NN2-5-1.『中論』:『論争の意義』~「有」の主張に対する批判~(龍樹:中村元著より転記)

■「破邪」の意味の考察

・『中論』は論争の書である。

⇒東アジアの伝統的な表現では「破邪(はじゃ)」をめざしているという

『中論』の「破邪」すなわち否定の論理

あらゆる概念の矛盾を指摘して、事実に反してまでも概念を否定した、と西洋の学者によって一般に解釈されている。

しかしながらはたして『中論』は「概念の矛盾」を指摘したのでああろうか。

もしそうだとすれば『中論』は、結局フランスのE・ビュルヌーフのいったように懐疑論を説くものとなろう。

何となれば、一方的断定的な主張は何も述べられていない

それでは空観から出発する大慈大悲の利他行が何故成立するのか

その意義は理解されないこととなりはしないであろうか

『中論』のいわゆる「破邪」とはどのような意味であるかを考察しよう。

■『中論』の論理ープラサンガ

そもそも基本的な態度としての哲学は定まった教義なるものをもっていない

中間派はけっして自らの主張を立てることはしないという

このことはすでにナーガールジュナの明言したとろこである。かれは発言した。

「もしもわたしに何らかの主張があるならば

しからば、まさにそれゆえに、わたくしには理論的欠陥が存することになるであろう

しかるにわたくしには主張は存在しない

まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない

⇒と、その著書の中の『異論の排斥』で説いている。

・ナーガールジュナの弟子であったアーリャデーヴァも同様の趣意でいう。

「もしも〔事物が〕有るとか、無いとか、有りかつ無いとかいう主張の存在しない人ーいかに長い時間を費やしても、かれを論詰する事は不可能である(『四百論』第十六章25)

したがって哲学者チャンドラキールティは、

「中間派にとってはみずから独立な推論をなすことは正しくない。

何となれば〔二つ立論の一方を承認することはないからである」(『プラサンナパダー』16ページ)

といい、さらに同書(18-19ページ)で一般に主張命題(宗:しゅう)も理由命題(因)も実例命題(喩:ゆ)も用いてはならぬと主張している。(もちろんこのプラーサンギカ派の主張に対してはバーヴァヴィヴェーカの反対があるが、上述の『異論の排斥』なる書の文句などからみるならばチャンドラキールティの言のほうが原意に近いであろうと思われる)。

したがって『中論の用いる論理は推論ではなくしてプラサンガ(帰謬(きびゅう)論法)である

プラサンガとは

けっして自説を主張するのではなくて

論敵にとって願わしからざる結論を導き出すこと(同書23ページ・脚註3.210ページ)なのである

⇒「実にわれわれは{論敵にとって}願わしからざる論理によって論敵の議論を暴露せしめる」とチャンドラキールティは豪語している。(『プラサンナパダー』399ページ)

他派の主張を極力排斥するがそれはけっしてそれと反対の主張を承認するという意味ではない。(『プラサンナパダー』24ページ)

⇒「プラサンガとはこのような意味の論理であるから、

厳密な意味では論証とみなすことはできない(同書23ページ・脚註3)

したがってプラサンガは帰謬(きびゅう)法と訳される。

中観派の哲学者たちは

自分達の立場が論破されることはありえない、という確信をいだいていた

そうして大乗仏教が、(禅を含めて)神秘的な瞑想を実践しえたのは

そのような思想的根拠があったからである

これについて次のような説明がなされている。

中観派は証明すべき自分自身の主張をもっていないのである

ところが弁証家は、

思考過程の完成として何らかのテーゼ―

たとえばプラトーンのイデア、へーゲルまたはブラドレイの絶対を証明せねばならぬ。

シャンカラは、絶対者は上向きの思考の動きによっては達成されえないものであるとして

新しい弁証法の技術を展開したのである。

かれにとってテーゼ―は疑う余地のないものであって、証明することはできないのである。

ナーガールジュナの分析は

⇒シャンカラがその弁証法を形成した原型であったと思われる(E・C・パンデーヤ「中観派の哲学」「哲学ー西と東」1964年4月、20-23ページ)。

この論法は後代の東アジアに継承された。

中国では僧肇(そうじょう:374年~414年)が<有>と<無>とが何ものかについて絶対的にまた普遍的に述語されることはありえないと主張した

■破邪の論法の解釈

ナーガールジュナは

このプラサンガ帰謬(きびゅう)論法)といういわゆる「破邪の論法によって

当時の諸学派によって論議されていた種々の哲学的問題を縦横自在に批判したのである。

その破邪の論法を解釈するためには各詩句のひとつひとつについて検討せねばならないが、

しかし各章において各問題を扱う態度は非常に類似している

すなわちごくわずかの基本形式が種々に形を変えて適用されている

故に『中論の論法を説明するには、

ただその代表となるべき論法についてその特質を明らかにすれば

『中論』の論法全体を説明するための鍵を与えることになると思う。

中論』における否定的表現の代表的なもの

不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」という八種の否定である

東アジア諸国ではこれを「八不(はっぷ)」と呼んでいる。

八不を論じていく。

そのうちで最も基本的なものと思われる不来不去」については既に<運動の否定>として解明した。