仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~

■龍樹におけるもうひとつの最重要問題は時間否定の論理である

出典:https://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/03/2008_35_hikaku_08_watanabe.pdf

渡辺照明、西洋哲学、大正大学講師

■時間概念が否定

 因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる。

 まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。

 時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋しているところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。

 過去や未来がたとえ無であったとしても、その名前や概念が成立していること自体が重要であり、概念や名前、即ち「仮名」があることによって「現在」も把握できる、ということである。しかもそのような「仮名」という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた「現在」だから、結局、その「現在」も空虚である、という論証の仕方である。同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである。
 つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである

 これが龍樹の「戯論」という語の背後に隠れている「仮名」の積極的意味であると思われる。つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故。「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである。

<参考情報>

『空』を例える

口の中にツバが出来れば、自然とツバを飲み込む(下図の右側)

そのツバを一旦コップに出して、それを飲み込む事は出来ない(下図の左側)

「ツバ」そのものは変わらない

縁によって本体は変わる

口の中にあるツバは自然と飲める汚くないツバと心で思う

一旦、口の中にあるツバをコップに出したツバは飲めない汚いツバと心で思う

固定的な汚いツバは永遠に存在しない

■八千頌(はちせんじゅ)般若経(紀元前後~50年)

・キーワード

本体がない

固定的に永遠に存在する本体はない

無自性/

■空が仏説であることを論説(『根本中頌』第24章第18偈(げ))

縁起中道

縁起は

⇒何かを因として

⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること

そういうものを「因施設」と呼んでいる

⇒名付けられた諸々が「空」

中道

汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない

本体がない固定的に永遠に存在する本体はない

つまり実体がない=空

ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はな

つまり両極名付けられたを排した執着から離れるのが

それが中道である

■縁起とは

・名付けられた「兄」と「弟」の関係は

⇒お互いに相手がいなければ成立しない

⇒それ自体としては成立しない

つまり自性を持たない相依性の否定

■釈尊の悟り

・中道

汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない

本体がない固定的に永遠に存在する本体はない

つまり実体がない

ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)

つまり両極名付けられたを排した執着から離れるのが

それが中道である

無自性/

■相依性の否定

後世の人々は逆に

相互依存が縁起だと捉えた

龍樹

相依性の否定

空であるから

相互依存は成立しないと論証した

執着から離れる

名付けることを排する

■我々が勝手に昆虫というカテゴリを付けた(名付けた

実体はない

無自性

■名付けられたも=有為

昆虫とそれ以外の相互依存関係自体が成立しない

無自性空であるから

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え」2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記

 このように施設や仮名に積極的な意味を持たせることが可能である。それどころか、仮名がなければ因果も時間も把握できないのである。我々の持つ、確かであるとされる知識の、そのほとんどは因果関係や所属関係の事柄である。しかしそれは、実は概念構成による定義や公理といった、約束事即ち仮名によって成り立ち、それらを用いた証明によって知識の確実さを主張していたのである。その約束事が当たり前のようになってしまえばそれらの知識は暗黙の了解事項になるだろうが、その「約東」の決め事という枠を取り外せば、自分に都合の良い勝手な現実の切り取りでしかないことが曝け出されるだろうこのような批判的見方によって知識の不確実さを暴き、その果てに「諸法実相」(dharmata)が拓かれるとするのが龍樹の立場であると考えられるが、残念ながら、それ以上の「諸法実相」の詳しい説明は『中論』においては見いだせない。

<参考情報>

出典:華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

 この「仮名」を正当に評価し採用しているのが、天台智顗(ちぎ)の教学である。天台では仮名を単純にして「仮」と称するのだが、「仮」は前述のように、無でもあり有でもある。それはちょうど、「可能性」の概念が。無でもあり有でもあるのと同様である。また、そのように捉えることが「中」である。つまり、有り得ることは有ること、有ることは有り得ること、という連関をわきまえて一切を「亦有亦無」の論理の中に包摂すること、これが「中」である。同時にその「捉える」ということがまた、一種の「有」となり、有の限界を究めればそれは空となるこのように、「空」と「仮」と「中」は、それぞれ独自の機能を持ちつつ、相互に関連し合うという論理を展開するのが、三諦円融の理であるこの論理は龍樹の「空」説や「仮」説をなくしては存在し得ないと言ってよい。

 時間が成立しないことは天台智顎の『摩訶止観』にある「四運心」の説明にも出てくる。『業、若し未来ならば、未来は未だ有らず、如何ぞ業あらん。業、若し現在ならば、現在は念念住せず、念若し已に去らば即ち過去に属す、念若し未だ至らざるは即ち未来に属す、起に即して即ち滅す、何者が現在ならん。」このよう未来は無い、過去も無い、起と滅の間には微塵の刹那も無く、現在もない、という徹底した三世否定は龍樹から受け継がれたものである。

<参考情報>

天台智顎

真実の仏教を求めて – 天台宗を開く

天台大師は今から1400余年前に霊山天台山にこもられ『法華経』の精神と龍樹の教学に基づき 教理と実践の二門を兼備した総合的な仏教を確立され、新しい中国独自の仏教、真実の仏教である天台宗を開かれました。

隋晋王広(煬帝)の尊崇篤く、隋代第一の学匠として「智者大師」の号を賜わり、 わが国では高祖天台智者大師とお呼びし、篤く尊崇され、伝教大師(最澄)により伝えられた。

天台三大部

48歳の時、陳の皇帝に請われて天台山を下山、 金陵の名刹光宅寺で『法華経文句』を開講されました。 その後、陳は隋により滅ぼされ、首都金陵も戦場となります。 大師は戦乱を避け故郷の荊州に帰郷されました。 ここで玉泉寺を建立され、『法華玄義』と『摩訶止観』を 講説されました。これらは天台宗の聖典として弟子の章安灌頂により筆録され、天台三大部と称されています。

出典:http://www.shiga-miidera.or.jp/doctrine/tendai/index.htm 三井寺

<参考情報:Google 回答>

「八不」「中道」「縁起」「空」

いずれも仏教における重要な概念であり、相互に関連しています。八不は、事物が固定的な実体を持たないことを示す八つの否定的な表現であり、縁起の道理を説くものです。中道は、これらの対立を離れた、偏りのない状態を指し、空は、事物の実体がないことを意味します

八不 (はっぷ)

「生じない」「滅しない」「断続しない」「常ではない」「一つではない」「異なるものでもない」「行かない」「来ない」の八つの否定的な表現で、事物が固定的な実体を持たず、変化し続けることを示します。これは、縁起の道理をより深く理解するための表現です

中道 (ちゅうどう)

二つの極端な対立する考えや状態(例えば、有と無、生と滅)から離れ、偏りのない、中正な道のことです八不の教えは、この中道を理解するための基礎となります。

縁起 (えんぎ)

べての事物は、互いに関連し合い、依存し合って存在しているという仏教の根本的な教えです単独で存在するものはなく、常に変化し続けています

空 (くう):

事物は固定的な実体を持たず、変化し続ける状態を指します縁起の道理を理解することで、事物が空であることを認識できます。有でもなく、無でもない、中道的な存在として捉えられます

■双非(非有非無)のさらなる展開

 有と無の両方を否定する双非は、多くの論書において縁起や空のレトリックな説明に用いられる場合も多い。先に引いた『摩訶止観』をざっと見ても、例えば、不入不出、非真非俗、不縦不横、不権不実、不優不劣、不前不後、不並不別、不大不小、等の形でさまざま文脈で現れる。

 しかしそれらはいずれも不生不滅に集約され、また論理的には不有不無に帰着する。因果否定や時間否定で使われた結合関係に現れる関係性や仮設は生滅論の次元ないし概念操作の思考レヴェル3から批判される。さらにその生滅論も、常断、一異の論理的次元や思考レヴェルにおいて批判されることになる。その批判の観点は論理的にはおおよそ次の四つになるだろう

 第一に、不有不無を不有と不無の選言とすれば、一切肯定の方式である。

 第二に、不有不無を、不有と不無の連言とすれば、矛盾の関係にある。矛盾するものは存在し得ない。この論法は一切を否定する方式である

 第三に、「不有不無である」というように表現ないし主張するならば、その命題自体が有に回帰する

 第四に、「言葉では表現できない」と表現すれば、それ自身、パラドックスである。このパラドックスに圧倒され思考停止や思考放となれば思考レヴェル0ということであり、「表現できない」ことを以て単純に「無明」に帰してしまう場合もあり得る。

 このように「八不」を論じることは、さまざまな発展の可能性をもつものだが、それは龍樹の思想の枠を越えていくことになるだろう。

■八不の意義とその構造化

問題の所在

 般若思想の「空」理解の手掛かりとなる特異な命題としてよく挙げられるのは、『金剛般若経』にある次のような文言である。

 「須菩提よ、言う所の一切の法は、即ち、一切の法に非ず、それに故に一切の法である。」このような言い回しはこの短い経典の中十数回も現れる。鈴木大拙はこの文言から、いわゆる「即非の論理」を考案したと言われる。

 しかしこの命題は、哲学の伝統から言えば、明らかに思考の根本原則の矛盾律に抵触していて、決して認められるものではない。従ってこの命題に意味があるとすれば、それだけで伝統的哲学に大問題を投げかけているということになる。

 思考の原則を脅かすこの論法は八宗の祖、龍樹において如何なく発揮されている。その有名な句が『中論』の冒頭にある「八不」の偈である。曰く、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出。能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅し給ふ、我は稽首して仏に礼す、諸説中第一なり。」こうして龍樹は畢竟空と無所有を説いた。

 龍樹は『中論』において因果を否定し、時間を否定する。例えば「観因果品第二十」の十二偈から十九偈にかけて、過去に原因を立てることを否定し(因果律否定)、未来に原因を立てることを否定し(目的論否定)、現在に原因を立てることを否定する。

 従って、「観因縁品第一」において四縁(因縁、次第縁、縁縁、増上縁)のすべてが否定されるのは当然である。また原因と結果の連関を成り立たしめる時間でさえも、「観時品第十九」では否定してしまう。曰く、「時は住するも不可得、時は去るも亦た得べからず。時若し不可得ならば、如何が時相を説かん。」

 このような徹底的否定の遂行によって、初期仏教より受け継がれてきた「常・楽・我・浄」の四顛倒を破すという単純な空観は、大乗仏教の徹底した空観へと導かれた。これは我々の知性的展開の究極の地点まで至り着いたと言ってよいかも知れない。しかし余りに究極的、極端に過ぎて、我々の知性、論理がついていっていないのではないか。少なくとも文言の上では、思考の原則である同一律や矛盾律を破壊し、さらに因果を否定して根拠律を解体し、時間さえ否定し去るということ、これほど重大で深い問題提起はないだろうと思われる。もっと我々は龍樹の提出した問題を真剣に、かつ深刻に受け止めなければならないと思う。

 即非の論理」や「八不」は論証的問題提起で、因果否定や時間否定は事象領域の問題提起だとすると、それは西洋哲学の文脈で言えば、ちょうどライプニッツの言う二つの真理、つまり。論証によって明らかにされるところの理性の真理と、充足理由律によって明されるところの事実の真理とに分けたのと対応するさらに、アリストテレスにおけるアポディクシス(論証法)とディアレクシス(弁証法)の区別や、カント認識論における分析論と弁証論の区別も、この問題設定に当てはまる。

 般若経や龍樹の立場では、この二つの真理のどちらも根本から破壊してしまう。同時に、それだからこそ、龍樹の批判によって却ってこの二つの真理を近づけた、ないしは結合させる道筋をつけた、ということにもなるのではないか、というのがこの論文の趣旨である。創造神のような絶対者を立てない仏教においては、この両領域をつなぐその役目は、無や空であると推察される。

八不の意義とその構造化

 そこで、論証と事実の違いに着目しつつ、その連関の有り様を龍樹の「八不」から探ってみたい。「八不」、即ち八つの否定とは。生・滅、常・断、一・異、来・去、という、対立する論理や物事の両極を設定し、それらのいずれも否定して、それらにとらわれない中道の理を示そうとするものである

 まず、これら四つの対語であるが、ここに設定された四つの対立軸は、これでこと足れりとするのか、また、この八不の対立軸はこの順序でなければならないのか、自由に入れ替えていいのか。と、さまざまな疑問が湧いてくる。確かに『中論』では第一観因縁品、第二観去来品、と始まり、生滅論等へと議論は続いていくのだが、八不が筋道立てられて体系的に語られているとはとても言い難い。この点については青目の註釈が問答の形で答えてくれている。即ち、「問うて曰く、諸法は無量なり。何が故に但、此の八事を以て破するや。答へて曰く、法は無量なりと雖も、略して八事を説かば、則ち総じて一切法を破すとなす。」この解釈で八不があれば一切法に関して戯論を破すのに十分であるとされる。では八不の順序は動かせないものなのか。

 それについて例えば青目の註釈は次のように言う。「問うて日く、不生不滅にて已に総じて一切法を破すれば、何故に復た六事を説くや。答へて日く、不生不滅の義を成ぜんがための故なり。有る人は不生不滅を受けずして、而も不常不断を信ず。……不常不断を説かば、即ち若不生不滅義に入る。」と述べ、また、「若し一ならば則ち縁無し。若し異ならば則ち相続無し。後に当に種々に破すべし。是の故に
復た不一不異を説く」、とあり、一を言えば縁即ち関係性や「異」はなく、異を言えば相続即ち「常」なく、即ち不一不異を説けば不常不断を結果することを示している。また、「有る人、六種に諸法を破すると聞くと雖も、猶も来出を以て諸法を成ず」という例を挙げ、不来不出が派生的問題であることが示唆されている。

 ここから、不生不滅を軸にして不常不断、不一不異と遡り、また不生不滅から不来不出の問題が派生することが見えてくる。そこで般若心経にも説かれる八不と同形式の文言から「不垢不浄、不増不減」も取り上げ、それらを含めてこれらの問題次元を確定してみたい。

 生滅の問題が軸となるのは、仏教が旗印とする「諸行無常」の理を説こうとすることからも十分理解できる。我々が執着を起こし迷いをもたらすものは「存在しているもの」の生滅に関するものだからである。青目の註釈ではそれは「眼見」されるものとあり、いわゆる我々の身の回りにあるさまざまな「もの」である。

 我々はそれらの「もの」に執着をするのだが、それはその「もの」が一定期間、持続し存在していることによって執着が成立するのである。そしてそのものの存続が止むとき「滅」という事態が発生する。従って「生滅」の問題はその「もの」やその事態が相続(存続)する連続性の問題に変換される。つまり持続の状態は「常」であり、それが止むときが「断」である。

 さらに「このもの」があるというのは「他ならぬこのもの」があるということであり、「このもの」が他と区別されて初めて「このもの」たり得るということが承認されるなら、この「他ならぬ」の「他」が「異」であり、「二」でもあり、また否定辞の「不、無、非」にも関連する。この「一、異」の領域は、実質的な内容をもったものではなく、その点で純粋に論理的な領域である。こうして「生滅」の問題は、「常断」さらに「一異」のような論理的、抽象的な方向へと遡っていく。

 今度は「一異」の方から辿ってみれば、「一」と「異」の二項によって、「一」としての自己同一と存続、つまり連続性が認められるが、それが「常」であり、そして「異」に触れたところが「断」となって、連続の「常」が終わる。つまり「常断」は、一に対する異、二、他、或いは否定辞によって規定され説明される。

 さらに「生滅」は「常」と「断」によってより身近なものとして説明される。というのは、「生」にしても「滅」にしてもそれぞれ単独では認知でぎず、連続性が断ち切られることにおいて初めて「生滅」が了解されるからである。

 次に「生滅」の問題次元を具体的方向へと展開させてみよう。「生滅」は、正確に言えば「生、住、異、滅」という。いわゆる存在の四相の形態をとると説かれる。この四つの相の最初と最後が「生」と「滅」である。従ってその中間にある「住」と「異」は、単純化すれば「生」と「滅」を両端とする量的変化と捉えることができる。これが「増減」の問題次元である。さらにこの「増減」が、一定の場所と開きや方向の感覚を得れば、それは運動や移動や変質の問題となる。『中論』においては「去来」を以
て代表させている。
またさらに、これに快と不快や苦と楽のような価値的要素が加われば「垢浄」の問題次元に発展する。

 この展開方向は、生活実感を伴うような具体的方向である。我々が直接的に感受する「四苦八苦」と言われるような苦しみや迷いは広い意味での「不浄」(垢)である。このようないわば価値的次元は、「眼見」できるような具体的状況、即ち「去来」のような時空的次元において説明される。さらにこの「去来」による説明は時空的な地平における程度問題として「増減」の次元に置き換えられ、またその「増減」も「生滅」の中に位置づけられる。

 龍樹の多方面にわたる煩瑣で難解な議論も、このような次元を設定し、相互に関連づけることによって整理されると考えられる。

注)青目(アサンガ(梵: Asaṅga))/Microsoft Copilotの回答

4〜5世紀頃のインドの大乗仏教僧で、唯識思想の体系化に大きく貢献した人物です。彼は弥勒(マイトレーヤ)から教えを受けたとされ、弟のヴァスバンドゥ(世親)とともに唯識派(瑜伽行派)の実質的な創始者と見なされています。

「青目」という表現は、しばしばインド出身の仏教僧を中国や日本で呼ぶ際に使われる雅称で、「碧眼」や「西域の聖者」といった意味合いを含むことがあります。したがって、「インドの青目」がアサンガを指しているとすれば、それは彼の出自と聖者としての尊崇を込めた表現と考えられます。

ちなみに、アサンガは『摂大乗論』『瑜伽師地論』などの重要な論書を著し、後の法相宗や成唯識論の基礎を築きました。

【ヴァスバンドゥ(世)/興福寺】

■思考のレヴェル化

 ところでこの「八不」は、それぞれ「不」を付されて否定されているが、それぞれ独自の対立軸を表示していた。この対立する両概念は、反対概念の場合もあれば、矛盾する概念もある。反対概念とは中間を許す対立関係であり、矛盾概念は中間を許さない両立不可能な対立関係にあることを示す。上述の六つの次元において「一異」の方向への展開は矛盾対立の方向であり、「垢浄」への展開は反対概念の方向であって、しかもその反対の関係の緊張度合も低くなる。

 この観点から六つの次元を見ると、「一と異」は両立し得ない関係であり。その反対に「垢と浄」の関係は、中間を許すばかりか、垢でもない浄でもない無記の状態も実際には多くを占めるという、非常に緩い反対関係である。従って「垢浄」の次元、あるいはそれに近い方では各々が対立した形で並置されてもそんなに命題破壊的な感じはしない。

 ところが一と異については、非一は異であり、非異は一でしかあり得ない。だから「不一不異」は堂々巡りの論理となる危険を孕んでいる。

 さて、この矛盾と反対の関係に着目しつつ否定のあり方を検討してみょう。というのも八不は対立する両概念を否定することによって真実の相を浮び上がらせるという手法を採っているからである従ってこれは論理的側面からのアプローチということになる。

 ここで改めて、八不の対立する両概念を有と無に代表させて考察してみたい。最も鋭い対立の矛盾的関係は、有をそのまま否定した非有である。有と非有は決して並び立たない。この対立は思考の根本原則である矛盾律に関わる純粋な論理的レヴェルである。
これをレヴェル1としよう。

 次に有に対立する「無有」だが、「在ること無し」と表記されるような「無有」の場合、それは単に有を否定したのではなく、有るところの場所が前提されて、かつ、あるべきもの、あってもよいものがそこにはないということを意味する。いわゆる「不在」という言葉に相当する。不在とはあるべきところにあるべきものが今はない、ということである。この例としてよく使われるのが、無室と空室の違いである。つまり部屋が無い、というのと、部屋には何も無いとはまったく意味が違う。或いはそれは、所有の「有」と所在の「在」の違いとも言える。「有」は「もつ」とも読ませるように所有関係であり、これに対して「いつ、どこで」のような在処は、直接、この所有関係に影響を及ぼすものではない。つまり、「在」は、所在が定まっており、「いつ、どこで」ということが重要な関心事である。この「無有」ないし「不在」をレヴェル2としよう。

 この「非有」と「無有」の意味的区別は、表現上では同じ形になる場合があって分かりにくいこともあるが、その違いは、「非有」(有るに非ず)は単純な否定であるのに対し、ここで言う「無有」(有ること無し)は有の存立を前提にしてその有を否定するというところにある。立川武蔵氏の『「空」の構造』によると、否定には、定立的否定と非定立的否定とがあるといわれるが、ちょうどそれに当てはまる。  つまり、「非有」は、「有る」こと、そのことだけを単純に否定する非定立的否定であり、それに対して
「無有」では、有と無の補集合的配分がまず設定され、そのうちの一方を選択し一方を排除するという点で、「非有」とは異なるということである。

 簡略にして言えば、命題そのものが否定的であることと、名詞や名詞句を否定することとの違いというように説明できる。つまり命題における否定は否定すること自体に重点があるが、「無A」のような形の否定はAという存在の有無をあらかじめ想定していてそこから改めてその一方を否定する、ということである。

 ところが命題でもその意味するところのその反対を想定することはできる。例えば、命題そのものを名詞句にして肯否を表示する方法は、例えば、アリストテレスの「四種のオン(存在)」の説明のうちの、第三の「存在」の意味に見られる。

 ここでは例えば、「『SはPである』は偽ではなく真である」、とすれば、S-P命題も名詞句として、立川氏の定立的否定の部類に入れなければならないだろう。それはpないし非p(pは命題)と表示でき、レヴェル2に移行したということを意味する。その場合にレヴェルーを固執すれば、ある命題が真である、というそのことも一つの命題として、そこにさらに「偽でなく真である」と付け加えることができる。そうすると無限背進してしまう。これがレヴェル1の特徴であり、レヴェル2との違いである。

 次に、有に対して、有とは別に「無」を立てる形である。これをレヴェル3としよう。有と無は一般に矛盾概念とされるが、それぞれ概念化の出処が別であるとすれば有と無は矛盾概念ではなく、並立も中間も可能である反対概念と考えられる。そのように有に対して別に立てられて存立する「無」は、有とは無関係の独立した一つの概念である。するとその「無」の概念はどこから出てきたのかということが問題となる。

 その答えとしては例えば、ヘーゲルの論理学に出てくる「定有としての無」がある。即ち、「無も思惟され、表象されるのであり、言葉で言い表される。それ故に無は有るのである。」即ちそれは何らかの規定を受けて確かに存在する「無」である。また、カントの『純粋理性批判』「分析論」の末尾に四つの無が挙げられているが、そのうちの第一、「皆無」Keinesの概念もそれに該当する。「全体、数多、単一の概念に対立する概念は、一切を否定する概念、即ち皆無の概念である。」これはヌーメナという本質態であるが、しかしそれが経験不可能という意味では先験的仮象となり得るものである。

 また、「無」が普通の概念であるとするならば、一般的な概念形成の過程を経て単独に創出されたものとも考えられる。というのも「無い」という概念は、大切なものを失った、とか、見失ったという体験から抽象されて成立した一つの概念とも言えるからである。そしてこの場合には、「無い」という体験的に形成された概念と、論理操作の否定性から来る「無」とが相俟って、先の体験的に形成された概念が論理によって誘導され、論理に概念内容を充当するという関連づけにおいて「無」の概念が確定される
に至ったと考えられる。いずれにしてもレヴェル1のように有と非有が相互に鋭く排除し合う関係ではなく、また、レヴェル2のように眼前にあったりなかったりするようなものでもなく、有と無が対等に対置されているのがレヴェル3である。

 有と無では抽象的で分かりにくいというならぱ、仏教では苦しみをよく問題にするから、その「苦」を取って説明してみよう。

 レヴェル1で言えば、同一時、同一場所における「苦しい」と「苦しくない」の肯定と否定の命題は並置し得ない矛盾の関係にある。

 次に、レヴェル2の「無苦」、即ち「苦しみはない」とは、「苦しみ」があって然るべきところだが、今ここではたまたま苦しみがない、という対立関係である。ここでは空間的、時間的な広がりと余裕があり、苦と無苦とは並置する。

 これに対してレヴェル3においては、「苦」の反対は「楽」である、というような場合の「苦楽」の関係である。この場合は、苦の概念を知り、かつ楽(不苦)の概念も知った上で、苦と楽を対置、並存させている。さらに、苦をまったく意識しない状態も当然、ある。その状態においては、苦は意識されないのだから「無苦」とも「非苦」とも言えない。これをレヴェル0として、一応設定しておく必要があろう。

 さらにまた、現実の脈絡の中で考えられる有と無、あるいは苦と楽の関係性がある。これは事実の領域、青目の言う「眼見」の領域である。これを、経験的に関係づけられた「有無」や「苦楽」の現実脈絡でのレヴェル、つまりレヴェル4としておこう。

 このレヴェルは、人生に苦もあれば楽もある、とか、苦を克服すれば楽を得ることができる、とか言われるような関係性である。ここに因果の関係や所属の関係が設定される。この関係は概念同士の結合、即ち、必然的と言われる結合から偶然的結合、あるいは恣意的結合まで含めて、数多の経験に裏打ちされた結合である。つまり見る者の都合に合わせた経験的な結合である。龍樹が「戯論」と称し批判するのは主にこの部分であろう。事実の真理というのもこの領域である。

 しかし「戯論」とは言っても、現実生活において無用というわけではない。それどころか、概念結合はさまざまな経験、体験の上に立てられた有意義な関係性である。我々の健全な日常生活はこれによって成り立っている。思えば我々は日頃、「どうしたら目的を実現できるだろうか」と考え実行して何らかの結果を得れば、「手段-目的」の体験を獲得し、その体験を蓄積していき、また、「こんな結果になったのはなぜだ」と問い掛け追及して「理由-帰結」の連関を獲得し、その積み上げから「原因-結果」という抽象的な命題や知識を獲得してきたのである。

 また、支配―依存、能動―受動などの体験は日常的に頻繁にあるが、その体験を蓄積しその関連を固定化すれば、それは「実体―属性」の抽象的命題や知識を獲得することになる。この、「原因―結果」や「実体―属性」はカントの範疇表の中の関係のカテゴリーに当たる。龍樹はこの範疇の先験性を否定してしまったのである

 これを、有と無の単純な論理に引き直してみると、「原因―結果」の関係性ならば、原因が有であるときは結果は無、結果が有であるときは原因が無、というように、有から無へ、無から有へ、と表記でき、また、関係性そのものが有なら、無から無へ、関係性が無なら、有から有へ、という具合に表記できるのである。

 これが龍樹が矛盾を犯してまでも全否定するように見える議論の構造である。そうであるならちょうど真反対に、それこそどれもこれも肯定されることになる。全肯定の命題は、例えば観法品第十八の八偈にある。「一切は実なり、非実なり、亦実亦非実なり、を非実非非実なり、是れを諸仏の法と名づく。」こうして四句分別用いた議論が大きく開かれてくると考えられる。