NN2-6-3.『中論』:『縁起』~『中論』における『縁起』の意義:縁起の語義~

■クマーラジーヴァの訳

・『中論』における「縁起」pratītyasamutpādaという語をクマーラジーヴァは

「因縁」「衆因縁生法」「諸因縁」「因縁法」と訳し、

⇒また「縁起せざる」apratītyasamutpannaという語を「因縁に従って生ぜす、縁に従って生ぜず」と訳し

また「何でも縁って存するもの」pratītya yad bhavatiを「もしも法が縁より生ぜば」「もしも法が衆縁より生ぜば」と訳している

故にこれらの訳語からみて以前の仏教学においては

大体『中論』は「因と縁とによって生じること」または「縁によって生じること」を説くと考えていたらしい。

また西洋の学者に中にも、

小乗の縁起と区別されるべきはずの『中論』の縁起を

⇒同様に解する人が少なくない。

『中論』の縁起も普通dependent origination, production by causes, das abhāngige Entstehen, la causation et conditionelleなどと訳されている。

・ところが縁起をこのように

「因と縁とによって生ぜられること」とみるならば、

解釈上すこぶる困難な問題に遭遇する。

『中論』は一方においては「因縁所生(しょしょう)」(因と縁とによって生ぜられること」を認めながら、

他方においてはこれを排斥している

その著しい例は第一章(原因(縁)の考察)および第二〇章(原因と結果との考察)であり、

いずれも諸法が因と縁とによって生ずるという説を極力攻撃している

一方では承認し、他方では排斥してるという矛盾を一体どのように解釈すべきであろうか。

そこでまず思いつくのはpratītyasamutpāda(縁起)という語を

クマーラジーヴァは「衆因縁生法」などと訳しているが、

「衆「(多くの)の因と縁とによって生ぜられる」という意味に解釈してはならないのではなかろうか、ということである。

これを『中論』の原文に当ってみると容易に理解しえる。

第一七章・第二九詩句において、

行為は縁によって生ぜられたものではない、とされている。

ところが『中論』全体からいえば、

ありと「あらゆるものは(したがって業も)縁起せるものである。

⇒故に「縁によって生ぜられた」と「縁起した」とは

区別して考えなければならい。

両語チベット訳をみるに、両者は明確に区別されている

中観派有部の相違

・クマーラジーヴァが両者を区別しないのは、

その区別を示す抵当な訳語が見っからなかったからであろう。

もしも、「縁によって生ぜられた」を意味しようとするならば、

別の原語が考えられねばならない。

すなわちpratyayasamutpannaと、ほかにhetupratyayasambhutaあるいは、hetupratyajanitaが用いられるであろう。

これらはみな有為法に関して用いられる語である。

故に『中論』における「縁起」「縁起した」という語はこれらと区別して理解されねばならない。

縁起の原語の前半、すなわちpratyayaを

中観派は「縁によって」と言う意味には解していない

説一切有部においては「縁りて」pratyayaとは「縁を得ての意味であったが、

中観派によると同義であり、論理的な依存関係を意味しているとされている。

またチベット訳からみても、チベットの翻訳者もこれらは同義であり、論理的関係を示すものと解していたに違いない。

したがって「縁りて」(pratiya)を「原因によって」と解することは不可能である。

⇒故に『中論の縁起は

「縁によって起こること」と解釈してはならないことは明らかである

では、中観派は「縁起」をどのように理解していたのであろうか。

次にこれを論じたい。