■玄奘三蔵
7世紀後半にインドに旅し、仏教の経典を集めて中国に持ち帰りました。
その中でも特に般若心経は、仏教の核心を示す重要な経典とされている。
般若心経(はんにゃしんぎょう)は、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ=ブッダ)が弟子たちに説いたとされる経典で、仏教の教えの中でも特に重要なものの一つ。
この経典は、人々が自分の心を観察し、無常観(すべては変化する)を持つことで悟りを得ることを説いている。
◆般若心経
⇒大般若経(600巻)から抜粋され、要約された。
⇒つまり大般若経全体の長さは非常に膨大であり、
⇒その教えの中から最も重要な部分を抽出したものであり、
⇒その要約が265文字版となっている。
⇒般若心経は大般若経のエッセンスである。
※玄奘三蔵(602年~664年)が訳したバージョンは265文字で知られているが、他にも鳩摩羅什(くまらじゅう:344年~413年)が訳したバージョンがある。訳者によって微妙に語句や表現が異なることがある。
注)玄奘三蔵:彼の唯識(ゆいしき)については、仏教の中でも特に重要な思想の一つ。
唯識とは、「唯一の心」を意味し、すべての存在や現象は心から生まれるという考え。
玄奘三蔵は、インドの大乗仏教の唯識学派の教えを中国に伝え、これを発展させた。彼の著作「大乗起信論」(だいじょうきしんろん)は、唯識思想を詳しく説明している。
玄奘三蔵の唯識思想の特徴
- 心の本質:すべての存在は心から生まれるという考え。
- 現象の仮性:現象は仮に存在し、本質的には無常である。
- 真理の探求:仏教の教えを通じて真理を追求し、解脱を目指す。
唯識思想の基本
- 阿頼耶識(あらいやしき): 唯識思想の中心的な概念であり、すべての現象の根源となる「第八識」とも呼ばれます。阿頼耶識は、潜在的な記憶や習慣を蓄える場所であり、これが原因となって様々な現象が生じるとされます。
- 心の三分: 玄奘は心を三つの部分に分けました:
- 現量: 直接的な知覚
- 比量: 推論
- 非量: 誤った知覚
- 八識: 人間の意識を八つの層に分け、目、耳、鼻、舌、身、意識、末那識(まなしき)、阿頼耶識の八つの識がすべての経験を構成するとしました。
玄奘の影響
玄奘の唯識思想は、彼の弟子である慈恩(じおん)を通じて広まり、法相宗(ほっそうしゅう)として日本にも伝えられた。
出典:左図)https://www.koumyouzi.jp/blog/902/右図)https://www.youtube.com/watch?v=_4VUaJ8b6x4&t=16s インドお釈迦様の聖地を玄奘三蔵法師と辿る Part1
出典:https://yakushiji.or.jp/guide/garan_genjyo.html
◆「大乗仏教」と「上座部仏教」が分かれた理由とそれぞれの特徴及び時期
・主に仏教の教えや戒律の解釈の違い
⇒釈迦(紀元前563年~紀元前483年頃)の死後、弟子たちは釈迦の教えをどのように解釈し、実践するかについて
⇒紀元前3世紀(紀元前300年~紀元前201年)頃に意見が分かれた。
⇒仏教の教えを広く大衆に広めることを目指した大乗仏教と
⇒仏教の戒律を厳格に守ることを重視する上座部仏教に。
⇒この分裂は『根本分裂』と呼ばれている。
http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html
【大乗仏教のアウトライン】
大乗仏教は他者の救済と慈悲の実践を重視
- 目的:他者の救済を重視(利他行)。
- 修行方法:六波羅蜜の実践(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)。
- 広がり:中国、朝鮮、日本(北伝仏教)
<大乗仏教の特徴>
大乗仏教は、初期仏教(上座部仏教)とは異なり、より広範な救済を目指す教えとして発展した。
- 普遍的な救済:大乗仏教は、すべての生きとし生けるものの救済を目指します。出家者だけでなく、在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げています。
- 菩薩の道:菩薩(Bodhisattva)という概念が重要で、菩薩は自らの悟りを求めるだけでなく、他者の救済をも目指します。菩薩は修行を通じて他者を助けることを重視します。
- 空(くう)の教え:万物が本質的には無常であり、独立した永続的な自己を持たないことを指します。この「空」の概念は、大乗仏教の中心的な教義の一つです。
- 大乗経典:大乗仏教には独自の経典があり、代表的なものには『般若経』、『法華経』、『浄土三部経』、『華厳経』などがあります。
- 如来蔵思想:すべての衆生が仏性を持ち、修行を通じて仏となる可能性があるとする教えです。
- 地域的な広がり(北伝仏教):大乗仏教は、インド、中央アジア、中国、朝鮮、日本などの国々で広く信仰されている。
日本の仏教の多くの宗派も大乗仏教に分類されており、戒律は宗派ごとにさまざまに解釈。
出典:https://president.jp/articles/-/42220?page=6
【上座部仏教のアウトライン】
上座部仏教は個人の修行と戒律の遵守を重視
- 目的:個人の悟りを目指す(自利行)。
- 修行方法:戒律を厳格に守る。
- 広がり:スリランカや東南アジア(南伝仏教)
<上座部仏教の特徴>
釈迦の教えを忠実に継承し、厳格な戒律と個人の修行を重視する仏教の一派で、スリランカで大成した。
- 戒律の重視:上座部仏教では、出家者(比丘)に対する戒律が厳格に守られている。これはセックスしない、酒を飲まない、金銭に触れないなど、227の戒律が含まれている。
- 個人の修行:上座部仏教は、個人が修行を通じて悟りを開くことを目的としている。これは、大乗仏教が他者の救済を重視すうのとは対照的である。
- パーリ語仏典:上座部仏教は、パーリ語で書かれた仏典を使用し、これを通じて釈迦の教えを伝えている。
- 口伝の伝統:仏典は「読む」書物というよりも「詠む」書物として、声を介して身体に留める伝統が培われている。
- 地域的な広がり(南伝仏教):上座部仏教は、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス、スリランカなどの国々で広く信仰されている。
上座部仏教は、釈迦の教えを純粋な形で保存し続けることを目指しており、その厳格な戒律と個人の修行を重視する姿勢が特徴。
■大乗仏教:中間学派(空の思想)、唯識学派(唯識思想)
出典:https://miraiecosharing1.com/pag
出典:Wikipedia 左図)世親 右図)北円堂
【法相宗大本山興福寺】 ヴァスバンドゥの思想を受け継ぎ、その教えを実践している。特に、興福寺は瑜伽行派の教えを重んじており、ヴァスバンドゥの影響を受けた仏教の伝統を継承している。 【ヴァスバンドゥ(4世紀頃)】 説一切有部の教義を批判し大乗仏教に転向。特に瑜伽行派の教えを発展させた。転向は、彼の哲学的探求と内面的な覚醒を追求。 【阿頼耶識と内面的な覚醒の関係】 記憶と経験の蓄積: 阿頼耶識は、私たちの経験や記憶を蓄える場所とされており、過去の経験が現在の自己認識に影響を与える。 自己の探求: 内面的な覚醒は、阿頼耶識に蓄えられた経験や記憶を通じて、これにより、自己の本質を探求するプロセス。自己の真の姿を見つけ出すことができる。 心の浄化: 内面的な覚醒を通じて、阿頼耶識に蓄えられた負の経験や記憶を浄化し、これにより、心の平和を得ることができる。
■龍樹(ナーガールジュナ)
一切は空である。
あらゆるものは真実には存在せず、見せかけだけの現象にすぎない。
仏教思想の核心をなす「空」の思想は、龍樹(2世紀頃)により理論化された。
インド・中国思想に決定的影響を与え、奈良時代の南都六宗・平安時代の真言宗、天台宗の「八宗の祖師」とされる。
注)八宗の祖師:1.龍樹(中観派)、2.天親(大乗仏教)、3.道邃(華厳宗)、4.善珠(法相宗)、5.慧文(律宗)、6.恵灌(天台宗)、7.空海(真言宗)、8.最澄(天台宗)
◆龍樹(Skt. Nāgārjuna, 150-250 CE):クシャーナ朝のカニシカ1世(144年~171年)と同時代
・大乗仏教の重要な哲学者であり、中観派(Madhyamaka)の創始者として知られている。
⇒大乗仏教の経典である『般若経』に没頭。
⇒仏陀の教えである『縁起の法(それ自体として存在する確固不動の実体はない)』を難しく言い換えたもので、『諸法無我の法(すべてのものは相互依存関係にある)』の発展系とも言われる。
⇒彼の思想は、特に「中道」(Madhyamaka)と「空」(Śūnyatā)の概念に焦点を当てています。
龍樹の主要な思想
- 中道 (Madhyamaka):
- 龍樹は、真理は「中道」にあると説いた。
- つまり、極端な二元論や一元論を排し、すべてのものは相互に依存して成り立っているという立場。
- 空 (Śūnyatā):仏教の根本的な教義の一つ。
- 彼は「空」の概念を強調し、すべての存在は本質的に空であり、固定された実体を持たないと主張した。
- これは、現象の相対性と非絶対性を示唆している。
- 龍樹は、この空の概念を「中観(ちゅうがん)」として体系化し、論理的な方法で説明した。
- 空の思想は、人々が執着や煩悩から解放されるための道として重要視されている。
龍樹の影響
龍樹の思想は、大乗仏教の多くの伝統に影響を与えた。特に、チベット仏教や中国の禅宗など、多くの宗派で中観派の教えが取り入れられている。
龍樹の著作
彼の代表的な著作には、「中論」(Mūlamadhyamakakārikā)がある。この書物は、中観派の基本的な教義を述べており、仏教哲学の中で非常に重要な位置を占めている。
・中観の基本的な考え方
- すべてのものは変わり続ける:
- 例えば、あなたが今持っている鉛筆を考えてみましょう。鉛筆は、使えば短くなり、削れば形が変わります。
- つまり、鉛筆は常に変わり続けていて、決して同じ形のままではない。
- 実体がない:
- 龍樹は、この世界のすべてのものは「実体がない」と考えました。これは、「本当の自分」というものがなくて、すべてが他のものとつながり合っているということです。
- 例えば、鉛筆も木やグラファイトなど、いろんな素材が組み合わさってできています。それ自体で存在するわけではなく、他のものと関係しあって存在している。
- 空(くう):
- 「空」は、「何もない」という意味ではありません。むしろ、「すべてはつながっていて、固定された実体はない」という意味。
- つまり、空は「すべてが変わり続け、他のものと関係しあって存在する」という考え方。
・日常生活での例
この考え方を日常に当てはめると、たとえば友達との関係がわかりやすい。友達との関係は時間とともに変わることが多い。ある日仲良くしていた友達とも、意見の違いで少し距離ができることもある。また、新しい友達ができて、その関係がまた変わることもある。
このように、中観の思想は「すべてがつながり、変わり続ける」ことを理解することで、物事に対して固執しない心の持ち方を教えてくれる。
・執着と煩悩
- 執着:何かに強くこだわってしまうこと。例えば、大好きなゲームがうまくいかないと、ずっとそのことが気になってしまう状態のこと。
- 煩悩:心の中でわき上がる欲望や感情。例えば、友達と比べて自分がダメだと感じる嫉妬や、欲しいものが手に入らないとイライラする気持ち。
・再度、空の思想とは?
空の思想は、物事に実体(じったい)がなく、すべてが変化し続けるという考え方。つまり、すべてのものや出来事は一時的で、いつか必ず変わるということである。
・どうして執着や煩悩から開放されるか?
- 実体がないと理解する: 例えば、友達との関係がうまくいかなくて悩むことがあるとする。でも、空の思想を理解すると、友達との関係も変化し続けるもので、一時的なものだとわかる。これにより、その問題に対する執着が和らぐ。
- すべてが変わることを受け入れる: 嫉妬や欲望も、一時的な感情です。空の思想を学ぶと、これらの感情もいつか変わることを受け入れることができる。これにより、煩悩が軽減されます。
・実際にどうすればいいの?
空の思想を理解し、実践するためには、次のような方法がある。
- 瞑想(めいそう):心を静かにして、自分の感情や思考を観察することで、物事に対する執着や煩悩を客観的に見ることができる。
- 日常生活での意識:何かにこだわりすぎていると感じたら、空の思想を思い出して、「これは一時的なものだ」と自分に言い聞かせること。
まとめ
空の思想を理解することで、物事に対する執着や煩悩から解放され、心が軽くなることができる。すべてが変わり続けると認識することで、心の平安を得ることができるのである。
注)クシャーナ朝のカニシカ1世(144年~171年):仏教の保護者としても知られ、彼の治世下でガンダーラ美術が発展し、初めて釈尊(ブッダ)の像、仏像がつくられた。
マウリヤ朝は、アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)の死後、急速に衰退。
紀元1世紀頃には、「クシャーナ朝」がインダス川流域を支配していた。
仏教は、クシャーナ朝でも保護された。
しかし、“出家した者のみが救われるという考えは、利己的である”という批判が出始めます。
その考えのもとに生まれたのが、大乗仏教でした。
インダス川の上流域は、中央アジアとつながる東西交易の重要な拠点でした。
そのため、大乗仏教は、中央アジアを経て中国へ、そして、朝鮮半島、日本にまで伝わった。
出典:https://www.kawai-juku.ac.jp/spring/pdf/text201958-535673.pdf
出典:左図)https://butsuzou.themedia.jp/posts/7717652/ 右図)https://www.louvre-m.com/collection-list/no-0010 下図)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
■ブッダのことば
・「世間を空なりと観ぜよ」(スッタニパータ)
⇒仏陀(釈迦)が説いた「空」の教えは、仏教の中心的な思想の一つ。
⇒仏陀は、すべての現象は「空」であり、実体が存在しないと説いた。
【概要】
1. 四諦(しったい)と十二因縁(じゅうにいんねん): 仏陀の教えの基盤には、四諦と十二因縁がある。
四諦とは、苦(く)、集(しゅう)、滅(めつ)、道(どう)のことで、苦しみの原因とその克服の方法を示している。
十二因縁は、因果関係を説明し、すべての現象が相互に依存していることを示しています。
2. 無我(むが:諸法無我)と縁起(えんぎ:縁起の法):
諸法無我:仏陀は、自己(アートマン)が存在しない「無我」を説いた。
つまり、それ自体として存在する確固不動の実体はない。
縁起の法:すべての存在は、他の存在との相互依存によって成り立っているため、独立した実体は存在しません。これが「縁起」の教えです。
つまり、すべてのものは相互依存関係にある。
3. 空(くう): 空の教えは、すべての現象が実体を持たず、常に変化し続けることを示しています。
物質的なものや精神的なもの、すべては本質的に空であり、固定された存在ではないという理解です。
これにより、執着や欲望から解放され、悟りに至る道を示します。
■世界四大宗教の開祖と成立年代
出典:https://miraiecosharing1.com/page-28238/
注)ブッダ:仏教では、絶対的な存在を否定し、
■華厳(けごん)宗大本山東大寺
仏教の一派であり、大乗仏教の一つである華厳宗の教え。華厳経(けごんきょう)という経典に基づいており、その教えは「大宇宙の真理」や「仏性の普遍性」を強調している。
「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と概念的に同一の仏である。
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
【華厳の考え方の特徴】
- 大宇宙の真理:華厳経は、宇宙の全てが仏性を持ち、すべてのものが仏であると説いている。この考え方は、すべての存在が相互に関連し合い、一つの大きな仏性の体系の一部であるというもの。
- 仏性の普遍性:すべての人間や物質は仏性を持っており、その仏性を開花させることができるとされている。この考え方は、すべてのものが悟りを得る可能性を持っていることを示唆している。
- 無量義:華厳経は、宇宙の無限性や無量義を強調している。すべてのものが無限に存在し、無限に変化するという教え。
- 絶対平等:すべての存在は絶対平等であり、差別や優劣の概念は存在しない。すべてのものが平等に存在し、平等に尊重されるべきだとされている。
華厳の考え方は、宇宙の真理や仏性の普遍性を強調し、すべての存在が平等であり、無限に変化するという深い教えを持っている。
※「華厳経」十地品(じゅうじぼん)の注釈書である「十住毘婆紗論(じゅうじゅうびばしやろん」の著者でもある龍樹。「十住心」は、修行者が悟りに至るための10段階の心の変化を指し、それぞれの段階で修行者の心がどのように変化し、成長していくかを詳述している。この論書は、仏教の教理を深く理解し、実践するための重要な文献とされている。
◆盧舎那仏(るしゃなぶつ)
・大日如来(だいにちにょらい)と同一視されることがよくある。
⇒特に密教において、盧舎那仏は大日如来の別名として理解されている。
⇒大日如来は、宇宙の中心的存在であり、すべての仏の本質を表す仏とされている。
注)毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)≒盧舎那仏(るしゃなぶつ)
■東大寺 華厳宗総本山
出典:https://www.todaiji.or.jp/information/daibutsuden/
■般若心経全文の読み方
以下の転記先:https://www.engakuji.jp/shakyo/hannyasingyou-tonaekata/
ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーし~んぎょう~
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
かんじーざいぼーさーぎょうじんはんにゃーはーらーみーたー
観自在菩薩行深般若波羅蜜多
じーしょうけんごーうんかいくーどーいっさいくーやく
時照見五蘊皆空度一切苦厄
しゃーりーしーしきふーいーくうくうふーいーしきしきそくぜー
舎利子色不異空空不異色色即是
くうくうそくぜーしきじゅーそうぎょうしきやくぶーにょーぜー
空空即是色受想行識亦復如是
しゃーりーしーぜーしょうほうくうそうふーしょうふーめつふーくーふーじょう
舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
ふーぞうふーげんぜーこーくうちゅうむーしきむーじゅーそうぎょうしきむーげんにー
不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳
びーぜっしんいーむーしきしょうこうみーそくほうむーげんかいないしー
鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至
むーいーしきかいむーむーみょうやくむーむーみょうじんないしーむーろうしーやく
無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦
むーろうしーじんむーくーしゅうめつどうむーちーやくむーとくいー
無老死尽無苦集滅道無智亦無得以
むーしょーとっこーぼーだいさったーえーはんにゃーはーらーみーたー
無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多
こーしんむーけーげーむーけーげーこーむーうーくーふーおんりーいっさいてんどう
故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒
むーそうくーぎょうねーはんさんぜーしょーぶつえーはんにゃーはーらーみーたー
夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多
こーとくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだいこーちーはんにゃーはーらーみーたー
故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多
ぜーだいじんしゅぜーだいみょうしゅぜーむーじょうーしゅぜーむーとうとうしゅ
是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪
のうじょーいっさいくーしんじつふーこーこーせつはんにゃーはーらーみーたー
能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多
しゅーそくせつしゅーわつぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそうぎゃーてー
呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦
ぼーじーそわかーはんにゃーし~んぎょう~
菩提薩婆訶般若心経
◆般若心経ふりがな全文の説明
漢字1文字で1音のところは、「ー」で伸ばすように書いておきました。
ただ2ヶ所だけ伸ばさない部分は「ー」を付けてないです。
- 最後から2行目の「波羅僧」は「はらそう」
- 最後の行の「薩婆訶」は「そわか」
1ヶ所目は、最後から2行目の「波羅僧」のところ。
「はーらーそう」とは言わずに「はらそう」となります。
ここは「は」と「ら」を伸ばさないで「はら」と続けて読みます。
2ヶ所目は、最後の行の「薩婆訶」のところ。
「そーわーかー」とは言わずに「そわかー」となります。
ここは「そ」と「わ」を伸ばさないで「そわ」と続けて読みます。
最初と最後にある題名の「般若心経」はリズムが不定なので「し~んぎょう~」と「~」を付けておきました。
菩提薩埵「ぼーだいさったー」の「た」と、無罣礙「むーけーげー」の「け」の漢字がフォントに無いことがあります。
◆真言宗での般若心経の読み方
真言宗は他の宗派と般若心経が違います。
どこが違うかというと、題名と観自在菩薩の読み方です。
題名がこの様に違います。
- 真言宗は「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」
- 他の宗派は「摩訶般若波羅蜜多心経」
観自在菩薩の読み方も微妙に違います。
- 真言宗は「かんじーざいぼーさー」
- 他の宗派は「かんじーざいぼーさつ」
■真空の揺らぎ
◆特異点
出典:https://www.youtube.com/watch?v=Fc0Caf6-GGw&t=3262s&ab_channel=%E6%9D%B1%E5%A4%A7TV%2FUTokyoTV
注)仏教では世界の創造を説かない:したがって造物主も認めない。
万物は縁によって生じ、縁によって滅す(縁起説)。ものの発生には必ず本がある。いかなるものも無からは生じないのだから、本にもまたその本がある。では原初の本は何か。もちろん誰かが造ったのではない。原初の本が生じたのだとすれば、それはどうして何から生じたのか。
だからそれは「生じた」のではない。だが生じたのでなければ、なぜ諸般のものはある(ようにみえる)のか。結局、生じたとか生じないとかを問えない原初の、思量を越えた事態を「本不生」といい、それを阿字で表して「阿字本不生(あじほんぶしょう)」というのである。
万物の根源は、万物自体がそこにあるように、やはり宇宙そのものであろう。そして万物の母なる宇宙は、やはり生命を生み育む母のように慈愛に満ちているであろう。
それは現代物理学が描くような暗黒の冷たい物質空間ではない。精神的・霊的存在であるわれわれを生み出した宇宙が、そのようなものであるわけがない。
されば、かくのごとき母なる宇宙を仏とみなして何の不思議もない。さらにそれを最高の尊称として大日如来と呼ぶことも。
かくて阿字は宇宙仏たる大日如来の象徴となる。阿字を観想し、阿字を胸中におさめることは、自身と大日如来との本質的・本源的同一を体感することにほかならない。
上記参照先:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/miyasaka/post-12.html 阿字観の方法と意義
注)阿字本不生:密教の根本教義の一つで、「阿」の字が宇宙の根源を象徴し、本来不生不滅、すなわち永遠に存在するという意味を持つている。
【ア字本不生】以下の転記先:https://www.mikkyo21f.gr.jp/cat46/post-210.html
「阿(字)」とは、サンスクリット・アルファベットの「a」、梵字の、漢字で「阿」。
すなわち、世界の言語に共通の原初母音の「a」、人間の発する言葉の最初にしてすべての言葉の基となる音。
空海は、「凡そ最初に口を開く音、みな阿の声あり、もし阿の声を離んぬれば則ち一切の言説なし。故に衆声の母となす。また衆字の根本となす」といい、さらに「阿字は是れ一切法教の本なり。乃至、内外の諸教みなこの字より出世す」と説く。
密教では、万物の根源としての意味の「ア」を人格化し、この「ア字」によって法仏(宇宙の真理をその体とし、自ら(真理)を自ら説く仏)としての大日如来を表象する。ただしこの場合、胎蔵界大日を表わす「ア」とは意味を異にする。
大日如来すなわち「ア字」は、万物の真実相である因縁所生、すなわち不生・不滅の「空」の真理の根源であるから「本不生」というのである。
密教の瞑想法で有名な「阿字観」は、この観法を行う者が「ア字」の一字に自らの本源を観じる行法である。
月輪観 阿字観
出典:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/miyasaka/post-12.html
【個人的感想:真空の揺らぎ≒空≒大日如来≒創造の瞬間(宇宙の根源観)】
■『般若心経』梵文和訳ノート
以下の転記先:https://www.mikkyo21f.gr.jp/images/shinkyoNote.pdf
<梵文の読み>ナマス サルヴァ・ジュニャーヤ
<漢訳>なし
<長澤訳>(モノ・コトの真実)すべてを覚知する者(一切智者・覚者)に頂礼したてまつる。
<梵文の読み>アールヤ・アヴァローキテーシュバロー ボーディサットゥボー ガンビーラーヤーム
プラジュニャー・パーラミターヤーム チャルヤーム チャラマーノ ヴヤヴァローカヤティ スマ パンチャ・スカンダース タームシュ チャ スヴァバーヴァ・シューンニヤーン パシュヤティ スマ
かんじーざいぼーさーぎょうじんはんにゃーはーらーみーたー
じーしょうけんごーうんかいくーどーいっさいくーやく
<漢訳>観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
<漢訳書き下し>観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。
<長澤>深い(集中の)般若波羅蜜多において、行を実践している、尊き観自在菩薩は、(次のように)観察した。
(事物はすべて、例えば私の身体は)五つの(ものの)集まり(五蘊)である、と。そして、それ(ら)は、本性が空なるものである、と見抜いた。
※「観自在」にあたる「avalokite1vara:アヴァローキテーシュバロー」は、直訳すると「観察することに自在な(もの)」で、「観自在」「観世音」と漢訳される。大乗仏教を代表する「衆生済度」(利他行)のホトケである。このホトケに説法を託するところに、このお経の主題がひそんでいる。
※「行深般若波羅蜜多時」にあたる「ga/bh]rqyq:ガンビーラーヤーム/ prajqpqramitqyq:プラジュニャー・パーラミターヤーム/ caryq:チャルヤーム/ caramqzo:チャラマーノ」を、<中村・紀野>は 「(観自在菩薩が)深遠な智慧の完成を実践していたときに」と訳している。これにはいくつか問題がある。 ○まず、この部分のコアである「praj
q-pqramitq」という複合語である。
漢訳では一貫して「般若波羅蜜多」(略されて「般若」だけの場合もある)と音訳される。分解して直訳すれば、「(事物の真実を)覚知すること(prajq)によって目的(pqram、彼岸・サトリ)に到達する(itq)こと」だが、大 乗仏典においては「空(くう、1[nya(tq))」を内実として多様な意味に変容する。だから、「般若波羅蜜多」というとすぐ「六波羅蜜」の「般若波羅蜜多」だと考えるのは浅知恵である。 「(事物の真実を)覚知すること(praj
q)」は、高僧の説法を聞いたり、経典や論書を研究したり、考えのちがう論師と論争することではない。インドで林住修行者や釈迦が、神々との合一や解脱・サトリへの方法論とした「瞑想」(静慮(dyqna)・三昧(samqdhi))のなかで、「世間知」(思考・知識)を越えた「出世間知」を「観」ずること(洞察・喝破)である。「般若波羅蜜多」を「瞑想」と密接不可分の関係において見ないと、しばしば意味を取りちがえることになる。
「般若波羅蜜多」が「瞑想」と密接不可分であることは、観自在菩薩の「観察する(vyavalokayati):ヴヤヴァローカヤティ」「見抜く(pa1yati):パシュヤティ」からも推し量ることができる。「観察する(vyavalokayati)」「見抜く(pa1yati)」のは、説法を聞いたり、経典や論書を研究したり、論争をしている時の「知」のはたらきではない。深い「瞑想」のなかでの「知」のはたらきである。漢訳が「照見」と訳したのもそのイメージからではないか。
「praj`q-pqramitq:プラジュニャー・パーラミターヤーム
」を「智慧の完成」とする<中村・紀野>の訳は、わかるようでよくわからない。この訳語からは「般若波羅蜜多」の大乗の教理的背景が浮んでこない。仏典の訳語として説得力がない。
○二番目の問題だが、「深い」という意味の「ga/bh]ra:ガンビーラー」を<中村・紀野>は「深遠な智慧(の完成)」と「深遠な」を「智慧(prajq):プラジュニャー」にだけかけている問題。 「深遠な智慧」とはどんな「智慧」か。「智慧」の深いとか浅いとかは具体的にどんなことか。仏典では「智慧 (praj
q)」を「深い」と形容するのを見ない。形容するとすれば「最勝の」「最上の」(parama、uttara、uttama)だろう。ここは、語形の文法に従い、「深い」を「般若波羅蜜多」全体にかけて読むべきである。
すると、「深い般若波羅蜜多」とは「瞑想」(集中の)中の「知」のはたらきだから「深い」のであって、その「深さ」を「観察する(vyavalokayati)」「見抜く(pa1yati)」が代弁していることがわかる。
<中村・紀野>は、「深遠な」のは単に「六波羅蜜」の「般若波羅蜜」ではなく、「六波羅蜜」のすべてを含むものだということを明示するためだと言う。こんな珍解釈でいいのだろうか。
○三番目の問題だが、「ga/bh]rqyq/ praj`qpqramitqyq/(caryq/)」はlocativeの形(「~において」「~で」「~に」「~へ」)である。だから、まずは「深い般若波羅蜜多において(行を)」と直訳して考えるのが素直である。ところが、<中村・紀野>はここを「智慧の完成を(実践)」とaccusativeに訳している。これは、ここの文法の語形を無視している訳で、和訳としては落第だ。こんな自分勝手な訳が通るくらいなら文法など要らない。私は、「深い(集中の)般若波羅蜜多において」と直訳した。
四番目の問題だが、「caryq/ caramqzo:チャルヤーム /チャラマーノ」(行を実践しているもの(は))を<中村・紀野>は「行を実践していたとき」と訳している。「~ときに」にあたる原語はない。これも意訳としてまちがっているとは言い難いが、漢訳のマネか?文法無視の勝手な訳し方だ。梵文和訳というのは、サンスクリット独特の言い回しの文法・修辞を無視して自分勝手な意訳をするのは禁物だ。
<中村・紀野>は、「行」(caryq)について何も注記していないが、仏教思想史上、「行」(caryq)は簡単に見過ごす語ではないと思う。私は、この「行」(caryq)が「自利」の行であるとともに「利他行」(「方便」(upqya))のニュアンスをもっているのではないかと感じている。具体的には、ホトケの利益を祈る真言を読誦する行、のことである。
※「五蘊皆空」は悩ましい訳で、しばしば誤解のもとになる。サンスクリット原文では、観自在菩薩が「(事物はすべて、例えば私の身体は)五つの(ものの)集まり(五蘊)である、と」まず観察し(vyavalokayati)、その上で「それ(ら)は、本性が空なるものである、と」見抜く(pa1yati)のである。観自在菩薩(大乗の立場)は一度「五つの(ものの)集まり(五蘊):うんかい」という「実在(有)」を認めている。その上で「それらは本性が空」(五蘊皆空)なのだといっている。
漢訳者(玄奘)はここを簡訳した。その理由はわからないが、原文に忠実に読めば、「空」を武器に小乗を批判する大乗といえども一気に「空」なのではないと読める。するといきなりここで「五蘊皆空」はないのではないかと思えてくる。
※漢訳の「度一切苦厄」にあたる原語はサンスクリット原文にはない。訳者(玄奘)が挿入したものか?仮にそうだとして、なぜ前後の文意がつながらないこんな場所に「世間利益」を意味する句が挿入されたのだろうか。もし訳者に意図があるとしたら、後半に出てくる「能除一切苦」をここで予告しているのかもしれない。
※<中村・紀野>、「存在するものには」の原語はない。
※<同>、「pa`ca-skandha:パンチャ・スカンダー」を「五つの構成要素」としたが適訳とは思えない。「skandha」は「部分」「集合」「集合体」(『梵和大辞典』)の意で、漢訳の「蘊」も「集合体」の意味である。
※「1[nya:シューンニヤーン」は、「空(から)の」「空虚な」「~を欠いている」「~のない」「ゼロ」(『梵和大辞典』)が原意で、「からっぽ」「無」といったイメージの語であるが、大乗経典になって「空」という思想的訳語をあてられ、それが定着した。まったくない(無、na、na-asti)のでもなく(非無)、ある(有、asti)のでもない(非有)、非有非無のゼロの考え方をいう。
例えば、「私のいのち」は遺伝子や身体の生理や食事や生活環境や気候風土などさまざまな条件によっ
て成り立っているのであって、「私のいのち」という個別の存在がもとからあるわけではない、だからモノ・コトの表にあらわれた部分の認識や概念の先入観にとらわれてはいけない、といった「無執着」の意味の考え方。<中村・紀野>は、「実体のないもの」と訳したが、これも簡便すぎて仏教思想の適訳とは言い難い。私は「それ自体で存在するわけではないもの」という意味にとっている。
<梵文の読み>イハ シャーリプトラ ルーパム シューニヤター シューニヤター エーヴァ ルーパム
ルーパーン ナ プリタック シューニヤター シューニヤターヤー ナ プリタッグ ルーパム
しゃーりーしーしきふーいーくうくうふーいーしき
<漢訳>舎利子 色不異空 空不異色
<漢訳書き下し>舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、
<長澤>さて(そのように)、シャーリプトラよ、(事物の)形象(色)は空性であり、空性だからこそ(事物の)形象(色)(たり得ているの)である。(事物の)形象(色)から離れて空性があるのではなく、空性から離れて(事物の)形象(色)があるのではない。
※<中村・紀野>の、「この世においては(iha)」はどうだろうか?「iha」は、「ここに」「この世において」「以下」「さて」「今」「この時」(『梵和大辞典』)といった意味の副詞。しばしば接続詞的に用いられる。英語の「then」ような軽いつなぎの語と考えたとしても、前後の文意を暗につなぐ意味がある。私は、「さて(そのように)」と訳し、「(深い境地のなかで観た)「五蘊皆空」のビジョンのように」という意味にとった。
漢訳は「iha」を訳していない。訳さないでもいいくらいの修辞上の決まり文句なのか、訳さなくても文脈上「看破したその境地では」という意味が自明のこととなので訳語をあてなかったのか・・・わからない?
※漢訳には「r[pa/ 1[nyatq 1[nyatq-eva r[pam」にあたる訳文がない。
<梵文の読み>ヤッドゥ ルーパム サー シューニヤター ヤー シューニヤター タッドゥ ルーパム
エーヴァム エーヴァ ヴェーダナー・サンジュニャー・サンスカーラ・ヴィジュニャーナーニ
しきそくぜーくうくうそくぜーしきじゅーそうぎょうしきやくぶーにょーぜー
<漢訳>色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
<漢訳書き下し>色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし。
<長澤>(事物の)形象(色)というもの、それが空性であり、空性というもの、それが(事物の)形象(色)なのである。同様に、感受作用(受)も、思惟(想)も、潜在意識(行)も、識別(識)も(そうである)。
<梵文の読み>イハ シャーリプトラ サルヴァ・ダルマーハ シューンニャター・ラクシャナー アヌットゥパンナーアニルッダー アマラー・ヴィマラー・アヌーナー ナ パリプールナーハ
しゃーりーしーぜーしょうほうくうそうふーしょうふーめつふーくーふーじょうふーぞうふーげん
<漢訳>舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
<漢訳書き下し>舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、
<長澤>さて(そのように)、シャーリプトラよ、すべての事物(一切法)は空性を特色(相)としている。生じるのでもなく(不生)、滅するのでもなく(不滅)、垢れているのでもなく(不垢)、無垢なのでもなく(不浄)、減るのでもなく(不減)、満ちるのでもない(不増)。
※この「iha」も漢訳は訳語をあてていない。『大本』では、ここは「eva/」となっている。「さて(そのように)」くらいにしておくところだと考える。隠れている意味は、「「空性」のビジョンのように」である。
※「不増」「不減」は、ヒンドゥー聖典のウパニシャッドに見える「アートマン(個我)とブラフマン(大(宇宙)我)が主客未分の混沌たる世界」をいう時に使われる表現。
※<中村・紀野>、過去受動分詞や形容詞の「anutpannq」「aniruddhq」「amalq-vimalq」を「生じたということもなく」「滅したということもなく」「汚れたものでもなく」「汚れを離れたものでもなく」と過去形に訳す必要はない。
※梵文テキストは「不減」「不増」だが、漢訳は「不増」「不減」の順である。
※<同>の、校訂原文に「anonq」とあるのは仏教梵語の変化?原文の誤り?訳者のまちがい?誤植?
原語は「an[nq」。
<梵文の読み>タスマーチュ シャーリプトラ シューンニャターヤーム ナ ルーパム ナ ヴェーダナー
ナ サンジュニャー ナ サンスカーラ ナ ヴィジュニャーナム
ぜーこーくうちゅうむーしきむーじゅーそうぎょうしき
<漢訳>是故空中 無色 無受想行識 <漢訳書き下し>この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、
<長澤>その故に、シャーリプトラよ、空性においては、(事物の)形象(色)もなく、感受作用(受)もなく、思惟(想)もなく、潜在意識(行)もなく、識別(識)もない。
※大乗(観自在菩薩が観た「空」観)の立場から、小乗の「五蘊」説が否定(批判)される。
<梵文の読み>ナ チャクシュフ・シュロートゥラ・グラーナ・ジフヴァー・カーヤ・マナーンシ ナ ルーパ・シャブダ・ガンダ・ラサ・スプラシュタヴヤ・ダルマーハナ チャクシュル・ダートゥル ヤーヴァン ナ マノー・ヴィジュニャーナ・ダートゥフ
むーげんにーびーぜっしんいーむーしきしょうこうみーそくほうむーげんかいないしーむーいーしきかい
<漢訳>無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
<漢訳書き下し>眼も耳も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界のなし。
<長澤>眼も耳も鼻も舌も身体も意(こころ)もなく、形(色)も声も香りも味も触れられるべきもの(触)も認識対象(法)もない。眼の世界(眼界)もなく、意(こころ)による識別の世界(意識界)に至るまでない。
※<中村・紀野>の、「dharma」を「心の対象」とする訳は気持はわかるが適訳ではない。
※大乗(空観)の立場から、小乗の「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」「六境(色・声・香・味・触・法)」の「十二処」説が否定(批判)される。
※「na cak2ur-dhqtur yqvan na mano-vij`qna-dhqtu4」は、途中略しているが、「眼界」から「耳界」「鼻界」「舌界」「身界」「意界」、「色界」「声界」「香界」「味界」「触界」「法界」、「眼識界」「耳識界」「鼻識界」「舌識界」「身識界」そして「意識界」までの「十八界」である。この小乗の伝統的教理もまた、大乗(空観)の立場から否定(批判)される。
<梵文の読み>ナ ヴィドゥヤー ナ・アヴィドゥヤー ナ ヴィドゥヤー・クシャヨー ナ・アヴィドゥヤー・クシャヨーヤーヴァン ナ ジャラー・マラナム ナ ジャラー・マラナ・クシャヨー
ナ ドゥッカ・サムダヤ・ニローダ・マールガー ナ ジュニャーナム ナ プラープティッヒ
むーむーみょうやくむーむーみょうじんないしーむーろうしーやくむーろうしーじんむーくーしゅうめつどうむーちーやくむーとく
<漢訳>無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
<漢訳書き下し>無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。
苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。
<長澤>明知(明)もなく、明知のないこと(無明)もなく、明知(明)が滅することもなく、明知のないこと(無明)が滅することもない。老いること(老)も死ぬこと(死)もなく、老いること(老)や死ぬこと(死)が滅することもない、に至るまで(そうなのである)。
苦(苦諦)も集(集諦)も滅(滅諦)も道(道諦)もなく、仏智(智)もなく、得ること(得)もない。
※大乗(空観)の立場から、小乗(有部)の「十二因縁」説が否定(批判)される。「十二因縁」とは、「無明(avidyq)」から「行(sa/skqra)」「識(vij`qna)」「名色(nqma-r[pa)」「六入(2af-qyatana)」「触(spar1a)」「受(vedanq)」「愛(t32zq)」「取(upqdqna)」「有(bhava)」「生(jqti)」そして「老死(jarq-maraza)」まで。
梵文には「na vidyq」(明もなく)と「na vidyq-k2ayo」(明が滅することもなく)があるが、漢訳・チベット訳にはない。「明」は「十二因縁」にはない。
「十二因縁」ばかりでなく、「「十二因縁」を滅すること」つまり釈尊の説いた「解脱」への道(人間がもつ遠い過去からの業の滅却)も否定(批判)される。
※そこで、「苦」「集」「滅」「道」の「四諦」も否定(批判)される。これは釈尊の仏教(原始仏教)の中心が大乗によって否定(批判)されたことでもある。
※「智(j`qna)」は、<中村・紀野>のいう(注記(四五))、弘法大師(『般若心経秘鍵』)や伝教大師(『摩訶般若心経釈』)などの「能観(智)・所観(サトリ)」による「能所智得」の分別を否定することよりも、釈尊が初転法輪の時に言った「私は智が生じ、光明が生じた」の「智(仏智)」だという宮坂宥洪師の説の方が「技あり」ではないか。釈尊の仏教の研究では大御所だった中村先生も、これに気がつかなかったのだろうか。ここで、釈尊の初転法輪(初説法)も否定(批判)される。
※「得(prqpti)」もまた、<中村・紀野>(注記(四五~四六))はあやふや・しどろもどろだ。ご両所のように、「得(獲得)」は「智」との関連で見るのではなく、諸法(dharma)の構成要素のなかに、結びついたり結びつかなかったり、集ったり集らなかったりするはたらきを考えたアビダルマの法分析をここでは想起すべきであろう。「得(獲得)」とは諸法が結びついたり集ったりするはたらきをいう。ここで、大乗の前のアビダルマ仏教が否定(批判)されている、と考えるのが妥当だ。この視点にはじめて言及された宮坂師の著書(前掲)をよく参照されたい。
<梵文の読み>タスマードゥ アプラープティトゥヴァードゥ ボーディサットゥヴァーナーム プラジュニャー・パーラミターム アーシュリトゥヤ ヴィハラティ アチッタ・ヴァラナハ
チッタ・ヴァラナ・ナースティトゥヴァードゥ アトゥラストー ヴィパルヤーサーティ・クラーントー
ニシュタ・ニルヴァーナハ
いーむーしょーとっこーぼーだいさったーえーはんにゃーはーらーみーたーこーしんむーけーげーむーけーげーこーむーうーくーふーおんりーいっさいてんどうむーそうくーぎょうねーはん
<漢訳>以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟
涅槃
<漢訳書き下し>得る所なきを以っての故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、(一切の)顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。
<長澤>このように、得ることもないことからして、諸菩薩の般若波羅蜜多に依って(心の覆いを)取り去り、心の覆いのないもの(無罣礙)となる。心の覆いがないこと(無罣礙)からして、恐怖のないものとなり、逆さまの考え(顛倒)を超越したものとなり、寂静の境地(涅槃)に導かれたものとなるのである。
※漢訳の「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故(菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に)」は原文の意味と異なる。原文は「諸菩薩の般若波羅蜜多に依って」(私の訳)となる。
※<中村・紀野>の、「安んじて」は「q1ritya」のことだと思うが適語だろうか。原意は「付着して」「頼って」「依存して」(『梵和大辞典』)である。私は「依って」とした。
※<同>、「心を覆われることなく住している」もどうか。「viharaty acitta-qvaraza4」をそのように訳すだろうか。私は「(心の覆いを)取り去り、心の覆いのないものとなる」とした。
※<同>、「入っている」とは「ni2wha」の訳語のようだが、原意に「入っている」の意味はない。多分「入涅槃」を念頭においたのだろう。漢訳は「究竟」で、「究竟涅槃」は絶妙だが、私は「導かれたもの」とした。「~の上に」「~に導く」が原意である(『梵和大辞典』)。
<梵文の読み>トゥリ・アドゥヴァ・ヴヤヴァスティターハ サルヴァ・ブッダーハ プラジュニャー・パラミターム アーシュリトゥヤ・アヌッタラーム サムヤクサンボーディム アビサンブッダーハ
さんぜーしょーぶつえーはんにゃーはーらーみーたーこーとくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい
<漢訳>三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
<漢訳書き下し>三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
<長澤>三世におわすすべての仏は般若波羅蜜多に依って、無上の正等覚を現に覚ったものなのである。
<梵文の読み>タスマージュ ジュニャータヴヤム プラジュニャー・パラミター・マハーマントゥロー マハー・ヴィドゥヤー・マントゥロー (ア)ヌッタラ・マントゥロー (ア)サマアマ・
マントゥラハ サルヴァ・ドゥッカ・プラシャマナハ
サトゥヤム アミトゥヤットゥヴァートゥ ラジュニャー・パラミターヤーム ウクトー マントゥラハ
タッドゥ・ヤター
こーちーはんにゃーはーらーみーたーぜーだいじんしゅぜーだいみょうしゅぜーむーじょうーしゅぜーむーとうとうしゅのうじょーいっさいくーしんじつふーこーこーせつはんにゃーはーらーみーたーしゅーそくせつしゅーわつ
<漢訳>故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚故 説般若波
羅蜜多咒 即説咒曰
<漢訳書き下し>故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり、これ大明咒なり、これ無上咒なり、これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に、般若波羅蜜多咒を説く。すなわち咒を説いて曰わく、
<長澤>この故に、般若波羅蜜多の大いなる真言、大いなる明知の真言、無上なる真言、比べるものなき真言が、すべての苦を除くものであると知られるべきである。真実は偽りがないことからして、般若波羅蜜多において真言が説かれた。然れば、
※「prajqpqramitq-mahqmantro」。この複合語をどう訳すか、難しい。私は「般若波羅蜜多の大いなる真言」と訳 した。漢訳の「般若波羅蜜多 是大神咒~(般若波羅蜜多はこれ大神咒なり、~)」は原文の文意とちがう。
※「samasama」は「asamasama」。仏典ではたびたび登場し「無等等」「比類なき」「比べるものなき」と訳され る。 ※「praj
qpqramitqyqm(ukto mantra4)」はlocativeだが、漢訳は「説般若波羅蜜多咒(般若波羅蜜多咒を説く)」と意に介していない。私は「般若波羅蜜多において(真言が説かれた)」と訳した。
<梵文の読み>ガテー ガテー パーラ・ガテー パーラ・サンガテー ボーディ スヴァーハー
ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそうぎゃーてーぼーじーそわかー
<漢訳>掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎訶
<長澤>達することよ、達することよ、目的(高み=サトリ)に達することよ、目的(高み=サトリ)にともに達することよ、サトリよ、成就あれ。
※四回繰り返される「gate」は、「gatq」(「gam」(「行く」「動く」「去る」「~に達する」など)の過去受動分詞「gata」の女性形)か、女性名詞「gati」(「行くこと」「行動」「退去」「往来」「成功」「獲得」「至」「到」「趣」(『梵和大辞典』)の、vocativeである。
<中村・紀野>(「岩波文庫」本)のように、「gatq」(「達せるもの(者)」)にとるのが妥当と思われるが、私はこれに賛成できない。
一つには、四回繰り返される「gate」が「(仏)尊」ではなく、「般若波羅蜜多(praj`q-pqramitq)」や「サトリ(bodhi)」の言い換えだと考えるから「達せるもの(者)よ」ではなく「達することよ」の「gati」にとる。
二つには、「gatq」(「達せるもの(者)」)にとる場合、単数でいいのだろうか、と私は考える。言い換えれば、「サトリ」に向うのは、この真言の場合、一人でいいのか、ということ。『般若心経』の(大乗の)「般若波羅蜜多」の自利利他円満の立場では「みな、ともに」が担保されなければなるまい。もし「達せるもの(者)よ」がいいとするならば「達せるもの(者)たちよ」(複数)にならなければ大乗の価値がない。ここは「gate」が単数であることから、私はやはり「達することよ」の方がベターと考え「gati」にとった。 ところで、「gati」にとると、三番目の「(pqra-)gati」は(複合語だから)いいとしても、四番目の「(pqra-)sa/gati」の「sa/gati」に「ともに達すること」という意味があるのかが問題となる。「sa/gati」には「~と会うこと」「~にしばしば行く」「交わり」「関係」「集り」「和合」といった意味があり「sa/gata(q)」とほぼ同義である。そこで、私は大乗の立場を勘案して「(pqra-)sa/gati」を「目的(高み=サトリ)に、ともに達すること」とした。
余談だが、この「gate」を「gati」(女性名詞)や「gatq」(女性形)ではなく「gata」(男性形)だという信じられない参考書がある(智山『常用陀羅尼と諸真言』(増補改訂版)、p.13~p.14)。いったい「gata」のvocativeは「gate」だろうか。この訳者は、もう一度サンスクリット文法を最初からやり直した方がいい。「gate」は「gata」のvocative(「~において」「~で」「~に」)ではないか。「~よ」とはならない。これは、サンスクリット文法の初歩の初歩のまちがいだ。 いずれにせよ、ほかの真言・陀羅尼と同様、この真言もハイブリッド(混淆語)化している可能性がないわけでもなく、クラシカルサンスクリット文法で読み取れる限界も当然想定内にしておく必要はある。
※この真言を<中村・紀野>は「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ」と訳している。私は、「達することよ、達することよ、目的(高み=サトリ)に達することよ、目的(高み=サトリ)にともに達することよ、サトリよ、成就あれ」と訳した。両先生の和訳は、この真言の訳もそうなのだが、梵→和の翻訳としてはミスはないのだが、仏教経典の
訳語・訳文としては納得に価するものではない。かゆい所に手が届かない感じなのだ。
まず「往ける者よ、往ける者よ(gate gate)」だが、これでは「去り行く者」「往生した者」「死んだ者」と誤解される。生半可な知識で『般若心経』解説を書いている人は、おおかたこの訳を見てすっかり信用し同じようなことを書いている。真言僧で脳死移植問題に私とは逆の賛成の立場をとる、ある知名人が、「去り行く電車のテールランプの灯り」だなどと見当ちがいのことを言ったことがあるが、これもこの和訳を見て誤解したのだろう。『般若心経』すらこの程度にしか理解できていない坊さんが、生半可な仏教知識をひけらかして、生命倫理もろくにわきまえない移植医と一緒になり、脳死移植問題に首を突っ込むのはよせと言いたくなる。
次に「彼岸に往ける者よ」(pqra-gate)だが、「pqra」を「彼岸(に)」と訳すのは当り前過ぎて、逆に<中村・紀野>両先生が『般若心経』の内容をあまり深く読んでおられないのではないかと勘ぐりたくなる。
「(般若)波羅蜜多((praj`q-)pqramitq)」は「到彼岸」の意味だから「pqra-gate」も同じように「彼岸に往ける者よ」でまちがいではない。しかし、この『般若心経』のいう、大乗の「空」を内実とする「般若波羅蜜多」は「「向こう岸」に渡る」という平面のベクトルではなく、小乗を批判して上に立つ、もしくは霊鷲山の説法処からの俯瞰のように「空観」の高みに立つ垂直のベクトルである。だから私は「目的(高み=サトリ)に達すること」と訳し、敢えて「彼岸」を避けた。
仏教の最終目的である「サトリ(buddhi、bodhi)」が、人間(世間)の平行思考で会得できるものではなく、深い瞑想のなかで高度に研ぎ澄まされた垂直の知(praj`q)によって示現するくらいのことは仏教の常識であるが、両先生の訳からはそういう教理的気配がまったく感じられない。そのことを「かゆい所に手が届かない」訳だと言ったのである
そして「彼岸に全く往ける者よ」(pqra-sa/gate)だが、「sa/gate」を「全く往ける者よ」とするのはいかがなものか。「全く(往ける)」とは「gate」の接頭語「sa/」のことだろうが、「完全に」ということか?「完全に往く」とはどんなことか?この「sa/」こそ大乗の「みな、ともに」なのではないか。一人が「完全に(自己完結的に)彼岸に往くこと」が『般若心経』の立場では「スヴァーハー」ではない。大乗はそれに批判的なのではないか。このことが、両先生は見えておられないようだ。この真言を「pqramitq(到彼岸)」の通俗的語源解釈にしたがったもの、という「岩波文庫」本の注記に至っては何をかいわんやである。
※宮坂宥洪師は、この真言(マントラ)に、インドで見聞された「仏母=女神化したマーヤー夫人(釈尊を産んだ母)」への信仰を重ねられ、「仏陀(buddha)」「サトリ(bodhi)」を「産み出す力」の意味にも言及されている。
プロパーのマントラとはそういうものなのだろう。インド留学の経験をした人でなければこういう着想は浮ばないものである。もし「gate」が「仏母」なら、単数でいいことになる。
※弘法大師は、「gate」を「大神咒」(声聞の真言)、「gate」を「大明咒」(縁覚の真言)、「pqragate」を「無上咒」(大乗の真言)、「pqrasa/gate」を「等等咒」(秘蔵の真言)とし、その一つ一つが四つの真言の名を具すという独特の解釈を行っている。
この大師のような解釈を「宗乗」的独善として退ける悪習が仏教学界にあるのはいかがなものか。大師は唐で漢訳訳経のナマの現実をつぶさに見てきた。『般若心経』を師の恵果和尚や般若三蔵や牟尼室利三蔵やそのほか長安で交流した学問僧がどう解釈していたか知らないはずはない。仮に「宗」を立てるための教判的色彩があるとしても、その解釈には当時の最新の『心経』解釈情報が大師の頭のなかにはあったにちがいない。大師の解釈は、時間的には、玄奘の『般若心経』に近かったのだ。
以上、つぶさに和訳をしてみると、次のことが見えてくる。
「般若波羅蜜多」の内実である「空」の哲理(「空観」の立場)が、大乗以前の釈尊の(原始)仏教や小乗(部派仏教、説一切有部(sarvqsti-vqda)など)への批判というかたちで前半に説かれる。
おおかたの『般若心経』解説書は、これをこのお経の主題だと勘ちがいしている。
経の半ば以降は、種々「般若波羅蜜多」の「利益」が説かれるが、その象徴的なものが「能除一切苦」(前半初めに出てくる「度一切苦厄」と同義)で、「般若波羅蜜多」が「衆生済度」(利他)に及ぶことを意味する。
これはこのお経の内容が仏・世尊ではなく「慈悲」のホトケである観自在菩薩(の「深い般若波羅蜜多の行」)によって語られることと無関係ではないだろう。
さらに、「般若波羅蜜多」は祈りのことば(真言)に置き換えられて説かれる。「般若波羅蜜多」は「空」を内実としながら「マントラ」(祈りのことば自体に利益がある)になった。この密教的な要素の受容は、ほかの般若経系経典にも、また浄土往生を説く浄土思想系経典にもある。経に説かれる世間利益がより現実のものとして意味づけられることになるのである。
解釈のしようだが、どどのつまり『般若心経』は、経題(尾題)に「般若波羅蜜多の心(真言)を終る」とあることからも、大乗としての「般若波羅蜜多」を世間利益のために密教的な祈りのことば(真言)に置き換えて説く、ということに主題(真意)があると読み取るのが正解なのではないか。
◇中村・紀野訳(『般若心経・金剛般若経』、岩波文庫)と<長澤訳>の対比◇
全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
<漢訳>舎利子 色不異空 空不異色
シャーリプトラよ、
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
<長澤訳>さて(そのように)、シャーリプトラよ、(事物の)形象(色)は空性であり、空性だからこそ(事物の)形象(色)(たり得ているの)である。(事物の)形象(色)から離れて空性があるのではなく、空性から離れて(事物の)形象(色)があるのではない。
<漢訳>舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
シャーリプトラよ、
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
<長澤訳>さて(そのように)、シャーリプトラよ、すべての事物(一切法)は空性を特色(相)としている。生じるのでもなく(不生)、滅するのでもなく(不滅)、垢れているのでもなく(不垢)、無垢なのでもなく(不浄)、減るのでもなく(不減)、満ちるのでもない(不増)。
<漢訳>是故空中 無色 無受想行識
<漢訳>無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
それゆえに、シャーリプトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、識別もない。眼もなく、耳もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
<長澤訳>その故に、シャーリプトラよ、空性においては、(事物の)形象(色)もなく、感受作用(受)もなく、思惟(想)もなく、潜在意識(行)もなく、識別(識)もない。
<長澤訳>眼も耳も鼻も舌も身体も意(こころ)もなく、形(色)も声も香りも味も触れられるべきもの(触)も認識対象(法)もない。眼の世界(眼界)もなく、意(こころ)による識別の世界(意識界)に至るまでない。
<漢訳>無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
<漢訳>以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟
涅槃
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平和に入っているのである。
<長澤訳>明知(明)もなく、明知のないこと(無明)もなく、明知(明)が滅することもなく、明知のないこと(無明)が滅することもない。老いること(老)も死ぬこと(死)もなく、老いること(老)や死ぬこと(死)が滅することもない、に至るまで(そうなのである)。
苦(苦諦)も集(集諦)も滅(滅諦)も道(道諦)もなく、仏智(智)もなく、得ること(得)もない。
<長澤訳>このように、得ることもないことからして、諸菩薩の般若波羅蜜多に依って(心の覆いを)取り去り、心の覆いのないもの(無罣礙)となる。心の覆いがないこと(無罣礙)からして、恐怖のないものとなり、逆さまの考え(顛倒)を超越したものとなり、寂静の境地(涅槃)に導かれたものとなるのである。
<漢訳>三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
<漢訳>故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚故 説般若波
羅蜜多咒 即説咒曰
<漢訳>掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎訶
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。)
ここに、智慧の完成の心を終る。
<長澤訳>三世におわすすべての仏は般若波羅蜜多に依って、無上の正等覚を現に覚ったものなのである。
<長澤訳>この故に、般若波羅蜜多の大いなる真言、大いなる明知の真言、無上なる真言、比べるものなき真言が、すべての苦を除くものであると知られるべきである。真実は偽りがないことからして、般若波羅蜜多において真言が説かれた。然れば、
<長澤訳>達することよ、達することよ、目的(高み=サトリ)に達することよ、目的(高み=サトリ)にともに達することよ、サトリよ、成就あれ。
◆大本◆
この「大本」は、まず、「小本」には登場しない世尊が霊鷲山の説法処に比丘や菩薩と共にあり、
三昧(瞑想)に入っていて説法はせず、
会衆のなかにいた釈尊の弟子・舎利弗(舎利子、シャーリプトラ)が、
(同じ説法処で)「般若波羅蜜多」における行を行っている観自在菩薩に「般若波羅蜜多」における行の実践についてたずねるところからはじまる。
そして、その答えとして「小本」のほとんどそのままがそのあとに挿入のような形で紹介され、終
ると世尊が三昧(瞑想)から起って、その「小本」の内容のように実践されるべきだと言って喜ぶ、という形で構成されている。
このように、私によって聞かれた。
※この出だしは、仏教経典共通の決まり文句。私の和訳は直訳。ならせば「このように(以下のように、世尊の説法を)私は、聞いた」、漢訳では「如是我聞(にょーぜーがーもん、じょーしーが^ーぶーん)」。
ある時、世尊は、ラージャグリハ(王舎城)のグリダラクータ山(霊鷲山)(の説法処)において、あまたの比丘衆やあまたの菩薩衆と共におられた。
しからば、その時、世尊は、「深い開悟(等覚)」といわれる(という名の)三昧(瞑想)に入られた。
また、その時、深い(集中の)般若波羅蜜多において、行を実践している尊き観自在菩薩・大薩埵(摩訶薩)がこのように(次のように)観察した。
(例えば、私の身体は)五つの(ものの)集まり(五蘊)であると。そして、それ(ら)は、本性が空なるものであると観察した。
その時、大徳シャーリプトラが、仏の威徳によって、尊き観自在菩薩にこの(次の)ことを言った。
「もし、誰か、善男子が、深い(集中の)般若波羅蜜において、行を実践したいと望んだら、どのように学ぶべきであろうか」と。
このように言われた尊き観自在菩薩・大薩埵(摩訶薩)が、大徳シャーリプトラにこの(次の)ことを言った。
「シャーリプトラよ、もし、誰か、善男子かあるいは善女人が、般若波羅蜜において、行を実践したいと望んだら、これ(次のこと)によってこそ観察されるべきである。」と。
(例えば、私の身体は)五つの(ものの)集まり(五蘊)であると。そして、それ(ら)は、本性が空なるものであると見抜いた。
(事物の)形象(色)は空性であり、空性だからこそ(事物の)形象(色)(たり得ているの)なのである。(事物の)形象(色)から離れて空性であるのではなく、空性から離れて(事物の)形象(色)なのではない。
(事物の)形象(色)であるもの、それが空性であり、空性であるもの、それが(事物の)形象(色)なのである。このように、感受作用(受)も、思惟(想)も、潜在意識(行)も、識別(識)も空性なのである。
このように、シャーリプトラよ、すべての事物(一切法)が空性を特色(相)としている。生じるのでもなく(不生)、滅するのでもなく(不滅)、垢れているのでもなく(不垢)、無垢なのでもなく(不浄)、減るのでもなく(不減)、満ちるのでもない(不増)。
その故に、そこで、シャーリプトラよ、空性においては、(事物の)形象(色)もなく、感受作用(受)もなく、思惟(想)もなく、潜在意識(行)もなく、識別(識)もない。
眼も耳も鼻も舌も身体も意(こころ)もなく、形(色)も声も香りも味も触れられるべきもの(触)も識別対象(法)もない。
眼の世界(眼界)もなく、意(こころ)の世界(意界)に至るまでなく、識別対象の世界(法界)までなく、意(こころ)による識別の世界(意識界)に至るまでない。
明知(明)もなく、明知のないこと(無明)もなく、(それらが)滅することもなく。老いること(老)も死ぬこと(死)もなく、老いること(老)や死ぬこと(死)が滅することもない、に至るまで(そうなのである)。
苦(苦諦)も集(集諦)も滅(滅諦)も道(道諦)もなく、覚智(智)もなく、得ること(得)もなく、得ないこと(非得)もない。
このように、シャーリプトラよ、得ること(得)もないことからして、諸菩薩の般若波羅蜜多に依って(心の覆いを)取り去り、心の覆いのないもの(無罣礙)となる。心の覆いがないこと(無罣礙)からして、恐怖のないものとなり、逆さまの考え(顛倒)を超越したものとなり、寂静の境地(涅槃)に導かれたものとなるのである。
三世におわすすべての仏は、般若波羅蜜多に依って、無上の正等覚を現に覚ったものなのである。
この故に、般若波羅蜜多の大いなる真言、大いなる明知の真言、無上の真言、比べるもののない真言が、(各々)すべての苦を除く真言であると知られるべきである。真実は偽りがないことからして、般若波羅蜜多において真言が説かれた。然れば
達することよ、達することよ、目的(サトリ)に達することよ、ともに目的(サトリ)に達することよ、サトリよ、成就あれ。
このように、シャーリプトラよ、深い(集中の)般若波羅蜜多において、行は菩薩によって学ばれるべきである、と。
然るに、その時、世尊は、その三昧より起って、尊き観自在菩薩の賞賛(のことば)を述べた。
善き哉、善き哉、善男子よ。それはその通りだ、善男子よ。
このように、深い(集中の)般若波羅蜜多において、行は実践されるべきである。あなたによって述べられたように、如来たちや阿羅漢たちや正等覚者たちによって喜ばれる(随喜される)であろう、と。
この(次の)ことを、世尊が言った。大徳シャーリプトラ、また尊き観自在菩薩、またすべての近衆、神々・人間・アスラ・ガンダルヴァ、また世間も、世尊が言われたことに喜びをもって歓喜した。以上、
般若波羅蜜多の心咒(真言)の経を終る。
■「大乗仏教」と「上座部仏教」が分かれた理由とそれぞれの特徴
◆分かれた理由と時期
・主に仏教の教えや戒律の解釈の違い
⇒釈迦(紀元前563年~紀元前483年頃)の死後、弟子たちは釈迦の教えをどのように解釈し、実践するかについて
⇒紀元前3世紀(紀元前300年~紀元前201年)頃に意見が分かれた。
⇒仏教の教えを広く大衆に広めることを目指した大乗仏教と
⇒仏教の戒律を厳格に守ることを重視する上座部仏教に。
⇒この分裂は『根本分裂』と呼ばれている。
出典:https://www.koumyouzi.jp/blog/902/
【大乗仏教のアウトライン】
大乗仏教は他者の救済と慈悲の実践を重視
- 目的:他者の救済を重視(利他行)。
- 修行方法:六波羅蜜の実践(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)。
- 広がり:中国、朝鮮、日本(北伝仏教)
<大乗仏教の特徴>
大乗仏教は、初期仏教(上座部仏教)とは異なり、より広範な救済を目指す教えとして発展した。
- 普遍的な救済:大乗仏教は、すべての生きとし生けるものの救済を目指します。出家者だけでなく、在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げています。
- 菩薩の道:菩薩(Bodhisattva)という概念が重要で、菩薩は自らの悟りを求めるだけでなく、他者の救済をも目指します。菩薩は修行を通じて他者を助けることを重視します。
- 空(くう)の教え:万物が本質的には無常であり、独立した永続的な自己を持たないことを指します。この「空」の概念は、大乗仏教の中心的な教義の一つです。
- 大乗経典:大乗仏教には独自の経典があり、代表的なものには『般若経』、『法華経』、『浄土三部経』、『華厳経』などがあります。
- 如来蔵思想:すべての衆生が仏性を持ち、修行を通じて仏となる可能性があるとする教えです。
- 地域的な広がり(北伝仏教):大乗仏教は、インド、中央アジア、中国、朝鮮、日本などの国々で広く信仰されている。
日本の仏教の多くの宗派も大乗仏教に分類されており、戒律は宗派ごとにさまざまに解釈。
出典:https://president.jp/articles/-/42220?page=6
【上座部仏教のアウトライン】
上座部仏教は個人の修行と戒律の遵守を重視
- 目的:個人の悟りを目指す(自利行)。
- 修行方法:戒律を厳格に守る。
- 広がり:スリランカや東南アジア(南伝仏教)
<上座部仏教の特徴>
釈迦の教えを忠実に継承し、厳格な戒律と個人の修行を重視する仏教の一派で、スリランカで大成した。
- 戒律の重視:上座部仏教では、出家者(比丘)に対する戒律が厳格に守られている。これはセックスしない、酒を飲まない、金銭に触れないなど、227の戒律が含まれている。
- 個人の修行:上座部仏教は、個人が修行を通じて悟りを開くことを目的としている。これは、大乗仏教が他者の救済を重視すうのとは対照的である。
- パーリ語仏典:上座部仏教は、パーリ語で書かれた仏典を使用し、これを通じて釈迦の教えを伝えている。
- 口伝の伝統:仏典は「読む」書物というよりも「詠む」書物として、声を介して身体に留める伝統が培われている。
- 地域的な広がり(南伝仏教):上座部仏教は、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス、スリランカなどの国々で広く信仰されている。
上座部仏教は、釈迦の教えを純粋な形で保存し続けることを目指しており、その厳格な戒律と個人の修行を重視する姿勢が特徴。
■五胡十六国時代(304年~439年)
・中国の歴史の中でも特に混乱した時期だったが、
⇒中国における宗教の概念を一変させた時代でもあった。
◆その最大の特徴は
⇒外来宗教である仏教の受容の仕方に現れている。
⇒五胡の君主の大多数は非漢民族(異民族)ではあったが、
⇒儒教を尊崇する君主もあれば老荘思想を志向する者も見られた。
⇒そんな中で当時の社会不安が高まり、戦乱が打ち続く華北において
⇒飛躍的に拡がったのは、仏教であった。
⇒五胡の君主たちは、自らが仏教徒となると共に、仏教による民衆教化を図った。
【この時期の仏教特徴】
- 仏教の普及と寺院の建立:
- この時代、多くの仏教寺院が建立された。特に洛陽を中心に900以上の寺院が建てられ、1万人以上の門下生が集まった。
- 重要な仏教僧の活動:
- 仏図澄(ぶっとちょう)や鳩摩羅什(くまらじゅう)などの名僧が活躍し、仏教の教えを広めた。彼らは翻訳活動や教義の普及に努め、中国仏教の基礎を築いた。
- 仏教と国家の関係:
- 仏教は国家とも密接に関わり、時には国家の軍事行為に協力することもあった。また、仏教僧はスパイや使者として利用されることもあった。
- 仏教の社会的影響:
- 仏教は囚人や逃亡者、女性や子供など、社会の様々な層に影響を与えた。仏教寺院は避難所や教育の場としても機能し、社会的な役割を果たした。
五胡十六国時代は仏教が中国社会に深く根付く重要な時期であった。
※鳩摩羅什の主な漢訳:『妙法蓮華経』(法華経)、『阿弥陀経』、『摩訶般若波羅蜜経』、『維摩経』、『大智度論』、『中論』等。特に「妙法蓮華経」は日本の宗派に学ばれ、鎌倉仏教の基礎になった。
尚、摩訶般若波羅蜜経は般若思想の核心を伝えるもので、後の仏教哲学や実践に大きな影響を与えた。
注)四大訳経家:鳩摩羅什(くまらじゅう:344~413頃)、真諦(しんたい)三蔵(499~569)、玄奘三蔵(600~664)、不空(ふくう)三蔵(705~774)の4人のことを指し、仏典の翻訳に功績を残した人物として重んじられています。
◆インドを訪問した僧侶たち ~法顕、玄奘、義浄 陸路か海路か~
・玄奘三蔵(602年~664年)は、
⇒唐代の中国の訳経僧で、鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とされている。
⇒玄奘三蔵は629年にシルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院(精舎)などへ巡礼や仏教研究を行い、645年経典657部や仏像などを持って帰還した。
⇒帰国後、仏典の漢訳に努め、法相宗という宗派を開いた。また、自らの旅行記を『大唐西域記』にまとめた。
⇒玄奘三蔵(602年~664年)が漢訳した「般若心経」は大乗仏教の教理を短い一巻に凝縮した。
出典:https://www.youtube.com/watch?v=_4VUaJ8b6x4&t=16s インドお釈迦様の聖地を玄奘三蔵法師と辿る Part1
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E5%83%A7%E9%99%A2 ナーランダ僧院遺構(仏教の学問所 世界初の全寮制大学)
■密教という宗教文化、信仰システム
以下の転記先:https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/seigo/post-61.html
◆インドの小乗仏教や大乗仏教が興った後に
・華厳経が爛熟し、
⇒その華厳経が変質するころから南インドに芽生えてきたものです。
⇒その背景には王城都市の興隆というものがある。
⇒その華厳から密教への発展力がそのまま中国に入ってきて、独特の密教形態をとるわけですね。
⇒けれども、そこにはつねにインド的なものが響いていた。もともとあった訳ですけれども、それが大きくなったのです。そのインド・中国というものを空海は常に意識していました。
⇒長安に行って二十年計画を二年以内で見切って帰ってきたのですけれども、そのあいだに十分に国際都市長安の中でインドの香りというものを嗅いでいるわけです。
⇒中国の中のインド的なものは何かというと、なんといっても梵字です。
・梵字というのは
⇒字素の一つ一つのエレメントがさまざまに組み合わさって一つのコスモグラムとして種子になったものです。
⇒したがって、一字でひとつの世界観を象徴できるわけです。たとえば、神仏を象徴できる。
⇒大日如来とか阿弥陀如来とか、菩薩(ボーディサットバ)とか。
⇒そういう梵字はイコンそのものです。つまり文字そのものが神像・仏像になっている。
⇒たとえば、大日如来という如来はもともとはいなかったわけです。
⇒バイロチャーナという華厳経の中にいた毘慮遮那仏(びるしゃなぶつ)が、
⇒マハーという「もっと偉大なもの」という意味がくっついてマハーバイロチャーナとなり、
⇒それを訳すと大日如来になったわけです。
⇒それはある意味では毘慮遮那というものを発展進化させたものです。
⇒そして大日如来というニューウェーブの強烈なイコンにしていった。
⇒さらにそれにふさわしい梵字も作られていったわけですね。
◆梵字というのは合成文字
・いろいろ組み合わさっている。
⇒私の用語で言うと編集ですし、もっと言えば創発です。
⇒エマージェントですね。そうやって大日如来が生まれたように、
⇒密教の世界ではこのように梵字そのものが常に新たに生まれる可能性があるんです。
出典:https://www.engakuji.jp/blog/samantabhadra-mantra/
注)普賢菩薩の梵字の真言
オン・サ・マ・ヤ・ストゥヴァンの5文字
サトバンの所が、さ+た+う゛ぁ+んをくっつけた文字になっています。
さ+た+う゛ぁの3つがくっつくことを、梵字悉曇では切り継ぎといいます。
【普賢菩薩の真言の意味】
「オーン。汝は三昧耶なり」という意味となっています。
オンは帰依という意味で大体の真言の頭に付く決まり文句です。
三昧耶(samaya)とは、サンスクリット語の「約束、契約」といった意味で、薩怛鑁(stvaṃ)とは「生仏不二」の意味です。
生仏不二は、我々衆生と仏は二つで無い、つまり、「あなたは仏と同じです」という意味です。
薩埵(sattva)=衆生、バンは金剛界大日如来を表す種子ということで、2つの言葉をくっつけて「サトバン」となります。
ですから、「オン・サンマヤ・サトバン」の意味は、「あなたと仏は根本的には同じであるということを約束します」という意味になります。
なお、サトバンは金剛薩埵の種子(しゅじ)です。
金剛薩埵は真言宗では主人公と言ってもよい仏様で、そもそも、人が悟りを求めようと思った(これを「菩提心を起こす、発菩提心(ほつぼだいしん)」と言う)姿を現す仏様(菩薩)です。
菩提心を起こした仏教修行者を菩薩(菩提薩埵)といい、金剛薩埵はその象徴となる菩薩。
これから教えを実践して仏・如来となります。
なので、仏教修行者と仏は元を返せば同じ存在だったという意味で、「あなたと仏は根本的には同じである」というのです。
曼荼羅や教義などでは金剛薩埵と普賢菩薩がペアにされることも見られます。
これは普賢菩薩の普賢行願という「修行をしてみんなを救います」という10段階の誓いと、金剛薩埵の悟りを求める心を同一として、同体(見た目や名前は違うけど、実は同じ仏だった)されるようになりました。
【普賢菩薩の真言で心の支えとなる力を得る】
「オン・サンマヤ・サトバン」が三昧耶戒の真言ということは、
三昧耶戒とは密教修行者として認められるための儀式です。
三昧耶戒は、色々な誓いを宣誓して、最後に契約の証として「オン・サンマヤ・サトバン」の真言が授けられます。
つまり、この真言を唱えることは、心の内に煩悩もたくさん有るけれど、悟りを求めたいと思う心も存在するということを、自分で気がつくきっかけとなるのです。
出典:https://www.engakuji.jp/blog/samantabhadra-mantra/
出典:https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-249.html
◆8世紀末の混迷時代(何度も遷都を迷った垣武天皇時代)に国の将来を構想した空海
・空海著『秘蔵宝鑰』の中の憂国公子と玄関法師の十四問答
⇒僧尼たちは頭を剃っても欲を剃らず、
⇒衣を染めても心を染めていない
としかおもわれない当時の状況に業を煮やした憂国公子と
空海とおぼしい玄関法師が淡々と諌める有名な問答。
・玄関法師は焦りまくる公子に
⇒「麒麟や鳳凰が見えなくなったからといって、すぐ動物を絶滅してはならないし、
⇒如意宝珠が得られないようになったからといって鉱物を唾棄すべきではない。
⇒いまの世に聖者が見つからないといって、すぐに仏法を捨てるべきではない」と諭す。
まるで今日の世紀末(1990年代)の苛立ちに対する説法のようではないか。
・だが、憂国公子もなかなか譲らない
⇒「たとえ聖者が見えなくとも、多少の大悟と智慧をもつ者くらいはいてもよさそうではないか」と反論をする。
⇒法師はそこで、現代はあきらかに末法であり、またその様相も随所に出ているが、
⇒そのことを認めたうえで、断固として仏法の機能を確信するべきだと言う。
⇒また、このような時代の人々には誰が賢者で誰が愚者であるかは見きわめられないのであって、
⇒優れた逸材がいても気がつかれにくいものなのだから、
⇒そんなことで落胆せずに、王たる者は王法を確信し、仏教者はしっかり仏法を見つめていればそれでいい、そう説くのである。
・空海はこの国に密教を適用するにあたって、
⇒透徹した見方をもっていた。
⇒すでに中国の歴史は、
⇒不空「密教ナショナリズム」と
⇒一行の「密教タオイズム」と
⇒恵果の「密教インターナショナリズム」ともいうべきを生んでいたが、
⇒空海はそのいずれでもあって、そのいずれでもない独自の密教を、
⇒日本という国に定着させるための構想をもっていたのだったろう。
⇒それぞれ一長一短はあるが、
⇒空海はそれらをこの国に適合させる「編集」が必要だと考えたのだった。
・たとえば、唐では天文暦法の管轄部署と陰陽卜占の管轄部署は別である。
⇒前者は学術、後者は呪術であった。
⇒それが日本では一緒になっている。
⇒この混合習合感覚が「日本という編集」なのである。
⇒これが最澄にはわかりにくく、
⇒空海にはよく見えていた。
⇒諸国の関渡津泊を跋渉し、諸国の僧俗貴賎と接触してきたからであったろう。
⇒だからそこ空海は、憂国公子の焦燥と短慮を諄々と冷やすこともできたのである。
◆玄関法師に身をやつした空海が『秘蔵宝鑰』に勧めた「焦燥の克服」
・今日では「複雑性」とか「複雑系」という概念が
⇒科学の領域や経済社会の領域でさかんにつかわれるようになっているが、
⇒ではこのような動向に対して、
⇒本来はきわめて高度な複雑性をもっているはずの密教の立場から、
⇒今日の複雑なシステムについての理解や共感の声が上っているかといえば、そうとは思えない。
・複雑系の特徴のひとつは
⇒ある系から出た効果がふたたびその系の本体に自己代入的にフィードバックされることによっておこる特徴としてあらわれるのであるが、
出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4 第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所
https://www.youtube.com/watch?v=DsT7Ha2BDfo&ab_channel=NHK
上記URLの出典:[こころの時代] 数理科学者が語る脳から心が生まれる秘密 | NHK
⇒これは密教思想の一部の特徴とすこぶる近似していたりするのである。
⇒空海密教は『十住心論』や『秘蔵宝鑰』がそうであるように、
⇒低次の情報編集体験を次々により高次の情報編集体験に自己代入することによって獲得されていくプロセスの自覚にあるのだから、
⇒ここには複雑系に似たフィードバック・システムが活用されていると見るべきなのだし、
⇒また秘密金剛心とか密厳荘厳心としか名付けえないマンダラ・ステートは、
⇒いわば複雑性の極みともいうべきものなのである。
⇒が、そのような関心で今日の「複雑さの時代」を凝視しようとしている人々は、残念ながらあまりいないように思われる。
◆「言語学と密教」というような問題ならば
・これこそ空海の言語思想としっかり重なるところなのだから、
⇒いまごろはとっくに「密教言語思想体系」あるいは「空海言語哲学」ともいうべきプログラムが
⇒巷の識者も覆い尽くし、ソシュールやヴィトゲンシュタインや、あるいはチョムスキーやバフチン以上に論議されるところとなっていてもおかしくなかったのである。
⇒とくに井筒俊彦さんが密教に手をさしのべられていれば、それだけでもずいぶん様相は変わったと偲ばれる。
⇒空海の「知」をもっと世界に知らせたいと思っている私としては、そこがやはり残念なことである。
・別の視点から
⇒密教思想や空海哲学の二十一世紀的な活用を考える必要があるということになる。
⇒が、このこと私の気持ちからすれば、実は十四年前に書いた『空海の夢』でそれなりに提案してあったことなのである。
⇒多少は密教思想と空海哲学の「知」の未来化のヒントがどこにあるか、わかってもらえるはずだった。
・二つの視点から空海密教の特色を明示しておく
⇒ひとつは空海密教がとびぬけて優れた「編集の思想」であるということで、
⇒もうひとつは、その「編集の思想」は華厳を母体に考えぬかれた「編集の方法」によっていたということである。
⇒空海の「知」は類い稀れな「編集の知」というものである。
⇒その驚くべき編集能力はすでに『三教指帰(さんごうしいき)』にたっぷりあらわれている。
・このような知の持ち主は
⇒ヨーロッパにも、たとえばベーコンとかヴィーコとかホワイトヘッドとか、
⇒あるいはイタリア・ルネッサンスを構築したマルシリオ・フィチーノとかバロックの王者ロバート・フラッドとか、それなりに錚々たる編集知の持ち主がいるのだが、
⇒なんといっても八世紀の段階で壮大な編集知を構想したという点では
⇒空海は他者との比類のしようがないほどで、
⇒それに加えて東洋の知を徹底的に編集してみせたという点で、ナーガールジュナ(龍樹)やヴァスバンドゥ(世親)にもまったく手が出せないものだった。
◆ただし、当初の空海の編集力をもってしても、気になる手ごわい相手
・空海にとっての未知の領域が控えていた。
⇒それは、ひとつは『大日経』に代表される密教思想である。
⇒もうひとつは、華厳の法蔵や澄観が青年空海の前を全速力で進んでいたと見えたことである。
⇒空海はこれに追いつき、これを追い越すことを考えた。
⇒空海密教が法蔵や澄観の華厳思想を母体としていることは、
⇒誰もが知っていることであるはずなのに、
⇒あまり十全に議論されてはいない。
⇒私はそのことが気になって『空海の夢』の第二六章に「華厳から密教に出る」というささやかな解読を試みておいたのだが、
⇒宮坂宥勝さんと鎌田茂雄さんと井筒俊彦さんをのぞいては、とくに関心を払う人には出会えなかった。
⇒しかし、この点がわからないかぎり、空海密教の本質はまったく語れない。
⇒とくに空海密教が編集思想であることがわからない。
⇒それにはまず、空海が長安にいるときに華厳僧たちがどれほど活躍していたかということを一瞥しておく必要がある。
⇒長安の空海の日々は華厳の理解に多くの時間をさいていたのだが、
⇒どうもこのことが見えない人が多すぎるからである。
・空海が長安に入ったのは三一歳のときだった
⇒西明寺に入ってみると、すでに三十年前からそこにいる日本僧永忠が華厳にやたらに詳しいことに驚いた。
⇒聞けば、カシミール僧の般若三蔵という老僧が六年前に『四十華厳』を漢訳したばかりだという。
⇒そこで空海は醴泉寺にいた般若三蔵のところに通う。
⇒また、宗密というすこぶる鋭利な華厳僧がいて、
⇒すでに新たな宗教人間哲学ともいうべき『原人論』を綴ったという。
⇒宗密は空海のわずか四歳年上の者だった。
⇒空海はこれらの人々の成果を懸命に学習しつつ、
⇒その淵源が澄観という華厳の大立者に発していることを知る。
⇒その澄観は六六歳になっていた。のちの華厳宗第四祖である。
⇒もともとは五台山清涼寺が本拠であるが、このころは長安の崇福寺に止宿しつづけていた。
⇒いろいろ尋ねれば、この澄観の影響指導下にいたのが般若三歳であることもわかってきた。
⇒実際にも『四十華厳』漢訳本の巻末には「太原府崇福寺沙門澄観評定」の記載が見える。香象大師澄観に認定してもらったのだった。
⇒このような日々をおくりつつ、空海は澄観から出た宗密が新しい宗教哲学を創造しようとしているのに愕然となり、
⇒これに勝る宗教哲学を構想しようとしたはずである。
⇒構想の母体は華厳思想におくしかないようにおもわれた。
⇒それほど華厳思想はすばらしい出来栄えになっていた。
・が、その脱出口はどこなのか
⇒どうやら宗密は華厳から禅の方向に転出しようとしているらしい。
⇒空海はその方向を採用したいとは思わない。
⇒むしろ新たな密教動向に賭けたいと決意する。
⇒それこそが恵果の金胎両部のマンダラ密教哲学だった。
⇒空海は華厳と密教をまったく新しく統合編集してしまうことに賭けたのである。
・第一祖の杜順と第二祖の智儼の後、第三祖の法蔵がきわめて雄大な構想をつくっていた
⇒ここで華厳思想を要約するのはとうてい不可能であるが、わかりやすい成果をひとつだけあげるとすれば、
・法蔵は、
⇒当時は声聞・縁覚・菩薩の三乗思想にこだわっていた仏教界に対して、
⇒華厳別教の一乗思想を確立して
⇒“業界思想”を止揚するとともに、
⇒そこに「該説門」という思索を吸収する新編集概念を提案することによって、
⇒はやくも空観と唯識の両思想を華厳思想に吸収してしまっていたのである。
⇒それだけではなかった。法蔵は『探玄記』という著書に、
⇒のちに澄観の心をも空海の心をも捉える
⇒「十重唯識」(十玄)という卓越した構想を発表し、
⇒人間意識のスペクトルの最高段階を「帝網無礙」という境地で言いあらわしていたのである。
⇒これこそは空海が『即身成仏義』の偈において
⇒「重重帝網なるを即身と名づく」と綴った”ルーツ”にほかならない。
⇒すなわち空海は、こうした法蔵を頂点とする華厳十玄思想があることを知り、
⇒これを密教の方向に軌道展開させながら統合編集しようとしたのであった。
⇒二十年ほど前のことになるが、私は『弁顕密二教論』に「密厳華厳」という造語があったことにぶつかって、そうか、空海のルーツは華厳だったのか、と思ったものである。