■無自性と仮名
【Google chrome AI回答】
「無自性(むじしょう)」は
仏教、特に大乗仏教における重要な概念であり、「空(くう)」や「無我(むが)」とも関連し、あらゆる事物や概念はそれ自体で独立して存在するのではなく、相互依存の関係性によって成立していることを指します。
「仮名(けみょう)」とは、
そのように相互に依存し合うことで相対的に成立しているが、自立的な実体はないことを示す「仮の名称」や「仮説」といった意味合いで用いられます。
無自性の意味と仮名の関連性
無自性(空):
あらゆるもの(事象、概念)は、自立的な実体を持たず、他のものとの関係性においてのみ成立しているという考え方です。これは、ナーガールジュナに始まる中観派が主張する「縁起(えんぎ)」の思想と深く結びついています。
仮名(けみょう):
無自性の教えを説明する際に用いられる言葉で、自立的な実体を持たない事象や概念が、便宜的に名付けられたり、仮に存在していると認識されたりする状態を指します。例えば、人間も「関係的な存在」であると表現されるように、一切は「関係性」の上に成り立っているということを示します。
縁起との関係:
縁起の法によれば、あらゆるものごとは、他の多くの要素との相互依存関係によって生成・消滅します。この相互依存性によって成立していることを「無自性」と捉え、その「仮の存在」を「仮名」と表現することで、二辺(常見・断見など)に偏らない中道(ちゅうどう)の立場を理解することができます。
唯識派との違い:
唯識派は「空」を言葉や名称という概念に限定して捉えるのに対し、中観派は一切法が空であるとし、空でない実在を認めません。
[研究論文]福井県立大学論 第53号202
■ はじめに
道元(1200‐1253)の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「現成公案(げんじゃうこうあん)」は以下の文章で始まる。
諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどいなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出(ていしゅつ)せるゆゑに、消滅あり、迷吾あり、生仏(しやうぶつ)あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり(1)。
り(1)
この四つの文章は、大乗仏教のエッセンスが詰まった見事な文章であり、また美しい日本語でもある。
これらの文章の展開は仏教の修行の過程にそっていると考えられる。「発心」し、「修行」に励み、「悟り」を得、そして「仏道者」として生きていく、という過程である。
小論では、インドの仏教哲学者の龍樹(ナーガールジュナ150頃‐250頃)とオーストリアの言語哲学者のウィトゲンシュタイン(1889‐1951)の議論をもとにして、この四つの文の読解を試みる。
■ 1:「現成公案」第一文
諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり。
〇発心
まず第一文は発心の時の状態を表している。つまり、脱すべき世俗世界と目指すべき悟りの世界の両者の存在が想定されている。この状態は、世俗世界における現在の自分の生き方に苦しみ、物事の認識の仕方に疑問をもち、ゴータマ・ブッダの教えにしたがって修行して悟りを得たいという志は立てたが、もちろん悟りに到達はしておらず、片方の足はまだ世俗世界に残っている、といったようなものであろう。
ブッダの教えは基本的に現実主義である。
つまり、現実のこの世界でわれわれが苦しんでいるこの苦しみを、この現実の世界において解決しようとするものである。超越的な神や超自然の力は排除され、どこまでもこの現実の世界に生きている人間として、苦しみを内に抱え欲望に翻弄されている人間として、この現実の世界においてこの苦を止滅させ欲望を克服して、そしてこの現実の世界において心安らかな境地であるニルヴァーナ(涅槃)を実現しようとする教えにほかならない。そしてこのブッダの教えを簡潔に表現しているのが「四諦(したい)」説である。
この四つの真理である四諦は、ブッダが悟りを得たのち最初に行った説教である「初転法輪」において説かれた。現実の世界におけるわれわれの苦とは何であり(苦諦)、この苦はどのようにして生じるのか(集諦)、この苦はどのようにしたら止滅するのか(滅諦)、そしてこの苦の止滅に至る筋道は何か(道諦)を説いている。
そして人間は苦と迷いの存在であり、この苦は自己や物事に対する執着(渇愛、煩悩)に縁って(縁起して)生じるのであり、苦の止滅は執着(渇愛、煩悩)を完全に捨てさることであり、そして苦の止滅に至る道は「八正道」の修行だとされる。
〇縁起・無自性・空