聖徳太子(地球志向的視点から)~①ロゴス(logos)の現れが「聖者」と宗派(教義=ドグマ)を超える「信仰」~中村元著より転記

■世界史の流れのなかの日本

◆わが国の建設者(分割支配から統一国家形成)である聖徳太子

・太子以前は

⇒いくつかの有力な豪族の支配の下に分割されていた。

⇒聖徳太子の時代から、日本は統一国家を形成するようになった

⇒一つのまとまった国になったといっても、辺境の地には、まだ異民族が残っていたと考えられる。

⇒奈良朝末期から平安初期の武将であった坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ:758年~811年)は征夷大将軍として蝦夷(えぞ)征伐を行った。

⇒「夷」と呼ばれる異民族が辺境に存在していたのである。

⇒しかしこの異民族は、中央政府を転覆し得るほどの力は、もっていなかった。

⇒大和王権以外に考古学者がいうところの北九州王朝、出雲王朝、備前備中にあった王朝等が存在していたいうが、

⇒聖徳太子以降には、姿を消していまった。

・日本の文化

⇒アジア大陸の東の端、極東に成立し、世界史的には離れ小島にあるわけで、

⇒現在でも島国としての制約はまぬがれない。

⇒しかし、非常に古い時代から、すでに日本の国は世界の人間の動きのなかに巻き込まれていて、

⇒日本人が日本という独自の国を意識し、国民生活を形成するということは、世界史的な動きにおいてのみ可能であったのである。

⇒しばしば考えらるように、孤立した民族としてそのようなことを実現したのではない。

◆「うるち」と「かはら」

わが国は「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国」といわれている

⇒しかし、「瑞穂の国」ということは、世界史的な動きの一環として理解されねばならない。

米のことを「うるち」と呼ぶことがある

⇒これはサンスクリット語(梵)のバリーヒ(vrihi=米殻)からきたものである。

⇒東南アジアの海岸沿いの諸国で「米」を意味する諸語は大同小異であって、

バリーヒ(vrihi=米殻)や「うるち」に似ている

⇒この事実の意味することは、稲作はインド平原から出発して、

⇒東南アジアの海岸諸国を通じて、ついに日本にまで及んだのである。

⇒だから「米」を意味する単語が諸言語を通じて似ているのである。

釈尊(釈迦:紀元前563年~紀元前483年頃)の父は浄飯(じょうはん)王(スッドーダナ)という名

⇒清められた白米のごはんを貴ぶということは

⇒われわれ日本人にとっては先祖以来本能的なのである。

⇒その観念が釈尊の本国ネパールにもあるわけである。

⇒釈尊(釈迦)はインドで活動されたが、生まれはネパールである。

⇒ネパールの奥地でもう稲作が行われていた。

⇒そのあたりから発した仏教がそういう共通の文化圏であることによって

⇒ずっと極東の、東海の果ての島国日本へ移ってきており、この日本で栄えている。

⇒なにか社会的・風土的な理由もあったような気がする。

ただ米という一つのことを手がかりとして、

⇒私どもは仏教以前に釈尊の国とわが国とつながりがあったのである。

つまり世界の国々は緊密に結びついているということがこの点からもいえるのである

・仏教が入って来ると

⇒ますます事情は変化する。

⇒日本では、昔は宮殿といえども瓦ぶきなどというものはできておらず、

⇒貴族といえども茅(かや)ぶきの家に住んでいた。

⇒ところが仏教到来とともに、聖徳太子はが四天王寺とか法隆寺とかを建てられた。

⇒こうして、立派な瓦ぶきの大寺院ができ上った。

  山形県寒河江市にある慈恩寺                法隆寺

⇒これも世界史的な動きのなかで理解されなければならない。

「瓦」を「かわら」と書くが、古代日本語におけるその発音は「かばら」である。

⇒これはサンスクリット語の「カバーラ」(kapāla)の転じたもので

「カパーラ」は「葛波羅」「葛婆羅」などが音写され、

⇒漢訳仏典では「瓦」「塼瓦(せんが)」などと訳され、素焼きの器または素焼きの粘土板をいう。

ゆえに「かわら」という名称は、遠くインドに由来するのである。

だから最古代においてさえも、日本人の生活は世界史的な動きから切り離して考えることはできないのである

⇒こういう実情にある古代日本において、

⇒人びとが最初に思想的自覚を表明したのは、飛鳥時代および奈良時代においてであった。

そこでは普遍的思想体系としての仏教が、

⇒アジアの普遍的言語であった漢文をもって独自のしかたで論述されている。

⇒そのすがたをわれわれはここで問題とするのである。

注)稲作の発祥地について:中国の長江流域が有力とされている。考古学的な調査や遺伝子研究によると、稲作は約1万年前に中国の長江中流域で始まったと考えられている。インドのガンジス川流域でも古くから稲作が行われている。

稲作が中国からインドに伝わったのは、紀元前2500年頃とされている。この時期、稲作の技術が東南アジアや南アジアに広がり、インドにも伝わったと考えられている。

日本に稲作が伝わったのは、約2500年前の縄文時代(1万6500万年前~紀元前4世紀頃)の終期で福岡市の板付遺跡(約2400年前)、青森県田舎館遺跡(約2000年前)からは水田の跡が発見されており、伝搬ルートとして以下が考えられる

  • 長江(揚子江)下流域から淮河流域を経て、山東半島から対岸の遼東半島・朝鮮半島西南部を経て九州北部に至る
  • 長江下流域から直接九州北部に至る
  • 中国華南・台湾から琉球諸島を経て南九州に達する(柳田国男の提唱した「海上の道」である)

稲作の伝播ルート】

出典:左図https://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/annual_exhibitions/PLANT2002/02/12.html 右図https://www.maff.go.jp/chushi/nousei/hiroshima/syokuiku/kyousitu/dokokara.html

注)インディカ米とジャポニカ米の違い:

ジャポニカ米

  • 形状:丸みを帯びた楕円形。
  • 食感:炊くと粘り気があり、ふんわりと柔らかい。
  • 主な産地:日本、朝鮮半島、中国北部など。
  • 調理法:炊く、蒸すのが一般的。おにぎりや寿司に適している。

インディカ米

  • 形状:細長い形。
  • 食感: 粘り気が少なく、炊きあがりはパラパラとしている。
  • 主な産地:インド、タイ、ベトナム、中国南部など。
  • 調理法:炊く、煮る、茹でるなど。カレーやピラフに適している。

【仏教の伝播ルート】

出典:https://www.koumyouzi.jp/blog/902/

注)土器の大まかな変遷

  縄文土器(火焔型土器)       弥生土器        鬼瓦(飛鳥時代)  

縄文土器(縄模様)約13,000年前頃から:野焼き(素焼き:低温成形:容器内の液体が染み出す

弥生土器(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀):野焼き(高温成形化:容器内の液体が染み出さない

瓦(588年伝来):窯焼き(高温・高強度・防浸透性)

崇峻(すしゅん)元年(588)に朝鮮半島の百済から伝わった建物の屋根に葺く材料の1つ

⇒『日本書記』によると崇峻元年、仏舎利・法師とともに、寺工2名(寺院建築の技術者)・露盤(ろばん)博士1名(鋳造技術者)・瓦博士4名(瓦作りの技術者)・画工1名(壁画等の絵師)が献上されたことにより、飛鳥寺(法興寺)を造り始めた

※第29代欽明天皇(538年~571年)13年目(552年)に仏教が伝来した説

・百済の聖明王の使者が

⇒欽明天皇に釈迦仏の金銅像一軀、幡蓋若干、経論若干巻と共に、

⇒仏教信仰の功徳を賞賛した上表文を献上し、

⇒仏教が伝わってきた。

 尚、上記公伝以前に渡来人による仏教伝来は既にあり、百済からの仏教伝来した年は538年説が有力。

■四方の人

奈良朝のコスモポリタン的性格の象徴

「唐招提寺」という名である。

⇒人びとは古美術を連想するが。

そこに表現されているコスモポリタンの理想をあまり知らない

唐から来朝した鑑真和上(がんじんわじょう)が開いたから

⇒「唐」という名を最初につけ

⇒さらに、「招提」とはパーリ語などでチャートゥッディナ(cātuddisa)という語の音を写したわけであるが、

チャートゥッディナとはチャートゥ(cātu=四つの意)とディナ(方角)という二語から形成された語で、「四方の」「四方の人」「万人への(愛情)」という意味である

⇒世俗の人には家庭があり、村落共同体に属し、また国に属する者であり、ときには他の人と争うこともある。

⇒しかし出家した仏弟子には、家もなければ、郷里もなく、国もない。

⇒いかなる土地にもとらわれず、因縁のあるがままに遍歴する。

⇒スリランカの僧が船に乗ってミャンマーに行けば、たとい未知の人びとであっても、兄弟として受け入れられる。

⇒国が違うからといって敵視されることもないし、虐待されることない。

かれは「四方の人」であり、万人を友としているのである

⇒仏典のなかの古い長老の詩を集めた書物である「テーラ・ガーター」のなかではこういっている。

われは万人の友である。万人のなかまである。一切の生きとし生けるものの同情者である。慈しみのこころを修して、つねに無傷害を楽しむ。

⇒「四方の人」をドイツの学者は「世界市民」(Welttbűrgger)と訳している。まさにコスモポリタンなのである。

四方の人、コスモポリタンとしての理想を、鑑真和上(688年~763年)は身をもつて実践した

⇒ひとたび日本に渡ったら、もう故郷へ帰ることができない。

⇒蛮民が住んでいると思われていたであろう東方の島に骨を埋めようとした決意ーそれは鑑真における「四方の人」のすがたであった。

注)鑑真:鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派

注)戒律とは:仏教において、修行者の生活規律のこと。

自発的に規律を守ろうとする心のはたらきを指す戒(: śīla)と他律的な規則をさす律(: vinaya)とを合わせた語。

出典:https://eich516.com/note04/note04_0104/touseidenemaki 東征伝絵図(唐招提寺)

・奈良朝の文化のコスモポリタン的性格

⇒正倉院御物などによって具体的に実証されるのであるが、

⇒単に美術品・工芸品という範囲だけではなくて、

⇒宗教的理念の領域においても、それが実証されるであろう。

⇒当時の人びとは、現実には極東の狭い島国に閉ざされて暮らしていたけれども、

かれらの主観的意識の面においては、コスモポリタンであろうと望んでいた。

⇒こいう古代日本の精神的雰囲気のなかから生まれた象徴的な人物が聖徳太子(574年~622年)であり、

⇒その生涯と著作(三教義疏)を中心にとして、飛鳥・奈良時代の精神を、まとめあげる。

※三教義疏(さんきょうぎしょ)の詳細内容はサブタイトル『聖徳太子(地球志向的視点から)~③万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記』に記載

■寛容の精神と聖徳太子

◆天台宗

天台の思想は、

⇒日本の仏教の根幹になっているといえるのであるが

その特徴的な思想は『十界互具』である

⇒だから可能性としては、仏菩薩といえども、間違えれば悪人になる。

⇒反対に、いかなる悪人といえどもどこかに仏性があって、

⇒すぐにはだめかもしれないけれども、

⇒なにか導きに会えば、成仏することもできるという可能性が認められている。

仏教では『一切衆生悉有仏性』(一切衆生は悉(ことごと)く仏性有り)という

⇒この考え方が、西洋にはない(西洋の神秘家のあいだではこういう見解もあったと思うが、異端として弾圧された)。

西洋では、神と人は絶対の断絶がある

ところが日本では、『衆生本来仏なり』である

だから亡くなった人を『仏』と呼ぶ

⇒生きている間にはどんなことをしたか知らない、悪人もいたかもしれないけれども、

亡くなってしまって仏の慈悲に摂せられたならば、

もう仏と同じものにしていただいたという考え方があるから

亡くなった人のことを『仏』という

⇒その表現が、日常わりあい楽に出てくる。

⇒ところが西洋の言語では、亡くなった人のこと『ゴッド』ということは、絶対にない。

絶対の断絶があるわけである

そして、私たちは互いに会うと、おじぎをする。それから合掌もする。

⇒合掌は、仏に対して、あるいはお寺に対いてするという具合に、いちおう区別しているが、

⇒南アジアの国々の人びとは、お互いに会うと合掌する。

⇒それは何故かというと、これは仏教思想ばかりとはいえないけれども、

⇒仏教に似たような哲学、思想がある。

⇒つまり、ウバニシャッドからヴェーダーンダに至る考え方で、

⇒銘々の人の奥にアートマンー本来の自己ーというものがある。

⇒本来の自己というものが絶対のものであり、貴い

⇒それはブラフマンと一致する。

だから、内にある貴いものをみな銘々の人がもっているのだから、

お互いに拝むのだと説明している。

⇒だからその観念は、ウバニシャッド的、ヴェーダーンタ的であるが、

⇒しかし、基調においては、仏教の『悉有仏性』の考え方と同じである。

注)ウバニシャッド:古代インドの哲学書。ヴェーダの最後の部分に位置す文献群。ウバニシャッドは「近くに座る」という意味を持ち、師から弟子へとひ秘教的な教えが伝えられる様子を表している。

ウバニシャッドの中心思想は、宇宙の根源であるブラフマン(梵)と個人の本質であるアートマン(我)が本質的に同一であるという『梵我一如』の概念。この思想は、輪廻からの解脱を目指すものであり、後の仏教やジャイナ教に影響を与えた。

ウバニシャッドは紀元前800年から紀元前200年頃にかけて成立し、バラモン教の形式的な儀式に対する批判から生まれ、内面的な思索を重視する哲学的な内容が特徴である。

注)ヴェーダーンタ:インド哲学の主要な学派の一つで、特にウバニシャッドの教えに基づいている。『ヴェーダーンタ』という言葉は、サンスクリット語で『ヴェーダの終わり』を意味し、ウバニシャッドを指すこともあり、ヴェーダーンタの基本概念はウバニシャッドと同じで『梵我一如』の概念

主要な学派

  • アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論): シャンカラによって提唱され、ブラフマンとアートマンの究極的同一性を強調します。
  • ヴィシシュタ・アドヴァイタ(制限不二一元論): ラーマーヌジャによって提唱され、ブラフマンとアートマンの同一性を認めつつも、個々の魂の独立性も認めます。
  • ドヴァイタ(二元論): マドヴァによって提唱され、ブラフマンとアートマンの二元性を強調します。

注)輪廻の解脱:人は、生まれてから、病(やまい)の苦しみ、老いの苦しみを経て、死に至る。死んだ後は、すぐにまたどこかで何かに生まれ変わり、同じ苦しみを味わう。それを、過去から未来永劫まで、際限なく繰り返していかなければならない。

この輪廻から逃れることを「解脱(げだつ)」という。
解脱するには、出家して修行をし、悟りを開くことが必要だと考えられていた。

出典:https://www.nhk.or.jp/kokokoza/sekaishi/contents/resume/resume_0000000680.html?lib=on

◆東洋と西洋の相違

・東西の思想対決の場合

⇒キリシタンが日本に最初に来たときに、仏教徒と互いに論議をした。

⇒その場合に仏教の僧侶も参加した。

どちらも普遍宗教であるあるから、非常に似た教えがあるが

⇒日本人がどうしても理解してくれないことがあったことを、

⇒カトリックの宣教師が、その当時に書いている。

何を理解しなかったというと、『永遠の罰』という観念である。これはやっぱり西洋的である。

ドグマ(教義)を立てて、神と人を絶対に離すのがキリスト教だと理解されているけれども、

⇒わたくしは素人であるから、素人なりに非常に大胆な発言をすると、

⇒これはカトリックとかプロテスタントで確立した教義で理解するから

⇒そういうことになるので(神と人を絶対に離す)、

キリスト教の歴史というのは、もっと豊かで、広い、長いものだと思う

⇒アレキサンドリアの教父たちの書いているものを読むと、

⇒非常に仏教的であることに気づく。

⇒これはわたしが勝手にいっているのではなくて、ドイツの有名な宗教学者たちがいっている。

⇒たとえばエルンスト・ベンツ(Ernst Benz)という学者は、マーブルヒ大学の教授で、日本へも来て、同志社大学で教えていたこともある。

⇒かれが『初期キリスト教神学に及ぼした仏教の影響』という本を書いて、

⇒初期のキリスト教神学には仏教の影響があるということを指摘している。

⇒これはドイツのウィーズバーデンの学士院から出ている本であるから、まんざらでたらめだとはいえないであろう。

⇒このことをどう考えるかと、ドイツの有名な宗教学者であるフィードリッヒ・ハイラー博士に聞いてみた。

⇒ハイラ—博士は、そこに書いてあることは全部本当だという。仏教の影響はまだまだあるという。

◆アレキサンドリアの教父であるクレメンスの解釈によると

世界の根本にロゴス(logos)がある

⇒これはダルマ(法)と非常に似ているが、宇宙の真理であるロゴスが現れて聖者になる

⇒その現れがキリストだという。

⇒キリスト以前にもロゴスが現れがあり、ロゴスを明らかにした人がいる。

⇒たとえばソクラテスがそうであり、ヘラクレイトスがそうである。

⇒それから、インドではBoutaという偉い聖者がいたと書いてある。

⇒こえはブッダのことである。

⇒インド人はブッダの骨を、偉大なピラミッドの下に納めてあたかも神に対するかのごとく崇拝しているとも書いている。

⇒これはストゥーパ崇拝のことである。

出典:https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/v-buttou-1.htm

⇒わたくしが知っている限りでは、ギリシャ語の文献の中で、仏教に言及しているのはこの箇所だけであるが、

⇒でたらめに言及しているのはなくて、かれの思想の論理的必然性に従って言及している。

⇒インドにはブッダがいて、エウダイオスの中にも聖者がいたという。

⇒エウダイオスというのはユダヤ人のことである。

⇒そうなると、キリストという一人の人を特別に偉くみるのではなくて

偉大なロゴスというものがあって

その現れだという解釈で、非常に仏教的である

こういう思想(ロゴスの現れが聖者)は

後代のキリスト教によると、異端、邪教として退けられてしまうが

初期にはそういう思想があった

⇒だいたいわたくしが見るところでは、素人の考えであるが、同じキリスト教でも、

⇒東よりのほうは、多分に仏教的である。西よりは西洋的である。

⇒例えばギリシャ正教を奉するアトス山の修行者たちは、しょっちゅうジーザスの名前を唱えるとか、念仏に相当することを行う。

⇒ギリシャ正教の人びとは、聖壇を右回りに三べん回る。これは明らかにインドからきた右繞三匝(うにょうさんぞう)であり、現在でもギリシャ正教の人は行っている。

注)アレクサンドリアのクレメンス:2世紀の人物で、初期キリスト教を代表する神学者の一人。エジプトのアレクサンドリアで活躍したためこの名で呼ぼれるが、エジプト出身ではなくギリシャのアテネの出身と考えられている。

クレメンスの思想の特徴

ギリシャ哲学と文学がキリスト教へ人々を導くために存在したと考え、その思想的な遺産をキリスト教へ継承しようとしたことにある。特にロゴス=キリストであるとした「ロゴス・キリスト論」は、ギリシア思想とキリスト教神学を結びつけた。

注)ロゴス(logos):古代ギリシア哲学において「言葉」「理性」「論理」などを意味し、さまざまな文脈で使われてきた。

古代ギリシャ哲学におけるロゴス

  • ヘラクレイトス: ヘラクレイトスは、ロゴスを宇宙の根本原理とし、すべてのものが変化しつつもロゴスによって秩序づけられていると考えた
  • ソクラテスとプラトン: ソクラテスは対話を通じて真理を探求し、プラトンはロゴスを理想的な形而上学的実体と結びつけた。

キリスト教におけるロゴス

ヨハネの福音書: 新約聖書のヨハネの福音書では、ロゴスは神の言葉として描かれ、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されている。ここでロゴスはイエス・キリストを指し、神の啓示としての役割を果たす。

インド哲学における視点

ブッダ: 仏教では、絶対的な存在を否定し、無常や縁起の教えを重視します。ブッダは悟りを通じて真理を見出し、ロゴスに相当する概念として「ダルマ(法)」を説きました。ダルマは宇宙の法則や真理を意味し、個々の存在がそれに従っているとされる。

注)ダルマ:仏教の中心的概念であり、私達の信仰と人生に大きな影響を与える。

  1. 仏陀の教え
    • ダルマはブッダ(釈尊)の教えを指す。
  2. 真理と法則
    • サンスクリット語の「dharma」は「保つこと」「支えること」を意味し、それより「法則」「正義」「真理」「最高の実在」「宗教的真理」の意味にもなる。
    • ダルマは、人生と宇宙の法則を示し、私たちが歩むべき道を指す。

注)「右繞三匝」とは:「右まわりに、三回、まわる」ということ。
ブッダの死後、摩訶迦葉(まかかしょう)が釈迦の遺体のまわりを「三匝(さんそう)もしくは七匝(ななそう)して」礼拝した。
そこから仏(聖なるもの)を中心に右廻りに三回まわることが、最高の礼をつくすという意味になった。

注)称名念仏中国の善導大師(613年~681年)が称名念仏を中心として浄土思想を確立した。特に「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏を広め、浄土の荘厳を絵図にして教化し、庶民の教化に専念し、『観経疏』等の著作を通じて、浄土宗(法然上人:1133年~1212年)や浄土真宗(親鸞:1173年~1262年)に多大な影響を与えた。

出典:左図)https://www.gentosha.jp/article/19106/アトス山修行者(女人禁制) 中図)https://arayaja.exblog.jp/25973264/ 右図)https://www.cocolocala.jp/spots/11255

◆根本の理法

・インド人はダルマという。

⇒それに対応するものをもし西洋に求めるとしたら、ロゴスである。

⇒これは対応するということは若干の学者がいっているが、もっとそれ以上に、現実に一致すると解されている。

・プロテスタントの坊さんスリランカ(上座部仏教国)で「ロゴス」を布教した際

⇒たとえばヨハネ伝の最初に、『はじめに言葉ありき』とある。

⇒スリランカの人は、これはなんのことだという。こんなおかしなことをわれわれは信じられないという。

⇒そこでこう説明する。

⇒『言葉』というのは、もとの言葉では『ロゴス』という。

⇒『ロゴス』を、インドなりスリランカの言葉に直すと、「ダルマ」になる。

ダルマというのは中性的、非人格的に考えられているが、

⇒カトリックの宣教師にしてみれば、人格的なものといわざるをえない

⇒ダルマにオーン(on)とつけると、人格的なものになるそうである。(スリランカ人の説明によると)

⇒だから。『はじめに言葉ありき』は『ダルマオーン』だと説明すると、スリランカ人は納得してくれる。

⇒これを分析してみると、いろいろなことがそこに含まれている。

⇒西洋の宗教といえども、あまねくゆきわたる『ダルマ』 

『四生の終帰、万国の極宗』といわれるものを、やはり認めなければならない段階にきている。

⇒と同時に、それが本当の人間の理であると思う。

聖徳太子は、まさにこの点をついているということがいえるのではないかと思う。

アショーカ王の場合は、必ずしも仏教だけを奉ぜよということはいわなかった。

⇒アショーカ王の詔勅文はたくさん残っているが、だいたい仏教の霊場で発布された詔勅は、仏をたたえている。

⇒国境地方岩石詔勅では、別に仏教を奉ぜよということはいっていない。

⇒だから今のインド人で、アショーカ王はブッダディストでなくヒンドゥーだったということを強調する人びともいる。

⇒しかし、アショーカ王は、いかなる詔勅においてもダルマを強調している。

ダルマの現れである。

⇒あるいは実現するための教えであるということで、仏教、ジャイナ教、アージーヴィカ教、それからバラモン教というものを尊んだ。

⇒アショーカ王以前にいろいろな宗教が行われていたから、そのどれも認めたというのが、アショーカ王の立場である。

⇒だから根本は、ダルマであるということである。

※アショーカ王の柱には下記のような碑文(道徳的訓戒に近い)

  • 生き物を大切にし無駄に殺さないこと
  • 宗教対立しないこと
  • 親の言うことを良く聞くこと
  • 年上は敬うこと
  • 礼儀正しくすること
  • 嘘をつかないこと
  • 僧侶や精神的探求者に敬意を払うこと
  • 弱い者イジメしないこと

出典:https://jp.mangalamnepal.com/2020/08/Ashoka-the-Great.html

◆仏教が説く根本

・やはりダルマということになるから、精神においていっこう違いがない。

聖徳太子が「篤敬三宝」(篤く三宝を敬え)と明言したのは

⇒人類にあまねくゆきわたるべき普遍的な精神ということを強調したのであるから、

⇒根本精神において通ずるものがある。

⇒ただ、日本の場合には、それ以前には部族の宗教しかなかったから、

⇒ここで普遍的な理法を説く教えということになれば、両者を同一視された。

⇒その違いはあるわけである。

⇒太子の場合も、狭いドグマ(教義)を立ててはかの宗教を禁止する、という態度はとらなかった。

⇒現に、民衆の間に残っている民間信仰、あるいは神に対する信仰というものは、それははっきり容認し、また、すすめているような形跡もある。

⇒これは、仏教という宗教が、ドグマ(教義)をもって異端を禁圧するということをしない、そこに由来するのである。

⇒これが、西洋の場合と非常に違う。

⇒つまり、信仰の自由ということが、わざわざいわないでもおのずから実現される。

⇒だから日本人の場合には、ことさら信仰の自由をいわなくてもよかった。

ところが西洋では、ドグマが血と血をもって争うという悲惨な歴史を繰り返してきたから

⇒近世になって、信仰の自由がやかましくいわれるようになった。この歴史的背景にも違いある。

⇒「神道を敬う」云々、ということは、推古天皇の十五年の詔勅にも出ている。

⇒カンボジア(上座部仏教国)でも、ジャヤヴァルマン七世が、大乗仏教をおおいにすすめたが、必ずしもヒンドゥーの神々を排斥していない。

コンスタンチヌス帝(272年~337年)は、非常に残酷な態度をもって、異教徒を迫害している

また、529年には、東ローマ帝国の皇帝ユスチニアヌスは、キリスト教以外の神々を祭ることを禁じている

そしてその処置が、その後長く西洋の精神史を規定した

注)「篤敬三宝」(篤く三宝を敬え):聖徳太子が制定した「十七条憲法」の第二条に「篤敬三宝」(篤く三宝を敬え)がある。この三宝とは、仏教における三つの重要な要素を指す。

  1. 仏(ぶつ):悟りを開いた存在、つまり仏陀のことです。
  2. 法(ほう):仏陀の教えや真理を指します。
  3. 僧(そう):仏陀の教えを実践し、修行する僧侶やその共同体を指します。

聖徳太子は、この三宝を篤く敬うことが、国を正しく治めるために重要であると説いた。

注)カンボジアのジャヤヴァルマン七世(1181年~1215年統治)が建立した仏教とヒンズー教の習合寺院上座部仏教の要素と大乗仏教の要素も共存: プリヤ・カーン寺院

プリヤ・カーン寺院(アンコール遺跡)       壁面に彫られた観世音菩薩

注)コンスタンチヌス帝(272年~337年)ローマ帝国の初のキリスト教徒皇帝として知られているが、彼の治世において異教徒に対する迫害が行われた。

313年発布されたミラノ勅令により、キリスト教が公認され、キリスト教徒への迫害は終わったが、その後、キリスト教を優遇する政策が進められ、この過程で、異教の神殿の破壊や異教の儀式を禁止するなどの政策を実施し、異教徒の財産を没収し、キリスト教会に寄付させる等により異教徒の弾圧が行われた。

これにより、異教徒たちは社会的に圧迫され、キリスト教への改宗を余儀なくされることが多かった。

このような政策は、キリスト教をローマ帝国の主要な宗教とするためのものであり、異教徒にとっては非常に厳しいものだった。

注)ニケ―ア公会議(325年)の開催理由:当時、キリスト教内ではイエス・キリストの神性についての解釈が分かれており、これが教会内の対立を引き起していた。

特に、アリウス派とアタナシウス派の間で激しい論争があり、アリウス派は「イエスは神ではなく、神に従属する存在」と主張し、一方でアタナシウス派は「イエスは神と同質である」と主張していた。

コンスタンチヌス帝は、ローマ帝国の統一と安定を図るために、キリスト教の教義(ドグマ)を統一する必要があると考え、その為、全教会の代表者を集めて会議を開き、最終的にアタナシウス派の主張が正統とされ、アリウス派は異端とされた。

この会議の結果、ニカイア信条が採択され、キリスト教の基本的な教義が確立された。

※映画「ダ・ヴィンチ・コード」の中でこの会議のシーンがある。

コンスタンチヌス帝の洗礼(ラファエロ作) ニケーア公会議(キリスト教の解釈の統一)

出典:左図)Wikipedia コンスタンティヌス1世                        右図)https://gusyakensekaishitankyu.com/?p=16197

寛容の精神と非寛容の精神の出現

異なった思想、異なった宗教に対しても、寛容の精神をもって見るという東洋の考え方と

他の宗教を片っ端から禁止、抑圧する西洋の行き方

⇒との相違が、成立するにいたった。

⇒これは宗教だけの問題ではない。

⇒現代においては、中世的な宗教は、それほど争いをしなくなった。

⇒そのかわり、イデオロギーという新しい宗教がおこって、

⇒また血は血をもって洗われるという、非常な憎しみをこめた迫害が、あちこちで行われた。

⇒これはやっぱり西洋の伝統に由来すると思われる。

⇒哲学者バートランド・ラッセルが。『西洋哲学史』の中でマルクスを論じているが、

⇒マルクスの教条というものは、ユダヤ的な宗教の現代版だという。

⇒つまり理想の天国がまもなく来る。

⇒そのときに、ある人びとはすべて救われ、そうでない者は全部地獄へやられていまう。

⇒そのためにはどんなことをしてもかまわない。

⇒そしてはっきりした教義を立て、それに背いた者は粛清されるといっている。

⇒ユダヤに由来する宗教の場合と、現代の、いわゆるマルクス主義に由来するイデオロギーの場合とを対比しているのであるが、非常によく似ている。

⇒マルクス主義というものは、突然出てきたものではないので、

西洋における特殊な宗教的伝統の変形した現代版であるということをいっている

法(ダルマ)の理想に基づいた統一国家の運営が目指すもの

・新しく成立した広範囲にわたる国家の運営

⇒いろんな手段を講じたが、そのすすめ方が非常に似ている。

ことに聖徳太子とアショーカ王は、非常に似ている

⇒『十七条憲法』の中の一つとして、

『夫(そ)れ事は独り断ず可からず』

⇒独裁を廃して衆とともに論ずべきであるということを教えている。

⇒これは、わが国における民主主義的思想の発端であろうと見られるが、

⇒学者の話によると、日本では仏教以前に、君主独裁によるのではなくて、川原の会議というのが行われた。それが神話に反映している。

⇒大勢の人びとの論を重んずるということがなされていたといっている。

⇒つまり、わが民族では非常に古い時代から行われていた実践のしかたが、

太子によって継承され、そしてその原理的な精神を明らかにされたといえる

この点が、

⇒ほかの帝王の場合には、あまり説かれていない。

⇒世界思想史の上で対比されるべき諸帝王の場合をあげたけれども、そういう教えは、ほかにはあまり説かれていない

これをとくに強調されたというのは、太子の独特のところである

⇒また、いろいろの帝王は、偉大な国家を形成した。ただ、その国家がみなやがて消えうせてしまった。

⇒ところが聖徳太子の場合には、新たに形成された。

偉大な思想をもった国家が、形は変わったけれども、ずっと続いている

⇒太子の建てたお寺が、今日なお続いて栄えている。

⇒これはよその国では見られない。

⇒太子の御廟も、わが国では残っている。

⇒ところがインドでは、アショーカ王の墓は、全然わからない。

⇒ほかの諸帝王についても、同じことがいえるのではないか。

⇒こういうことを考えると、いろいろの社会的、風土的な条件もあったかと思うが、

⇒太子の事業は、永続的なものとして残った。

⇒これはほかの国に見られない大きな特徴である

注)天の安河原(あまのやすのかわら)日本神話において重要な場所。特に『古事記』や『日本書紀』に登場し、この場所は、高天原(たかまがはら)において神々が集まり、重要な会議を開く場所とされている。

特に有名なのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れた際に、八百万(やおよろず)の神々がこの河原に集まり、天照大神を岩戸から出すための策を練ったというエピソード。

寧ろ天神会合して. 一種の共和政治を設立していたので、政治上の大事が起れば、天の安河原会議を開き、その議員中の最賢明なる者の言葉によって万事決議していた 。

出典:岩戸神楽乃起顕。国貞改豊国画(1844年頃)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:The_Origin_of_Iwato_Kagura_Triptych_(Amaterasu)_by_Utagawa_Kunisada_c1844.png