■『中論』の中心思想としての縁起
◆<中道>か<二諦>か
・『中論』の中心思想をどこに求むべきか
⇒学者によって種々に説が異なるであろうと思う。
⇒本邦においては普通常識的には『中論』は空または諸法実相(事物の真相)を説くといわれている。
⇒しかし三論宗によれば
⇒『中論』は主として二つの真理(二諦:にたい)を説いている、と定められている。
⇒たとえば嘉祥大師吉蔵は二つの真理が『中論』の中心思想であるゆえんを種々に説明している。(『三論玄義』六六枚左ー六九枚)。
⇒ところがここに困難な問題が起こる。
⇒『中論』と題する以上、『中論』の中心思想は二つの真理ではなくて、<中道>ではないか、という疑問がそれである。
⇒「問う。既に〔題をつけて〕『中論』と名づく。何が故に中道を宗(根本的立場)と為さずして、すなわち二諦を宗(根本的立場)とするや」
⇒これに対する答えをみるに、
⇒「答う。すなわち二諦は是れ中道なり。既に二諦を宗となす。すなわち是れ中道を宗となすなり。
⇒然る所以は、還って二諦について中道を明かすを以ての故なりー世諦(世俗的真理)の中道、真諦(究極的真理)の中道、非真非俗の中道あり。
⇒ただし今は名と宗と両(ふた)っながら挙げんと欲するが故に、中と諦と互いに説くが故に、宗はその諦を挙げ、名はその中を題す。
⇒もし中道を名となし、復た中道を宗となさば、ただ不二の義を得て、その二義を失うが故なり」(『三論玄義』六九枚ー七〇枚)。といって依然自説を主張している。
⇒しかしながら『中論』自体にこのような見解を持ち込むことができるかどうかは疑問である。
⇒二つの真理(二諦)のことは第二四章(四つのすぐれた真理の考察)の第八・九・一〇詩に言及しているのみであるから、この問題に関しては独立に研究する必要がある。
⇒故に『中論』およびその註釈書により中観派自身の主張することを聞こうと思う。
⇒チャンドラキールティの註解によると
⇒「中観派は虚無論者と異ならないのであって・・・・」(『プラサンナパダー』368ページ)という反対者の批難に対して、
⇒「そうではない。何故か。何となれば中観派は縁起論者であって・・・」(同368ページ)と答えている。
⇒故にチャンドラキールティは自ら縁起論者と称しているのである。
■縁起を説く帰敬序(ききょうじょ)
・ナーガールジュナは『中論』の冒頭において次のようにいう。
⇒「不滅、不生、不断、不常、不一義、不異義、不来、不出であり、戯論(けろん)が寂滅(じゃくめつ)して吉祥(きちじょう)である縁起を説いた正覚者(しょうがくしゃ)を、諸(もろもろ)の説法者の中での最も勝れた人として稽首(けいしゅ)する」とあり、
⇒この冒頭の立言(帰敬序:ききょうじょ)が『中論』全体の趣旨である。
⇒上記の詩の趣旨を解説しつつ翻訳すると、次のようになる。
⇒「〔宇宙においては〕何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、何ものも終末あることなく、何ものも常恒(じょうごう)であることなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく、何ものも〔われらに向かって〕来ることもなく、〔われらから〕去ることもない、というめでたい縁起のことわりを、仏は説きたもうた」
⇒さらにアサンガ(無著:むじゃく、310ころ~390年ころ)のいわゆる『順中論』をみると、
⇒その帰敬序(ききょうじょ)に対して、
⇒「かくのごとき論偈(ろんげ)は、是れ論の根本なり。尽(ことごと)く彼の論を摂す。われは今さらに解す」(巻上、大正蔵、三〇巻、39ページ下)と評しているから、
⇒この縁起を説く帰敬序(ききょうじょ)が『中論』の中心思想をあらわしているとみてさしつかえない。
⇒チャンドラキールティが、「中論の闡明(せんめい)せらるべき目的は縁起である」(『プラサンナパダー』3ページ)というのも当然であろう。
・『中論』の最後の詩句
⇒以上は『中論』の最初の詩句について検討したのであるが、
⇒次に『中論』の最後の詩句にあたってみよう。
⇒すなわち第二七章(誤った見解の考察)の第三〇詩に、
⇒「一切の〔誤った〕見解を断ぜしめるために憐愍(れんみん)をもって正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰命したてまつる」とあり、
⇒チャンドラキールティの註をみると、
⇒「誰であろうと、〔正しい真理(正法:しょうぼう)を、すなわち〕不滅、不生、不断、不常、不一義、不異義、不来、不出であり、戯論(けろん)が寂滅(じゃくめつ)して吉祥(きちじょう)である正しい真理を、縁起という名によって説きたもうた。・・・その無上無二なる師に帰命したてまつろう」(『プラサンナパダー』592-593ページ)と註解しているから、
⇒『中論』の縁起説によれば<正しい真理>とは縁起をさしているのである。
⇒またこの詩句に対する「般若灯論釈」の解釈をみると、「勝思惟梵天所問経(しょうしゆいぼんてんしょもんぎょう)」の、
⇒「深く因縁(いんねん)の法を解せば、すなわち諸(もろもろ)の邪見無し。法は皆な因縁に属す。自ら定まりし根本無し。
⇒因縁の法は生ぜず、因縁の法は滅せず、もし能くかくのごとく解(げ)せば、諸仏は常に現前したまう」という詩句を引いた後で、『中論』全体を要約して、
⇒「いま無起等に差別(しゃべつ)せられたる縁起を開解せしむるは、
⇒いわゆる一切の戯論(けろん)および一異等の種々見を息(や)めて、悉(ことごと)く皆な寂滅せること、この自覚せる法ーこの虚空のごとき法、これは無分別法にして、これは第一義の境界(きょうがい)の法なり。かくのごとき等の真実の甘露を開解せしむー、これが一部の論の宗意なり」(一五巻、大正蔵、三〇巻、135ページ中ー下)という。
⇒故に『中論』は最初に縁起をもって説き始め、最後も縁起をもって要約している。
⇒それでは、『中論』全体が縁起を説いているといいうるのではなかろうか。
⇒チャンドラキールティの註によれば、
⇒「一切のものが縁起せるが故に空であるということが、『中論』全体によって証明されている」(『プラサンナパダー』591ページ)という。
■閉却されていた『中論』の縁起説
・『中論』が縁起を中心問題としているということは
⇒従来の仏教研究の伝統からみれば、すこぶる奇妙な議論のようにみえるかもしれない。
⇒サンスクリット原文出版以前に『中論』を読む人は
⇒すべてクマ―ラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳でピンガラの註釈にのみ依っていたが、
⇒クマ―ラジーヴァ(鳩摩羅什)は縁起(Pratītyasamutpāda)を
⇒「因縁」「衆因縁生法(しゅういんねんしょうぽう)」「因縁法」「諸因縁」などの語によって訳していたから、
⇒『中論』の縁起説は明瞭に理解されなかった。
⇒そうして仏教内における種々の縁起説を並べて説明する場合にも、業感(ごうかん)縁起、頼耶(らや)縁起、真如(しんにょ)縁起、法界(ほつかい)縁起などはよくいわれるが、
⇒『中論』の縁起説については少しも言及されていなかった。
・ところが『中論』の序文やチャンドラキールティの註釈が出版されるとともに、研究者により、『中論』独自の縁起説がようやく注目されるようになった。
⇒現在なおわが国では『中論』の縁起説は閉却されているが、
⇒しかし『中論』の中心思想を縁起に求めるということは近代諸学者の承認を得ていることであり、何らさしつかえないと思う。
⇒嘉祥大師吉蔵も『中論』は二つの真理(二諦:にたい)を宗(根本的立場)としているといいながらも、他方『中論』の主題は縁起であるという。
⇒「能くこの因縁を説くを顕正(けんしょう)と謂うなり」(『中論疎』25ページ下)
⇒さらに『中論』の基づく『般若経』も縁起を説いている。
⇒たとえば、あるところでは縁起の順観と逆観とをなすべきことを説き、またあるところでは「縁起は甚深なり」と讃嘆し、またあるところでは縁起を説明したあとで、「善現よ、まさに知るべし。諸の菩薩・摩訶薩(まかさつ)は、般若波羅蜜多を行ぜんと欲せば、まさにかくにごとく縁起を観察して、般若波羅蜜多を行すべし」という(荻原本『八千頌般若(はっせんじゅはんにゃ)720ページ)
⇒したがって『中論』のみならず、一般に空観を説く書は縁起を問題にしている。
⇒ここにいう<縁起>とは
⇒相依していること(relationality)という意味であり、<空>と同義である。
⇒ナーガールジュナは変化そのものを否定した。
⇒本性上はいかなる変化も起こらないのであり、
⇒したがって人が悲しむべき理由もなければ、喜ぶべき理由も存在しないというのである。
⇒『中論』は縁起を説いている書であり、中観派は縁起論者である、という結論が得られる。
⇒以下においてはこの問題をさらに深く論究。
■二種類の縁起
・『中論』の縁起説を知るためにまず注目すべきことは『中論』においては縁起に二種類あるということである。
⇒嘉祥大師吉蔵によれば、『中論』二七章のうち、始めの二五章はもっぱら大乗の教えを明らかにし、終わりの二章は小乗の教えを述べたものである、
⇒すなわち前者は大乗の観行(かんぎょう)を明かし、後者は小乗の観行を明かしているから、『中論』全体が二分されているという(『中論疎』81ページ下、82ページ下、1021ページ上。『三論玄義』61枚左)
⇒この嘉祥大師吉蔵の所説は古い註釈についてみても確かめられる。ピンガラの註釈によれば第二説く章(〔縁起の〕十二支の考察)の始めに次のようにしるしている。
⇒「問うて曰く。汝は摩訶衍(まかえん。大乗のこと)を以て第一義を説きたり。我れはいま声聞法(小乗のこと)を説いて第一義の道に入ることを聞かんと欲す」(大正蔵、三〇巻、36ページ中)
⇒次に「答えて曰く」として『中論』の本文の詩句が引いてある。
⇒また『無畏論』も、「問う。汝は大乗の本典により入第一義を説き終らば、今まさに汝は声聞の本典により其入第一義を説くべし」というのに対して、詩句を持ち出して答えている。
⇒故に始めの二五章に出てくる縁起は大乗の縁起、すなわち『中論』が主張しようとする独自の縁起が説明してあり、
⇒第二六章には原始仏教聖典一般ならび小乗の縁起が説明されているといいうる。
⇒そしてピンガラの註釈によると、この二つの縁起を対比せしめている。
⇒「仏はかくのごとき等の諸の邪見を断じて仏法を知らしめんと欲するが故に、先ず声聞法(小乗)の中において十二因縁を説けり。またすでに習行して大心あり、深法を受くるに堪うる者たり。
⇒大乗法を以て因縁の相を説く。いわゆる一切法の不生不異等、畢竟空(ひっきょうくう)、無所有なり」(大正蔵、三〇巻、1ページ中)
⇒すなわち『中論』は従来から伝わっている小乗一般の縁起論に対抗して独自の縁起説を説いたのである。
⇒ナーガールジュナが
⇒小乗の十二因縁の説を何故後のほうで附加的に説明しているかは不明であるが、
⇒おそらくナーガールジュナの主張する独自の縁起は、
⇒名は同じ「縁起」でも内容が非常に異なっているというところを
⇒人びとに充分理解させるためであったろうと思われる。
⇒すなわち嘉祥大師吉蔵によれば「ただ大を顕わさんがための故に」小乗の縁起をも説いたのであろう(『三論玄義』62枚左)。
⇒以上種々に論述してことを要約すれば、次の二点に帰しうる。
<参考情報>
◆十二因縁(または十二縁起)
人間の苦しみ、悩みがいかにして成立するかということを考察し、その原因を追究して、
以下のような十二の項目の系列を立てたもの。
※小乗のいわゆる「十二因縁」は時間的生起の前後関係を示すものと『中論』はみなしている。
⇒今その時間的生起関係を示す語に傍点(赤色太文字)を附してみる。
1)無明(むみょう / avidya) – 無知(真理に対する無理解)
⇒「無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)をみずから為し、その業によって迷いの領域(趣)に行く」
2) 行(ぎょう / samskara) -潜在的形成力( 意志、行動の形成力)
⇒「潜在的形成力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る。そうして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する(第二詩)。
3) 識(しき / vijnana) – 識別作用(意識)
4)名色(みょうしき / namarupa) – 身心(心と物質:精神と肉体)
5)六処(ろくしょ / ṣaḍāyatana) – 心作用の成立する六つの場(六つの感覚機能:眼、耳、鼻、舌、身、意)
⇒名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。
6) 触(そく / sparśa) – 感覚器官と対象との接触
⇒六入が生じてのち、感官と対象との接触(触)が生ずる」(第三詩)。
「眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意:さい)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる」(第四詩)
7) 受(じゅ / vedana) – 感受作用(感覚)
⇒「色と識と眼との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生ずる」(第五詩)
8)愛(あい / tṛṣṇā) – 盲目的衝動(渇愛、欲望)
⇒「受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するとき四種の執着(取)を取る」(第六詩)
9)取(しゅ / upādāna) – 執着(取り込む)
⇒「取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである」(第七詩)
10)有(う / bhava) -生存( 存在、存在状態)
⇒その生存はすなわち五つの構成要素(五陰:ごおん)である。生存から<生>が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望ーこれらは<生>から生ずる。このようにして、このたん〔に妄想のみ〕なる苦しみのあつまり〔苦陰:くおん〕が生ずるのである」(第八詩・第九詩)
11)生(しょう / jāti) – 生まれること
12)老死(ろうし / jāramaraaṇa) – 無常なすがた(老化と死)
・このように全く時間的生起の関係に解釈され、
⇒チャンドラキールティの註釈においては一つの項から次の項が生ずることを説明するために、
⇒いつも「それよりも後に」という説明が付加されている。
⇒またナーガールジュナは他の書おいて十二因縁を三世両重の因果によって説明しているし、
⇒中観派は極めて後世に至るまで三世両重の因果による説明に言及している。
<参考情報>









出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)

出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4 第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所
・しかしながらナーガールジュナが真に主張しようとした(第二五章まで)縁起が
⇒十二有支(うし)でないことは明らかである。第三章八詩に、
⇒「<見られるもの>と<見るはたらき>とが存在しないから、識(3:識別作用)などの四つは存在しない。
⇒故に収(9:執着)などは一体どうして存在するのであろうか」というが、
⇒各註釈についてみると「識などの四つ」とは識と触と受と愛とを指し、
⇒さらにピンガラの註釈には「見と可見との法が無き故に、
⇒識と触と受と愛という四法は皆な無し。愛等が無きを以ての故に、四取等の十二縁分もまた無し」
⇒と説明しているから、『中論』の主張する縁起が十二有支の意味ではなくて、相依性の意味であることは疑いない。
⇒さらに注目すべきことには『無畏論』においては第二六章は十二有支を観ずるの章とあり、またチャンドラキールティの註釈においては第二六章のなかに、「縁起」(またはそれに相当する語、例えば衆因縁生法)という語が一度も使用されていない。
⇒故に最も古いこの二つの註釈においては、ただ縁起とのみいう場合には常に相依性を意味していて、十二有支の意味を含んでいなかったといいうる。
出典:NN1-3.『中道』と『縁起』(Ⅱ)~『中論』は諸行無常を『縁起』によって基礎づけている~(龍樹:中村元著より転記)
<参考情報>
「自性(じしょう)分別(ふんべつ)」とは、自ら思い込んだ固有の性質(自性)ありと別け隔てすること格差を設けることであり、それは優越感、劣等感、差別意識、偏見、他者を見下すことにつながりやすい。
したがって、他者の救済、他者への思いやり、すなわち慈悲心は希薄となろうから分別を除く必要がある。このことによって誤った営み(業と煩悩)が正され得ることになる。
空の智慧に目覚めることとは偏見、差別意識の不条理に気付くことに始まる。すなわ
・小乗アビダルマの縁起説
輪廻において形成された思い込み(自性)→戯論→分別→業と煩悩→さらなる輪廻
・ブッダ、ナーガールジュナの縁起説
輪廻から解脱への道(どう)は、自性の空性(縁起・無自性)→戯論の滅→分別の滅→業と煩悩との滅→解脱
◆アビダルマの縁起説
・縁起説の変遷
⇒小乗アビダルマ(法の研究〔対法〕)の縁起説は、
⇒生あるもの(衆生:しゆじょう)が三界を輪廻する過程を時間的に十二因縁の各支にひとつひとつあてはめて解釈する。
⇒すなわち三世両重(さんぜりょうじゅう)の因果によって説明する胎生学的解釈である、と普通にいわれている。
⇒しかし詳しく考察するならば、その間に発展変遷があり、また種々の解釈が併設されていたことに気づく。
⇒説一切有部の諸論の中で、
⇒縁起を時間的継起関係とみなして解釈する考えが最初に現れたのは『識身足論』においてであろう(三巻、大正蔵、二六巻、547ページ上)。
⇒そこには二種の縁起の解釈が説かれている。
⇒初めの解釈は諸支の関係を同時の系列とみているようであるが、
⇒後の解釈はそれを時間的継起関係とみなしている。
⇒しかしいまだ三世両重の因果による解釈は見られない。
⇒ところが同じ有部の『発智論(ほつちろん)』によると、
⇒無明と行とを過去に、生と老死とを未来に、その他の八つを現在に配当して、
⇒ほぼ輪廻の過程を示すとみる考えがかなり明瞭にあらわれている(一巻、大正蔵、二六巻、921ページ)。
⇒しかしまだ胎生学的には解釈されていない。
⇒次いで同じく有部の『大毘婆沙論』になると
⇒「刹那」「連縛(れんばく)」「分位(ぶんい)」「遠続(おんぞく)」の四種の縁起の解釈が示されており(二三巻、大正蔵、二七巻、117ページ下ー118ページ)、
⇒それが『俱舎論』、『順正理論』等にも言及されている。
⇒これらの解釈は結局時間的、継起的説明であるが、
⇒その中でただ刹那縁起のみは一刹那に十二支すべてを具するという説明であり、いちじるしく論理的あるいは存在論的立場から解釈がほどこされているし、
⇒また『中論』の縁起説と一脈相通ずるところがあり注目に値する。
⇒故に縁起を時間的継起関係とみなす考えと一致しないから
⇒上座部のごときは種々理由をつけて刹那縁起を排斥している。
注)三世両重と胎生学的解釈


出典:http://kotobanotsumugishi.seesaa.net/article/bukkyougenron20190705.html
・分位縁起(ぶんい縁起)
⇒有部が最も重点を置いているのは「分位縁起の説」である。
⇒分位とは語義的にいえば、「変化発展の段階」をいう。
⇒これこそ三世両重の因果によって説く有名な胎生学的解釈である。
⇒有部の綱要書をみるに、『阿毘曇甘露味論』巻上、『阿毘曇心論』四巻、『阿毘曇心論経』五巻は、
⇒全く分位縁起のみを説いて他を無視し、
⇒『雑阿毘曇心論』八巻は大体分位縁起を主として説いている。
⇒サンガバドラは『順正理論』において「対法(アビダルマ)の諸師は咸(みな)此の説を作(な)す。仏は分位に依りて諸縁起を説く」と明瞭に断言している(『順正理論』二七巻、大正蔵、二九巻、494ページ中)
⇒故にアビダルマの縁起説といえば、
⇒衆生の輪廻転生の過程を説く分位縁起のみをさすかのごとくに一般に考えられているが、
⇒分位縁起の説が出たのは比較的後世であり、
⇒後にこの説が有力となったために、有部の綱領書においては他の説はほとんど駆逐されているほであるが、
⇒これと異なる解釈も当時存在していたことは注意する必要がある。
⇒分位縁起は
⇒生あるもの(有情:うじょう)が輪廻転生する過程を示すものであるから、
⇒縁起はもっぱら有情に関して説かれることになる。
⇒しかし小乗アビダルマに紹介されている説をみると、
⇒必ずしも有情という類に入るもの(有情数:うじょうしゆ)のみに限っていない。
⇒上座部は<有情>と<非有情>とにそれぞれ縁起を認めているらしい。
⇒『順正理論』によると、「上座曰く、縁起に二つあり。一つに有情数、二つの非有情」二五巻、大正蔵、二九巻、482ページ上)とある。
<参考情報>

出典:http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html

■最初期仏教における縁起
・縁起の種々なる系列が説かれ、
⇒何故かくも多数の縁起の系列の型が説かれたのか、
⇒現在のわれわれにははなはだわかりにくくなっている。
⇒それらの縁起説に通ずる一般的な趣意は
⇒「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生じ、これがないときかれなく、これが滅することから、かれが滅する」ということであり、
⇒これが種々の縁起の系列に共通な思想であるといわれている。
⇒有部も上述の句が縁起の根本思想を表現しているということを承認している。
⇒「此の縁起の義は、即ち是れ説く所の、此れ有るに依るが故に彼有り、此れ生ずるが故に彼生ず」(『俱舎論』九巻、18枚左、『順正理論』二五巻、大正蔵、二九巻、481ページ中)
⇒この定義は原始仏教聖典における定義と一致しているのみならず、大乗における定義とも一致している。
⇒したがって「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる」云々という文句が、
⇒縁起の根本思想を要約しているということは仏教各派が一様に皆承認するところである。
⇒しかしならがこの文句をいかに解釈するかによって各派の説が相違してくる。
<有部の解釈>
⇒サンガバトラによると、
⇒「『此れ生ずるが故に』とは、過去現在の諸縁生ずるが故に、
⇒『彼生ず』と言うのは、未来の果生ず。
⇒未来に於いてもまた縁の義ありといえども、分位に約するが故に、但(た)已生(いしょう:生じたもの)を説く。
⇒或いは『此れ有るは依りて彼有り』とは、是れ前生の因に依りて現在の果有り」『順正理論』二五巻、大正蔵、二九巻、483ページ中)といい、
⇒また「有の輪、旋環して始無きこと」を示すともいう(同右)。
⇒『俱舎論』には当時の種々の解釈が集約されてる。ヴァスバンドゥ(世親(せしん))自身はほぼ四説を説いている。
一 「縁起に於いて決定(けつじょう:確定している説)を知らしめんがための故なり」(『俱舎論』九巻、1枚右)
二 「また諸支の伝生(でんしょう:順次に生じること)を顕示せんがためなり」(同右)
三 「三際(さんざい:過去・現在・未来の三世)の伝生(順次に生じること)を顕示せんがためなり」(同右)
四 「また親(しん:直接的)と伝(でん:一つおいた間接的)との二縁をを顕示せんがためなり」(同右)
⇒われわれはこれらの諸解釈に共通なある傾向を見出しうると思う。
⇒すなわち「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる」云々という句を、
⇒時間的生起の関係を意味するものとみなしていることである。
⇒このように解す傾向が強かったことは疑いがない。
⇒これを中観派の相依説と比較すると、そこに著しい相違がみられる。
⇒したがって<縁起>とは時間的生起関係と解されている。たとえば、
⇒「問う。何の故に縁起と名づくや。縁起とは是れ何の義なるや。
⇒答う。縁に侍して起するが故に縁起と名づく。何等の縁に侍するや。謂く因縁等と」(『大毘婆沙論』二三巻、大正蔵、二九巻、481ページ上)
⇒故に<縁起>の直接の語義は、
⇒実有なる独立の法が縁の助けを借りて生起することと解されていた。
⇒小乗アビダルマに現れている縁起観は諸説紛々として帰一するところを知らぬ状態であるが、次にように要約しておこう。
一 有部においては『大毘婆沙論』以降四種の縁起が認められていたが、有部が最も力説したのは「分位縁起」であり、
後世になれば、縁起とは衆生の生死流転する過程を述べるこの胎生学的な解釈がほんど他の説を駆逐するに至った。
二 『品類足論(ほんるいそくろん:有部の七論の一つであるきわめて重要な根本聖典)において、縁起とは一切有為法をさすために、
後世、問題の中心となり、種々の方面に影響を及ぼしている。
三 これに反して縁起を無為法なりと主張する派もあった。
四 「これがあるとき、かれがある。これが生ずることから、かれが生ずる」という縁起説の共通趣意を示すこの文句は有部においても保存されていたが、
ただしこれは「縁によって生ずること」という時間的生起関係を意味しているとされていた。
注)分位縁起
十二縁起の各支(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)の力によって、異なる段階(分位)に区別して解釈するもので、例えば識支は母胎に着床した初刹那の五蘊を指す。
つまり、分位縁起は有情(生命体)の各段階で発現するさまざまな条件(因縁)によって成立する縁起。


■『中論』における「縁起」の意義
◆縁起の語義
・『中論』における「縁起」pratītyasamutpāda(プラティーチャ・サムトパーダ)という語
⇒をクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)は「因縁」「衆因縁生法」「諸因縁」「因縁法」と訳し、
⇒また「縁起せざる」apratītyasamutpāda anutpannaという語「因縁に従って生ぜず、縁に従っても生ぜず」と訳し、
⇒また「何でも縁って存するもの」pratītya yad bhavatiを「もしも法が縁より生ぜば」「もしも法が衆縁より生ぜば」と訳している。
⇒故にこれらの訳語からみて以前の仏教学においては大体『中論』は「因と縁とによって生じること」または「縁によって生じること」を説くと考えていたらしい。
⇒ところが縁起をこのように「因と縁とによって生ぜられること」とみるならば、
⇒すこぶる困難な問題に遭遇する。
・『中論』は
⇒一方において「因縁所生」(因と縁とによって生ぜられること)を認めながら、
⇒他方においてはこれを排斥している。
⇒その著しい例は第一章(原因〔縁〕の考察)及び第二〇章(原因と結果との考察)であり、
⇒いずれも諸法が因と縁によって生するという説を極力攻撃している。
⇒この矛盾を一体どのように解釈すべきであろうか。
⇒そこでまず思い付くのは「縁起」pratītyasamutpādaという語をクマーラジーヴァは「衆因縁生法」などと訳してはいるが、
⇒「衆(多くの)の因と縁とによって生ぜられる」という意味に解釈してはならないのではなかろうか、ということである。
⇒これを『中論』の原文に当たってみると容易に理解しえる。
⇒第一七章・第二九詩句において、業(行為)は縁によって生ぜられたものではない、とされている。
⇒ところが『中論』全体からいえば、
⇒ありとあらゆるものは(したがって業も)縁起せるものである。
⇒故に「縁によって生ぜられた」と「縁起した」とは区別して考えなければならいない。
⇒両語のチベット訳をみるに、両者は明確に区別されている。
注)四大訳経家:鳩摩羅什(くまらじゅう:344~413頃)、真諦(しんたい)三蔵(499~569)、玄奘三蔵(600~664)、不空(ふくう)三蔵(705~774)の4人のことを指し、仏典の翻訳に功績を残した人物として重んじられている。
※鳩摩羅什の主な漢訳:『妙法蓮華経』(法華経)、『阿弥陀経』、『摩訶般若波羅蜜経』、『維摩経』、『大智度論』、『中論』等。尚、摩訶般若波羅蜜経は般若思想の核心を伝えるもので、後の仏教哲学や実践に大きな影響を与えた。
注)五胡十六国時代(304年~439年)⇒中国の歴史の中でも特に混乱した時期だったが、中国における宗教の概念を一変させた時代でもあった。

◆中観派と有部の相違
・クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が両者を区別していないのは、
⇒その区別を示すに適当な訳語が見っからなかったからであろう。
⇒もしも、「縁によって生ぜられた」を意味しようとするならば、
⇒別の原語が考えられねばならない。
⇒すなわち「縁起」pratītyasamutpādaと
⇒ほかにhetupratyaya-sambhūta
⇒あるいはhetupratyayajantitaが用いられるであろう。
⇒これらはみな有為法に関して用いられる語である。
⇒故に『中論』における「縁起」「縁起した」という語はこれらと区別して理解されねばならない。
⇒縁起の原語の前半、すなわちpratītyaを
⇒中観派は「縁によって」という意味には解していない。
⇒説一切有部においては「縁りて」pratītyaとは「縁を得て」の意味であったが、
⇒中観派によると同義であり、論理的な依存関係を意味してるとされている。
⇒またチベット訳も同義であり、論理的関係を示すものと解していたに違いない。
⇒したがって「縁りて」(pratītya)を「原因によって」と解することはは不可能である。
⇒故に『中論』の縁起は
⇒「縁によって起こること」と解釈してはならないことは明らかである。
⇒では、中観派は「縁起」をどのように理解していたのであろうか。次にこれを論じたい。
■相互依存
・『中論』の縁起
⇒『中論』の主張する縁起とは相依性(そうえしょう:相互依存)の意味であると考えられている。
⇒縁起が相依性(相互依存)の意味であることは註釈によって明らかである。
⇒例えば第八章(行為と行為主体との考察)においては、
⇒行為と行為主体が互いに離れて独立に存在することは不可能であるとということを証明している。
⇒「行為によって行為主体がある。
⇒またその行為主体によぅて行為がはたらく。
⇒その他の成立の原因をわれわれは見ない」(第一二詩)と結んでいる。
⇒すなわち行為と行為主体とは互いに相依って成立しているのであり、
⇒相依性以外に両者の成立しうる理由は考えられないという意味である。
⇒チャンドラキールティの註釈によるとこの詩句は
⇒「陽炎のような世俗の事物は相依性のみを承認することによって成立する。他の理由によっては成立しない」(『プラサンナパダー』189ページ)ということを説いている。
⇒故にこの詩句の意味する「甲によって乙があり、乙によって甲がある」ということを相依性と命名しているとみてよいと思う。
⇒また第二章(苦しみの考察)においては、
⇒苦が自らによって作られた、他によって作られた、自と他との両者によって共に作られた、無因にして作られた、のいすれでもないことを証明したあとで、
⇒チャンドラキールティは次のように結んでいる。
⇒「上述の四句(自作・他作・共作・無因性)を離れた『行為と行為主体との考察』(第八章)において定められた規定によって、
⇒すなわち相依性(相互依存)のみの意味なる縁起の成立によって、
⇒〔もろもろのことがらの〕成立が承認されねばならぬ」(同書234ページ)
⇒故に『中論』の主張する縁起はとは
⇒「相依性(相互依存)のみの意味なる縁起」であるということは疑いない。
⇒これと同じ意味のことを他の箇所においても述べている。
⇒「相依性(相互依存)のみによって世俗の成立が承認される。
⇒しかるに四句(自作・他作・共作・無因性)を承認することによってはない。
⇒何となれば有自性論(うじしょうろん)の〔欠陥〕が随伴するが故に。
⇒そうしてそのことは正しくないが故に。
⇒実に相依性のみを承認するならば、
⇒原因と結果との互いに相依れるが故に自性上の成立は存しない」(同書54ページ)
⇒また、チャンドラキールティはその著『中観に入る論』において、「相依性の真理」を強調している。
<参考情報>
1. 『中論』における「縁起」の根本的な再定義
まず、『中論』は「縁起」(pratītyasamutpāda)という言葉の従来の解釈を否定し、根本的に再定義することから始めます。
• 従来の「縁起」解釈の否定: 多くの仏教学者や小乗仏教の諸派は、「縁起」を「因と縁とによって生ぜられること」と解釈していました。しかし、『中論』はこの「因縁所生」(因や縁によって生じること)という説を強力に攻撃しています。例えば、業は縁によって生じない(pratyayasamutpannaではない)とされながらも、全ては縁起せるとされる矛盾を指摘し、「縁によって生ぜられた」(pratyayasamutpanna)と「縁起した」(pratītyasamutpanna)は区別されるべきだと強調します。
• 「縁起」=「相依性」(相互依存): 『中論』において「縁起」とは、もはや「原因によって生じること」ではなく、「論理的な依存関係」、すなわち**「相依性」(idamprapyatā)、相互依存の関係**を意味するとされます。これは、『中論』の注釈書によっても明確にされています。
◦ この相依性は、「甲があるときに乙があり、乙があるときに甲がある」という関係として説明されます。
◦ 具体的な例としては、「行為と行為主体」、「苦しみ」の成り立ち、「長と短」、「父と子」、「此岸と彼岸」、「種子と芽」、「燈と闇」、「認識方法と認識対象」 などが挙げられます。これらは、いずれか一方が独立して存在し得ず、互いに依存し合って初めて成立するものとされます。
2. 「相依性」がもたらす「無自性」(svabhāvaの欠如)の主張
「相依性」の理解は、一切のものが**「自性」(svabhāva)を持たない**という核心的な教えへと繋がります。
• 独立した実体としての自性の否定: もし「浄」と「不浄」のように、互いに対立する概念がそれぞれ自身で独立した本質(自性)を持つならば、互いを離れても存在し得ると考えられるかもしれません。しかし、現実には浄は不浄に依って浄であり、不浄は浄に依って不浄であるように、「ありかた」としての諸法は独立に存在することが不可能です。
• 『中論』の論法は、「相依性」を前提として「Aが成立しないからBも成立し得ない」という形式を頻繁に用います。これは一見すると形式論理学的には誤謬に見えるかもしれませんが、『中論』が「甲があるときに乙があり、また乙があるときに甲がある」という相互依存の命題を暗黙の前提としているため、片方の非成立が他方の非成立を必然的に導くと考えられます。つまり、互いに依存し合うが故に、一つが成立しない時には、第二のものもまた成立しないのです。
出典:サブタイトル/華厳経の先駆けとしての中論~「中論」における縁起の意義.pdf/中村元著より転記:NotebookLM(生成AI)の活用で要点抽出~項目(7)
<参考情報>
■縁起とは
・名付けられた「兄」と「弟」の関係は
⇒お互いに相手がいなければ成立しない
⇒それ自体としては成立しない
⇒つまり自性を持たない=空(相依性の否定)
⇒つまり本体がないと言える
⇒固定的に永遠に存在する本体はない
⇒無自性=空
・自性(もし「若者:名付けられた」という)があって
⇒変わらない(本体がある)としたら


■自性
⇒固定的に永遠に存在する本体


■龍樹
・「相依性の否定」
⇒空であるから
⇒相互依存は成立しないと論証した

■執着から離れる
・名付けることを排する

・無自性=空であるから





↓

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~
<参考情報>
■時間概念が否定
因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる。
まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。
時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋している。ところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。
過去や未来がたとえ無であったとしても、その名前や概念が成立していること自体が重要であり、
概念や名前、即ち「仮名」があることによって「現在」も把握できる、ということである。
しかもそのような「仮名」という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた「現在」だから、結局、その「現在」も空虚である、という論証の仕方である。
同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである。
つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである。
これが龍樹の「戯論」という語の背後に隠れている「仮名」の積極的意味であると思われる。
つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故。「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである。
出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~
◆法と法との論理的相関関係
⇒中観藩が縁起を相依性(相互依存)の意味に観じている以上、
⇒種々の縁起の系列に共通な根本思想を示すとされているところの
⇒「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる」云々という句もその意味に解釈されなければならない。
⇒小乗の諸派においては種々なる解釈が行われていたが、
⇒大体十二支が順を追って時間的に生起するこを意味していると解する傾向が強かったし、
⇒また『中論』註釈からみても反対者は時間的生起関係と解していた。
注)三世両重と胎生学的解釈

⇒ところが中観派の解釈はこれと截然たる対立をなしている。
⇒チャンドラキールティは「これがあるとき、かれがある。あたかも短があるときに長があるがごとくである」と説明している(同書10ページ)
⇒これは注目すべき主張である。
⇒小乗においては、縁によって起こること、時間的生起関係を意味すると解されていたこの句が
⇒中間派においては「あたかも短に対して長があるがごとし」とか、あるいは「長と短とのごとし」(同書458、459、529ページ。なお同様の表現については252、458ページも参照)というように全く法と法との論理的相関関係を意味するものとされるに至った。
⇒長と短とが相依ってそれぞれ成立しているように、
⇒諸法は相互に依存することによって成立しているという。
⇒これは法有(ほうう)の立場においては絶対に許されない説明である。
⇒有部は長と短とは相依っているとは考えないで、
⇒独立な「長というもの」「短というもの」を認める。
⇒すなわち色境(しききょう:視覚の対象)の中の形色(ぎょうしき:目にみえるかたちあるもの)の中に「長」「短」という法を認め
⇒「長」「短」という「ありかた」を実体視している。
⇒したがって「長と短とのごとし」という表現は許されないから、
⇒「俱舎論釈論」サンスクリット支の中の縁起を説く部分を見ても「長と短とのごとし」とか「あたかも短に対して長があるがごとし」という説明は一度も見当たらない。
・このように中観派「これがあるとき、かれがあり、云々」という句を相依、すなわち論理的相関関係を意味するものと解したのであるが、
⇒ここに問題が起きる。
⇒『中論』の詩句の中には「これがあるとき、かれがある」という句を否定している詩句がある。
⇒「それ自体(本体)の無いもろもろのもの(有)には有性(有ること一般)が存在しないが故に<このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない」(第一章・第一〇詩)
⇒ここにおいてわれわれは当惑を感ずるのであるが
⇒しかしチャンドラキールティやピンガラの註釈をみるならば、この疑問も氷解しうる。
⇒すなわち「このこと」を原因とみなし、「このこと」を結果と解する解釈を排斥したのである。
⇒要するに「これがあるとき、かれがある」という句は。
⇒四縁の中ぼ増上縁(助力するものとしての縁)を意味するのではなくて、
⇒論理的な相依相関関係を意味しているということをナーガールジュナは主張したのである。
・故に小乗諸派のようにこの句が増上縁を意味するというならば、
⇒それはナーガールジュナの排斥するところとなったが、
⇒前述のチャンドラキールティの註のようにこの句が法と法の論理的な相依相関関係を意味していると解するならば、まさしくナーガールジュナのの真意を得ているというべきであろう。
◆<浄と不浄><父このと子>
・この相依性、すなわち諸法の相依相関関係を明かすのが実に『中論』の主要目的であり、
⇒そのために種々の論法が用いられている。
⇒『中論』の最初に述べている「八不(はっぷ)」に関する諸註解書の証明も
⇒この相依を明かすものにはかならないのであるが、
⇒いま別にたとえば浄と不浄とを問題にして考えてみよう。
⇒「浄に依存しないでは不浄は存在しえない。それ(不浄)に縁(よ)って浄をわれらは説く。故に浄は不可得である」(第ニ三章・第一〇詩)
⇒「不浄に依存しないでは浄は存在しない。それ(浄)に縁(よ)って不浄をわれらは説く。故に不浄は存在しない」(第ニ三章・第一一詩)
・浄と不浄とは
⇒概念上は全く別なものであり、
⇒浄はあくまでも浄であり、不浄ではなく、
⇒また不浄はどこまでも不浄であって浄ではない。
⇒両者を混同するこは許されない。
⇒しかしながら浄と不浄とがそれぞれ自身の本質(自性)を持つならば、
⇒すなわちexistentiaとして存するならば、
⇒浄は不浄を離れても存在し、また不浄は浄とは独立に不浄として存在することとなろう。
・しかしながら浄も不浄もともに自然的存在の「ありかた」であるから、
⇒独立に存在することは不可能である。
注)初期仏教における「・・であるありかた」としての法が有部によって「・・・であるありかたが有る」と書き換えられた(サブタイトル/NN1-1.主な批判思想(説一切有部)から『中論』の思想を浮き彫り化(龍樹:中村元著より転記))
⇒もしもわれわれが一本の木と一個の石という二つの自然的存在を問題にするならば、
⇒両者は互いに独立無関係であるということはいいうるかもしれない。
⇒しかし古代インド人が問題にしていたのは
⇒自然的存在の領域ではなくて
⇒法の領域である。
⇒したがって浄と不浄という二つの「ありかた」について考えるならば、
⇒両者は互いに無関係ではありえず、互いに他を予想して成立している。
⇒浄は不浄によって浄であり、不浄は浄によって不浄である。
⇒したがって両者は独立には存在しない。
・この相依の思想は
⇒中観派の書にしばしば出てくるところの<父と子>との例による説明をみるならば一層明確になる。
⇒自然的存在の領域においては父があって子が生まれるのであるから、
⇒父は能生(のうしょう)であり、子は所生(しょしょう)である。
⇒逆に子が父を生むことはありえない。
⇒ところが「ありかた」としての父と子とを問題にすると、そうはいえない。
⇒父は子を生じない間は父ではありえない。
⇒子を生ずることによってこそ始めて父といいうる。
⇒父と子とは互いに相依しているのであるから、
⇒互いに独立な父と子とを考えることはできないし、
⇒また父が子を生じるということもありえない。
⇒一切の法は相依相関において成立している、というのである。
■『中論』の中心問題
・チャンドラキールティの註をみると、
⇒この相依説を種々の表現によって説明している。
⇒すでに述べたように一切の法は
⇒「長と短とのごとく」あるいは「短と長とのごとく」相依っているともいい、
⇒あるいは「彼岸と此岸(しがん)とのごとく」あるいは「種子と芽とのごとく」相関関係において成立しているともいう。
⇒あるいはまたもろもろの事物はあたかも灯りと闇とのごとく互いに相関概念となって存在しているとも説明している。
⇒要するに諸法は互いに相依っているのであり、
⇒たとえば認識方法と認識対象についていえば、
⇒「そうしてそれらは互いに相依ることによって成立している。
⇒認識方法があれば認識対象たるものがある。
⇒認識対象があれば認識方法たるものがある。
⇒実に認識方法と認識対象との本性上の成立は存在しない。」といい、
⇒また「先師は互いに相依る成立によって両者を成立させた」ともいう。
⇒これを術語でまとめていえば、
⇒もろもろの存在の「相依」「互いに相依っていること」「相依による成立」を主張するのが『中論』の中心問題なのであった。
■『中論』の論理の特異性
■このような諸存在の相依性に注目するならば、
・『中論』の論理の特異性を明らかにしうると思う。
⇒たとえば『中論』においては、「Aが成立しないから、Bが成立しえない」という論法がしばしば用いられている。すなわち、
⇒「<特質>(相)が成立しないから<特質づけられるもの>(可相)はありえない。
⇒<特質づけられるもの>が成立しないから<特質>もまた成立しない」(第五章・第四詩)
⇒というような場合である。この論法は非常に多く用いられている。
⇒これらの論法は一様でないが、
⇒いずれも一方が成立しないから他方も成立しないと主張するものであり、註釈中にも非常に多く用いられている。
⇒ところが、この議論は形式論理学の立場からみるならば決して正しい議論とはいえない。
⇒たとえば第七章(つくられたもの〔有為〕の考察)では
⇒あらゆる方法によって有為法が実有なるものとしては成立しえないことを証明した後で
⇒「生と住と滅とが成立しないが故に有為は存在しない。
⇒また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか」(第三三詩)というが、
⇒一切法を分類して有為と無為との二つにするのであるから、
⇒有為と無為とは互いに排除し合う関係である以上、
⇒有為が成立しないとしてしても無為は成立するかもしれない。
⇒一般に『中論』における推論形式をみると
⇒形式論理学的には不正確なもののあることは、すでに宇井博士が指摘しておられる。(『国訳中論』解題二八ページ)。
・ではナーガールジュナの議論には誤謬があるということになるはずであるが、
⇒しかし『中論』が相依性を主張しているということを考慮するならば、
⇒この困難も解決しうると思う。
⇒『中論』によればあらゆるものは相関関係をなして成立しているから、
⇒先に述べたように「甲によって乙があり、また乙によって甲がある」といいうる。
⇒これを条件部文の形に書き換えると、
⇒「甲が成立するおきに乙が成立し、また乙が成立するときに甲が成立する」といいうる。
⇒故に『中論』およびその註釈において、
⇒「甲が成立するならば乙も成立するはずであるが、甲が成立しないから乙も成立しない」という議論がある場合、
⇒形式論理学的に批判すると明確に不正確な推論であるが、
⇒『中論』が相依説に立つ以上、
⇒前述の議論は暗々裡々「乙が成立するならば甲も成立する」という命題を前提としてもっているから
⇒必ずしも誤謬とはいえない。
⇒また一切の条件や理由なしに、ただ「一方が成立しないから他方も成立しない」と主張する議論も
⇒相依説を考慮するならば誤った議論でないことがわかる。
・すなわち「相互に依存するが故に、
⇒一つのものが成立しないときには、第二のものもまた成立しないのである」(『さとりの行ないへの入門』パンジガー、537ページ)といわれ、
⇒また「それ故に、相互に依存するが故に、
⇒一つのものが存在しないならば他のものも存在しないことになるであろう」(同書538ページ「)と説明されている。
⇒故にナーガールジュナが相依性を主張しているということを念頭におくならば、
⇒従来西洋の学者によってしばしば主張されるような、
⇒ナーガールジュナは詭弁を説いているという説が誤解にもとづいていることが明らかになろう。
■有為法と無為法にわたって相依
・以上は縁起又は相依おいう語の内容を論じたのであるが、
⇒次に縁起ということがいかなる範囲に関していいうるかを考察した。
⇒すでに説一切有部においては、
⇒縁起とは有情数(うじょうしゆ)に限っていうとなす説と情(有情)・非情(非有情)に通じていうとなす説と二種行われていたが(『俱舎論』五巻、一二枚)、
⇒いずれにしても縁起とは有為法に関してのみいいうることであった。
⇒そうして有部は有為法の外に独立に実在する無為法を認めていた。
⇒すなわち無為法も「自相において住することによって存在する」ところの法であり、
⇒有為法のたんなる反対概念でもなければ、また有為の欠如でもない。
⇒自相を有する独立絶対な法として承認されている。
⇒そうしてこの無為法に関しては縁起は適用されないのである。
・ところが『中論』はすでに述べたように、これに対して
⇒「また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか」(第七章・第三三詩)という。
⇒有為法が成立しないから無為法も成立しえないという議論は中観派の書のうちにたびたび現れている。
⇒有為法も無自性であり、無為法も無自性であり、両者は相依相関の関係において成立している。
⇒したがって、「何であろうと縁起して起こったのではないものは存在しないから、いかなる不空なるものも存在しない」(第二四章・第一九詩)というし、
⇒またチャンドラキールティも同様に「縁起せざる法は存在しない」(『プラサンナパダー』505ページ)というから、
⇒有為法も無為法も共に一切法が、より高き相依という統一の下におかれている。すなわち
⇒「また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。何となれば無為である有は決して存在しないからである」(第二五章・第五詩)のであって、
⇒ニルヴァーナというのも仏というのもみな「因縁に属し」ているのである。
⇒『中論』は要するに
⇒「一切の仏法、皆な是れ因縁の義なり」(『中論』30ページ上)を明かしていると説く。
⇒このように有為法と無為法とにわたって相依が説かれるのである。
■法界縁起との類似
・これを前述の有部の縁起論と比較するならば、
⇒著しい相違のあることに気がつく。
⇒それと同時に、『中論』の主張する縁起が
⇒後世中国の華厳宗の法界(ほつかい)縁起の思想と非常に類似していることがわかる。
⇒法界縁起の説においては
⇒有為法・無為法を通じて一切法が縁起していると説くのであるが、
⇒その思想の先駆を『中論』のうちに見出す事ができる。
・中国の華厳宗は一切法が相即円融(そうそくえんゆう)の関係にあることを主張するが、
⇒中観派の書のうちにもその思想が現れている。
⇒「一によって一切を知り、一によって一切を見る」といい、
⇒また一つの法の空は一切法の空を意味するとも論じている。
⇒(チャンドラキールティの詿解『プラサンナパダー』28ページ)
⇒「一つのものの空を見る人は、一切のものの空を見る人であると伝えられている。
⇒一つのものの空性は、一切の空性にほかならない」
⇒(アーリヤデーヴァ『四百論。第八章・第十六章』)
⇒「中観派は、一つのものの空性を教示しょうと欲しているのと同様に、一切のものの空性も教示しようとしているのである」
⇒(チャンドラキールティの詿解『プラサンナパダー』127ページ)
・一と一切とは別なものではない
⇒極小において極大を認めることができる。
⇒極めて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出しうる
⇒各部分は全体的連関の中における一部分にほかならないから、
⇒部分を通じて全体を見ることができる。
⇒『中論』のめざす目的は全体的連関の建設であった。
⇒このように解するならば『中論』の説く縁起と華厳宗の説く縁起は
⇒いよいよもって類似していることが明らかである。
⇒従来、華厳宗の法界縁起説は全くシナにおいて始めて唱え出されたものであり、
⇒縁起という語の内容を変化させ、
⇒時間的観念を離れた相互関係の上に命名したした、と普通解釈されてきたが、
⇒しかし、華厳宗の所説は
⇒すでに三論宗の中にも認められるのみならず(「三論玄義」八三枚左)、
⇒さかのぼつて『中論』のうちに見出しうる。
⇒『中論』の縁起説は華厳宗の思想と根本においてはほとんど一致するといっていい。
⇒ただ華厳宗のほうが一層複雑な組織を立てている点が相違するのみである。
⇒賢首(げんじゅ)大師法蔵には『十二門論宗致義記』があるほどであり、
⇒また日照三蔵からも教えを受けたというから、ナーガールジュナ(龍樹)』からの直接の思想的影響も十分に考えられる。
⇒法界縁起の説がはたしてどれだけナーガールジュナの『中論』その他の著書の影響を受けているかということは
⇒独立な研究問題であるが、
⇒両者の間に内面的な密接な連絡があったことは否定できないと思われる。
<参考情報>
■仏教(釈尊)は
・あらゆるものに実体は無いとする


■法界縁起
・円融無碍と性紀のアプローチがある

■円融無碍





■同じパターンが繰り返される系とは
<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>
・あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。
⇒つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。












<参考情報>

仏教の悟りの要件の一つに、『重々帝網』という言葉があります。『インドラの網』、『重々無尽』、『事事無碍』ともいわれます。
これは帝釈天の宮殿を覆う網の結び目に宝玉が付いていて、全体を照らす、同時に全体は個々の宝玉の中に反映されている、部分は全体を表わし,全体は部分に集約されています。すなわち相互依存性の理解が大切という教えです。
出典:https://www.health-research.or.jp/library/pdf/forum24/fo24_selector01.pdf
■唯識所変のIndra’s Net

出典:https://hironobu-matsushita.com/%E5%94%AF%E8%AD%98%E6%89%80%E5%A4%89%E3%81%AEindras-net/


■相即と相入






























■華厳の特性
・性起
⇒本来に備わっている(具)いるだけでなく
⇒今、現在の現れている
⇒働きが起きている


出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~