出典:SOUSEI 193 2021.5 全国曹洞宗青年部
ー最初に、女性の出家についてお釈迦様がどのように考えておられたか教えてください。
植木
当初、お釈迦様は女性の出家を許されませんでした。なぜかというと、出家とは家を出ることですから、野宿するわけです。当時のインドには虎とかライオン、あるいは象とかがたくさんいましたから、危険なのです。お釈迦様には「出家という過酷な経験までさせて女性に修行させるのは酷だ」という考えがあったのではないでしょうか。けれども、お釈迦様は女性も悟りを得られるとしています。私が現代語訳して原始仏典の『テーリー・ガーター』には、「私はブッダの教えをなしとげました」と女性たちが誇りに満ちて綴っています。
女性も阿羅漢(悟り)に至ることができる
ーお釈迦様はどのようなきっかけで女性の出家を許されたのでしょうか。
植木
義理の母親であるマハー・バジャーパティー・ゴーダミーが出家したいと願い出たのです。しかし、お釈迦様は先ほどの理由で、それを許されませんでした。ゴーダミーも食い下がって何度も頼むけれども、なかなかお釈迦様は許してくれない。それを見かねたアーナンダが、代わりにお釈迦様に「女性たちを出家させて下さい」と頼むのです。その時のアーナンダの話の運び方は注目に値します。許しを与えようとしないお釈迦様に対し、「では、女性は阿羅漢(悟り)に至れないのでしょうか」と尋ねました。お釈迦様は女性の出家については否定的だけれども、悟りはいかなる人にとっても平等だと考えておられますから、「女性も阿羅漢に至れる」とお答えになります。「それなら良いじゃないですか」ということで、アーナンダに説得されてゴーダミーたちの出家が許されたのです。
インドは著しい男尊女卑の社会だった
ーそのようの女性を迎え入れた教団が、時代を下がるにつれて「女性は悟りを得ることができない」(いわゆる「女人五障」の考え)と主張するよになります。
植木
根本的な理由としては、当時のインド社会全体が女性に対して極めて差別的だったからです。仏教教団の歴史で申しますと、釈尊滅後、百年を経てガンダーラを含む西北インドに現れた説一切有部(せついっさいうぶ)がその考えを主張し始めました。男性出家者中心の権威主義的な教団だったのです。例えば、中国、日本に伝わったお釈迦様の十大弟子は男性出家者ばかりですが、スリランカに伝えられた経典には女性出家者・在家男性・在家女性のそれぞれに代表的な仏弟子たちの名前が記録されています。女性の智慧第一も説法第一もいたのです。『テーリー・ガーター』には解脱した女性たちの姿が生き生きと描かれています。それなのに、中国にも、日本にも伝わっていません。それは、北伝仏教の発信地であったガンダーラで、男性出家者中心主義の説一切有部にとっては不都合だとして削除されたからです。「女性も悟れる」としたお釈迦様の考えは画期的でしたが、インドの著しい男尊女卑の考えが、教団内に浸透してきたことによるのでしょう。
<参考情報>

ーそして、いわゆる上座部仏教に対して、それを批判する形で大乗仏教の運動がはじまります。
植木
大乗仏教興起のきっかけとしては、権威主義的な上座部仏経の在り方への素朴な疑問があったのだと思います。紀元前後、お釈迦様が亡くなって四百年くらい経って、「上座部仏教の言うことはおかしい。男性出家者が優位で、在家者や女性は低く見られ、かつお釈迦様が人間離れした特別の存在にされている。お釈迦様は人間を差別するために仏教を説いたのだろうか」。そんな声なき声が、次第に一つの声となって形を取るに至ったのでしょう。
<参考情報>

http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html
【大乗仏教のアウトライン】
大乗仏教は他者の救済と慈悲の実践を重視
- 目的:他者の救済を重視(利他行)。
- 修行方法:六波羅蜜の実践(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)。
- 広がり:中国、朝鮮、日本(北伝仏教)
【上座部仏教のアウトライン】
上座部仏教は個人の修行と戒律の遵守を重視
- 目的: 個人の悟りを目指す(自利行)。
- 修行方法:戒律を厳格に守る。
- 広がり:スリランカや東南アジア(南伝仏教)
男であるか女であるかではなく、人間としての振る舞いはどうなのか
ー大乗の経典について教えてください。
植木
今回のテーマで申しますと、『維摩経』に面白い箇所があります。お釈迦様の弟子の一人であるシャーリプトラが、優れた智慧を持つ天女にやりこめられた末に、こう言います。「そこまで智慧があるのに、なぜあなたは女の身体をしているのか」。それを聞いた天女は「何年も女の身体の本質を探しているけれども、そんなものはありませんでした」と答え、自分とシャーリプトラの身体を入れ替えてしまう。シャーリプトラは狼狽し、「穢れた女になってしまった」と慌てふためきます。すると天女はシャーリプトラをもとの男の身体に戻して、問います。「先ほどの女の身体はどこにいったのですか」。シャーリプトラは「女ではないのに女になってしまったのだ」と答える。「そうでしょう。世の中の女性も皆、女ではないのに女の身体をしている。お釈迦様は『一切は男にあらず、女にあらず』と仰いました」と天女は言う。「空」ということで。男であるか女であるかということは重要ではなく、人間としての振る舞いこそが重要だというのです。
ー『法華経』はどのような内容なのですか。
植木
『維摩経』が上座部の高慢な男性出家者を否定する内容だとすれば、『法華経』は高慢な男性出家者も含めて、あらゆる人が成仏できるとして皇帝する内容になっています。
『法華経』とは、「あらゆる人が尊い存在ですよ」と気づかせる経典
ー『法華経』全体の思想について、ご著書の中で「真の自己」に目覚めよ、という教えを何度も強調されています。
植木
色んな仏典で、「無我」が強調されています。「無我」というと「我がない」というように捉えがちですが、『維摩経』を読んでわかるように、「非我」なのです。我に非ず。「何かが我だと思うな、どこかに我があると思うな」と言っているのです。我々はどこかに「我」を設定したいわけです。名利(みょうり)、あるいは財産などの形で、そうではなく、『法華経』はありのままの自己に目覚めなさいと言っています。
私の体験を話しましょう。多くの人たちが人生の中で、自分に行き詰まったりして、自己嫌悪に陥ったりすることがあります。私もそうでした。大学に入って、自分が勉強してきたのは虚栄心のためだったということに気づかされました。自己嫌悪、自信喪失から鬱状態になりました。
そんなとき『法華経』の長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬(たと)えを読んで、ホッとするものがありました。主人公は貧しい男で、自分を卑下(ひげ)する心に囚われている。本当の父親に出会ったときも、恐れて逃げ出します。父親は男のために方便を使い、肥溜めの掃除から始めてだんだんと良い仕事につかせ、最終的には財産管理を任されるようになる。それでも自分を卑下する心は残っている。
父親は、そんな息子に「お前は私の息子だ」と言えるときのために、男の心を徐々に解きほぐしていって、臨終間際になって、真実を伝え、男は自分の真実の姿に目覚めるわけです。「自分は下らない人間だ」と思っていたが、全ての財産が自分のものだったということを知ります。そして、「無上宝聚不求自得(むじょうほうじゅふぐじとく)」と口にします。
これは真の自己への目覚めの物語です。このように、『法華経』というのは、あらゆる人が尊い存在ですよ、と真の自己に気づかせる経典なのです。この貧しい男の姿が、私自身の姿と重なって読めました。
「多様性」という考えに根拠を与える『薬草喩品』の譬え
ー『法華経』の思想を現代に当てはめて考えると、どうなるでしょうか。
植木
現在、「多様性」という観点から「ブラック・ライヴズ・マター」のような様々な人権問題がテーマになっています。「多様性」という考え方に根拠を与えることが大事だと思います。男女の問題や、人種の問題ーそこに普遍的視点を持ち込まない限り、差別はなくならないでしょう。
『法華経』の薬草譬品に「千差万別の植物といえども、同一の大地に根差し、同一成分の雨に潤されている」という譬えがあります。千三万別とは多様性ということですね。ここには「差別(しゃべつ)相(差異。それぞれ違いということ)」と「平和相」の二つの側面を見ることができます。
「差別相」、つまり違いにとらわれると対立になってしまいます。違いは違いとして、それぞれの個性として認め合うためには、「平和相」に立たなくてならない。「平和相」とは例えば、「人間」とか「命」とかということでしょう。肌の色が違おうが、性別が異なろうが、同じ「人間」であり、同じ「命」である。だから平等だ、ということです。薬草の譬えは、「差別相」による対立を超える「平和相」の重要性を教えてくれる。
ー最後に青年僧侶に一言、いただけるでしょうか。
植木
ある宗派の青年僧侶を対象とした講義で、その教団の布教の仕方とは違うことがサンスクリット語版『法華経』に書かれていて、あえて指摘したことがあります。終了後、担当者から、「これからも遠慮しないで指摘して下さい。だれにでも納得できるものでなければ、仏教は若い人たちから見放されてしまします」と言われました。
中村先生は、「漢訳だけを基にすると、勘違いが起こりかねません。サンスクリット原典のあるものは、必ず原典にも当たるように」と常々おっしゃてました。サンスクリット原典から現代語訳した拙訳『法華経』を読んでいただければ幸いです。
