
 一つは、当時の時代、社会、文化、生活、自然などを映した詩文集である。
 当「三教指帰(さんごうしいき)」(人間の生き方を指し示す三つの教え)はそれらの著作に先立つものであり、若き空海の文学的才能をそこに見ることができる。この創作によって、その後の空海の文学的側面が決定づけられたようにも思う。
 また、この一作は青年空海がそれまでに学んだ学問知識の集大成となっており、その膨大な知識に驚かされる。
 以下はその「三教指帰」の現代語訳であるが、一部、煩雑な個所は要所・要点のみの訳とした。したがって抄訳となるが、そのことによってテーマ毎の主張が明確になったようにも思う。また、その構成は戯曲風の仕立てになっており、現代語訳にあたりその手法をより明確したのであらかじめ断わっておきたい。
 尚また、空海がこの著作において事例として挙げる多くの人物名や詩、それに諺(ことわざ)類については、どのような人物や詩や諺であったのかを本文中に加えることによって、その論旨を理解しやすいようにした。

現代語訳「三教指帰」

創作意図(作者空海の弁)
 ものごとを文章にするには必ず理由がある。
 自然界にいろいろな現象が起きるように、人間は感動したときにそのいろいろな想いを書きあらわす。だから、中国上代の聖帝伏羲(ふくぎ)の書いた『易経(えききょう)』、中国春秋時代の思想家老子の書いた『道徳経』、中国最古の詩篇『詩経』、中国戦国時代の楚地方において謡われた詩を集めた『楚辞(そじ)』なども、人の感動を書きあらわしたものである。もちろん、聖人とわれわれ凡人、昔と今とでは、人も時代も異なるが、私も私なりの今の志(こころざし)を書きあらわしたい。
 私は十五歳のとき、母の兄弟である阿刀大足(あとのおおたり、禄は二千石で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった)について学問(論語・孝経・史伝などの文章)を学び、十八歳のときには日本でただ一つの大学に入学し、各種科目(中国春秋時代の政治・外交・自然災害史や、中国最古の詩歌、中国歴代帝王の言行録など)を自分に厳しく鞭打って学びました。(その結果、それらの学問のすべてを早々にマスターしてしまった私は、二十歳を過ぎる頃には生きることとは何かを求め、寺院を巡り、経典を読み、各地の山岳を修行の場としていました)
 そのときに出会った一人の修行僧が私に「虚空蔵(こくうぞう)求聞持(ぐもんじ)の法」というのがあることを教えてくれました。その法を説く経典には「もし人がこの法によって虚空蔵菩薩の真言一百万回を百日間にわたって唱えたならば、たちまちにあらゆる文章を暗記し、その意味を理解することができるようになる」ということが書かれていました。
 そこで、ブッダのその言葉を信じて、木を擦って火を起こすように少しも怠ることなく、阿波の国の大滝岳(たいりょうのたけ)によじ登り、土佐の国の室戸崎(むろとのさき)で一心不乱にこの修行に励みました。すると、(山中で真言を唱えていると、そのこだまが)谷に鳴り響き、(岬の洞穴に座って、広がる空と海に対峙し、真言を唱えていると)虚空蔵菩薩の化身とされる夜明けの明星が私の体内に飛び込んできたのです。それが、真言一百万回目の成就の証しであったのです。
 こうして私の気持ちは世俗的な名声や富から離れ、山林の中での朝夕の生活に心が引かれてゆくようになりました。
 軽やかな衣服、肥えた馬、大路を行き交う牛車を見ては、それらが儚いものであると思い、体の不自由な人や、ぼろ布をまとっている人を見ると、どうしてそのようになったのかと心が痛んだのです。
 このような訳で、世間での日々の暮らしの中で目にするものすべてが私の出家の志を後押し、吹く風をつなぎ止めることができないように、私のこの志はもう誰にも引き止めることはできなくなってしまったのです。
 しかし、親戚の阿刀大足や多くの知人が、儒教の説く人間関係の教え仁・義・礼・智・信の絆で私を縛ろうとし、また忠孝の道に背くとして私の出家に反対したのです。
 その意見に対して私は次のように思いました。
 「鳥は空を飛び、魚は水の中を泳ぐように、生き物にはそれぞれの性情がある。そのように人間の性質もみな同じではないから、人びとの生き方を導く教えにも仏教と道教と儒教があり、その教えに深さの違いはあっても、どれもみな聖人と呼ばれる人の教えである。その中の一つの教えに入るのに、人の道にはずれていると言えるだろうか。だから、忠孝に背くことはない」と。
 ところで私には母方の甥がいるが、性格がねじれていて、人の言うことを聞かず、昼夜を厭わず、殺生・酒・女・賭博に溺れているのです。その放蕩な習性は悪列な環境で育ったせいでしょう。
 上記、二つの気になる事柄を題材として、人間の生き方に関する思想を考察してみたいと思い立ち、そのために戯曲風の物語を創作してみたのです。次のような内容です。

「三教指帰」物語<三幕>

<登場人物>
空海本人
儒家の亀毛先生(きもうせんせい)
屋敷主人の兎角公(とかくこう)
主人の甥で放蕩者の蛭牙公子(しつがこうし)
道家の虚亡隠士(きょぶいんじ)
青年修行僧の仮名乞児(かめいこつじ)(若き日の空海)

<構成>
プロローグ 創作意図(作者空海の弁)
第一幕 儒家の亀毛先生
第二幕 道家の虚亡隠士
第三幕 青年修行僧の仮名乞児
 場面1、乞児のプロフィール
 場面2、乞児の独白
 場面3、乞児、兎角公邸の門に立つ
 場面4、釈尊の話
 場面5、乞児「無常の詩」を唱える
 場面6、生の報い
 場面7、「生死(しょうじ)の海の詩」
 場面8、さとりの境地
エピローグ 「三教の詩」唱和

<あらすじ>  主人役の兎角公の邸宅に儒学者の亀毛先生が訪れ、忠孝と立身出世の道を説く。次に虚亡隠士という道士が登場し、超俗と長生、心身の鍛錬による自然道を説き、その後に仮名乞児という青年修行僧(若き日の空海)を登場させて、儒教の世俗的名利と道教の神仙の脱俗を指摘し、因果論と慈悲による仏教の教理を説く。それらの教え、孔子と老子と釈尊の教えの代理人ともなる架空の人物の弁舌によって、兎角公の甥で放蕩者の蛭牙公子の生き方を誡める物語。

 この物語はあくまでも私のこころの悶えを取り除くためのものであり、他人に見せることを望まない。
 時に延暦16年(797年)12月1日である。(空海24歳)

第一幕 儒家の亀毛先生

 <亀毛先生の人格と容姿>
 生まれつき弁舌が立ち、しっかりした顔立ちで堂々としている。儒教(社会倫理にもとづく人間関係の規範を説く教え)の九つの経典『易経』『書経』『詩経』『礼記(らいき)』『左伝』『孝経』『論語』『孟子』『周礼(しゅらい)』や中国古代王朝の歴史書『史記』『漢書(かんじょ)』『後漢書』、八卦(はっけ)の説をすべて暗記しているような人物。
 ひとたび口を開き弁舌を始めると、枯れ木に花が咲き、野ざらしの骸骨も生き返るほど。
雄弁家とされた者たち、中国の蘇秦(そしん)や晏平仲(あんへいちゅう)も舌を巻き、帳儀(ちょうぎ)や郭象(かくしょう)も先生の名前を聞いただけで沈黙するほどである。

 場面は、亀毛先生がたまたま休みの日に兎角公の邸宅を訪ねるところから始まる。主人の兎角公は宴席を設け、ご馳走や酒をふるまい、両者は親しく歓談する。
 ところで兎角公には甥がいるが、その甥は放蕩を重ね、誰にも手がつけられなかった。そこでいい機会なので兎角公が亀毛先生に相談する。
 「淮河(わいが)の南側に生えている橘(たちばな)は、北側に移植されると自然に枳(からたち)になり、まっすぐに伸びないヨモギ草でも、麻の畑にまぜて植えると周りの麻に支えられてまっすぐになるといいます。環境によってそのものの習性は変わることができるでしょうか」と。
 先生がいう、「智者はもって生まれた才能によって智者であるが、愚者はもって生まれた才能がないから、教えてみても智者にはならない」。
 兎角公がいう、「それでも人間には情があるから、物事の正否を判断さすぐらいのことはできるでしょう。先生、どうか甥の愚かな心を道理によって指し示し、正しい道に帰らせてください。先生ならできます」。
 亀毛先生はどうしたものかと思い煩い、ため息をつき、天を仰いで困ったと嘆き、大地に伏して考え込む。
 しばらくして、兎角公のたっての頼みであるから断りきれずに、亀毛先生が苦笑しながら話し始める。
「それでは儒教的人間の生き方の一端を述べましょう。人間のうちで智者は稀であり、愚者は数多い。だから、善を行なう者は稀であり、悪を行なう者は数多い。これが世の道理である。だが、人間の心は環境によって左右されることも事実である。玉が磨かれることによって輝き始めるように、人間は学問によって物事を理解し、教えによって道理に通じ、人格が形成されるという。
 だから蛭牙公子さん、心を入れかえて以下のような生き方を考えてみませんか。
 まず、骨身を削って親孝行を努めてみななさい。そうすればその行為にたいする天の褒美が必ず下されるでしょう。
 また次に心を忠義に向け、目上の人に忠節を尽くし、主人がまちがったことをしようとしているときに諌めることができれば、あなたは立派な人間としての評価を得ることになるでしょう。
 次に儒教の経典を日夜学べば、論語の最古の注釈書『論語集解(ろんごしっかい)』に出てくる注釈者八家の一人である包咸(ほうかん)や孔子の高弟で四科(徳行・言語・政事・文学)十哲の一人である文学の子夏(しか)にも劣らない学者となれるでしょう。
 また、膨大な歴史書に通達できれば、春秋戦国時代を代表する詩人であり、楚の政治家でもあった屈原(くつげん)や中国前漢時代末期を文人ないし学者として生き抜いた揚雄(ようゆう)や同時代に揚雄の郷土(蜀の地)の先輩であった、文章家の司馬相如(しばしょうじょ)のようなすぐれた文人にもなれるでしょう。
 さらに書道に打ち込めば、鳳凰が空に悠々と羽ばたき、虎が大地に臥すような雄大な文字が書け、書聖といわれる人びと、鍾繇(しょうよう)・張芝(ちょうし)・王羲之(おうぎし)・欧陽詢(おうようじゅん)とその息子の欧陽通(おうようつう)などの書風を越える存在となるでしょう。
 次に弓術(きゅうじゅつ)に熟練するならば、太陽を射落としたとする伝説上の弓の名手の?(げい)や春秋時代の楚の武将で、その弓勢の強さは甲冑7枚を貫き、その精度は蜻蛉の羽をも射ぬき、楚王の飼っていたいたずら猿を、矢をつがえただけで泣かしたという養由基(ようゆうき)、魏王の家来で王の前で、矢をつがえずに弓を引き絞り、弦を振動させただけで飛ぶ雁を落としたという更?(こうえい)や心を風に合わせ、力を風と均しくして手を動かし、細い糸の弱い弓で天高く飛ぶ鶴を二羽同時に捕えたることができたという蒲且子(ほしょし)等を、打ち負かすことになるでしょう。
 また戦陣に臨み、戦略に長ければ、劉邦に仕えて多くの作戦に参加し、その卓越した知略によって劉邦の覇業を助けた長良(ちょうりょう)や『孫子』の兵法書の著者と目される孫武、それに『三略』(古代中国の兵法書。武経七書のひとつ。張良が始皇帝の暗殺に失敗して潜伏していたときに、謎の老人・黄石公から授かった太公望呂尚の兵法書がこの三略であるといわれる。「戦わずして勝つ」というのが中国兵法の真髄であるが、この三略も同じで、人心を得ること、将兵の心を掌握することが第一であるとしている)の兵法書ですら必要としなくなるでしょう。
 また農業生産事業を興せば、陶朱(とうしゅ)や猗頓(いとん)の築いた富をもものの数としないでしょう。陶朱のもとの名は笵蠡(はんれい)、中国春秋時代に越王勾践(こうせん)に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げる立役者になったが早々に引退し、越を去って斉に移り、物資の過不足に乗じた売買を行ない、巨万の富を得、後に物資の交通の中心地であった陶に移り、ここで名を朱と変え、取引先をえらんで時機を見て物資を流通させ、数千万の富を成し、陶朱公と呼ばれた。またその富はたびたび貧しい人びとに分け与えられたという。猗頓は春秋の魯の人。もとは非常に貧しかったが、富豪の陶朱のところに行き、金儲けをするには家畜を飼うようにと教えを受け、猗氏(いし)の地で沢山の牛や羊を飼い、また製塩業でも大儲けをし、王公と肩を並べるほどの財産を築き、天下に名を高めた。そこで猗頓(頓はたくわえの意)と呼ばれた。ここから富者を指して「陶猗」といい、その富を喩えて「陶朱猗頓の富」という。その両者の富さえもかなわない財を築くでしょう。
 また政治家になれば、壮年期は仕官せずに農耕をし、母に孝養を尽くし、五十歳になって始めて州郡に仕えた楊震(ようしん)のように清廉であり、その潔癖さは他者が彼に賄賂を渡そうとしても二人だけの秘密は「すでに天が知り、地が知り、自分が知り、相手が知っている」として絶対に受け取らなかったという。それ以上に硬骨で高潔な人物となるでしょう。
 また裁判官になれば、魯の国の柳下恵(りゅうかけい)のように、その裁判において、賢を惜しみなく与え、必ず正義を行ない、上司からの不正の指示には絶対に従わず、そのために官位を下げられるという屈辱をうけてもても意に介さず、退官せずにその職に留まり、一点の曇りのない心で職務を果たすような人物となるでしょう。
 そのように潔白で慎み深い生き方ということであれば、孟子の母は息子の成長に環境が影響を与えることを気にして、よりよい学習環境を求め引っ越しを繰り返し、有言実行や初志貫徹の精神を自らの態度をもって息子に示したというし、宗教的生活や養生と人間性を守る生活を求めた台孝威(たいこうい)は、山に入って薬草や薪を採って隠棲の生活をしたという。
 またそれ以上の高潔さを実行するというのであれば、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の兄弟は、周の武王が悪逆非道の殷の紂王(ちゅうおう)討伐の兵を起こそうとしたとき、武王に「あなたは父上が亡くなられて埋葬も未だなのに、戦争をしようとしている。これが孝といえるだろうか。臣下の身で君主(宗家である殷の紂王)を滅ぼそうとしている。これが仁といえるだろうか」と諌言した。しかし、それは聞き入れられなかった。その後、武王が殷を滅ぼしたので天下は周のものとなったが、兄弟は武王による反逆の天下奪取を恥、周の俸禄(ほうろく)の穀物を食べなかったというし、中国古代の伝説上の人物の許由(きょゆう)は、聖帝尭(ぎょう)が自分に天下を譲るという話を聞き、そんな俗事にまみれることを恥じて、箕山(きざん)に隠れたと伝えられている。   
 またもし医術に惹かれるならば、中国医学の祖師といわれる扁鵲(へんじゃく)先生のように脈診に優れ、華陀(かだ)先生のように全身麻酔で腹部の切開手術を施す腕を発揮できるでしょう。
 またもし工学技術に惹かれるならば、施工技術においては大工の匠石(しょうせき)の斧の絶妙な腕前と左官の名人の微細な漆喰塗りによる二人が居てこそできる、絶妙なパフォーマンスの上をゆくことができるだろうし、設計技術においては中国の「建築土木の祖」と呼ばれた公輸般(こうしゅはん)のように、戦時の架橋から武器・工具、それに空を飛びつづける竹木で作った鳶(とび)以上のものを考案することができるでしょう。
 このように人間はその生き方を選択することによって、大きなことを成すことができるのです。
 そうなれば、あなたの器量は「広大な湖のようで、その水を澄まそうとしても澄まず、かき回しても濁ることがなく、いくら見てもその深さと広さはどれだけのものか計り知れない」と評された黄叔度(こうしゅくど)と同じであり、あなたの度量は「堂々と枝を張る数千尺の松のように、仰ぎ見てもその高さを測ることができない」と評された?子崇(ゆしすう)に比べられる者となるでしょう。
 (以上が、職能による儒教的生き方の事例であり、以下は日常の生活・学問・教養の儒教的態度の指針となる事柄である)
 まず、住むのによい地域を選び、次によい土地を選んで家を建てなさい。次に道理を床とし、徳をひっさげて布団とし、仁を敷物として座り、義を枕として横になり、礼を寝間着にして寝、信を衣服として世間と交わり、一日一日をつつしみ、いっときも無駄にせず、倦まずに励み、物事の善し悪しを判断することに力を尽くしなさい
 そうして、忙しくても書物を読み、文章を書き、学問することを忘れてはなりません。そうすれば、任侠道を進んでいた朱雲(しゅうん)が四十歳になって考えを改め、易経と論語を学び、元帝の催した易経の討議にただ一人臨み、当時権勢を振るっていた宮廷学者の五鹿充宗(ごろくじゅうそう)と堂々と論戦を交わし、相手を打ち負かしてしまったように、巧みで力強い弁舌を身に付けることができるでしょう。また光武帝の侍中(じちゅう)であった戴憑(たいひょう)は、元旦の宮中の朝賀に百官が一堂に会したとき、帝が多くの臣下のうち経書を解説できる者に代わるがわる討論をさせ、意味に通じていない者の座布団を意味の通じている者に加えていったところ、戴憑のところに五十余枚の座布団が重ねられたという。このように多くの者と討論しても負けることはないでしょう。

森森(びょうびょう)としてひろがる弁舌はうねる海原ように湧き上がり
彬彬(ひんひん)として美しい文章は青々とした大樹のように繁茂する。
玲玲(れいれい)と打ち振られる語句は
孫綽(そんしゃく、中国六朝時代の東晋の文学者。宮廷の書記官。文才をもって当時名高く、特にその『天台山賦』は、魏、晋時代の代表的辞賦として名高い)や
司馬相如(しばしょうじょ、はじめ景帝に仕えたが、のちに文学の愛好家で知られた梁の孝王のもとに走り、そこで当時の有名文人らと知りあった。最初の傑作「子虚の賦」はこの時期の作。梁王の死後、失職していたが、やがて「子虚の賦」が武帝の目にとまり、都に召し出され、宮廷文人に列に加わった)の名文をしのいでひびき
曄曄(ようよう)としてひびく黄金のようなその美しい言葉は
揚雄(ようゆう。中国前漢時代末期の文人、学者。30歳を過ぎたとき上京し、官途にありついたが京洛の地で自らの浅学をさとり、成帝の勅許を得て3年間勉学ために休職すると、その成果を踏まえ「甘泉賦」「長揚賦」「羽猟賦」などを次々とものにし、辞賦作家としての名声を獲得した)や班固(はんこ。中国後漢の歴史家。前漢王朝の正史『漢書(かんじょ)』100巻を著わす)の表現を越えて
美しい花を咲かすでしょう。

 そうなれば、中国前漢時代の学者、淮南王(わいなんおう)が周王から屈原の作った賦『離騒』の解説書「離騒伝」を書くように所望され、半日でこれを書き上げたように、あるいは中国後漢末期の人で禰衡(でいこう)という名の人が、友人で武将の黄射(こうえき)が開いた酒宴の席で、座中に鸚鵡(おうむ)を献上した者があり、黄射から「先生、これを詩にして賓客の方々を楽しませてくれませんか」と所望され、禰衡は筆を手にとって即座に「鸚鵡の詩」を作ったが、文章に過不足なく、言葉もはなはだ流麗であり、あとから一点の添削もしなかったという。
 以上の人たちのように完璧な文章が作れるということは、詩賦の苑を俯瞰し飛びまわる鳥が美しい言葉の野原に降りて自由に休み憩うようなものなのです。
 そうなればあなたがはたらきかけなくても社会があなたのことを必要とし、栄誉ある地位を得ることになるでしょう。
 そうして善き配偶者を選び、結婚式を挙げ、新郎新婦は結ばれ夫婦になり、夫婦はときどき親戚や知人を集め、酒宴を張り、山海の珍味をならべ、客は楽器を奏で、歌い、踊り、帰ることを忘れて幾日も楽しむことになるでしょう。
 蛭牙公子よ、善き人生とは以上のようなことなのです。
 「君子は道を謀って食を謀らず。耕すときは餧(飢え)その中(うち)にあり、学ぶときは禄(ろく)その中にあり。君子は道を憂えて貧を憂えず」(君子は道を求めて学問をしているのであって、食うためにではない。食うために田を耕す人でも飢饉があれば飢えるが、食うために学問をしていない人はその学問によって禄がついて食っていけるのだ。そのようなことだから、君子というものは道を修めるために憂えることはあっても、貧しさを憂えることはない)と孔子は説いている。蛭牙公子よ、この言葉をよく胆に銘じておきなさい」。
 蛭牙公子は亀毛先生の話を聞き終わり、ひざまずいていった、「はい、仰せにしたがいます」。
 それを見た兎角公は席から下りて、「ありがとうございます。甥が改心するのを目の当たりにしました。故事に、鳩が変化して鷹となり、雀が変じて蛤(小鳥の姿に似た貝が実際にあり、その貝のことを指す)になるとありますが、その通りのことが起きました。物や人間が変身する昔の話がありますが、放蕩者の蛭牙の心が聖人の道に向かうのはそれにも勝ることです。いわゆる「水を乞うて酒を得、兎を打って小鹿に似た動物を獲る」(希望したもの以上のよいもの得ること)とはこのようなことでしょうか。
 『論語』李氏に「詩を学ばざれば、以て言うこと無し。礼を学ばざれば、以て立つこと無し」(詩を学ばないと、一人前にものが言えませんよ。礼を学ばないと、ひとり立ちしてやっていけませんよ)ということを孔子の子の伯魚(はくぎょ)が父から聞き、その聞いたことを伯魚から陳亢(ちんこう)が聞き、陳亢は家に帰って「一つのことを聞いて三つのことを知ることができた。一つは詩を学ばなければならないことを聞き、二つは礼を学ばなければならないことを聞き、三つは君子が息子を日常のなかで普通に教育していることを聞いた」といって喜んだという。その喜び以上のものを私も今、先生のお教えに感じています。蛭牙への誡めを私も生涯の座右の銘にしたいと思います」。

第二幕 道家の虚亡隠士

<虚亡隠士の人格と容姿>
 ヨモギ草のように乱れた髪。
 仙人のようなぼろぼろの着衣。
 広間の片隅にいて、賢いのに愚者のふりをし、徳をぼかして狂気をよそおっている。

 邸宅広間の片隅にいる虚亡隠士にライトがあたる。
 両脚を投げ出して偉そうに座り、にっこり笑って唇を開き、おもむろに話し出す。
 目を見張って虚亡隠士がいう、「亀毛先生よ、あなたはあなた自身のことが分かっていない。自分自身の重い病気を治さずに、どうして他人のわずかな欠陥を指摘し、それを治そうとするのか。あなたの治療なら、しないほうがましというものだ」。
 それを聞いた亀毛先生はびっくりし、虚亡隠士の方に向きを変え、その前に進み出ていう、「先生、もしも別のより良い生き方があるのでしたら、どうぞお教え下さい」と。
 隠士がいう、「輝く太陽があっても、盲目の人にはそれが見えない。とどろく雷鳴も、耳の聞こえない人にはその音が伝わらない。そのように道教の教えを凡人に伝えることは容易ではないのだ。その理由は、短いつるべで井戸水を汲もうとする者は、水が汲めないのは井戸水が涸れているからだと思うし、自分の指で海を測ろうとする者は、海の底がすぐそこにあると思ってしまうからだ」。
 亀毛先生たち三人は相談し、口をそろえていう、「私たちが道教の先生であるあなたに、この場でめぐり会ったことは一生に一度のチャンスだと思います。どうぞ教えを授けて下さい」。
 隠士はいう、「祭壇を築いて誓約すれば、いくつかを教えよう」。
 亀毛たちは、早速、誓いを立てた。
 隠士がいう、「天地は万物をつくり出すのにあれこれ区別しない。それは溶鉱炉から取り出した鉄で鋳物をつくるようなもので、その創造にあたって愛憎は絡まない。たとえば、赤松子(せきしょうし、中国神話の炎帝神農の時代に雨の神だったとされている最古の神仙の一人。火の中に入ることができたとされていることから、火解して仙人になったとも、特別な呼吸法で仙人なったともされる)や王子喬(おうしきょう、鶴に乗って昇天したといわれる神仙で、周の霊王の子の一人である太子晋のこと。伝説では、若くから才能豊かで、楽器の笙を吹いては鳳凰の鳴き声を出せたという。山に入ったまま帰らなくなったが、数十年後に白鶴に乗って山上に舞い降り、飛び去ったという)の仙人はわざと長寿になったわけではないし、童(わらべ)の項託(こうたく、孔子が車に乗って東方に旅をしていると、童が三人遊んでいて、その中の一人が道をふさいで土を運んでは城を作り、その中に座っていた。孔子が云う、「私の車を通過させてくれないか」と。童笑いて云う、「聞けません。かねてより耳にするのは、聖人の上は天文、下は地理、中は人情を知るとの言葉。昔より今に至るまで、車が城を避けると聞くが、城が車を避けるとは聞いたことがない」と。返す言葉のなかった孔子は、しからばと、車に城を避けさせ、そこをよけた。後から人をやって「これはどこの童か、姓は何、名は何という」と尋ねると、童は「姓は項、名は託」と答えたという。その賢い童。そのときから、孔子の師となったが長くは生きなかった)や顔回(がんかい、紀元前514年-紀元前483年、魯の人。孔門十哲の一人で、随一の秀才。孔子にその将来を嘱望されたが夭折した。決して名誉栄達を求めず、ひたすらに孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったことから、孔子は「回は賢明なる人である。竹を編んだ弁当箱一杯の飯と、瓢箪の水筒に入った水を持ち、うらびれた路地の奥に住んでいる。普通の人なら憂鬱で耐えられないだろうが、回はその質素な生活の中で、学問とその徳行の日々を十分に楽しんでいる。こんなに賢明なる人はそうそういるものではない」と言ったとある。こうしたところから、老荘思想発生の一源流とみなす向きもいる)はわざと短命だったわけでもない。それは自然の本性にしたがって、自らの命を保った者と、保てなかった者との相違に過ぎないのだ。
 自然が誰か一方を愛し、他方を憎むことはない。しかし、人間は欲望や愛憎を持ち、目はくらみ、耳も鈍る。(だから、輝く太陽も、とどろく雷鳴も感知できない)。
 そのようなことで道家の生き方は、まず俗生活の欲(五穀・五菜・酒・肉・美女・歌・踊り・過激な笑いと喜び・過度の怒りと悲しみなど)を慎み、絶つことから始める。
 そうして仙薬を服用し、身の病を除き、外部からの難を防ぐ。腹式呼吸をし、その呼吸を季節の暑さ寒さに合わせて調節し、鼻孔をたたいて、唾をのみ、身をうるおす。また飢えをいやす仙薬や疲れをいやす仙薬をのみ、日中はすがたを隠し、夜半に活動する。また霊薬を調合し、それを服用し、日中に天に昇ることや、各種肉体の鍛錬・改造の方法も数えきれないぐらいたくさんある。

もしそのような道術が叶えられるならば
老いを若返らせ、寿命を延ばし
天高く飛び、上は天に近く、下であっても日を見る所にさまよう。
心を馬のように馳せて、世界の八方の隅々にまで飛び
心の車輪に油をさして、四方と四隅と中央の九空に遊ぶ。
太陽系を訪ねてその惑星を遊楽し、天帝の宮殿にくつろぎ
星空に織女を見、不死の薬を盗んで月に逃げた?娥(こうが)を探す。
多くの星座を訪ね、心にまかせて寝そべり、思いにしたがって上下する。
淡泊として欲なく、寂寞として声なし。
天地とともに長く存在し、日月とともに久しく楽しむ。
何とそれはすばらしいことか。
何と住む世界は広大であることよ。
天空の東には太陽の象徴である東王父(とうおうふ)
中央には水の象徴である天の川
その西には宇宙を織り出す西王母(さいおうぼ)。
とてつもなく大きな宇宙鳥の希有(きゆう)がその翼の広げると
左の翼は東王父を覆い、右の翼は西王母を覆う。
西王母は7月7日の七夕に、この希有鳥に乗って東王父に逢いに行く。

 このような天体の運行と一体となった壮大なビジョンの中で、人間は宇宙の道理を感知し、日々、自然とともに生きて行くというのが道家の教えなのだ」。
 隠士は言葉をつづける、「世俗の生活では、人びとは物欲にしばられて悩み、愛欲から離れられずに心を焦がす。そうして、たえず朝夕の食事のことと夏冬の衣服に苦労し、浮雲のようにはかない富を願い、水泡のようにすぐに消えてしまう財をかき集め、過分の幸福を求め、雷光のようにはかないわが身を養う。わずかな楽しみに朝方に有頂天になったかと思えば、夕方にはささいな心配事でも塗炭の苦しみをあじわっていると思い込む。これはもう、楽しい音楽を未だ聴き終わっていないのに、もう悲しみの音楽を聴いているようなものであり、今日は大臣なのに、明日は臣下に落ち、始めはねずみを狙う猫が、終わりには鷹に狙われた雀のようになるようなものである。
 それらは自然の中で、明け方の草露がやがて太陽の光で蒸発してしまうのを忘れ、樹木の枝に茂る葉がやがて霜に枯れて風に散ることを忘れ、いつまでもそのままでいられると思っていることと同じである。そんなことはありえないのに。
 ああ、痛ましいことよ。その愚かさは昼夜を問わず、わが身のことだけを考え、うるさい鳴き声を発しつづけているヨシキリ鳥と同じではないか。
 儒教の説く立身出世の方法と、道教の説く世俗を離れ、自然と一体となって生を楽しむ方法と、さて、人間の生き方としてはどちらが勝っているのだろうか」。
 隠士の話を聞き終えた亀毛先生と蛭牙公子と兎角公がひざまずく。
 三人がいう、「私たちはこの場で善き言葉をあなたから聞くことができました。巷の世俗にしみついた悪臭と、仙人の住む島にただよう良い香りの違いに今、気づきました。これからはわが精神を鍛練し、自然の道理とともに生きてみたいと思います」。

第三幕 青年修行僧の仮名乞児(若き日の空海)

場面1、乞児のプロフィール
 <素性>
 名のるほどの生まれではなく、草ぶきの貧家に生まれ、そこで育った。成長してからは俗世間を離れ、仏道を求め修行に励んでいる。
 <容姿>
 坊主頭は銅(あかがね)の甕(かめ)のよう。
 顔色は色あせた土鍋のよう。
 顔はやせていて風采は上がらず、鼻筋は曲がり、眼球は落ち込み、あごは尖り、目は角ばり、ゆがんだ口の周りには髭がなく小安貝に似ていて、おまけに唇は欠け、歯も抜けていて兎の口のよう。
 やせ細った胴体に骨ばった長い脚が突き出ていて、まるで池辺に立つ鷺(さぎ)のよう。
 ちぢまった首は筋張っていて、まるで泥池の亀のよう。
 <衣装・持ち道具>
 いつも左ひじにかけられている牛の餌袋のような袋の中には、五つに割れた破片を接ぎあわせた木鉢(もくはつ)が入っている。
 右の手には馬の尻がいように百八珠の数珠がかけられている。
 履物は牛革の履(くつ)ではなく、道祖神にかけてあるようなぼろ草履。
 帯は犀の角を加工した鉤がつくようなものではなく、荷馬をひく縄。
 街の乞食ですら見るのを恥ずかしがるような草で編んだ汚い座具をいつも持ち歩き、背中には縄張りの椅子まで背負っていたから、これ以上かっこうの悪さはないという有様。
 それに、口が欠け汚れのこびりついた素焼きの水瓶(すいびょう)を腰にさげ、その鳴る音によって僧が山野遊行の際、禽獣や毒蛇の害から身を守る効果があるというが、鐶(わ)のとれてしまった錫杖(しゃくじょう)を持ち、まるでそれは薪売りの杖にしか見えない。
 
 以上のような風体をした仮名乞児であるから、彼が街の市場をうろつきでもしようものなら、瓦の欠片や小石が雨のように降りそそぎ、船の渡し場を通れば馬糞が飛んできた。
 しかし、いつも持ち歩いている仏教論書が仮名乞児にとっての巷(ちまた)の親しい友であり、わが身に射す知恵の光こそが唯一の信心深い施主であったから、巷の人びとからのひどい仕打ちを気にする風はなかった。

 (山岳修行)あるときは大和金峰山の登山で雪に降られて立ち往生し、あるときは伊予の石槌山の登山で食糧がなくなり困窮した。
 (遊行)あるときは住吉の若い海女さんを見て、恋心をいだき、あるときは滸倍(こべ)の尼寺の年老いた尼さんを見て、人生のはかなさを知った。
 (秋から冬にかけて)霜を払って野菜を食べるときには、孔子の孫の子思(しし)がぼろぼろのどてらを着て、日々の食事にも事欠いたという貧乏生活のことを思い、雪を払って肘枕をして寝るときは、孔子が弟子の顔回(がんかい)の質素な生活を「疏食(そし)を食らい、水を飲み、肘を曲げて枕とするも、楽しみまたその内にあり」と称えたことを思い、自分も今、同じことをしているのだと気持ちを強くした。
 (山中での衣食住)青空が天幕となるから屋根はいらず、白雲が山にかかるから帷(とばり)も要らない。
 夏にはゆったりと胸元を開いて爽やかな涼風に向かい、冬には首を袖でおおってちぢこまり、木を擦って火を起こし、焚火で暖をとる。
 月に十日ばかりの食事は、どんぐり飯に苦菜(にがな)のおかず。着衣は紙衣(かみこ、厚紙に柿渋を引き、乾かしたものを揉みやわらげ、露にさらして渋の臭みを去ってつくった衣服)や葛(かつら)で織った粗末なもの、しかも寸足らず。
 『荘子』逍遥遊(しょうようゆう)篇に「鷦鷯(しょうりょう)深林に巣くうも一枝(いっし)に過ぎず」(ミソサザイは大きな林に巣をつくっても、一枝しか必要としない。*小欲知足の喩え)と書かれているように、人は自分の分に応じて現状に満足するのがよいという信念をもっていた乞児には、『晋書』に登場する贅沢でおごった性格の何曾(かそ)のように、うまい味わいや滋養の多い食べものでなければ食べないということはまったくなく、孔子の又弟子で魏の文侯の師であった田子方(でんしほう)が、貧乏な暮らしをしていた子思に暖かい皮衣(かわごろも)を与えようとして、思子が「私は次のように聞いております。理由もないのにむやみに人に物を与えるよりはそれを溝(どぶ)に捨てるほうがまだましであると。私は貧乏ではありますが、あなたが理由もなしに皮衣くださるならば、私は溝になってしまいます。それが私には堪えられないのです」と断ったように、貧乏な子思にはその境遇において、分を超えたものなどは必要なかったのだ。
 『列子』天瑞篇によると、その昔、泰山のほとりに栄啓期(えいけいき)という老人が住んでいて、その老人は鹿の皮を着て、縄の帯をしめ、琴をひいて広野の中でいつも楽しく歌っていた。その上機嫌の老人の姿を見て、旅人の孔子が「先生は何がそんなに楽しいのかね」と問いかけた。
 老人は「わしの楽しみはまず、万物の中でもっと貴い人間に生まれてきたこと。次にその人間の中でも貴いとされている男子に生まれてきたこと。次に長生きができていること。この三楽である。それができているだけで貧乏であることは気にならないし、人生に必ず訪れる死も気にならない。何をくよくよと思い悩むことがあるだろうか」と孔子に答えたという。
 また、漢の高祖の時代に、乱れた世間を嫌って商山に隠れ住んだ四人の隠士、東園公(とうえんこう)・綺里季(きりき)・夏黄公(かきこう)・?里(ろくり)がいて「四皓(しこう)の老」(四人の白髪の老人)と呼ばれたが、彼等の質素で無欲な生活でさえも乞児の質素さには敵わないほどだ。
 その風体は物笑いの対象となるような乞児であったが、道を求める心においては、しっかりと定まっていて動くことはなかったのだ。

場面2、乞児の独白
 ある人が私(乞児)にいった。
 「儒教によれば、すぐれた行為とは孝行と忠義である。ということは、父母から授かった身体は傷つけるな、主君は守れ、そうして功名を立て、出世し、財産を築き、両親と家庭を大切にせよということになる。そうであるのに、お前はそれらのすべてを無視して、乞食のような真似をしている。それは恥ずべき行為である。だから早く改心して、忠孝につとめなさい」と。
 私は憮然としてその人に問うた、「何を忠孝というのですか」と。
 相手が答えた、「家では笑顔を絶やさず、率先して親に仕えること、外出と帰宅の際には必ず親に挨拶すること、両親の部屋の夏冬の温度を調節すること、晩には床(とこ)を敷き、朝には起床の挨拶をして親の様子を見ること、このようなことが孝である。
 虞舜(ぐしゅん、中国神話に登場する五帝の一人。母を早くになくし、継母とその連れ子と父親と暮らすが、父親は連れ子に後を継がせようとして舜には冷たかった。しかし、舜はそんな父親に対しても孝を尽くし、その孝行振りが堯の元にも伝わり、後に堯は舜に帝位を禅譲した)や、周文王(しゅうぶんおう、王季の世継ぎとして生まれた文王は、一日に三回父親の安否を尋ねた。朝は鶏が時を告げる時刻には服を着て父王の寝室の前に来て、侍従に「本日の安否はいかがですか」と聞き、「安寧でございます」と告げられとたいそうに喜び、また昼、夜にも同じように聞き、「すぐれません」と告げられると、たいそうに心配したという)はその孝行によって帝位に登り、董永(とうえい、幼くして母親を失った董永は、残された父親を世話する孝行息子であった。だがその父親も死亡し、葬儀代がなかったため自分の身を売り、費用を稼ごうとしたが、事情を察した親切な主人はその金を貸してくれた。そうして、喪が明けて主人の所に働きに出かける途中に董永は一人の女性に出会い、夫婦になる。妻は沢山の絹を織り、夫の借金はたちまちにして返済された。その女性は董永の孝養ぶりに感じた天帝の命によって、下界に降りた織女であったという)や、伯?(はくかい)又は蔡?(さいよう、母親が病を患って三年間、寒暑をものとせずに看病し、母親が死去するとその塚のそばに移り住んだ。すると、住まいの周りは兎の群れが居つく緑の野と樹木が青々と茂る森となった。それを見て、人びとは不思議に思い、その孝心を称えたという)はその孝行によって今に伝えられる。
 その孝行の気持ちを仕官した主君に向ければ、主君に身命をささげ、主君に非あるときはあえて諌めるという行為になる。
 天文を知り、地理を観察し、古(いにしえ)に学び、その知恵を今に活かし、遠方の紛争を治めて、近くの民の平穏を得る。そのような天下の政治を行なうという広い視野をもって、天子の非を正し、助ける。そうすると、繁栄は子孫にまで及び、名誉は後代に伝わる。これが忠義である。
 伊尹(いいん、商の君主・子履(しり)に嫁ぐ花嫁の付き人として君主に仕え、その政治的才能が認められて、国政に参与する。夏を滅ぼし、商王朝が成立し、子履は湯王と名のり、湯王の死後、その子の外丙と仲壬の二人の王と、その後の湯王の孫の太甲を伊尹は補佐するが、太甲の放蕩を見かねてこれを諌め、追放し、自らが摂政をし、三年後、太甲が悔い改めたのを確認すると、再び彼を王に迎え自らは臣下の列に復したという)・周公旦(しゅうこうたん、文王の第四子で、初代武王の同母弟である。次兄・武王の補佐をつとめ、兄が病に倒れたとき、旦は自らを身代わりとすることで、その病が治るように願った。いっとき、兄は回復したが再び悪化して、兄武王は崩御する。武王の子・成王は未だ幼少であったため旦は摂政となるが、その間に旦の兄弟による政権争いが起こり、旦はこれを治めた後に成人した成王に政権を返して臣下の地位に戻ったという)・箕子(きし、当初、殷の最北端にある箕の国を治め、その功績が認められて殷王朝の紂王(ちゅうおう)に仕えた。あるとき箕子は王が象牙の箸をつくったと聞き、「象牙の箸を使うなら、陶器の器では満足できず、玉石の器を用いることになるだろう。そうなれば、玉石の器に盛るには今までの料理では満足できずに山海の珍味を欲しがることになるだろう。そうして贅沢に歯止めがなくなるにちがいありません」と王を諌めたという)・比干(ひかん、紂王の叔父。甥の紂王が暴君であったため、たびたび、王を諌めることになったが王は聞く耳を持たなかった。そのうちに敵対する周の勢力が増し、殷の他の者たちは逃げ出していなくなった後も「臣下たる者は命をかけて王に諫言(かんげん)しなければならない」として紂王を諌めつづけたが、結果、王に殺された。その後、紂王は周の武王に討たれ、殷は滅亡した。武王は比干の墓に厚く土盛りをして、その忠烈を称えたという)などは、その代表例である」と。
 それを聞いて私は私なり考えを話すことにした。
 「親孝行をし、主君の非を正すのが忠であり孝であること、その趣旨は理解できました。私は愚かな人間ですが、それでも人間としての情をもっているつもりです。ですから、私を育てた父母の苦労は中国の五大山(泰山・崋山・衡山・恒山・嵩山)のように高く、その恩は中国の四大河(揚子江・黄河・淮水・済水)よりも深いことを決して忘れることはありません。その恩は真剣にとらえればとらえるほど、報いることも返すこともできないほどに大きな存在なのです。
 『詩経』に「南?(なんがい)」の詩(この詩は歴史のなかで一旦は散逸してしまったため、晋の束晳(そくせき)が逸詩を補った「補亡詩」に収録されている)があります。孝子(こうし、孝行息子のこと)が母に仕えることを述べ、「爾(なんじ)の夕膳を馨(かぐわ)しくし、爾の晨餐(しんさん)を潔(いさぎよ)くす」(息子が母のために精いっぱい、夕餉の膳をかぐわしく、清潔にととのえるのです)と歌う。出家した私(乞児)はそれができないことを母に詫びよう。また『詩経』に「蓼莪(りくが)」の詩がある。孝子が親を慕い、「蓼蓼(りくりく)たる莪(が)、莪にあらずこれ蒿(こう)。哀哀たる父母、我を生みて劬勞(くろう)す」(伸びて行くのは美しい花の咲く朝鮮菊だと思っていたが、育ってみるとカワラヨモギという草であった。自分の父母も私が立派になるようにと苦労して育ててくれたのに、育った自分はつまらない人間でしかない。それでは父母の恩に報いることができない)と歌う。はたから見れば修行僧の私がそうである。
 森の寒烏は親鳥に口移しで食べ物を食べさせるというし、獺(カワウソ)は自分のとった魚を並べ、人間が物を供えて先祖を祭ることと同じことをするという。それができない私は昼夜にわたって、悩み苦しむしかないのです。
 『荘子(そうじ)』外物篇に、車の轍(わだち)の水たまりで喘いでいる鮒(フナ)の話がある。鮒が通りかかった荘周(そうしゅう)に呼びかける、「水がなくて困っているから、何とかならないでしょいか」。荘周が答える、「承知した。西の長江から運河を掘って水を引き込んであげましょう」。鮒は怒っていう、「わたしは今、身のおきどころがないのだ。わずかな水で元気になれるのにそんなのんきなことでは、乾物屋の店先で干乾しになったわたしをさがした方がましでしょう」と。
 また『史記』に呉(ご)の季札(きさつ)の話がある。季札は呉の使者として北方に向かう途中に徐の国を通過した。その国の王、徐君(じょくん)は季札が帯びた剣を見て大変気に入った。季札はそれを察したが、使者としての旅の途中であり、任務を終えてからその帰路に差し上げる事にした。使者の務めを無事に終えた季札は再び徐の国を通過した。だが、徐君はすでに亡くなっていた。季札は自分の宝剣を解いて、徐君の墓のそばの木立に掛けた。季札は自分の心に決めていた約束を守ったのだが、旅の往路で剣を差し上げておけばよかったのかと悔いが残る。
 そのように、物事には時機がある。年老いた両親にはもう先がない。私が頑なで愚かだから、養育していただいた恩を返す時間がない。月日が矢のように過ぎ去り、親の寿命を奪う。一家の財産は乏しく、家屋は傾きかけている。両親が頼みとしていた二人の兄もつぎつぎと亡くなり、涙が止まらない。先祖から子孫へと九代も継がれてきた一族の数も減り、その愁い、嘆き、悲しみの日々は痛いほどなのです。
 ああ、悲しい。仕官しようとしても私を雇ってくれる人はなく、家には私の禄(ろく)を待ち望む親がいる。進退ここにきわまり、どうしようもない」。
 ここまで話すと、乞児は自分の気持ちを詩にして歌う。

田畑を耕そうとしても、私にはその体力はないし
?戚(ねいせき)が仕官を求めるために
牛の角を叩いて、斉の桓公(かんこう)に「商歌」を歌って聞かせたように*
*故事「?戚扣角(ねいせきこうかく)」
?戚は、斉の桓公に仕官したかったが、貧しかったため伝手(つて)を求めることもできず、行商して斉国に出掛け、日暮れに城門の外に野宿していた。その日、桓公は郊外に客人を出迎え、城に戻ってきた。?戚は、牛の世話をしながら荷車の脇にいたが、桓公がやってくるのを見つけると、自分を売り込むために、牛の角を叩きながら行商の物売りの声で悲しげに歌った。「南山?たり、白石爛たり、生まれて堯と舜の禅りに遭わず、短布単衣適に骭に至る、昏より牛に飯して夜半に薄る、長夜曼曼として何れの時にか旦けん」と。これを聞いた桓公は、その異才を認め、?戚を宮廷に召してともに語り、彼をよろこんで大夫(だいぶ)にした。
そのような才能は私にはない
知識もなしに官に仕えれば、無能のそしりを受け
ごまかして禄を受ければ、無能で俸禄を受けることになる
そのように才能なく、ごまかして禄を受ければ、それは正しいことではありません
『詩経』の雅頌(がしょう)に歌われる美風は、周の時代にあって、今はなく
あの孔子ですら、諸国を巡って遊説した
愚鈍な私が進んで仕官するのか、しないのか
進もうとしても才は無く、仕官をしなければ親を泣かす
(乞児はここに)進退きわまって嘆くしかない

 上記、歌の文句を書き終えた乞児は、しばらく考えた後に次のようなメモを記した。
 「私は聞く、『礼記(らいき)』に、小さい孝行は力を用いてするが、大孝はひろく人々に慈愛をもって施すと。周の泰伯(たいはく)は末の弟である季歴(きれき)に天下を譲るために、自らは南方に隠れ、髪を切り、体に刺青をして本物の南人になったというし、インドの釈尊は裸になって飢えた虎の親子にその肉体を与えたという。それらは父母からすれば卒倒してしまいそうな行為であり、親戚にとっての痛恨事である。両親からもらった肉体を傷つけ、破滅させ、一族にダメージを与えることにかけてはこの二人以上の者はいません。あなたの言にしたがえば、この二人は最大の不孝者です。だのに、泰伯は孔子から至徳の人と呼ばれ、釈尊はブッダ(目覚めたもの)となって人びとに仰がれる存在となったのです。
 このことからすれば、目の前の小事にこだわらずに大道を進めということになる。目連尊者(もくれんそんじゃ)が子をあまりにも愛したが故に餓鬼道に落ちた母親を前世に戻って救うという話や、町一番の長者の一人息子那舎(なしゃ)は、父母の愛によって与えられた豪奢な春・夏・冬用の部屋と贅沢のかぎりをつくした食事と衣服、それに多くの美しい侍女と音楽等に囲まれて青春の快楽の日々を過ごしていたが、あるとき、その空しさに気づき真夜中に家を出て市街をさまよい歩き、その後、城外に出て北へと走りつづけ、やがて、金河(こんが)の畔(ほとり)にたどりついたときには、東の空が白みかけていた。河の流れに臨んで、那舎は泣き叫んだ。すると対岸から、それに応じる声が聞こえてきた。五比丘を連れた釈尊であった。釈尊によって一人の青年が救われた。そうして那舎は釈尊の六人目の弟子になった。その那舎を介して両親までもが世間の栄華欲楽の夢から覚め、在家の最初の仏教信者(優婆塞・優婆夷)になったという話は、それこそが大孝である。
 私は愚鈍ではありますが、正しい教訓をくみとり、先人の遺風を尊重していますし、国のこと、両親のこと、生きとし生けるものすべてのためにその安泰を祈っています。また、日々において、他に分け与え、してはいけないことせず、耐え、精進し、心を集中・安定させ、自分と他のいのちの存在に目覚めることを目標としていますが、これらのすべてが忠孝の基本であるといえます。しかし、あなたの説く忠孝は作法が中心ではありませんか。
 漢代の丞相であった于定国(うていこく)の父の于公(うこう)は、裁判が公平であったことから民衆の信頼が高かった。于公は自分の一族が住んでいる里の門を再建するとき、「門は立派な車が通れるように大きくしてほしい。私は裁判官として公平に裁判を処理して、ひそかに善行を積んでいるから、その善行によって子孫は立派な車に乗れるくらい出世するだろう」と言って、事実、その通りになったとあるし、同じく漢の河南太守の厳延年(げんえんねん)が厳しい刑罰と、不公平な裁きによって思うままに社会を治め、その罪人の処刑にあたっては家畜などの獣類を殺すごときであったので、人びとは彼を「屠伯」と名付けた。厳延年の母は「仁愛によって民を強化せず、重刑によって多くの人を殺すようでは、いずれ自分の身を滅ぼすことになります」と息子を諌めたが、その行ないが改められることはなかった。母は「私は年老いた。我が子が殺されるところを見たくない。故郷に帰って、お墓を掃除し、お前がお前の罪によって処刑されここに来るのを待つことにしよう」といって帰って行った。果たして、厳延年はまもなく政治を誹謗し、朝廷に対する怨望(えんぼう)の言動が発覚して死刑になったという。
 そのように人生はさまざまに展開し、そのときどきの局面を見ただけでは、物事の善し悪しを判断することはできないのです。
 だから、私のこのメモも当面のものであり、十分に事情を汲んだものではありませんから、後にもっと明らかなことを述べたいと思います」。

場面3、乞児、兎角公邸の門に立つ
 以上のような自分なりの忠孝の考え方にしたがって、私は親兄弟に関わりあいをもたず、親戚にも近づかず、浮き草のように国中を遊行し、ヨモギ草のように各地の修行場を巡っていました。
 そんなある夜のこと、銀河の星影がまばらになる明け方に、五臓六腑が深閑とするような空腹を感じ、気づくと、住みかにしていた岩屋に食糧がなくなり、身体中のすべてが飢えにおそわれました。よく見ると、米の蒸し器の内側は塵だらけ、かまどの中には苔が生えている。もう何日も飯(めし)を喰っていなかったのだ。
 そこで思った、「人間は食物によって生きるものであると仏典に書かれているし、仏教以外の書物にも飢えていては学問ができない、何をさておいて食することが先で、学ぶことは末であると述べられている。そうだ、腹をすかしている身体中の虫を背負って、食糧のある豊かな里に、早く行かなければならない」と。
 そこで住みかのあった松林を抜け出て、大きな都に向かいました。都に入ると、小欲知足の心をもって木鉢を捧げ、直ちに托鉢を始めました。
 お供の小僧もなく、ただ一人で経典を持ち、偶然にも兎角公邸の門に立ち、食物を乞おうとしていて、亀毛先生と虚亡隠士の論争を耳にしてしまったのです。
 二人の言い分を聞いていて、この人たちは一体、何を考えているのだろうと思ったのです。その理由とは、「(永遠の輪廻の中で)雷光(いなびかり)のように一瞬の輝きとともに消え去る身体をもつ生命は、四種の生まれ方、胎生・卵生・湿生・化生によって、それぞれに、ほ乳類・鳥類と爬虫類・水棲類・昆虫類の四種のすがたかたちをもち、そこに宿り、その意識(神経細胞と脳)は、六つの認識器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六つの認識対象(色とかたちと動き・音と声・匂い・味・質感・法則)と六つの認識作用(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識)から成る十八の世界に暮らしている。そうして、五つの認識過程(認識対象である万物<色>を感受<受>し、感受した事物をイメージ<想>にし、そのイメージによって快・不快を判断<行>し、それを記憶する<識>)を経て形成した、まぼろしの城郭を築き、おまけにその城郭は固体<地>・液体<水>・エネルギー<火>・気体<風>の四つの要素がたまたま合成したものに過ぎないのに、そんなにはかない存在の上で論陣を張り、両者は議論しているのだ。
 討議に挑んだ二人の格好を見れば、蜘蛛の網(あみ)の甲(かぶと)を頭にかぶり、蚊のまつげに巣くう小虫の騎馬にまたがり、鎧(よろい)をつけ、陣容を見れば、虱(しらみ)の皮張りの太鼓を打ち鳴らし、敵陣をおどし、蚊の羽の軍旗を打ち立てている。
 そうして、自己中心の見地で武装して、浅はかな知識の剣(つるぎ)をふりまわし、今にも崩れてしまいそうな攻めの構えをとり、ありもしない戦場へとくり出し、私利私欲の論理によって、井戸端会議的な弁論で争っているに過ぎない」からだ。
 そのような訳で、托鉢でたまたま寄った兎角公邸で、二人の議論が耳に入り、その内容が気になってしまって、その門柱のかたわらで目をしばたたいて、立ち聞きすることになったのです。
 お互いに自分が正しく、相手が間違っていると主張する二人を見ていると、「大海に対して水滴のようなわずかな弁舌と、太陽や月の光に対してかがり火のようなわずかな論理で、お互いが議論しているのだから、ブッダの弟子である私としては、彼らの主張が自分の力量もわきまえず、敵に向かおうとする蟷螂(とうろう、カマキリのこと)の斧(おの)のごときものと判断し、そのちっぽけな思想を、仏法の真理の鉞(まさかり)で打ち負かすことは可能である」と思ったのです。
 そこで「智慧の刀を砥ぎ、弁舌の泉を涌き出させ、忍耐の鎧をつけ、仏教の慈悲の騎馬にまたがり、早すぎず、遅すぎず、粛々と亀毛の陣に入り、驚かず、恐れることなく、隠士の軍勢には対峙し、わが城を出で敵に対すればその場を立ち去らず、敵陣に入れば思うままにあばれる」というような直接的な論戦ではなく、まずは戦わずして両者の主張をやりこめる文書作戦に打って出たのです。
 中国後漢末期の文官、孔璋(こうしょう。陳琳のこと)は袁紹(えんしょう)の幕僚として、敵側の曹操(そうそう)打倒の檄文を書いたが、その文章はそれを読んだ曹操が誉めるほど巧みなものであったというし、魯仲連(ろちゅうれん)は書面をしたため、それを矢に結んで燕(えん)の将軍のたてこもる城中に射込み、その文章を読んだ将軍に城を退去する決断を迫り、結果、将軍の自害をも促がすことになったというし、鄒陽(すうよう)は獄中からの上申書によって身の潔白を王に弁明し、罪を免じられたという。そのような文章をもってすれば、相手を屈服させることは可能なのだ。
 そのような、乞児の作成した文章により、刃(やいば)に血ぬることなく、それを読んだ相手(亀毛と虚亡)は乞児の前に自ら降伏した。
 しかし、相手の本心までは分からないので、乞児は自らが真摯な態度と慈悲の気持ちをもって、二人を諭すためにいいました。
 「盃(さかずき)の少量の水に泳ぐ魚は、北海を泳ぐ大きさ千里の鯤(こん)という名の巨大な魚を見ることができませんし、いつも垣根の高さを飛ぶ鳥は、一気に九万里の高さに舞い上がる鵬(ほう)という名の巨大な鳥を見ることありません。そのように人間も、海に住む者にとっての大きさの基準は魚であり、山に住む者にとっての大きさの基準は樹木ですから、それぞれに住んでいるところにないものを基準にして説明しても、互いに分かり合うことはできないのです。また、中国古伝説上の人物、離朱(りしゅ)のように視力にすぐれてなければ遠くから毛の先までは見えないし、春秋時代の晋の平公に仕えた楽人、子野(しや)のように音の清濁を聞き分ける聴力がなければ鐘の音の微妙な調子を判断することはできません。
 ああ、広い視野で物事を見ると見ないのと、広い見地をもたない愚かなものと見地をもつ愚かでないものとでは、そこに大きな隔たりがあるのです。あなた方の議論は、たとえば氷に字を彫り、水に絵を画いているようなもので、労あって益なし。ほんとうにくだらないことです。亀毛さんの足と隠士さんの足の長さを、鴨の足と鶴の足にたとえて、長短を評価してみたところでそこには何の意味もありません。それと同じことで、儒教の教えの短所と、道教の教えの長所を比較してみても意味はないのです。なぜならそれぞれの教えにはそれぞれの道理があるのですから。
 であれば、仏教の説く道理についてもあなた方に知っていただく必要があるでしょう。
 これから私が仏法の大要をお話ししますが、話を聞くにあたっては、次のような心の準備をしていただければと思います。
 秦の始皇帝は人の心の真実を映し出す鏡をもっていたというが、その鏡に映る心をあなた方も見なければなりません。
 また葉公(しょうこう)という人は、常日頃、絵画や置物の龍を身近に置いてそれらを愛好していましたが、あるとき、ほんものの龍が現れたら恐れおののき気絶したという。それは、それらしきものに慣れてしまっていて、物事の真実に触れていなかったせいなのです。
 また暗やみで象を撫でた者が自分の触れた部分をもってそれが象のすがたであるとしたことわざもあります。
 そのような各自の迷いをまず覚まして、ともに教えを学んでいただきたいのです。
 儒童(じゅどう。釈尊の前世)と迦葉(かしょう、釈迦十大弟子の一人。衣食住に対する貪欲をはらいのける修行第一といわれる)はともに私にとっての友でもあります。この二人の思想が中国へと伝わって、孔子の思想(儒教)と老子の思想(道教)になったという説もあるぐらいですから、それらの思想を含めて、釈尊は過去・現在・未来にわたる広大な思想を説かれているのです。しかし、あなた方はその一部の思想だけで優劣を争っているのです。それは明らかに誤りです」と。
 虚亡隠士がいう、「つくづくあなたを見ると、世間の人とは違っている。頭は剃られて毛がないし、身体には多くの荷物をもっている。あなたはどの州のどの県のお方で、それに親は誰で、先生は誰なのですか」と。
 そうきたかと、大いなる笑みをもって私(乞児)はいう、「生きとし生けるものは、三界(生存界・物質界・精神界)に家なく、戦禍と災害<この世の地獄>・飢餓<餓鬼>・生存競争<畜生>・悪徳<修羅>・法による社会<人間>・神による絶対世界<天>の六つの道に生まれ落ち、転々とし、あるときは天界の極楽に住み、あるときは戦禍と災害の地獄の地域に住む。そうしてあなたはあなたの家系の中で、あるときは配偶者やその子供、あるいは親であったであろう。また、あるときは悪魔のようなものを師とし、あるときは異端のものを友とし、餓鬼や禽獣でさえもがあなたや私の親であったり、配偶者であったりしたであろう。なぜかというと、原初の始まりから今に至るまで生命に切れ目なく、今より原初の生命に遡(さかのぼ)れば、その間に様々な雌雄の組み合わせと、様々な変化(進化と変異)があって際限なく生まれ変わってきたからです。それは円環のようにぐるぐると、ほ乳類・鳥類と爬虫類・水棲類・昆虫類へと生まれ変わり、そうして、時間と空間から成る六つの道を車輪のようにごうごうとまわっているのです。
 あなたの髪の毛は真っ白で、私の鬢(びん)の毛は生えてくれば真っ黒であるが、あなたが兄で私が弟であると断定することはできません。なぜなら、あなたも私も原初よりのそれぞれの生命がかわるがわる生まれ変わり、今に引き継がれて来た存在ですから、固定した存在ではありません。ですから、どの州のどの県とか、親族とかを固定することはできないのです。だが、あえて現在のことをいえば、私はしばらく南閻浮提(なんえんぶだい、この世界)の中の日出づる国日本の天皇の治下にある玉藻(たまも)よる讃岐の島、楠木が太陽をさえぎる多度の郡(こおり)、屏風が浦に住んでいます。まだ思うところに就くことできないうちに、早や、二十四年の歳月が過ぎてしまいました」と。
 隠士、おどろいていう、「初めて聞く用語もあり、それらの質疑回答をも含めて仏教の教えについてもう少し分かりやすくお話し下さい。それにあなたはなぜ、多くの物をもち歩いているのですか」。

場面4、釈尊の話
 私はいう、「では、仏教の開祖、釈尊のことからお話ししましょう。私の師である釈尊は人びとを救おうという古(いにしえ)からの誓願を引き継ぎ、インドの地に生まれ、八十年の生涯を終えた方です。その限りない慈悲をもって、菩提樹の下でさとりを開き、人びとを教化する行動を宣言された際には、縁あるものは竜神を含めすべてのものがその甘露の法雨に浴し、枯れ枝に花が咲き、花が実を結ぶように人びとが救済されるときが来ることを予言されました。しかし縁のなかったものは、身分の上下に関係なく、不浄の生活に慣れ親しんでいましたから、仏法の清らかな教えに見向くことはありませんでした。
 そういうわけで、すべての人びとの救済を誓願されていた釈尊は、この世を去られる日に弟子たちを集め、最後の説法をされ、後の世までも仏法が正しく引き継がれて行くようにと頼まれたのです。その後、釈尊の生涯における説法は弟子たちによって経としてまとめられ、やがてそれらは経文となって諸国に伝えられ、その経文中で、釈尊は涅槃されたが、後世において弥勒が誓願の実行者となり、世界が救済されると告げられることになったのです。
 そこで私はこの告文(経文)の趣旨をうけたまわって、馬に秣(まぐさ)をやり、馬車に油をさして、旅支度をととのえて仏の道に入り、昼夜をかまわず弥勒の浄土、兜率天(とそつてん)に向かっている途中です。しかし、仏道修行は困難をきわめ、生存領域をはるかに越えるものであり、おまけに仏道はいくつにも分かれて広がっているから、どの道を進んでいいのかがよくわからない。一緒に進んでいた仲間も世俗に溺れ、脱け出せなくなった者や、すでにずっと先を行く者もあります。このような状況なので、ただ一人で出家者の道具のすべてを担って旅をしているのです。今は食糧がなくなり、托鉢をしておりましたが、路に迷ってしまって、ありがたくもこの門のかたわらに立つことになったのです」。

場面5、乞児「無常の詩」を唱える
 ここで乞児はいのちのはかなさを綴った「無常の詩」をつくり、欠けた錫杖をジャラジャラと鳴らし、気持ちがひとつにとけあうようなおだやかな声で、亀毛先生たちに唱えて聞かせる。

つらつら考えると、高くそびえて天の川までとどく須弥山も
世界の終末には劫火(ごうか)に焼かれて灰になり
ひろびろとした大海原の水は深くて広く、水平線の果ては天空に接しているが
世界の終末には七つの太陽の灼熱によって蒸発し、涸れてしまう。
広大な大地も世界を破滅さす大洪水が起きると、漂い動き、砕け裂け
弓なりに弧をえがいている天空も燃え尽きると、砕けて折れる。
そのような終末が来れば、三界の最高処に住むという非想天の天女の八万劫の寿命も
雷光(いなびかり)よりも短いものとなり
神仙の数千年の長い命も、落雷の一瞬に過ぎない。
ましてや人間の肉体は金剛石のように堅固ではなく、瓦礫(がれき)のようにもろく
認識の五つの過程によって心に映る世界は、水面に映る月と同じ
固体・液体・エネルギー・気体がつくり出す万物は、かげろうのように過ぎ去る。
生存欲をもって生まれ<無明>、活動し<行>
意識によって<識>、対象を識別し<名色>
それらに五感と思考がはたらき<六処>、意味をとらえ<触>
快・不快が生まれ<受>、その快・不快が愛憎を生み<愛>
愛憎が執着となり<取>、その執着によって生存がある<有>
生存があるから生が生じ<生>、その生があるから老いて死ぬ<老死>
という十二因(原因)縁(条件)は心を狂奔させ
八つの人生苦(生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)が常に心を悩ます。
むさぼり・いかり・おろかさの焔(ほのお)は昼夜、心を煩(わずら)わし
それらの鬱蒼(うっそう)と茂る百八つの藪は、夏冬かまわずに繁るという有様。
そうして、風に吹かれる埃(ちり)のようにもろい身体は、咲き終わる朝(あした)になれば、春の花のように舞い散り
美しい女人のすがたは無常の小波(さざなみ)に先立って黄泉(よみ)に沈む
その細く美しかった眉も霞(かすみ)となって雲上に去り
貝のような白い歯も草の露のように消えてなくなり
花のように美しかった眼(まなこ)は、今は緑の苔の浮く沢となり
真珠の飾りをつけていた美しい耳も、今は谷を吹く松風の空しい音を聞くばかり。

また、一生を駆け抜けた万葉の天子の命は、肉体が尽きる夕(ゆうべ)には、秋の葉とともに乱れ散り
その高貴なすがたは焼かれ、わずかな煙となって大空に昇り
さらさらとそよぐ松風が襟元に吹いても、その風の音を聞いて喜ぶ人の耳はもうこの世にはない。
今夜も月の光が皓々(こうこう)と美しく額(ひたい)を照らしているが、それを見て微笑んでくれた人の心はどこに行ってしまったのか。
こうして知るのです。
しなやかな薄絹(うすぎぬ)を纏(まと)うことがあっても、地面に眠れば、繁るつたかずらが変わることのない飾りであることを。
赤土や白壁の邸宅が仮の住みかであり、松やひさぎの木の生える地面こそが、人間の宿(しゅく)する住みかであることを。
仲むつまじい夫婦も、互いを思いやる兄弟も、親しい友達も、地面の下に眠れば会うことはできず、共に談笑することもなく
亡き骸はただひとり、高くそびえる松の木陰に埋もれて朽ちて行き、鳥のさえずる声だけが聞こえる雑草の中に、空しく沈む。

華やかに装い、麗しくしなやかであった美しい人も
野辺の火に焼かれてしまえば今は空しく
庭園に遊んで、春の日の愁いを心の隅に仕舞っておくことも、池辺に戯れて、秋の日の晴れやかな宴を催すことももうできない。
ああ、何と哀しいことか。
西晋時代の文人、潘岳(はんがく)が亡き妻を悼んで詠んだ詩に
 時は移り冬と春が過ぎ
 寒かった日はたちまち暑い季節へと変わった
 愛しい妻は冥土へと旅立ち
 幾重の土が今は二人を隔てる
 もう妻がいない人生に
 役所勤めの何が役立つのかという気持ちが高じる
 だが、その気持ちを振り切り
 朝命に従い、もとの勤めに戻ることにした
 (そうやって決意してから、)
 家を見まわしては妻を思い
 部屋に入っては二人のありし日の事を偲ぶ
 室内の帷(とばり)や衝立にもう、妻の影はなく
 筆と墨の周りには妻の筆跡がかすかに残る
 妻の好んだ香(こう)の焚きこめられた着物からは、その香気が今も漂い
 壁には彼女の好きだった装飾品が掛けられたままである
 それらを見れば妻がそこにいるようで・・・
とあるが、それを口ずさんでは、涙が溢れ
婦人は宵にひとりで家を出てはならないという”節操”を守り、そのために焼死した魯の公女、伯姫(はくき)の哀悼歌を歌えば
その高潔さに胸がはり裂ける。
無常という嵐は、神や仙人でさえもがそこからまぬがれることはできないし
人の精気を奪う死神は、身分を選ばずに誰にでも襲いかかる。
そうなれば、財があっても、そこから逃れるための買収はできないし、また権力があっても、なんの役にも立たない。
寿命を延ばす神丹(しんたん)をいくらのんでみても
人を生き返らす香をすべて焚いたとしても
片時も命は留められず
もう誰も冥土への旅立ちを免れることはできない。

場面6、生の報い
 (では、冥土への旅立ちとはどのようなものなのか、そのことについて述べましょう。)

かたちある死骸は草の中で朽ちてしまうが
心は残り、生前の行為はあの世で裁かれる。
生前に犯した罪があれば、あの世で地獄に落ち、残忍な責め苦を容赦なく受け、決して許されるということはない。
そこからは永遠に脱け出すことができないと初めて知って
千回も悔い、千回も心配する。
そうして泣き叫ぶしかない。
ああ、痛ましい、ああ、痛ましい。
自分が生前に努力しないで、このような責め苦を地獄で受けることになっても
そうなってしまったら、一万回も泣き、一万回も心を痛めても、誰も助けることができません。
だから、この世で生きている間に、悪業をしてはいけないし、善行を積まなければならないのです。

 ここに至って亀毛先生たちは、強烈な臭気と苦味に襲われたような気分になり、泣き叫んでは何度も気を失ってしまった。
 しばらくして正気を取り戻した二人は、額(ぬか)づいて丁寧に礼拝していう、「私たちは長い間、瓦礫のような教えをもてあそび、小さな楽しみに夢中になっていました。それは、目隠しをして険しい道を歩き、足の不自由なのろまな馬を走らせて夜道を行くようなものでした。それではどこへ行きつくかも、どこで落ちるかも知れたものではありません。いま、あなたの慈悲深い教えをうかがって、自分たちの道の浅はかさに気づきました。これからは今までの間違いを反省し、その上で正しい行動をしたいと思います。ですから、あなたの指南によって、ぜひ、仏教を学ばせて下さい」。
 そこで、乞児が答えていう、「そうですか、承知しました。あなたたちはよく戻って来られました。これから、生と死による苦しみの根源を述べ、そこから脱け出るさとりの境地がどのようなものなのかをお教えしましょう。そのことは儒教の周公旦や孔子もまだ述べていないし、道教の老子や荘子もまだ教えていないのです。その境地の実際は教えを聞くだけでは到達できず、独りで修行することによっても到達できないものなのです。それはこの世での修行の後にもう一回生まれ変わることによってようやく到達するか、厳しい修行の最高の段階まで行かないと到達し得ないものなのです。ですから、よくお聞き下さい。それでは要点を挙げ、おおもとをつかんでいただき、仏教の教えの要旨をあなたたちにお示しましょう」と。

場面7、「生死(しょうじ)の海の詩」
 亀毛先生たちは席から下りていう、「はいはい、心を静め、耳を傾けて、聞くことに専念いたします」と。
 そこで心の蔵の鍵をひらき、湧き出る泉のごとくに弁舌をふるって「生死の海の詩」を述べ、そこから脱け出るための教え「さとりの境地」を説く。

生死の海とは生命の海であり
それは生存界・物質界・精神界の際(きわ)までひろがり
見渡せば限りなく、世界の四大陸をとりまいて、はるか遠くまでつづき、測ることもできない。
そこからは万物が産出されるし、また無数のものをそこに包括する。
海は大きな腹を常にすかして、多くの河川を呑みこみ、大きな口をあけて、もろもろの運河の水を吸い込む。
大波は洶洶(きょうきょう)と湧いて陸に押し寄せ止まず
荒波はドウドウと音を立てて岬にぶつかる。
それらの波濤は??(かいかい)と雷鳴のように日中とどろき
夜になっても一晩中車輪が戸外で??(りんりん)と鳴りひびいているようである。
ここには多くのものが堆積し、さまざまなものが集まる。
だから、ここでは理解しがたいものが育ち、どんな想像を絶するものでも豊かにある。

この生命の海に生きるものたち(魚類・鳥類・獣類)の生態、すなわち生存本能(個体維持と種族保存の欲求。呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動など)を観察してみるとー。

<鱗類(りんるい、魚類)について>
魚といえどもその生態をよく観察すると、そこにはむさぼり・いかり・おろかさの行動が見られ、それらは非常に欲深いもののように見える。
魚の中でも巨大なものは、長い頭部には端がなく、遠くの尾尻は際限がない。
そのとてつもなく大きな生きものが鰭(ひれ)をあげ、尾尻で水をたたき、口を大きくあけて食べ物をあさる。
また、その巨大な魚が波を吸い込むときには、貪欲さを離れて覚りへと向かおうとする船も、帆柱が砕け沈められてしまい、その吐く息は霧となって、慈悲で舵取りをしようとしている船の方向を見失わせ、難破させる。
泳いだりもぐったり、本能のおもむくままに生き、貪欲にあさり、貪欲に食べ、節度のない貪欲さがもたらす害などに目もくれず、鼠(ねずみ)のようにガリガリ食らって、蚕(かいこ)のようにカサカサとすべてを食べ尽くし、食べる対象となるものをかわいそうとも憐れであるとも思わない。
輪廻の苦しみも知らず、ただ今生(こんじょう)の生存のみをまっとうして満足しようとしている。

<羽族(うそく、鳥類)について>
鳴き声を観察すると、気に入られるようにさえずるもの、同調して相手をけなすもの、そしるもの、汚く鳴くもの、おしゃべりするもの、やかましく鳴くもの、おごりあなどるもの、失敗を悔いるもの、などがいる。
飛ぶところを観察すると、つばさを整えて道から外れたり、羽ばたいて上空高く上り、安楽なところに身を置いたりする。
行動を観察すると、無常のものを常住とし、苦であるものを楽とし、無我であるものを我とし、不浄なものを清浄とする渡り鳥の群れが、入江の浅瀬でギャアギャアと騒ぎ立て、そうして、生存するために、殺生・盗み・淫行・だまし・飾り声・ののしり・二枚舌・貪欲・怒り・ひねくれの十の本能をむき出しにする大小の野鳥が水辺で羽ばたき飛び、それぞれの個体維持と種族保存の欲求を充たしている。
「正直」の喩えとなる菱の実をついばみ、「廉潔」の喩えとなる豆を食い散らす。
鳶(とび)は、鳳(ほう、『荘子』逍遙遊篇に「北の果ての海に魚がいて、その名を鯤(こん)という。その鯤のかたちが変わって鳥になった。その名を鳳という。鳳の背中は何千里あるか見当もつかない」とある)や鸞(らん、鳳凰の一種とされる)の類いの鳥が通りすぎると、自分がせしめた鼠を盗られないかと恐れて、上を仰いでにらみつけ、「かっ」とおどし、地面の鼠や犬をとらえると下を向いてわめき鳴くという。
そのように、飛び、鳴き、目の前の利欲を追うことのみを生活の営みとし、生まれ、そして死に、先の苦しみなどは忘れているから、雁門(がんもん)山の斜面にかすみ網が張られていることや、昆明(こんめい)の池に仕掛けられた大網のことを知らず、更?(こうえい)や養由基(ようゆうき)という弓の名手たちの矢が、前から後ろから、ねらっていることを知らない。

<雑類(獣類)について>
怒り・たかぶり・ねたみ・ののしり・うぬぼれ・そしりの心を持ち、快楽にふけり・気ままでしまりなく・厚かましく・恥を知らず・まことがなく・無慈悲な行動をとり、邪(よこし)ま・淫(みだ)ら・憎しみ・愛着・寵愛・恥辱の情動にしたがって生活する生きもの。
殺し・闘う習性をもつものも多く、そのために殺し合い、闘い合う仲間や種族がいるが、それらは同じ種に見えてもそれぞれに習性は異なり、多種である。
鋸(のこぎり)のように獲物を切り離す爪と鑿(のみ)ように鋭い歯をもち、慈悲の心などなく、獲物を捕らえ、食らう。
眈眈(たんたん)として虎のごとくに相手をにらみ、山麓を伸し歩き、朝露のようにはかない一生を過ごす。
??(きき)として獅子のごとくに怒って吼え、谷に戯れて、夜の夢ようにはかない時を過ごす。
それらに出遭えば、気は奪われ、精も抜けて、脳はつぶされ、はらわたを引き出されかねないから、見るものの身は慄(おのの)き、怖気づいて目もくらみ、その前に伏す。

このようにいろいろな生物が、三界を埋めつくし、ひしめく。それらは櫛の歯のように並び、世界のいたるところを住みかとしている。
その生物と環境の多様な様子は、「風がなく波の穏やかな海では、魚介の類いはそれぞれに、生をまっとうしている」との書き出しで始まる『海賦(かいふ)』を執筆した木華(ぼくか、あざなは玄虚)のようなすぐれた文章家が千人集まっても説明できず、『荘子』のテキストを整理して33篇本を定めた郭象(かくしょう)のようなすぐれた学者をいくら多く集めても論じ尽くせない。
それらの多様な種のすべてが、それぞれに個体維持と種族保存の本能にしたがって生きているわけだから、その生存ための欲望がもたらす悪を抑えるために人間は、五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)の小舟を漕ぎ出し、さとりの彼岸を目指そうとしても、荒波に漂流し、風の吹くままに、悪業を行なうものたちのいるところへと押し流される。
十の悪業を行なわないことが十善戒であるが、そのような脆弱な車では、本能という名の強い破戒力によって、うねり狂う生死の海へとずるずると引きずり込まれてしまうのだ。

場面8、さとりの境地
 だから、生死の海から脱出しようとする心を夕べに起こし、最上の果報(さとり)を朝(あした)に仰ぐのでなければ、森森(びょうびょう)と広いこの迷いの海底から抜け出て、蕩蕩(とうとう)として大きな生命のありのままのすがたに到達することがどうしてできるでしょうか。
 まことに六波羅蜜(ろくはらみつ、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つ)の行ないを筏(いかだ)として、迷いの河に出発し、八正道(はっしょうどう、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つ)という正しい生き方を大船として、愛欲の波を漕ぎ分ける棹(さお)を装備し、精進の帆柱を立て、瞑想の帆を張り、群がり来る煩悩を防ぐ忍辱(にんにく)の鎧(よろい)をつけ、智慧の剣(つるぎ)をかざして多くの敵に立ち向かう。
 そうして、七覚支(しちかくし、択法(ちゃくほう)覚支・精進覚支・喜(き)覚支・軽安(きょうあん)覚支・捨(しゃ)覚支・定(じょう)覚支・念覚支の七つ)という馬に鞭打って速やかに苦海を超え、四念処(しねんじょ、身念処・受念処・心念処・法念処の四つ)という車に乗って、世界を観想し、存在には固定した実体がないと念(おも)い、煩わしい俗世間を超える。
 そうなれば、世界を統治する転輪聖王が頭頂にある宝珠を、特別に功績のあった家来に授け、その者に国土を与えたように、釈尊もまた、髷中(けいちゅう)の『法華経』を説き、その教えを授け、弟子の舎利弗(しゃりほつ)に「汝は未来に成仏するであろう」と予言を与えたとあるから、私たちにもその予言が与えられなということはない。
 『法華経』にはまた、龍女(りゅうにょ)成仏のことが次のように説かれています。「釈尊の説法会に参加していた八歳の龍女が、自分の持っていた世界に一つしかない高価な首飾りを釈尊にさしあげると、釈尊はこれをお受け取りになるやいなや、直ちに龍女は変身し、南方の無垢世界に往って成仏した」と。
 そのように、釈尊の真実の教えを受けていれば、私たちにも必ずや成仏の時機が訪れるのです。
 その時機が来れば、菩薩の段階の修行者が成仏するためには三劫(ごう)というほとんど無限に近い時間の修行を要するが、その最後の階梯である十地も一瞬に経てしまい、菩薩行を完成させることはむずかしいことではなくなります。
 そうして後に、十地の菩薩が、十の修行段階の各階位で一つずつ断除する十種の障害を捨て去って行き、真如を証得し、生命の無垢なる知のちからの実行者であるブッダ(目覚めたもの)の位に達する。
 その達した場において、さとりを妨げる煩悩の障害と、対象を覆って正しい認識を妨げる障害との二障を転じて、菩提(さとりと智慧と慈悲)を得、そのさとりの結果として生死を超えて涅槃(絶対寂静の境地)に到る。
 そのさとりの世界を常の住みかとするものは、真理の法王と称されるのです。
 この住みかに住むものは、絶対平等の真如の世界の理と、自他平等の心をもち、その無垢なる知をもって存在を観察すれば、一切の分別心と妄染の境界相とを離れているから、絶対清浄であり、また、その絶対清浄なる存在は、生きとし生けるもののそれぞれの世界と、それらのものが住む環境世界と、あらゆる生命が共に生きてありのままのすがたを現出させている世界とのすべてに等しく及んで、それらはお互いにお互いの一切のものを包容して何らのさわりもなくなる。また、この融合して一つであると観じる世界では、一切の煩悩を離れ、一切の知識を離れ、一切の戯論を離れるから、そのありのままのすがたが遍く生きとし生けるものを照らし出し、すべての善根を顕現するという。
 また、そのようなことで、それらの無垢なる知による世界は、そしりやほめごととはまったく無縁なのです。
 また、この住みかとなる世界は、生滅を超えていて改まることなく、増減を越えていて衰えず、永久に円寂であり、そのさとりの境地は、過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたって絶対無限なのです。
 ああ、この境地は何と偉大で、何と広大であることでしょう。
 この境地に比べれば、中国古代の聖王である黄帝、帝堯(ていぎょう)、伏羲(ふっき)たちでさえ釈尊の足許にも及ばず、インドの転輪聖王、帝釈天、梵天でさえも力が及ばない。
 それに、この教えに天魔や仏教以外の教えを信じる者が百の論難(ろんなん)を仕かけても、これを否定することはできないし、声聞、縁覚の小乗の仏教者がいくら称賛しても、この教え、大乗の教えを称賛し過ぎるということはない。
 しかし、釈尊の教えはこのように偉大なのであるが、その修行途中の菩薩が、最初に立てた四つの誓願、①衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど、地上のあらゆる生き物をすべて救済するという誓願)②煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん、煩悩は無量だが、すべて断つという誓願)③法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち、法門は無尽だが、すべて知るという誓願)④仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう、ブッダへの道は無上だが、かならず成仏するという誓願)を未だまっとうしていないから、一切衆生は苦界におちいっている。
 釈尊すなわちブッダはこれを見て悲しみ、心を痛め、次のように思いやられたという。
 まず、生命の存在そのものの象徴である盧舎那仏が、その生命の無垢なる知のちからをもって、百億の国土にその知のちからの応化身たる百億の如来(生きとし生けるもの)を出現させた。
 そのようにして久遠の過去にすでに成道し、出現していた如来が、釈尊の生涯の八つのすがた(相)となって、人間もまた、如来になれるという教えが広まった。その八つの相とは、①天より下って、②母の胎内に入り、③誕生し、(育ち、結婚し、子の親となり)④出家し、⑤四魔(心身を悩まし乱す煩悩魔・身体の苦悩を生じる五蘊魔・生命を奪う死魔・善行を妨げる天魔)を降伏し、⑥菩提樹の下で成道し、⑦法輪を転じて説法し、⑧涅槃に入る、という相である。
 その応現した相の本体である心身が、苦・集・滅・道の四諦の中にあると釈尊がさとられ、その論理を方便として、生命のもつ本来の知、すなわち如来の知を開花させ、その無垢なる知のちからのはたらきを用いて、人びとの救済にあたられたのだ。
 この釈尊のさとりの教えは弟子たちによって八方の国の果てにまで流布され、四諦の慈悲の告文を十方の衆生に分かち与えることになった。
 こうして、仏法に帰依するためにすべての衆生が雲に乗り、雲のように駆け、さまざまな生き物までもが風に乗り、疾風のように釈尊のところへ馳せ参じることになったのです。
 それらの無数のものたちが、天より地より、雨の降るように泉の湧くように集まり、清らかなものも汚れたものも、雲のように煙にように集まり、その様子は地にあるものは天に上(のぼ)り、天にあるものは地に下(くだ)り、それらがまた、天に上ったものが地に下り、地に下ったものが天に上るといった光景を呈した。
 この集いには、インドの神々の八部衆(はちぶしゅう)、①天(てん、梵天、帝釈天を初めとする諸天。天地万物の主宰者の総称)②龍(りゅう、水中に棲み、雲や雨をもたらすものとして、蛇を神格化したもの)③夜叉(やしゃ、悪鬼神の類)④乾闥婆(けんだつば、インド神話におけるガンダルヴァ。香を食べ、神々の酒ソーマの守り神)⑤阿修羅(あしゅら、古代インドの戦闘神)⑥迦楼羅(かるら、竜を好んで常食とする伝説上の鳥。鷲などの猛禽類の一類を神格化したもの)⑦緊那羅(きんなら、美しい声で歌う音楽神。半身半獣の人非人)⑧摩?羅伽(まこらが、廟神。身体は人間であるが首は蛇。大蛇を神格化したもの。龍種に属す)や、仏教教団の構成員である比丘(びく、僧)・比丘尼(びくに、尼)・優婆塞(うばそく、信士)・優婆夷(うばい、信女)の四衆(ししゅう)がいたが、それらの分類はあっても、彼らは交わり一体となり、釈尊の徳を称え、歌った。
 その称える歌声は、鼓を打つ音や馬の駆けるひづめの音のように淵淵(えんえん)と響き、まるで、鐘が??(かいかい)遠くから響き、花びらが聯聯(れんれん)と連なって行くようであった。
 八部衆のすがたは燐燐(りんりん)、爛爛(らんらん)とおごそかに輝き、駆けつける車馬の音は震震(しんしん)と会場にとどろき響く。
 その車馬が??(てんてん)と周辺を埋めつくし、並んでいる。
 その光景は、目に溢(あふ)れ、耳に満ち、地に満ち、天に満ちるといったありさま。
 群衆は足の踏み場もなく、肘を側(そば)め、肩を側め、ひしめきあう。
 この大変に混雑した状態にあっても、この場に集った誰もが釈尊に対して、礼を尽くし、敬い、慎み深く、信仰心を抱いていた。
 このようにして、釈尊の説法を皆が待ったのだ。
 その説法において、釈尊は同一言語を用いてお話しをされ、言語の異なる者であっても、その言葉は通じ、誰もがそれぞれのもつ迷いの我執を打ち砕かれたという。
 釈尊は開口一番、そこに集まった生きとし生けるものすべてが住む三千世界を一まとめにして引き抜き、他の世界に投げつけ、また、須弥山(しゅみせん)を削らずしてそのまま芥子粒(けしつぶ)の中に入れ、世界は一と多がたがいに融け入っていること、絶対的な本体と相対的な現象とは同じであることを示された。つまり、世界は一元的のものではないこと、ものごとの尺度はとらえ方によって、自在に拡大縮小できることをイメージとして説明されたのだ。
 そのように、人びとの心を縛っている既成概念を最初に解(ほど)き、次に慈しみをもって人びとを誘(いざな)い、諌め、心を空腹状態にさせてから、まるで食事を分け与えるように、法の喜びを分かち与え、その中に智慧と戒の隠し味を施された。
 それで法味という、ありがたい食事にありついた一切衆生は、天下泰平の世を謳歌することになった。
 『荘子』馬蹄篇に「太古の帝王の赫胥(かくしょ)の時代には、民は必要以上に仕事をしようとは思わず、外に出かけてもこれという行き先をもたず、皆が腹一杯に食事をし、満腹になると腹をたたいて、いつもにこにこしていた」とあり、また『帝王世紀』によると堯帝(ぎょうてい)の時代には、民は「日が昇るとはたらき、日が暮れると仕事を終えてくつろぐ。喉が渇けば井戸を掘って水の飲み、腹が減れば田を耕して飯を食らう。(自分たちの生活は自分たちの営みによる。だから、)帝の力なんか、わしの暮らしには何の関係ないのだ」と歌って、食べものをほおばり、腹を叩き、地面を踏み鳴らし、踊っていたとある。そのように、人びとは日々を楽しく過ごし、「君(帝)来たらば(民)蘇えらん」と歌ったという。
 このように、泰平であるがゆえに民が帝の徳に気づかないような治世こそが、好ましい為政者の態度であり、釈尊の教えもそのように、仏法によって心の安らかさを得ることになった民が平和に暮らすことが願いなのです。
 そこで、無量無数のものたちが帰依する所が、生きとし生けるものすべてが仰ぎ集まる所であり、もっとも尊く、もっともすぐれた真理の法のもとに皆が集まり、その法を説いた人を崇(あが)め、質素で規律ある生活集団をつくり出しました。
 ああ、何とすばらしいことなのでしょう。何と気高いことなのでしょう。
 誰がこれと同じことができるでしょうか。
 これこそ、まことにわが師釈尊の遺された教えであり、今、述べた事柄はその仏教の説く広大な真理のほんの一部分に過ぎませんが、これに比較すれば、道教の仙人の小さな術や、儒教の俗世の微々たる教えなど、言うに足らず、そんなに立派なものではないことがお分かりいただけたのではないでしょうか」。

エピローグ 「三教の詩」唱和
 「生死の海の詩」と「さとりの境地」を聞いた亀毛先生たちは、あるいは恐れ、あるいは恥じ、または哀しみ、または笑った。
 話しの内容に合わせて,うな垂れあるいは仰ぎ、水が器の形に従うように、乞児の教えのままにしたがった。
 そうして、喜び勇んでいう、「私たちは幸いなことに、稀有な大阿闍梨に会うことができ、すぐれた仏教の教えをいただきました。このような機会は後にも先にも二度とないでしょう。私たちは和上にお会いすることがなかったら、五欲に沈み、三途の河に没していたことでしょう。しかし今は、ありがたいお話しをいただいて、身も心も安らかになりました。たとえるならば、雷が鳴り響いて土の中に眠っていた虫たちが目覚めて外にでるように、春の朝日が氷を融かすように、これまでの迷いを醒ましていただきました。
 仏教に比較すれば、周公と孔子の儒教や老子と荘子の道教は双方とも、何と一面的な教えなのでしょう。これからは『華厳経』に説かれているように、皮膚を剥いで紙とし、骨を折って筆とし、血を刺して墨とし、しゃれこうべを曝(さら)して硯(すずり)に用い、慎んで慈悲深い教えを書き記し、生死の海を渡り、さとりの道を進む、舟や車の道標(みちしるべ)にいたしたいと思います」と。
 仮名乞児がいう、「それでは落ち着いたところで、もとの席にお戻りください。これから儒教・道教・仏教の三つの教えを詩にまとめてみます。この詩を仏法とめぐりあったあなた方の歌として、日々、唱和していただければ幸いです」。その詩とは、

日月の光は闇夜を破り 知の光は愚かな心を向上させるが
人びとの性質と欲望はさまざまだから 必要とする知のちからもさまざまなのだ
人間関係の規範を孔子が模索し その規範を受け習えば人は立身出世し
万象の道理を老子が構想し その道理を伝授して人は精神の高みに上がる
原因と条件によって説く釈尊の法は 教義と利益がもっとも奥深いから
その教えは自他を救済し 禽獣などの生きとし生けるものの救済をも忘れない
春の花は枝の下に散り 秋の露は葉の前に消える
流れる水は止まらず 勢いよく吹く風はいくたびも音を立て過ぎて行く
欲望は人びとを溺らせる海 さとりの境地は人びとの帰るべき峰
今や三界の束縛を知ったからには 世俗の栄達を捨てて仏法の道を進もうではないか

■空海の総合教育の試み-「綜藝種智院の式とその序」<現代語訳>

転記先URLは以下

https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-259.html

【学園用地】
 さきに中納言の職を辞した藤原三守(ふじわらのただもり)卿は京都左京の九条に邸宅をもっておられ、その屋敷の広さは二町(約四千坪)あまりで、敷地の中には五つの広間のある家屋が建っている。敷地の東側は施薬慈院(せやくじいん:今日でいう病院)に隣接していて、西側の近くには(わたくし空海が朝廷から賜った)東寺がある。南側は野辺おくりをする墓地にほど近く、北側には国の衣料・食糧を保管している官営倉庫がある。
 屋敷に湧き出る泉は鏡のように澄んでいてその水面に周囲の景色を映し出し、庭を左右に流れる小川はあふれんばかりの豊富な水量である。また、松林や竹林があり、風が吹くとその葉のふれあう音は琴を奏でているようだし、紅白の梅や柳の緑が雨にぬれると、錦の彩りのように美しい。春にはうぐいすがさえずり、秋には大きな雁が泉に渡ってきて、そして飛び去ってゆく。暑い夏もここで憩えばその暑さを忘れ、清々しい涼しさを得ることができる。
 (地相をみれば)西には白虎(びゃっこ)にあたる大道があり、南には朱雀(すじゃく)にあたる池もある。(「四神相応」の地相:東西南北の四方向のそれぞれに方位を守る神がいるとし、北「玄武」になぞらえる山、東「青龍」になぞらえる流水、南「朱雀」になぞらえる池、西「白虎」になぞらえる大道があるところに位置する土地を吉相とする。訳者)
 この場所には、修行する者が求めて散策するという閑寂な自然があり、わざわざ深山に出向かなくてもここでこと足りる。しかも、この場所までは日常的に朝から夕まで車や馬が往き来しているという利便さもある。

【用地取得のいきさつ】
 わたくし空海はかねてから、学問を目指す者であれば、身分に関係なく誰でもが自由に学べる開かれた教育の場がつくれないかと思っていて、そのときは
「儒教」(人としての徳性と、家族と社会における人間関係の教え)
「仏教」(人はなぜ生きるのかと、人々の幸福に奉仕するための諸行為の実践の教え)
「道教」(自然の道理にしたがって生きると身体と精神の教え)
の三教科を兼ねそなえて学べる総合学院にしたいと願っていた。

 あるとき、そのことを皆の前でお話しすると、前述の藤原三守卿がわたくしの計画に賛同され、即座に千金にも値する個人の屋敷を学園用地としてお使いくださいと申し出られた。不動産契約などまったくなく、自らの慈悲の行為として、未来ある若者たちを育てるためにその土地と家屋のすべてを寄付されたのである。
 昔、インドの長者スダッタがブッダに僧園を寄進するために、その国の王ハシノクのもっていた庭園を買い求めようとして、王の息子のジェータ王子の要求により、その庭園の地面いっぱいに黄金を敷きつめたという説話があるが、わたくしの場合はそのような苦労もなく、その説話にも値するようなすばらしい庭園を藤原卿から寄進していただいたのだ。
 わたくしの願いはこのようにして、実現に向かうこととなった。
 現実のものとなった学園計画を進めるにあたって、わたくしは校名を考え、「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」と命名した。(この意味は、この学園でもろもろの学問を総合的に学ぶ機会を得た若者たちが、自らの教養の畑を耕し、そこに知恵の種を蒔き、その種がよく耕やかされた土壌によって、りっぱな芽を出すことを願っての名である)
 さて、以下はこの学校での教育理念とその教科、教科を教える教師の人材、それに運営方法等について示したい。

1 総合教育の論拠
 『九流』(きゅうりゅう:古代中国の学者が説く九つの思想)
  一、陰陽家(いんようか):万物の生成と変化は陰と陽の二つによって起こされると
    する思想。
  二、儒家(じゅか):孔子によって体系化された人の徳性、仁・義・礼・智・信と人間
    関係の倫理によって社会秩序が保たれるとする思想。
  三、墨家(ぼくか):儒教に対抗する思想。上下の公平を唱え、他国への侵攻を否定し、
    賢者の考えにみながしたがうことによって得る平等主義の思想。
  四、法家(ほうか):社会を治めるのは儒教の仁義礼などでなく、法律であると説く思想。
  五、名家(めいか):名<言葉>と実<実体>との関係を明らかにしようとする論理学思想。
  六、道家(どうか):老子によって説かれた自然の道理にしたがって生きようとする思想。
  七、縦横家(じゅうおうか):巧みな弁舌と策略で、相手を説き伏せる外交術の思想。
  八、雑家(ざっか):儒家、道家、法家、墨家などの諸思想を照らしあわせて取捨した
    思想。
  九、農家(のうか):農業の技術を伝え、農耕を勧め、衣食住を充足することを本分とし
    て生きる思想。
 『六芸』(りくげい:古代中国の六つの基本教養)
  一、礼:礼節
  二、楽:音楽
  三、射:弓術
  四、御:馬術
  五、書:文学
  六、数:数学
  以上の中国の思想と学芸は個人が世間を渡るための舟や橋であり

 『十蔵』(じゅうぞう:インド仏教哲学の説く十種のこころの段階による社会学)
 『五明』(ごみょう:インド仏教者が修得しなければならない五つの学芸)
  一、工巧明(くぎょうみょう):工芸・工学技術、天文暦学
  二、医方明(いほうみょう):医学と薬学
  三、声明(しょうみょう):言語と文法学、文学
  四、因明(いんみょう):論理学
  五、内明(ないみょう):仏教学
 以上のインドの仏教者が学ぶ社会学と諸学芸とこころの学問(内明)は、社会生活全体の
 幸福に資するものである。

 だから、過去においても、現在にあっても、未来にわたっても、知恵のある仏教者は世間のあらゆる学芸を学びそれらを修得するとともに、仏教の教えによって慈悲のこころによる他者への施しを自覚し、その屈託のない行動力と学芸による人文・自然の(今日でいう科学)技術を用いて、善導のための各種施設を築き、土木・治水事業を行ない、田畑の恵みのために気象をとらえ、医療と福祉により人々を救い、その言葉と声により人々を癒し、言語力により異国の文化を導入し、論理力によりまちがった考えを論破する。
 料理にも、すっぱい・にがい・あまい・からい・しおからいの五つの味があるように、一つの味ではご馳走はできないし、音楽も、五音階(古代中国の音階、ド・レ・ミ・ソ・ラ)の一つの音のみで、妙なる調べを奏でることはできない。
 人が身を立てるのも、国を治めるのも、悟りの世界に楽しむのも、世間の多くの学芸に通じていなければ、その目的を広く達成することができないものなのだ。
 そのような訳で、そのことを理解し仏教に初めて帰依された欽明天皇以来の歴代の天皇と大臣たちにより、多くの寺院が建立され、仏教の教えが日本国に広まるようになったのである。
 しかしながら、寺院の僧侶は経しか唱えず、世間のすぐれたといわれる学者は中国の書物のみを読みふけっている。彼らは儒教・仏教・道教の書物のすべての学問を知ろうとする気概なく、まして、社会づくりに役立つ五明の学問の書には触れることもないという情けない実状である
 そこで、わたくし空海は、この綜芸種智院を設立し、広く三教の書物を蔵書し、それらを教えることのできる才能ある多くの先生を招きたいと思う。どうか、三教の広い学問の光が、この混迷の闇の世界を照らしますように、そして、教わる者のこころの段階(個人の能力レベル)にあわせて、それぞれの教育馬車が用意され、それらに学生と教師が乗り、くつわを並べて広大な知の庭を駆けて行けますように。

2 学園設立問答
 ある人がわたくしの計画に対して問う、「あなたの考えは結構なことである。しかし、今までも私学校を試みた人がいるが、うまくいったという話を聞いたことがない。例をあげれば、吉備真備(きびのまきび)の儒教と仏教を教える二教院、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)の芸亭院(うんていいん)など、開校はしたがつづかなかった。あとはうやむやになっていて見るかげもないではないか」
 答えよう、「ものごとがうまくいくか、駄目になるかは、必ず人による。すぐれた人物が出るかどうかは、その道を究めて行くかどうかにある。大海は多くの川の水が流れ込んでこそ深くなり、ヒマラヤの山も小さな積み重ねがあって高くなる。大きな建物も多くの木材に支えられて建つのであり、一国の元首も多くの臣下によって支え保たれる。そのように、多くの同志がいれば事業は支えられ、同志が少なければ事業が傾くのは自然の理である。この理にしたがい、いま、わたくし空海が願うところは、天皇の許可の下、諸大臣の協力を得て、貴族や僧侶等、各界の人々がみな、わたくしの計画に賛同し、助力してくださるようになることです。そうなれば、この事業はきっと成功し、いつまでもつづけて行くことができるでしょう」
 問いかけた人が言う、「そのとおりですね」
 また、ある人が問う、「国家が広く、諸学芸の教育事業を展開している。現在すでに権威ある地方の国学や中央の大学があるというのに、蚊の鳴くような存在の私立の小さな学校を開設することに何の意義があるのですか」
 答えよう、「わたくしの留学していた中国の都、長安では街区ごとに勉学塾があり、広く子供たちが学んでおり、また、長安以外の各県にも学校があり、青色の衿の制服を着た生徒たちが毎日通っている。だから、才能ある知識人が都にはあふれており、地方の何処に行っても、学芸に秀でた多くの教養人に出会うことができる。ところが、わが国には平安京にたった一つの大学があるだけで、街には長安のような勉学塾はありません。このため、庶民の子は勉強しようにもその場はなく、地方の若者が学問を志しても遠く大学は離れているため、教育の環境を得ることは不可能です。そのようなことですから、いま、わたくしは学校を創設し広く若者に門戸を開こうとしているのです。善いことだと思いませんか」
 問いかけた人が言う、「そのようなことが実現すればすばらしいことだ。まるで、太陽や月の光のように輝かしいことだ。この世に天地があるように永くつづく事業となることと信じます。これこそ、国の将来のためになる計画であり、人々にとって、美しい宝石のような価値をもつものですね」

 さて、わたくし空海はごく至らない者ですが、いま一息のちからを尽くし、モッコの土を運び上げ、その土で周りを廻らす丘を築くごとく、わたくしをとりまくすべての恩に報いることができるように、ひたすらこの事業に邁進したいと思う。

3 教育成立の条件
 『論語』にいう、「人はおもいやりの美風のあるところに住むべきであり、わざわざそうでないところを選んで住むことは、賢い人のすることではない」と。また同じ書に、「人はおもいやりのあるところに住み、よき人間関係を築き、さらにすぐれた人格を形成し、学問に励まなければならない」と。
 『大日経』では、「仏教者として人々を導く師になるには、まず、あらゆる学問と芸術を学び、その知識を高めるべきである」と。
 『十地論』では、「知恵のはたらきを実践する者は、まず、五明のあらゆる学芸を学び、それらの真理に通じていなければならない」と説いている。
 だから、善財童子(ぜんざいどうじ)は、真理を求め、南インドの百十の都市を巡り歩き、教師となる五十三人の人々を訪ねて教えを乞い、常諦菩薩(じょうたいぼさつ)は、一つの都市の中で人々のおもいやりに助けられ、その慈悲の施しに常に涙しながら真理の道を求めつづけたという。
 したがって、教育の条件が整えられるには
 一に、真理を求める者がおもいやりのある環境に居ることができて<処>
 二に、そこに、五明(工学・医学・語学・論理学・仏教学等)の学問あり<法>
 三に、そこに、五明の学問を教える有能で人徳のある多くの先生がいて<師>
 四に、学ぶ者と教える者が教育に専念できるようにすべての者の衣食が保障される
  <資>が必要である。これらの四つが備わって教育は成立する。
 ですから、この、処・法・師・資の四つの条件を充たした学校を創設し、その門戸を開き、民衆の中の多くの好学の若者の芽を育て、その豊かな人材によって社会を導きたいのである。

4 教科と教師の人材
 ところで、おもいやりのある環境があり、学問の豊富な文献が蔵書されていても、教師が欠けていれば、学問の理解を得ることはできない。だからまず、すべての教科にわたって有能で人徳のある教師を募らなくてはならない。
 募集する教師には大きく二種あり、一つは仏教者(仏法を究める者)としての教師、二つには世間一般の学者としての教師である。前者は(仏教部で)仏教の経典などを教え、後者は(学芸部で)仏教以外の学問の書を教える。
 中国の長安に留学していたときのわたくしの師、恵果がいつも言われていた「仏教の教えはこころの教えであり、そのこころをもって世間の学芸を学び、その双方のちからで人々の幸福のために尽くすのがほんとうの仏教者である。それがブッダの教えの真実であるから、仏教と学芸、両方に仏教者は必ず通じていなければならない」と。

□仏教部教師心得
 仏教者たるものは、仏教の二種の教え顕教(こころの教え)密教(いのちの知のちからの教え)の双方に通じていなければなりません。(でなければ、教育に偏りがでることになり、学生たちに片方だけの教えを与えることになります)
 また、仏教以外の学問の書に通じたければ、世間の学者から学びなさい。
 もし世間の者で仏典を学びたい者がいれば、僧侶を教師とし、教師となる僧侶は、慈しみを与え、苦を除き、楽を喜び、共に平等であるとの限りなく広いこころと、施しと、やさしさをもった言葉と、奉仕と、共にいそしむ行為によって労苦をいとわず、相手の身分によって差別なくしっかりと教えを伝えてください

□学芸部教師心得
 まず、以下に挙げる書物のいずれかに精通していること。
 『九経』(きゅうけい:九つの儒教経典)
  一、「易経」(えききょう):自然現象を万物の事象の象徴としてとらえ、生成変化を予測
    する教え。
  二、「書経」(しょきょう):中国最古の歴史書。紀元前の堯・舜から夏・殷・周の帝王の
    言行録を整理したもの。君主の臣下に対する言葉/臣下の君主に対する言葉/君主が
    民衆に下す宣誓の言葉/君主の意志や命令の言葉/重要な歴史的事件のあらましが
    書かれたものに整理されている。
  三、「詩経」(しきょう):中国最古の詩全集。各地の民謡を集めた<風(ふう)>/貴族や朝廷
    の公事・宴席などで奏でる音楽の歌詞<雅(が)>/朝廷の祭祀に用いた<頌(しょう)>の
    三つに大別される。
  四、「礼記」(らいき):古来の”礼”に関する諸文献を集めたもの。日常の礼儀作法や冠婚
    葬祭の儀礼、官爵・身分制度、学問・修養などが解説されている。
  五、「左伝」(さでん):春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)の略。紀元前中国春秋時代の
    王や諸侯の死亡記事、戦争や盟約などの外交記事、日食・地震・洪水・虫害などの
    自然災害に関する記事等が年表として記録されているものを解釈したもの。
  六、「孝経」(こうきょう):孔子が門弟の曽子に”孝”について述べたことを、曽子の門人が
    記したもの。
    ・個人は、親に仕えることから始まり、社会に仕え、やがて他から仕えられる。
    ・国のリーダーは、自らの親を愛するように民衆を愛するならば、民衆もまた、
     リーダーを慕う。
    ・社会人は、自らの父母を愛するようにリーダーや目上の人に仕えることが
     孝となる。
  七、「論語」(ろんご):儒教の始祖、孔子の言行録。おもいやりのこころ<仁>/おもいやり
    の行ない<義>/おもいやりの礼儀<礼>/正しい学問<智>/正しい行ない<信>を説く。
  八、「孟子」(もうじ):孔子の孫弟子、孟子の思想書。他者を思うこころ/不正を憎む
    こころ/譲るこころ/是非を判断するこころの四つのこころを人々は元々もっている。
    それらによって君主も政治を行ない、人民のこころを得ることによって天下を治め
    るようになれば、役人はみな王に仕えたがり、農民はみな王の田畑を耕したがり、
    商人はみな王の市場で商売をしたがり、旅人はみな王の領内を通行したがり、
    他国の王の下で苦しむ人民もみな王に相談しに来るだろうと説く。
  九、「周礼」(しゅらい):周王朝の理想的な制度について書き記したもの。官職を六官に
    分け、計三百六十の官職について記す。天官<治>(国政を所管)/地官<教>(教育を
    所管)/春官<礼>(礼法・祭典を所管)/夏官<兵>(軍政を所管)/秋官<刑>(訴訟・刑罰を
    所管)/冬官<事>(土木工作を所管)。
 『九流』(きゅうりゅう:中国の思想を九つの流派に分類したもの。詳しくは記述済み)
 『三玄』(さんげん:中国の三つの自然思想)
  一、「老子」(ろうし):紀元前五世紀頃、春秋時代の老子の思想書。自然を観察すると生命
    は連鎖し、循環している。何かが欠けると何かがそれを補い、全体としてバランス
    をとっている。ところが人間社会の君主は摂取するのみである。自然の道理を知る
    君主がいれば、その人こそ名君であると説く。
  二、「荘子」(そうじ):紀元前三、四世紀頃、荘子(そうし)の思想書。”無為自然”つまり、
    あるがままをテーマとし、その洞察眼によって自然の本質を説く。老子が自然の
    道理とその道理の人間社会での活用を説いたのに対し、荘子はあくまでも自然の
    道理を友としてその中に遊んだ。
  三、「周易」(しゅうえき):太古からの占いの知恵を体系化した書。易とは変化を意味し、
    万物の事象が過去・現在・未来へと生成変化していることを説く。易の字は日と
    月を合わせているから、太陽や月、それに星の運行から万物の運命を読みとること
    を意味し、周はあまねくの意味である。
『三史』(さんし:中国の古代王朝の歴史書。中国の王朝の歴史を二十四史とするが、その
 第一史から第三史までの歴史書)
  □第一史、『史記』(しき):前漢の武帝の時代に司馬遷(しばせん)によって編纂された
   古代王朝の歴史書。
  (1)「本紀」(ほんき):五帝から漢の武帝までの記録。
   一、五帝(ごてい):人類誕生を呼称して、天皇、地皇、人皇から始まり、つぎに、
     人類に文明をもたらした黄帝、堯、舜等の伝説上の五帝を記述する。
   二、夏(か):紀元前二〇七〇年頃から紀元前一六〇〇年頃まで。夏王朝の始祖は舜帝
     に命じられて黄河の治水などの功績をあげた。
   三、殷(いん):紀元前一六〇〇年頃から紀元前一〇四六年まで。夏王朝を滅ぼした
     新王朝(実在したことが考古学的に確認されている最古の王朝)。商ともいう。
     社会形態は氏族ごとの集落<邑(ゆう)>の連合体で、数千の邑を数百の族長が
     支配し、その連合体の上に殷王がいた。(青銅器文化をもち、その芸術性は高い)
   四、周(しゅう):紀元前一〇四六年から紀元前二五五年まで。殷を倒した王朝。
     (この時代に王が不在になった期間、大臣の合議制によって政治を行なわれこと
     から、そのことを指して、歴史に登場する共和制の始まりとする)春秋時代には
     その支配は縮小し、戦国時代には各諸侯が自分が王であると称していたが秦
     (しん)国によって統一される。
   五、秦(しん):周代から紀元前二〇六年まで。周代、春秋時代、戦国時代にわたって
     存在し、紀元前二二一年に中国を統一。王は中国の伝説上の聖王、三皇五帝に
     ならい自らを皇帝と名のる
始皇帝(しこうてい:紀元前二五九年から紀元前
     二一〇年)は度量衡(長さ/容積/重さの単位)を作り、文字を統一し、郡県制(行政
     区画)を実施した。また、北方騎馬民族への備えとして万里の長城を築く
。その
     領土は南方(今日のベトナム北部)にまで及んだ。始皇帝亡きあと、秦王朝は内乱
     と造反により紀元前二〇六年に滅亡する。
     <項羽>(こうう:紀元前二三二年から紀元前二〇二年。秦末期の楚の武将。秦に
     対する造反軍の中核となって、劉邦とともに秦を滅ぼした)
   六、劉邦(りゅうほう):前漢の初代皇帝。反秦連合軍に参加し、秦の都を陥落させる
     が項羽によって、西方の漢中へ左遷され漢王となり、のちに東進して項羽を
     討ち、中国全土を統一した。
     <呂雉>(りょち:劉邦の正妻。夫の死後、皇太后として実家の呂氏一族によって
     政権を維持したが、その内情はどろどろしたものであった。しかし、この時代
     は対外遠征などの大事業もなく、国民の生活は安定していた)
   七、文帝(ぶんてい):紀元前二〇二年から紀元前一五七年。前漢五代皇帝。呂雉崩御
     の後、即位した。その政策は戦乱によって疲弊した民の休養と農村の活性化に
     あった。贅沢を嫌い、孝行を尽くした。そのことにより、食糧は倉庫にあふれ、
     財政は豊かであった。
   八、景帝(けいてい):紀元前一八八年から紀元前一四一年。前漢六代皇帝。文帝の
     第五子。紀元前一五七年に即位。文帝の政策を受け継ぎ外征を控え、倹約に
     努めた。また、農業政策は減税に取り組み、国民のほとんどが農業に従事し、
     経済は安定していた。
   九、武帝(ぶてい):紀元前一五六年から紀元前八七年。前漢七代皇帝。景帝の代十子。
     紀元前一四一年に即位。呉や楚等、諸国の反乱により有力な諸侯が倒れ、中央
     集権化が進む。諸侯の領土を分割させる策や、有能な人材を地方ごとに推挙さ
     せ登用する制度や、国民に儒教の教えを徹底させるなどによってその体制を強化
     した。しかし、外征による財政難と増税により、民衆は流民化し社会は荒れた。
     犯罪取り締まりのため強化された厳罰主義は密告の風潮を生み、多くの冤罪者
     が出た。
  (2)「表」:太古の王朝の系譜、諸侯の年表、役人の在職年表等の記録。
  (3)「書」:古代の音楽・天文・治水・経済等の文化や制度史。
  (4)「世家」:王族や諸侯の家系的歴史や思想家等の系譜的歴史記録。
  (5)「列伝」:六十九の項目に分類された人々の生き方の記録。武将/参謀/政治家/役人/
    学者/医者/異民族/遊侠/男色/芸人/占い/商売等々。
  □第二史、『漢書』(かんじょ):後漢の章帝時代に班固によって編纂された歴史書。
   前漢紀元前二〇二年から紀元後八年まで。史記と並んで中国古代二十四史の中の
   双璧をなす書。史記とのちがいは「書」を「志」に改め、「世家」を「列伝」に組み込み、
   新しく「百官公卿表」を入れ、官制の沿革を記録している。
  □第三史、『後漢書』(ごかんじょ):南北朝時代に范皣によって編纂された歴史書。
   後漢二五年から二二〇年まで。(この中の「列伝巻七十五・東夷伝」に日本についての
   記述があり、一〇七年に倭の国の王、師升が奴隷百六十人を漢の皇帝に献上したと
   ある)
『七略』(しちりゃく:古代の図書目録)
  一、六芸(りくげい):教養書
  二、諸子(しょし):思想書
  三、詩賦(しふ):詩と韻文の書
  四、兵書(へいじょ):兵術書
  五、術数(じゅっすう):占い書
  六、方技(ほうぎ):医薬書
  七、総記
『七代』(しちだい:中国古代二十四史の第五史から第九史までと、それに第十二史、第十三史を加えた計七代の歴史書。二八〇年の晋の時代の始まりから隋の時代の終わり六一八年まで)
  □第五史、『晋書』(しんじょ):唐時代に国家事業として編纂された晋王朝の歴史書。
   二八〇年前から三一七年まで。晋の統一前を記した陳寿の『三国志』(二二〇年から
   二八〇年までの魏・呉・蜀三国の史書「第四史」)の伝が含まれる。
  □第六史、『宋書』(そうじょ):南朝の宋の歴史書。四二〇年から四七九年まで。
   宋・斉・梁に仕えた沈約が編纂した。(この中の「夷蛮伝」に倭の五王が朝貢したとある)
    □第七史、『南斉書』(なんせいしょ):南朝の斉の歴史書。四七九年から五二〇年まで。
    □第八史、『梁書』(りょうじょ):梁の歴史書。五〇二年から五五七年まで。
    □第九史、『陳書』(ちんしょ):南朝の陳の歴史書。四三九年から五八九年まで。
   唐の史学家、姚思廉(ようしれん)が編纂した。
    □第十二史、『周書』(しゅうしょ):北周の歴史書。
    □第十三史、『隋書』(ずいしょ):隋代五八九年から六一八年までの歴史書。
   (この中の「律歴志」に宋斉代の祖沖之が円周率を三.一四一五九二七の位まで計算
   したとある)
 以上の書物や、詩歌・韻文の文法に精通している人たちは、それぞれの書物を教科書として、その才覚でもって、学生たちを啓発しようではないか。そのためにこの学園に来て共に寝起きし、共に教えようではないか。
 もし仏教者で、これらの書物を学びたい人がいれば、学芸部の教師は後漢時代の官吏推薦要項にあるように、理知の才と孝志と清廉なこころで教えるようにしてください。
 もし若い学童で文字の読み書きから学びたいという者があれば、先生として慈悲のこころをもち、わが子と思い、身分や貧富にこだわらずきちんと教え、そのこころおこたることのないように教えてやってください。この世界の生きとし生けるものはみなわが子とは、ブッダの言葉であり、世界に住むものはみな兄弟であるとは、孔子の言葉です。教える者と教わる者が、親子・兄弟のように縁あって結ばれていることを忘れてはなりません。

5 給費制度のこと
 人は食べなければ生きていけないとブッダも孔子も言われています。したがって、教育を広めるためには、必ず人々の生活が保障されていなければなりません。仏教者にしても世間の学者にしても、教師であっても学生であっても、教育の場にいる者にはどの人にもみな等しく給費を与えることができなければなりません。
 しかし、わたくし空海は僧侶の身でありますから、それらを充分に手当てすることができず、学園開設にあたっての場の準備をすることぐらいしかできません。国の将来の人材を育てようとのお気持ちがあり、慈善のこころをおもちの方々、わたくしと同じように、わずかな物資、わずかな費用でもかまいませんので、わたくしの願いに協賛してお助けしていただきたく思います。そうして、末ながく、一致協力してブッダの教えであるよりよい社会づくりを展開しましょう。
八二八年十二月十五日
空海記す

あとがき
 千二百年前、国際的にみれば東洋の果ての新興国であった日本が、すでに文明国であったインドや中国のすぐれた文化とその学問から学ぶことは当然のことであったであろう。それらの学問の総合化を空海が目指し、上手くカリキュラム化しているのには感嘆せざるをえない。当時の大方の人々にとっては、ばらばらのものであったであろう空海の挙げる学問の一つひとつを当訳文にすべて記すことによって、綜藝種智院での総合教育の全容を見ることができる。そこに、知の巨人であった空海の目的がある。しかし、その総合教育の場は空海入定後、程なく閉校に至ったという。実践されたことが夢のようであり、さりながら、人間形成を主軸とし、そこから生まれる知のちからによって社会を築いて行こうとするその普遍的な総合教育のあり方は、今日の人々にとっても永遠の目標である。