思想として『法華経』を読む—植木雅俊さんが読む『法華経』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】より転記 

出典:https://mag.nhk-book.co.jp/article/13232

■植木雅俊さんによる、『法華経』読み解き

「あなたは尊い存在である」——その、貫かれた「人間観」に迫る。

古くは『源氏物語』から宮沢賢治まで、日本人を魅了し続けてきた法華経。「諸経の王」と呼ばれる経典には、いったい何が書かれているのでしょうか。また仏教の原点に還ることを説く経典に内蔵された、ブッダがほんとうに伝えたかったこととは何なのでしょうか

『NHK「100分de名著」ブックス 法華経』では、「対立」という壁を乗り越えて「平等思想」を説いた法華経が提示する、「分断」がはびこる世界への「融和」という処方箋について、植木雅俊さんが解説していきます。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第1回/全4回)

■思想として『法華経』を読む(はじめに)

 以前、明治学院大学で日本文化論の授業を担当していた先生が急病で倒れ、ピンチヒッターを頼まれたことがありました。主に留学生向けの授業だったため、『きよう』と『ゆいきよう』の一部を英訳して朗読し、解説するという授業を行なったのですが、英訳したことで経典に書かれている内容を理解したのでしょう。授業が終わって日本人の学生が近づいてきて言うのです。「仏教っておもしろいんですね」と。「何だと思っていたの?」と聞くと、「葬式のおまじないかと思っていました」。「違います。仏教の経典は文学であり、詩であり、思想だから、おもしろいですよ」と私が言うと、その学生は感心していました。

 そのとき私は、仏教に関しては日本人はかわいそうな国民だな、と思ったのです。インドではお経の内容はみんな理解できました。しやくそんはマガダ語で教えを説きましたが、弟子たちがサンスクリットに訳して広めた方がよいかと問うと、釈尊は「その必要はない。その地域で語られているめいめいの言葉で語りなさい」と言っていたからです。中国ではそれが漢訳されました。中国語になったわけですから、たとえ字が読めなくても読んで聞かせてもらえばみんな理解できたことでしょう

 ところが日本では、お経は漢訳の音読みという形で広まりました。ですからほとんどの人にとって意味は分からない。六世紀の仏教伝来以来、私たちはその内容を知らずに千五百年ほどを過ごしてきたわけで、これは本当にもったいないことです。お経は現代語訳してもっとみんなに知られるべきだ。私はそう考えました。

その授業に先立つ二〇〇二年、私は「仏教におけるジェンダー平等思想」についての研究で博士号を取得しました。学位論文執筆の過程で、『法華経』のサンスクリット原典、中国魏晋南北朝時代のやつきようそうじゆうによる漢訳とあわせて、岩波文庫から出ていたいわもとゆたかによる和訳を読み比べてみたのですが、岩本訳に多くの疑問を感じました。

 例えば、「てんりんおうたちは、幾千万億の国土をひきつれて来ており」という表現があります。王が「国土引き連れてくる」というのはどういうことなのでしょうか。私はサンスクリット原典に基づいて、「多くの国土から・・やってきた転輪王たち」と翻訳しました。また、釈尊が過去世において仙人の奴隷として仕えた場面は、岩本訳では「寝床に寝ている聖仙の足・・・・を支えた」とありました。仙人というのは、足を他人にがっちりと支えられて、安眠できるのでしょうか。サンスクリット原典を見ると「足」は複数形になっています。実はサンスクリットで複数は三以上のことで、岩本訳では、仙人に足が三本以上あったことになります。しかし、ここは釈尊が四つんいになって、仙人が寝ている寝台の脚・・・・の代わりを担ったという意味なのです。ちなみに鳩摩羅什はこれらをいずれも正しく訳しています

 そこで私は、八年をかけて、サンスクリット原典からの『法華経』の和訳に取り組みました。そうして上梓したのが『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(上下巻、二〇〇八年、岩波書店)です。左ページの上段にサンスクリット原典、同下段に鳩摩羅什による漢訳の書き下し文、右側の頁に私の現代語訳を対照させて並記し、なぜ私の訳になったのかを説明した詳細な注釈を付けました。その後、その本が重厚で持ち歩くには不便なため、ハンディーで「耳で聞いただけで分かる訳を」という要望に応える形で訳文を大幅に見直し、普及版の『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上下巻、二〇一五年、岩波書店)を出しました。

今回はその後に出版した『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』(角川ソフィア文庫、二〇一八年)の訳文を引用しつつ、『法華経』にはいったいどんなことが書いてあるのか、なぜそんなことが書いてあるのかを、皆さんにお話しできればと思います。

 『法華経』は「しよきようの王」と言われます。これは、『法華経』が「かいじようぶつどう」(みな、仏道をじようず)、つまりあらゆる人の成仏を説いていたからです。誰をも差別しないその平等な人間観は、インド、ならびにアジア諸国で古くから評価されてきました。

 日本でも仏教伝来以来、『法華経』は重視されてきました。飛鳥時代、奈良時代を見ても、聖徳太子は『法華経』の注釈書『法華経しよ』(六一五年)を著し、七四一年に創建されたこくぶんでは『法華経』が講じられました。尼寺ですから、女人成仏が説かれた経典として注目されたのでしょう。鎌倉時代に入っても、どうげんが『しようぼうげんぞう』の中で最も多く引用している経典は『法華経』ですし、にちれんは、『法華経』独自の菩薩である「さつ」「じようきよう菩薩」をわが身に引き当て、「法華経の行者」として『法華経』を熱心に読みました。

 『法華経』はまた、文学や芸術にも影響を与えています。『源氏物語』には、八巻から成る『法華経』を朝夕一巻ずつ四日間でレクチャーする「法華八講」の法要が光源氏や藤壺、紫の上などの主催で行なわれる場面が出てきます。『法華経』の教えを分かりやすく説いた説話集や、『法華経』の考え方を根拠にした歌論、俳論も多く書かれていますし、近代では宮沢賢治が『法華経』に傾倒していたことはよく知られています。美術の分野でも、がわとうはくのうえいとくなどの狩野派の絵師たち、ほんこうえつたわらそうたつがたこうりんなど、安土桃山時代から江戸時代のそうそうたる芸術家たちが法華宗を信仰していました。

 『法華経』には、一見すると非常に大げさな、現代人の感覚ではつかみがたい巨大なスケールの話が次から次へと出てきます。しかし、その一つひとつにはすべて意味があります。私は『法華経』をサンスクリット原典から翻訳する中で、その巧みな場面設定に込められた意味、サンスクリット独特のかけことばで表現された意味の多重性、そして、そこに貫かれた平等思想を改めて発見することができましたそうした表現が持つ意味を解説しながら、あらゆる人が成仏できると説いた『法華経』の思想を読み解いていくことにしましょう。

#2 インド仏教史の概要——植木雅俊さんが読む『法華経』

出典:https://mag.nhk-book.co.jp/article/14910

■インド仏教史の概要

 『法華経』は、釈尊(おしやさま)が亡くなって五百年ほど経った頃(一世紀末~三世紀初頭)に、インド北西部でへんさんされたと考えられています。『法華経』の説く思想は、この時代、特に当時の仏教界が直面していた課題と密接に関係しています。そこで、まずはインド仏教史の概略からお話しすることにしましょう。これを知っておくと、『法華経』という経典の位置づけが分かり、内容もより理解しやすくなります。

 最初は原始仏教の時代です。原始仏教とは初期仏教とも言い、釈尊在世(なかむらはじめ先生によると、前四六三~前三八三)の頃、および直弟子たちがまだ生きている頃の仏教を指します。

 紀元前三世紀頃、インド亜大陸をほぼ統一したアショーカ王の命により、息子(あるいは弟)のマヒンダによってセイロン(現スリランカ)に仏教が伝えられました。アショーカ王の妻の出身地が西インドで、マヒンダはそこで話されていたパーリ語の仏典をセイロンに伝えたため、ここにパーリ語で原始仏教が保存されることになりました。釈尊の生の言葉に近いものが残ったわけで、これは後世の我々にとって本当に幸運なことでした。

 釈尊滅後百年ほどが経った頃、紀元前三世紀に第二回仏典けつじゆうが行なわれ、そこで仏教教団は保守的なじようと進歩的なだいしゆに分裂します(根本分裂)。
それがさらに枝分かれし、二十の部派にまで広がります(まつ分裂)。その中で最も有力だったのが、せついつさいという部派です。権威主義的で資金も豊富であり、後に「しようじよう仏教」と批判されるのはこの部派のことを指します。小乗仏教という言葉は、一般的にはだいじよう仏教以外の仏教すべてというようなかなりあいまいな使われ方がされていますがりゆうじゆの著とされる『だいろん』によると、厳密にはこの説一切有部のことです以下、本書で小乗仏教と言う場合は、この説一切有部のことを指します。

 こうして、紀元前三世紀末頃までに、仏教は説一切有部を最有力とする部派仏教の時代に入りました。

<参考情報>

出典:http://www5.plala.or.jp/endo_l/bukyo/bukyoframe.html

そして前二世紀頃、「さとりが確定した人」を意味する「菩薩」の概念が現れます。これは覚りを得る前、ブッダになる前の釈尊を意味するものとして、小乗仏教が発明した言葉です。釈尊滅後、その言動を記したさまざまな仏伝が書かれるようになりますが、「あれだけ偉大な釈尊なのだから、過去にはきっと遙かな長い時間をかけて修行されたに違いない」という思いから、長い修行のある時点で、ねんとうぶつ(ディーパンカラ)という仏が「あなたは将来、仏になるだろう」と釈尊に予言(じゆ)した、という物語が作られました。そこで、仏になることは確定したが、まだ仏になっていない状態の釈尊を何と呼ぶかということで、覚り(bodhiボーデイ)と人(sattvaサツトヴア)をつなげてbodhiボーデイsattvaサツトヴアだいさつ、略して菩薩)とし、「覚りが確定した・・・・・人」という意味の言葉ができたのです。

 これに対して、紀元前後頃、菩薩という言葉の意味を塗り替える動きが興おこります。すなわち、bodhi-sattvaを「覚り(bodhi)を求める・・・・人(sattva)」と読み替え、覚りを求める人は誰でも菩薩であると考える大乗仏教が興ったのです。小乗仏教では菩薩と呼べる存在は釈尊と未来仏の弥み勒ろく(マイトレーヤ)だけでした。それをあらゆる人に解放したのです

 しかし、大乗仏教が興ったからと言って小乗仏教がなくなったわけではありません。勢力としてはむしろ小乗仏教の方が大きく、大乗仏教の方はまだ小さな勢力でした。こうした大小併存の時代の中で、まず、大乗仏教の側から小乗仏教の出家者たちを痛烈に批判するはんにやきよう』が成立しますそして紀元一~二世紀頃には、保守的で権威主義的な部派仏教を糾弾する『維摩経』が成立しました。

 こうした流れに対し、紀元一~三世紀頃、小乗と大乗の対立をよう(アウフヘーベン)する、つまり対立を対立のままで終わらせず、両者を融合させてすべてを救うことを主張するお経が成立しました。それが『法華経』なのです。

釈尊滅後の仏教の変容

 このように、仏教は釈尊滅後五百年の間に大きく変容しました。何がどう変わったのか、具体的なポイントを五つ指摘しておきます。

①修行の困難さの強調と釈尊の神格化

 原始仏教の経典『スッタニパータ』では、覚りは「まのあたり即時に実現され、時を要しない法」とされていました。生まれ変わって長年修行する必要などなく、〝今〟と〝ここ〟でこの〝我が身〟を離れることなく、あなたは覚ることができます、というそくしん成仏、いつしよう成仏が説かれていました。

ところが部派仏教の時代になるとりやつこうしゆぎよう」という言葉が出てきます。「劫」というのは天文学的に長い時間の単位のことで、非常に長い時間をかけて修行をしてやっとブッダになれることを意味する言葉ですその長さは具体的には「さんそうこう」とされ、これは現代の数字に換算すると、私が計算したところでは3×10(の59乗)×10(の24乗)年、すなわち3のあとに0が八十三個続くという膨大な年数でした(植木雅俊・橋爪大三郎著『ほんとうの法華経』三一〇頁参照)。そんな、想像を絶するような長い時間をかけて修行したからこそ、釈尊は仏になれたのだと神格化したのです。さらに、釈尊を祭り上げることによって、自分たち出家者を、それに次ぐ者として権威づけたのです

釈尊の位置づけの変化

 原始仏教の経典を読むと、釈尊自身が「私は人間である」「皆さんのぜんしき(善き友)である」と言っています。「ブッダ」はサンスクリットで「目覚めた」という意味の言葉ですが、原始仏教の経典では複数形でも出てきますつまり、ブッダは釈尊だけではなかったのです。また弟子たちも、釈尊に「ゴータマさん」と気軽に呼びかけ、「真の人間である目覚めた人」とも呼んでいました。そこにあるのは人間としてのブッダ=釈尊の姿です。

 ところが、説一切有部の論書ではそれが「私は人間ではない、ブッダである」という言葉に変わります。部派仏教においては、釈尊は三十二相という特徴を持つとされます。例えばけんびやくごうそう(眉間に白い巻き毛がある)、しゆそくまんもうそう(手足の指を広げると指の間に水かきがある)、しようりつしゆしつそう(気をつけの姿勢で指先が膝より下まで届く)などで、そうやって釈尊を人間離れした存在に祭り上げたのです。また、説一切有部の論書には「私を長老やゴータマなどと呼ぶやからは激しい苦しみを受けるであろう」という言葉を、釈尊が語ったかのようにして書き足しています。説一切有部が「菩薩」という言葉を発明し、それを釈尊に限定したのは、さきほど説明した通りです。

③覚りを得られる人の範囲

 原始仏教では、出家・在家、男女の別なく覚りを得ていました。釈尊が初めて教えを説いたときのことが、「そのときじつに世に五人の尊敬されるべき人(かん)あり、世尊を第六とする」と記されています。阿羅漢とはサンスクリットのarhatアルハツトの音写で、もともとはブッダの別称でした。ですからこの五人は覚りを得たということです。そして六番目が世尊、つまり釈尊だと言っている。しかも覚りの内容は、釈尊の場合も五人の場合も同じ表現で書かれています。

 また原始仏典には、在家のままで聖者の最高の境地に達した王について、森林に住んで精励する必要はなかったという記述も見られますそして、女性ももちろん覚りを得ていました。弟子のなん(アーナンダ)が釈尊に「女性は阿羅漢に到ることができないのですか」と聞いたとき、釈尊は「女性も阿羅漢に到ることができます」と答えています。女性出家者の体験を綴った詩集、拙訳『テーリー・ガーター 尼僧たちのいのちの讃歌』(角川選書、二〇一七年)を読むと、女性出家者たちが「私は覚りました」「ブッダの教えをなし遂げました」「私はだつしました」と口々に語っています。

 ところが部派仏教になると、ブッダに到ることができるのは釈尊一人だけということにされてしまいます出家者も阿羅漢にまでしか到ることができないとして、ここで阿羅漢のランクをブッダより一つ下げるという操作がなされます。もともとはブッダも阿羅漢も同列でしたが、阿羅漢をワンランク下げることで、「出家者はブッダに到ることはできないが、阿羅漢にまでは到ることができる」としたのです。そして、在家者は阿羅漢に到ることもできないし、女性は穢けがれていて成仏もできないとされました。これは、小乗仏教の差別思想でした。

④仏弟子の範囲

 原始仏教では、出家・在家、男女の別なく「ぶつ」と呼ばれていました。原始仏典には、「そなえた聖なる仏弟子であるざいしや」というような表現までありました。「在家者」にかかる修飾語が、「智慧を具えた聖なる仏弟子」なのです。ここは、「道を汚す」出家者と比較して論じられていることに注目すべきです。

 ところが部派仏教では、在家者と女性を仏弟子の範はん疇ちゆうから除外します説一切有部では、その地域で話されている言葉に代えて、いち早くサンスクリットを使い始めましたパーリ語で書かれた原始仏典には、男性出家者、男性在家者、女性出家者、女性在家者のそれぞれに対応して「仏弟子」というパーリ語が存在していましたがサンスクリットに切り替えられると、男性出家者以外で「仏弟子」を意味する単語はなくなりました。つまり、仏弟子を男性出家者に限定して、在家者と女性を排除してしまったのです

 皆さんは「釈尊の十大弟子」という言葉をご存じでしょうか。仏弟子の中でも代表的な弟子のことで、智慧第一のしやほつ(シャーリプトラ)、もん第一の阿難などがよく知られています。原始仏教では女性の智慧第一や説法第一もいて、女性も在家も平等に代表的仏弟子として数えられていましたが小乗仏教では男性出家者に限定されてしまいます

⑤釈尊の〝遺言〟

 原始仏典では、死期が近くなった釈尊を見て不安になった阿難が、これから何をたよりにすればいいのかと問うたところ、釈尊は「今でも」「私の死後にでも」「誰でも」と前置きし、「自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法をよりどころとして、他のものによることなかれ」と語りました(ほう)。それが〝遺言〟でした。成仏、すなわち覚りを得るというのは、真の自己に目覚めることであり、法に目覚めることです。そこに最高の境地が開けると釈尊は言っていたのです。

 ところが部派仏教になると、それがストゥーパ()信仰に変わりますストゥーパ、つまり釈尊の遺骨(ぶつしや)を収めた塔への信仰に変質したのです。また、聖地信仰も興ります。これは、①釈尊が誕生した場所、②覚りを得た場所、③初めて教えを説いた場所、④はんの場所の四つをアショーカ王が巡礼し、石柱を立てたことに始まるのですが、それが徐々に定着し、そこを訪れることが信仰であるかのようになってしまいました。「自己」と「法」を尊重することから逸脱してしまったのです

<参考情報>

インドにおける仏教の発展と衰退

【発展

・マウリヤ朝のアショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)が出て、インド全体をほぼ統一し、古くからのバラモン教的遺制を除去するために、仏教を保護し、その布教に尽力した

それによって仏教は国教ともいうべき地位を占め、インド全体に広まった

アショーカ王は、仏教の普及と人々の幸福を追求するため法(ダルマ)に基づく政策を推進した

※アショーカ王の柱には下記のような碑文(道徳的訓戒に近い)

  • 生き物を大切にし無駄に殺さないこと
  • 宗教対立しないこと
  • 親の言うことを良く聞くこと
  • 年上は敬うこと
  • 礼儀正しくすること
  • 嘘をつかないこと
  • 僧侶や精神的探求者に敬意を払うこと
  • 弱い者イジメしないこと

出典:https://jp.mangalamnepal.com/2020/08/Ashoka-the-Great.html

【法(ダルマ)について

ダルマは仏教の中心的概念であり、私達の信仰と人生に大きな影響を与える

  1. 仏陀の教え:
    • ダルマはブッダ(釈尊)の教えを指す
  2. 真理と法則:
    • サンスクリット語の「dharma」は「保つこと」「支えること」を意味し、それにより「法則」「正義」「真理」「最高の実在」「宗教的真理」の意味にもなる
    • ダルマは、人生と宇宙の法則を示し、私たちが歩むべき道を指します。
  3. 浄土真宗の視点:
    • 浄土真宗では、ダルマは阿弥陀如来のご本願であり、私たちが歩むべき道を示しています。
    • 阿弥陀如来の慈悲に包まれ、念仏を称えることで、私達は如来の智慧の光に照らされて、安らぎを得ることができるとの視点。                           (注)中国の善導大師(613年~681年):称名念仏を中心として浄土思想を確立した。特に「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏を広め、浄土の荘厳を絵図にして教化し、庶民の教化に専念し、『観経疏』等の著作を通じて、浄土宗(法然上人:1133年~1212年)や浄土真宗(親鸞:1173年~1262年)に多大な影響を与えた。

 尚、同王は他の諸宗教も援助した。

出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~②普遍的国家への建設と十七条憲法~中村元著より転記

 しかも、部派仏教は信徒たちに莫大な布施を要求するようになります。当時、インドではローマ帝国との交易が始まり、しようなどの取引によって大量の金貨が流入し、大きな利益を手にする人たちが出てきていました。部派仏教の信徒の中にもそうした人たちが現れ、教団に布施をするわけです。しかも大地主がしようえんを寄進したりもしますから、教団には土地もたくさんある。ただ、出家者は現金に手を触れてはいけないというかいりつがありました。そこで彼らは在家者の財産管理人を雇い、その人たちに利子を取って貸付を行なわせました。釈尊は、利子を取って貸付することを在家者には許していましたが、出家者には許していませんでした説一切有部は、自分たちの行ないを正当化するために戒律を書き加えますそうぎや(教団)のためには利潤を求むべし」(『こんぽんせついつさい』)。これを釈尊が語ったかのように書き加えたのです

このように、説一切有部は自分たちに都合の悪いところは仏典から削除し、都合のいいことを書き加えるという改かい竄ざんを行なっていました当時の部派仏教の様子を、私が多大な学恩をこうむった仏教学者の中村元先生は次のようにまとめています。

伝統的保守的仏教諸派は確固たる社会的勢力をもち、莫大な財産に依拠し、ひとりみずから身を高く持し、みずから身をきよしとしていたために、その態度はいきおい独善的高踏的であった。彼らは人里離れた地域にある巨大な僧院の内部に居住し、静かに瞑想し、坐禅を修し、煩瑣な教理研究に従事していた。自分自身だけの解脱、すなわち完全な修行者(阿羅漢)の状態に達してニルヴァーナ(涅槃)にはいることをめざし、そうして彼岸の世界に最高の福祉を求め、生前においては完全な状態には到達しえないという。こういう理想を追求する生活は、ただ選ばれた少数者だけが修行僧(ビク)としての生活を送ることによってのみ可能である。 (『古代インド』二七六~二七七頁)

彼らは「自分自身だけの解脱」を目指し、民衆のことなど考えてはいなかったのです

#3 大乗仏教の対応と『法華経』の成立

出典:https://mag.nhk-book.co.jp/article/14922

そうした状況の中で、大乗仏教が興ります。大乗仏教は、以前は小乗教団の外側で興ったと考えられていましたが、現在では小乗教団の内部から、改革派として興ったとする説が有力です。

 さきほど述べたように、大乗仏教はまず「菩薩」をあらゆる人に解放しました。bodhi-sattvaを「覚りが確定した人」から「覚りを求める人」に読み替え、あらゆる人が成仏できると主張したのですしかし、彼らはそこに二つだけ例外を作りました。「しようもん」と「どつかく」の二つ(じよう)です。

「声聞」とは師についてその教えを聞いて学ぶ人のことで、もともとは仏弟子一般を表す言葉でした。ところが小乗仏教では、これを小乗仏教の男性出家者に限定したことから、大乗仏教では小乗仏教を批判する言葉として用いるようになります

「独覚」とは師につかず単独で覚りを目指す(または開いた)小乗仏教における出家者のことです大乗仏教では、これら小乗仏教の出家者は仏になれないとしていましたじょうぶつこれは、大乗側の差別思想でした

大乗仏教では声聞と独覚を「れる」と呼んでいます。植物の種をフライパンで炒ったら、もうその種から芽が出ることはありません。そのようなたとえで、これら二乗には永久に成仏の芽は出ないと批判したのです。

 このように、小乗には小乗の、大乗には大乗の差別思想がありました。そこで、両者の差別思想と対立を克服し、普遍的平等思想を打ち出すという課題を受けて成立したのが法華経なのです

『法華経』では、当時の仏教界に対する批判的な主張が、直接的な形でなされているわけではありません。場面設定の仕方、登場人物の選び方など間接的な表現で皮肉や批判が、だまし絵のように散りばめられています。それに気づかなければ、「この経典にはなんだか不思議なことがいっぱい書いてある」と思うだけで、サラッと素通りして読み終えてしまうことでしょう。

 現に江戸時代の町人学者・とみながなかもとなどは「法華経はほめる言葉ばかりで中身が何もない」と言っています。しかし、当時の時代背景を踏まえて注意深く読めば、そこには当時の仏教界への批判と反省の主張が巧みに散りばめられていることが分かります。

 そして何より、『法華経』に一貫しているのは「原始仏教の原点に還かえれ」という主張です「今の仏教は本来の仏教とは違う」という考えから、小乗・大乗それぞれの問題点を浮き彫りにし、それを乗り越えようとして生み出されたのが『法華経』なのです。

『法華経』の構成

 長い間、『法華経』のサンスクリット原典の写本は残っていないだろうと考えられてきました。一二〇三年のイスラム教徒によるヴィクラマシラー寺院の破壊をもって、インドの仏教徒は実質的にゼロ(現在でも全人口の〇・八%)になったため、それ以降、経典が書写されることはなかったでしょう。また、雨季のモンスーンがもたらす雨で、一面が水浸しになるインドでは、しゆの葉に書かれた写本は腐食してしまうため、残ることは困難です。

 ところが一八三七年、東インド会社の駐在公使としてネパールに赴任したブライアン・H・ホジソンというイギリス人が、そこでサンスクリットの『法華経』写本を発見します。ネパールではまだ書写が行なわれていたのです。その写本を、オランダ人の仏教学者J・H・C・ケルンとなんじようぶんゆうが校訂し、一九〇八~一二年にかけて出版されました。これが「ケルン・南条本」と呼ばれるもので、私もこれを基に現代語訳を行ないました。

 ここで『法華経』の構成を紹介します。表を掲げておきました。『法華経』は釈尊滅後五百年頃に編纂されたものですが、釈尊が弟子に教えを説いて聞かせるという体裁をとっています。表の左の列にある通り、釈尊が教えを説いた場所は、はじめはりようじゆせんという山です。これは実際にインドにある低い山です。第十一章から空中(くう)に移り、最後にまた霊鷲山に戻ってきます。

表の真ん中の列がサンスクリット原典(ケルン・南条本)の章立て、右の列が漢訳の鳩摩羅什訳の章立てです。見ていただくと分かる通り、第十一章の途中から両者で章立てが変わってきます。これは、漢訳の「だいだつぼん第十二」にあたる箇所があとから追加され、それを第十一章の続きとするか、単独の章として入れるかで違いが出たためです。

 また、サンスクリット原典で第二十七章になっている「ぞく」は、漢訳では「ぞくるいぼん第二十二」となっています。『法華経』の原型は「嘱累品第二十二」で終わっていたようですが、後になって「ほん第二十六(第二十一章)」「やくおうさつほんぼん第二十三(第二十二章)」などの六つの章がそれに続けて追加され、鳩摩羅什はその形式の写本から漢訳しました。その後、経典における「嘱累品」は通常は経典の最後に来るものだという理由から、追加された六つの章の後ろに移されて、最後の第二十七章になりました。このような事情により、章(ほん)の数字が前後しています。

 本書における『法華経』の引用は拙訳によりますが、章名はよく知られた漢訳名を用い、例えば「第十五章『如来寿量品』(第十六)」というように、漢訳の品の番号を( )内に記すことにします。

 後半に追加された六つの章について補足すると、実はこれらは、『法華経』本来の内容とは異質のものです。より庶民受けを狙って、現世利益や神がかり的な救済が説かれている。私としては、ない方がよかったのではないか、と思うくらいの箇所もあります。

当時の仏教界の様子を描く

 それでは、いよいよ内容に入っていきましょう。

 まずは第一章「じよぼん」(第一)です。序品は次のような言葉で始まります。

 このように私は聞いた。ある時、そんは、千二百人の男性出家者の大集団とともに、おうしやじよう(ラージャグリハ)の霊鷲山(グリドラクータ山)で過ごしておられた。 (著者訳『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』二五頁)

 仏教のあらゆる経典は、「このように私は聞いた(によもん)」という一文で始まります。これは、釈尊が亡くなったあと弟子たちが教えを確認しあう仏典結集を行なった際、釈尊に常に随行していたもん第一の阿難が、まず「私はこのように聞きました」と切り出して、自分が覚えている釈尊の教えを語ったことから定着した形式です。千二百人の弟子と一緒だったというのも多くの経典に共通した書き出しで、数字は千二百五十人とするのが一般的です。

 続けて、主な弟子たちの名前が列挙されます。舎利弗、阿難などよく知られた仏弟子たちのほか、じやだい(マハー・プラジャーパティー)、しゆ(ヤショーダラー)などの女性たちもそれぞれ女性出家者を何千人と伴って参列しています。加えて、八万人の菩薩、二万の神々の子に伴われたたいしやくてん(シャクラ神)、三万の神々の子に伴われた四天王、一万二千人の神々の子に伴われた梵天ぼんてん(ブラフマー神)、てんりゆうはちしゆう)などが参列しているとされ、拙訳『サンスクリット原典現代語訳 法華経』で数えると実に四ページ半にわたって長々と参列者の名前が列挙されます。そんな経典はほかにはありません。なぜ『法華経』にはこれほど多くの名前が列挙されているのでしょうか。それはおそらく、『法華経』があらゆる人の成仏を説く経典であることの象徴として、あらゆる階層の人々を列挙したからでしょう。

 参列者たちの列挙が終わると、六つのずいそう(めでたいことが起こる前兆)が出現します。まずはせつぽうずいです。釈尊が「広大なる菩薩のための教えであり、すべてのブッダが把握している〝大いなる教説〟(りよう)という名前の法門である経」を説きます。「広大なる(……)把握している」は、『法華経』を修飾する決まり文句です。つまり、釈尊が『法華経』を説いたということです。

ところが、釈尊がいきなり『法華経』のエッセンスを説き始めたものですから、参列者たちは理解できなかったのでしょう。釈尊は「これはまだ早かった」と言わんばかりに、瞑想(さんまい)に入ってしまいます。これがにゆうじようずいです。

 そしてずいまんなどの花が天から降ってくる)、どうずい(大地が震動する)、しゆずい(すべての人々が大いなる歓喜を得る)が起こり、さらには、釈尊の眉間の巻き毛の塊(びやくごう)から光が放たれ、東方の一万八千のブッダの国土を照らし出しました(ほうこうずい)。そこには、譬喩や因縁によって説法するブッダたちがいたり、ストゥーパ信仰が盛んであったり、花や香や演奏でストゥーパに供養する人々がいたり、ろくみつを修行する人々がいたり、人けのない荒野、あるいは岩の洞穴に住む人々がいたりなど、さまざまな仏道修行をする人たちの様子が浮かび上がりました。

 この、さまざまな仏道修行をする人たちの様子は何を意味するのでしょうか。これは、『法華経』が編纂された当時の仏教界の現状を要約したものであると解釈するとよいでしょう。これから『法華経』を語るにあたって、仏教界の現状はこうですよ、と改めて示したわけです。照らし出した方角がなぜ東方だったのかと言えば、『法華経』が編纂されたのはガンダーラを含む西北インドであり、そこからブッダガヤーや鹿ろくおんを見ると東になるからです。仏教の原点である東の方を照らし出して、「仏教界の現状はこうです」と示した

<参考情報>

出典:https://sekainorekisi.com/glossary/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A9%E7%BE%8E%E8%A1%93/https://sekainorekisi.com/glossary/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A9%E7%BE%8E%E8%A1%93/

『法華経』を聞く心構えができる

 この六つの驚くべき瑞相を見て、参列者はみな驚きました。「こんなことは見たことがない」「お前はどう思うか」とザワザワする。弥勒菩薩は人々の思いを察知して、自分も疑問を抱いていたので、弥勒菩薩がみんなを代表してもんじゆ(マンジュシリー)菩薩にこの瑞相の意味を尋ねます。文殊師利菩薩は多くのブッダのもとで修行をしてきていますから、その意味が分かるに違いないと思ったのです。

 すると文殊師利菩薩は、自分はこのような瑞相をかつて何度も見たことがある、今まで「にちがつとうみようによらい」という共通の名を持つ二万人の仏たちがいて、彼らすべてがこうした瑞相を見せたあとに必ず『法華経』を説かれた、という話をします。二万人の仏たちがみな『法華経』を説いたというのは、『法華経』はセクト的なものではなく、あらゆるブッダにとって普遍的な真理が説かれている経典であり、誰でも成仏できると説いている教えだという点を強調しているのだととらえればよいでしょう。

 ここで注目したいのは、その後、文殊師利菩薩が弥勒菩薩について痛烈な皮肉を述べている点です。弥勒菩薩は、釈尊が亡くなって五十六億七千万年後に、釈尊と入れ替わってブッダになるとされる輝かしい存在です。その人のことを文殊師利菩薩は、「人々に知れわたることを重んじていて、名声を求める者(みよう)」「怠け者」だと言うのです。当時は部派仏教においても大乗仏教においても、弥勒菩薩待望論が起こっていました。釈尊はもういない、次は弥勒菩薩だ、というわけです。しかし、弥勒菩薩はイランのミトラ神を仏教に取り込んだ架空の人物ですそこで、歴史上の人物である釈尊をないがしろにすることに批判的な経典として『維摩経』などが作られました。『法華経』もそうでした

 こうして文殊師利菩薩の話により、釈尊が説こうとしている『法華経』の教えを聞く心構えが参列者たちの間にできあがりました。釈尊がそうさせたのではなく、釈尊が瞑想に入っている間に、弟子たちが自らその心構えを作り上げたというところがポイントです。

#4 弟子たちを突き放す

出典:https://mag.nhk-book.co.jp/article/14940

「序品」を受けて、第二章「ほう便べんぼん」(第二)が始まります。

その時、世尊はしっかりとした意識をもって三昧(瞑想)から立ち上がると、シャーリプトラ(舎利弗)に話しかけられた。

 「シャーリプトラよ、ブッダのは、深遠で、見難く、知り難いもので、一切の声聞や、独覚によっても理解し難いものである。によらいたちが深い意味を込めて語られたことは、理解し難いのである。如来たちは、種々の巧みなる方ほう便べんによって、ものごとに執着する衆しゆ生じようを解放するために、自らの確信する諸もろ々もろの法を説き示すからだ」 (同前、三七頁)

ここで釈尊は、まず、小乗仏教の声聞や独覚にはブッダの智慧は理解できないと突っぱねています。これよりあとには、大乗仏教の菩薩すらもそれを理解できないという言葉も出てきます。つまり、声聞、独覚、菩薩のすべてを否定しているわけですが、最終的にはその三つすべてが肯定されることになります。これが「方便品」です。

 続けて、釈尊は何のためにこの世に出現したかを語ります。

 「シャーリプトラよ、如来は、ただ一つの仕事のため、ただ一つのなすべきことのため、大きな仕事のため、大きななすべきことのためにけんに出現するのである。如来は、衆生を如来のけんによってきようすること、すなわち衆生に如来の知見を開示し、衆生を如来の知見に入らせ、衆生に如来の知見を覚らせ、衆生を如来の知見のみちに入らせるという理由と目的で世間に出現するのだ」 (同前、四〇頁)

 こう前置きして釈尊は、衆生に如来の知見を開き、示し、覚らせ、入らせるという如来の出現の四つの理由と目的を語ります。これは究極的には、「一切衆生を成仏させること」に集約されます。

そして釈尊は、衆生がブッダに到るための「乗り物」について説きます。乗り物とは、それに乗れば目的地に到達させてくれるもの、つまり教えの譬えです。

 「私はただ一つの乗り物いちじよう)、すなわちブッダに到る乗り物ぶつじようについて衆生に法を説くのだ。そのほかに何か第二、あるいは第三の乗り物が存在するのではない。(中略)その如来たちのすべても、衆生にただ一つの乗り物すなわち、一切知者の智慧いつさいしゆを終着点とするブッダに到る唯一の乗り物一仏乗について法を説いたのである (同前、四〇~四一頁)

これが『法華経の主張するいちぶつじようです。つまり、今までは声聞のための乗り物、独覚果に到る乗り物、菩薩のための乗り物という三つの乗り物が説かれていたが、私が本当に説きたいのはブッダに到るただ一つの乗り物だ、というわけです。

三乗は一仏乗を説くための方便

 そして、ここまできて釈尊は、声聞・独覚・菩薩の三種の乗り物(三乗)を説いたのは、一仏乗に導くための方便だったと明かすのです。

 「私が、このように三つの乗り物を説くということは、私の巧みなる方便である。しかし、乗り物はただ一つであり、真実もまたただ一つであって、指導者たちのこの教えもまたただ一つなのだ (同前、四三頁)

すべての仏にとって、あらゆる衆生を成仏させることが究極の目的なのだから、声聞・独覚・菩薩を区別するのは方便であり、ブッダから見れば人間は平等であるということです。そして釈尊は、「私は最高の覚りに向けて教化するのであり、私にとって、この世に声聞〔と言われる人〕は誰一人として存在しないのだ」と告げます。声聞といっても、それはあなたたちが勝手に決めつけてそう思い込んでいるだけでしょう、私から見ればそんなものは存在しませんよ──ということです。

パラドクシカルな肯定による融合

 さて、ここには重要なことが書いてあります。部派仏教の人たちには、「所詮、私は二乗だ」という先入観があります。二乗とは声聞と独覚であり、菩薩ではありません。だから「どうせ私は成仏できない。阿羅漢どまりだ」という卑下がある釈尊はその人たちの心を解きほぐし、「あなたは声聞ではありませんよ、あなたは既に菩薩ですよ」と言っているのですその一方で大乗仏教の人たちは、小乗仏教の人たちは二乗だから成仏できないと思っているその人たちに対しても釈尊は、「あの人たちが菩薩であることを理解しなさい」と言っています

 ところが、声聞に向けて言っていることも、菩薩に向けて言っていることも、当時の人たちにとっては理解しがたかったことでしょう。自分たちの主張や信仰とは逆のことを、釈尊が言っているからですだから釈尊は、最初にあなたたちには理解できない」と言っていたのです。しかし、これは否定の言葉ではありません。

 例えば、「あなたは無知だ」と言われたらカチンとくる人は多いでしょう。自分が否定されていると感じます。でも、「あなたがいかに素晴らしい能力と才能を持っているかについてあなたは無知だ」と言われたらどうでしょうか。肯定されていると感じますよね。ここはそういうことなのです。「あなたには自分が菩薩であることが理解できないのだ」という言い方で、聞き手をパラドクシカルに肯定しているのです

 『法華経はあらゆる人の成仏を可能とする一仏乗こそが真実の教えであり声聞・独覚の二乗に菩薩を加えた三乗の教えはすべて方便だとしましたこうして三乗を融合させ、統一したのですこうして原始仏教で説かれていた平等思想を回復し、差別を取り払ったわけです。二乗に菩薩の自覚をもたらし、大乗の人々には「二乗もまた菩薩」であることを受け入れさせて、声聞、独覚、菩薩の違いはあなたたちの思い込みに過ぎず、人間の平等を理解してこそ〝真の菩薩〟なのだと説いているのです

「菩薩のための教え」という掛詞

  次が第三章「ぼん」(第三)です。舎利弗は先の方便品で釈尊の説法を聞き、「世尊よ、世尊の間近で今、このような言葉を聞いて、私は不思議で驚くべき思いに満たされ、大いなる歓喜を得ました」と告げます。なぜかと言えば、自分は今まで「如来の知見から落伍」していて成仏できないと思っていたからだと言うのです。

 それに対し釈尊は、「シャーリプトラ(舎利弗)よ、あなたは長い歳月にわたって、私から学んだのであ」るが、「私がかつて菩薩であった時に加えた不思議な力()によって(中略)、あなたが菩薩であるという秘密を思い出すことがないのだ」と語ります。

 舎利弗は自分が菩薩であることを忘れてしまっている、そう釈尊は言うのです。これは、単にあなたは菩薩だと告げるのではなく、なぜ現在自分はそうではないと思っているかを過去から意義づけようとする手法です。

そして釈尊は言います。

「私は、あなたが過去において修行したこと、誓願したこと、知を覚知したことをあなたに思い出させることを欲していて、私は、この広大なる菩薩のための教えであり、すべてのブッダが把握している〝びやくれんのように最も勝れた正しい教え〟(みようほうれんという経しようもんたちに説き明かすのである」 (同前、五六~五七頁)

 妙法蓮華〕」は『法華経の正式名称です。ここで注目したいのは、「この広大なる菩薩のため・・・・・の教え」を「声聞たちに・・・・・説き明かす」という文章です。菩薩のための教えを菩薩ではなく声聞に説くというのは、一見するとおかしい。しかしここが重要なのです。「菩薩のための教え」(bodhisattva-avavādaボーデイサツトヴア・アヴアヴアーダ)はbodhisattva(菩薩)とavavāda(教え)の複合語になっています。このつなぎを私は「のための」と訳しました。ここは掛詞なのです。「菩薩のための教え」には、①声聞に菩薩の自覚を持たせるための教え(声聞に説く)、②菩薩を〝真の菩薩〟たらしめるための教え(菩薩に説く)──という二重の意味が込められています。こうした表現を用いることで、声聞・独覚・菩薩をすべて融合させ、その対立を乗り越えようとしているのです。

三車火宅の譬え

 こう言われて舎利弗は過去を思い出し、菩薩の自覚に立ったのでしょう。彼は釈尊の言葉に納得し、ここで舎利弗に対して授記がなされます。授記とは、いつ、どこで、何という名前の如来になるかという成仏の予言です。原始仏教では成仏は即時にできるとされていましたが、ここでは小乗仏教の人たちが理解しやすいように、さきほど紹介した通り、彼らが信じ、理解していた燃燈仏による釈尊への授記の形式にのつとって説明した、と理解すればよいと思います。天文学的な時間を経た後に成仏するだろうという表現は、燃燈仏による釈尊への授記そのままです。

 ところがこの段階で、釈尊の説法を理解したのは舎利弗一人だけです。ほかの人たちはよく分からずポカンとしている。それを察した舎利弗が、「すみません、私は分かりましたがほかの人が理解していないので、彼らにも分かるように説いてください」と釈尊に願い出ました。そこで説かれたのが、「さんしやたくの譬え」です。

 ある資産家が豪邸に住んでいました。その家の中で子どもたちが遊んでいたとき、家が火事になりました。資産家自身は無事に脱出できたのですが、子どもたちはまだ家の中にいます。火事がいかに危険なものかを知らないため、父親がいくら外から「火事だよ、逃げなさい」と言っても遊びに夢中になって耳を貸そうとしないのです。

 さて、どうするか。「そうだ、息子たちが日頃から欲しがっていたものがあった。おもちゃの鹿の車と、羊の車と、牛の車だ」と資産家は思い出し、それらをあげるから外に出てくるようにと言います。すると子どもたちはわれ先にと飛び出してきました。そして「お父さん、さっき言っていたおもちゃの車をください」と言ったところ、資産家はおもちゃではなく、本物の立派な牛の車を子どもたちに与えました──「三車火宅の譬え」はそんな話です。

 火事になった家は苦しみに満ちた現実世界を意味しています。同様に、遊びに夢中になっている子どもたちは刹那主義的な生き方でろくどうりんしている衆生資産家は如来、おもちゃの鹿の車・羊の車・牛の車はそれぞれ、声聞乗・独覚乗・菩薩乗、そして本物の牛の車(だいびやくしや)は一仏乗の譬喩です。

釈尊は続けて言います。

 「シャーリプトラよ、その資産家は、腕力が強いのに腕力を差し置いて、巧みなる方便によってそれらの子どもたちを、その燃え上がる家から脱出させ、その後に、子どもたちに大いなる乗り物を与えた。まさにそのように、如来もまた、如来の智慧の力と、四つのおそれなきことをそなえているのに、それを差し置いて、巧みなる方便という智慧によって、この三界から衆生を脱出させるために、三つの乗り物、すなわち声聞のための乗り物(声聞乗)、独覚果に到る乗り物(独覚乗)、菩薩のための乗り物(菩薩乗)を示されるのである」 (同前、六一頁)

資産家は自分で子どもたちを抱えて連れ出そうと思えばできた。でも、そうはしなかった。ここに仏教の特質が出ていると思います相手が納得していないのに強引に外に連れ出すのではなく、子どもたちが自分で自覚し、自分たちの意志で脱け出してくることを尊重しているのですつまりここで釈尊は、超能力や神がかり的な救済を説いたのではなく、方便など言葉を駆使して、子どもたちの自覚的行動を促しているのです。

 「三車火宅の譬え」の意味することを表にしてみました。声聞乗と独覚乗の目的地はブッダではありません。ブッダを目的地にしているのは、菩薩乗と一仏乗です。目的地が同じであるということでは、両者は似ています。ただし、前者は二乗を除外して菩薩しか乗れない、大乗の差別思想を残している後者は二乗を除外することなくあらゆる人を目的地のブッダに到らせることができる。その違いが、「玩具の牛の車」と「本物の牛の車」で表現されています。菩薩乗が、声聞乗や独覚乗と同じく玩具とされたのは三乗がいずれも差別思想を残しているからなのです

著者

植木雅俊(うえき・まさとし)

九州大学理学部物理学科卒業、同大学院理学研究科修士課程修了。東洋大学大学院文学研究科博士後期課程中退。1991年から東方学院で中村元に師事し、2002年にお茶の水女子大学で男性として初の博士(人文科学)の学位を取得。NHK文化センター講師なども務める。著書に『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』(中公新書)、『仏教学者中村元 求道のことばと思想』(角川選書)。『梵文『法華経』翻訳語彙典 全2巻』(法藏館)など多数。訳書に『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(上下巻、第62回毎日出版文化賞)、『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』(第11回パピルス賞、岩波書店)などがある。

【東洋大学で培ったサンスクリット語の読解力】

2022.09.09

出典:https://www.alumni-toyo.jp/news/toyoalumni-036/

九州大学大学院で物理学を学んでいる頃から仏教に目覚め、物理学の専門書と併行して仏教書を読み漁っていた。社会人となっても仏教を学び続けていたが、独学の限界にぶつかった。そんな時、不思議なご縁で東京大学名誉教授の中村元博士と出会い、40歳過ぎて博士の開設された東方学院で仏教学、サンスクリット語を学ぶことになった。その後、中村先生から「博士号を取りなさい」と言われ、東洋大学の大学院で学ぶことを薦められた。

物(ブツ)理学から仏(ブッ)教学へ

もう20年程前になるが、社会人大学院生として東洋大学に入学した。面接で物理学から仏教学への転身について聞かれた。「私にとってのブツリのブツは〝物〟ではなく、〝仏〟と書きます」と答えたら、妙に受けたことを覚えている。

主任教授は、菅沼晃先生だった。その下でサンスクリット文法学を学んだ。テキストは、インドのサンスクリット学者の書いたもので、かなり高度なものだった。ゼミでの私の最初の発表は、puṇḍarīka(白蓮華)の特別な用法について述べられた箇所であった。それは、法華経のタイトルを理解するには欠かせない箇所だ。そこで学んだことが、法華経をサンスクリット語から現代語訳する際に大いに役立った。

若き知性と席を並べることは、錆びかかった頭脳によき刺激となった。山中湖の研修所でのゼミも懐かしい。私もいつしか青春時代に帰ったような思いになった。ただ、夏のクーラーの設定温度が20度にされていたのには閉口した。血気盛んな若者たちと違い、高齢者には寒くて鼻水をダラダラと流しながらの受講であった。

博士論文のテーマが「仏教におけるジェンダー平等の思想」ということだったので、提出先をお茶の水女子大学にした。人文科学では同大学で男性初の博士という栄誉を給わった。それは、岩波書店から『仏教のなかの男女観』として出版されたが、予約者が多く発売日前日に増刷が決まり、5刷まで版を重ねた。現在は『差別の超克――原始仏教と法華経の人間観』と改題して講談社学術文庫に収められている。

自分で納得のいく『法華経』『維摩教』の現代語訳を出版

論文には、サンスクリット原典のあるものは全部、自分で現代語訳して引用した。法華経を自分で翻訳して岩波文庫と突き合わせてみると、違いが大きかった。

「転輪王たちは、幾千万億の国土をひきつれて来ており」(岩波文庫『法華経』上巻、81頁)という訳にはわが目を疑った。どうやって〝国土〟をひきつれて来るのだろう? サンスクリット原文を見ると、「幾千万億の国土からやって来た」であった。

初めは、訳の違いを私の非力の故かと思っていたが、文法書、シンタックス(構文論)の本などを調べれば調べるほど、私の訳が正しいとしか思えなくなった。最終的に岩本裕氏による岩波文庫の現代語訳の致命的な訳を489カ所指摘することになった。

筑波大学名誉教授の三枝充悳先生に相談すると、「自分で納得のいく訳を出しなさい」と励まされた。そして、八年がかりで『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上下巻(岩波書店)を出版した。それが毎日出版文化賞に選ばれた。中村先生が、『佛教語大辞典』で受賞されたのと同じ賞だった。

毎日出版文化賞の授賞式でスピーチする筆者

博士論文執筆の時点では、もはや存在しないと言われていた維摩経の写本が、論文提出後にチベットで発見された。写本の写真版を入手し、法華経に続き、現代語訳して『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』(岩波書店)を出版した。

それが王子製紙の財団が主催するパピルス賞に選ばれた。大学などのアカデミズムの外にあって、達成された学術的業績に対して贈られる賞と聞き、偏狭なアカデミズムを批判されていた中村先生が最も喜んで下さる賞だと嬉しかった。

https://www.chichi.co.jp/info/chichi/pickup_article/2024/202411_ueki

東北大学と東京大学の名誉教授で、学士院会員の樋口陽一先生が、選考経過を報告された。樋口先生自身が、英語、仏語、独語だけでなく、サンスクリット語に最も近いラテン語等の語学に堪能で、比較憲法学の第一人者であり、その視点から「対照訳は、その場で対照されるのだから、訳者にとって全く妥協が許されない大変な仕事である」「詳細な訳注は、玄奘三蔵などの訳との比較もなされていて、とてつもない奥行きのあるものになっている」「選考委員の想像もつかないほどの仏教学や、インド思想史、東洋学、比較文明論等々にわたる膨大な射程を持っている」「サンスクリット語という一般の学者にとっても至難な対象についてのこれだけ大きな仕事は、日本の学会、研究者にとっても、より広い知を求める読者にとっても大変なプレゼントである」「この賞の理念に百五十パーセントも、二百パーセントも的中するものだ」と、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』と併せて評価してくださった。

両書をご覧になった橋爪大三郎先生から、東京工業大学の世界文明センターでの大学院の授業で法華経講義を依頼された。それを基に、『思想としての法華経』(岩波書店)を出版した。それをNHK-Eテレ「100分de名著」のプロデューサーがご覧になって、その番組での法華経の解説を私に依頼してこられた。それは、2018年4月に放送され、好評であったことから2019年11月に再放送された。

NHK-Eテレ「100分de名著 法華経」の収録を終えて
(右から直木賞作家・安部龍太郎、筆者、島津有理子、伊集院光の各氏)

こうした反響の中で、「『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上下巻と、『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』は、梵・漢・和が対照されていて、大変に便利だが、重厚すぎて持ち歩けない。ぜひ、文庫本にしてもらいたい」という声がたくさん寄せられた。それに応えて、両書の現代語訳の部分のみを取り出して角川ソフィア文庫に収めた。現在、法華経が14版、維摩経が6版を数えている。

恩師の〝遺言〟である〝翻訳作業ノート〟の出版をようやく実現

このような反響の中で、三枝先生からの〝遺言〟が脳裏をかすめ始めた。これらの仏典は、サンスクリット語のすべての単語や構文の文法的な意味をすべて明らかにした上で翻訳した。文法的に重要なところは、参考文献として菅沼先生の『新・サンスクリットの基礎』上下巻の関連する頁数を明記してある。

その記録を自分で〝翻訳作業ノート〟と呼んでいた。それをご覧になった三枝先生が、「ここまで、すべての単語の意味を明らかにして翻訳しているから、曖昧さがない」「出版社は、このサンスクリット原文と、漢訳の書き下しと、植木さんの現代語訳を対照させた本として出版するでしょう。だが、この文法的な分析の部分(私の〝翻訳作業ノート〟)を出版するのは、膨大になるということで出版社は嫌がるだろう。でも、これは貴重な資料です。将来、必ず出版するように」と言われた。その三枝先生は2010年に亡くなられ、それが〝遺言〟となっていた。

三枝先生の言われた通り、法華経と維摩経は梵・漢・和対照の形式で岩波書店から出版された。〝翻訳作業ノート〟のほうは、「出版社が嫌がるだろう」という言葉が耳に残り、しばらく様子を見ることにしていた。ところがNHKに出演したことをきっかけに、三枝先生の〝遺言〟を実現しなければ……と思うようになった。

でも、出版社が・・・という言葉で二の足を踏んでいた。たとえ出版社がいい顔をしなくても、出版助成があれば前向きになるのではと思い、東洋大学の出版助成を申請した。が、その書の意義を理解されなかったのであろう。助成を受けることはできなかった。失意の中、2018年9月1日と2日に東洋大学で日本印度学仏教学会の学術大会が開催された。仏教書の展示即売コーナーで、手にした本をパラパラとめくっていると、右側から一人の男性が近づいてくる気配を感じた。

「法蔵館の者です。植木先生ですよね。『100分de名著 法華経』を観ました。植木先生の訳された法華経も読んでいるところです。うちから、本を出してもらえませんか?」と声をかけられた。そこで、〝翻訳作業ノート〟のことがピンと頭に浮かんだ。その概略を説明すると、その方の目の色が変わった。興味を示しておられることがよく分かった。学会が終わった翌朝、京都の法蔵館から、メールが届いた。

「〝翻訳作業ノート〟をうちから出させてください。箱入りにします。布張りの豪華本にします」とあった。これまでの苦労が一転、大変な扱いになった。こうして、『梵文「法華経」翻訳語彙典』上下巻、『梵文「維摩経」翻訳語彙典』の3冊として出版された。

1冊で1300~1400頁の本に仕上がった。法華経、維摩経を通してサンスクリット語を学ぶのに便利な本だと評されているようだ。

このほか、法政大学国際日本学研究所で発表したことを基にまとめた『仏教、本当の教え――インド、中国、日本の理解と誤解』(中公新書)は、北海道医療大学の国語の長文読解の問題に採用された。桑原武雄学術賞に梅原猛、鶴見俊輔の両氏が推して下さったそうだが残念ながら次点であった。

それが、今月さらに重版(11版)となり累計44000部の発行になったという。

日蓮生誕800年の今、日蓮を語る

本年(2022年)は、日蓮生誕800年に当たる。その佳節に合わせて、角川ソフィア文庫編集部から『日蓮の手紙』と題する本の執筆を依頼された。集中的に日蓮の手紙を読破してみて、国家主義的だとか、攻撃的だとか言われていたのとは異なり、極めて人間性あふれる〝人間・日蓮〟の実像が見えてきた。その思いを基に、『日蓮の手紙』(角川ソフィア文庫)の原稿を仕上げ、出版後1年経つ頃には6刷に至る反響ぶりである。

その書を読まれた先のNHKのプロデューサーから「100分de名著」で「日蓮の手紙」を取り上げたいと連絡があった。番組制作の前に関係スタッフにレクチャーすると、「日蓮は女性の味方だったんですね」「頭がいい人ですね」「あったかい人ですね」「正義感あふれる人だったんですね」などといった感想が寄せられた。

そんなスタッフの思いが込もった番組に仕上がった。その反響の故か、テキストが、放送からわずか四カ月で5刷になったと聞いた。その番組をご覧になったニッポンドットコム(元NHKワシントン支局長・手嶋龍一代表)から「日蓮生誕800年に寄せて」と題して原稿依頼を受けた。そのテーマで、サブタイトルを「21世紀に注目される仏教」として原稿をまとめた。

ロシアのウクライナ侵攻を念頭に置いたものである。現在、日本語の拙論とそのスペイン語訳が公開されているが、順次、世界の7カ国語に翻訳されて海外発信されるという。その文章は、下記のサイトで閲覧可能となっている。

Nippon.com
「日蓮生誕800年に思う:21世紀に注目される仏教」
https://www.nippon.com/ja/authordata/ueki-masatoshi/

2001年博士前期課程修了
東洋大学大学院文学研究科仏教学専攻
植木雅俊
仏教思想研究家

1951年 長崎県島原市生まれ。島原高校卒。九州大学卒。同大大学院修了。
2002年 東洋大学大学院博士後期課程中退。お茶の水女子大学で博士号取得。NHK文化センター講師。

【著書】

『仏教学者 中村元』(角川選書)
『人間主義者、ブッダに学ぶ』(学芸みらい社)
『ほんとうの法華経』(共著、ちくま新書)
『今を生きるための仏教100話』(平凡社新書)
Gender Equality in Buddhism, Peter Lang Publ. Inc.

小説に『サーカスの少女』(コボル) など多数。

対談動画

2022年8月16日 YouTube公開
池田香代子の世界を変える100人の働き人68人目
原始仏教・大乗仏教の溌刺とした女性たち
https://youtu.be/FVm3GLNZo_U