■東西における対比
・ナーガールジュナの運動否定の論理は、
⇒しばしばゼーノーンの運動否定論に対比される。
⇒ナーガールジュナとゼーノーンとの間には類似の存することはしばしば指摘され、
⇒特に運動の否定の議論が似ているのであるが、
⇒ゼーノーンとナーガールジュナとの間には根本的な相違が存する。
⇒ナーガールジュナについては、
⇒R・パニッカルによって「否定判断は判断の否定である」と評されている。
⇒これはつまり、中観派の運動否定論は、
⇒運動に関する肯定判断の否定であるというのが適当であるということに帰着する。
⇒しかし注目すべきことは、
⇒運動の観念についての批判は、
⇒運動に関する判断を問題にしているのではなく、
⇒きわめて実念論的な仕方で、つまり実在する実体とみなされた(「運動」という)観念についてなされたのであった。
・詭弁とも思われるようなナーガールジュナの論法はいろいろであるが、
⇒関係概念を実体視する考えかたーとくに説一切有部において最も顕著であったがーを攻撃した。
⇒こういう批判はプラトーンの対話篇の中にも現れている。
⇒「例えば、六は四より大きいが、十二よりは小さいから、六は同時に大きくまた小さい。
⇒そしてこれが矛盾だという。
⇒またソクラテスは、まだ成長し切っていない青年であるテアイテトスよりも、今は背が高いけれども、数年の後にはソクラテスは、テアイテトスより背が低くなるであろう。
⇒したがってソクラテスは背が高くあるとともに低いのだという」(B・ラッセル、市井三郎訳「西洋哲学史」1、156ページ)
⇒これに近い論法としては、チャンドラキールティはいう。
⇒「種子や芽、果実が別々の概念であるとすると、種子から芽、さらに果実が生じ、
⇒果実から芽が生ずるということはありえない。
⇒もしもそうだとするならば、父と子は同一であるということになる」(『プラサンナパダー』376ページ)。
⇒「もしも子がいなくても父は存在するというのであるならば、子が生まれるということがありえようか。
⇒子がいないならば、父は存在しない。だから父も子も存在しないのである」(『さとりの行いへの入門』第九章・第一一四詩)
⇒東西における対応は容易に理解することができる。
⇒図式化すると、
⇒実念論ープラトーンー説一切有無
⇒実念論に対する反対者ープラトーンに対する反対者ーナーガールジュナ
⇒ということになるからである。
■西洋の懐疑論者との類似と相違
・方法論の目的に関する限りは、
⇒中観派の哲学者はピローン(前360-275年)、ならびに懐疑論者たちの哲学に非常に近いのである。
⇒クリシッポス(前280-207年)がいった、
⇒反対として対立しているものは、互いに他の反対のものを含意している。
⇒悪をもたない善は論理的に不可能である。
⇒「悪が存在しなくても善は存在し得たと考える人々ほどばかげたものは無い。
⇒善と悪とは対立しているのであって、
⇒両者は対立において存在するにちがいない」(B・ラッセル、市井三郎訳「西洋哲学史」1、257ページ。258ページも参照)と。
・この論理的原則はナーガールジュナによぅても承認された。
⇒かれはたとえば、「浄と不浄とは互いに依存して成立する」(『中論』第二三章・第一〇ー一一詩、第七章・第一二詩参照)と主張した。
⇒しかしナーガールジュナは西洋の懐疑論者たちのもっていなかったものをもっていた。
⇒それは否定の論理を通して縁起を解明しょうとしたことである。
⇒そこでおのずから「縁起」が問題となってくるのである。