NN2-6-4.『中論』:『縁起』~『中論』における「縁起」の意義:相互依存~

『中論』の縁起とは

『中論』の主張する縁起とは相依性そうえしょう:相互依存)の意味であると考えられている。

⇒『中論』の詩句の中には相依性という語は一度も出て来ないが、

しかし縁起が相依性の意味であることは註釈によって明らかである。

たとえば第八章(行為と行為主体との考察)においては、

行為と行為主体とが互いに離れて独立に存在することは不可能であるということを証明したあとで、

行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない(第一二詩)と結んでいる。

すなわち行為と行為主体とは互いに相依って成立しているのであり、

相依性以外に両者の成立しうる理由は考えられないという意味である

チャンドラキールティの註釈によるとこの詩句は

「陽炎のような世俗の事物は相依性のみを承認することによって成立する。他の理由によっては成立しない」(『プラサンナパダー』189ページ)ということを説いている。

故にこの詩句の意味する「甲によって乙があり、乙によって甲がある」ということを相依性と命名しているとみてよいと思う。

・また第二章(苦しみの考察)においては、

苦が自らによって作られた、他によって作られた、自と他との両者によって共に作られた、無因にして作られた、のいすれでもないことを証明したあとで、

チャンドラキールティは次のように結んでいる。

「上述の四句(自作・他作・共作・無因性)を離れた『行為と行為主体との考察』(第八章)において定められた規定によって

すなわち相依性相互依存のみの意味なる縁起の成立によって

〔もろもろのことがらの〕成立が承認されねばならぬ」(同書234ページ)

故に『中論』の主張する縁起はとは

相依性相互依存のみの意味なる縁起」であるということは疑いない。

これと同じ意味のことを他の箇所においても述べている。

相依性相互依存のみによって世俗の成立が承認される。

しかるに四句(自作・他作・共作・無因性)を承認することによってはない。

何となれば有自性論(うじしょうろん)欠陥が随伴するが故に

そうしてそのことは正しくないが故に。

実に相依性のみを承認するならば、

原因と結果との互いに相依れるが故に自性上の成立は存しない(同書54ページ)

また、チャンドラキールティはその著『中観に入る論』において、「相依性の真理」を強調している。

■法と法との論理的相関関係

このように中観派が縁起相依性相互依存)の意味に観じている以上

種々の縁起の系列に共通な根本思想を示すとされているところの

これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる」云々という句もその意味に解釈されなければならない。

小乗の諸派においては種々なる解釈が行われていたが

大体十二支が順を追って時間的に生起するこを意味していると解する傾向が強かったし

⇒また『中論』註釈からみても反対者は時間的生起関係と解していた。(同書54ページ参照)

注)三世両重胎生学的解釈

分位縁起

十二縁起の各支(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)の力によって、異なる段階分位に区別して解釈するもので、例えば識支は母胎に着床した初刹那の五蘊を指す

つまり、分位縁起は有情生命体の各段階で発現するさまざまな条件因縁によって成立する縁起

出典:http://kotobanotsumugishi.seesaa.net/article/bukkyougenron20190705.html

ところが中観派の解釈はこれと截然たる対立をなしている

チャンドラキールティは「これがあるとき、かれがあるあたかも短があるときに長があるがごとくである」と説明している(同書10ページ)

これは注目すべき主張である

小乗においては、縁によって起こること、時間的生起関係を意味すると解されていたこの句が

中間派においては「あたかも短に対して長があるがごとし」とか、あるいは「長と短とのごとし」(同書458、459、529ページ。なお同様の表現については252、458ページも参照)というように全く法と法との論理的相関関係を意味するものとされるに至った

長と短とが相依ってそれぞれ成立しているように、

諸法は相互に依存することによって成立しているという

これは法有(ほうう)の立場においては絶対に許されない説明である

有部は長と短とは相依っているとは考えないで

独立な長というもの」「短というものを認める。

すなわち色境しききょう視覚の対象の中の形色ぎょうしき目にみえるかたちあるものの中に」「という法を認め

」「というありかたを実体視している

したがって長と短とのごとしという表現は許されないから

俱舎論釈論』サンスクリット支の中の縁起を説く部分を見ても長と短とのごとしとかあたかも短に対して長があるがごとしという説明は一度も見当たらない。

このように中観派これがあるとき、かれがあり、云々」という句を相依、すなわち論理的相関関係を意味するものと解したのであるが

ここに問題が起きる

『中論』の詩句の中には「これがあるとき、かれがある」という句を否定している詩句がある

「それ自体(本体)の無いもろもろのもの(有)には有性(有ること一般)が存在しないが故に<このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない」(第一章・第一〇詩)

ここにおいてわれわれは当惑を感ずるのであるが

しかしチャンドラキールティやピンガラの註釈をみるならば、この疑問も氷解しうる。

⇒すなわち「このこと」を原因とみなし、「このこと」を結果と解する解釈を排斥したのである

⇒要するに「これがあるとき、かれがある」という句は。

⇒四縁の中の増上縁助力するものとしての縁)を意味するのではなくて

論理的な相依相関関係を意味しているということをナーガールジュナは主張したのである。

第一章ではこの前の第七、八、九の詩句においてそれぞれ因縁(原因としての縁)・等無間縁(とうむけんえん:心理作用がつづいて起こるための縁)・所縁縁(しょえんねん:認識の対象としての縁)を否認論破しているから、

この第一〇詩句が増上縁を論破していることは疑いない。

故に小乗諸派のようにこの句が増上縁を意味するというならば

それはナーガールジュナの排斥するところとなったが

前述のチャンドラキールティの註のようにこの句が法と法の論理的な相依相関関係を意味していると解するならば、

まさしくナーガールジュナのの真意を得ているというべきであろう。

■<浄と不浄><父このと子>

この相依性、すなわち諸法の相依相関関係を明かすのが実に『中論』の主要目的であり

⇒そのために種々の論法が用いられている。

⇒『中論』の最初に述べている「八不(はっぷ)」に関する諸註解書の証明も

この相依を明かすものにはかならないのであるが

いま別にたとえば浄と不浄とを問題にして考えてみよう

浄に依存しないでは不浄は存在しえないそれ不浄に縁(よ)って浄をわれらは説く。故に浄は不可得である(第ニ三章・第一〇詩)

不浄に依存しないでは浄は存在しない。それに縁(よ)って不浄をわれらは説く。故に不浄は存在しない(第ニ三章・第一一詩)

・浄と不浄とは

概念上は全く別なものであり、

⇒浄はあくまでも浄であり、不浄ではなく

⇒また不浄はどこまでも不浄であって浄ではない。

両者を混同するこは許されない

しかしながら浄と不浄とがそれぞれ自身の本質自性を持つならば

すなわちexistentiaとして存するならば、

浄は不浄を離れても存在し、また不浄は浄とは独立に不浄として存在することとなろう

しかしながら浄も不浄もともに自然的存在の「ありかた」であるから、

⇒独立に存在することは不可能である

注)初期仏教における「・・あるありかた」としての有部によって「・・・あるありかたが有る」と書き換えられた(サブタイトル/NN1-1.主な批判思想(説一切有部)から『中論』の思想を浮き彫り化(龍樹:中村元著より転記))

もしもわれわれが一本の木と一個の石という二つの自然的存在を問題にするならば、

両者は互いに独立無関係であるということはいいうるかもしれない。

しかし古代インド人が問題にしていたのは

自然的存在の領域ではなくて

法の領域である

したがって浄と不浄という二つの「ありかた」について考えるならば

両者は互いに無関係ではありえず互いに他を予想して成立している

浄は不浄によって浄であり、不浄は浄によって不浄である

したがって両者は独立には存在しない

・この相依の思想は

中観派の書にしばしば出てくるところの<父と子>との例による説明をみるならば一層明確になる。

⇒自然的存在の領域においては父があって子が生まれるのであるから、

父は能生(のうしょう)であり、子は所生(しょしょう)である。

逆に子が父を生むことはありえない。

ところが「ありかた」としての父と子とを問題にすると、そうはいえない。

父は子を生じない間は父ではありえない。

子を生ずることによってこそ始めて父といいうる。(『大智度論』三一巻、大正蔵、二五巻、290ページ上)

父と子とは互いに相依しているのであるから

互いに独立な父と子とを考えることはできないし、

また父が子を生じるということもありえない。

一切の法は相依相関において成立している、というのである

■『中論』の中心問題

チャンドラキールティの註をみると、

この相依説を種々の表現によって説明している。

すでに述べたように一切の法は

「長と短とのごとく」あるいは「短と長とのごとく」相依っているともいい

⇒あるいは「彼岸と此岸(しがん)とのごとく」あるいは「種子と芽とのごとく」相関関係において成立しているともいう(『プラサンナパダー』252、458、459ページ)

あるいはまたもろもろの事物はあたかも灯りと闇とのごとく互いに相関概念となって存在しているとも説明している。(同書154、266、287、382ページ)。

要するに諸法は互いに相依っているのであり(同書189ページ)、

⇒たとえば認識方法と認識対象についていえば、

「そうしてそれらは互いに相依ることによって成立している

認識方法があれば認識対象たるものがある。

認識対象があれば認識方法たるものがある

実に認識方法と認識対象との本性上の成立は存在しない(同書75ページ)といい、

また「先師は互いに相依る成立によって両者を成立させた(同書189ページ)ともいう。

これを術語でまとめていえば、

もろもろの存在の相依」「互いに相依っていること」「相依による成立」を主張するのが中論』の中心問題なのであった

吉蔵の分類

次にこれらの諸語の漢訳をみるにクマーラジーヴァは

青目釈(しょうもくしゃく)を訳すに当たって

⇒「相待(そうだい)」「相因待」「因待」「相因」などの字を用いている。

⇒上述の説明に「相依」という訳語をたびたび用いたのは宇井伯寿博士が使用されたのに順じたのであるが、

青目釈には出てこないようである。

しかし『中論』をみると「相依」という語は頻繁に出てくる(519ページ上、585ページ上、589ページ上、638ページ下。「相待(そうだい)」「相因待」「因待」「相因」等の語も嘉祥大師吉蔵もしばしば用いていることはいうまでもない)

・第一の分類 <通待>と<別待>

⇒<通待>とは

長と不長との関係のごときをいう。

すなわち長と長以外のすべての関係であり、

一般的にいえば甲と非甲との関係(すなわち矛盾)である。

<別待>とは

長と短とのごとき関係をいう。

すなわち反対概念の関係である。

ある学派は前者を「密待」と名づけ、後者を「疎待」と名づけていると伝えている。

・第二の分類 <定待(じょうだい)>と<不定待>

<定待とは

たとえば生死とニルヴァーナ、色(しき:いろ・かたちあるもの)と心との関係のごときをいい、

<不定待>とは、

五尺は一丈に対しては短いが三尺に対しては長いというがごとき場合の関係をいう。

・第三の分類 <一法待>と<二法待>

<一法待>とは

一人が父であり、まだ子でもあるがごとき場合をいい、

<二法待>とは

長いものと短いものと二法に関していう場合である。

インドの中観派のいう「相待」とはこれらすべてを包括しているとみてよいであろう。

■『中論の論理の特異性

・このような諸存在の相依性に注目するならば、

中論』の論理の特異性を明らかにしうると思う。

たとえば『中論』においては、

Aが成立しないから、Bが成立しえない」という論法がしばしば用いられている。すなわち、

「<特質>(が成立しないから特質づけられるもの>(可相はありえない

⇒<特質づけられるものが成立しないから特質もまた成立しない(第五章・第四詩)

というような場合である。この論法は非常に多く用いられている。第一章・第五詩、第七詩、第八詩、第一四詩後半、第二章・第二二詩、第二三詩、第三章・第五詩後半、第六詩後半、第四章・第五詩、第七章・第二九詩、第三三詩、第九章・第一一詩、第一一章・第二詩、第一四章・第八詩、第一六章・第五詩、第七詩、第一七章・第二六詩、第二七詩、第二九詩、第三〇詩、第二〇章・第二二詩、第二四詩後半、第二二章・四詩後半、第九詩後半、第二三章・第四詩、第六詩後半、第九詩、第一二詩、第一三詩、第一四詩、第一六詩、第一九詩、第二一詩(なお多少意味を異にするが第二四章にこれと似た論法が非常に多い)

これらの論法は一様でないが

いずれも一方が成立しないから他方も成立しないと主張するものであり、註釈中にも非常に多く用いられている。

ところが、この議論は形式論理学の立場からみるならば決して正しい議論とはいえない

たとえば第七章(つくられたもの〔有為〕の考察)では

あらゆる方法によって有為法が実有なるものとしては成立しえないことを証明した後で

生と住と滅とが成立しないが故に有為は存在しない

また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか(第三三詩)というが、

一切法を分類して有為と無為との二つにするのであるから、

有為と無為とは互いに排除し合う関係である以上、

有為が成立しないとしてしても無為は成立するかもしれない。

一般に『中論』における推論形式をみると

形式論理学的には不正確なもののあることはすでに宇井博士が指摘しておられる。(『国訳中論』解題二八ページ)。

ではナーガールジュナの議論には誤謬があるということになるはずであるが、

しかし『中論』が相依性を主張しているということを考慮するならば、

この困難も解決しうると思う。

『中論』によればあらゆるものは相関関係をなして成立しているから

先に述べたように「甲によって乙があり、また乙によって甲がある」といいうる。

これを条件部文の形に書き換えると、

「甲が成立するおきに乙が成立し、また乙が成立するときに甲が成立する」といいうる。

故に『中論』およびその註釈において、

「甲が成立するならば乙も成立するはずであるが、甲が成立しないから乙も成立しない」という議論がある場合、

形式論理学的に批判すると明確に不正確な推論であるが

『中論』が相依説に立つ以上

前述の議論は暗々裡々「乙が成立するならば甲も成立する」という命題を前提としてもっているから

必ずしも誤謬とはいえない。

また一切の条件や理由なしに、ただ「一方が成立しないから他方も成立しない」と主張する議論も

相依説を考慮するならば誤った議論でないことがわかる

すなわち「相互に依存するが故に

一つのものが成立しないときには、第二のものもまた成立しないのである」(『さとりの行ないへの入門』パンジガー、537ページ)といわれ、

また「それ故に、相互に依存するが故に

一つのものが存在しないならば他のものも存在しないことになるであろう」(同書538ページ「)と説明されている。

故にナーガールジュナが相依性を主張しているということを念頭におくならば

従来西洋の学者によってしばしば主張されるような、

ナーガールジュナは詭弁を説いているという説が誤解にもとづいていることが明らかになろう

■有為法と無為法にわたって相依

・以上は縁起又は相依おいう語の内容を論じたのであるが、

次に縁起ということがいかなる範囲に関していいうるかを考察した。

すでに説一切有部においては

縁起とは有情数(うじょうしゆ)に限っていうとなす説『順正理論』二五巻、大正蔵、二九巻、482ページ上))

有情)・非情非有情に通じていうとなす説と二種行われていたが(『俱舎論』五巻、一二枚)、

いずれにしても縁起とは有為法に関してのみいいうることであった

そうして有部は有為法の外に独立に実在する無為法を認めていた。

すなわち無為法も「自相において住することによって存在する」ところの法であり

有為法のたんなる反対概念でもなければ、また有為の欠如でもない。

自相を有する独立絶対な法として承認されている。

そうしてこの無為法に関しては縁起は適用されないのである

ところが『中論』はすでに述べたようにこれに対して

⇒「また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか(第七章・第三三詩)という。

有為法が成立しないから無為法も成立しえないという議論は中観派の書のうちにたびたび現れている。(『現観荘厳論』96ページ。『十二門論』大正蔵、三〇巻、160ページ中、162ページ下、163ページ中。青目釈、大正蔵、三〇巻、35ページ上。『中論疏』590ページ下)。

有為法も無自性であり、無為法も無自性であり両者は相依相関の関係において成立している

したがって、「何であろうと縁起して起こったのではないものは存在しないから、いかなる不空なるものも存在しない(第二四章・第一九詩)というし、

⇒またチャンドラキールティも同様に「縁起せざる法は存在しない」(『プラサンナパダー』505ページ)というから、

有為法も無為法も共に一切法が、より高き相依という統一の下におかれているすなわち

また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう何となれば無為である有は決して存在しないからである(第二五章・第五詩)のであって、

ニルヴァーナというのも仏というのもみな「因縁に属し」ているのである

⇒『中論』は要するに

一切の仏法、皆な是れ因縁の義なり(『中論』30ページ上)を明かしていると説く

このように有為法と無為法とにわたって相依が説かれるのである。

法界縁起との類似

これを前述の有部の縁起論と比較するならば、

著しい相違のあることに気がつく

それと同時に、『中論』の主張する縁起が

後世中国の華厳宗の法界(ほつかい)縁起の思想と非常に類似していることがわかる。

法界縁起の説においては

⇒有為法・無為法を通じて一切法が縁起していると説くのであるが

その思想の先駆を『中論のうちに見出す事ができる

中国の華厳宗は

一切法が相即円融(そうそくえんゆう)の関係にあることを主張するが、

中観派の書のうちにもその思想が現れている。

⇒すなわちチャンドラキールティの詿解においては、

一によって一切を知り、一によって一切を見る(『プラサンナパダー』28ページ)といい、

また一つの法の空は一切法の空を意味するとも論じている

⇒チャンドラキールティはいう、

⇒「一つのものの空を見る人は、一切のものの空を見る人であると伝えられている

一つのものの空性は、一切のものの空性にほかならない」(『四百論。第八章・第十六時』)。

⇒チャンドラキールティも同様にいう。

⇒「中観派は、一つのものの空性を教示しょうと欲しているのと同様に、一切のものの空性も教示しようとしているのである」(『プラサンナパダー』127ページ)

・このように一と一切とは別なものではない

極小において極大を認めることができる。

きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出しうる

各部分は全体的連関の中における一部分にほかならないから、

部分を通じて全体を見ることができる

実に『中論』のめざす目的は全体的連関の建設であった

このように解するならば『中論』の説く縁起と華厳宗の説く縁起は

いよいよもって類似していることが明らかである。

従来、華厳宗の法界縁起説は全くシナにおいて始めて唱え出されたものであり、

縁起という語の内容を変化させ、

時間的観念を離れた相互関係の上に命名したした、と普通解釈されてきたが、

しかし、華厳宗の所説は

すでに三論宗の中にも認められるのみならず(「三論玄義」八三枚左)、

さかのぼつて『中論』のうちに見出しうる

中論の縁起説は

華厳宗の思想と根本においてはほとんど一致するといっていい

ただ華厳宗のほうが一層複雑な組織を立てている点が相違するのみである

賢首(げんじゅ)大師法蔵には『

十二門論宗致義記』があるほどであり、また日照三蔵からも教えを受けたというから、

ナーガールジュナ(龍樹)』からの直接の思想的影響も十分に考えられる。

法界縁起の説がはたしてどれだけナーガールジュナの『中論』その他の著書の影響を受けているかということは

⇒独立な研究問題であるが、

両者の間に内面的な密接な連絡があったことは否定できないと思われる。

■ジャイナ教との関係

・なお、最後にすべきこととして

⇒『中論』の上に挙げたような表現が

原始仏教聖典のうちには見当たらないのに、

ジャイナ教の聖典のうちには見られるという事実である。

たとえばジャイナ教の聖典『アーヤーランガ』では、

一のものを知る人は一切を知る。一切のものを知る人は一のものを知る」と説き、

同趣意の思想が、ジャイナ教のサンスクリットの詩句においても伝えられている。

また、「一つ煩悩を避ける人は一切の煩悩を避ける一切の煩悩を避ける人は一つの煩悩を避ける」ともいう。

では、ナーガールジュナはこのような表現を

ジャイナ教からとりいれたのであろうか。

しかしジャイナ教に関するナーガールジュナの言及は割合に僅少なので、

なお疑問とすべき予知がある。

⇒この歴史的連結の解明は、今後の研究にゆだねたい。

<参考情報>

1. 『中論』における「縁起」の根本的な再定義

まず、『中論』は「縁起」(pratītyasamutpāda)という言葉の従来の解釈を否定し、根本的に再定義することから始めます。

• 従来の「縁起」解釈の否定:多くの仏教学者や小乗仏教の諸派は「縁起」を「因と縁とによって生ぜられることと解釈していました。しかし、『中論』はこの「因縁所生因や縁によって生じることという説を強力に攻撃しています。例えば、業は縁によって生じない(pratyayasamutpannaではない)とされながらも、全ては縁起せるとされる矛盾を指摘し、「縁によって生ぜられた」(pratyayasamutpanna)と「縁起した」(pratītyasamutpanna)は区別されるべきだと強調します。

• 縁起」=「相依性」(相互依存): 『中論』において「縁起」とは、もはや原因によって生じること」ではなく論理的な依存関係すなわち**「相依性」(idamprapyatā)、相互依存の関係**を意味するとされますこれは、『中論』の注釈書によっても明確にされています。

この相依性は、「甲があるときに乙があり、乙があるときに甲がある」という関係として説明されます

具体的な例としては、「行為と行為主体」、「苦しみ」の成り立ち、「長と短」、「父と子」、「此岸と彼岸」、「種子と芽」、「燈と闇」、「認識方法と認識対象」 などが挙げられます。これらは、いずれか一方が独立して存在し得ず互いに依存し合って初めて成立するものとされます。

2. 「相依性」がもたらす「無自性」(svabhāvaの欠如)の主張

相依性」の理解は、一切のものが**「自性」(svabhāva)を持たない**という核心的な教えへと繋がります

• 独立した実体としての自性の否定:もし「浄」と「不浄」のように、互いに対立する概念がそれぞれ自身で独立した本質(自性)を持つならば、互いを離れても存在し得ると考えられるかもしれません。しかし、現実には浄は不浄に依って浄であり、不浄は浄に依って不浄であるように、「ありかたとしての諸法は独立に存在することが不可能です。

中論の論法は、「相依性を前提として「Aが成立しないからBも成立し得ない」という形式を頻繁に用います。これは一見すると形式論理学的には誤謬に見えるかもしれませんが、『中論』が「甲があるときに乙があり、また乙があるときに甲がある」という相互依存の命題を暗黙の前提としているため片方の非成立が他方の非成立を必然的に導くと考えられますつまり、互いに依存し合うが故に、一つが成立しない時には、第二のものもまた成立しないのです。

出典:サブタイトル/華厳経の先駆けとしての中論~「中論」における縁起の意義.pdf/中村元著より転記:NotebookLM(生成AI)の活用で要点抽出~項目(7)

<参考情報>

■縁起とは

・名付けられた「兄」と「弟」の関係は

⇒お互いに相手がいなければ成立しない

それ自体としては成立しない

つまり自性を持たない相依性の否定

⇒つまり本体がないと言える

固定的に永遠に存在する本体はない

無自性

自性(もし「若者:名付けられた」という)があって

変わらない本体がある)としたら

自性

固定的に永遠に存在する本体

龍樹

相依性の否定

空であるから

相互依存は成立しないと論証した

執着から離れる

名付けることを排する

無自性空であるから

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~

<参考情報>

■時間概念が否定

 因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる。

 まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。

 時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋しているところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。

過去や未来がたとえ無であったとしてもその名前や概念が成立していること自体が重要であり

概念や名前、即ち仮名があることによって「現在」も把握できる、ということである

しかもそのような「仮名という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた「現在」だから、結局、その「現在」も空虚である、という論証の仕方である

同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである。

つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである

これが龍樹の「戯論」という語の背後に隠れている「仮名」の積極的意味であると思われる

つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故。「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである。

出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~

<参考情報>

仏教(釈尊)は

あらゆるものに実体は無いとする

法界縁起

円融無碍と性紀のアプローチがある

円融無碍

■同じパターンが繰り返される系とは

<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>

あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。

つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。

<参考情報>

仏教の悟りの要件の一つに重々帝網という言葉があります。『インドラの網』、『重々無尽』、『事事無碍』ともいわれます。

これは帝釈天の宮殿を覆う網の結び目に宝玉が付いていて、全体を照らす、同時に全体は個々の宝玉の中に反映されている、部分は全体を表わし,全体は部分に集約されています。すなわち相互依存性の理解が大切という教えです。

出典:https://www.health-research.or.jp/library/pdf/forum24/fo24_selector01.pdf

■唯識所変のIndra’s Net

出典:https://hironobu-matsushita.com/%E5%94%AF%E8%AD%98%E6%89%80%E5%A4%89%E3%81%AEindras-net/

■相即と相入

■華厳の特性

・性起

本来に備わっている(具)いるだけでなく

今、現在の現れている

働きが起きている

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~