■無戯論の如来
・ナーガールジュナが『中論』において述べているブッダ論は、
⇒異色のあるものである。
⇒一般の仏教徒にとっては恐しくショッキングなものである。
⇒『中論』においては、ニルヴァーナについて説かれたのとほとんど同じことが
⇒如来(修行を完成した人)、ブッダに関しても述べられている。
⇒ナーガールジュナは「如来は本体の無いものである」(第二二章・一六詩)といい、
⇒第二二章(如来の考察)において種々の論法をもってこれを説いている。
⇒かれは反対派のブッダ論を痛烈に攻撃したあとで、
⇒「戯論(けろん:形而上学的論議)を超越し不壊(ふえ)なる仏をいろいろ戯論する人々は、
⇒すべて戯論に害せられて、如来をみない」(第一五詩)という。
⇒故にナーガールジュナは、反対派のいうような種々に戯論せられたブッダを考える説を排斥したのであるが、
⇒如来そのものを否定したのではない。
⇒かえって無戯論なる如来を説いているのである(『プラサンナバダー』443ページ)。
⇒『般若経』においても同様に説いている(荻原本『八千頌(じゅ)般若』731ページ)。
・これは大変な議論である。
⇒当時の教養学者たちがブッダの本体を、ああだ、こうだ、と議論していたのは全部誤っているということになる。
⇒それは教養学を否定することになる。
⇒当時はガンダーラ、マトゥラー、ナーガールジュナ・コーンダなどを中心として美麗細微な仏像が盛んに造られていた。
⇒しかし仏のすがたをとやかくいうのは誤りなのである。
<参考情報>

出典:左図)https://butsuzou.themedia.jp/posts/7717652/
右図)https://www.louvre-m.com/collection-list/no-0010 下図)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
■カニシカ王(144年~171年)、ナーガールジュナ(2世紀中頃:カニシカ王と同時代)





出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~
・この点で『金剛経』の説くところは徹底している。
⇒身相をもって仏を見てはならない。
⇒あらゆる相は皆虚妄であり、諸の相は相に非ず、と見るならば、すなわち如来を見る。
⇒かかる如来には所説の教えがない。
⇒教えは筏のようなものである。衆生を導くという目的を達したならば捨て去られるーと。
・こういう思想は西洋にも無かったわけではない。
⇒キリスト教の異端の一部が唱えたキリスト仮現説(docetism)がそれである。
⇒キリストは身体をもたず、ただそのように見えた(dokeo)だけにすぎない。
⇒つまり仮現であるというのである。
⇒この説があらわれたのは可見的世界そのものを悪と汚れとみなすヘレニズムの異教的二元論の影響であるといわれるが、
⇒古代教会の教父たちはこの思想と極力戦った。
⇒そうして異端と断ぜられたために、この思想は西洋ではついに消失してしまった。
■真実のブッダとは
・では真実のブッダとは何であるか。
⇒それはわれわれの経験している世界にほかならない。
⇒ニルヴァーナが世間と異ならないように、
⇒この無戯論なる如来も世間と異ならないと主張している。
⇒「如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない」(第二二章・一六詩)
⇒われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。
⇒これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、
⇒究極において一致しているという『般若経』の説を受けついだものであろう(『大品般若』、大如品第五四、大正蔵、八巻、335ページ下)。
⇒如来の本性が世間の本性であり、如来の本性は甲であり、非甲ではないと限定することはできない。
⇒如来はあらゆる対立を超越している。
⇒したがって本質が無い(無自性である)といわれる。
⇒仏教徒は如来を独立な存在と考えて思弁に陥りやすいが、
⇒ブッダとは「名のみ」のものであるから、
⇒しばしば、夢、幻、鏡の中の像などに譬えられている(『プラサンナバダー』289、436、449、540ページ)。
・『中論』の説くこのような如来は、
⇒諸註釈からみると法身(ほつしん:仏の真実の身体)を意味している。
⇒また『般若経』もしばしば法身に言及している(荻原本『八千頌(じゅ)般若』268ページなど)。
⇒そうして『般若経』によれば、この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味であるという。
⇒そうしてこれらの諸語はすでに述べたように縁起と同一の意味であるから、
⇒さらにつきつめて考えれば如来の法身とは縁起の理法そのものを意味するに違いない。
⇒「縁生(縁起)とは即ち是れ法なり。法とは即ち是れ如来身なり。・・・如来身とは即ち是れ法身なり」(『菩提資糧論』四巻、大正蔵、三二巻、529ページ下ー530ページ上)。
・故に相依って起こっているもろもろの事物、またその理法がそのまま如来である。
⇒ただ凡夫は縁起に如来相を知らないから覚者ではなく、
⇒したがって一切の諸事象がそのまま如来であるということはいえないのであるが、
⇒ひとたび縁起の理法すなわち相依性の意義を体得するならば、
⇒凡夫はただちに覚者となり、一切諸法即如来ということが成立するのである。
⇒『中論』のニルヴァーナ論とブッダ論とは同様に説明されているから、
⇒このことはニルヴァーナについてもいいうるはずである。
⇒したがって中観派のニルヴァーナ論やブッダ論は、
⇒上述の意味の縁起説に従って理解すべきものであろう。
<参考情報>
ナーガールジュナの縁起観である。先に引用した第15 章冒頭の「因と縁によって生じる」「[あるものが]他に関係する」「[あるものが何かによって]作られる」というのもナーガールジュナがいう「縁起」の関係と理解されよう。
同様に、第8 章「行為者と行為の考察」にみる、「行為者は行為に縁(よ)り、行為もまたその行為者に縁って生じる。われわれは、それ以外の[行為者と行為の]成立の根拠を見ない。」「行為者と行為とによって、残りの[原因と結果、火と燃料、性質と性質主体、特徴と特徴づけられるもの等の]関係も認識しなければならない。」9 という言明もまた、相互に縁(よ)って成立する諸事物の関係を、広く縁起関係として捉えるナーガールジュナの縁起観をもの語っている。
「『存在する』というのは常住への執着、『存在しない』というのは断滅の見解。それゆえ賢者は存在するということと存在しないということに依存すべきでない。」(15.10)
「固有の本質をもって存在するものは非存在ではない、といっては常住[への執着]が、前にはあったが今は存在しない、といっては断滅[の見解]が付随することになる。」(15.11)19
ナーガールジュナが「固有の本質をもって存在するものは非存在ではないといっては常住[への執着]が[付随する]」というのはこのような意味である。
一方また、非存在についてナーガールジュナは、「前にはあったが今は存在しないといっては断滅[の見解]が付随する」と語る。つまり、以前にはあり続けていたが、今は存在しない、というような見方が断見であるという。非存在は存在を前提にしてはじめて成立するというのがナーガールジュナの理解で、『中論偈』の同じ章のなかで、
「もしも存在が不成立であるなら、非存在は成立しない。人々は存在が変異したものを非存在と言うのであるから。」(15.5)20
このように、ナーガールジュナにとっても、中道の意味するところは基本的に非有非無であり、それはまた不常不断に連動するという。このばあい、ナーガールジュナ自身による規定で重要なのは、存在(有)や常住の見解(常見)のいずれも固有の本質(自性)の観念に根ざしていると意味づける点である。
以上のような趣意で、ナーガールジュナは「それ(空[=縁起])こそが中道である」という。したがって、先のような「固有の本質は作られたものでなく、他に関係することがない」という固有の本質(自性)の定義を介して、空は縁起と指し示すところを同じくし、そのような空はまた、ものが固有の本質をもってあり続けることはなく(非有)、それゆえまた、存在(有)を前提にして成り立つ、存在(有)の変異と意味づけられる非存在(無)でもないということ(非無)、ーこのことを含意するという。
つまり、先にも論及したように、「依っての表示(仮名)」は縁起と補完しあう原理で、
縁(よ)って生じる主語と縁(よ)られる原因(質料因等)とに対して仮に名称を付与することをさす。
とくにナーガールジュナにとっては「空」もまた、概念化(戯論prapañca)をしずめ、すべての[概念的]見解を捨て去り、これによって煩悩の根源を断つために「空」と説かれたということ、この点はきわめて重要な意味をもつ。
煩悩の根源に概念化があり、それは空において断たれるということについては、
ナーガールジュナが、
「行為と煩悩が尽きることによって解脱がある。行為と煩悩は分析的思考(vikalpa 分別)による。それら[の分析的思考]は概念化(戯論)にもとづく。しかし、概念化は空において滅する。」(18.5)23
「空」をふくむすべてを概念化の網、概念的な見解から解放することに「空」を説くことの目的があるという。
もちろん、先にふれたように、概念化こそを煩悩の根源とみるナーガールジュナにとっては解脱、つまり苦悩からの完全な解放の鍵は、日常的なことばの習慣にしたがった適切な教説によって、この概念化からの解放をめざすところに狙いがある。このことは、『中論偈』の以下の詩頌からもうかがえよう。
「もろもろの勝利者(=ブッダ)は、空とはすべての[概念的]見解を捨て去ることであると説かれた。これに対して、空見をもつ人々は不治であると述べられた。」(13.8)25
「すべての[概念的]見解を断つために、哀愍に依って正法を説かれたガウタマ(=ブッダ)に、私は敬意を表します。」(27.30)26
このように、縁起と意味が重なるとされる空は、すべての概念的見解を断つために、ひいては煩悩からの完全な解放のために「空」という表示(仮名)をもって説かれるとナーガールジュナはいう。
その意味でも、「依っての表示」という原理をここに置くのも、「空」がブッダ自らの哀愍に
「依っての表示」として説かれたということを強調する意図からであったと理解されよう。
このような文脈から当該偈は、空は縁起と同義、すなわち縁起と指し示す対象が同一であり27、それゆえまた存在と非存在をはなれた中道とも重なるということ、そのような道理を初期の般若経典は「空」と表示(仮名)したという。
そのような「空」の表示はまた、
煩悩からの解放を目的とし、固有の本質(自性)の観念と表裏になった概念化(戯論)、あるいは概念的諸見解を断つためであるというのが『中論偈』の著者であるナーガールジュナの意図することころであった。
したがって、当該偈は、われわれが「空」と呼ぶ教説は、伝統的に縁起として受け入れられてきた道理と同体異名なのであり、それゆえ、それ(縁起である空)は、依っての表示(仮名)として「空」と表現され、存在(有)と非存在(無)への固執から解放された中道として理解されるべきであることを示す28。
このように理解するとき、第24 章が「縁起を見る者は、この苦・集・滅・道[という四種の聖なる真理]を見る。」という一文を結論として置く理由もうなずけるであろう。
ブッダと等質の縁起ーイコール空としてのー理解があってはじめて四聖諦が理解されうるという趣旨といえよう。
そこにはまた、第24 章の文脈が語るように、有部アビダルマに代表される、精神的・物質的な諸要
素(法dharma)は固有の本質をもって存在するというような伝統的な法(ダルマ)解釈への厳しい批判が込められていると考えられる。
ブッダの本来的な意図を甦らせたいというナーガールジュナの強い意思を感じることもできよう29。
出典:サブタイトル/Nāgārjuna における空と縁起/斎藤明著より転記~『中論偈』第24 章・第18 偈の解釈をめぐって~
<参考情報>







出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
<参考情報>
「金剛(生命のもつ無垢なる知のちからのはたらき、つまり、生の活動原理)」は、
その活動原理をシンボルによって示すマンダラのすがたとなる。

出典:https://www.mikkyo21f.gr.jp/mandala/mandala_kongoukai/ 金剛界曼荼羅
・金剛頂経の説(金剛界マンダラの説明)
『金剛頂経』に説く、
「あるとき、金剛界遍照(へんじょう)如来<もちろん、ブッダのことであるが、そのブッダのさとりを普遍化すれば、生命のもつ無垢なる知のちからの永遠の存在そのものであり、その知の輝きが世界をあまねく照らすので、その徳をたたえ、金剛界遍照如来という。つまり大日如来(密教の第一高祖*)>は、自らのもつ無垢なる五つの知の原理<一には生活知、二には創造知、三には学習知、四には身体知、五には生命知によって構成される原理である。
つまり、これが(金剛界マンダラの中心をなす)五方の如来となる。これを順に東方:アシュク・南方:宝生(ほうしょう)・西方:阿弥陀(あみだ)または無量寿(むりょうじゅ)・北方:不空成就(ふくうじょうじゅ)・中央大日(だいにち)として配する>よりなる生命の四種のありのままのすがた(法身:ほっしん)<一には生命としての存在そのもののすがた(自性法身:じしょうほっしん)、二には個体そのもののすがた(受用法身:じゅゆうほっしん)、三には遺伝の法則によって、個性をもって変化するすがた(変化法身:へんげほっしん)、四には多様な種としてのすがた(等流法身:とうるほっしん)を指す。この四種のすがたに竪(たて)と横との二つの意味をそなえる。横は自らの利益のため、竪は他のための利益である。もっと深い意味については、個々にさらに追究するとよい>に、生の本来有している根本の活動原理<金剛界>がある(と説かれた)。
出典:サブタイトル/空海の多様性:⑥『十住心論』第十住心(マンダラ)を読む~編集工学視点:松岡正剛氏の発想を手助けにして~
<参考情報>





出典:華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
この「仮名」を正当に評価し採用しているのが、天台智顗(ちぎ)の教学である。
天台では仮名を単純にして「仮」と称するのだが、「仮」は前述のように、無でもあり有でもある。それはちょうど、「可能性」の概念が。無でもあり有でもあるのと同様である。また、そのように捉えることが「中」である。
つまり、有り得ることは有ること、有ることは有り得ること、という連関をわきまえて一切を「亦有亦無」の論理の中に包摂すること、これが「中」である。
同時にその「捉える」ということがまた、一種の「有」となり、有の限界を究めればそれは空となる。
このように、「空」と「仮」と「中」は、それぞれ独自の機能を持ちつつ、相互に関連し合うという論理を展開するのが、三諦円融の理である。
この論理は龍樹の「空」説や「仮」説をなくしては存在し得ないと言ってよい。
時間が成立しないことは天台智顎の『摩訶止観』にある「四運心」の説明にも出てくる。『業、若し未来ならば、未来は未だ有らず、如何ぞ業あらん。業、若し現在ならば、現在は念念住せず、念若し已に去らば即ち過去に属す、念若し未だ至らざるは即ち未来に属す、起に即して即ち滅す、何者が現在ならん。」このよう未来は無い、過去も無い、起と滅の間には微塵の刹那も無く、現在もない、という徹底した三世否定は龍樹から受け継がれたものである。
出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~