植木でございます
ちょっと喉が枯れていますので、聞き苦しいところがあると思いますが、本当はすごく美声なんです。昔はボーイソプラノで、歌を歌っていると女性と間違えられたりしたものですが、今日は、聞き苦しくてすみません。
いま紹介がありましたように、私はもともと九州大学理学部で物理学を学んでいました。1970年から79年まで在籍していましたので、牧角先生とは多分どこかですれ違っていただろうし、お父様が生物学科の教授だったそうですかから、教養科目で生物学を取りましたので、ひょっとしたら受講したかもしれません 。そういうご縁で今回参りました。
学生時代に、実は鬱病になったことがありました。
それを乗り越えるきっかけが、今紹介があった東京大学名巻教授の中村元先生の訳された原始仏典を読んだことでした。
中村先生は、“人間プッダ”の実像を探究されていて、仏教が目指したことは、「真の自己に目覚めること」「失われた自己の回復」であったということを書かれていました。
それを読んで、私も自分を回復することができ、鬱病を乗り越えることができたわけです。
それをきっかけに仏教に興味を持ち、仏教学を独学で勉強しておりました。物理学のほうは、大学院まで学んでいましたが、私の部屋に来た友人たちが、物理学の本と仏教学の本が並んでいるのを見て、「お前は物理学科だろう。何で仏教書を読んでいるんだ」とよく尋ねられました。何度も答えるのが面倒くさくなって、「僕にとって”ぶつり”の”ぶつ”は、”物”ではなくて、”仏”と書くんだ」といったら、非常にうけまして。以来、それを使っていま。
社会人になってからも、独学で仏教学を学び続けていましたが、やっぱり独学には限界があるんですね。三十代後半になって、どうしてもインドの言語、原典から当たらないと納得できないことが多々ありました。中国語に漢訳されて、さらに日本で解釈が施されていて、二次的、三次的資料では納得できないところが出てきました。どうしてもサンスクリット語を勉強しなければいけないと思っていたところで、先ほどの中村元先生と出会いました。「うちに来なさい」ということで、中村先生の創設された東方学院で、中村先生から毎週三時間レクチャーを受けるという幸運に恵まれました。そこで、これまで積もりに積もっていた疑問が次々に氷解していきました。それが嬉しくて、中村先生に「ここに来てよかったと思います」と言いました。そしてさらに、「もっと早く来れば良かった」と余計なことを言ったんです。
すると、中村先生は毅然とした表情で「植木さん、それは違いますよ。人生において遅いとか、早いとかということはございませ。思いついた時、気がついた時、その時が常にスタートですよ」とおっしゃったんです。
私は、中村先生の下でサンスクリット語を四十歳から学び始めました。
サンスクリット語は、世界で最も難解な言語です。フラ ンス語も動詞の活用が百個くらいあって大変でしょう。でもサンスクリット語はそれ以上なんです。名詞・形容詞には八つの格変化がありますし、単数、複数に加えて、両数まであります。細かく厳密に規定されていて、面食らいます。それを四十歳から始めるというと、皆から「学生時代に習った英語やドイツ語をやり直すというならわかるけど、ゼロからだろう?やめとけ、不可能だ」と言われました。でも、必要に迫られれば、何とかなるものですね。
その時、支えになったのが、「人生において遅いとか、早いとかということはございません。思いついた時、気がついた時、その時が常にスタートですよ」という中村先生の言葉でした。その言葉に支えられて、今日まで挫折することなくやってくることができました。
中村先生の講義では、最前列の席で細大漏らさずノートに取ることを心掛けていました。受講し始めて六年目の1998年に中村先生から指示がありました。「植木さん博士号を取りなさい」と。「えっ、僕は、物理学なんですが」「いや、それがいいんです。仏教学しかやっていない人には見えないものがあります。他のことを学んでこられたからこそ気づけることがあります。植木さんが仏教学をやることによって、仏教学の可能性は大きく開けるでしょう」とおっしゃったんです。
でも、博士論文をどこに出すかが問題です。九州大学の卒業だから、理学部と文学部の違いはあるけれども、同じ九州大学のよしみで受け取ってくれるだろうと思って電話しましたが、体よく門前払いされました。また、ある私立大学の先生で、「私が紹介者になりましょう」という人が現れました。ところが、それも駄目でした。その先生が原稿用紙千三百枚分の論文三セットを入れた紙袋を抱えて私の住んでいる所まで来られて、「ごめん!私の力不足で駄目だった」と、泣きながら土下座して謝られるんです。申し訳なくて、これは何とか笑顔で帰さないと申し訳ないと思いました。それで、口から出まかせに「お茶の水女子大学に出そうと思っています」と言ったんです。
これは半分は出まかせでした。どうしてかと言うと、実はその頃、王敏さんという、現在、法政大学の教授をされている方が、宮沢賢治の研究をされていたんです。宮沢賢治といえば法華経です。ところが文化大革命の世代ですから、仏教のことをあまりご存じない。日本ペンクラプの会員同士ということで、私に相談があり、法華経についてアドバイスをすることがあって、その論文をお茶の水女子大学に提出された頃だったのです。
「中国の大学を出ているのに、お茶大に論文が出せるんだ。そんなことができるんだ」ということが頭にあったものですから、口から出まかせにそう言いました。すると、その先生は「お茶の水?うちの大学よりずっといい。飲め、飲め」といって、もうワイワイはしゃいで、いい気分になってお帰りになりました。
それからしばらくして、その王敏さんから電話があり、「お茶の水で博士号を取れることになりました、学位授与式に来てください」ということで行きました。それは、2000年12月25日、クリスマスの日でした。お茶大の一室で授与式があって、一番後ろの席に座って参加していました。終了後、佐藤保学長に紹介され、「仏教のジェンダー平等の研究をしています」と言ったんです。すると、「えっ、ジェンダー!お茶大は、日本で最初にジェンダー研究所ができた所です。うちに論文を出しなさい」とおっしゃったんです。私は、「えっ、男でもいいんですか?」と言ったら、「在籍はできません」と言われました。本当は在籍したかったんですけど……。
「在籍はできませんが、論文提出はできます。もしもあなたが博士号を取ったら、男性で六人目、人文科学に限れば、あなたが第一号になります」と言われまして、「おーっ、第一号、いいなあ」というので、頑張りました。論文を出して、いろいろと指導、教示を受けて、それが無事に通ったわけです。
学位授与式では、修士課程を終えた人が四十人くらい、博士号取得者が二人でした。ぜんぶ女子大生です。その中に五十歳の私がぽつんと、緑一点でした。女子大生の中にぽつんとおじさん一人、それは気持ちがいいものでした。