聖徳太子(地球志向的視点から)~②人道主義活動と社会奉仕の精神/行基大師・忍性律師が引き継ぐ~中村元著より転記

人道主義的活動

普遍的国家運営を行う帝王

普遍的宗教を政治に生かそうという精神は

民衆に対して愛情をもって接する。

◆アショーカ王は、「いっさいの人民はみなわが子である」という。

聖徳太子は、憲法で一般人民の福祉を重んずべき道理を力説している

第五条は訴訟において民の苦しみを思うべきであると教え、

司法行政に関しては、裁判の公平と敏活とが要求される。と聖徳太子は教える。

【十七条憲法 五に曰く

あじわいのむさぼり<饗>を絶ち、たからのほしみ<欲>を棄てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(さだ)めよ。それ百姓の訟(うったえ)は、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)るを、いわんや歳を累(かさ)ねてをや。

このごろ訟を治むる者、利を得るを常とし、賄(まいない)を見てはことわりもうす<讞>を聴く。すなわち財あるものの訟は、石をもって水に投ぐるがごとし。乏しきものの訟は、水をもって石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知らず。臣道またここに闕(か)く。

【口訳】

役人たちは飲み食いの貪りをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。人民のなす訴えは、一日に千件にも及ぶほど多くあるものである。一日でさえそうであるのに、まして一年なり二年なりと、年を重ねてゆくならば、その数は測り知れないほど多くなる

このごろのありさまを見ると、訴訟を取り扱う役人たちは私利私欲を図るのがあたりまえとなって、賄賂を取って当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。だから財産のある人の訴えは、石を水の中に投げ入れるようにたやすく目的を達成し、反対に貧乏な人の訴えは、水を石に投げかけるように、とても聴き入れられない。こういうわけであるから、貧乏人は、何をたよりにしてよいか。さっぱりわからなくなってしまう。こんなことでは、君に仕える官吏(かんり)たる者の道が欠けてくるのである。

⇒太子の教えは非常に具体的である。

・第六条に『君に忠なく、民に仁なし、これ大乱の本なり』

【十七条憲法 六に曰く

悪を懲らし善を勧むるは、古の良き典なり。ここをもって、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、国家を覆(くつがえ)す利器なり。人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。また佞(かだ)み媚ぶる者は、上に対しては好みて下の過(あやま)ちを説き、下に逢いては上の失(あやまち)誹謗(そし)る。それ、これらの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。

【口訳】

悪を懲らし善を勧めるということは、昔からの良いしきたりである。だから他人のなした善は、これを隠さないで顕し、また他人が悪をなしたのを見れば、かならずそれをやめさせて、正しくしてやれ。

諂ったり詐(いっわ)ったりする者は、国家を覆し滅ぼす鋭利な武器であり、人民を絶ち切る鋭い刃のある剣である。また、おもねり媚びる者は、上の人びとに対しては好んで目下の人びとの過失を告げ口し、又部下の人びとに出会うと上役の過失をそしるのが常である。

このような人は、みな主君に対しては忠心なく、人民に対しては仁徳がない。これは世の中が大いに乱れる根本である。

・第十二条に『国司・国造・百姓に歛(おさ)めとることなかれ』などを説いた。

⇒氏姓階級の政治思想のなかでいまだその地位を与えられなかった『民』『百姓』が、

ここにはじめて支配階級から理論的に意識せられにいたったのである

こののち政治的支配者の意識のうちから人民に対する顧慮を消し去ることが永久に不可能となったのであって、

その端緒を開いたという点で、『十七条憲法』の思想史的意義は画期的なものであったといわれる

※別の視点に立つと「帝王の権威を強調する思想」は第十二条においてとくに顕著であるといえる。

【十七条憲法 十二に曰く

国司・国造、百姓に歛(おさ)めとることなかれ。国に二者なし。民に両主なし。率土(そつと)の兆民は王をもって主とすなす。所任の官司はみなこれ王臣なり。何ぞあえて公と、百姓に賦歛(おさめと)らん。

【口訳】

もろもろの地方長官は多くの人民から勝手に税を取り立ててはならない。国に二君はなく、民に二人の君主はいない。全国土の無数に多い人民たちは、天皇を主君とするのである。公の徴税といっしょにみずからの私利のために人民たちから税を取り立てるというようなことをしてよいということがあろうか。

大化改新以前は、豪族が私有地・私有民を擁していた時代に、

この条文がなにを意味するかが学者のあいだで問題とされているが

この十二条は、推古時代に実現されていた限りの中央集権的直轄領経営に基づいたものであり、

やがて大化の改新の私有地・私有民の廃止によって

⇒全国的に実現されるにいたった、ちょうどその点を示している。

⇒すなわち、「直轄領の地方官に対して、君・臣・民の関係を説き、君のために民を治める臣が治める民から貪り取る如きことをすべきでないと戒めている」(和辻哲郎「日本倫理思想史」)のであるとしても、ともかく、君の権威を強調しているのである

⇒「国に二君なし、民に両主なし」などというところは、顕著に日本的であり、絶対主義的天皇制を予示するものである。

⇒インドやチベットのおびただしい文献にも、こういう強調のしかたは見あたらないようである。キリスト教の優勢であった西洋にも見当たらないであろう。

普遍的宗教を奉ずる帝王は博愛の精神に基づく人道主義的活動を行う

・聖徳太子は

大阪に四天王寺を建てたが、

それは日本における社会救済事業の最初の試みとして有名である。

【そこには四院がつくられた】

①施薬(せやく)院

⇒薬草を栽培して人びとに分かち与えた。

療病院

⇒誰でも男女ともにいっさいの病人を寄宿させた。

⇒出家した僧尼でも、病気のあいだは戒律に禁じられてあるものでも好きなまま食べさせ、

⇒病気がなおればまた戒律を守らせた。

③悲田院

⇒貧窮孤独な人を住まわせて養い、もし元気を回復したならば、四院の雑事に働かせた。

④敬田(きょうでん)院

⇒人びとをして悪を断じ善を修せしめてさとりを得させるための修養の道場である。

また、個人的には太子が片岡山で飢えた人を憐れんだという伝説もある

出典:https://www.shitennoji.or.jp/shotokutaishi.html 四天王寺

このひとつひとつは、また他の普遍的国家の帝王も行った

③悲田院に対応するものとして

・アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)は

⇒教法大官という官職をもうけて、慈善事業ないし社会事業に関することをも管理させた。

⇒かれの王室は施与を行うことに熱心であり、諸方に遊園や施しの家をつくった。

⇒孤独なる者および老人に対しては特別に顧慮を示している。

①施薬(せやく)院に対応するものとして

・アショーカ王は

⇒薬草の栽培に力を注いだ。

⇒人に効あり獣に効ある薬草は、それがまったく存在しない地方には、どこへでも輸送させ、栽培させた。

⇒また樹根も果実もない地方には、いたるところにこれを輸送させ、栽培させた。

・聖徳太子も

⇒群臣とともにくすりがり(薬猟)を行い、また施薬院を建立した。

療病院に対応するものとして

・アショーカ王は

人間のための療病院と獣のための療病院とを諸方に建設した

かれの領土のみならず、南方のインド人諸国や西方ギリシャ人諸国もこれに倣った

出典:右図)https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/v-buttou-1.htm

注)サーンチー(Sanchi、: साञ्ची Sāñcī):大仏塔や寺院跡、アショーカ王の石柱跡などの仏教建築群や、精緻な仏教彫刻で知られる仏教遺跡である。ここにはアショーカ王の治世に関する多くの碑文が残されており、これらの碑文には、療病院の設立に関する記述も含まれている

・聖徳太子も

⇒四天王寺の四院の一つとして療病院を建設した。獣のための病院を建てられたかどうかは不明であるが、敬田院建立の精神のうちには一切衆生の利益安楽が含められていたと考えられる。

カンボジアのジャヤヴァルマン七世(クメール王朝の国王:1181年~1220年在位)は

慈善院設立命令書(アーロギャーシャーラ)を出し、多くのの病院を建設した

注)病院建設:首都アンコール・トムを中心に、主要な道路沿いに102の病院を建設した。

これらの病院は、病人の療養と薬剤の供給を目的としており、ジャヤヴァルマン七世自身も病人の治療に関与していたとされている

彼の慈善活動は碑文にも記されており、「身体を冒す病は心も蝕む。民の苦しみが大きくなれば王の苦しみもそれだけ大きくなる」と述べている。

具体的な病院の遺跡としては、アンコール・トムの北に位置するニャック・ポアン遺跡が有名。この遺跡は、かって病を治すための施療院として使われていた。

他にも、バンテアイ・クデイやタ・プローム、プリヤ・カーンなどの寺院も再建され、これらの場所には病院も併設されていたと考えられている。

出典:https://www.tnkjapan.com/angkor_wat/neak_pean ニャック・ポアン遺跡

プリヤ・カーン寺院(アンコール遺跡)        壁面に彫られた観世音菩薩

上座部仏教の要素と大乗仏教の要素が共存: プリヤ・カーン寺院】

ジャヤヴァルマン七世は、カンボジアのクメール王朝の王で、彼の治世中に上座部仏教が広がった上座部仏教は、仏教の中でも最も古い伝統を持っ宗派で、主にスリランカ、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア等で信仰されている。この宗派は、パーリ語の仏典を用い、釈迦の教えを忠実に守ることを重視している。

一方、観音菩薩は大乗仏教におけるっ重要な菩薩(修験僧)で、人々の苦しみを救う存在として広く信仰されている。観音菩薩は、観世音菩薩や観自在菩薩とも呼ばれ、救う相手や状況に応じて様々な姿に変身することができるとされている。例えば千手観音や十一面観音などが有名。

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html

出典:https://www.koumyouzi.jp/blog/902/

注)忍性律師(1271年~1303年):鎌倉時代の真言律宗の僧侶。貧民やハンセン病患者などの社会的弱者の救済に尽力した。

忍性は多くの病院や施設を建設した。特に有名なのは、奈良の般若寺近辺に設立した「北山十八間戸」。また、鎌倉の極楽寺にも病院を設け、病者の治療に努め、多くの人々の命を救った

【忍性律師が信仰した観音信仰】

  1. 慈悲の象徴:観音菩薩は、慈悲の象徴として広く信仰されている。忍性律師もこの慈悲の精神を体現し、弱者救済に尽力した。
  2. 救済の菩薩:観音菩薩は、苦しんでいる人々を救うために現れるとされている忍性律師はこの教えに基づき、社会的に疎外された人々への救済活動を行った。
  3. 観音信仰の実践:忍性律師は、観音菩薩の慈悲の心を実践するために、病者や貧者の施設や療養施設の設立など、多くの社会福祉活動を行った。

忍性律師の活動は、観音菩薩の教えを実践することで、多くの人々に希望と救いをもたらした。

   極楽寺の山門      極楽寺の井戸(粥を施すために使用)    桑ヶ谷療養所跡

注:桑ヶ谷療養所跡は大仏と長谷寺の間にひっそりと石碑が建立されていた(2024年6月26日訪問)      

出典:https://www.kannon-museum.jp/about/ 長谷寺 観音ミュージアム (館内フラッシュによる写真撮影が禁止されていた。2024年6月26日訪問)

尚、このような救済活動には当時の都市部で実施されたが、多額の資金も必要になる。国家運営者以外の僧がどのように資金を調達したのかが次のテーマになる。そのヒントになるのが奈良時代に活躍した行基の社会事業活動の概要を紹介する。

【行基大師(668年~749年)の社会事業】

  1. インフラ整備:行基は橋や道路の建設、治水工事などを行い、交通の便を改善した。これにより、農業や商業の発展が促進された。
  2. 貧民救済:行基は、病気や飢えに苦しむ人々のために布施屋(無料の宿泊施設)を設置し、食事や宿泊を提供し、多くの人々(病人や貧困者等)の救済を行った。
  3. 治水工事行基は、治水工事を通じて衛生環境の改善にも努めた。これにより、疫病の蔓延を防ぎ、健康な生活環境を提供した
  4. 薬草の利用医療活動)行基は、薬草を用いた治療法も広めた。彼の活動は、単なる宗教的な布教にとどまらず、実際の人々の健康を守るための具体的な手段を講じるものであった。
  5. 寺院建立:行基は多くにの寺院を建立し、これらの寺院を拠点にして地域社会の発展に寄与した。

<医療活動の背景>

・行基は、疫病や飢饉が頻発していた奈良時代に生きた。当時の民衆は、病気や貧困に苦しんでおり、行基はその救済に力を入れた。

<民衆への布教禁止令>

僧尼令:奈良時代に朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止。無許可での布教活動を禁じていた。

この法律の背景には、仏教が国家の統治に重要な役割を果たしていたことがあった。朝廷は仏教を通じて国の安定を図ろうとし、僧侶や尼僧の資格(税金逃れを封じるや行動を国家が管理し、僧侶たちの活動を厳しく監視していた。

その禁を破って行基集団(僧俗混合宗教集団:利他行集団)を形成し、畿内を中心に民衆や豪族などの階級を問わず広く人々に仏教を説いた

⇒当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。

 尚、僧尼令の処分者は行基のみ。

【7世紀半ばの社会背景と大乗仏教の「菩薩道:利他行」】

朝廷(王権)によって主導されてきた造寺・造仏は、地方豪族層に拡大し、各地に氏寺を造営していた。こうした仏教の普及の中で、僧たちの中には、衆生の救済を実現しようとする大乗仏教の菩薩道を実践しようと、造道、造橋などの社会事業を行うものも登場してきた。

道昭の社会事業もその一つである。道昭は日本における法相宗の祖であり行基の師である。行基もこの道昭が行った大乗仏教の菩薩道実践の一環として社会事業を展開したのである。

 尚、大乗仏教の「菩薩道」とは、自利・利他行を成就して悟りに至る道をいい、『利他行』とは他者を救済する行いを意味するが、この利他行を実践することも悟りに結実する修行であるとし、行基の各種社会事業はまさにこの「菩薩道」の実践そのものであった。

道昭:遣唐使の一員で653年に唐に渡り、玄奘三蔵に師事して法相宗の教えを学んだ。帰国後、法相宗の教えを広めるたに尽力した

道昭の晩年には全国に遊行しながら各地で土木事業を行った。特に橋や道路の建設に力を入れ、多くの地域でインフラの整備に貢献した

道昭の土木事業は、彼の宗教的な活動とともに、地域社会の発展にも大きな影響を与えた。

社会事業の資金提供者:地域の豪族

  1. 資金提供者:橋や道路の建設、治水工事などの土木工事は、地方の豪族の資金提供によって支えられていた。これにより、農業生産力の向上とその成果を生かす商業(物流)の発展が促進された。
  2. 民衆の生活環境の改善:行基の活動は、豪族の土地も潤す結果となり、彼の教えに従う民衆が増加した。

(出典:https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111c10.html

【行基は薬師寺(法相宗)にて教学(唯識)を学ぶ】

法相宗は玄奘三蔵が開いた仏教の一派で、その教えは『唯識』。唯識とは、すべての現象は心の働きよって生じるという仏教の哲学。玄奘三蔵はこの教えを中国に持ち帰り、弟子の慈恩大師によって法相宗として体系化された。

・唯識と行基の社会事業への深い繋がり

  1. 唯識の学びと実践:行基の社会事業は、『唯識』の「心の働きが現実を作る」という考え方に基づいている。具体的には、行基は人々の苦しみを取り除くはために、心の働きが重要であると考えた。
  2. 貧民救済・インフラ整備:社会事業を通じて、人々の生活を改善しようとした。これらの活動は、唯識の「利他行」(他人のためにっ行動すること)を実践するものであり、他人の苦しみを取り除くことで自分自身も幸福になるという考え方に基づいている

行基の活動は、唯識の教えを具体的な形で実践したものであり、彼の社会事業は唯識の理念を体現していると言える。

※日本では薬師寺と興福寺が法相宗の総本山。

【弾圧の対象から大仏勧進】

 743年、天然痘の流行、飢饉、政争等相次ぐ社会不安の高まりから、聖武天皇は国家の安定を願い「盧舎那仏造営の詔」を発しました。この大事業に対し大仏造営の勧進役に行基が起用されました。莫大な費用を調達し、多くの人夫を集めて行う一大公共事業を担えるのは、行基をおいて他にはいないと判断されたと考えられています

その2年後、当初は弾圧の対象であった行基が、聖武天皇によって我が国最初の「大僧正」に任じられ、官僧の頂点に立つこととなりました。行基が亡くなった749年の「続日本紀」には、彼が果たした業績や恩恵等から「行基菩薩」と記録されており、行基の残した様々な足跡は古代における民の力を活用したインフラ整備の事例として、時を越え我々に語り継がれることとなりました。

■アショーカ王と聖徳太子の人道主義的活動

仏教の精神を現実に具現

・両者共非常に似た活動を実行

⇒聖徳太子は崇仏派の蘇我馬子(大臣)をたすけ廃仏派の筆頭である物部守屋(大連)を討っにあたり、四天王に祈って戦い、丁未(ていび)の乱で勝利を収めた後、四天王寺を建てた事実から

⇒仏教の慈悲、ヒューマニズムの精神に欠けていたという非難が向けられている。

⇒しかし、慈悲心のみの帝王というのは空想の所産であり、現実にはどこにも存在しなった。

⇒帝王であるかぎり強権も執行する。

⇒慈悲心に富んでしたアショーカ王も、隋の文帝も、その例外ではなかった。

⇒強大な暴力を制するためには、

⇒帝王は力を行使しなければならぬ必要があることを聖徳太子は認めていた。

⇒力をもって、あるいは強権を執行することは、必ずなんらかの意味において悪をもたらす。

それは実は善を実現するために避けられない悪である

ただ世の多くの帝王にはそこになんら反省がなかったのに

新たに普遍的宗教を奉じた帝王には、

なんらかの反省があった

悪に対するおそれがあった。

これは尊いものであるといわねばならぬ。

これによって人類の歴史の新しいページが開かれたのである

普遍的帝王としての『聖徳太子』の独自性

⇒聖徳太子の出現ということも、

⇒人類の思想史の流れにおける、

⇒ある一定の時期に現れた一つの共通な事象の一環である。

しかし、また他の国々の場合と異なって、所得太子には独自のものがある。

⇒いろいろの点に見られるが、ことに普遍的な宗教の精神を社会や国家の上に生かそうとして

それを実際に具現したという意義において

⇒他の国々の諸帝王よりも卓越しているというべきであろう。

注)大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)の違い:蘇我氏は臣(おみ)と言う身分の一族であり、臣の中でも代表的な一族であったので大臣おおおみ)という地位を得ていた。物部氏は連(むらじ)と言う身分の一族であり、連の中でも代表的な一族だったので大連(おおむらじ)という地位を得ていた。

臣は畿内周辺の有力豪族であり、傍系ではあるが遠く皇族の血を引く一族の中から有力な豪族が選ばれた一方の連は、地方の有力豪族であり、皇族とは別系統ながら神々の血を引く一族であった

■社会奉仕の精神

◆聖徳太子の仏教:日本において根をおろした仏教かつ普遍的な意義を有す

その顕著な特徴として社会生活における活動を強調する思想

⇒これはもともと日本人に特徴的なように思われる。

⇒原始神道が農村の農耕儀礼と密接に結びついているものであり、

⇒神道の神々が生産神として表象されて今日にいたっていることは、周知の事実である。

⇒外国文化との接触交渉が行われるようになって、日本人はシナの宗教を知るが、

⇒その際、多少は老荘思想の影響を受けたけれども、

⇒しかしとくに儒教を選び取った。

⇒すなわち、種々多様なシナ思想のうちで、

とくに具体的な人間結合関係における実践の仕方を教える儒教を採用し、摂取したのである

⇒老荘思想は、ややもすれば個人的な人間結合関係から逃れ出て、

⇒山林にこもっておのれ一人の静安なる生活を求めるという隠遁主義に傾く傾向があるので、

⇒多くに日本人はこのような傾向を好まなかったのである。

ところが、儒教はもとももと現実的な教説であり

はたしてそれを宗教と呼びうるかどうかが問題とされているほどであって、

もっぱら人間結合関係に即しての行動のしかたを規定しているから

この点に関するかぎりは、儒教の移入にあたってなんらの摩擦を生じなかった

仏教の場合

さまざまな問題を提起した

仏教は出世間の教えであることを誹謗する

⇒仏教哲学においては、

「世間」を超えたところに「出世間」の絶対の境地を認める

仏教教団における中心存在はみな出家者であり

家族のみならずあらゆる特殊な人間結合関係の束縛から脱(のが)れ出た人である

⇒仏教は

⇒出家を説くから人間結合関係を破壊するものであるということが、

⇒シナにおいて儒教の側から盛んに非難された。

⇒日本においても同様に、近世になってから国学者や漢学者たちが盛んに非難している。

⇒仏教が伝来した当時にもおそらく同様の避難がなされたであろう。

⇒それにもかかわらず、仏教は江河の勢いで流れ入り、

⇒明治維新前においては日本はまったく仏教国の観を呈するにいたった。

具体的な人間結合関係を重視する日本人が

⇒人間結合関係を破壊すると非難される仏教をいかにして受容したのであろうか。この問題を考える。

⇒原始仏教においてはその教団の中心を構成していたものは、

⇒出家者である男性(比丘:びく)と女性(比丘尼:びくに)とであった。

在俗信者は

出家修行者を援助し保護するとともに、その精神的な指導教化に従っていた

⇒仏教ばかりでなく、当時の一般の宗教教団は

バラモン教をのぞいてその他はみな、出家修行者がその中心となっている

原始仏教はその社会的習慣に従ったままである

原始仏教の出家修行者たちは

世俗の汚れから離れてまず自分だけで理想的な社会(サンガ)を構成し

その宗教的道徳的感化のもとに世人を指導しようと努めたのである

だから出家したからといって、すぐに人間結合関係を破壊するとはいえない

⇒のみならず、当時の社会においては、

⇒多くの人びとの出家を必要とする社会的な理由があったのである。

しかしながら、日本の風土においてはインドとは社会的生活状態が異なるために

特殊な人間結合関係のうちにあって人間社会に奉仕することが要請される

このような要請にとっては原始仏教の思想はどうもしっくり適合しないのである

⇒そこで、原始仏教およびそれを継承している伝統的・保守的な仏教を

『小乗(=上座部仏教)』という名のもとに貶斥(へんせき)してとくに大乗仏教を採用したのである

大乗仏教は

クシャーナ族が北インドを支配した時代以降、すなわち紀元後に表面に現れ出た民族的な仏教であった。(クシャーナ朝のカニシカ1世(144年~171年))

⇒大乗仏教のうちのすべてがそうではないが、

そのうちのあるものは世俗的生活のうちにおいて絶対の真理を体得すべきことを教える

日本人は仏教を受容するにあたって、

とくにこのような性格のものを選び取った

また、本来はこのような性格をもたない教説をも

ことさらにこうした性格を与えて受け取った

『日本は大乗仏教の行われる国である』(大乗相応の地)という定型句の成立した理由は

このような基盤を顧慮してのみ理解できるのである

注)仏教の分裂:根本分裂と呼ばれている。

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html

<参考情報>釈迦(紀元前565年~紀元前486年)、アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)カニシカ王(144年~171年)

出典:https://www.koumyouzi.jp/blog/902/

大乗仏教のアウトライン】

大乗仏教は他者の救済と慈悲の実践を重視

  • 目的:他者の救済を重視(利他行)。
  • 修行方法:六波羅蜜の実践(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)。
  • 広がり:中国、朝鮮、日本(北伝仏教

<大乗仏教の特徴

大乗仏教は、初期仏教(上座部仏教)とは異なり、より広範な救済を目指す教えとして発展した。

  1. 普遍的な救済:大乗仏教は、すべての生きとし生けるものの救済を目指します。出家者だけでなく、在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げています
  2. 菩薩の道:菩薩(Bodhisattva)という概念が重要で、菩薩は自らの悟りを求めるだけでなく、他者の救済をも目指します。菩薩は修行を通じて他者を助けることを重視します。
  3. 空(くう)の教え:万物が本質的には無常であり、独立した永続的な自己を持たないことを指します。この「空」の概念は、大乗仏教の中心的な教義の一つです。
  4. 大乗経典:大乗仏教には独自の経典があり、代表的なものには『般若経』、『法華経』、『浄土三部経』、『華厳経』などがあります。
  5. 如来蔵思想:すべての衆生が仏性を持ち、修行を通じて仏となる可能性があるとする教えです。
  6. 地域的な広がり(北伝仏教):大乗仏教は、インド、中央アジア、中国、朝鮮、日本などの国々で広く信仰されている。

日本の仏教の多くの宗派も大乗仏教に分類されており、戒律は宗派ごとにさまざまに解釈

出典:https://president.jp/articles/-/42220?page=6

上座部仏教のアウトライン

上座部仏教は個人の修行と戒律の遵守を重視

  • 目的:個人の悟りを目指す(自利行)。
  • 修行方法:戒律を厳格に守る。
  • 広がり:スリランカや東南アジア(南伝仏教

<上座部仏教の特徴>

釈迦の教えを忠実に継承し、厳格な戒律と個人の修行を重視する仏教の一派で、スリランカで大成した

  1. 戒律の重視:上座部仏教では、出家者(比丘)に対する戒律が厳格に守られている。これはセックスしない、酒を飲まない、金銭に触れないなど、227の戒律が含まれている。
  2. 個人の修行:上座部仏教は、個人が修行を通じて悟りを開くことを目的としている。これは、大乗仏教が他者の救済を重視すうのとは対照的である。
  3. パーリ語仏典:上座部仏教は、パーリ語で書かれた仏典を使用し、これを通じて釈迦の教えを伝えている。
  4. 口伝の伝統:仏典は「読む」書物というよりも「詠む」書物として、声を介して身体に留める伝統が培われている。
  5. 地域的な広がり(南伝仏教):上座部仏教は、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス、スリランカなどの国々で広く信仰されている。

上座部仏教は、釈迦の教えを純粋な形で保存し続けることを目指しており、その厳格な戒律と個人の修行を重視する姿勢が特徴。

注)クシャーナ朝のカニシカ1世(144年~171年):仏教の保護者としても知られ、彼の治世下でガンダーラ美術が発展し、初めて釈尊(ブッダ)の像、仏像がつくられた

マウリヤ朝は、アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年の死後、急速に衰退。
紀元1世紀頃には、「クシャーナ朝」がインダス川流域を支配していた
仏教は、クシャーナ朝でも保護された。
しかし、“出家した者のみが救われるという考えは、利己的である”という批判が出始めます
その考えのもとに生まれたのが、大乗仏教でした

インダス川の上流域は、中央アジアとつながる東西交易の重要な拠点でした
そのため、大乗仏教は、中央アジアを経て中国へ、そして、朝鮮半島、日本にまで伝わった。

出典:https://www.kawai-juku.ac.jp/spring/pdf/text201958-535673.pdf

出典:左図)https://butsuzou.themedia.jp/posts/7717652/ 右図)https://www.louvre-m.com/collection-list/no-0010 下図)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

仏教を受け入れるにあたっての態度世俗的生活のうちにおいて絶対の真理を体得すべきこと

聖徳太子が世俗生活を肯定する立場で選定した三教とその「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」

⇒聖徳太子の「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」とは、

①勝鬘経(しょうまんぎょう)

②維摩経(ゆいまぎょう)

③法華経(ほっけきょう)

⇒とに対する注釈であるが、数多い仏教の諸経論のなかからとくにこの三経が選ばれたということは、

⇒まったく日本人的な思惟方法にもとづいてされたことである。

①勝鬘経(しょうまんぎょう)は、

国王の妃であり在俗信者でもある勝鬘夫人が釈尊の旨を受けて教えを説いたものであり、

②維摩経(ゆいまぎょう)は、

在俗信者(資産家)である維摩居士が逆に出家修行者たちに対して教えを説くという戯曲的構想のもとに、在俗生活のうちにおける真理の体得を教えている。

③法華経(ほっけきょう)によれば、

仏の教えに帰依するいっさいの衆生が救われるということになっている

⇒太子自身も終生一個の在俗信者であった。太子みずから「仏子勝鬘」と称したことが伝えられている。

ゆえに聖徳太子の意図は、

世俗生活のままで具体的な人間結合関係のうちにおいて仏教の理想を実現しようとするほうに重点が置かれていたのである

聖徳太子の「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を通じて見ると

日常生活の上の個々の実践的行為に絶対的な意義を見いだそうとしている

人間結合関係における活動を重視するゆえに

ひとたび仏教的反省を経たならば

汚濁苦悩の世界がそのまま楽しみの境地となる。

「物(もつ)<衆生>を(教)化せんとするのがゆえに

生死(しょうじ)を観(み)ること国のごとし」。

生死輪廻(しょうじりんね)の世界において実行するところのあらゆる善が

やがては人びとをして仏の位にいたらしめる原因となる。

「無量の万善(まんぜん)は同じく成仏(じょうぶつ)に帰す」

⇒ここで注目すべきは、宗教的な究極の境地は、

人間を超越した神的存在によって授けられるのではなく

人間結合関係における実践を通じて実現されるのである

「仏としての果(報)は万(よろず)の善によって起こる」

⇒大乗仏教においては利他行を強調するが、

⇒聖徳太子はとくにこの点を強調し、

仏や菩薩たる者は、一切衆生を供養すべきであると考えた

⇒そのため、ときには経典の文句に対して無理な解釈を施してある

注)聖徳太子の「法華経」に対する捉え方

⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、

治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある

一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない

どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので

山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない

⇒聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである。

⇒こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。

■社会的な奉仕を強調した聖徳太子

◆勝鬘経(しょうまんぎょう)

⇒「財を捨(しや)すとは‥‥一切衆生の殊勝の供養を得るとなり」とあるのに対して、

「語は少しく倒せり。まさに殊勝の一切衆生を供養することを得というべし」と説明する

⇒つまり、経典の文句を恣意的に書きかえて、奉仕精神を力説しているのである。

◆「法華経(ほっけきょう)では

⇒「常に座禅を行え」と勧めているのに、

聖徳太子はその文書を

「常に座禅を行うような人に近づいてはならぬ」という意味に改めている

⇒その趣意は、つねに座禅ばかり行っていたのでは利他行が実践できないからというのである。

聖徳太子と同様の思想

⇒その後の仏教を一貫して流れている。

伝教(でんぎょう)大師最澄によれば、出家者も在俗者も同一理想を実現すべきであり、<真俗一貫>

弘法大師空海によれば、現実に即して絶対の理を実現すべきである<即時而真(そくじにしん)>

⇒そうして、この態度がその後の仏教においてさらに発展し、日本仏教の特性を示すこととなる。

◆この態度にもとづいた仏教の道徳

⇒また変容された。

⇒たとえば、布施(施し与えること)ということは仏教の強調する重要な徳目であるが、

インド人は

これを徹底的に実行すべきであると考えた

⇒多数の仏教経典のなかには、財産のみならず国・城・妻子さえも、いや、自分の身体さえも捨てて他の人8あるいは生きもの)に与えてしまうことが称揚されている。

⇒そのような徹底した捨離・無一物の生活を、インド人は修行者の理想として描いていた。

具体的な人倫を重視する日本人の現実の倫理観にとっては、

このような極端なことは許されない

聖徳太子は、「施し」の意義を

「身体以外の所有物を捨ててしまう」というだけに限定している

人倫をも無視して極端にまで達するインド人の思惟傾向がここに修正されつつ

仏教が摂取されたのである

我が国において宗教の真理が

現実に具現され展開されるための基礎が

聖徳太子によってつくられたということができるであろう。

■社会奉仕の精神の影響

・聖徳太子の社会福祉施設

四天王寺を建て、

社会救済事業の最初の試みとして悲田院など四院の施設を設けた。

出典:左図)https://www.shitennoji.or.jp/shotokutaishi.html 四天王寺

⇒これが一つの理想的な範型となって、後代の人びとに影響を及ぼしている。

⇒悩める人びと、苦しんでいる人びとを救うために活動を起こした高僧は大勢おり、

⇒皆、聖徳太子を仰いで、それに習いたいと思っていたわけである。

◆忍性律師(にんしょうりつし)

・鎌倉後期の真言律宗の僧(1217年~1303年)で、一時、四天王寺の別当をしていた

⇒忍性は、奈良の北部般若坂のところにも、ハンセン氏病患者の収容施設を建てた。

⇒北山十八間戸(きたやまじゅうはつけんど)という。

⇒忍性は、病人を背負っては、奈良の町へ連れていって買い物をしてやったという。

⇒かれの建てた施設は火災焼けたが、土地の人が惜しんで、元禄時代に昔とそっくりのものを建てたという。

⇒般若坂に訪れてわかったことは、そこにいると、遠くの方に興福寺の塔と、法隆寺の塔が見えて、

⇒病人たちは心の安らぎが得られる。

⇒かれはそこまで考えていたのである。

<北山十八間戸の位置と再現施設>

その後の忍性律師の活動方面

⇒東(関東)へ下って、諸方でたいへんな活動をした。

⇒例えば、鎌倉の大仏の近く桑ヶ谷では療病舎を建てた

⇒親しい人でも疎い人でも、その区別なしに病人が集まった。

⇒だれでも、機嫌はどうかと尋ねたという。

⇒そこで20年間に病の癒えたものは四万六千百人。亡くなった人は一万四百五十人。

⇒会わせて五万七千二百五十人の人が、そこで療病看病を受けたということになるが「性公大徳譜」などに伝えられている。

⇒また、鎌倉の極楽寺には、当時の活動状況を示した絵巻が残っている。

  極楽寺の山門      極楽寺の井戸(粥を施すために使用)     桑ヶ谷療養所跡

注:桑ヶ谷療養所跡は大仏と長谷寺の間にひっそりと石碑が建立されていた(2024年6月26日訪問) 

・それ以外の忍性律師の活動

⇒諸国に橋を架けること189か所、水田の開墾22か所、180町歩に及ぶ。

⇒道路の改修71か所、井戸の掘削33か所、浴室と療病所と乞食の収容所とを、おのおの5か所につくり、

⇒乞食する人たちのためには、布の衣三万五千着を与えた。

鎌倉では、極楽寺門前から由比ヶ浜へ通ずる切り通しを開いた。

⇒これは、由比ヶ浜の波が荒く、それをよけることによって船の着くのを便利にするためで、

⇒幕府はその志に感じて、直接、間接にこれを助けたが、これは大変なことである。

関西では、宇治橋の修築が、以前は叡尊律師(忍性の師)が手がけたものだとされていたが、

⇒後になると、忍性がつくったのであろうというような推定も、「洛陽名所集」の中で述べられている。

注)四天王寺の別当(べっとう):寺院の統括や監督を行う重要な地位。この役職は、寺の運営や管理を担当し、歴史的には多くの著名な僧侶がこの地位に就いていた

例えば、鎌倉時代には忍性が別当として四天王寺に入寺し、社会福祉事業を推進した。また、弘安5年(1282年)には、天台座主の最源と園城寺長吏の隆弁が別当の地位を巡って争った際、叡尊(えいそん)が朝廷の要請を受けて別当に就任した。

四天王寺の別当は、単なる管理者ではなく、寺の精神的な指導者としての役割も果たしてきた。歴史を通じて、四天王寺の別当は寺院の発展と地域社会への貢献に大きな影響を与えてきた。

注)叡尊(えいそん):真言律宗の僧侶であり、忍性の師。叡尊は鎌倉時代中期に活躍し、戒律の復興や社会福祉活動に尽力した。叡尊は西大寺を拠点に活動し、貧民や病人の救済にも力を注いだ。

忍性は叡尊の教えを受け、同じく貧者や病人の救済に尽力した。彼らの活動は、当時の社会に大きな影響を与えた。

注)真言律宗の開祖:平安時代初期の弘法大師空海は真言宗の創始者であり、真言律宗の教義の基礎を築いた。しかし、真言律宗として形を整えたのは叡尊。叡尊は戒律の復興と社会福祉活動に力を入れ、真言律宗を復興した。

注)真言宗:創始者は弘法大師空海。

  • 教義: 密教の教えを基にしており、特に即身成仏(生きたまま仏になること)を重視する。密教の儀式や真言(マントラ)を唱えることが特徴。

注)仏教の戒律:不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことをさす。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいた。妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向かう。不淫の戒など守られていなかった。

■西洋まで範囲を広げて社会奉仕の精神を確認する

◆人びとを救った観点から

・西洋では、ほぼ同時代の聖フランチェスコ(1182年~1226年)が有名であるが、

⇒社会性という点では忍性律師のしたことのほうがはるかに大がかりであり、全国に広がっている。

こういう、人びとをいたわり愛するという精神の活動は古代西洋にはなかった

古代西洋の社会は奴隷経済制であったから

自由民と奴隷との区別がはっきりしている

⇒だから奴隷の為の施設などをつくる必要がないのである。

ストアの哲人は愛を説いたけれども、それを具現しなかった

ようやくキリスト教によって

⇒コンスタンチヌス帝の改宗とともに現れるようになったが、それは非常に遅い。

四世紀の末に、バシリオスが、カエサレアというところに、はじめてハンセン氏病の病院をつくった

⇒それから聖クリソストスが、コンスタンティノープルに病院をつくった。

⇒ユスチニアヌスが、病院を教会の設立物の一つとして認めている。

パリに、メゾンデュー(神の家:オテルデュー)というのがあった

これがヨーロッパ最古の病院だといわれている。(パリのオテルデュー(Hôtel-Dieu)は非常に古い病院。オテルデューは651年に設立され、この病院はセーヌ川のシテ島に位置しており、現在もパリ市民に医療サービスを提供している)

⇒世界でいちばん早く作られた福祉施設は、ドイツの南のアウグスブルクにある。

⇒そこは1519年にフッガー家の使用人の家族の老齢者のために建てたものであるというが、年代はずっと後になる。

⇒そこに入るのには条件があり、

⇒第一に、カトリック教徒であること。第二に、58歳以上であること。第三に、収入の少ない人であることで、

養老院のようなものであったが、条件が限られていた

注)聖フランチェスコ(1182年~1226年)の社会事業:カトリック教会の修道士であり、フランシスコ会の創設者として知られている。彼の社会奉仕事業は多岐にわたっており、特に以下の点が重要。

  1. 貧困者への支援:貧困者や病人への奉仕を重視し、自らも清貧な生活をおくった。彼はハンセン病患者に近づき、抱擁して接吻することで恐れを克服し、病人への奉仕を行った。
  2. 教会の修復:荒廃した教会を修復する活動を行った。サン。ダミアノ教会の修復が有名。
  3. 宣教活動:街頭や広場で市民に向けて聖書の教えを説き、多くの人々をフランチェスコ会に引き入れた。
  4. 自然環境の保護:自然を愛し、動物や環境の保護を訴えた。自然環境の守護聖人としても知られている。

フランチェスコの生涯とその奉仕活動は、彼が「キリストに最も近い聖者」と称される所以である。

注)パリの「メゾンデュー(神の家:オテルデュー)」:651年にパリ司祭ランドリーによって設立された。この施設は、病人や貧しい人々を受け入れるためのものであった。設立当初から、孤児や貧困者、巡礼者を支援する役割を果たしていた

現在の建物は、1877年にシテ島のノートルダム大聖堂の隣に建設され、フランス最古の病院として知られている。

  1. 起源:西ヨーロッパでは、5世紀に西ローマ帝国が崩壊した後、カトリック教会とその司教だけが、相次ぐ大規模な侵略によって避難民となった住民を安定的に統治することができた。そこから、司教座のある都市、修道院近くの遠征における救済と受け入れ体制 (保護、宿泊施設、ケア等) が生まれた。
  2. 施設の意図:福音宣教の手段であり、権力者や富裕層 (財団と遺産) に対する慈善の敬虔さを示す手段でもあった。
  3. 施設の設置者:女王や国王、司教、貴族、または裕福な地元ブルジョワによって設立されることが多く、キリスト教信仰の印の下に置かれている。
  4. 16世紀以降は貧困者の監視施設に変貌各病院には民間警察がおり、市中で物乞いを探し出して病院に連れて来る。慈善活動はもはや「もてなし」(ケア) によって示されるのではなく、むしろ「監禁」というかたちで、貧困の問題を解決しようとした。貧しい人々は世話されるだけでなく、監督され、病院の作業所で働かされた。マルセイユのヴィエイユ・シャリテ(英語版) (救貧院、残忍な物乞い狩りの象徴的な施設、現在は、博物館になっている) はその典型的な例である。
  5. 病院の過密状態、中世末期から続く衛生状態の悪化:18世紀を通じて財政難に寄る神の家は赤字の深刻化に悩まされており、批判的な報告が増えている 。ドヴェーズ川沿いに建てられたボルドーの病院では、患者はベッド4台に対して便器が1つしかなく、乾燥するとほとんどの場合川に捨てられていた。

出典:Wikipedia(オテルデュー)左図)パリ市立病院 右図)1500年頃のパリのオテルデューの一室

※右図の説明:右側では、病人に食事を提供する姉妹。左側の前景では、司祭が最後の儀式を執り行う瀕死の患者のベッドの前で、2人の姉妹が死者の覆いを縫っている。

・忍性律師がつくつた病舎

⇒いかなる制約もない

⇒何々宗でなければいけないという規定はない。

⇒また、どこそこの使用人でなければいけないということもない。

あまねく悩める人、苦しむ人を、みな救おうとした。

その精神は聖徳太子に由来するわけである

さらにさかのぼると、仏教の長い伝統のなかで、いくらでもあげることができる。

⇒原始仏典にも、アショーカ王の詔勅勅文にもはっきり示されている。

⇒つまり、東洋には、

人びとをいたわるという精神がずっと受け継がれていて

⇒日本では聖徳太子によって顕揚されていたということが、はっきりといえるのである。

出典:右図)https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/v-buttou-1.htm

注)サーンチー(Sanchi、: साञ्ची Sāñcī):大仏塔や寺院跡、アショーカ王の石柱跡などの仏教建築群や、精緻な仏教彫刻で知られる仏教遺跡である。ここにはアショーカ王の治世に関する多くの碑文が残されており、これらの碑文には、療病院の設立に関する記述も含まれている

■東アジア諸国への影響

東アジア諸国で崇敬されていた聖徳太子

・『隋書』に記載された太子

⇒阿蘇山の記と国書記との間に、

新羅・百済みな倭を以て、大国にして珍(宝の意)物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使し、往来する。

⇒としるしている。

⇒シナ人がしるしているので、日本に対する評価としては客観性をもっているといえる。

⇒また、『隋書』には、国書問題の記のあとに、「明年」(608年、推古帝の十六年四月)に隋の煬帝(ようだい)は裴世清(はいせいせい)を聖徳太子のもとに派遣したことを伝えている。

⇒太子はこの使節を迎えて、大いに喜んで、いった。

われ聞く、海西に大隋礼儀の国ありと。故に、遣わして朝貢せしむ。我は夷人(いじん)、海の隣に僻在(へきざい)して礼儀を聞かず。これを以て境内(けいだい:倭国内)に稽留(けいりゅう)し(ひっこみ思案で外遊しない)、即ち相見えず。今ことさらに道を清め、館を飾り以て大使を待つ。冀(ねが)わくは大国惟新の化を聞かんことを。

⇒と記している。

⇒っこれは外国の使者をねぎらっての思慮深い態度に由来するのであろう。

⇒(資料は、たなかしげひさ「大隋国の聖徳太子崇拝」、雑誌「四天王寺」第320号、昭和42年6月。53項以下による)

太子の思想

⇒当時東アジアの中心であったシナさえも影響を与え、鑽迎(さんぎょう)された。

※鑽迎(さんぎょう)とは、聖人や偉人の徳を仰ぎ尊ぶことを意味する。

⇒太子の「勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏(ぎしよ)」が唐代に、シナ大陸にもたらされ、

⇒明空(みょうくう)という僧が注釈書を著した。

⇒(尚、「法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)」や「勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏(ぎしよ)」がシナ大陸に知られていたことについては、花山信勝訳「「法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)」下巻、岩波文庫、昭和55年5月、392項以下参照)

注)裴世清(はいせいせい)とは:6世紀後半から7世紀前半にかけての中国隋・唐代の官吏。彼は河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)出身で、隋の煬帝の命令で倭国(日本)を訪れた使者として知られている。

607年、倭国の倭王(多利思北狐:聖徳太子以外に推古天皇、蘇我馬子の説もある)が隋に遣隋使を派遣したが、その国書の内容に煬帝が立腹した

それにもかかわらず、翌年の608年に煬帝は裴世清を返礼使として日本に派遣した。裴世清は対馬、筑紫(現在の福岡県)を経由して日本に到着し、推古天皇に隋の皇帝の親書を伝えた。

裴世清の訪日は、隋と倭国の間の外交関係を深める重要な役割を果たした。隋と倭国の間で文化や技術の交流が進んだ。

注)煬帝が怒った理由:607年に倭国から隋に送られた国書の内容にある。この国書には「日出處天子至書日没處天子無恙云々」(日出づる処の天子が、日没する処の天子に書を送る)と書かれており、これは隋の皇帝に対して対等な立場を示すものであった。この表現が煬帝にとって無礼と感じられたため、不快感を示した。

注)万巻の経典から聖徳太子が選んだ三経とその解説書(三経義疏):世俗生活を肯定する立場で選定した三経。

・三つの経典の解説書

①勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏(ぎしよ)

②維摩経(ゆいまぎょう)義疏(ぎしよ)

③法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)

詳細内容はサブタイトル:聖徳太子(地球志向的視点から)~③万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記をご確認願います。