■縁起説の変遷
・小乗アビダルマ(法の研究〔対法〕)の縁起説は、
⇒生あるもの(衆生:しゆじょう)が三界を輪廻する過程を時間的に十二因縁の各支にひとつひとつあてはめて解釈する。
⇒すなわち三世両重(さんぜりょうじゅう)の因果によって説明する胎生学的解釈である、と普通にいわれている。
⇒しかし詳しく考察するならば、その間に発展変遷があり、また種々の解釈が併設されていたことに気づく。
・説一切有部の諸論の中で、
⇒縁起を時間的継起関係とみなして解釈する考えが最初に現れたのは『識身足論(しきしんそくろん)』においてであろう(三巻、大正蔵、二六巻、547ページ上)。
⇒そこには二種の縁起の解釈が説かれている。
(初めの解釈は)諸支の関係を同時の系列とみているようであるが、
(後の解釈は)それを時間的継起関係とみなしている。
⇒しかしいまだ三世両重の因果による解釈は見られない。
⇒ところが同じ有部の『発智論(ほつちろん)』によると、
⇒無明と行とを過去に、生と老死とを未来に、その他の八つを現在に配当して、
⇒ほぼ輪廻の過程を示すとみる考えがかなり明瞭にあらわれている(一巻、大正蔵、二六巻、921ページ)。
⇒しかしまだ胎生学的には解釈されていない。
⇒次いで同じく有部の『大毘婆沙論』になると
⇒「刹那」「連縛(れんばく)」「分位(ぶんい)」「遠続(おんぞく)」の四種の縁起の解釈が示されており(二三巻、大正蔵、二七巻、117ページ下ー118ページ)、
⇒それが『俱舎論』、『順正理論』等にも言及されている。
⇒これらの解釈は結局時間的、継起的説明であるが、
⇒その中でただ刹那縁起のみは一刹那に十二支すべてを具するという説明であり、
⇒いちじるしく論理的あるいは存在論的立場から解釈がほどこされているし、
⇒また『中論』の縁起説と一脈相通ずるところがあり注目に値する。
⇒故に縁起を時間的継起関係とみなす考えと一致しないから
⇒上座部のごときは種々理由をつけて刹那縁起を排斥している。
⇒これに対してサンガバトラは「一念(一瞬)にも亦(また)縁起の義有り」といい、
⇒また経典にも説いているから刹那縁起を承認せざるをえない、と主張している。(『順正理論』二七巻、大正蔵、二九巻、493ページ下)
■分位縁起(ぶんいえんぎ)
・このような解釈もあるが、何といっても有部が最も重点を置いているのは「分位縁起の説」である。
⇒分位とは語義的にいえば、「変化発展の段階」をいう。
⇒これこそ三世両重の因果によって説く有名な胎生学的解釈であり、
⇒その内容はいまここで述べる必要はない。
⇒有部の綱要書をみるに、『阿毘曇甘露味論』巻上、『阿毘曇心論』四巻、『阿毘曇心論経』五巻は、
⇒全く分位縁起のみを説いて他を無視し、
⇒『雑阿毘曇心論』八巻は大体分位縁起を主として説いている。
⇒サンガバドラは『順正理論』において「対法(アビダルマ)の諸師は咸(みな)此の説を作(な)す。仏は分位に依りて諸縁起を説く」と明瞭に断言している(『順正理論』二七巻、大正蔵、二九巻、494ページ中)
⇒故にアビダルマの縁起説といえば、
⇒衆生の輪廻転生の過程を説く分位縁起のみをさすかのごとくに一般に考えられているが、
⇒分位縁起の説が出たのは比較的後世であり、
⇒後にこの説が有力となったために、有部の綱領書においては他の説はほとんど駆逐されているほであるが、
⇒これと異なる解釈も当時存在していたことは注意する必要がある。
・分位縁起は
⇒生あるもの(有情:うじょう)が輪廻転生する過程を示すものであるから、
⇒縁起はもっぱら有情に関して説かれることになる。
⇒しかし小乗アビダルマに紹介されている説をみると、
⇒必ずしも有情という類に入るもの(有情数:うじょうしゆ)のみに限っていない。
⇒上座部は<有情>と<非有情>とにそれぞれ縁起を認めているらしい。
⇒『順正理論』によると、「上座曰く、縁起に二つあり。一つに有情数、二つの非有情」二五巻、大正蔵、二九巻、482ページ上)とある。
⇒また、中央アジアから発見された、おそらく有部に属すると考えられる禅定(ぜんじょう)綱要書では、断片しか見つからないので断定的なことはいえないが、有情数の縁起を認めていたことが知られる。
■『品類足論(ぼんるいそくろん)』の縁起説とその影響
・また、縁起とはあらゆる現象的存在(一切有為法)にかかわるものであるという説もある。
⇒『品類足論』によると、
⇒「縁起法(縁起するもの)とはいかなるものなりや。
⇒謂く有為法なり。
⇒非縁起法(縁起せざるもの)とはいかなるものなりや。
⇒謂く無為法なり」(六巻、大正蔵、二六巻、715ページ下)とある。
⇒ただこれだけにすぎないが、有部のほとんどすべての論書において、
⇒「品類足論に曰く」とか「本論に説くが如し」といって、上の文が引用され、議論の中心となっている。
・有部の七論の一つであるきわめて重要な根本聖典である『品類足論』にこのような説があるならば、
⇒有部のとくに主張する分位縁起との関係はどうなるか。
⇒また他の「刹那縁起」「連縛縁起」「遠続縁起」とどのような関係にあるか。
⇒これが有部では問題として議論された。
⇒有部の普通の解釈によれば、
⇒「刹那」「連縛」「分位」「遠続」の四縁起は
⇒有情に関して説かれるのであるが、
⇒もしも『品類足論』のように縁起を一切有為法とみるならば、
⇒刹那縁起、連縛縁起などの解釈も異なってくる。
⇒『俱舎論』によると、
⇒「また或る説は、刹那と連縛とは『品類足論』の如し。倶(とも)に有為に遍ず」(九巻、一一枚左)という説もみえている。
⇒有情数とみなした場合には、
⇒刹那縁起とはたとえば、
⇒「刹那の頃、貪(とん:むさぼり)に由って殺(すること)を行ずる(うち)に十二支を具す」(『俱舎論』九巻、一一枚左)をいい、
⇒連縛縁起とは、
⇒十二支が前後相継いで次第するのをいうが、
⇒縁起が一切有為法であるという説に従うと、
⇒その解釈が著しく変更される。
⇒ヤショーミトラの釈論からみると、
⇒「もろもろの有為法は刹那ごとに滅び去るものであるから
⇒縁起は刹那的なものである。
⇒その縁起はは、因たり果たる両刹那と結合せるが故に結合的(連縛)なるものである」(ヤショーミトラ註、286ページ)という。
・また『アビダルマ灯論』によると、
⇒われわれの個人的存在(五蘊:ごうん)は刹那ごとに生滅するものであるが、
⇒もろもろの形成力(行)が個人的存在の連続を構成していて断絶しないのは何故であるかというと、
⇒それらは定まった因果の連続のうちに存在していて縁起を構成しているのだ、と説明している。
⇒故に縁起に関して四種の解釈があったのみならず、
⇒さらにその四種に関しても異説が行われていたということを認めざるをえない。
・縁起が一切有情をさすという『品類足論』の説が与えた影響は意外に大きい。
⇒『大毘婆紗論』によると
⇒「縁起法(縁起するもの)と縁已生法(えんいしょうほう)(縁によって生じたもの)との差別(しゃべつ)如何(二三巻、大正蔵、二七巻、118ページ上。二六巻、大正蔵、二六巻、716ページ中)という問題に関して、
⇒ある論師は『品類足論』の文句を典拠として、両者は差別無し、と断定している。
⇒この説は『衆事阿毘曇論』四巻にも説かれ、『俱舎論』(九巻、二五枚左)、およびヤショーミトラの釈論(ヤショーミトラ註、291ページ)にも言及し説明されている。
・しからばここに新たな問題が起こる。
⇒「縁已生」(「縁によって生じた」の意)が「縁起」と同義であるとすると、
⇒『品類足論』によれば縁起は一切有情をさすから、
⇒未来の有為法も「縁已生」といわれねばならない。
⇒すると未来法を
⇒「縁已生」という過去分詞によって表わすこととなるが、
⇒それは誤りではないであろうか。
⇒これに対してヤショーミトラは種類が同じであるからさしつかえないとと答えている(ヤショーミトラ註、291ページ)。
⇒ちょうど有為(「つくられたもの」の意)が過去分詞で表わされているが
⇒未来の有為法をも含めうるのと同様に、
⇒未来法を「縁已生」ということもできるのである。
・しかしながらこれは一部の論師の解釈であり、
⇒縁起と「縁已生」との差別に関しては
⇒小乗アビダルマ(とくに『大毘婆紗論』および『順正理論』)には実におびただしく多数の異なった解釈が説かれている。
⇒その中で最も多く後世の書に引用され論及されているのは、
⇒ヴァスバンドゥ(世親(無著の弟)、インドの大乗仏教唯識派の学者)およびサンガバトドラによって採用されている説、
⇒すなわち諸支の因分を縁起として果分を「縁已生」となす説と、
⇒および尊者望満の有名な四句分別(しくぶんべつ:存在に関する四種の思考法)とであろう。
■有部による縁起無為の説の排斥
・以上縁起を一切有為法なりとなす説、およびその影響を簡単に論じたが、
⇒次に縁起は無為法なりと唱えた派のあったことに留意する必要がある。
⇒たとえば『俱舎論』によると、
⇒「有るが説く縁起は是れ無為法なり、
⇒契経(かいきょう:経典)に如来の出世、若は不出世にも是の如く縁起の法性(ほつしょう)は常住なりと言うを以てなり」(ヤショーミトラ註、294ページ註参照)とあり、
⇒他の多くの論書にも言及されているが、
⇒「有るが説く」とあるところのその主張者に関しては、
⇒化地部(けじぶ)、法蔵部、東山住部(とうせんじゅうぶ)、大衆部(だいしゅうぶ)、分別論者などが挙げられ、
⇒各資料の伝えるところが種々に異なっている。
⇒今ここでは『中論』などの縁起の思想をみるための準備として、
⇒有部が縁起無為の説を排斥する理由を見ておきたい。
・有部によれば、
⇒縁起無為を主張する論者が典拠として持出す「如来の出世不出世にかかわらずこの理は定まれるものにして云々」よいう経文は、
⇒実は「因果決定義(いんがけつじょうのぎ)」を説くものであり、
⇒十二因縁の各文はそれぞれの支に対して<因>であり、
⇒後の各支はそれぞれ前の各支に対して<果>であるということを示している。
⇒縁起とは
⇒「縁によって生起すること」であるのに、
⇒その縁起を常住なるものまたは実体とみなすことはできない、という。
⇒故に有部は、
⇒縁起という特別な実体を考えることはなかったけれども、
⇒「法」という実体を考え、
⇒その実体が因果関係をなして生起することを
⇒縁起と名づけていたのである。
■有部の解釈
・最初期仏教において縁起の種々なる系列が説かれ、
⇒何故かくも多数の縁起の系列の型が説かれたのか、
⇒現在のわれわれにははなはだわかりにくくなっている。
⇒それらの縁起説に通ずる一般的な趣意は
⇒「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生じ、これがないときかれなく、これが滅することから、かれが滅する」ということであり、
⇒これが種々の縁起の系列に共通な思想であるといわれている。
⇒有部も上述の句が縁起の根本思想を表現しているということを承認している。
⇒「此の縁起の義は、即ち是れ説く所の、此れ有るに依るが故に彼有り、此れ生ずるが故に彼生ず」(『俱舎論』九巻、18枚左、『順正理論』二五巻、大正蔵、二九巻、481ページ中)
⇒この定義は原始仏教聖典における定義と一致しているのみならず、大乗における定義とも一致している。
⇒たとえば大乗の『仏説稲幹経(とうかんぎょう)』においても(ドゥ・ラ・ヴァレ・アーサン『稲幹経』70-71ページ)、中観派も(『プラサンナバダー』98ページ)、さらにヨーガ派も(同書148ページ)同様に説明している。
⇒したがって「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる」云々という文句が、
⇒縁起の根本思想を要約しているということは仏教各派が一様に皆承認するところである。
⇒しかしならがこの文句をいかに解釈するかによって各派の説が相違してくる。
・いま有部の解釈をみるに、
⇒サンガバトラによると、
⇒「『此れ生ずるが故に』とは、過去現在の諸縁生ずるが故に、
⇒『彼生ず』と言うのは、未来の果生ず。
⇒未来に於いてもまた縁の義ありといえども、
⇒分位に約するが故に、但(ただ)已生(いしょう:生じたもの)を説く。
⇒或いは『此れ有るは依りて彼有り』とは、是れ前生の因に依りて現在の果有り」(『順正理論』二五巻、大正蔵、二九巻、483ページ中)といい、
⇒また「有の輪、旋環して始無きこと」を示すともいう(同右)。
⇒『俱舎論』には当時の種々の解釈が集約されてる。
・ヴァスバンドゥ(世親(せしん))自身はほぼ四説を説いている。
一 「縁起に於いて決定(けつじょう:確定している説)を知らしめんがための故なり」(『俱舎論』九巻、1枚右)
二 「また諸支の伝生(でんしょう:順次に生じること)を顕示せんがためなり」(同右)
三 「三際(さんざい:過去・現在・未来の三世)の伝生(順次に生じること)を顕示せんがためなり」(同右)
四 「また親(しん:直接的)と伝(でん:一つおいた間接的)との二縁をを顕示せんがためなり」(同右)
・また長老世鎧(せがい)の説によれば、
⇒「これがあるとき、かれがある」という第一句は無因論を破すために説かれ、
⇒「これが生ずることから、かれが生ずる」という第二句は常因論を破すために説かれているとされるが(同上)、ヴァスバンドゥはこの解釈を排斥している。
⇒また我(アートマン)が所依となって十二支が順次に成立するという説があり、
⇒これもヴァスバンドゥはこの解釈を排斥している。(同上)
・また経部の諸師は、第一句は「因果の不断を顕し」、第二句は「因果の生起を顕す」ために説かれたという(同上)
⇒また尊師シュリーラーダ(室利羅多)は第一句は「因果の相続有れば、果の相続もまた有り」ということを意味し、第二句は「因分生ずるに由るが故に、諸の果分もまた生ず」ということを意味していると説くが、ヴァスバンドゥはこの解釈を排斥している。(同上)
・このように当時の解釈には種々雑多であり、
⇒さらに徹底した研究をしなければ断定的な結論は得られないのであるが、
⇒しかしながら、われわれはこれらの諸解釈に共通なある傾向を見出しうると思う。
⇒すなわち「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる」云々という句を、
⇒時間的生起の関係を意味するものとみなしていることである。
⇒もちろん上述の諸解釈がすべてそうであるとはいえないかもしれないが、
⇒このように解す傾向が強かったことは疑いがない。
⇒これを中観派の相依説と比較すると、そこに著しい相違がみられる。
⇒したがって<縁起>とは時間的生起関係と解されている。たとえば、
⇒「問う。何の故に縁起と名づくや。縁起とは是れ何の義なるや。
⇒答う。縁に侍して起するが故に縁起と名づく。何等の縁に侍するや。謂く因縁等と」(『大毘婆沙論』二三巻、大正蔵、二九巻、481ページ上)
⇒故に<縁起>の直接の語義は、
⇒実有なる独立の法が縁の助けを借りて生起することと解されていた。
・これに対して、中観派はいかなる縁起を説いたのであろうか。
⇒以上概略したように、小乗アビダルマに現れている縁起観は
⇒諸説紛々として帰一するところを知らぬ状態であるが、
⇒中観哲学との対比をするための準備としてはひとまずここで打ち切り、
⇒次にように要約しておこう。
一 有部においては『大毘婆沙論』以降四種の縁起が認められていたが、有部が最も力説したのは「分位縁起」であり、
後世になれば、縁起とは衆生の生死流転する過程を述べるこの胎生学的な解釈がほんど他の説を駆逐するに至った。
二 『品類足論(ほんるいそくろん:有部の七論の一つであるきわめて重要な根本聖典)において、縁起とは一切有為法をさすために、
後世、問題の中心となり、種々の方面に影響を及ぼしている。
三 これに反して縁起を無為法なりと主張する派もあった。
四 「これがあるとき、かれがある。これが生ずることから、かれが生ずる」という縁起説の共通趣意を示すこの文句は有部においても保存されていたが、
ただしこれは「縁によって生ずること」という時間的生起関係を意味しているとされていた。
<参考情報>
■分位縁起
十二縁起の各支(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)の力によって、異なる段階(分位)に区別して解釈するもので、例えば識支は母胎に着床した初刹那の五蘊を指す。
つまり、分位縁起は有情(生命体)の各段階で発現するさまざまな条件(因縁)によって成立する縁起。

注)三世両重と胎生学的解釈


出典:http://kotobanotsumugishi.seesaa.net/article/bukkyougenron20190705.html
<参考情報>

出典:http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html

<参考情報>








<参考情報>
清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分」は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分」である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分」で「識」の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけですよ。
出典:サブタイトル/「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|前編




出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
<参考情報>

出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4 第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所
<参考情報>
■大乗仏教:中観学派(空の思想)、唯識学派(唯識思想)

出典:https://miraiecosharing1.com/pag
<参考情報>
■法相宗(唯識学派)










■原始仏教(釈尊)が考えた心の動き:六識説
・六境(対象物)・六根(感覚器官)・六識(感覚作用)・意識(こころ)に収険される

■唯識の肝:八識
・前五識 (眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
・第六 意識
⇒上記六識に以下2識を加える(認識の深化)
・第七 未耶識(マナシキ:自己中心化⇒外界から入る情報を自分の都合の良いように解釈する)
◆第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識
・個々人の見聞、経験等の情報が全て書き込まれ、ため込まれる
⇒良くも悪くも「ため込まれた情報」は更新される
⇒次第に個々人の倫理観が形成される「心の働き」の領域

・何を第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ)にため込む事が大事か
⇒七仏通誡偈(ひちぶつつうかいげ)
⇒自らその意を浄めよ(第七 未耶識との衝突(矛盾))
※第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)

■唯識の実践とは
・自分の見解を絶対視しないこと
⇒第七 未耶識(マナシキ:自己中心化⇒外界から入る情報を自分の都合の良いように解釈する)を意識すれば

■玄奘三蔵が追い求めた事
・玄奘が死に際して言い続けた事
①「不可得」を繰り返す(一切を持っておくことができない)
⇒仮に今持っているが
⇒いつか手放さなければならない時が来る
⇒固定的ではない(離れる事=空観)
②山(深山)にこもり、禅をしたい
⇒禅とは心を整える修行で「山の中」で出来ると述べている
⇒皇帝に申し出たが、許されず
・鎌倉時代の禅僧の見解にもよく似ている
⇒自分の心を観察する時

■玄奘が追い求めた世界観の一例
・「不可得」と「禅観」を具体的に示した経(ウダーナヴァルガ(感謝のことば)

出典:第741回花ホテル講演会 タイトル:「法相宗は面白い ~こころを観る唯識~」 講師: 高次 喜勝 氏(YouTube)
【参考情報の「識」構造の比較】

清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分」は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分」である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分」で「識」の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけですよ。
■唯識の肝:八識
・前五識 (眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
・第六 意識
⇒上記六識に以下2識を加える(認識の深化)
・第七 未耶識(マナシキ:自己中心化⇒外界から入る情報を自分の都合の良いように解釈する)
◆第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置(ハードディスク)=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識
・個々人の見聞、経験等の情報が全て書き込まれ、ため込まれる
⇒良くも悪くも「ため込まれた情報」は更新される
⇒次第に個々人の倫理観が形成される「心の働き」の領域

<参考情報>
■玄奘三蔵
7世紀後半にインドに旅し、仏教の経典を集めて中国に持ち帰りました。
その中でも特に般若心経は、仏教の核心を示す重要な経典とされている。
般若心経(はんにゃしんぎょう)は、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ=ブッダ)が弟子たちに説いたとされる経典で、仏教の教えの中でも特に重要なものの一つ。
この経典は、人々が自分の心を観察し、無常観(すべては変化する)を持つことで悟りを得ることを説いている。
◆般若心経
⇒大般若経(600巻)から抜粋され、要約された。
⇒つまり大般若経全体の長さは非常に膨大であり、
⇒その教えの中から最も重要な部分を抽出したものであり、
⇒その要約が265文字版となっている。
⇒般若心経は大般若経のエッセンスである。
※玄奘三蔵(602年~664年)が訳したバージョンは265文字で知られているが、他にも鳩摩羅什(くまらじゅう:344年~413年)が訳したバージョンがある。訳者によって微妙に語句や表現が異なることがある。
注)玄奘三蔵:彼の唯識(ゆいしき)については、仏教の中でも特に重要な思想の一つ。
唯識とは、「唯一の心」を意味し、すべての存在や現象は心から生まれるという考え。
玄奘三蔵は、インドの大乗仏教の唯識学派の教えを中国に伝え、これを発展させた。彼の著作「大乗起信論」(だいじょうきしんろん)は、唯識思想を詳しく説明している。
玄奘三蔵の唯識思想の特徴
- 心の本質:すべての存在は心から生まれるという考え。
- 現象の仮性:現象は仮に存在し、本質的には無常である。
- 真理の探求:仏教の教えを通じて真理を追求し、解脱を目指す。
唯識思想の基本
- 阿頼耶識(あらいやしき): 唯識思想の中心的な概念であり、すべての現象の根源となる「第八識」とも呼ばれます。阿頼耶識は、潜在的な記憶や習慣を蓄える場所であり、これが原因となって様々な現象が生じるとされます。
- 心の三分: 玄奘は心を三つの部分に分けました:
- 現量: 直接的な知覚
- 比量: 推論
- 非量: 誤った知覚
- 八識: 人間の意識を八つの層に分け、目、耳、鼻、舌、身、意識、末那識(まなしき)、阿頼耶識の八つの識がすべての経験を構成するとしました。
玄奘の影響
玄奘の唯識思想は、彼の弟子である慈恩(じおん)を通じて広まり、法相宗(ほっそうしゅう)として日本にも伝えられた。
出典:サブタイトル/般若心経(般若波羅蜜多心経:はんにゃはらみったしんぎょう、梵: Prajñā-pāramitā-hṛdaya、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)梵文和訳
<参考情報>
約300年ぶりに再建された「中金堂」の堂内。
中央は本尊釈迦如来坐像。手前左は「法相柱」=奈良市の興福寺
【Google AIによる回答】
興福寺中金堂の法相柱には、法相宗の14名の祖師が描かれています。これらの柱絵は、日本画家の畠中光享(はたなか こうきょう)画伯によって描かれました。
描かれている祖師の名前を上から順に特定した資料は見当たりませんでしたが、一般的に法相宗の「十四祖師」として尊崇されているのは以下の人物です。
- インドの六祖:弥勒菩薩(みろくぼさつ)、無著菩薩(むじゃくぼさつ)、世親菩薩(せしんぼさつ)、護法菩薩(ごほうぼさつ)、戒賢論師(かいけんろんし)、智光論師(ちこうろんし)
- 中国の五祖:玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)、慈恩大師(じおんだいし)、濮陽大師(ぼくようだいし)、南山大師(なんざんだいし)、荊渓大師(けいけいだいし)
- 日本の三祖:玄昉僧正(げんぼうそうじょう)、賢憬律師(けんけいりっし)、常騰律師(じょうとうりっし)
これらのうち、現在の法相柱には、少なくとも無著、世親、護法までの祖師が描かれていることが分かっています。全ての祖師像が高さ10メートルもの大きな柱に貼りあげられています

出典:https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/print.aspx?id=20181007000199

2026年1月2日 参拝
<参考情報>
■興福寺 北円堂
・弥勒如来坐像

出典:運慶晩年の最高傑作が約60年ぶりに公開!東京国立博物館で特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」開催

出典:https://ueno-bunka.jp/news/13101/

出典:https://kohfukuji-project.jp/unkei2025_exh.html
<参考情報>
■第12番 華林山 慈恩寺(慈恩寺観音) 玄奘塔(玄奘三蔵法師の霊骨奉安)
埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺139




2024年9月11日 参拝
■第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)

■禅観
・入力情報を屈折させない仕掛け
⇒呼吸を整えて

■仏の教え(何を第八 阿羅頼耶識に蓄えるか)
・第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置(ハードディスク)=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識
⇒自らその意をき浄めよ

<参考情報>
■ブッダのことば
・「世間を空なりと観ぜよ」(スッタニパータ)
⇒仏陀(釈迦)が説いた「空」の教えは、仏教の中心的な思想の一つ。
⇒仏陀は、すべての現象は「空」であり、実体が存在しないと説いた。
【概要】
1. 四諦(しったい)と十二因縁(じゅうにいんねん): 仏陀の教えの基盤には、四諦と十二因縁がある。
四諦とは、苦(く)、集(しゅう)、滅(めつ)、道(どう)のことで、苦しみの原因とその克服の方法を示している。
十二因縁は、因果関係を説明し、すべての現象が相互に依存していることを示しています。
2. 無我(むが:諸法無我)と縁起(えんぎ:縁起の法):
諸法無我:仏陀は、自己(アートマン)が存在しない「無我」を説いた。
つまり、それ自体として存在する確固不動の実体はない。
縁起の法:すべての存在は、他の存在との相互依存によって成り立っているため、独立した実体は存在しません。これが「縁起」の教えです。
つまり、すべてのものは相互依存関係にある。
3. 空(くう): 空の教えは、すべての現象が実体を持たず、常に変化し続けることを示しています。
物質的なものや精神的なもの、すべては本質的に空であり、固定された存在ではないという理解です。
これにより、執着や欲望から解放され、悟りに至る道を示します。
■世界四大宗教の開祖と成立年代

出典:サブタイトル/般若心経(般若波羅蜜多心経:はんにゃはらみったしんぎょう、梵: Prajñā-pāramitā-hṛdaya、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)梵文和訳