インド仏教の日本文学への影響ー和歌、俳句を中心にー 仏教思想研究家 植木雅俊

出典:二松学舎大学 学術情報リポジトリ

<参考情報>

・法華経の経文では

⇒「常に座禅を好んで閏(しず)かなるところにあって、その心を修摂(しゅしょう)せよ」と一般に読み下されており、諸注釈書もそのように解釈している。

⇒ところが「法華義疏」では

⇒「常に座禅を好む小乗の禅師に親近するな。・・・その意味は、間違った(顚倒した)分別の心があるから、世の中を捨てて、かの山間に入り、常に座禅を好む」ことは、親近してはならない境に入れるべきである」としるされている。

聖徳太子(574年~622年)は、「聖」と「俗」を区別する考えはなく

世にあって仏教の理想の実現する道をくりかえし説いている

ここに聖徳太子の仏教の受容と普及における社会への積極的な姿勢を見ることができる

■ 聖徳太子が行った経典の解説書:法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)

「法華経」現実生活を肯定し、意義づける経典であると考えられていた

⇒この経典を選んだということは、

世俗生活を肯定する聖徳太子の基本的立場からは当然の帰結であったのである

・聖徳太子の「法華経」に対する捉え方

⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、

治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある

一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない

どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので

山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない

聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである

こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。

「法華経」の精神はここにあるのだと思って(行基)

⇒「法華経をわが得しことは薪伐(たぎりこり)菜摘み水汲み仕えてぞ得し」という歌を詠んだが、

⇒実は「法華経」の中にこういうエピソードがある。

⇒過去世に釈尊が行者としてある仙人のもとに仕えて、

菜を摘んできたり、水を運んだり、薪を伐って運んだりして奉仕したという。

すると行基は人に対して奉仕するという、ここに「法華経」の神髄があると思ったのである

⇒本当に行基菩薩が作った歌かどうかわからないが、昔からそう伝えられている。

⇒日蓮も、ああ、ここに「法華経」の精神が有ると感激した。これが現代にいたるまでずっと生きているのである。

出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記

2019年1月4日 建仁寺参拝

<参考情報>

<参考情報:Google chrome AI回答>

三諦(さんだい)

天台宗で説かれる「空諦(くうたい)」、「仮諦(けたい)」、「中諦(ちゅうたい)」の三つの真理を指します

  • 空諦::一切のものは実体がない、空であるという真理です。
  • 仮諦::一切のものは、因縁によって仮に存在しているという真理です。
  • 中諦::空でもなく、仮(有)でもない、空と仮を共に受け入れる中道の実相を示す真理です。

天台宗では、これらの三つの真理はそれぞれ別々に存在するのではなく、互いに融け合い、一念の中に全てが顕現している「円融三諦(えんゆうさんだい)」として説かれます

<参考情報:仮名/天台智顗(ちぎ)の教学>

 この「仮名」を正当に評価し採用しているのが、天台智顗(ちぎ)の教学である。天台では仮名を単純にして「仮」と称するのだが、「仮」は前述のように、無でもあり有でもある。それはちょうど、「可能性」の概念が。無でもあり有でもあるのと同様である。また、そのように捉えることが「中」である。つまり、有り得ることは有ること、有ることは有り得ること、という連関をわきまえて一切を「亦有亦無」の論理の中に包摂すること、これが「中」である。同時にその「捉える」ということがまた、一種の「有」となり、有の限界を究めればそれは空となるこのように、「空」と「仮」と「中」は、それぞれ独自の機能を持ちつつ、相互に関連し合うという論理を展開するのが、三諦円融の理であるこの論理は龍樹の「空」説や「仮」説をなくしては存在し得ないと言ってよい。

 時間が成立しないことは天台智顎の『摩訶止観』にある「四運心」の説明にも出てくる。『業、若し未来ならば、未来は未だ有らず、如何ぞ業あらん。業、若し現在ならば、現在は念念住せず、念若し已に去らば即ち過去に属す、念若し未だ至らざるは即ち未来に属す、起に即して即ち滅す、何者が現在ならん。」このよう未来は無い、過去も無い、起と滅の間には微塵の刹那も無く、現在もない、という徹底した三世否定は龍樹から受け継がれたものである。

出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~

<参考情報>

出典:第741回花ホテル講演会 タイトル:「法相宗は面白い ~こころを観る唯識~」 講師: 高次 喜勝 氏(YouTube)

<参考情報>

清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけですよ。

出典:サブタイトル/「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|前編