■『中論』の論法の基礎
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⇒すなわち「〔すでに第二章において〕<いま現に去りつつあるもの>と<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とによって、すでに排斥されてしまった。(第三章・第三詩後半)
⇒「いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものについて、このように説明されている。(第七章・第一四詩後半)
⇒残りは、「いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないもの(についての考察)によって説明されおわった。(第十章・第一三詩後半、第十六章・第七詩後半)という。
⇒したがってナーガールジュナは第二章の論法を極めて重要視していたらしい。
・まず第二章の第一詩をみると
⇒「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。
⇒さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない」
⇒(「先ず已去(いきょ)は去らず。未去も去らず。已去と未去とを離れたる去時も去せず」クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳)とあるが、
⇒厳密にいえば、「已(すで)に去られた<時間のみち>(世路)は去られない。未だ去られない<時間のみ>(世路)も去られない。現在去られつつある<時間のみち>(世路)も去られない」という意味である。
・今ここでは不明瞭であるが、
⇒便宜上クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳語を参照しつつ上記のように訳し、以下も同様にする。
⇒(したがってこの、第二章は直接には行くこと(「去」)を否定し、ひいては作用を否定する。
⇒また<時間のみち>(「世路」または「世」)を問題としているから現象的存在である<有為法>全体の問題にもなってくる。
⇒その理由を諸註釈についてみるに、
⇒まず「已去」とは已(すで)に去られたものであり、
⇒すなわち「行く作用の止まったもの」であるから
⇒作用を離れたものに作用のあるはずはない。
⇒したがって、すでに去ったものが、さらに去られるということはありえない。
⇒また、<未去>も去らない。
⇒<未去>とは行く作用の未だ生ぜざるものであり、去るという作用をもっていないからである。
⇒「未去が去る」ということは常識的にはわかりやすいかもしれないが、
⇒「去る」とは現在の行く作用と結合していることを意味しているのであり、
⇒両者は全く別なものであるから、「未去が去る」ということは不可能である。
・さらに<現在去りつつあるもの>(去時)なるものが存在すると思っているが、
⇒<現在去りつつあるもの>を追究すれば
⇒已去(いきょ)とか未去かいずれかに含められてしまう。
⇒チャンドラキールティはここのとを強調している。
注)有為法(ういほう、Saṃskṛta-dharma)
有為法は、因果関係によって生起し、変化や消滅する法。これらは条件によって生じ、無常であるとされている。有為法は次の五位に分かれる:
- 色法(しきほう、Rūpa-dharma):
- 物質的な存在を指します。具体的には、五蘊の中の「色(しき)」に対応。
- 心法(しんほう、Citta-dharma):
- 心そのものや意識を指す。主に六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を含む。
- 心所法(しんしょほう、Caitasika-dharma):
- 心の働きや感情、思考、意図などの心の随伴現象を指す。
- 心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう、Caitasikasaṃprayukta-dharma):
- 心の動きや作用と直接関連しない現象を指すが、心の状態に影響を与える法。
- 色不相応行法(しきふそうおうぎょうほう、Rūpasaṃprayukta-dharma):
- 物質的な現象と直接関連しないが、物質に影響を与える法。
<参考情報>
2. 「相互依存」(相依性)の詳細
『中論』が主張する「縁起」の核心は、**諸法が互いに関わり合い、支え合って存在しているという「相互依存性」**です。
• 例えば、行為と行為主体は、どちらか一方が独立して存在するのではなく、互いに依り合って成立しているとされます。チャンドラキールティの註釈では、「陽炎のような世俗の事物も、相互依存性のみを承認することによって成立する」と明言されています。
• 小乗仏教の諸派が時間的な生起関係と解釈した「これがあるとき、かれがある。これが生じるから、かれが生じる」(此有故彼有、此生故彼生)という句も、中観派では「あたかも短に対して長があるがごとし」と説明され、**「法と法との論理的相関関係」**を意味するものとされます。長と短は互いに依り合って成立しており、独立した「長というもの」「短というもの」があるとは考えません。
出典:サブタイトル/華厳経の先駆けとしての中論~「中論」における縁起の意義.pdf/中村元著より転記:NotebookLM(生成AI)の活用で要点抽出~ 項目(8)
■「去りつつあるものは去る」が去る」の論理
・ところが已去(いきょ)とか未去とが去らないということは
⇒誰でも常識的に理解しうるものであるが、
⇒しかし現在の<去りつつあるもの>(去時)が去らないということはいえないはずでないか、
⇒という疑問が起こる。第二詩に問うていう。
⇒「動きの在するところには去るはたらきがある。
⇒そうしてその動きは<現在去りつつあるもの>(去時)にあって
⇒<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないが故に
⇒<現在去りつつあるもの>(去時)のうちに去るはたらきがある。
・これに対してナーガールジュナは答える
⇒「<現在去りつつあるもの>(去時)のうちにどうして<去るはたらき>がありえようか。
⇒<現在去りつつあるもの>(去時)のうちに二つの<去るはたらき>はありえないのに」(第三詩)
⇒われわれが「去りつつあるもの」というときには、
⇒すでに「去るという作用」と結びついている。
⇒もしも「去りつつあるものが去る」というならば、
⇒その「去りつつあるもの」がさらに「去るはたらき」と結びつくことになる。
⇒それは不合理である。
⇒もちろん「去りつつあるもの」というだけならば、
⇒それはさしつかえない。
⇒しかしながら「<現在去りつつあるもの>(去時)が去る」とはいえないと主張する。
⇒さらに、「<去りつつあるもの>に去るはたらきが有ると考える人には、
⇒去りつつあるものが去るが故に、去るはたらきなくして、
⇒しかも<去りつつあるもの>があるという(誤謬)が付随して来る」(第四詩)
⇒もしも「去りつつあるものが去る」という主張を成立させるためには、
⇒<去りつつあるもの>が<去るはたらき>を有しないものでなければならないが、
⇒このようなことはありえない。次に
⇒「<去りつつあるもの>に<去るはたらき>が有るならば、
⇒二種の去るはたらきが付随して来る。
⇒{すなわち}<去りつつあるもの>をあらしめる去るはたらきと、
⇒また、<去りつつあるもの>における去るはたらきとである」(第五詩)
⇒すなわち、もしも「去りつつあるものが去る」というならば、
⇒主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と
⇒あらたに述語として附加される「去」と二つの<去るはたらき>が付随することになる。
⇒二つの去るはたらきを認めるとすると、さらに誤謬が付随する。
⇒「二つの去るはたらきが付随するとならば、
⇒(さらに)二つの<去る主体>(去者)が付随する。
⇒何となれば、去る主体を離れて去るはたらきはありえないから」(第六詩)
⇒すなわち<去る主体>と<去るはたらき>とはお互いに相い依って成立しているものであり、
⇒<去るはたらき>があるとすれば必ず<去る主体>が予想される。
⇒故に<去るはたらき>が二つあるとすると
⇒<去る主体>も二つあらねばならぬことになる。
⇒このように全くありうべからざる結論を付随してひき起こすから、
⇒「去りつつあるものが去る」ということはいえないと主張している。
⇒この議論は真にプラサンガ(『中論』の論理)の論法の面目を最も明確に示しており、
⇒第二章の論理の中心は上述のところで尽きている。
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