NN2-4-2.『中論』:『空の論理』~運動の否定の論理~(龍樹:中村元著より転記)

■『中論』の論法の基礎

⇒すなわち「〔すでに第二章において<いま現に去りつつあるもの>と<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とによって、すでに排斥されてしまった。(第三章・第三詩後半)

⇒「いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものについて、このように説明されている。(第七章・第一四詩後半)

⇒残りは、「いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないもの(についての考察)によって説明されおわった。(第十章・第一三詩後半、第十六章・第七詩後半)という。

⇒したがってナーガールジュナは第二章の論法を極めて重要視していたらしい

・まず第二章の第一詩をみると

「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。

さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた現在去りつつあるものも去らない」

⇒(「先ず已去(いきょ)は去らず。未去も去らず。已去と未去とを離れたる去時も去せず」クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳)とあるが、

⇒厳密にいえば、「已(すで)に去られた<時間のみち>(世路)は去られない。未だ去られない<時間のみ>(世路)も去られない。現在去られつつある<時間のみち>(世路)も去られない」という意味である。

今ここでは不明瞭であるが、

⇒便宜上クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳語を参照しつつ上記のように訳し、以下も同様にする。

⇒(したがってこの、第二章は直接には行くこと(「去」)を否定し、ひいては作用を否定する

⇒また時間のみち>(「世路」または「」)を問題としているから現象的存在である<有為法>全体の問題にもなってくる

⇒その理由を諸註釈についてみるに、

⇒まず「已去」とは已(すで)に去られたものであり

⇒すなわち行く作用の止まったもの」であるから

作用を離れたものに作用のあるはずはない

したがって、すでに去ったものが、さらに去られるということはありえない。

⇒また、<未去>も去らない

<未去>とは行く作用の未だ生ぜざるものであり、去るという作用をもっていないからである。

⇒「未去が去る」ということは常識的にはわかりやすいかもしれないが、

「去る」とは現在の行く作用と結合していることを意味しているのであり

両者は全く別なものであるから、「未去が去る」ということは不可能である。

・さらに<現在去りつつあるもの(去時)なるものが存在すると思っているが、

⇒<現在去りつつあるもの>を追究すれば

已去(いきょ)とか未去いずれかに含められてしまう。

チャンドラキールティはここのとを強調している

注)有為法(ういほう、Saṃskṛta-dharma)

有為法は、因果関係によって生起し、変化や消滅する法。これらは条件によって生じ、無常であるとされている。有為法は次の五位に分かれる:

  1. 色法(しきほう、Rūpa-dharma):
    • 物質的な存在を指します。具体的には、五蘊の中の「色(しき)」に対応。
  2. 心法(しんほう、Citta-dharma):
    • 心そのものや意識を指す。主に六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を含む。
  3. 心所法(しんしょほう、Caitasika-dharma):
    • 心の働きや感情、思考、意図などの心の随伴現象を指す。
  4. 心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう、Caitasikasaṃprayukta-dharma):
    • 心の動きや作用と直接関連しない現象を指すが、心の状態に影響を与える法。
  5. 色不相応行法(しきふそうおうぎょうほう、Rūpasaṃprayukta-dharma):
    • 物質的な現象と直接関連しないが、物質に影響を与える法。

<参考情報>

2. 「相互依存」(相依性)の詳細

『中論』が主張する「縁起」の核心は、**諸法が互いに関わり合い、支え合って存在しているという「相互依存性」**です。

• 例えば、行為と行為主体は、どちらか一方が独立して存在するのではなく、互いに依り合って成立しているとされます。チャンドラキールティの註釈では、「陽炎のような世俗の事物も、相互依存性のみを承認することによって成立する」と明言されています。

小乗仏教の諸派が時間的な生起関係と解釈した「これがあるとき、かれがある。これが生じるから、かれが生じる」(此有故彼有、此生故彼生)という句も中観派では「あたかも短に対して長があるがごとし」と説明され、**「法と法との論理的相関関係」**を意味するものとされます。長と短は互いに依り合って成立しており、独立した「長というもの」「短というもの」があるとは考えません

出典:サブタイトル/華厳経の先駆けとしての中論~「中論」における縁起の意義.pdf/中村元著より転記:NotebookLM(生成AI)の活用で要点抽出~ 項目(8)

「去りつつあるものは去る」が去る」の論理

・ところが已去(いきょ)とか未去とが去らないということは

⇒誰でも常識的に理解しうるものであるが

⇒しかし現在の<去りつつあるもの>(去時)が去らないということはいえないはずでないか

という疑問が起こる。第二詩に問うていう。

「動きの在するところには去るはたらきがある

そうしてその動きは現在去りつつあるもの(去時)にあって

⇒<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないが故に

⇒<現在去りつつあるもの(去時)のうちに去るはたらきがある

これに対してナーガールジュナは答える

⇒「<現在去りつつあるもの(去時)のうちにどうして<去るはたらきがありえようか

⇒<現在去りつつあるもの(去時)のうちに二つの<去るはたらきはありえないのに」(第三詩)

⇒われわれが「去りつつあるもの」というときには、

⇒すでに「去るという作用」と結びついている。

⇒もしも「去りつつあるものが去る」というならば、

⇒その「去りつつあるもの」がさらに「去るはたらき」と結びつくことになる。

それは不合理である

⇒もちろん「去りつつあるもの」というだけならば、

⇒それはさしつかえない。

⇒しかしながら「<現在去りつつあるもの(去時)が去る」とはいえないと主張する

⇒さらに、「<去りつつあるもの>に去るはたらき有ると考える人には、

去りつつあるもの去るが故に、去るはたらきなくして

⇒しかも<去りつつあるもの>があるという(誤謬)が付随して来る」(第四詩)

⇒もしも「去りつつあるものが去る」という主張を成立させるためには、

⇒<去りつつあるもの>が<去るはたらき>を有しないものでなければならないが、

このようなことはありえない。次に

⇒「<去りつつあるもの>に<去るはたらき>が有るならば

⇒二種の去るはたらき付随して来る

⇒{すなわち}<去りつつあるもの>をあらしめる去るはたらきと、

⇒また、<去りつつあるもの>における去るはたらきとである」(第五詩)

⇒すなわち、もしも「去りつつあるものが去る」というならば、

⇒主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「」と

⇒あらたに述語として附加される「」と二つの<去るはたらき>が付随することになる

二つの去るはたらきを認めるとすると、さらに誤謬が付随する。

⇒「二つの去るはたらき付随するとならば

⇒(さらに)二つの<去る主体>(去者)付随する

⇒何となれば、去る主体離れて去るはたらきありえないから」(第六詩)

⇒すなわち<去る主体>と<去るはたらき>とはお互いに相い依って成立しているものであり

⇒<去るはたらきあるとすれば必ず<去る主体>が予想される

⇒故に<去るはたらき二つあるとすると

<去る主体>も二つあらねばならぬことになる

このように全くありうべからざる結論を付随してひき起こすから

⇒「去りつつあるものが去る」ということはいえないと主張している

⇒この議論は真にプラサンガ(『中論』の論理)の論法の面目を最も明確に示しており、

⇒第二章の論理の中心は上述のところで尽きている。