NN2-5-2.『中論』:『論争の意義』~不一不異~

一異門破

・『中論』の第二章(運動の考察)おいては、

運動というものは

過去にも未来にも現在にも存在いえないという議論(三時門破、第一~第一七詩)の次に

⇒第一八詩から第二一詩によって去るはたらき去る主体との不一不異を証明している

⇒嘉祥大師吉蔵はこれを一異門破(いちいもんぱ)と名付けている。

⇒一異門破の代表としてこの部分のチァンドラキールティ註を訳出してみよう(『プラサンナパダー』101~105ページ)

「また、もしも去るはたらき去る主体を離れて存すとしても、あるいは離れないで存するとしても

いかように考察されようとも去るはたらきは成立しえない、ということを述べていわく

⇒「去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるというのは正しくない

また、去る主体去るはたらきからも異なっているというのも正しくない」(第一八詩)

それでは、どういうわけで正しくないのでのあるか。答えていわく

⇒「もしも去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるならば

作る主体作るはたらきとが一体であるあることになってしまう」(第一九詩)

もしもこの去る作用去る主体と離れていない(すなわち去る主体と)異ならないのであるならば、

その時には作る主体作用との同一なることが有るであろう

それ故にこれは作用であり、これは作者作る主体)であるという区別はないであろう

しかるに切断作用切断者との同一であることはありえない

それ故に去るはたらきがすなわち去る主体であることは正しくない

また去る主体去るはたらきの別異なることもまた存しないということをあきらにしよとしていわく

「また、もしも去る主体>は<去るはたらき>から異なっている分別するならば

去る主体>がなくても<去るはたらき>があることになるのであろう

また<去るはたらき>がなくとも<去る主体>があることになるのであろう」(第二〇詩)

何となればもしも去る主体去るはたらきの別異であることが有るならば、

その時には去る主体去るはたらきと無関係であろう。

また去るはたらき去る主体と無関係であると認めらるであろう

あたかも布が瓶とは別に成立しているようなものである

しかるに去るはたらき去る主体とは別に成立しているとは認められない。

また去る主体去るはたらきとは異なっているということは正しくない。

⇒といったことが証明された。

それ故にこういうわけであるから、

「一体であるとしても別体によっても成立することのないこの〔<去るはたらき>と<去る主体>との〕二つはどうして成立するのだろうか」(第二一詩)

上述の理論によって一体だとしても、あるいは別体であるとしても成立しないところの去る主体去るはたらきの両者がいまどのように成立するのであろうか

⇒それ故にいわく

「この二つはどうして成立するのであろうか」と

去る主体去るはたらきとは成立することはない、という趣意である(『プラサンナパダー』104~105ページ

■法有の矛盾を突く

たんに去るはたらき去る主体という関係を離れて、これを一般的に解釈すれば次のようにいえると思う。

相関関係にある甲と乙との二つのありかたが全く別なものであるならば

両者の間には何らの関係もなく、

⇒したがってはたらきも起こらない

さらに甲であり乙であるということも不可能である

⇒甲であり乙であるといいうるのは

⇒両者が内面において連絡しているからでる。

⇒故に甲と乙が全然別異であるということはありえない

また甲と乙が全然同一であったならば、

両者によってはたらきの起こることもなく

また甲であり乙であるという区別もなくなってしまうであろう

⇒故に両者は全然同一でありえない。

・ここにおいても『中論』が

たんなる実在論を攻撃しているのではなくて、

法有説一切有部)を説く特殊な哲学の根本的立場を攻撃していることがよく分かっる。

たんなる実在論においては、

ここに一人の人が有り、

その人が歩むからその人を<去る主体>といい、

歩む作用を抽象して<去るはたらき>というにすぎないから、

⇒両者の一異という問題は起こらない。

ところが、法有説一切有部)の立場は

自然的存在を問題にせず、

その「ありかた」が有るとなすのであるから、

一人の人が歩む場合に

「去る」という「ありかた」と「去る主体」という「ありかた」とを区別して考え

それぞれに実体視せねばならないはずである。

法有説一切有部)の立場を理論的にどこまでも突き詰めていけば

結局ここまで到達せねばならない。

しからば両者の一異如何が問題とされることなる

ナーガールジュナは実にこの点を突いたのである。

ナーガールジュナの姿勢

したがってナーガールジュナは概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を指摘したのではない。

概念の形而上学的実在性を附与すること否定したのである

去るはたらき」や「去る主体」を否定してのではなく

去るはたらき」や「去る主体」という「ありかた」を実有であると考え

あるいはその立場の論理的帰結としてそれらが実有であると認めざるをえないところの

ある種の哲学的傾向を排斥したのである

このように相関関係にある二つの概念は

一に非ず異に非ずと主張する一異門破」は

中論』において各処において用いられている

⇒第六章・第四詩・第五詩、第二章・第一九詩・第二〇詩、第二一章・第一〇詩、第二七章・第八詩さらに第一〇章全体も一異門破と、みなしうる

⇒さらにこの一異門破は

ナーガールジュナの他の著書においてもすなわち『十二門論』(観一異門第六)、『広破経』、『大智度論』においても用いられ、またヨーガ行派においても述べられている。

五求門破(ごぐもんは)

・『中論』における他の論法、たとえば五求門破

⇒チァンドラキールティのいったよう(『プラサンナパダー』212ページ)

一異門破」から論理的必然性をもって導き出されたものである。

すなわち甲と乙とが、

(1)<同一のもであること>と

(2)<別異のもであること>と、

(3)甲が乙を有することと、

(4)甲が乙のよりどころであることと、

(5)乙が甲の上に依っているものであることを

否定するのが

五求門破」(五つの見方による論破)であるが

(1)と(2)とを否定する

(3)(4)(5)はおのずから否定されることになるという

⇒したがってこの「一異門破」の及ぼした影響は非常に大きいとなねばならない。