NN3-2.『中論』:『否定の論理の実践』~ブッダ~(龍樹:中村元著より転記)

■無戯論の如来

ナーガールジュナが『中論』において述べているブッダ論は、

異色のあるものである

一般の仏教徒にとっては恐しくショッキングなものである。

『中論』においては、ニルヴァーナについて説かれたのとほとんど同じことが

如来(修行を完成した人)、ブッダに関しても述べられている。

ナーガールジュナは「如来は本体の無いものである(第二二章・一六詩)といい、

第二二章(如来の考察)において種々の論法をもってこれを説いている。

⇒かれは反対派のブッダ論を痛烈に攻撃したあとで、

戯論(けろん:形而上学的論議を超越し不壊ふえなる仏をいろいろ戯論する人々は

すべて戯論に害せられて、如来をみない(第一五詩)という。

故にナーガールジュナは、反対派のいうような種々に戯論せられたブッダを考える説を排斥したのであるが、

如来そのものを否定したのではない。

かえって無戯論なる如来を説いているのである(『プラサンナバダー』443ページ)。

『般若経』においても同様に説いている(荻原本『八千頌(じゅ)般若』731ページ)。

これは大変な議論である。

当時の教養学者たちがブッダの本体を、ああだ、こうだ、と議論していたのは全部誤っているということになる。

それは教養学を否定することになる。

⇒当時はガンダーラ、マトゥラー、ナーガールジュナ・コーンダなどを中心として美麗細微な仏像が盛んに造られていた。

しかし仏のすがたをとやかくいうのは誤りなのである。

<参考情報>

出典:左図)https://butsuzou.themedia.jp/posts/7717652/   

右図)https://www.louvre-m.com/collection-list/no-0010                     下図)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

カニシカ王(144年~171年)ナーガールジュナ(2世紀中頃:カニシカ王と同時代)

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~

この点で『金剛経』の説くところは徹底している

身相をもって仏を見てはならない

あらゆる相は皆虚妄であり、諸の相は相に非ず、と見るならば、すなわち如来を見る

かかる如来には所説の教えがない

教えは筏のようなものである。衆生を導くという目的を達したならば捨て去られるーと

<参考情報>

出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)

<参考情報>

「金剛(生命のもつ無垢なる知のちからのはたらき、つまり、生の活動原理)」は、

その活動原理をシンボルによって示すマンダラのすがたとなる。

出典:https://www.mikkyo21f.gr.jp/mandala/mandala_kongoukai/ 金剛界曼荼羅 

金剛頂経の説(金剛界マンダラの説明)

『金剛頂経』に説く、

 「あるとき、金剛界遍照(へんじょう)如来<もちろん、ブッダのことであるが、そのブッダのさとりを普遍化すれば、生命のもつ無垢なる知のちからの永遠の存在そのものであり、その知の輝きが世界をあまねく照らすので、その徳をたたえ、金剛界遍照如来という。つまり大日如来(密教の第一高祖*)>は、自らのもつ無垢なる五つの知の原理<一には生活知、二には創造知、三には学習知、四には身体知、五には生命知によって構成される原理である。

つまり、これが(金剛界マンダラの中心をなす)五方の如来となる。これを順に東方:アシュク・南方:宝生(ほうしょう)・西方:阿弥陀(あみだ)または無量寿(むりょうじゅ)・北方:不空成就(ふくうじょうじゅ)・中央大日(だいにち)として配する>よりなる生命の四種のありのままのすがた(法身:ほっしん)<一には生命としての存在そのもののすがた(自性法身:じしょうほっしん)、二には個体そのもののすがた(受用法身:じゅゆうほっしん)、三には遺伝の法則によって、個性をもって変化するすがた(変化法身:へんげほっしん)、四には多様な種としてのすがた(等流法身:とうるほっしん)を指す。この四種のすがたに竪(たて)と横との二つの意味をそなえる。横は自らの利益のため、竪は他のための利益であ。もっと深い意味については、個々にさらに追究するとよい>に、生の本来有している根本の活動原理<金剛界>がある(と説かれた)。

出典:サブタイトル/空海の多様性:⑥『十住心論』第十住心(マンダラ)を読む~編集工学視点:松岡正剛氏の発想を手助けにして~