NN1-4.『中道』と『縁起』(Ⅱ)~『中論』は諸行無常を『縁起』によって基礎づけている~(龍樹:中村元著より転記)

■不生

■不生の縁起を説く矛盾

小乗仏教では一般に縁起を

人間の輪廻の過程における時間的生起の関係と解しているが

中論』の縁起はそうではなくて

相依相関関係の意味であるとすると

ここに問題が起きる。

⇒縁起という語には「起」(samutpāda)という語が含まれているから

⇒縁起はもろもろの事物(あるいはもろもろのダルマ)の生起の関係を意味すべきである

<縁起>という観念は<生起>を含意しているはずである

⇒そうであるのに、『中論』が不生不滅の縁起を説くということは、

言語表現の上からみて矛盾しているのではないか

この問いに対しては、ほぼ三種の答えが与えられている。

⇒まず『順中論』の解答をみると、

⇒「問うて曰く、云何(いか)んが因縁を名づけて不生(ふしょう)となすか。もし不生ならば云何んがしかも説いて名づけて因縁となすか。もし因縁ならば、云何んが不生なる。もし不生ならば云何んが因縁なる。その因縁を不生と名づくるごときは、義、相応せず」という論難に対して

⇒「答えて曰く、これは相応せず。もし因縁を説かば、則ち相応せず。もし体が是れ有るならば、云何んが因縁あらんや。先に有るを以ての故なり。もし〔先に体が〕其れ無ならば、則ち是れ無の法(実在しないもの)なり。云何んが因縁あらんや。〔もともと〕無の法なるを以ての故なり。もしその無法に因縁あらば、是れ則ち兎の角にもまた因縁を須(ま)たん。」〔その場合には〕因は無体なり。物無きを以ての故に、虚空の華のごとし。この故に義の道理が則ち成(じょう)ず。因縁を思惟せば、則ち是れ不生なり。何者か因縁ならんや」(下巻、大正蔵、三〇巻、49ページ上)と答えている

この意味はおそらく、次のごとくであろう。もしも反対者のいうように縁起が生起を意味しているとするならば

(一)もしも何らかのものが実有であるならば、実有なるものがさらに生起することは有りえないから生起するということはいえないことになる

(二)またもしもそのものが<虚空のなかの華>のように無であるならば、無なるものの生起することは有りえないはずである。故にいずれにしても生起は不可能であるから、もろもろの事物を成立せしめている理法を意味する縁起が生起の意味であるはずはない。したがって、縁起とは<不生>ということである。というのであろう。右(=上)の『順中論』の論議は『中論』の

「要するに、有(もの)が生ずるということは、理に合わない。

また、無が生ずるということも、理に合わない。有にして無なるものの生起することもない。このことは以前にすでに論証しておいた」(第七章・第二〇詞。なお『十二門論』と『百論』参照。西洋ではパルメニデスが同様のことを論じたという)

⇒という論法に従って縁起が<不生>であるということを論証しているのである。

■パーヴァヴィヴェーカの解釈

「縁起とは種々の因縁の和合して起こることを得るが故に『縁起』と名づく」(『般若灯論釈』一巻、大正蔵、三〇巻、51ぺージ下)と解釈しているから、

パーヴァヴィヴェーカによれば縁起とは「縁によって生起すること」である。」

そうだとすると『中論』の主張する「不生不滅なる縁起」は矛盾を含んだ概念とならねばならぬ

この矛盾をどのように解決すべきかということがパーヴァヴィヴェーカにとっては大問題であったが、

かれは、世俗的立場の真理世諦と究極の立場から見た真理第一義諦)との二種の真理(二諦)の説をもち込むことによってこの解決を試みた

世諦においては生起がある。しかし第一義諦においてはない。

したがって『中論』の帰敬序(ききようじょ)において、「不生不滅なる縁起」を説く場合に

「縁起」とは世諦においていい、

不生不滅」は第一義諦において説かれる(同、大正蔵、三〇巻、52ぺージ上)。

このように解釈するならば両者のあいだに何ら矛盾はないではないか、という注目すべき解答を与えている

・この説明は中国の三論宗の解釈とも類似している。

⇒中国の学者はクマ―ラジーヴァの訳語に従って『中論』の<縁起>を「縁によって生ずること」と解していたから、嘉祥大師吉蔵もパーヴァヴィヴェーカと同じく不生>ということは究極の真理の立場(真諦)でいうが、縁起は世俗的真理の立場(俗諦:世諦)でいうことであると解し

⇒たとえば、「第一義諦にては本より自ら無生、世諦にては因縁により仮に生ず」(『中論疏』100ページ)と説明している。

⇒ただし嘉祥大師吉蔵の「二種の真理」の説は「言教の二諦」をいうのであるから、両者にあいだいには一応区別を設けなければならない。

チャンドラキールティの反論

パーヴァヴィヴェーカのこの解釈に反対して、

「縁起」という一語を「縁(よ)りて」と「起こること」という二語に分解して考察してはならないと主張する(『プラサンナバダー』9-10ページ)。

⇒すなわち「縁(よ)りて」と「起こること」と二語に分解して、それぞれが独立な意味を有すると考えてはならない

「縁起」という一語によってあらゆるもの)ともの)との論理的相関関係を意味すると解釈している

⇒したがってチャンドラキールティにとっては「不生不滅なる縁起という表現に何ら矛盾も感ぜられないのである、という。

この解釈は「縁起」という語の解釈としては明らかに無理である

⇒ただチャンドラキールティは初期の仏教徒が漠然と考えていた縁起の観念を

つきつめうる限りに追いつめて、この結論に達したのである。

⇒いまチャンドラキールティの註についてみるに、生起は虚妄であり、縁起は真理であり、生起と縁起とは正反対の概念であった

⇒また、諸事象の生起が成立しないが故に縁起が成立するというのであるから、

不生」がすなわち縁起の真意である。

この点において、縁起を

「縁によって起こることとなす小乗仏教一般ならびにパーヴァヴィヴェーカの解釈と、

不生と解するチャンドラキールティの解釈とは正反対である。

■矛盾への三つの解答

縁起という語に「起」という語が含まれているにもかかわらず、

縁起を不生または不起であるとみなす場合に感ぜられる、言葉の表面上の矛盾に関して三つの解答がなされていることを知る

第一、アサンガは、事物の生起は一般に成立しえないから、『中論』が縁起を主張しているのに、その縁起が生起の意味を含むはずはない、と主張した

第二に、パーヴァヴィヴェーカは<縁起>とは聖俗的真理の立場(世諦)でいい、<不生>とは究極の真理の立場(第一義諦)でいうから、両者にあいだに矛盾ははないと解した

第三に、チャンドラキールティは縁起の論理的相関関係を意味し、生起という意味を始めから含まれないと考えていた

この三種の解釈も

⇒究極においてはたいした相違もないであろうが、説明としてはかなり相違している。

⇒この三種のうち、どの解釈がナーガールジュナの原意に最も近いかということが問題となるが、おそらくチャンドラキールティの解釈が最も近いであろうと思われる

■四不生