NN2-4-4.『中論』:『空の論理』~2項対立の調停構造(『空』が架け橋)/テトラレンマ(四句分別)とは~『清水高志先生の視点から読み解く』

■テトラレンマ:Google AIの解答

テトラレンマ(四句分別)は、2世紀のインドの僧龍樹(ナーガールジュナ)が主著『中論』(根本中頌)で駆使した論理的枠組み。

ある事象に対し「Aである」「Aでない」「AでもありAでもない」「AでもなくAでもない」という4つの可能性を全て否定し、固定的な実体を認めない(くう)を説くための手法。 

テトラレンマ(四句)の基本構造
龍樹は、あらゆる存在や概念が固定的な実体(自性)を持つという考えを否定するために、以下の4つの局面を否定します

  1. 「ある」(是):実体があるという主張の否定
  2. 「ない」(非):実体がないという主張の否定
  3. 「あるでもあり、ないでもある」(亦是亦非):両方を認める考えの否定
  4. あるでもなくないでもない」(非是非非)両方とも否定する考えの否定

これら4つのいずれの立場にもとらわれない(四句を否定する)ところに、実体のないという真理が明らかになると中論』は説きます。 

中論における目的

  • 空(くう)の確立すべての事象は縁起」(相互依存によって存在しており、不変の自己本質を持たないことを示す
  • とらわれの否定実在(有)や虚無(無)という極端な思考から離れ中道(ちゅうどう)に立つ。 

テトラレンマは矛盾を指摘するだけではなく、言葉や論理の限界を超えた空の真理を、逆に論理(否定)を使って論証する「空の時代」の強力なツールとして中観派(中論の思想を継承する人々)に受け継がれました。 

実体視を否定し、固定観念を超越する思想です。 

1. テトラレンマ(四句分別)の定義具体例(『中論』第一章)
物事は「自ら生じる(自生)」「他から生じる(他生)」「自他から生じる」「原因なく生じる(無因)」のいずれでもない。

2. 『中論』における「の論理

  • 龍樹の目的認識の対象となるあらゆるもの(縁起)に、固定的な不変の実体自性を認めない
  • 二項対立の超越:存在と無存在という極端な見方二見を離れ中間中道に立つ。
  • 機能言語や思考で捉えられる」「を排し真実の姿如実知見に到達する手法

3. テトラレンマの特徴

  • 否定の否定3つ目、4つ目の選択肢を含むことで単純な排中律を回避し、思考の限界を超えようとする。
  • パラコンシステント論理現代では、矛盾を排斥せずに真理を追究する「矛盾許容論理」としても注目されている。
  • 絶対矛盾的自己同一観察主体と対象の分離を無境界にする論理として扱われる。 

『中論』では、この四句分別を27の章にわたって展開し、時間、運動、感覚、自己といったあらゆる事象が「実体としては存在しない(空である)」と帰結させています。 

■排中律

論理学の基本原理のひとつで、 「ある命題は、真であるか偽であるか、そのどちらかであって中間はない」 という考え方を指す。

命題 P について、

  • P
  • P

この どちらかしかありえない とする原理。

数学や古典論理学ではとても重要なルール。

具体例でイメージすると

  • 「今日は雨が降っている」 → 真か偽かのどちらかで、中間はない。
  • 「この数は偶数である」 → 偶数か偶数でないかのどちらか。

こうした二値的な判断が可能な命題に対して排中律は成り立つ。

出典:Microsoft Copilot回答

<参考情報>

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)

仏教徒の戦争責任を『中論』から考える

IAAB編集部 (beyond IAAB EDIT)2025年8月15日 22:29

仏教徒はなぜ戦争に加担したのか――それは愚かさではなく、もっと厄介な理由だった。

戦争責任は「不殺生を守れなかった」だけではない

戦争責任というと、「戦争に反対できず不殺生を貫けなかった」という理解が多い。
だが本質はそこではない。
むしろ、積極的に戦争に加担した歴史がある。

当時の僧侶たちは「愚かだった」と片づけると、大事な点を見落とす。
また逆に「帝国主義に不可避に巻き込まれた」とするのも思考放棄である。


戦争の外にあった「福祉」という論理

今回の考察は『中論のテトラレンマ四句分別)を踏まえている

僧侶たちは戦争に加担したという意識はなく、「仏教福祉」という文脈で動いていた。

東本願寺の北海道開拓における新潟県の役割はあまり知られていない。
寒冷地農業に強い新潟県の真宗僧侶と農家の次男三男が農地開拓に関わり、その経験や信頼から、明治末の伊藤博文暗殺の前年の朝鮮布教の開教監督(代表)に新潟出身僧侶(驚くことに筆者の超近所)が抜擢されたと考えられる。
朝鮮半島や満洲で行われた東本願寺の福祉政策については本編で触れているが、ここで強調したいのは、その根底にテトラレンマ的な(あくまで「的な」)発想があったということだ。
つまり、「戦争平和」という二項対立を超えようとする態度である


戦争か、平和か。その外にある第三レンマ

般的には「戦争」と「平和」が対立軸になる。
「平和を守れなかった」というのは、平和を「非戦争」と捉える立場だ。
だが現実には、憲法9条の是非(賛成か/反対か)のように、平和はすぐ「勝ち取る」ものとして言葉の上から戦争の文脈に飲み込まれる(顕著なパラドクスである)。

当時の仏教徒は、その対立の外に「福祉という論理を置いた
戦没者の葬儀を行い、植民地移住者のために寺を建て、被支配者に日本語教育を施す――。
これはテトラレンマでいう第四レンマではなく実は第三レンマAかつ非A)にあたる。つまり戦争かつ平和非戦争」。

だがこの立場は、結局あっという間に戦争に飲まれる運命にある


第一から第三レンマまでは所詮「世間の領域であり、「戯論にすぎないからだ。(第三レンマのやっかいさは『空の時代の『中論』について』で清水高志先生が何度も言及している)。

第四レンマを生きる

仏教徒の行動・発言・思考は、本来すべて第四レンマに立つべきだ


それ以外はどんなに立派な言説であろうも、権力に飲み込まれる。なぜならば、それが「世間」だからだ。


では、戦争と平和の外で第四レンマを語るにはどうすればいいのか。

これは『空の時代の『中論』について』が導く問いであり、ようやく私たちはその問いの前に立っている。
終戦記念日の今日、この問いを自分に向けて考える必要がある

あなたの隣の人は、おそらく安易な第三レンマを語っているかもしれない。流されるな。そして、二項対立のパラドクスを跳躍台として使え

中論は、もう応用の段階に入っている

出典:https://note.com/gu_saiki/n/ncb8384c46a90

■談 no.130 トライコトミー…二項対立を超えての概要

清水高志 × 奥野克巳 × 護山 真也 公益財団法人 たばこ総合研究センター編

出典:https://note.kohkoku.jp/n/n389b844691d2

二元論や二項対立の克服もしくは調停という課題は、そもそも東洋の思想的営為においても古くから問われていました。

西洋の形式論理では、古代ギリシャ以来矛盾率(「Aは非Aではない」といった論理)による議論、二元論的なロジックはむしろ常套でしたが、インドで発達したのはテトラレンマ四区分別)と呼ばれる独自の論法ですたとえばインドのナーガルジュナ(龍樹)が『中論』で駆使しているテトラレンマは、①すべては真実(如)である、②すべては真実(如)ではない、③すべては真実(如)であり、かつすべては真実(如)でない、④すべては真実であるわけでなく、かつすべては真実ではないわけでもない、といったものです。

二項対立の調停という分脈のなかで、なぜ④を必要としたのでしょうか。それは、端的に「多即一」、「一即多の世界観に超出するためだといわれています。このテトラレンマに、東洋の思想的営為の極限を探ります。

〈西洋哲学と東洋哲学〉
「二項対立を調停する」
清水高志(東洋大学教授、井上円了哲学センター理事)
「主体と対象」「一と多」に、さらに内と外」(ないしは含むと含まれる」)という二項対立を加える。二項対立の種類を限定しつつも増やすことによって、構造をより直感しやすくするわけです。このように三種類の二項対立を組み合わせることによって、媒介と縮約の循環的構造をつくり、原因となる始点がどこにもないあり方を示す方法が、トライコトミー(trichotomy)です。西洋的発想の基底にある二項対立をいかに回避するか、トライコトミーから考察します

〈アニミズムとメビウスの帯〉
「縁起あるいはアニミズムの他力性」
奥野克巳(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)
自己の非=存在性を説く仏教の観点から見れば、マルチスピーシーズ民族誌は、人類学が長らく無意識のうちに想定していた、固有性・単一性・実体性・普遍性をもった人間的自己を、複数種の絡まりあいのなかへと投げ入れて、瞬間瞬間に生成する、個体としての本性をもたない自己のイメージを再提起したといえるでしょう。その意味で、複数種のエンタングルメント=絡まりあいとは、相依相関する「縁起」のことです。「縁(よ)って生起すること」を意味する縁起とは、精神的・物質的な要素としての法(ダルマ)が、他の法に依存して生じるという道理を指しています。民族誌において、文化や社会といった枠組みのなかで語られてきた、ある事物と他の事物との「関係性」とは、まさしくこの縁起的な働きを別の言葉で置き換えたものです。むしろ、仏教の最も基本的な思想ともいえる縁起の道理は、「関係性」として描かれるメカニズムを、より深層から理解するための糸口となるのです。
一方アニミズムは、自分と自分の周囲の世界の連絡通路をつねに開いておく、言い換えれば、モノや他生にも注意を払うことで、モノや他生や世界の側から働きかけに対しても私が応じるという機序で成立するようにも思われます。だとすれば、自力のみに頼るのではなく、あちら側からもたらされる他力を感じて、あるがままの自然を受け入れるアニミズムと「縁起」は、近傍に位置する二種の思想的営為といえそうです

〈逆向きの因果論〉
「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
護山真也(信州大学人文学部教授)
原因は結果に時間的に先行する。われわれの多くが当然のように前提とするこの考えに、異議を唱えたのが、インド仏教の論師ブラジュニャーカラグプタです。たとえば、明日、恋人とのデートが約束されている場合、その未来の出来事が現在の心に幸福感をもたらすとします。あるいは逆に、明日に控えた手術が現在の心に暗い影を落としているとしましよう。われわれは過去の積み重ねのうえに現在があるという考えにとらわれていますが、現在はまた未来からの影響の下に成り立っています。因果のベクトルは過去から現在へという方向性だけではなく、未来から現在へも向けられているとしたら…。ブラジュニャーカラグプタによれば、過去と未来は対称性の関係にあり、過去のものが結果を生み出す作用をもつのならば、同様に未来のものも結果を生み出す作用をもつと考えても、なんら不都合はないと主張したのです。
果たしてこの考えを屁理屈として退けることは可能でしょうか。一見奇妙に見える未来原因説を〈今ここ〉を生きる哲学の文脈とすり合わせることから再検討します。

出典:https://suiyosha.hondana.jp/book/b649954.html

■続・虚実と世界 〜 アニミズムと世界認識 一部抜粋

哲学者 清水高志× 『広告』編集長 小野直紀 『広告』虚実特集号イベントレポート

『今日のアニミズム』発刊後に見えてきたもの

小野:「まえがき」で、このタイトルはレヴィ=ストロースの名著『今日のトーテミズム』にあやかって題されたと書かれていたので、レヴィ=ストロースへの興味を深くもたれたうえで執筆されたのかなと思ったのですが。

清水:『今日のアミニズム』を書いたことで、さらに興味は深まっています。レヴィ=ストロースが神話や無文字文化の意味体系を解釈するために用いた「構造分析」という方法をミニマムに圧縮して、哲学やほかの領域をまたいで現れてくる普遍構造をごくシンプルに分析してみたかったんです

清水:はい。自分で書きながら光を当てたい欲求をすごく持ちましたし、そうすべきだとも思いました。レヴィ=ストロースを介して、2世紀のインド仏教僧で中観派の祖・ナーガールジュナ(龍樹)が書いた『中論』がやっとわかる。さらにプラトンの思想なども踏まえてぐるぐる回していくと、人類が考えてきたことが東洋でも西洋でもわかってくるんです

小野:おもしろいです。清水さんは20世紀の思想を引き継ぎながら、現代哲学を更新していこうとされるなかで、文化人類学と哲学を掛け合わせる試みをされていて、その入り口にレヴィ=ストロースがあるという印象を持っています。なぜ、文化人類学と哲学を掛け合わせようとされたのでしょうか。

清水:虚実特集号の対談でお話した内容とも重なるのですが、異分野を掛け合わせる背景には、いろんな分野で多世界論が共有されはじめているというのがあります。多世界論とは、異なるパースペクティブで見る世界が重なり合い、しかもひとつに統合されていないという世界観です

仏教の唯識という考え方では、同じ水を見ても天人には「宝石で飾られた池」に見え、人間には「水」、餓鬼には「血膿」、魚には「住みか」と、それぞれに異なる認識を持つことを一水四見(いっすいしけん)とたとえます。今日の人類学は、これをパースペクティブ主義や多自然主義というテーマで書き起こしてきました

レヴィ=ストロースから解釈する世界の構造

小野:いろんなジャンルの世界が同時にあるという世界認識は一般的なものになりつつある。それを踏まえて、清水さんがつくろうとしている「全部を統一した哲学」について聞いてみたいです。

清水:僕がやろうとしたのは、二項対立をいくつもつくって一巡させるということですレヴィ=ストロースは、神話のなかに二項対立があったら、それをいくつも増やして複雑にそれらの関係を読み解いていきました神話の思考では、「男と女」という二項対立があるなら、「両性具有」「無性者と両者を媒介するような中間のものを第三項」としてとりながら、最初にあった「男と女」の起源を説明するように、ぐるっと一巡するんですね。それによって構造ができて、差異の体系ができているのが神話だと、レヴィ=ストロースは言っていたんです

たとえば、「火にかけたものは文化的で食べられる」「生のものは自然のままのもので食べられない」という考えがあるとします。しかし、タバコは火にかけても食べたら死んでしまうし、ハチミツは火にかけなくても食べられる。こういうものを「媒介」、ぐるっと回って永遠に原理を遡行しなくてもいい構造をつくっているものを縮約と言います。「媒介」と「縮約」によって神話を考えることができるんです

小野:『今日のアミニズム』では、レヴィ=ストロースの「縮約」と仏教を関連づけて論じられています。

清水:ナーガールジュナは『中論』などで、「《Aがなければ非Aがない」「《非AがなければAがないという構造を、縁起にまつわる相依性(そうえしょう)というあり方で説きましたが、あれも実は「縮約」をつくっているんです。

インド論理学では、「《A》がある」「《非A》がある」「《A》かつ《非A》」「《Aでも非Aでもない」という、第一レンマ、第二レンマ、第三レンマ、第四レンマと呼ばれるものを駆使するんですが(四句分別)それは構造の論理なんですね十二支縁起(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死→無明……の繰り返し)でも、重要なのはそれぞれの構成要素ではなく、実はループ構造なんです

<参考情報>

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)

<参考情報>

出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4   第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所

縁起で語られていることは、人間の煩悩の増大、生成の局面です。「無明があるから行がある……」といったように。しかしナーガールジュナは、縁起の本質がこのループ構造そのものであることに気づいた。そうすると、「《A》があるから《非A》がある。《非A》があるから《A》がある」という関係になるんですが、これは《A》と《非A》をまたいだ第三レンマな「中」にあたるものです実際には、そのループのなかでは、すべての要素が順々にこうした第三レンマになる

しかも逆観といって、このループ構造を「《A》がないから《非A》がない。《非A》がないから《A》がない)という風に逆転させることを仏教では説きますから、原因においては・・・・・・・「《A》でも《非A》でもない」という第四レンマが成り立つ

非常にミニマムで抽象系ですが、釈迦が縁起と離二辺の中道」というかたちで「どちらの極にも行かない第四レンマを最初から語っている背景には、レヴィ=ストロースが「第三項による媒介とか、「縮約」とか読んだものがあるのです

たぶん、仏教以前の神話の思考、野生やアニミズムの思考を、仏教がそういうかたちで抽象化したんです。だからこそ、その構造にいろんな地域のいろんな「野生の思考」が融和して、むしろ温存されたところもあると思います。たしか、レヴィ=ストロースも、仏教が早くに成立したからそれらが融和されたということを言っていました。ある意味、日本も聖徳太子の時代に仏教を採用したからこそ、各地の宗教やシャーマニズムを統合できたところがあると思うんですね

僕は「文化の核心部分は何でできているか」という理屈を考えてみたかったんです。

たとえば、「人間と自然の関係(主体/対象)」「一/多」「含む・含まれる(内/外)」という三種類の二項対立「トライコトミー(trichotomy、三分法)」を考えるとします。多くの場合、こうした二項対立は、「主体」に「一」というバイアスがかかっていたり、対象に「多」というバイアスがかかっていたりしますし、その逆パターンもあります。

三種類の二項対立を混ぜ合わせツイストさせて解くと、永遠に原因を遡るわけでもなく構造ができるのではないかというアイデアだったんです。最近は、プラトンをレヴィ=ストロース的に読んでいます。プラトンも二項対立を複雑化しているのですが、レヴィ=ストロースを補助線にすると「あ、これは野生の思考だな」とわかる。むしろそう読まないとわからないところがいっぱいあるんですよ。

人間は生理学レベルで複雑で多様なものを見分けることができる

小野:清水さんは哲学と人類学を結びつけるなかで、初期の仏教者やギリシャの哲学者も同じようなことを考えようとしていたと発見されました。しかし、西洋では循環させて二元論を超えていくことはできなかったため、ギリシャの二項対立、二元論にもとづいて、客観的な唯一の世界があるというような思想がかたちづくられていき、キリスト教のような一神教も生まれ、人間中心主義が西洋思想の主流になっていきました。

虚実特集号の対談では、こうした人間が主体でそれ以外は客体であるというような関係を批判というか、否定したというのが非常におもしろいなと思いました。その根幹にあるのが、仏教やソクラテスの思想より以前にあったアニミズムだということでしょうか。

清水:アニミズムがあるし、二項対立を組み合わせて世界を複雑に弁別するというのがあるんです。レヴィ=ストロース以前に、ロマン・ヤコブソンというロシア生まれのアメリカの言語学者は、人間の言語の最小単位「音素」の研究をしました。ヤコブソンは、トルコ語には8つの音素があり、そのひとつの音素がそもそも3種類の二項対立の組み合わせでできていると考えました。舌を奥のほうで盛り上がらせるか前のほうで盛り上がらせるか、唇を丸くするか尖らせるか、口を開くか閉じるか。それを組み合わせていくと8つの音素ができます。つまり人間は生理学レベルで、二項対立の組み合わせの多様性で、複雑なものを見分けるようにできているんです。

漢字にも表意文字と表音文字がありますね。スペルの組み合わせで複雑さを出す言語と、文字そのものが多様な言語があります。組み合わせで多様性を出すほうに人間の生理があるのだとすると、いちばん単純なのは「プラスか、マイナスか」です。プラス・マイナスで弁別して、その種類が有限箇の二項対立で母音ができ、子音も同じようにできて、組み合わせると無限かつ複雑になる。その区別をしているのはおそらく人間の無意識なんですよね

フランスの哲学者 ジャック・ラカンは「無意識は言語として(のように)構造化されている」と言いましたが、無意識は「人類の無意識」によって言語のように共有されているんです二項対立の組み合わせだけでなく、隣接性や含む/含まれる関係などによって、修辞学でいうところの比喩「メタファー(metaphor)」「メトニミー(metonymy、換喩)」などを駆使することで、世界の様々な具体物が複雑に弁別され、日常的な推論も多くはこうしたものによって成り立っています

たとえば、フランスの詩人 シャルル・ボードレールの「猫」という詩を分析すると、こうした組み合わせでできていることがわかります。神話というのは、世界を説明したくて世界をひとつのものに還元するのではなく「世界って複雑だよね」と感じたくて、こうした組み合わせを駆使してつくられていると思います。還元せずに、伸縮自在なフリーハンドをいかに存続させるかということをやろうとするんですね。だから、一見すると不合理なことを語るのですが、神話のなかではオチがついていて解決されている。それが、神話を語る人たちにとっての倫理だったりするんです。

小野:なるほど。

清水:レヴィ=ストロースが南米の先住民に見出した、「自然と文化が分離している」という考えも、ギリシャ人の「イデアと感性的世界が分離する」という考えも、何種類かの要素をたどっていくとわかるのは、含む含まれる関係をどう考えるかということが人類にとって実に大きいんですね。これについて、僕は『今日のアニミズム』で「トライコトミー」という方法論を用いて語りました

二元論的世界観のモデルを多世界論へと変えていくために

小野:「トライコトミー」が非常におもしろいのは、「一/多」「含む/含まれる」に第三の二項対立として「主体/対象」を入れると「人間が主体で、それ以外は対象である」という考え方では説明できないことが証明されることです。また、世界は人間と自然や動物やものなどとの関係性によって世界が成立しているという考え方がそもそも違うという説明が、非常に腑に落ちたんですね。まさに、コペルニクス的転回だなと。

清水:本当にそうですよね。環境の問題、IT環境も含めたわれわれがいるネイチャーの問題を全部考えようとしたら、主客二元論とは異なる世界観を提示しなければいけないのですが、いまはまだ政治モデルすら古いモデルを引きずっています。トライコトミーのようなかたちで組み替えないといけないというモデルを提示するのは大事なことだったと思います。

小野:「主体/対象」「一/多」「含む/含まれる」という「トライコトミーの考え方で二元論を克服していこうとしたとき、結果的に現代的な考え方にものすごくマッチしているなと思いました。虚実特集号では、メタバースを考察した「87 セカンドライフ社会学」という記事のなかで「自分というものも世界というものも多様である」ということが書かれているんですが、多角的な世界が広がっていると考える多世界論に近い考え方ではないかと思いました。これは偶然なのでしょうか。

清水:多世界論的に捉えなければ現代を考えられません。虚実特集号で取り扱われていたいろんなテーマも、なんだか多世界論的な話になっていたじゃないですか。

小野:そうですね。

清水:落合陽一くんが言う「デジタルネイチャー」もやはり多自然的なものなんですね。人類学からかけ離れたところにいるAI系、情報系の学者と話していてもそうなりますから、いろんな分野をつないで考えていかないといけないテーマなんですよね。

小野:すごくおもしろいです。虚実特集号をつくる際に、いろんな文献を当たっているとやはり構造主義がよく出てきて、構造やメディア、文化みたいなものによって僕らの価値観が形成されているという考え方が20世紀に流行したことがわかりました。ただ、ジャン・ボードリヤールが唱えた記号消費にしても、たとえばコップを買うときに「コップ」という記号を買っているだけじゃない、コップというもの自体も買っていると思ったんです。虚実特集号の対談でも話していただきましたが、自分は自分の周りにあるものに影響を与え、またものも僕らに影響を与えているという、フランスの哲学者ブルーノ・ラトゥールらが提唱した「アクターネットワーク論(Actor-Network-Theory、ANT)」の考え方はすごく腑に落ちました。

唯一の世界のなかに人間がいて、対象があるということではなく、清水さんが話していたように、無数の結節点をもつ網の目状の世界があって、その網の目のひとつが自分であり、自分の家族であり、自分が持っているパソコンであり、コップであり……というような。それらが結びついて世界ができていて、コップが中心になったり、僕が中心になったりと、いたるところに中心と周辺があるという世界観を頭に描けたとき、これは現代のインターネットの考え方にまさに当てはまるなと思いました。

清水:現代のWorld Wide Web(WWW、インターネットを通じて公開されたウェブページが相互に接続されたシステム)もそうです。そうやって、現実のリアルなものにフックがかかりつつ、交換しあっているという感じですよね。また、その感じが仏教的なんです。あらゆる物事が相互に無限に関係し、作用しあっているとする、華厳思想の「重々無尽」の世界は、「インドラの網(因陀羅網)」のようなものとして説明されています。「インドラの網」は、帝釈天が住む宮殿を飾っている網とされていて、無数にある結び目の一つひとつに宝珠があり、それぞれに宝珠に他の宝珠が映りあっているんです。この状態を「相即相入そうそくそうにゅう」と言います。

日本美学は「一のなかに多がすべてある」という考えから多くを汲んでいて、千利休が完成させた「わび茶」も系譜を遡ると一休宗純禅師に行き着くんですね。華道や茶道も「縮約」した世界のなかに多様なものを入れていきますし、レヴィ=ストロースも、神話は要素の項からボトムアップで全体ができるものではなく、項とそれらの関係がフラットに、お互いに入れ子になっている構造が神話だと言うんですね。いろんな神話が循環していくという発想で、「神話公式」というかたちでモデル化もしています神話のなかの項の役割がこっちとあっちで逆転しているとか、ブリコラージュとか、ああいう置換が起こってくるのもこうした構造だからです

<参考情報>

<参考情報>

仏教の悟りの要件の一つに、『重々帝網』という言葉があります。『インドラの網』、『重々無尽』、『事事無碍』ともいわれます。

これは帝釈天の宮殿を覆う網の結び目に宝玉が付いていて、全体を照らす、同時に全体は個々の宝玉の中に反映されている、部分は全体を表わし,全体は部分に集約されています。すなわち相互依存性の理解が大切という教えです。

出典:https://www.health-research.or.jp/library/pdf/forum24/fo24_selector01.pdf

■唯識所変のIndra’s Net

出典:https://hironobu-matsushita.com/%E5%94%AF%E8%AD%98%E6%89%80%E5%A4%89%E3%81%AEindras-net/

■相即と相入

■反対の視点

■六つの側面から観察する瞑想

■十種類の側面から重重無尽を示した

■2つを併せて

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

多世界を読み解くヒントは「過去を正しく読み解くこと」

小野:さきほど「一/多」の関係のところで、華道のお話がありましたね。生け花自体がひとつの宇宙というか、美のなかに多様なものが含まれていて、それ自体もまた世界のなかにあるというような、華厳思想の「一即多、多即一」を関連づけられていました。『今日のアニミズム』では、もうひとつ文化人類学者の岩田慶治さんを引用されていました。また、岩田さんが惹かれた人物として、19世紀ドイツの博物学者で地理学者、冒険家だったアレクサンダー・フォン・フンボルト晩年の主著『コスモス』にも触れられていました。

岩田慶治さんは、地球上のあらゆる現象を綜合し、そこに「美的統一体」を見出そうとした「コスモス」と、それに対置される全体概念として「マンダラ」というものについて語っている。岩田さんは小さな庭を縁側から眺め、その庭自体に美しい宇宙「コスモス」を見る。今度は、庭の真ん中に歩み出ると、今度はそこに「マンダラ」が成立する──この話も、「一即多、多即一」の考え方につながる感じがします。

清水:そうですね。客観的に眺めているだけではダメで、ネットの世界のように投げては受けてという感じで、リアクションを得ながらでないと成立しない世界にわれわれは生きているんですね。全体像が見えるわけではないのですが、構造が似ているから「こうなんだ」と予想がつく。『今日のアニミズム』を出したこと、こうして対談していることも含めて循環構造ですよね。

小野:もうひとつ、『今日のアニミズム』で「循環」という言葉がよく使われていました。僕のなかでは構造主義的に世界を俯瞰してみて、こういう構造があるがゆえに僕らはこういう価値観や文化を持っているのである、と。一方で、僕は記号のために何かを消費したり、構造があるからこういう動きをしている「だけ」ではなく、自分自身の主体性をもって動いたり、もしくはそこにある何か身近なものに影響を受けたりして、ものを買ったり価値を判断したりもしています。そこの往復をしないといけないんだろうなと思ったのですが、それを「循環」という言い方をされているのがおもしろいなと思っています。それが「トライコトミー」、3つあるから循環する、循環するからこそ成立する二項対立の克服ということですよね。

清水:そういうことです。仏教的には、もう「業として生まれてくる」みたいな使われ方なんです。こういう情念を発すると、こういうリアクションがあって、こういうものがあるという世界観にとらわれるというかたちで説明するのですが、やはりそこでも「眼識」「耳識」などいろんな感覚のモジュール(見分)が、対象世界の現れとしてのもの(相分)にぶつかって、そこから返ってきたもので世界を構成し……というようなことを考えています。また、そうしたグループを含んで自覚しているもうひとつの自証分というものがある。このひと揃い同士が、またお互いの相分のなかに相互入れ子になってネットワークをつくっていると言うんです。仏教も本当にクリアにいまの世界のあり方を言い当てていますね。

神話の思考や野生の思考が持っているのも、人類の無意識の現れ、個人を超えた何かですよね。レヴィ=ストロースはそういう無意識を発見し、仏教は仏法によって真理を解き明かそうとしました。それをもう少しアップデートすると、多世界的になった世界の謎を読むこともできます。

小野:読ませていただいて、まさに現代の多世界的なあり方がすごくわかるなと思いました。複数の世界が複雑に循環していて、多様な人間がそれぞれに世界を持っていると同時に、自分自身も多様な世界を持っている。空間としても、メタバースがあり、地球があり、想像の世界もあるという、いろんな意味の世界が複雑に絡み合っています。

今回特集した「虚実」は言葉としては二項対立ですので、「嘘/本当」「フィクション/リアリティ」「イメージ/実体」「バーチャル/フィジカル」「心/体」「形而上/形而下」と、二項対立をつくるいろんな言葉を当てて考えていきました。ところが、いま挙げた言葉たちも混ざり合いながら「虚実」があるのだと見えてきたので、清水さんに巻頭対談をお願いしました。その後、制作するなかでテトラレンマの話などを実践していった感じが自分のなかにあります。

アニミズムは世界を再構築していくヒントになる

小野:「テトラレンマ」や「トライコトミー」は論理的であり、理性的な理解じゃなないですか。一方で、清水さんは「アニミズムを『本物の宗教』にしなければならない」ともおっしゃっています。おそらく、アニミズムには現代の人たちが改めて社会を再認識し、世界を再構築していこうとするときに、ヒントになるのだろうなと思います。

『今日のアニミズム』には、アニミズムは日本人的なものであり、宗教、アート、文芸など、芸能の核でありいまなお種であるということが書かれていました。その文脈において、スタジオジブリの『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』や新海誠監督の『君の名は』などの大ヒット映画にも、明快にそれが現れている、と。

清水:「自分はアニミストです」と名乗る人はたくさんいるんですよね。日本人は、アニミズムを自明のものと思っているところがあります。『千と千尋の神隠し』なんていっぱい出てきますね。すごく古い物語の種を混ぜ合わせてリニューアルしている感じがします。

小野:アニミズムという概念は、西洋の人々のなかにもあるのでしょうか。

清水:たとえば、ドイツの詩人 ハインリヒ・ハイネに言わせると、ドイツ人はむしろアニミズムで汎神論なのに、それを抑圧しちゃっているからグレてしまった(笑)。フランス人やイタリア人は偉大なギリシャ・ローマ文明が残っているからバカにされませんし、あまり拗ねなくていいんです。ドイツ人にはそういうものがないから、ハイネに言わせると抽象化してしまったんですね。ユダヤ人も抽象化して一神教にしてしまって、こういう人たちも最後には往々にして「宇宙のすべては神だ」と肯定するのですが、ちょっと不自然かなと思います。

小野:キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの一神教が、構造的に西洋の価値観を狭めてしまったということでしょうか。

清水:そうですね。二分法(ダイコトミア)によってコントラストをつくるとか、第三項を見出すとか、縮約をつくるという思考を狭めてしまったんですね。

小野:大学のときにアイルランドに留学したのですが、アイルランドの十字架はケルトの太陽信仰を示す円と十字架が合わさっています。アニミズムの側にいた西洋の人たちが、キリスト教を受け入れていくなかで、西洋的な思想をつくっていったということなのかなと理解しました。

清水:十字架の形はクロスしているじゃないですか。反対のものが二極になるとして十字架を解釈していったものもあるんですね。それこそ、ドイツの哲学者であり数学者ライプニッツは、『結合法論』の冒頭で、水・火・風・土の図を掲げていますが、薔薇十字からそのシンボリズムを採用しています。

ミシェル・セールと共同研究を行なっていた、フランス出身の批評家ルネ・ジラールは、欲望とは対象からもたらされるものではなく、他者の欲望を模倣することから始まるので満たされることはないと、対象、他者、自分からなる「欲望の三角形」を考えました。自分と他者は欲望を模倣しあい、対象を奪い合うので緊張関係が生まれます。すると、欲望された対象がスケープゴートになって殺されて、殺したものたち同士はその罪の連帯によって和を結ぶ。しかし、このスケープゴートの位置はぐるぐる回っていくもので、本来誰もがスケープゴートになりえます。ジラールは、これがキリスト教だと言っています。第三項の位置をぐるぐる回すものとしてのキリスト教ですね。

二項対立に「第三項」を増やして無意識を掘り起こす

小野:世界の捉え方としての「トライコトミー」の考え方ですから、キリスト教を除外する必要はないですよね。でも、二項対立から脱却するためと言いながら、どうしても二項対立を用いてしまうのはどうしてなのでしょう。

清水:世界の弁別が二項対立的なので用いざるを得ないんです。ただ、神話に両性具有が出てくるように、「第三項」が両方を兼ねるという「調停」をもって一巡すればいいんですよ。ただし、それが無限遡行にならないようにはしなければいけません。

小野:なるほど。20世紀のポストモダンにおいても、二項対立を乗り越えようとしたところはあります。デリダの脱構築やヘーゲルの弁証法は不十分であったということも『今日のアニミズム』には書かれていましたね。

清水:脱構築主義も弁証法も、ある二項対立の解決法を別の二項対立に当てはめていくけれど、一巡しないのがダメだなと思います。

小野:物事を理解するには、あえて二項対立を増やしていくという行為がいいんだなと思いました。『広告』の次号特集は「文化」なのですが、「文化/自然」「文化/科学」「文化/経済」とどんどん二項対立をつくることによって、考えるヒントが生まれてきます。

清水:それはありますね。ひとつの色を見ているとその補色が見えてくるように、人間の弁別機能自体がそのようになっていますから。音楽も、ラヴェルの『ボレロ』などは、「縮約」しながら繰り返して、変奏しながら縮約形をとって終わります。レヴィ=ストロースは、神話もそのようにしてあると言っていて、なるほどと思いました

小野:『今日のアニミズム』に書かれていた、画家のマックス・エルンストが座右の銘にしていたという、ロートレアモンの詩の一行「解剖台の上でのミシンと洋傘の偶然の出会い」のお話もおもしろかったです。「洋傘ミシンという対立を置いたときに、「先端に突起がついている洋傘」「腕木の下に針が付いているミシン」など対立と対比が見えてきます。「第三項を加えてぐるぐる回す感じがすごくイメージできたなと思いました

清水:「解剖台」という第三項と結びつくことによって、洋傘ミシンの有縁性が見えてくるんです解剖台の上でミシンと洋傘が出会うから、ツイストする場ができるわけですね。そういうことが大事なんでしょうけれど、いまは単純になっていて。そういう意味では、アート系の人などは無意識を掘り起こすことが「縮約」ですよね。美術も建築もそうかもしれない。

小野:アートも単純になっている気がしますね。芸術や神話には、二項対立を「調停」していく役割があり、二項対立を乗り越えていくというお話をされていましたが、いまの芸術でそれができているのか。もしくは、ほかの分野で「調停」できるんでしょうか。

清水:先ほど千利休の話が出ましたが、利休は不均衡で不完全なものに美を見出していて、そこには「トライコトミー」の要素があります。アートでそういうことを表現していくのもそうですし、すでに表現されたものの読み方を変えることで、無意識に表現されたものを見つけることもできますよね。いかにコントラストを出すかということですね。

現代において、主客二元論問題をいかに解いていくか

小野:情報化社会と呼ばれるようになってから、より単純なものが増えている気がするんです。とくに僕は広告業界にいるから、ものを売るためのメッセージをつくらなければいけないとき、非常に単純に受け取れるような言葉をつかったり、イメージをつくったりします。また、SNS上で議論されるジェンダーや環境の問題も、けっこう二元論になりがちだと思うんです。

清水:いま、炎上の仕方が二元論的ですよね。単純化するのは一歩間違うと洗脳になってしまうし、千葉雅也が「白か黒かを迫ってくるものがあるのは問題だ」と言うのはわかる気もします。神話の世界で男と女に加えて両性具有者や無性者が出てくるように、いまはトランスジェンダーやノンバイナリーと次々に出てくるじゃないですか。ある意味、やっていることは同じですよね。

小野:実際に、そういうことが表出してきているということなのでしょうか。

清水:「私の心は男性だ」「私の心は女性だ」と二項で言うけれど、すごくアニミズム的な発想ですよね。そういう前提でいいの? とも少し思います。ジェンダーは完全に社会的な形成物であると言いながら、魂は違うというすごく古代的な考え方も出てきています。

小野:たしかに。生物学的に捉える男女もあれば、社会的に捉える男女もあるけれど、魂で捉えるとなると生物学的・社会的なレイヤーで見るものではなくなるから、心は男性か、女性か、それ以外なのかという話になってきます。ジェンダーを、古い価値観の構造的な見方で捉えるのか、生物学的に捉えるのかしかなかった世界に、多世界論的に「また別な世界があるんだ」とみんなで発見していくことで寛容さが出てくる気がします。

清水:フェミニズムでは、「男性は女性を対象化して見ている」と言うじゃないですか。それは主客二元論問題なんです。「私は対象ではなく、私も主体なんだ」というだけの問題ではないですよね。主客二元論問題をいかに解くかを考えないと、ジェンダーの問題も解けませんよ。

小野:主客二元論問題は、現代において解決しないといけない問題のひとつじゃないですか。地球と人間という対立構造を見たときに、人間が主体で地球が客体として扱い、影響を及ぼしてきた時代を呼ぶ「人新世」という言葉も、20世紀における人間中心主義から生まれた言葉だと思うんです。それを超えていかなければいけない現代において、二元論の克服とアニミズム的な考え方が必要になってきているんだろうなと思います。今回、「虚実」という特集では、まさに世界をどう認識するのか、つくられたものをどう捉えるのかを考えたかったんです。

清水:『今日のアニミズム』を出してから、人類学者や仏教学者などとお話してきましたが、今回小野さんとお話して、現代の消費社会、情報化社会というところまで拡張して読んでくださっていてうれしかったです。

小野:「虚実」を考えるなかで、多様な世の中を構造的にも実存的にも見ていく多視点も重要である一方で、自分が信じるものを見つけていかなければいけないと思いました。だけど、多世界であること、多視点が必要であることに向き合い切らずに、物事の判断や価値づけをすると主客二元論に加担してしまうことになります。『今日のアニミズム』はまさにこの時代に読まないといけない本だと思いました。少し難しいので、何度か噛み締めないと理解できないのですが。

清水:だいぶわかりやすくなったと言う人もいらっしゃるんですよ(笑)。仏教学者とも話していて、ナーガールジュナが何をしていたのかとか、この本でやっと説明できたという感じがあります。学問的には好文献だと言ってもらいました。

小野:仏教、レヴィ=ストロース、神話、アニミズムなどの共通項が、「トライコトミー」によって抽出される。それによって世界の見方を新たに構築していくという経験ができました。まだ理解できていないところもありますが、本を読み直してまた清水さんとお話しできればと思います。今日はありがとうございました。

出典:https://note.kohkoku.jp/n/n389b844691d2

■『今日のアニミズム』から『空海論/仏教論』へ 一部抜粋

加藤学 × 奥野克巳 × 清水高志

【レヴィ=ストロースによる構造の発見

レヴィ=ストロースがブラジルでのフィールドワークの体験を思い出して書いた『悲しき熱帯』のなかでも述べています「構造」はブラジルのいわゆる「未開社会」での経験によって、最初に発見されたものだということです。

 『悲しき熱帯』の「交差イトコ婚」の話のなかに、レヴィ=ストロースによって「構造」の糸口が見出された出発点のようなものをうかがうことができます。ナンビクワラという、「地べたに寝る人たち」と呼ばれている先住民たちは、幼い頃から、交差イトコ同士が「夫」と「妻」と呼び合います。交差イトコ同士は将来結婚する候補者です。結婚する相手があらかじめ決まっているのです。誰が決めたわけでもなく、昔からそうなっているとしか説明されないのですが、そのなかにレヴィ=ストロースが「構造」を見出すのです。それは、後に、言語学者ローマン・ヤーコブソンと出会って、「構造」の概念を深めるなかで再発見し、後付け的に書いたのではないかと私は考えていますが。

ヨーロッパを歴史の主体として考えるような考え方、進歩の概念なんかもそうですし、マルクス主義なんかもそうだと思いますけれども、ヨーロッパの進歩する主体、弁証法的な論理のなかで、正-反-合と辿りながら進歩していくような主体に対して、レヴィ=ストロースは、「未開社会」の側に立って、反論を突き付けた。

第一次世界大戦では850万人もの人々が亡くなったと述べています。ヨーロッパで850万人ですから、本当にすごい数です。ヨーロッパが、人類初の総力戦で戦ったわけですね。ヴァレリーは、ヨーロッパが積み上げてきた知というのは、戦争を止めるには役に立たない、無力であるということが証明されたのと述べています。まさにそうした戦争の時代に、ヨーロッパの外部に人間精神や本性を探りに行こうとして生まれたのが、人類学だったのだと言えると思います

彼自身は、「構造」の概念を発見して嬉々としていた。最初は、親族関係のなかに「構造」を見出し、その後、トーテミスム、そして神話へとテーマを順に変えていきます。

京都大学のシンポジウムで私は、ヨーロッパの歴史的な主体を主張したカイヨワやサルトルではなくて、人類の思考はあらかじめ完成されていたと説いたレヴィ=ストロースから反人間主体の思想が始まって、それが、今日の人類学の存在論的転回につながってくるという図を描きました。

レヴィ=ストロースを仮に反人間主体的な思想の端緒として捉えるならば、それは、仏教でいうところの「諸法無我」ではないかということでした。まさにそうだと思います。仏教的に言うならば、「諸法無我」。我がないわけです、あらゆるものに実態などないわけです。「無自性と言ってもいいですけれども、自己あるいは自我などあらかじめ存在しないとして、2500年前に成立したのが仏教であり、仏教の観点から見ていけば、より鮮やかな形で、レヴィ=ストロース以降の人類学というものも捉えられるのではないか。そんな話になったのです

『今日のアニミズム』に戻る

清水 『今日のアニミズム』に戻ると、アニミズムが語る世界では、さまざまな生物やモノとの汎生命的なインタラクションがあって、多自然的に世界やパースペクティヴがあって、そしてまた個人を超えた、さきほど述べたいわば「天の理」のようなものが直覚される瞬間があり、それらと棲み分けながら共存しているとか、それらからメッセージを受け取ると感じることがある。とはいえ仏教もまた、ほぼ似たような境地にあってそれを徹底的に論証しようとしている

たとえば『中論』の二章では、いわゆる遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)を徹底的に論駁(ろんばく:相手の説に反対して、論じ攻撃するこしています。「去るものが去る」という風に、「去る」という動きから「去るもの」という主体を作って、「去るもの」だから「去る」と、こういう同じものを原因にも結果にもして実体化する論理を作ってはいけないということを、執拗に論じていますね。だから現在「去りつつあるもの」ですら「去らない」と言うんです(笑)。

 また、その前の『中論』の一章では縁起の話が述べられています。縁起というのは他因aによって結果bが生じるという、ボトムアップの議論ではないということが執拗に述べられている。もちろん自己原因でもなく、無因論でもない。縁起というものがあり、無限遡行にも陥らず、無因論にもならないとすると、「Aがあるから非Aがある」「非AがあるからAがある」といった循環する全体構造こそがあり苦の原因には特定の始点がないということこそが、縁起によって語られたことなのだというのが、ナーガールジュナの考えです。先に述べた第四レンマ的な「縮約」が、この大きな構造のなかでは語りうる。

 「離二辺の中道」という断見・常見のどちらでもないものは、あえて「原因についての問い」を展開する「縁起」の思考によって、初めて帰謬法的に見出される。初期仏教のこの二つのテーゼは、そう考えてこそ噛み合う。縁起を作る要素である「それぞれの縁」には自性もなくむろん依他起性も否定され、ばらばらのそれらがさまたげ合うことなくあるという相依性や空の考え方が、『中論においてすでに出てくる。先のインタラクション(インタラクションしない脱去した部分も含めた他との関係)は「相依性」になるわけですね。ナーガールジュナは原因の無限遡行を否定するにしても、西洋のように初期近代のサイエンスが発展する余地がないくらいあっという間に見切ってしまうんですが、その先の展開についてはむしろ早く掴んでいるのは不思議です。

注:遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)「本当は存在しないのに、私たちが勝手に思い込んで作り上げてしまう性質」 という意味。仏教、特に唯識(ゆいしき)思想で使われる専門用語で、三性説(さんしょうせつ)のひとつ。

もっと平たく言うと、

  • あるがままの姿ではなく
  • 自分の心が勝手に「こうだ」と決めつけてしまう
  • その「思い込みによって作られた世界」

を指す。

注:依他起性(えたきしょう)」:「すべてのものは、原因と条件が集まって生じている」 という性質を指す。唯識(ゆいしき)思想の三性説のひとつ。

簡単に言うと、

・ひとりで独立して存在するものは何もない

・すべては縁(原因・条件)の集まりで成り立っている

固定した実体はない

という考え方。

出典:Microsoft Copilot回答

 実は、仏教も同じようなことを言っています。仏教には「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」というものがあります。それはもののあり方から逆算して、そうしたあり方を実現しようとする主体があるとする考え方です。これも変化を自己原因的に捉えています。つまり自性(じしょう)があるという考え方について、それは誤りである述べています。自性があるのではなく、無自性なのです。

 その次に、「依他起性(えたきしょう)」といって、他のものが原因で起こる他因による説明を、これは『空海論/仏教論』でも述べたのですが、吉蔵が言うようにもとより「無限遡行になるから間違いであるとも指摘されます。こうして、「円成実性(えんじょうじっしょう)」ということが言われるようになるわけですけれども、この2つの否定は、実は近代科学がずっとやってきていることだと思うんです。

――近代以降の仏教について考えると、ある種の大乗否定論というものが出てきますよね。『空海論/仏教論』でも冒頭で、その点について指摘されていたとも思いますが。

清水 そうなんですよね。大乗非仏論に対して、僕には反論があるわけです。ここ10年くらい、初期仏教以外は仏教じゃないという論調がありますね。初期仏教の考え方に則れば、生産も結婚もしてはいけなくてそれが許されたら仏教でないとか、ものすごく不毛なことを言う人までいる。


 とはいえ先ほども述べたように、もともと縁起の思想があって、ことさら他因の作用を連ねているように見えながら、循環する構造としてしか考えられないとか、離二辺のテトラレンマを語って、有(常)でも無(断)でもないといった主張が仏教の最初からあることを思えば、初期仏教から大乗まで含めて、すべて仏教だと思いますね。

そもそも同時代の六師外道にも唯物論的な人とか、テトラレンマを操る懐疑論者とか色んな思想の人がいるのだから、初期からそんなに単純な教えだったわけがないんですよ。仏教を大学的なポジティヴィズムで見ているわけです。ポジティヴィズムの弊害の一つは、こういう風に時系列でズダズダに断裂させて物事を捉え、それで詳しく分かった気になるところです。

 その縁起説の解釈のバージョンアップが例えばナーガールジュナでも起こるし、縁起説で語られることを対象世界と認識主体との循環的なインタラクションとして精緻にしていくと唯識になります。

詳しくは『空海論/仏教論』を読んでいただきたいと思いますが、「識」のなかの《循環構造》と、華厳でいう《一と多の相互包含》という思想が仏教を発展させます

<参考情報>

清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分」で「識」の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけですよ。

出典:サブタイトル/「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|前編

<参考情報>

■法界縁起

・円融無碍と性紀のアプローチがある

円融無碍

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

 循環だけを強調していると、同じところで堂々巡りをしている印象なので、「一と多」というバイナリーを出してきて、それについても離二辺である、ということが明確に主張されるようになる。一と多の相互包含は、複数の「識」どうしがお互いに含み合うところからそう言われるわけです。

 空海だと《循環構造》を「相応」、《一と多の相互包含》を渉入と言いますね。渉入自在と言ったりする。それがまさに一即多なんです。「相応」というのは「識」のなかの見分(≒認知主体)と相分(≒対象世界の現れ)が循環的に対応しているということです。空海は、それはヨーガyogaだとも言っている。英語のyokeと同じでヨーガには「くびき」という意味があり、牛が二頭繋がれるように、「つなぐ」意味あいがあるわけですよね。これがヨーガであり、即だという言い方を空海はしている

奥野 なるほど。その辺りの話は『空海論/仏教論』では、203〜204ページあたりのことですね。

清水 井上円了も、循化(輪化)と言いますが、世界の因果関係は直線的に雨が降って川になって泉になって海になるというふうに見るのではなく、丸くないといけないという。海の水が蒸発して雲が出て、また雨が降るというように丸く捉えないといけないと図まで書いている。すべては縮約するし、かつ「一と多」でも相互包含するから、「即」であってまた多自然なわけです。

奥野 循環構造ですか。

清水 ええ。世界はまず循環構造として捉えられねばならない。してまた、特定の始点があるのはいけないとも言っている。『大乗起信論』は少しそうなっているところがあり、天台などの思想もあわせて補わないといけないとも言っている。円了は循化・輪化の話と合わせて、相含ということも語っています。仏教を論じるとき彼がよく対比で出してくるバイナリーがあるんですが、それは「真如と万法」というものです、「真如」は真理としての世界そのもののありかたとしての「一なるもの」。「万法」は雑多なこの世のあり方。万法是真如で、一と多が相互包含しているという風にも彼は語っています。先に述べたような、循環と相互包含の二種のダイナミズムをうまく押さえていますよね

 これは空海で言えば、相応と渉入ですよ。これがわかっていれば、仏教の構造の核心が理解できる。こういうことを明治の初年頃までは日本の知識人は普通に分かっていたらしい。しかし、一世代・二世代後になると、まるっきりわからなくなる。仏教の世界観とそのダイナミズムが、まったく理解不能になってしまい、それを反知性的な超論理の思想だと思い込んでしまう。

『空海論/仏教論』を書いているときはとにかく理論的に仏教を捉えようとしていたんですが、最近では最初期の原始仏典の『スッタニパータ』を読んでいても、これはわかっていなければできない表現だろうなと思うことがたくさんあります。

 禅籍でも、悟ったからこう表現したのだろうと真面目に偈頌を読みますよね。なぜこんな奇妙な表現を採っているのかと。『スッタニパータ』も偈頌なのだから、そのように読まないといけない。「蛇の毒が身体のすみずみにひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」という有名な言葉がある。この世とあの世をともに捨てるというのは、明らかにテトラレンマ的な発想がなければ言えないそれに蛇の毒を薬でと言っているけれども、これは血清なんですよね。毒を使って作った血清以外に薬が効くわけがないので。血清は古代ローマとか古代エジプトでも知られていたので、古代インドでも知られていたのでしょう。そうすると、パルマケイアというか、毒がまた薬になるという第三レンマ的な発想と第四レンマ的な発想がここですでに出ているわけですね。蛇というのもさっきの循環ではないけれども、巻いていく印象がある。脱ぐというのには内と外をひっくり返すイメージもある。ある境界の内部から、開かれる感じです。

 初期仏教の頃は、教えは口伝で禅定や戒律を守ることで身体的にそれを分かることが大事だったんでしょう。それがだんだん教理が精緻になってきて、複雑なものになっていくわけだけれども、それらは全部つながっていると思います。

出典:サブタイトル/『今日のアニミズム』から『空海論/仏教論』へ~清水高志+奥野克巳 対談転記~

■アニミズム、レヴィ=ストロース、構造主義から一部抜粋

春日直樹 × 奥野克巳 × 清水高志

トライコトミーと二項対立、そして圏論

春日:本書『今日のアニミズム』にまとめられた論考は、いずれも力のある論考で、とりわけ宗教について深い場所から取り出そうとしている。やはり今日の世界状況で、人間や社会、世界を考えていくためには、私たちのあり方や知識のあり方を含めて、どのように生きていけばいいのか、その全てを見直さざるを得ないようなところに差し掛かっている、ということを感じさせられました。それをやり始めたら当然、宗教的な次元へ向かうし、アニミズムの話を含むことになるでしょう。これはタイムリーなトピックであるし、私たちのあり方の根源を考えさせるための手掛かりになる書物だと積極的に評価します。

清水:ありがとうございます。

清水:哲学者の僕がなぜ、アニミズムについて考えるようになったのか、簡単にお話ししますと、それはもちろん現代性があるということもそうなのですが、僕は哲学における《幹-細胞》的なもの、つまり多様な細胞に分化していく前の、ちょうどニュートラルな核になるものを取り出すということを、『実在への殺到』(水声社)を書いた頃から試みていました。さまざまな宗教がおこり、これだけ人類の文化が多様に繁茂した中でその《幹-細胞》のようなものを考えられるとしたら何かというところで、それはアニミズムではないかと思ったのです。
 ヨーロッパの哲学、思想というのは古い時代から非常に一貫性があり、聖典的なテキストを定め、ニュートラルな形や一般的な解釈をもとめて、無駄な概念を削ぎ落として議論していくわけですが、それとは逆に、仏教や東洋思想というものは、さまざまな聖典や解釈のバリエーションを際限なく増殖させていきますよね。そこをヨーロッパの人々がやったように、いったん絞って考えたほうが、われわれの現代の文明だけじゃないものも深くまでわかるのではないか、ということなんです。
 それともうひとつ、僕自身の思考の傾向なのですが、大体三つくらいのことを三題噺のように同時に考えるというのが、なぜか僕は好きらしいんです(笑)。処女作の『セール、創造のモナド』(冬弓舎)では、ミシェル・セールと西田幾多郎、ライプニッツを同時に扱っていた。あるいは、「ヴィヴェイロス論」を書いているのに、その中でヴィヴェイロス・デ・カストロだけではなく、ブリュノ・ラトゥールやライプニッツが出てきてしまったりします。そのように三つくらいを回しながら考えるという発想のパターンがあり、それでとうとうトライコトミーという方法論を『今日のアニミズム』で考えるに至ったのです。
 今回、春日さんとお話しすることになり、レヴィ=ストロースの著作などあらためて自分なりに読み返してみました。人類がいろんな形で物事と物事の関係をつける、春日さんの圏論を導入した最近の考察もそうだと思うのですが、その中で二項対立ということが非常に重要な思考の鍵になっている――レヴィ=ストロースも、色々な文化の内部で考えられてきた二項対立を、複雑に読み解いて考察していますよね。――ところで、21世紀になって明らかになってきたのは、そもそもヨーロッパの文明自体も、そのように二項対立を複雑に結びつけて人類が世界を意味づけてきたことのバリエーションのひとつだったのではないかということです。フィリップ・デスコラの仕事が示唆しているのもまさにそうしたものです。レヴィ=ストロースはあくまでも異文化を理解するために深く踏み込んでいったわけですが、気がついたらヨーロッパの文化もその探究の範囲に入っていたというようなところがあると思います。
 それで、もっと哲学の側からもそれを真剣に受け止めて考えなければならないと思い、何種類かの二項対立を、あらかじめ絞ったうえでお互いに結びつけたり、媒介させたり、第三項的な媒介者の位置を循環させたり、そうした循環の縮約されたモデルをミニマムで考察し、その哲学的な意味を解き明らかにしようとした。それがここで提示された、三種類の二項対立の組み合わせからなるトライコトミーというものです

春日:『今日のアニミズム』では、清水さんは「主体/対象」「内/外」「一/多」とされていますが、トライコトミーとはこの三種類の二項対立だと考えていいのでしょうか。

清水二項対立を複数扱い、二種類の二項対立でなくさらにもう一種類を組み合わせるというのは、ある意味では古くからある考え方で、たとえばライプニッツのモナドロジーは「」、「」(含まれる、含む)、「形相/質料」の三種類の組み合わせによって成っていると理解することができますこのうち特に」、「」(含まれる、含むは重要で、二項対立の中ではある種「王者」なんですよね。三つ目はむしろさまざまなものを代入できるのではないかと思っています。

二項対立の問題は、西洋哲学ではイデア的世界と感性的世界が分離してしまうことをどう克服したらいいのか、という課題があって、そこからその重要性が前景化してきた歴史があるんです。二項対立はだからイデアと関わるものなのですが、「内/外」(含まれる、含む)は、分有されるものであるあらゆるイデアに共通した普遍的性質であり、重要ですがそれだけだと抽象的過ぎる。それをもう少し感性的なものにした二項対立が「一/多」で、後期プラトン、たとえば 『パルメニデス』や『ティマイオス』は、こうしたものに他の二項対立を組み合わせるという議論ばかりやっています。
 僕はミシェル・セールの学問に多年傾倒しているんですが、彼自身にはジョルジュ・デュメジルの神話学の影響が強くあり、そこでは「聖なるもの」と「戦闘」と「豊穣」という、別の三機能がとても重視されている。聖なる神としてのジュピター、戦の神としてのマルス、豊の神クィリヌスといった機能ですね。これらは三位一体であるようで、互いに順繰りに前景化してくるものとしてあります。よく知られているようにデュメジルは、レヴィ=ストロースに先駆けて、ある種の構造的思考を神話のうちに見出した人です。それらの機能の咬ませ方や崩し方は、トライコトミーで僕が考えたこととも重なってきます。今回仏教を読み解くという意味で、「主体対象」「」「」の三種類を取り上げましたが、くっつけたり、ひっくり返したり、相互包摂したりする関係をつくり、多極化するというのは、元来さまざまなものに応用できるものですこうした操作を経なければ、ひとつのオブジェクトに集中するような社会構造がすぐにできあがってしまう。それは貨幣経済などもそうでしょうし、ヨーロッパの近代的と呼ばれる政治的システムもまた同じ偏りを持っています。そのようなものも含めて文明を再考する際には、一度、シンプルな形に戻す必要があり、その中でアニミズムを考えるということを、民族誌的な事例も含めて奥野さんから刺激を受け、それを吸収しながら本書にまとめたという感じですね。
 二項対立を考えるということについて、今一度、ここであらためて人類学者の方々にうかがってみたいと思うのですが、人類学ではさまざまな民族の文化を調査研究していくわけですが、なぜそこでは二項性というものを重視しがちなのか、あるいは異なる二つのものを関連づけるということが、ある文化を考える上でなぜ本質とみなされるのでしょうか。哲学ではこうだという理由については述べましたが、人類学の側からはどう説明されるのでしょうか。

春日:必ずしも二項対立を本質的なものと考えるわけではないと思いますが、私の知るところの二項対比を押し出した議論といえば、1920〜30年代にロベール・エルツというフランスの社会学・人類学者が『右手の優越』(ちくま学芸文庫)という本を書き、それが70年代に入って再考されたという流れです。当時はオクスフォードのロドニー・ニーダムが中心となって『右と左』という本が編集され、そこには綺麗に右/左、男/女、乾いたもの/湿ったもの、太陽/月といったものが並べられ、二項対比的に整理されていった。そんな時代でした。最終的には右側は社会構造へとまとめられて、左側は象徴構造へというような綺麗な対比によって社会的なものと文化的なものが節合して、整合性を持たせるというような分析を行う、いわゆる機能主義人類学の末期の時代でした。そのような議論には私も馴染みがあります。
 もちろん、清水さんの指摘されるように、レヴィ=ストロースを忘れるわけにいきません。ただし、私にとってレヴィ=ストロースはどうしても数学と不可分です。彼は彼なりに数学を自在に使い、活用していった人だと思います。圧巻はやはり『神話論理』(みすず書房)で、特に3巻と4巻です。「食卓作法の起源」から最後の「裸の人」までにかけてのところは、非常に複雑な構造が出てきますそこでは二項対比が当然使われるわけですが、いかに対応を見出していくかが重要になってきます。レヴィ=ストロースはこのような言い方はもちろんしませんが、たとえば、主体と対象があるとしましょう。そして、一と多があります。すると主体と対象の関係を、一と多の関係に関連づけることができます。さらにその関連づけた対応性が、内と外の関係へと対応づけられます。そしてその対応は今度は別の方へ、たとえば『神話論理』の1巻で述べられた「生のもの」と「火にかけたもの」の対応へ、さらには火と灰へと対応をつくることができます。このように対応関係を入れ込みながら、どんどんと増殖させて構造化していく。そこには感覚的なものも入ってくる。いわゆるレヴィ=ストロースの言う感覚的にして論理的なものの生成であって、その論理が何かというと、対応関係の構築ということだと思います。
 彼の構造化がどこまで正しいかはともかく、そのように言語化して提示できるというのは、私としては非常に魅力的です。感性を働かせて、深い意識、ないし無意識のギリギリのところから論理をつかみ出している。フロイトの精神分析は私にはあまり合わない感じがするのですが、レヴィ=ストロースの『神話論理』にかかると、もっていかれてしまうところがありますね。

清水:僕も自分の論考の注に書きましたが、そのようにレヴィ=ストロースが鮮やかに読み解いていく複雑な関係づけがあり、またそれに対する、彼自身によるメタ言説もありますよね。――有名な論文で、彼は神話変換の公式というものを出してくる。神話の中ではなんらかの関係が描かれ、その関係をつくる複数の項があるわけですが、項と項によってつくられたはずの関係がまた項と同じレベルのステージに立つ、その位置に繰り込まれるということが神話というものを成立させているという。その表現が神話変換の「公式」なんですね。これは非常に面白いと思う。


 そもそもモナドロジーというものはアトミズムに対する転倒なんですね。アトミズムとは何かと言えば、部分からボトムアップで全体がつくられていく、理論もエビテントなものをつないでつくっていった果てにあるものが合理的であり、そうやって最後に外在的な対象にアプローチするのが正しいという考え方です。これを転倒させるためのものがモナドロジーだったし、だからライプニッツも「諸部分からの構成に先立つ」単一体としてのモナドというものを持ちだして世界を考えようとしているんですが、レヴィ=ストロースが神話公式でやろうとしていることもやはり同じ転倒だと思うのです諸部分と全体がフラットになるというのが、ここでは一番重要なわけです。

春日最近の言葉で言えば、フラクタルを想起します。数学をやっている人がどこまで考えているかは知りませんが、数字で1、2、3、4と増えていく反復の関係があり、「べき」乗というか、一度出したものをまた入力して出力し、また入力して、と同じことをずっと繰り返していくわけですよね。あれは方向性があると言えばあるし、ないと言えばない。どっちにも同じように戻っていける。
 『今日のアニミズム』の議論の中では、奥野さんが指摘をされているシンクロニシティにつながります。時間がないということ、「無時」の時間です。因果というものをそのように考えるならば、実は数学で表していることも結局は同じではないかとも思います。

<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>

■同じパターンが繰り返される系とは

あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。

つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。(スケールフリー)

<参考情報:ベキ分布が観測される現象

出典:サブタイトル/⑩ 想定外を想定する~統計手法(帰無仮説を含む)も活用した避難判断に関する各種情報収集~

有名なのは地震のマグニチュードの大きさと頻度の関係(グーテンベルグリヒター則

火山噴火、雪崩等の自然災害の規模と頻度の関係

ベキ関数とは

現象の2つの観測値(規模と頻度)が、ベキ乗で比例するという関係

⇒\(y=x^{-b}\)

⇒\(x\)現象の規模(サイズ)

⇒\(y\)現象の頻度(数)

\(b\)をマイナスにしたのは、「規模」が大きなものは「頻度」が少なる関係(反比例)を表す為に。

出典:https://takun-physics.net/4615/

指数関数

⇒\(y=e^{-x}\)

\(x\)(規模)が指数となっており、

⇒底がネピアの数\(e\)となっている。

ベキ分布の数式

\(y=ax^{-b}\)

・両辺で対数(\(\log\))を取る(\(x\)軸、\(y\)軸を対数)

⇒\(\log _{10}y=\log _{10}\left( ax^{-b}\right)\)

⇒\(\log _{10}y=\log _{10}a+\log _{10}x^{-b}\)

⇒\(\log _{10}y=log _{10}a-b\log _{10}x\)

とおくと

となり、\(x\)軸、\(y\)軸共に対数の場合に一次式(線形)になる

グーテンベルグリヒター則(G-R則)

地震の規模(\(x\))と発生頻度(\(y\))の間に見られる経験則

⇒小さい地震は多数発生するが、大被害が生じるような大きな地震は稀にしか発生しない

「マグニチュード」と『その発生個数の対数』との間には直線的な関係(直線で近似出来る)が成り立つ

\(\log n\left( M\right) =a-bM\)

の式で表される。

⇒Mはマグニチュード、n(M)はマグニチュードMの地震の発生個数、

N(M)はマグニチュードM以上の地震の総数(積算地震数)

aとbは定数で

bは直線の傾きを表しており、

地下の応力状態を表す重要なパラメータの一つであると考えられている。

尚、bは地域性などに違いがあり

bが大きいほど相対的に小さな地震が多くなる

出典:http://namazunokai.starfree.jp/pdf/lecture_03.pdf 地震の規模別頻度分布 梅田 康弘 京大名誉教授 

出典:https://slidesplayer.net/slide/11572045/ 首都圏および東葛地域の地震について 瀬野徹三(東京大学地震研究所) 2012.09.29布施新町二自協ふれあいセミナー      

清水:そうですね。先ほども触れた春日さんが圏論を導入された論考では、繰り返される関係づけの変換の中で、フィードバック構造が描かれているわけですよね。哲学者の田口茂さんが数学者の西郷甲矢人さんと一緒に、哲学と圏論とで何年にもわたる理論的対話を行い、その成果をまとめた『〈現実〉とは何か』(筑摩選書)という本が先年出ましたが、非常に面白くて僕は感心して読みました。その本の中で、圏論の構造というのは最初任意の非-基準的な選択というものがまずあり、そうした選ばれたものについてもろもろの要素による変換のフィードバック・ループができあがり、そしてそのループの中で法則性が定義されてくるものであるという機序が丁寧にたどられていました。これがひとつには圏論のあり方で、サイエンスも広く見ると、皆そのようにしてつくられてくるのだと述べられていたのが印象的でした。呪術の実践という主題が扱われた春日さんの論文でも、A(生者の領域において呪術を構成する集合)からB(霊の領域において呪術を構成する集合)へ行き、またBからAへと戻ってくるという関連づけが、変換とフィードバックを通じて、圏論でいうカテゴリーを形成していくさまが分析されていますね。
 外的対象として、たとえばサイエンスの対象が厳然としてあるのではなく、人間との関与の中でできてくるというのは、ラトゥールもしばしば指摘していることですが、圏論がやっているのは、そのような形で変換操作と介入を通じて生まれてくるものとして、数学的対象の成立を一々定義してやることなんじゃないか。科学技術論(STS)においても、技術のイノベーションは、人間からの関与とつくられる物からくる独立した作用(agency)のフィードバック・ループで起こってくるという議論が一般的になってきています。双方にフィードバックがあるからこそ、かえってモノにエージェンシーがあることがはっきりするということなのですが、数学の対象を生みだしながら、圏論がやっていることもまさにそうですよね。圏論的なテーマを展開すること自体がそういうことなのだろうと思います。圏論的なカテゴリーの形成と、ある習俗の中で呪術として行われていることを重ねていくのが、なんらかのエージェンシーを持った対象創造が行われるあり方を、非自然言語をも用いて明確に定義するためなのだとすると、なるほど面白いと思いました。

自然言語を超えて記述すること

春日:宗教の話から入りましたが、他方で科学を考えるとどうしてもシステム的と言いますか、システム化を必然にしていくところがあります。知識の方向づけという点では、人文系、社会系のいずれの学問も一応は科学に従っている形をとっていますね。これに対しての宗教には科学に対するメタシステム的なところがあるのですが、それをどのように論理化して表現するかが大きなテーマになると思います。科学の場合には、論理と言っても基本的に記号論理やブール代数の次元にとどまるので、文系の議論ではたとえば論理を内破する形での論理的な運びで、論理のアポリアを明らかにするという手法がよくとられます。いわゆる否定神学的な構造化であって、ドゥルーズ=ガタリあたりも私は同様だと思っているのですが、一言でいえば二項対比を通じて二項対比を無効化するスタイルです。もうひとつの方向性は、メタ論理を最初からメタ論理の原則をさだめた上で展開するというもので、それならば独特の論理を持ってきてもいいし、独特の言語をつくってもいい。清水さんの議論ではその二つが両方とも使われている気がします。
 要するに『今日のアニミズム』には、通常の記号の論理、言い換えるならば「手堅い」論理で読んでいくと読めないところがある一方で、そうではない部分もある。私は論理が辿れないと言いたいのではなく、逆に関係を自分流に定義づけているように読めると指摘したいのです。つまり、定義づけを通じて、新しい論理の使用方法を示していくという論法です。それは何も清水さんに限った話ではなくて、現象学をのぞいて大陸系の哲学者に認められる書き方なんですよね。最近はカンタン・メイヤスーやマルクス・ガブリエルというようなとてもわかりやすい哲学が登場していますが、私は論理演算を使うと計算間違いがチェックできるような哲学というのは、本当の哲学ではないと思っています。そうすると哲学というのは、もともと清水さんスタイルの議論からつくられているものだと思います。

 で、ここからは私が少し違和感を持つところに入ります。『今日のアニミズム』で行われる哲学的な議論というのは、全て自然言語で行われています。自然言語でメタシステム的な思考のできることは、どうしても隠喩や逆説、アナロジー、というような文芸的なものになりがちです。奥野さん、清水さんお二人とも文学への言及もされているし、文芸のセンスがあるから、そういう意味ではぴったりなわけですけれども。
 もともと、私はたとえば岩田慶治に対しても偏見がありまして、あまりいい言い方ではないけれども、エンドルフィンが分泌して、知的に低い水準で多幸感が得られるところに収まっていくような、そんな先入観があったのです。けれども、奥野さんや清水さんの議論を読み、そこに複雑な構造を読み取っていこうと努力をすると、確かに一定の説得力がある。岩田は理解しにくい構造をなるべく簡潔な自然言語の表現を通じて理解しようとしているのかと改めて読み返すと、確かにそう読めることに気づきました。これは『今日のアニミズム』を通じて、学ばせていただいたひとつです。
 しかし、お二人の論じ方にはそれでも少し違和感があります。議論の出発点は面白いのですが、「相互包摂」や「相依」というような表現に落とし込まれていって、いつも同じ論理が繰り返されて、その先にどこへどのように展開できるかがわからない本書の中で、岩田の文章は何を読んでも同じようなことが書いてあると述べていたように思いますが、結局、少しずつ解釈の対象を変えて、同じ議論を反復していくだけではないか。率直に申し上げると、そのようなまどろっこしさが感じられなくありません。
 では、「お前はどうするんだ」と言われると、自然言語でなかなかつかまえることができないのだったら、手近なところにあるのは数学的な言語なので、それを使いながら議論を組み立てていいのではないかと思っています。もちろん、数学的な言語の限界はあるわけですし、数学に全て従う必要もないわけですから、たとえば、それを一種の、否定神学的に示していくという手法もあってもいいわけです。私だったら、そのような方向を目指すだろうというところです。今回の論文も、数学の論理を貫きながらその論理を逸脱する側面をあぶりだしてみました。

清水:記号の「手堅い」論理では繋がっていないという指摘がありましたが、実際にはまさにこれがライプニッツ的哲学の構造なんです。デカルトみたいにエビデントなものが鎖のように繋がっていない。そのために、ざっくりと似た構造をとってきてそれらの照応を考えるという形になっているわけですが、これはミシェル・セールもやはりそうです。彼の時代は、数学じたいがそういう方向に向かっていた。ヒルベルト流の公理主義が破綻して、高等師範でアンドレ・ヴェイユらのグループ、ブルバキが活躍していた時代で、集合論に基礎を置きながら新しい数学のあり方を模索していた時代です。そこではややつまみ食い的に、あちらこちらで見出された数学的構造が別の対象についても語れるということが、手がかりとしてきわめて大事だった。
 それともうひとつはトポロジーから、位置解析の考案者であったライプニッツに遡行していったのがセールです。科学を体系的に説明するというようなことは、たとえばデカルトなら幾何学から代数へ、代数幾何から物理へといったものが延々とある。そのように体系づけるというのはオーギュスト・コントくらいまではやっていたのですが、現代においてはもろもろの学問の全体をそんな風に体系づけることはできず、照応とモデルの貸し借りから考えていかないといけないようになっていますよね。

春日:いえ、体系づけるということではなく、自然言語とは別の言語を用いることで、今の議論をさらに進めて新しい議論の展開ができるということです。勝手なイメージで話しますと、たとえば圏論でいうトポスに置き直してみると、論理学と幾何学が結ばれていく構造に出会います。あるいは、奥野さんが「メビウスの帯」を扱ってらっしゃるけど、トポロジー幾何学そのものを積極的に活用するとか、ライプニッツに入って無限の話や超準解析から出発するとか。そうすると、現在、生成中の数学的な議論がもっとふさわしいのかもしれないけれども、どこか余裕を持ちながらそれを活用する議論をしていけば、私からすればもっと面白くなる、というような感想なんです。

清水:中沢新一さんが『レンマ学』(講談社)で数学を用いているように、自然科学がもっと入ってきたほうがいい、ということなんですね。それについて言えば、それは本当にそうだと思います(笑)。セール自身、自然学の人であり人文学の人でもあった。それはそうだとしか言えないけれど、どちらかというと自然科学と人文科学の対話というのは、セールがやった仕事なので。その重要さはもちろんなのですが、一方で彼があまりやらなかった部分もあって、それはやはり「東洋」と「西洋」との対話、またいわゆるプリミティブな文化とヨーロッパの文化との対話だと思うんですね。僕はそういうことをもっとやりたい。
 デスコラについてセールが書いたときに、デスコラは分析する諸文化のバリエーションのひとつとしてヨーロッパの文化を含めたんですが、さらにそれをセールが推し進めるようなことをしたんですよ。西洋の文化を代表する幾人もの天才たちを採り上げ、デスコラがナチュラリズム、アニミズム、アナロジズムといった四象限で考察した性質を彼らが個人で複数体現していることを分析し、そこから文化創造の問題を考えたんです。読んでいて惹かれるとともに、変わったことを始めたなという印象だったのですが、最近セールは最初からそうだったんじゃないかという風に思い直したんです。一番初期に、みずからの手法として「ロゴス分析」という言い方をしていたときから、つまりプラトンやミシュレについて書いていたあの時点から、セールはギリシア以来の西洋の自然科学的、人文的な文物を扱いながら、それが生成する背後にある、レヴィ=ストロース的な意味での「無意識」を読もうとしていたのではないか。つまり西洋文明に潜流する野生の思考を読もうとすることが、「ロゴス分析」だったのではないかと思うようになりました。
 そこに淵源する人類学的な方法は今、ラトゥールたちを経由して、あらゆるところへ散らばっています。個別的なイノベーションの場というのは、ラトゥールがやったようにそこではうまく分析できているのですが、その全体のつながりを見るためには、先ほども話したようにメタ論理が必要だろうと思います。それは特定の出発点から演繹するものではなく、多数のアプローチがあって対照できるけれども、それによってつくられたものもまた別の結節点に動員される、そうした構図があるというものです。これは西田哲学でいうと、「作られたものから作るものへ」という、裏返しの操作ですよね。先程のレヴィ=ストロースの話に戻ると、項と関係が同じスケールフリーになって神話ができているということと同じです。これはメタ的にも言えるんですが、それについて言及する場合には、個別の項から離れた普遍的な縮約モデルをつくらなければいけないため、かなり抽象になっていく。その抽象の形を理論化したのが、一面でまた仏教でもあって、先ほども出た「相依性とかテトラレンマというのもそうした意味での縮約のモデルだったのではないかと思っています。
 感性的なものを自然言語ではない形でロジカルに表現したいという衝動はわかりますし、当然、僕にもあります。じつは以前、圏論で西田をすっかり語れるんじゃないかという企画が持ち上がったことがあって、ある人が数学者の森田真生さんを紹介してくれて、一度京都まで行って、対話をしたことがあります。僕は僕で自分の論理を展開して話したのですが、森田さんは「いや、それは別に圏論にしなくていいのでは?」と言うんですよね。こちらの論理展開のほうが「それはそれで筋が通っているし、変にやらないほうがいい」と言われて帰ってきたことがあります(笑)。また、僕自身、そこまで数学でできるのかというと、自然言語よりはるかに難しいでしょうね。

科学を含み込む普遍的なものとしてのアニミズム

奥野:春日さんから頂戴した草稿は、日本文化人類学会の機関誌『文化人類学』に掲載される予定の論文ですね。非常に面白かったです。かつて浜本満さんらが40年前に呪術研究の新機軸となるような論文を発表されてから(浜本満・加藤泰、1982年、「妖術理解の新展開についての試論」『東京大学教養学部人文科学科紀要』)、かなりの年月が経ちましたが、この論文は呪術論としては、それ以来の衝撃です。結語として書かれている「21世紀の構造主義」を名乗るのにふさわしい論文として展開されていると思いました。

春日:ありがとうございます。

奥野:圏論について私は明るくないですが、春日さんの草稿に書かれている内容は、本書でやったこととそんなに隔たっていないのではないかと感じています。そこで二項対立的に語られているのは、「目に見える世界」と「目に見えない霊的な世界」です。そのような二項対立が、中沢新一さんが、二項の対称性や非対称性の観点から探られている「バイロジック(複論理)」的なものに通じるのではないかと理解しました。また、レヴィ=ストロースに言及しながら関係論的に論じていらっしゃいます。春日さんの論考は、『今日のアニミズム』で、私のパートで扱った「メビウスの帯」、あるいは仏教で言えば、吉本隆明が「還相論」と呼んでいる、「穢土」と「浄土」を往き来する浄土思想、つまり二項対立を無効化する無始無終の往還運動でやっていることにも似ているのではないかと思いました。
 こんな丸め方は失礼かもしれませんが、向かっているところは、『今日のアニミズム』で論じたことのある種の相似であるように思います。先程のお話では手段や手がかりにするものは確かに異なっていますが、よく似た部分を探っているように思います。
 ところで、この鼎談の冒頭でおっしゃったように、清水さんと私のアプローチはまったく違っているというのは、その通りだと思います。私の場合、「未開人」たちが考えていることを「一と多、同と異は、その一方を肯定する場合、他を否定する必然を含まない」と表現し、それを「融即律」と呼んだ、ルシアン・レヴィ=ブリュルを導きの糸として、アニミズムを考えました。これが表と裏があって、表と裏がないという「メビウスの帯」という、私のアニミズムのモデルを引き出してくる元々の流れにあります。
 他方、清水さんは、この2500年という人類の思想の系譜から辿っておられます。古代ギリシアの二項対立の問題検討を踏まえ、それを大乗仏教哲学の集大成としてのナーガールジュナの『中論』と対比しながら語られています。融即律とは、一でもあり多でもあるという意味で「第三レンマ」的ですが、そこからその先に、一でもないし多でもない「第四レンマ」にまで踏み込んで、二項対立の問題を解こうとされている。二項対立に第三レンマを繰入れて、第四レンマを生み出す地点にまで進んで行って、一と多が、もうひとつの二項である主体と客体とツイストするだけでなく、含まれるものと含むものという内と外をさらに交差させることによって、ダイコトミーではなく、トライコトミーという考えを導き出されています。そのことによって、清水さんの言葉を借りれば、《幹-細胞》が、より明確な形で捉えられるようになったと思います。
 ここまで述べてきて何なんですが、どちらかというと、二項対立、さきほど春日さんが述べられた人類学の主題として重要なのは、自然と人間の二元論ですが、それを乗り越える切り札のひとつこそがアニミズムなのだろうと私は考えています。清水さんも述べられたように、《幹-細胞》の正体はアニミズムなのではないかと思います。

清水:春日さんの論文では、圏論とパプア・ニューギニアがいきなり繋がっている。それはとても凄いことだと思うのですが、アニミズムのあり方そのものも本来じつに多様なので、僕の場合仏教という形での縮約モデルをワンクッション挟んでおかないと手に負えないなと思って、『今日のアニミズム』ではそうなっています。仏教は仏教のほうで、仏教学者との対話を続けていて、仏教論理学と比較哲学の研究という形で正式に発表しようということになっています。科研費も得て、仏教というものを現代の思想としてアップデートするという試みです。

春日:なるほど、以前に『モア・ザン・ヒューマン』(以文社)の中で、清水さんは仏教学者の師茂樹さんと対談されていますね。元々は禅の話が主だと思いますが、やはり最初は、超論理とかいうスタイルで済ませていたのでしょうか? 自然言語の体系を、さらに自然言語によって崩していくというような形で。

清水:ずっとそうですね。言ってしまえば、井筒俊彦までずっとそうなんですね。僕からすると「一/多」の問題がクリアされていない。二項対立の問題を、あらゆるものが分節する以前の「不二」という、「一」のほうで解いてしまっている。そうすると、その「多」の問題が後から宿題になって残ってくる。ポストモダンまでずっとそうです。

春日:ポストモダンについては本書でも書いてあったけれども、そのとおりだと思います。

清水:井筒もそういうところがあるので、そこを本当に組み替えないと「禅というのは知性じゃない」みたいな話になってしまうので、ちゃんとそれもロジックなんだと言いたい。先程、自然言語だけでは駄目だというような話がありましたが、仏教などの東洋思想があまりにも非理性の側に割り振られているので、そこをもっと復権したい。復権して形をつくっていくと、それに絡まり合っていたアニミズムがもっと浮上してきて、はっきりとつかめるのではないかと思うのです。

春日:数学の話をしましたが、そもそも科学とは何かというのは大変難しいけれども、やはり数学と繋がれているところがある。数学に近い関係にある。数学的な思考と比較的、近い関係にあるというふうに私は考えています。それを踏まえてアニミズムとは何かと考えたときに、奥野さんはアニミズムとは「西洋の理性と科学的な知識では捉えきれない何かだ」というようなことを述べていたと思いますが、私はむしろ、西洋の理性や科学的な知識が立脚する原初的な思考様式として、アニミズムを考えてみたい。これはお二人とも反対するところではないと思います。
 私にとって、レヴィ=ストロースはこの点でもよい見本です。お二人が本書でテーマとしているように、人間の思考そのものの差異を超えて普遍性に向かうところ、しかもそれが時間や空間の枠を超えて、意識や反意識の水準を押さえて広がるところに、おのずと宗教的な話やアニミズムというものが出てくるというのはよくわかります。しかし、それだけではなくアニミズムが、広い意味での構造」――私はそれを「構造」と呼びたいのですが――として語り得る水準というものがあってそれは清水さんにとっての論理と無縁でない、と思えるんです。「構造」は科学の記述を生むだけでなく、タンポポの花や鉱物の結晶や猫の瞳を結びつけるし、神話を語る人も、さらに神話を分析する人も一緒につなげていきます。関係性を描く本人がその一部として入っていくときに見出すものとしての「構造」です。

 もうひとつ。アニミズムと他力という奥野さんの主張につながるのですが、アニミズムは私たちの根底的な無力さが染み入るような場で現れる思考だという気がします。宇宙もそこにあるはずの実在も、そして実在するはずの自分も、ことごとく捉え難い対象であるという無力な認識があって、それでも大切な実在について言語化していいというか、言語化し対象化ができるという思いが否定できないときに、その感覚の保証人となるのが「構造」ではないでしょうか。外から与えられる、授かりものとしての「構造」です。アニミズムとか宗教的なものはそこにこそ現れる、と私は思うのです。
 「神」とか「霊」とかの観念は、私にとっては「構造」から見て二次的なものです。実在と記述は別なので、記述できたといっても実在を示す保証はないのだけれども、それでも記述ができて、それなりにありがたみを感じることができるというところが、私にとっては出発点です。その証をよく示してくれるのが、レヴィ=ストロースの提示する「構造」なんです。それが正しいか間違っているかはわかりませんし、数学だって正しいか間違っているかはわかりませんが、私にとってはそういうものとしてあります。科学を傍流として含む大きな普遍としての構造の中にアニミズムがあるんだという認識です。
 ノーベル物理学賞やノーベル生理学賞を受賞した著名な科学者たちが、宗教的な感情を本にまとめて出版したりしていますが、大抵の場合、キリストの神のように至上の存在を前提とするのだけれども、やはり脱主体とか脱個体と呼ぶべき変換と結びつけて書いています。そうした変換によって人間という存在を周りの諸物との関係の内部に溶解させていくし、諸事諸物が不可思議な力を持つような世界を浮かび上がらせるという点で、アニミズムに通底しているなあと思います
 この本の中では科学というものはどちらかといえば仮想敵のようになっているけれども、こう考えるとアニミズムの中で成り立っているのでないか、という気がするわけです。

清水:そうですね。サイエンスとの融和は非常に大事だと僕も思っています。アニミズムと仏教的な世界観や自然の捉えかたとサイエンス。南方熊楠ではないけれども、そこまで含めた体系をつくらないといけないと思っています。
 レヴィ=ストロースの神話公式や「構造」というものを考えたとき、最近僕はよくプラトンを読むのですが、じつは『ティマイオス』の時点で、人類はそうした公式化や記述の試みをすでに何度もやっているんですよね。たとえば火や土などといった元素を挙げて、「二つのものは、第三のものなしにはうまく結びつかない」、第三項が媒介として必要だということを主張しながら、その役割を一番うまく果たすのは比であるという。そして等比数列を例に挙げて、初項と中項と末項の位置を順繰りに入れ替えても等しいという関係が成立することに注意を促したりしている。そこで語られているエンペドクレスのような人も、風土水火というように複数の対立二項に注目し、それらは反対物なんだけれども、乾と湿とか、熱と冷とか、もう少し感性的な対立二項を採っていくとそれらが第三項的な媒介を行い、全体がつながるということを考えているこの第三項の位置も一巡するわけで、これはまさにレヴィ=ストロースのいう縮約のモデルですプラトン以前の自然哲学、西洋の自然科学的思考の基礎にも、野生の思考が脈々と息づいている。これが分からなかったら、逆にプラトンも分からない。
 エンペドクレスは「愛」と「憎しみ」と四大元素で世界を説明したと言われるけれども、対立二項と、中間的な第三項によるその融和の両方を織り込むことによって、マリリン・ストラザーンではありませんが、間接的で部分的なつながりをつくっている。それを当時の言葉で「愛」とか「憎しみ」とか呼んでいるわけです。
 そんな風に、本当に古くから人類とともにイデアリズムの思考とか二元論的思考とかが存在し、イデアそのものと感性的な世界が分離しないように世界をどう捉えるかということが、あらゆる地域でずっと試みられてきたわけですから、春日さんがおっしゃるように現代科学もまたその中のひとつの傍流、その一部と位置づけられるような、個人や個々の文化を超えた巨大な「無意識」や、「構造」というものがあるはずだ。それを記述しきれない無力さというものとも、当然それは表裏一体なわけですが、ひとつにはそこで深く感じられているのがアニミズムでもある、というのは話をうかがっていて本当に共感しますね。

著者紹介

春日直樹
人類学。大阪大学名誉教授・一橋大学名誉教授。主な著書に『太平洋のラスプーチン ヴィチ・カンバニの歴史人類学』(2000年、世界思想社)、『〈遅れ〉の思考 ポストモダンを生きる』(2007年、東京大学出版会)。主な編著に、『科学と文化をつなぐ アナロジーという思考様式』(2016年、東京大学出版会)、共編著に『文化人類学のエッセンス』(2021年、有斐閣)などがある。

奥野克巳 
文化人類学。立教大学異文化コミュニケーション学部教授。以文社より共著、共編著者として『今日のアニミズム』(2021年)、『マンガ版マルチスピーシーズ人類学』(2021年)、 『モア・ザン・ヒューマン』(2021年)、 『Lexicon 現代人類学』(2018年)を刊行している。

清水高志
哲学、情報創造論。東洋大学教授。井上円了哲学センター理事。主な著書に『実在への殺到』(水声社 2017年)、『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社 2013年)、『セール、創造のモナド ライプニッツから西田まで』(冬弓舎 2004年)などがある。主な訳書にミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』(水声社 2016年)、G.W.ライプニッツ『ライプニッツ著作集第Ⅱ期 哲学書簡 知の綺羅星たちとの交歓』(共訳:工作舎 2015年)などがある。

出典:https://www.ibunsha.co.jp/contents/animism02/

■「参与と融即のアニミズム」から一部抜粋

加藤学 × 奥野克巳 × 清水高志

二元論的世界を調停する「アニミズム」の原理

加藤:本書『今日のアニミズム』は、奥野先生と清水先生の独立した四つの論文と二つの対話から成り立っている書籍ですが、テーマはタイトルにもある通り、「アニミズム」です。
本書はアニミズムとはこういうものだというコンセンサスがあるような感じで始められているように思いますが、一般の読者からすると、「アニミズムっていわゆる原始的な精霊信仰のことですか」みたいなレベルの理解をしている方が多いだろうと思います。そういう人たちにとってはすぐに本書に入りづらいところがあるのかなと思いまして、まず今回の鼎談では、その部分をほぐしていきたいと思っています。

清水先生は「まえがき」で、「人類に普遍的に見られるアニミズムと呼ばれる思考と、そこで見出される自然を徹底的に考察し、思想としてそれがどれほどの深度を持ちうるものなのか、その限界まで探求しようとしたものである」と書いています。続いて「ブリュノ・ラトゥールやグレアム・ハーマンのような現代の哲学者の思索をも経由して、ナーガールジュナ、道元、原始仏教の英知に潜んでいた豊かな可能性が、さらにはその背後のアニミズムの活きた躍動する自然が、さまざまな二元性を超克して姿を現す」とも書いています

この「アニミズムの生きた躍動する自然」というもののイメージが一筋縄では理解できないのではないか。例えばフィリップ・デスコラがナチュラリズムとして整理したような、「対象化された自然」であると一般的にはイメージしてしまうと思うのです。一方に人の主観があって、一方に客体としての自然がある、と反射的に考えてしまう。アニミズムの生きた躍動する自然とは、そういうものではない。それを内在的に記述しようとすると、主体による客体の確定記述という我々が普段慣れ親しんだ記法では記述できない。必然的に記述は非常にややこしくなりますね。

奥野先生と清水先生の対話の中でも言われていることですが、岩田慶治が書いていくときに、金太郎飴みたいに、「アニミズムはこうですよ」という公式を、さまざまな形で繰り返し反復して書いていくというところがある。それがアニミズムを記述するときの難しさであると感じます。「アニミズムの生きた躍動する自然」をどう記述すればいいか。例えば岩田慶治の「不思議の場所」という論考がありますが、そこには次のように書かれています。

 伝統社会における空間の構造は二元的である。現世と他界があり、地上と天上の世界がある。娑婆と極楽といってもよい。二つの世界は表と裏のように背中合わせになっていて、たがいに顔をあわせることができない。二つの世界は断絶しているのである。二つの世界をつなぐ橋はない。しかし、だからといって二つの世界が永久に断絶したままであったら、そこに住む人間のこころに究極のやすらぎはないであろう世界の分裂が人間の分裂をひきおこすからであるそこで人間は何とかして、おのれ自身のうちに、同時に、二つの世界を映そうとする。二つの世界のただなかで一元的に生きようとする。そういう一つのねがい、一つの祈りをもっている。その点ではキリスト教といい、原始宗教といっても少しも相違はない。人間のこころの出所は一つである。万法帰一である。万教帰一である。(岩田慶治、「カミの人類学――不思議の場所をめぐって」『岩田慶治著作集』3巻、106頁)

このように、二つの世界を一元的に生きようとするということを、岩田慶治は繰り返しさまざまな観点で書き続けているということだと思うのです。

二つの世界を一元的に生きようとする」ということについて、奥野先生が書いた「第一章 アニミズム、無限の往還、崩れる壁」では、メビウスの帯というモデルを立てています


二つの世界を一元的に生きる。例えば西田幾多郎はこのことを「絶対矛盾的自己同一」という概念で表しました。矛盾しているものが矛盾しているままで同一性を実現していくということですね。奥野先生は、この点をメビウスの帯という形で表現されている。二面の一元的な生と言いますか、そのようなイメージがつかめていないと、やはりアニミズムの自然というのはいわゆるデスコラが定義するナチュラリズム的なものとしてしか、読者の中に入っていかないのではないかと思います。
ティム・インゴルドが言う「メッシュワーク」――この概念は、「生成」と「構造」を折り合わせようとするようなものですが――、これもまた「二つの世界を一元的に生きようとする」ものと言えるかもしれません。それが、岩田慶治的なアニミズムの一つの核になるのではないかと思います。

アニミズムについて何かを言うと、岩田慶治もインゴルドもそうなのですが、同じことの繰り返し、金太郎飴のように言えてしまうところがある。これをいかに、より根底的な形で公式化するかということが重要になってきます。岩田が言うような、二元を一元として生きるというようなある種、詩的というかメトリカルな表現ではなく、哲学的にもう一つ掘り下げた次元で公式化していくことはできないか。本書で清水先生が書かれているトライコトミー、三分法というのは、要するに、トライコトミーと言うのはアニミズムの一つの公式化である。そのように捉えられます。

その公式が世界の中でどのように作動していくべきか、あるいはどのようにし損ねているのかということが、言ってみれば本書の後半でナーガールジュナや道元を参照しつつ論じられる救いや救済の問題に繋がっていく。このくだりが本書でも最もエキサイティングな箇所ではないかと思います。
奥野先生の二つの論考は、恐らく奥野先生自身の実存的な問題みたいのもあるのかなとは思うのですが、「救済」というものは最初から全部一緒にして提示されているとも読めるところがあります。

今日、奥野先生、清水先生にお聞きしたい焦点は、二点です。一点目には、アニミズムというものの定義、公式について。そして、二点目、そのアニミズムの公式がどのように「救済」――それは世界の救済でも自己の救済でも構わないのですが――に繋がっていくのか。
まず、第一の論点として、アニミズムの公式というのは何か。清水先生の論考ではトライコトミーとして提示されています。改めて、簡単にこのトライコトミーとは何なのか、まず清水先生にご説明いただければと思うのですが、いかがでしょうか。

清水:例えば、僕たちが生きる世界があって、それに対して死の世界がある。あるいは人間と自然というように、一見分離している2つの世界をいかに分離のままに終わらせないで生きるかということが『今日のアニミズム』において、大きなテーマとなっています。それは、岩田慶治などもそうです。岩田の場合は人類学者ですから参与観察ということが大事で、自分がフィールドワークする対象の中にいるわけですが、もう一つ、その状況を俯瞰して眺めている眼を持っていることが重要なんですね。

これまでの哲学では、二元性の超克ということを考えるとき、一種の二重性の中だけで考える向きが強かったと思います。主体と対象にしても、精神と現象にしても、二重性の文脈に落とし込んで二元論を解いていこうというモデルがたくさんありました。例えば思考の主体がまた思考の対象にもなりうるという風に、順繰りに内部に繰りこんでいく。ドイツ観念論やドイツロマン派がそうなのですが、こうした二重の構図の中で内在と超越(「内/外」)という問題を解いていくという発想が伝統的にある。しかしこれでは解決になっていないのではないかと僕は思ってきました。どこまでも終わりのないプロセスでしかあり得ませんから。すでに述べた参与観察というものも、もっと違ったものであるべきだと思ったのです。

もう一つ、僕は「」という問題を考えたかった。僕たちにはもちろん個別の実存や生があるわけですが、どうやったらそれが世界そのものの普遍的な形につながり得るかというのは、人類にとってきわめて重要な問題です。永遠のイデア的世界と日常の感性的な世界、「普遍/個別」の分離や二項対立といったものがある。「」は、この原初の二項対立をもう少し通常のものの様態のほうに寄せた、より具体的な二項対立です。

近代西洋的な世界観は、主体が対象に対して優勢な二元論であるとよく言われます。じつはこうした場合には、おうおうにして主体と対象だけでなしに、別の二元性がすでに混ざってしまっているものなんです。例えば主体はもろもろの現象を整合・統合するものだと考えられているし、そこでは現象は雑駁で多なるものであるとされる。「主体/対象」と「一/多」が無自覚なまま混淆しているんですね。「一/多」は、多少なりとも具体的な二項対立でもあるから、こんな風に他の二項対立と混じりやすい。――こうした事情はじつはプラトンの時代から知られていて、例えば《一なるもの》と《多なるもの》のイデアについて考察しながら、「その《一なるもの》はまた《同なるもの》であり、《多なるもの》は《異なるもの》でもあるのではないか?」といった具合に、対話篇の中でソクラテスらは複数の二項対立の混淆を繊細な手つきで注意ぶかく分離しようとしている哲学の歴史の中で繰り返し採り上げられ考察される諸概念は、そもそもそんな風にして生まれてきたものなんです。

ところが最近になって、面白い着眼点がでてきたように僕は思うんです。例えば哲学者で人類学者であるブリュノ・ラトゥールなどの議論を見ると、こうした複数の二項対立が混淆し、それらが組み合わさっていることを自覚しながら、しかもその組み合わさり方を敢えて変えてみたりしている――これは新機軸だ。こうした操作をすることで、それらの項が別のものであることをはっきりさせることができるじゃないか! 僕はそう思ったんですね。

詳細は本をご覧になれば分かりますが(笑)ラトゥールの科学人類学では、「対象が一つあるのに対して、主体のアプローチが複数あって競合している」といった場面から状況を捉え、科学技術のイノベーション等が起こる現場を分析している。――このとき結果として主体よりもむしろ対象じたいが、もろもろの主体が予期せぬ状況をもたらすといった能動的な役割を果たすというのです。この場合、もろもろの主体と対象の間には循環的な相互作用が生まれますが、優位に立っているのはむしろ対象のほうです。二つの二項対立の組み合わせをツイストすることで、能動性の役割が入れ替わる、ある意味やっと対称性がそこで成立することになるわけです。

僕の考えでは、そこにさらにもう一つの二項対立をうまく組み合わせれば、何にも還元せず、どの項もばらばらに区別し、かつ起こっている循環も閉鎖的なフィードバックループではなく、多分岐的なものになるモデルが作られるはずなんです。

僕は以前、『実在への殺到』(水声社)という書物で、哲学の《幹-細胞》にあたるものを模索しようと試みました。上妻世海がメンバーを集め、加藤さんが参加されていたステム・メタフィジック研究会というのも、それを領域横断的に展開した研究会だったですね。そうした主題を宗教という意味で言うなら、アニミズムという形がまさに《幹-細胞》的なものだろうと思うんです。例えばそれが、岩田慶治が生き生きと描いているもののうちに読めるのではないか、道元も同じように読み直せるのではないか。『今日のアニミズム』で考えたことの大枠は、そういうことですね。

加藤:ありがとうございます。清水先生がトライコトミーによって議論している中で「こうすると二元性というのは調停できる」というように、「調停」という言葉がよく出てきますね。そもそも「調停」というのは一体、どういうことを指しているのでしょうか。「一即多」や「内即外」というように、二元性を「即」で繋いでいく、「即」の論理というのがあると思うのですが、この「即」の論理がどのように実現されるのか、言ってみれば、「調停」というのは、「即」ということなのでしょうか

清水:まず二元論がなぜ二元論になってしまうのか、そこには原因があるわけです。それは排中律が成立する条件が成立しているということです。例えば、「このものは白いものである」と言えば、それは黒いものに属してない。これは二元的です。同時に違うものに分類的に属することはあり得ない。その場合は、かならず個別なものがより普遍的な述語に属するという形態になり、アリストテレスの論理学では種や類というものをそのように分類します。ただ、個別のものがより普遍的なあるイデアの性質を分有するということにしてしまえば、反対のイデアが同時に同じものにあるということが言えるのではないか? 例えばこのリンゴは砂粒よりも大きいし海よりも小さい、ということは言えるわけです。二項対立が第三項的なあるものの属性であるということになれば、そのときそれらの二項対立は調停されるというのは、古代ギリシアの頃から知られており、プラトンの『パルメニデス』などでもすでに論じられているんですね。

注)排中律:論理学の基本原理のひとつで、 「ある命題は、真であるか偽であるか、そのどちらかであって中間はない」 という考え方を指す。

命題 P について、

  • P が真
  • P が偽

この どちらかしかありえない とする原理。

数学や古典論理学ではとても重要なルール。

具体例でイメージすると

  • 「今日は雨が降っている」 → 真か偽かのどちらかで、中間はない。
  • 「この数は偶数である」 → 偶数か偶数でないかのどちらか。

こうした二値的な判断が可能な命題に対して排中律は成り立つ。

出典:Microsoft Copilot回答

ただ、分有(participatio)するのだというと、それはその分有されるイデアの部分に過ぎないのではないか? だからやっぱりすべてを含むイデアがあるのだ、という反論が可能で、対話篇でもパルメニデスは結局それがすべてを含む「一なるもの」であって、それだけが存在するのだという風に反駁してきます。こんな風にして「含む(外)/含まれる(内)」という二項対立が、調停不可能なものとして出てくるわけですね

さらにプラトンの後期の『ソピステス』では、わざわざ「エレアからの客人」というパルメニデスの弟子を登場させて、この問題をなんとか解こうとしています。そこでは「~がある(有)」ということの反対にくるものが「無(非有)」ではなくて「~であらぬ)」なのだと主張される。そして「~であらぬ異)ものがある」、という風に述語づけることが可能だというんです。

つまり、いったん述語であったものをまた主語の位置に置き直して、さらに述語に包摂するというループを作って、「含む(外)/含まれる(内)」関係をなしくずしにし、「一なるもの」だけでなく「異なるもの」つまり「多なるものを増殖させてやるという戦略を採るのです

これはギリシア風の弁証法ですが、このようなロジックはスコラ学に引き継がれ、山内志朗氏によるとドゥンス・スコトゥスを経てジル・ドゥルーズにまで非常に強い影響を与えているんだそうです(笑)。これもまた、印欧語におけるBeingの二重性(「~がある」と「~である」)の二重性を使った一つの解法ですね。しかしこれは同じところをぐるぐる回り続けるロジックでもあり、「異なるもの」であること、差異がどこまでもそこでは自己目的化されることになる。この循環はドゥルーズによってニーチェの永劫回帰の思想にも重ねられますが、差異の哲学と呼ばれたポスト構造主義までそれが尾を引いているわけですね。

ところで面白いことに、こうした「~がある」と「~である」の循環、そのショートサーキットを、ナーガールジュナは『中論』の第二章で延々と反駁しています。これは同じく以文社から刊行された『モア・ザン・ヒューマン』で師茂樹さんと話したことですね。古代ギリシアの哲学、ひいてはヨーロッパの哲学の中にある終わることのない循環のロジックのようなもののうちに危険を感じて違う道を模索したのが一つにはインドの哲学だったのではないかと思います

――彼らが模索したのは、不生不滅とか、不同不異とかいう風に、「Aと非Aどちらでもない」という形で二項対立を調停しようとすることです

第三項をだして、「Aと非Aどちらでもある」とするだけではなく、第三項の位置を循環させて、ついには「どの二項対立の項にも還元されないというあり方を見いだす。テトラレンマの第四レンマと呼ばれるものですね

ちょっと説明しておくと、テトラレンマというのは、四句分別とも呼ばれますが、インド人が大昔から用いている論法です。①A、②非A、③Aかつ非A、④Aでもなく非Aでもない、という風に、Aという命題について四通りの命題を列挙するものです。西洋の論理だと非Aまでか、せいぜい第三レンマのAかつ非Aまでですが、インド人はこの第四レンマまで語って複雑な議論を展開しないと気がすまないんですね

そうして生まれたインドや東洋のロジックはきわめて複雑で高度なものだが、その一方で残念なことに西洋風の《オッカムの剃刀》という発想、つまり重要な概念を必要最小限に絞って議論を展開するというところがないそれによって余計に勘所が分かりにくくなっているんですね。――例えば華厳の思想においては、世界の成り立ちや事物の関係を説明するにあたって十個ずつの異なるパターンを列挙するのを好むのですが、その数には特に必然性があるわけではない。ただ「十」が好きと言うほかない(笑)。インドの思想家で論理を削ぎ落としていき、数を絞ったのはナーガールジュナだけですね。彼は『中論』の冒頭においてテトラレンマで表現できる真理を、「八不」という四種類にまで絞った。ただその選択がベストだったかは考える余地がある。その後、法華一乗や華厳の思想が出てくると、という二項対立がきわめて重要なものとして浮上しますが、「八不」の時点では組み込まれていないからです。

ナーガールジュナがキャッチしたアニミズムからの流れも含めて、哲学的にも宗教的にも《幹-細胞》的な基本構造を絞り込みたいと言うのが今回の僕のもくろみで、これをうまく絞れば違ったヴァリエーションにも柔軟に適用できると思うんです。そうであってこそ、西洋思想が壁にぶつかったところを突破したり、現代社会を再考したりするのにも応用できるようになるんじゃないかと思う。

一番抽象的な関係構造としての「含むもの(外)/含まれるもの(内)」の二項対立を調停するために、それが感性的な世界に現れたあり方としての」という二項対立をまず採り上げ、アニミズムの自然を扱う本書ではそれを「主体/対象」という二項対立と組み合わせている。その組み合わせ方の変奏も織り込んだうえで、これら三種類の二項対立をすべて合流させると、さらに第三項としての位置をすべての項が採りつつ、原因がどの項にも還元されないという第四レンマの状態が脱-時間的に成立する。これが「」であり、また「調停」です。それによって、感性的な情念の世界と、抽象的で恒久不変な世界が融和する。――人類が古くから、なかば無意識的に考えてきた救済というのは、大方そんなものだったのではないかと僕は思っています。

加藤:そうしたロジックというのは、本書でもかなり精密に論じられていると思いますが、最終的なイメージとしては、すべての存在物が対称性において成り立っている、というように受け止められると思います。つまり、削ぎ落としていって、「内/外」と「主体/対象」と「一/多」の三つの二項対立が組み合わされると、すべての対称性が実現するというような考え方です

奥野:シンメトリーということですね。

加藤:ええ。シンメトリーが最終的なビジョンとしてあるのかなと受け止めたのですが。

清水:そうですね。シンメトリーの三すくみのような構造を作りたいわけです。

加藤:三すくみにすることで、議論がこぼれず、シンメトリーが最終的にそこで実現する形が定義できるというイメージです。そのような状態をイメージしてみますと、先ほど挙げていただいたステム・メタフィジック研究会でも、関係と項を考えるとそのいずれもが相互に包摂している、というような言い方をしていたように思います。

清水それが最も大事なところだと思います。二項だけの論理や二重性に立脚した論理からは、本当の複線性や多様性は生まれなくて未解決の課題になるだけです。例えばインドでもヨーロッパでもそうなのですが、「~である」と「~がある」とが混じり合い、閉ざされた循環になるような説明に陥ることがよくある。ある様態aであるとき、その主体aを勝手に立てて、様態の原因をその主体aに帰して、「主体aがあるから様態aであるのだ」というように、原因と結果がループするロジックを立てて納得してしまうわけです。

言ってみれば、それは自己原因的な項を立てるということです。仏教的に言うと《自性がある》ものを想定するわけですが、これは一番シンプルな還元主義です。では他が原因ならば良いのかというと、その他が原因となる形でもろもろが還元されるというのでは同じことになる。非還元的でどこまでも多様、かつ複線的な世界のもろもろのパースペクティブを描こうと思ったら、いったんトライコトミーで語った内容を経由してテトラレンマにいくしかない。主語的な項に還元されないということは、項から関係がボトムアップで作られていくのではないということ、項と関係が二項対立的でなく、フラットなものになるということです。スケールフリーな相互包摂の世界、これは人間を含むさまざまな生き物が、お互いの異なるパースペクティブのうちにお互いを包摂し合っている、そんなアニミズムの懐しい深い森の世界のことでもある。

<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>

■同じパターンが繰り返される系とは

あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。

つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。(スケールフリー)

<参考情報>

仏教の悟りの要件の一つに、『重々帝網』という言葉があります。『インドラの網』、『重々無尽』、『事事無碍』ともいわれます。

これは帝釈天の宮殿を覆う網の結び目に宝玉が付いていて、全体を照らす、同時に全体は個々の宝玉の中に反映されている、部分は全体を表わし,全体は部分に集約されています。すなわち相互依存性の理解が大切という教えです。

出典:https://www.health-research.or.jp/library/pdf/forum24/fo24_selector01.pdf

■唯識所変のIndra’s Net

出典:https://hironobu-matsushita.com/%E5%94%AF%E8%AD%98%E6%89%80%E5%A4%89%E3%81%AEindras-net/

■相即と相入

■六つの側面から観察する瞑想

■十種類の側面から重重無尽を示した

■2つを併せて

■反対の視点

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

アニミズム的世界と「参与」ということ

奥野:おそらく清水さんが述べられたアニミズムとは仏教であることの意義が、冒頭で加藤さんからなされた問いかけの二点目である救済のテーマに繋がってくるのではないかと思います。
たしかに、清水さんが、メディウムを含んでいろんなものに変わりうるトライコトミーに踏み込んで、アニミズムをロジカルに追及されているのに対し、私は初めから、加藤さんがおっしゃっている「世界の救済」に向かっていたのかもしれません。というのは、既に述べたように、人間主義に潜むヒューマンとノンヒューマンの非対称性に目を向けているからです。本来的には、その二者が繋がっていたということであり、その繋がりを取り戻すことが世界を救済することになるのではないだろうかという見通しを示しているわけです。加えて、仏教に拠りながら、自己を退かせていって、アニミズムを他力論的な地平で説いている点で、「自己の救済」を語っていることになるのだと思います。

もう一点、加藤さんから提起いただいたアニマル・ライツやフェニミズムなどの現代的な課題が陥ってしまう二項対立について、述べてみたいと思います。その問題に関して、一つの取っかかりにしたいと思うのが、デザインという問題系です。最近、研究会で上平崇仁さんの『コ・デザイン』(NTT出版)という本を読んだのですが、非常に面白かったです。

同書によれば、これまでデザインというと、大量生産・大量消費の時代においては工業意匠だったり広告ポスターだったりを指していたわけですが、21世紀の今日においては、制度や行政、介護、医療、スポーツ、ありとあらゆる分野がデザインする領域になってきているそれとともに、デザインはデザイナーだけに任せるものではなくなってきている。タイトルにある「コ・デザイン」、つまりいっしょにデザインする時代に入ったというわけです

その出発点は、1970年代の北欧だったそうです。スカンジナビア半島で、オートメーション化を目指す経営者とそれに不満を持ち、権利や働きがいを求めた労働者の間で労働争議があった。労働争議というのはまさに二項対立ですね。経営者と労働者が闘争するわけです。しかしなかなか解決を見ないわけで、それをどのように問題解決していったかというと、パーティシパトリーデザインつまり参加型デザインが導入される糸口をデザイナーたちが用意した働きがいがありかつ生産性を上げるために、デザイナーが現場に介入した。そのことを経営者と労働者の双方が合意したらしい。経営者と労働者の争議にはもちろん政治性が絡みますが、パーティシパトリーデザインを導入するためにもまた政治性が必要だったのでしょうが、とにかくいっしょにやっていく方向で社会をデザインしていくことに決めたらしいのです。

二項対立で主張を競い合うのではなく、社会をデザインしていく際にいっしょに協力してやっていくほうが効率的だし、生産的・建設的だという風に考え方を変えたわけですね。不毛な二項対立や二元論をどのように乗り越えるのかという点は今に至るまでとても大きな問題なのですが、そういったパーティシパトリーデザインを「人類学の存在論的転回」の方向に拡張した「存在論的デザイン」では、人間を超えて、人間以外の存在や世界といっしょにデザインしていくことが視野に入っています。世界をデザインすると、世界からデザインし返されるというわけです。それは、往っていつの間にか還ってくるという、メビウスの帯的なアニミズムへの参入のようなものです。

デザインは現在の時点にとどまっているものではなく、未来に向けてのデザインを含んでいます。2030年〜2050年といった近未来に向けてどのように社会をデザインしていくのかということに関心を持つ若い世代の人たちが今、デザインを盛んに勉強しているようです。人新世の議論で、人間が地球をボロボロにしてもう長いことは持たないかもしれないという流れに対して、若者らが、いやそう言い切ってもらっては困る、なんとかできる道が残っているはずだと考えているんじゃないかと、私自身は思っていますが。

そうした近未来に向けてのデザインを考えている若い世代と比べて、アニミズムというとき、それは近未来に向けてというよりも、私たちが潜在的に持っている思想としてのアニミズム私たちの心の奥底に眠っているものを取り出していく作業であり、それが『今日のアニミズム』の底の部分にあったのだとも思っています

清水:やはり重要なのは、パーティシペーションparticipationなんですよね。それは人類学において言われてきた参与観察ということとも関わってくるだろうと思います。参与観察を通じて、世界そのものをデザイン的に可視化し、創造する。西田幾多郎的に言えば、「作られるものから作るものへ」ですね。しかし、デザイン的に可視化された社会というのも限定状況ですから、それよりさらに大きい構造をいかに考えるかというのも大事であって、どうやってさまざまな文化的コードに接続してあらたな局面を次々開いてみせるかということですよね。それがパーティシペーションそのものの問題であると。

例えば、プラトンが言うメテクシスμέθεξις、分有というものがあります。これはラテン語で言えばパルティシパティオparticipatioですね。これらの言葉にはいずれも参与するという意味もあって、そもそも両義的だからこそ『パルメニデス』で若いソクラテスが使ったことになっていたというわけです。

加藤:より実践的なレベルで言うと、パルメニデス的に抽象化されているわけではなく、例えば、折口信夫が「マナ」などの概念を使って、いわば魂が分有されていくようなことを言っていますね。つまり民俗学の現象とセットで論じられていく。それはパフォーマティブに論じられていくということでもあります。折口信夫の本を読んでいく限りでは、アニミズムとはこういうものかと何となく体感的に分かってくるところがある。それは『今日のアニミズム』で集中的に検討されている岩田慶治についてもそうです。しかし、それらを読むだけではロジックとして詰められていない、説明されていないところがあって、分かる人には分かるけれども、分からない人には本当に分からない状況を招いていたとも言えます。それが体感として分からないという人に対していかにロジックによって導いていくのかという点で、今日のアニミズムにおけるトライコトミーという概念は非常に有効なのではないかとも思うのです

逆に言えば、一度、分かってしまえば、救われてしまうところがある。その「救われてしまう」というところにいかに持っていくかということだと。清水先生の論考でいうと、「第五章 アニミズム原論」で展開された、俗諦から空によって真諦に行くという話がありますそれが救いの構造であるということですね。俗諦から真諦へというのは、二項対立的世界からアニミズムの世界へ移行すると読み替えてもいいわけですよね。

清水:それこそ花が散るとか月が陰るとか、日本人が持っている無常感すら仏教が育んだ美意識なわけですよね。それらがただ習合したというだけではなく、ちゃんとロジックなんだということを明らかにしたかった。ただ、こういうことをキリスト教に近い人たちと議論すると、頭で分かっただけの人間が救われるなら宗教はいらないだろうという話になってしまうのですが、しかし、きちんと一番シンプルな形で論理構造を作っておき、ナーガールジュナよりも後世に登場してきた人たちの見解や議論をも折り込んで、そのうえで思うぞんぶん審美的な世界に浸り、納得したいというのが僕の立場なんです(笑)。

ところで奥野さん、ここにきてパーティシペーションparticipationという言葉が前景化してきましたが、これは人類学的にはそのまま「融即」という訳語でも知られた重要な概念ですよね。この訳語は仏教語からきているわけですか?

奥野:ええ。その融即という言葉自体は、華厳から来ているようですね。人類学では、フランスの哲学者ルシアン・レヴィ=ブリュルが、『未開の思惟』(岩波書店)の中で、パルティシパティオンを取り上げていますね。彼の定義で言えば、「一と多、同と異は、その一方を肯定する場合、他を否定する必然を含まない」ということです。レヴィ=ブリュルは、それを最初未開の「前論理」だと捉えたわけです。

日本ではパルティシパティオンに、華厳教学から「融即」という言葉を訳語として当てた。たしか訳者は、マルセル・モースに学んだ山田吉彦さんでしたか。きだみのるですね。ですから参加する、参与するというのはまさに融即してしまうということなんです

清水:デザインの人類学が、「融即」というレヴィ=ブリュル以来の蒼古たる人類学のテーマと結びついてくるのは面白いですね。「融即」とはデザインの人類学における可視化なのかもしれない。仏教語にしろヨーロッパ言語にしろ漢語にするというのは色々解釈の幅も拡がってしまって、ぴったりはまるとすごく効果的なんですが、解釈の歴史的な積み重ねがあったり、それがまた案外まとはずれであったりして、難しいところもありますよね。

加藤:私も仏教の本というのは例えば、『中論』とかも一時期は読んでいたのですが、文献学的なところを通らないとなかなか読み通すことができない。ですから、一般の人にとってそれを読みこなすのは余程の忍耐が必要になるですから逆に『今日のアニミズム』のような形で、「内/外」「主体/客体」「一/多」というトライコトミーのような抽象度を持った形で論じてもらったり、アイヌのクマ送りなどのような具体的な事例で説明したりというのは、議論を掴みやすいのだろうと思います。基本的には二項対立の膠着をどのようにアプローチして対称性というものを回復することができるかということなわけですね。

仏教も基本的には宗教ですし、アニミズムもそうなわけですから、最終的には救いの論理へとなっていく。先ほども述べたように、それは今日的な諸問題に対して、いかに救いの論理というものを作動させ得るのかという議論にも繋がっていくのだろうと思います。

清水:繰り返しになりますが、二項対立を調停するときに、二ではなく一であるという形で解くというのは「一/多」という宿題がどうしても残ってしまうのであまり良くないわけです。「一/多」の問題も解きつつ、二項対立というものも解かねばならない。鈴木大拙や井筒俊彦も素晴らしい議論をしているわけですが、どうしても一のほうへと寄せて、論理ではないんだというところに落着させるきらいがあるのはちょっと残念なところです。

加藤:そうですね。だから、鈴木大拙も井筒俊彦も、そこで議論が進まなくなって、分かる人には分かるというような世界になってしまう。井筒俊彦の本を読んでいると、重要なところで「縹渺」などレトリカルな表現が出てきてはぐらかされてしまう。ある種、文学的なところで解消されてしまうところがある。

ですから、本書のように清水先生のトライコトミーの議論によってロジックで原理づけていくことで、奥野先生が書かれている章は応用編としても見ることができる。そのように読むことができるなとも思います。

清水:デザインの話が出ましたが、奥野さんはアート表現のあり方そのものについても考えておられるわけですよね。

加藤:以前、参与観察の最終的なアウトプットが民族誌だけというわけではないというような話をされていましたね。

奥野:参与観察の最終的なアウトプットは民族誌だけではないというのは、インゴルドを引いてどこかで書いたものだろうと思います。アート表現かどうか分かりませんが、私にはマンガは描けないので、マンガの原作を書いてみたいと思っています(笑)。

参与観察と民族誌に戻すと、フィールドワークに行くのは、データを集めて持ち帰ってくるためではないとインゴルドは言います。それだと、人類学という学問の制度や体系に従属しながら仕事をしているだけだと。人類学とはそういった民族誌ではなくて、民族誌に思弁と実験を加えたものなのだと言うのです。思弁とか実験からできているのがアートですから、人類学は今後アートに近づいていくだろうともインゴルドは述べています。

民族誌を書いてそれでおしまいというのではなくて、フィールドで見聞きしながら人間の生について学ぶ中で、スペキュレートしていくことが大事だということです。実は、インゴルドだけでなく、人類学者は誰しもそのようにやってきたはずです。フィールドでさまざまなデータを集めて、それをライトアップして、純度を高めて、民族誌ハイでき上がり、これでどうですか?ってのではない。

ある日本の人類学の大御所の方が言ってましたけど、国際狩猟採集社会会議で出会ったインゴルドは、「天才ぼくちゃん」的で嫌な奴だったけど(笑)、彼の人類学観は、人類学者にとってはすごくすっきり来るし、素晴らしいと。つまり本来、人類学者はフィールドで参与観察することによって、思弁的にかつ実験的にやってきたはずであり、インゴルドが、そのことを明確に言葉の形で定式化したのです。

加藤:参与観察する主体がスタティックなものであれば、当然ながら、そこでまた二項対立が生まれてくるということがあるわけですが、参与観察というのは観察に重点が置かれるのではなく、参与に重点が置かれるというように考えると、主体自体が制作的な主体でないと人類学としては整合性が取れないという話になってきますね。

奥野:そういうことですね。自己がフィールドの現実に参与し、自己変容していくプロセスのなかでどんどんと作品を創造して、制作していくのが人類学だということなのです。完了形の民族誌が人類学ではない。

加藤:岩田慶治が、それこそ参与観察とは何かというとその共同体に生まれ、生き、死ぬことだというような言い方をしている部分がありますが、言ってみれば、人生をそこで送る、人生っていう作品をそこで作るところが参与観察の本体ということですね。

奥野:かなりラディカルですよね。参与観察というのを、人類学のフィールドワークの次元を超えて捉えているという意味で。岩田の時代でそこまで言っていることを考えると、もうすでにインゴルドを超えていたのではないかという気がします。

加藤:アートの場合は、いわゆる作品としてオブジェクトが何かしら結実していくわけですが、岩田慶治は、伝承社会の人は全員悟りを開いているということも言っている。伝承社会の人々のアニミスティックな感性を持った人生や人生観というものは、一つの作品なんだというような考え方がそこにはあるのかなと思うのですが。

清水:参与とは実験であり思弁であり、それらのメッシュワークだということですね……。ところで、仏教でもとりわけ禅における中国の人のロジックの場合は逆説が多くなりますよね。まったく正反対な逆説を平気で並べていくんだけれど、それは逆説という形で、二種類の二項対立を交叉配置したような印象をも与えるんです。しかし三種類目がどうもうまく出ていないような印象があった。――ところが禅の要諦を偈によって表現したものの中に、「参同契」というものがあるんですが、大拙がこれをこんな風に解説しているのを先日見て、ううむと唸ったんです。「とはまじわるで、諸法(あらゆる事物)が万別千差して、しかもその位を守って相犯さない様相である」「同は万別千差の世界をそのままにして、そこに一物があることである」そして「参にして同、同にして参という義」が、偈の中ではそれらがたがいに「回互(えご)する」という風に表現されている、というんですね。「参」の字にはもともと「まじわる」の意味も、「参照して引いてくる」の意味も、「三」という意味もある。これはまさに先ほど述べたパルティシパティオparticipatioだなと思いました。さらには「融即」でもありますね。二元論をひっくり返すということばかりやっている中で、文字通りの「参」が突如として出てきたという感じです。(笑)

奥野:なるほど。道元も「参学」という言葉をよく使っていますね。「つひに太白峯の浄禅師に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ」(弁道話)とか、「審細に参学すべきなり」(道得)など。

清水:学に参ずる、ですよね。参禅するということもそもそもメッシュワークなんでしょう。――パルティシパティオparticipatioは「含む(外)/含まれる(内)」ということだから、ここでは「内/外」が姿を現わしている。この「参」はまさに三分法、つまりトライコトミーとも重なってきます。

加藤:参与するということは単純に言ってしまえば、主体として対象を観るということではなく、そこに入っていくことですから、入っていってしまえば、それこそ、ハーマンの議論ではないのですが、あらゆるオブジェクト、人、動物、モノというのと対称的な関わりを持たざるを得ない。対称的な関わりを持つということはつまり、観察する視点というスタティックな視点を自分が持っていてはできないということですよね。

清水:役割を入れ替えて、二項対立の両極を兼ね備えるということですね。このことは、別の二項対立と交叉配置的に結びつくことによって、はっきりと明らかになってきます。ある二項対立Aと非Aは、それぞれ別の二項対立のBでもあり、非Bでもあるという第三レンマの状態にあります。こうした交叉配置的な変換については、レヴィストロースも神話論理ですでに分析していますねこのような循環的な関係は、生成的なものでも、また滅びゆくものでもあるのですが、原因としてどこかの項に帰されるのかと言ったら、それはどちらでもないということになる。――どこから眺めても、原因が一方的にどこにおいてあるわけでもない、という第四レンマが、だから最後の答えとなってくる

加藤:そうですね。テトラレンマの場所というのは、日常的なオブジェクトとそのまま繋がっていくということですね。


著者紹介

加藤学
経営コンサルタント会社経営。その傍ら趣味の文化活動の一環としてステム・メタフィジック研究会に参加。興味のおもむくままに、人文研究者へのインタビュー、映画プロデュース等するディレッタント。

奥野克巳
文化人類学。立教大学異文化コミュニケーション学部教授。以文社より共著、共編著者として『今日のアニミズム』(2021年)、『マンガ版マルチスピーシーズ人類学』(2021年)、 『モア・ザン・ヒューマン』(2021年)、 『Lexicon 現代人類学』(2018年)を刊行している。

清水高志
東洋大学教授。井上円了哲学センター理事。専門は哲学、情報創造論。主な著書に『実在への殺到』(水声社 2017年)、『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社 2013年)、『セール、創造のモナド ライプニッツから西田まで』(冬弓舎 2004年)などがある。主な訳書にミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』(水声社 2016年)、G.W.ライプニッツ『ライプニッツ著作集第Ⅱ期 哲学書簡 知の綺羅星たちとの交歓』(共訳:工作舎 2015年)などがある。

出典:https://www.ibunsha.co.jp/contents/animism01/

<参考情報>

■仏教哲学の真源を再構築する – ナーガールジュナと道元が観たもの

More-Than-Human Vol.3 清水高志 インタビュー(聞き手:師茂樹)

出典:https://ekrits.jp/2020/08/3782/

師茂樹:
最初に、清水さんがしばしば東洋の古典、特に仏教などを使いながらご自身の哲学を展開されているのには、どういった背景があるのかということから、お話を聞かせいただければと思います。

清水高志:
そうですね。子どもの頃からインドの古典に親しんでいたというのもあるんですが、そもそも欧米の現代思想じたいが、だんだん今世紀になって東洋的ロジックを再びなぞり始めているところがあるように僕は感じているんです。主客二元論とか、二元論的思考を超克するというようなことは、これまで20世紀までの思想でも主張されてきたし、もちろんドイツ観念論にもそうした考え方はあるわけですけど、主体と対象のように相反する二極があると、その両者の拮抗した境界を曖昧にし、間を取るというもの、《a》かつ《非a》みたいなものを考えるというものが多かったんですね。例えば、デリダの脱構築主義なんていうのもそういうものだと思う。

しかし、インドの伝統的な思考には、《a》でも《非a》でも《aかつ非a》でもない第四の「テトラレンマ」というものがあって、それは《aと非aのどちらでもない》というものです

論理的思考というのは《a》か《非a》かを定めるものだというのが西洋の伝統的な考え方で、《a》か《非a》かのどちらかを取ったらもう間は成立しないというのが排中律ですが、それではインド人は納得しないんですね《aにも還元されないし《非a》にも還元されないのは何かというのを、彼らは常に考え続けているんです

ところが現代の哲学もまた、そういうことを考えるようになってきています。グレアム・ハーマンのような哲学者は、対象というものがあると、それは内的構成要素にも還元されないし、それを取り巻く外的文脈にも還元されない、そうした中間的統一体がオブジェクトである、ということを言います。これまではいずれかへの還元主義だったというのですね。さらに小さい原子のようなものであっても、色々な性質の集合体としてあるのだから被構成的でもあり、だんだん大きなものへとボトムアップしていく出発点であるわけでもなく、どんなものも内部と外部の両要素に還元されない中間的なものとしてあって、そうしたものが相互包摂しあって全体としての世界ができている、と考えるわけです。これはある意味でネットワーク的な世界観とも取れる思想だし、《一と多》という問題にも繋がる。仏教が考えてきた世界にすごく近いと思うんですよね

<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>

■同じパターンが繰り返される系とは

あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。

つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。(スケールフリー)

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

僕は何年かごとのサイクルで、仏教のことしか考えられないくらいに仏教にのめりこんでいることがあって、特に道元やナーガールジュナは去年からずっと読んでいます。

ブッダの思想はその断片しか伝わっていなくて、

その一つが離二辺の中道不常不断)」で、要するにあるということとないということのどちらにも世界を還元してはいけないという独特の考え方

もう一つはいわゆる「縁起」です。十二支縁起の思想が当時からあったらしいということしか分からない。初期の部派仏教のいろいろな哲学はそこから発達してきたわけですが、そのなかでさきほどお話しした排中律をいかに超えるか、二項対立のどちらにも還元されないかたちで排中律をどう超えるかという問題は非常に大きかったんじゃないかと考えています。

例えば、ナーガールジュナがおもに批判している説一切有部(せついっさいうぶ)の時点で、もうそういう試みが出ていたのではないかというふうに思います。西洋のロジックで普通に判断をするという場合、「ソクラテスは人間である」といったように、述語の中に個別の主語が包摂されて、それが《判断》というふうにみなされますよね。このとき、人間の中にソクラテスが入ったら、ソクラテスは非人間であるというところには二度と行かない。これが排中律的なロジックです。さらに「ソクラテスは人間である」「人間は死ぬものである」という具合に、この論理は階層性を持つことにもなります。これに対して、実はインドの否定形というのはそういうロジックだけじゃないといわれている《これは壺である》という場合の否定形と、《ここに壺がある》という場合の否定形は違うとインド人は考えるらしい

師:
そうですね。絶対否定と相対否定みたいな言い方をしますけども。否定をすることによって何か別のことを肯定してしまうという否定のあり方と、単に否定しているだけで別のことを何も言っていない否定の仕方があるということですよね。

清水:
そうです。ここには二つの考え方があるんですよ。主語のほうに複数の性質を帰して、「それ(主語)にはこういう属性がある」という言い方をする哲学もあります。シェリングはむしろそういう考え方をしました。例えば、「二等辺三角形は三角形である」という場合、主語《二等辺三角形》が述語《三角形》に属するようなんだけれども、「等しい二辺からなる図形である」という言い方もでき、このときのグループには正四角形も正六角形もいっぱいあるかもしれない。こんなふうに主語が一つの述語に属していくだけじゃない、むしろ主語のほうにいろいろな性質が属しているという考え方もできるよ、ということを言う人はいるんです。

ここで重要なのは、要するに述語で「何かがある」というとき、それが主語に属するという考え方をされた場合には、排中律が適用されないということです

<参考情報>

・排中律:論理学の基本原理のひとつで、 「ある命題は、真であるか偽であるか、そのどちらかであって中間はない という考え方を指す。

命題 P について、

  • P が真
  • P が偽

この どちらかしかありえない とする原理。

数学や古典論理学ではとても重要なルール。

具体例でイメージすると

  • 「今日は雨が降っている」 → 真か偽かのどちらかで、中間はない。
  • 「この数は偶数である」 → 偶数か偶数でないかのどちらか。

こうした二値的な判断が可能な命題に対して排中律は成り立つ。

出典:Microsoft Copilot回答

説一切有部の思想には法有」というものがあります

彼らは《~がある》という、この《ありよう》を主語化するんです。主語化して、その中にこういう《ありよう》があるというかたちで、さまざまな現象が起こってくるとする。そうやって彼らは《ありよう》やはたらきの主体、原因として、排中律を超えたものの存在を見出していくわけです

こうして生まれた主体(主語)においてこそ《ありよう》はあるし、この主語は西洋的な論理学で扱われるもののように階層性もないから、否定判断の対象とすることもできない。そのような主語として思考され得たならあるとしか言えない。

そうしたものが彼らの言う「法有」だし、彼らはそれによってこの世界そのものを肯定しようとしたんじゃないかと思う

けれども、それに対してナーガールジュナによる述語、《ありようの主語化の批判というのが仏教(原始仏教?)にはあって、それを『中論※1』の第二章がどれくらいしつこくやっているかということを考えてみたんですよ。

彼は主語が二重になるとか、はたらき、つまり《ありよう》が二重になるとか変な言い方をするじゃないですか。あれは何を言っているかというと、

例えば、《はたらきa》があって、それを《主語a》に主語化しちゃうわけですよ主語化してしまうのは、それを原因とするということなんですけど

その後、今度は《主語a》をこれが最初からあったかのように持ってくるわけです。それを《主語a2》とします。そうすると、それが最初にあったかのようにしてここからはたらきが出てきたという説明がなされるわけです。これは実際には、《はたらきa2》ですね。

ここは実は循環しているんですが、《主語a》と《主語a2》、《はたらきa》と《はたらきa2》は、ここで二重になっているんじゃないかという言い方をナーガールジュナはしているんですね

はたらきから主語を作ったのに、主語からはたらきが出てきたというんだから、これは《はたらきa2》じゃないか。ここで主語とみなされたものにしても、行為主体2(主語2)みたいなものが実際には二重に出ている。

この循環が嘘だということを彼はものすごくしつこく言っているわけなんですよ

この図で大体の構造が説明できるんですが、上の《主語a2》と《はたらきa2》は「~においてある」、という《含まれる構造》ですね。

これに対して下の《主語a》と《はたらきa》は、「~によってある」構造。このはたらきによってこれはある、というもの。

こうした循環が生まれることで、《~がある》の《~である》化、みたいなものが起こっている

彼は、そう発想してしまうことの欺瞞を執拗に問うています

主語とはたらきの両極で、こっちの極を原因として立てて反対側を帰結する、また逆の極を原因として立てて反対側を帰結する、というのは、本当はここは循環になっているから言えてないんですよ。

だからこれは虚偽だということをしつこく指摘し、

はたらきから即、主語が言えてそれらが同じものだというのは間違いであると。それなら両者は個別に切り離されて存在していて違うのかと言ったら、それもおかしいだろうということで、《はたらきa》と《主語a》の間には不同不異の関係が成立する。上の《主語a2》から《はたらきa2》についても、やはり不同不異の関係が成立するということになる。

これら一つ一つを『中論』の二章の何番目の偈で言っているかを全部言える。それをすごく簡単な図にするとこうなるわけです。

師:
そういうことですよね。そして、はたらきというのが二重化するのはおかしいという話になるわけですけど。

清水:
二重化というのが分かりにくくて、それを言いたいがために、《去るもの》がさらに《去る》のはおかしいとか、「不来不去という言い方をしているあれは逆説的な否定としては言いやすいんだけど議論の本質が分かりにくいです。

今述べた循環が嘘であるということで、実のところ彼が何を考えているかというと、

この構造は離二辺の中道に抵触するわけですよ。テトラレンマに抵触する《~がある》ものを主語にすることで、《~である》というかたちにしてしまっているんですよ、実際は

そうやって対立二項の両極に交互に原因を帰している還元主義なので、これは離二辺の中道に当てはまっていない

<参考情報>

結局のところ、《~がある》という出来事の次元をせっかくテトラレンマ的に全部活かそうと思ったのに、全部主語化してしまったことで、

~であるのでも~でないのでもない》という、ブッダが最初に言ったテトラレンマに抵触してしまうので、これをどうするかというのがナーガールジュナの本題だったと思うんですね

縁起というものも、《aがあるから、bがある》、《bがあるから、cがある》と表現されるけど、実際には全部主語化されたものが連鎖しているわけですよね。この主語が一つ一つループであるということをまず認めないといけない。

また主語化した前件・後件といったもの同士で、前件があるから後件がある、と語られるものも、前件から見て後件もあり、後件から見て前件もある、というかたちで読み替えないと成り立たない、それら相互もループであるはずだということを彼は執拗に論証していく。

だから『中論』では「~によってある」「~においてある」ということが、前件からも後件からも繰り返し否定されている。これらの可能性をすごく論理的に周到に全部つぶしていっていますよ。

ここで重要なのは、「~によってある」「~においてあるということが前件・後件のどちらかから一方的に語られてはならず相互的、しかも同時に相互包摂でないと成り立たないということ。このあたりを執拗に考えているのが、おそらく『中論』の二章だと思うんですね。

そこから出てくるのが相依性という考え方 —— あらゆるa非aによってあり、非aaによってある。それゆえ《みずからの本質といったものによってあるのではなく、無自性でなるものだ——という思想ですね

師:
今のお話で非常に印象的というか、そうだなと思うのは、ナーガールジュナの『中論』で書かれているこういう議論は、今までは「論理を超えた」ものであるという言い方がよくなされてきました。だから「空というのは言葉を超えている」というふうに言われているわけですけど、それを現代哲学の道具立ても含めて整理していくと、非常にロジカルにナーガールジュナが理論を組み立てているというのが清水さんの目からは見えるということですよね。

清水:
そう。だから何一つ無駄がないし、妙なことを言っているようなことを一つ一つ考えていくと、それを絶対言わなければいけない理由があるわけなんです。「何があるから何がある、何があるから何がある…」ということを非還元的にしていくためには、「~においてある」というものも主語になった極の話ではなくて、反対側の極のことでもない。「aでも非aでもない」、また「非aでもないしaでもないということが同時に両方言えるというかたちで、考えなければならない

そうすると縁起と言っているものも、全部主語化されたもの同士の作用だと考えるだけでは駄目で、それらが「~である化しているのを否定するためには相互にこれがあってこれがあるということを言って、そこで主語化されたという契機もあった、ということも考えて、両極を同時に否定するロジックを作っていかないといけないんです

これは例えば鈴木大拙が、まさに排中律の成立しない仏教特有の超論理の典型として《般若即非の論理》ということを言うときに、「aはaではない。ゆえにaと名づく」と言っていますよね。あれは『金剛般若経※2』に延々と出てくるロジックですが。

師:
そうですね。『金剛般若経』は延々そればっかりですね。

清水:
その「名づく」というのが何かと言ったら、この主語化ということなんです。「名づく」ということ、いったん現象が主語化され、主語に帰されるという契機が必要で、しかしそれも原因の還元の一方的な対象としては置かれないし、対置される《非a》も置かれないというかたちが作られねばならない。これが大事なんです。

この二極が、同じでも異なってもいないということの論証を中観学派では一異門破いちいもんは》と呼んでいますね。

師:
「一異門を破する」ですね。

清水:
三論宗の吉蔵などはこの論理をそう呼んでいます。《一》と《異なる》もの、《a》と《非a》がどっちから見ても不同不異だというのが一異門破です。

これは徹底した論理で、一異門破はあらゆるものすべてに言えるわけですよ。はたらきが認識だとすると、認識主体というのがあって、こっちも主語化しているんですけど、それによって認識(所縁縁)がある。それらは別でもないし、同じでもなく、不同不異なんです。

ただそれが一つのユニットとしてあった場合に、むしろメタ一異門破みたいなものがあるわけです。これが一つの環界(環境世界)みたいなものを作る。

認識主体と認識、主体と対象世界は、それぞれ相依性においてあるので、これらは二重三重になっていくんですよね。

縁起っていうのは、主語化したもの《a》があるから、主語化したもの《b》があるみたいなものになっていたじゃないですか、実際には。それはミクロで見れば、《はたらきa》⇔《主語a》なんだけど、《主語a2》と《主語b2》もループなんですよ。《主語a2》⇔《主語b2》というふうに。そういうロジックが前提としてあって、さらにだんだん考えていくと、これは環界ができていくということなんです。主客の主体と客体があって、それらの相依性の重層が環界の形成でもあると

主体がはたらきかけることによってできる世界があり、世界によって主体も作られるという関係が、こうしてだんだん発展していく。縁起の説というのは、拡張的に読んでいくと、本来はたらきと主語のループであったところがさらに重層して、一異門破になって、メタ一異門破みたいなものができて、メタメタ一異門破ができていく。

そうしたものだと考えると、それは結局一と多の問題になっていく。相依性の重層から、《》が《》、もしくは《全体の世界と不同不異である、《一即多》という世界観がだんだんできてくる

これは『法華経』の思想なども混じって、のちに仏教的に展開されるけれども、最初のロジックはナーガールジュナの一異門破の話なんですよ。《》とか《としてのものが世界と相即的にあるというもので。ナーガールジュナが論理的必然性を探求しながら言っていたことから、何種類もの二項対立を一異門破で調停する論理が重なって出てくる。それが後年の大乗仏教のさまざまな切り口になっていくわけです。

そして、このとき環界とともに出てくるのがパースペクティヴというもの。世界の眺めそのもので、道元がまさに《山河》と呼んでいるものです。

師:
今の主客と環界の形成の話というのは、まさに『正法眼蔵』の「現成公案」とかで言っていることと、同じ話をしている感じですね。

清水:
同じ話なんですよ。だから、ここで「これとこれの主語化が」といった話をしていると、抽象的な話に聞こえるけれど、そこから考えていかないと実は道元は分からないんです。例えば、道元は、舟に目を留めていないで対象を直接見ていると岸が動くように見えるけれど、自分が乗っている舟に目を留めると、自分が動いているのが分かるというような言い方をするけれども※3それは自分が身を置いている一つ一つの環界の小さいループを考えて、世界の側のより大きなループも考えなさいということです。そう考えたときに、個というもののテトラレンマ的な独立性や不生不滅性が出てくるわけです。

同じく「現成公案」で、道元はまた、薪が灰になる。その薪にも先があって後がある。灰にも先があって後がある。それらは一つ一つ「法位」にある。生と死もそのようなものだとも語っていますね。これはもっと小さいループがあって、それぞれが単に被包摂的なものではないんだ、ということです。インド仏教は、超論理どころかまさに完全な哲学ですよ。対立二項のどちらにも原因を還元しないということを重層的に考えるという。だから「~がある」とか「~である」とかということを徹底的に展開していくと、パースペクティヴの話になるんです。ここからがまさに道元の展開なんです。

師:
普通はナーガールジュナって実在論の反対の立場みたいなかたちで言われますよね。でも今のお話だと、現代哲学の「新しい実在論」や「モノの哲学」と言われているものに近いというのは、大変興味深いと思いました。

清水:
ハーマンのオブジェクトの話も、外部と内部のどっちにも還元しないからかえってある、一つのモノが際立ってくるというロジックですが、仏教だと「~においてあるという包摂のテーマも相互的に考えるので、それが《一と多》の問題としておもに展開されているわけです。

実在やオブジェクトは、仏教ではどちらにも還元しないということが相依性という観点から扱われたおかげで、一見真逆な《》というものとして考察されたんですが、実際には表裏一体なわけです。

師:
ちなみに、先ほどのパースペクティヴの話を、もうすこし詳しく説明してもらえませんか。

清水:
その話を徹底して展開しているのが、僕は日本仏教の特徴だと思うんです道元が実際にそれをやっているということは、ここまでの議論から逆に見るとはっきりと分かるんです。さきほどの話のように舟があって、中に人がいて、岸という対象があるというとき、舟という対象と人という対象同士は身心依正、どちらも相互生成的にありしかもさらに岸=環境があるんだけれども、これらすべての要素を完全に相互包摂とみた場合には例えば、岸のほうが包摂する側として一方的にあるということはないわけですよ。おのおのが包摂の軸になる。このときが即であるというのは例えば、鳥が空を飛んでいてその環界と一体になっているとき、その空じたいはさらにメタ空(そら)みたいなものとの関係のうちにあるんだけど、今度はその環界そのもののループとメタ環界とのループを考えた場合には、どこからどこへ飛んだかとかそういう位置づけられるという問題じゃないわけで

師:
「現成公案」の後ろのほうの話、「鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきは(きわ)なし」ですよね。

清水:
そうです。そうしてこんなふうに舟と私というものに対して岸というものがあるというかたちを考えると、それらの間に相即関係があって、こちらに岸というものもあるという関係を考えると、このループが何重にもなって、も際立つかもしれないけど、《全体の世界である山河全体というのが肯定されてくるということになってくる

師:
そうですね。《虚空》という言い方を道元はよくしてますね。

清水:
この山河全体は》(《》)と相互生成ですから、ある意味でお前もそれをつくっているんだという軸足にもなるわけです。さらに言えば、この認識主体と舟という一番小さいところから、《全体の世界とそれに対する超越的認識者みたいなもの、両方の考え方まで出てきて、古仏の眼睛(ブッダの眼)とか、道現成とかいう言い方をしますよね。「而今の山水は古仏の道現成である」という、端的な世界の肯定が出てくる。

師:
「山水経」ですね。

清水:
「山水経」ですよ。そして山河は全体として構成されるんだけれども、それがすべてを包摂しているだけでもないし、もろもろの複雑な環界が、さまざまに別様にあるということも道元は認めていて、それらが皆パースペクティヴであるとすると、例えば《水》を見るのに、鬼はこんなふうに見るし、龍魚は宮殿として見るし、瓔珞(ようらく)と見るものもあるとか、いろいろな言い方をする※4皆それぞれの環界、それぞれのパースペクティヴを持ってこの世界を見て、その世界が軸足になって、また個々のものを照らし出しているということを、さんざん道元は言っている

この言い方じたいはこれまで考察してきたことの完全にロジカルな展開だけれども、それを自然に対するヴィジョンとしても語るわけですが、これが今人類学で語られているところの多自然論とか、パースペクティヴィズムと完全に重なってくると思うんですよ。文化相対主義や多文化論を超えた、多自然論ということを21世紀の人類学は語り始めていますが、徹底して考えるとまさに世界はそのようなものとしてしか捉えられない

師:
『中論』が非常にロジカルにミニマムなところから積み上げていくとすれば、それを自然とか環境世界とか世界とかそういうものにバッと拡張して適用していったのが道元であるという、そんな感じでしょうか。

清水:
それが道元だし、またここで《個人》も出してくるのがそもそも禅だったと思うんですよ。臨済禅でも《人》というのが出てきて、《赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人あり》とか《主人公》とか。だから主客の主の方もある意味ではバーンと出すし、オブジェクトも出すし、世界も出す。

師:
やっぱり道元がすごいなと思うのは、「人は歩くけど、山も歩く」とか平気で言うじゃないですか※5。あれがすごくでかいですよね。

清水:
山中に人がいるんですよね。舟が山になったとしましょう。山の中で人が歩いているんだけど、これは一見すると作用主体と作用対象なんですけど、「山」が何か大きな環界との関係の中でさらにやっぱり動いているんですよね※6。こう考えないとこの世界は成り立たないし、だからこの山の中にただいる人はそれが分からないし、外大きな環界の側にただいるという人も分からない。このとき「外にいますよ」という立場で見ている人は、単世界論的な人です。人類学者の岩田慶治さんから見た大昔の博物学者フンボルトみたいなもの。

こっちは「山」の外の人で、こっちは「山」の内の人だとすると、それらの単にどちらであってもいけないというのが、「青山常運歩(せいざんじょううんぽ)」の話でしたね。そんなふうに一つ一つ考えると、それに続けて出てくる「石女夜生児(せきじょやしょうじ)」は何だろうとかね。児を生まない女が夜に児を生む。生まれることと生むこと、夜って何だろうとかね。児が生まれるから親ができる※7。それらが同時にできるということを考えろとも道元は言っているんですよ。

これはだから原因とか、元になったものと、後になったものの相互成立をめぐる謎かけであって、石女夜生児というのは、おそらく自分自身を生むのかなと。相依性のループは、なによりミニマムで単独的なものでもある。まずそれを見ろということなんですよ。闇の中で。誕生と闇の強烈なコントラストがそこに同時に浮かび上がってくる。

師:
さっきもちょっと言ったんですけど、『中論』がある意味言語を超えたものであると理解されるように、道元もこういうものは体感すべきものなんだという感じで理解されてきたと思うんですね。それがこういう綿密な、それこそ哲学的な思惟として構築されているというのは非常に面白いし、仏教学をやっている人間としても学びが多いと思いました。

清水:
しつこく『中論』や吉蔵を考えないで道元をパッと読んでも、何を言っているのかと思うだろうけど、六割ぐらい彼らの理論を考察することに力を注いで、四割ぐらいで道元を読むと言っていることが分かるし、そこで語られる世界が古来の日本人や、非ヨーロッパ圏のさまざまな人たちの世界観とも地続きなのが感じられてくる。そのあたりが印象的です。

師:
『中論』は、今の第二章などもかなり短いじゃないですか。『正法眼蔵』七五巻とかと比べたら。『正法眼蔵』があれほど執拗に、自然だの海だの舟だのということについて、ひたすら言葉を重ねていこうとしたのは何故なんでしょうね。

清水:
僕はあえて主語化をしようとしていると思うんです。表現ということで。不立文字とか言いながら、襟首掴んで「言え言え」とか言い合っているじゃないですか、禅の人って。「祖師西来意」《達磨はなぜ中国まで来たのか》を、樹の枝を口にくわえてぶら下がっている人に言え、とか訳の分からないやり取りまであって※8。「言う」ということ、一回表現して主題化するというモーメントがなくてはならなくて、しかもそれがまた「aがないから、非aがない」というふうに、還滅門(げんめつもん)的に捉えられたときに始めて《》にして《》なる世界が現成してくるという構造があるんですよ。道元ではそうした構造はかなり普遍的で、主客の話も、鏡の話になったりするでしょう?

師:
「古鏡※9」ですね。

清水:
認識主体としての心とか、眼とか、それが眺める対象としての古鏡といったものが「古鏡」では語られていますね。この古鏡にそれらが映っているというのも、相依性のループであり相互生成、フランス現代思想でいう鏡像段階みたいなものですよ。これが一つの一異門破です。しかしそれに対して、メタ一異門破の論理がすぐに始まるわけですよ。

それは何かと言ったら、この古鏡は《彼》と《我》、全部映すんだという話になる。そうすると別のものも出てきて、漢人(中国人)が来たら漢人が映るし、胡人(西域人)が来たら胡人が映るということが言われる。これは《全体の世界》に対するパースペクティヴが幾つもあるという話と同じです。そして鏡そのものが来たらどうするんだという問いかけがなされると、「木端微塵にする」(百雑砕)と言うんですよね。これは端的に対象世界を見ようと思ったら、メタ一異門破で、《一と多》の問題にいかないといけないということですね。

師:
さっきチラッと言っていた、還滅門的にという話ですね。

清水:
そもそも初期仏教から言われている十二支縁起は、「~があるから、~がある」というかたちで列挙していって、「無明」から「老死」にいたる苦の世界がいかに生まれていくかを説くものです。この流れを《順観》というんですが、これには《逆観》(還滅門)というものがワンセットであるんです。つまり「~がないから、~がない」というふうに十二支を逆に辿ることで、苦の世界が寂滅していく。

<参考情報>

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)

<参考情報>

出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4   第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所

ところでテトラレンマの考え方は~でなく~でないわけでもない」というかたちで、単純に「~である」ことを退けていますから、「~」にまた主語を安易に入れて話を蒸し返すのは無意味なんです。ナーガールジュナも『中論でそうした議論を全部否定している。テトラレンマは一部の絞った命題についてしか言えない。『中論では四種類に厳選されています八不)。

これに対し、~があるの世界はもともと本当に多様なものです。説一切有部はいちいちそれらを主語化しましたが、あらゆるものにその世界を拡張し、しかもそれで排中律を超えようとしたんですね縁起という思想は、そこではよく分からなくなった。

しかしそもそも縁起の還滅門というのは

aがないなら、b非aがない」ですけど彼らがやった主語化を踏まえるなら「(原因が)aでなく、非aでない」ということなんですよ。「~である」化しているわけですからまたここでは両極に相依性が成立しているので、それはもうテトラレンマの最終形態(第四レンマ)なんです

これはもはや《主語a》がなんであるかという議論ではなくて、メタレヴェルの構造についての洞察ですから、還滅門を通じれば、あらゆる「~がある」について、テトラレンマが適用されると第四レンマの典型は不生不滅とかそういうものと同じなので、例えば先に述べた「薪が灰になる」ということも、その変化や滅びやうつろいの中で、それぞれが第四レンマ的であることになる。もちろん生も死もそういうふうに考えられていて、生から死への移り行きがあるんだけど、それらの中にもミニマムな前と後があり、そのうつろい、移り行きがあって、それらじたいがテトラレンマ的に、その「法位」のうちにある。

有名な道元の「有時」も、「松も時なり、竹も時なり」と言うけれども、これは全部ミニマムに「時」だということなんですよ。その移り行きがあって、しかもそれが入れ子に重層化していて。色んな道元の不思議なロジック、例えば「画に描いた餅は食べられない」という話にしても※10、それをお題にして道元がひたすら何を言うかというと、画に描いた餅が対象としてあるかということではなく、画の餅をどう作って、描いていくのに何を用いたかということです。要するに、動作主体がオブジェクトをどう作るかという話に置き換えるんですね。それによって、対象がただ漠然と外にあるわけじゃないんだという話にしてしまう。この主体が対象世界を「作る」ということも、何かを表現したり言ったりすることがモーメントとして大事なように、きわめて大事なことなんです。

岩田慶治さんは、「道元は世界をつぶつぶと画に描いていくみたいに正法眼蔵を書いている」と言っているけれど、そんなふうに森羅万象を表現世界にもう一回裏返して、しかもそれは還滅門の世界でもあり、だからこそかえって不生不滅の世界でもあるんだということを、道元は語っていますね

師:
仏教的な考え方からすると、こういう道元の理論にせよナーガールジュナにせよ、やはり悟りとか解脱とか、そういうものが目標としてあるわけですけど、清水さんの哲学が何を目指しておられるのかというのを、今聞いて考えていました。

仏教としては、皆で悟ろうということがあるんですが、さっきのお話のように表現者としての道元というものもある。清水さんの哲学も道元のように世界を表現していくというか、そういった方面への関心があるということなんでしょうか。

清水:
それはありますね。世界が表現しているものが「古仏の道現成」であるなら、悟ること、あるいは悟られたものとしての世界をどう見ていくかが問題であり、そうしたものの多様な表現の意味を解き、理解していきたいというのがあるんですね。晩年の西田幾多郎は、「自分の哲学は創造的モナドロジーだ」と言っていた。僕は若いころからまさにそれに共感していたんです。《一と多》が相即的であるとか、そういうことをただの概念で終わらせるのではなく、創造の極点に個々の人間がならないといけない。

創造というのは、世界の創造ですよ。世界制作の極点にある意味でいなければならなくて、それが自由ということでもあると思うんです。仏教で自由というものが感じられ、苦の繋縛から解き放たれるということがあるなら、まさにそうしたものだろうと。

逆に哲学の側から、近代思想の価値観をそのまま背負って、社会制度の中での自由ということを語っても、少なくとも僕は本質的に自由になった気がしない。人間的自由を超えた「モア・ザン・ヒューマン」な自由を求めること。それがこれからの文明の大きな課題でもあるというふうに僕は思っています。


出典:https://ekrits.jp/2020/08/3782/

■清水高志「トライコトミー(三分法)、禅、アニミズム)」(奥野克巳×清水高志『今日のアニミズム』所収)/道元『正法眼藏』

出典:https://note.com/novalisnova/n/n77f15c578b17

アニミズム的な思考や経験は
西洋の理性や科学知では
捉えることができない

釈迦時代の六師外道のひとりサンジャヤから
ナーガールジュナの『中論』
そしてそこから展開されてきた
華厳の世界観そして
それを背景にして深化された禅などもまた
西洋の理性や科学知ではとらえることはできない

とはいえそれを現代において
あらたな形でとらえなおすためには
思考・経験を拡張させ得るような
またかつてのそれらを理解可能にするための
思考法がどうしても必要となる

西洋の論理の基本は
古代ギリシャ以来矛盾律(「Aは非Aではない」)が
基本となってきた

インドでは「Aである」「非A]であるという命題に加え
「Aであり、かつ非Aである」
Aでもなく、かつ非Aでもない」という
二つの命題が加えられ
西洋的な二者択一に対して
テトラレンマとよばれている

それをふまえながら清水高志は本論考において
「主体/対象」「一/多」という二つの二項対立に加え
という二項対立を加え組みあわせた
トライコトミーという思考法を提案している

それは主体と対象が関係しあっているネットワークに加え
一が多を包摂し、多が一を包摂」し
過去や未来という時系列の変化にかかわらない
状況に非依存的な、独立したどうしが

シンクロニシティの状態となったネットワークとして
イメージすることができる

そうすることではじめて
矛盾律に囚われた思考・経験を
拡張させていくことが可能となっていく

論考では
道元の『正法眼藏』の現状公案から
三つの例がひかれているが
ここで引用したのは
その「一五」「うを水をゆくに」だ

魚と水・鳥と空とが例にとられ
一なる存在が万象にじかに繋がること(「一/多」)、
主体と自然(環境)が一体であること(主体/対象)、
被包摂と包摂(「内/外」)という二項対立の三つ組みが、
しっかりと組み合わさって機能している

というトライコトミー的な視点がが示されている

そのほかにも「〇八」「生というは、たとえば、
人のふねにのれるときのごとし」では

「全機現」という言葉で
「ある瞬間のある自然の現れが、
全宇宙のいのちと響きあっており、
そのあらゆる機関が全部同時に働いているということ」が示され

「〇九」「たき木、はいとなる、さらにかえりて
たき木となるべきにあらじ」では
「「生」と「死」もお互いに独立しており、
それぞれに《全機現》」であることが示されている

西洋では古代ギリシャ以来
アニミズム的な思考・経験から離れ
対象論理を中心にした世界観が展開されてきたが
古代インドの思考法やそれを継承したであろう仏教
とくに大乗仏教においては
ある意味でアニミズム的な思考・経験を
論理化しそれを悟達のために用いてきた

科学という名のもとに失われてきた思考・経験は
量子力学においてもそれが示唆されることもあるように
今世紀に入ってから次第に
そしてやっと現代において
人類学という分野からの示唆としても
あらたなかたちでのアニミズム的な思考が
クローズアップされてきているが

それらはこれからどのように
西洋の理性や科学知を拡張し得ていくのだろう
現実の政治・経済状況等をみるかぎりにおいては
まだその時が訪れているとは楽観できないけれど

■清水高志「トライコトミーTrichonotomy(三分法)、禅、アニミズム)」
 (奥野克巳×清水高志『今日のアニミズム』以文社 2021/12 所収)
■道元『日本古典文学大系 81 正法眼藏/正法眼蔵随聞記』
 (岩波書店 1965/12)

(清水高志「トライコトミーTrichonotomy(三分法)、禅、アニミズム)」より)

「科学の対象を関係づけ、記述する主体が、その主体と切り離されてもともと存在している対象についての知識を得ていくのが科学であるという近代人の思考は、実はその過程において起こっているさまざまな複雑な主体と対象の交錯、一と多の交錯を隠蔽しており、実態とは大きくかけ離れたものであるといわざるを得ない。アクター・ネットワーク論による分析は、それら複数の二項対立の潜在的な協働を可視化し、ときに組み換える方法を提示してみせているのである。
 アクター・ネットワーク論においては、「主体/対象」という二項対立は、「一/多」という別の二項対立との結びつきが意図的に変えられることによって、「作用において」対等な関係になっている。」

「先の二種類の二項対立に、三種類目のという二項対立が組み合わさることによって発生するのは、次のような事態である

 Ⅰ 内にも外にも(一方的に)還元されない独立した対象が分離される。
 Ⅱ その対象をめぐって、「一が多を包摂し、多が一を包摂する」というかたちで、「多/一」という二項対立の調停が、その対象の内部にも外部にも同時に、あらゆるスケールと方向において拡張される。
 Ⅲ さまざまな状況に非 − 依存的な、独立した「今」の状態の並存、それら端的な「今」どうしの、シンクロニシティの状態が生じる。

 自覚的、段階的にここまでの局面において展開する思考を。ここでトライコトミーTrichonotomyと命名することにしたい。

「二元論や二項対立の克服もしくは調停という課題は、そもそも東洋の思想的営為においても古くから問われていた西欧の形式論理では、古代ギリシャ以来矛盾律(「Aは非Aではない」、といった論理)による議論、二元論的なロジックはむしろ常套であったが、インドで発達したのは四句分別と呼ばれる独自の論法である。たとえば①Aである、という命題に対して、②Aでない(非A)という命題が立てられるのはギリシャでも同じだが、インドではこれにさらに、③Aであり、かつ非Aである④Aでもなく、かつ非Aでもない、という二つの命題が加えられるのだ。西洋的な二者択一 dilemma に対して、これはテトラレンマ tetralemma とも呼ばれている。」
「第三レンマまでが状況依存的であって、二項対立の真の調停になり得ていないという問題意識は、トライコトミーTrichonotomyの観点からすると、「主体/対象」と「多/一」という二種の二項対立の組みあわせが、局所的、状況的に考えられていた状況を、いかに超えて多即一、一即多の世界観に超出するか、端的な「今」における他者としての対象、自然との遭遇を期するかという、そうした課題が溜めこまれている状況である。
 四句分別は初期仏教の以前からあるロジックだが、『中論』ののちの大乗仏教の思想は、まさにその葛藤を孕んだうえで、爆発的に自己展開し、初期仏教にないさまざまなあらたな表現を生んだ多即一、一即多という世界観は、文字通り華厳仏教においてとことんまで展開され、賢首大師法蔵らによってさまざまな角度から具体的に検討された。禅はというと、たとえば有名な臨済義玄の問答のように、「脱人不奪境」「奪境不奪人」「人境倶奪」「人境不奪」といった具合に展開される。禅者どうしの出会いがしらの劇しいぶつかり合いと揺さぶりを事としたが、そこで出逢われたのはまた、岩田(慶治)がいうようなアニミズム的な、他者としての自然、その宇宙的ないのちでもあった。

たとえば道元の『正法眼蔵』には、そうした経験の、実に鮮やかで豊かな表現が溢れかえっている。その一部を採り上げて、ここではトライコトミーTrichonotomy的にそれらを分析していくことにしよう。
 「内/外」の問題、自然や環境とそれによる包摂の問題、いのちということについて、道元は「現状公案」のうちで、こんな風に雄弁に語っている。

  うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふ事なく、処処に踏飜せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし(道元 二〇〇四a:五一 – 五二)。

 鳥はそらをもっていのちとし、魚は水をもっていのちとする。鳥や魚のいのちは、それらの身体のうちに封じこめられているのではない。それらを包み込む環境、そらや水そのものが鳥や魚のいのちであるというのだ。しかもこれはただ有機体の輪郭を境界にした、内と外の反転を語っているのではない。「みずのきわなく」「そらのきわなし」と言われるように、そこには際限のない無限の世界そのもののあからさまな啓示がある。包摂、「内/外」、そして自然(環境)、鳥や魚の、躍動するひとつのあり方が。世界のすべて、つまり万象にそのままじかに通じて一体であることがここでは謳われている。そらをもっれいのちとする鳥、水をもっていのちとする魚は、文字どおりその環境と一体となって滞ることなく生きる。−−−−そこには有限ではあるが、主客が渾然とした生のありかたがある。そして、この生、このいのちが、たちまち万象に、きわのない無限な宇宙的規模のいのちに包まれている。隔絶しながら、しかも繋がっているのだ。
 ここで。包摂する、されるということが、きわめて大きな意味を持っていることは明らかである「現状公案」のこの短い文章のうちでも、一なる存在が万象にじかに繋がること(「一/多」)、主体と自然(環境)が一体であること(主体/対象)、被包摂と包摂(「内/外」)という二項対立の三つ組みが、しっかりと組み合わさって機能しているのだ。
 環境と主体の主体混淆的なあり方については、まだしも理解しやすい、とはいえそれが全世界にまで繋がってゆくという機序は、先の引用だけだと充分には分からないのではないだろうか。ここに「全機現」という言葉がある。ある瞬間のある自然の現れが、全宇宙のいのちと響きあっており、そのあらゆる機関が全部同時に働いているということを表す表現である。「生は全機現なり、死は全機現なり」(道元 二〇〇四b:二六八)ともいう。」

「禅が自然と、また全世界とどのように出逢ったか、その経験のうちに働いている複数の二項対立の機構がどんなものであるかについては。そのごく一部をここに垣間見ることができた。しかしさらに重要なのは、どこで働いている経験そのものであろう。つまり、鳥や魚を眺め、川で舟を漕ぎ、薪が灰になってゆくその炎を前にして、それがどう実際に悟達されたかである。−−−−その経験、その出逢い、その根源的な感情が、どのようなきっかけで感じられているのか。また、それが獲物を狩る狩猟民のアニミズム的な思考とどのように共鳴しているのか?」

◎奥野克巳×清水高志『今日のアニミズム』《目 次》
まえがき(清水高志)
第一章 アニミズム、無限の往還、崩れる壁(奥野克巳)
第二章 トライコトミー Trichotomy(三分法)、禅、アニミズム(清水高志)
第三章 対談 I (奥野克巳×清水高志)
第四章 他力論的アニミズム(奥野克巳)
第五章 アニミズム原論ーー《相依性》と情念の哲学(清水高志)
第六章 対談 II (奥野克巳×清水高志)
あとがき(奥野克巳)

■龍樹におけるもうひとつの最重要問題は時間否定の論理である

 因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる

 まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。

 時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、

 「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋しているところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。

 過去や未来がたとえ無であったとしてもその名前や概念が成立していること自体が重要であり

 概念や名前、即ち仮名があることによって「現在」も把握できる、ということである

 しかもそのような「仮名という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた「現在」だから、結局、その「現在」も空虚である、という論証の仕方である

 同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである

 つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである

 これが龍樹の「戯論」という語の背後に隠れている「仮名」の積極的意味であると思われる

 つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故、「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである

 このように施設や仮名に積極的な意味を持たせることが可能である。

それどころか、仮名がなければ因果も時間も把握できないのである。我々の持つ、確かであるとされる知識の、そのほとんどは因果関係や所属関係の事柄である。

 しかしそれは、実は概念構成による定義や公理といった、約束事即ち仮名によって成り立ち、それらを用いた証明によって知識の確実さを主張していたのである。

 その約束事が当たり前のようになってしまえばそれらの知識は暗黙の了解事項になるだろうが、その「約東」の決め事という枠を取り外せば、自分に都合の良い勝手な現実の切り取りでしかないことが曝け出されるだろう

 このような批判的見方によって知識の不確実さを暴き、その果てに「諸法実相」(dharmata)が拓かれるとするのが龍樹の立場であると考えられるが残念ながら、それ以上の「諸法実相」の詳しい説明は『中論』においては見いだせない。

 この「仮名」を正当に評価し採用しているのが、天台智顗(ちぎ)の教学である

 天台では仮名を単純にして「仮」と称するのだが、「仮」は前述のように、無でもあり有でもある。それはちょうど、「可能性」の概念が、無でもあり有でもあるのと同様である。また、そのように捉えることが「中」である。

 つまり、有り得ることは有ること、有ることは有り得ること、という連関をわきまえて一切を「亦有亦無」の論理の中に包摂すること、これが「中」である。

 同時にその「捉える」ということがまた、一種の「有」となり有の限界を究めればそれは空となるこのように、「空」と「仮」と「中」は、それぞれ独自の機能を持ちつつ、相互に関連し合うという論理を展開するのが、三諦円融の理である

 この論理は龍樹の「空」説や「仮」説をなくしては存在し得ないと言ってよい。

 時間が成立しないことは天台智顎の『摩訶止観』にある「四運心」の説明にも出てくる

 『業、若し未来ならば、未来は未だ有らず、如何ぞ業あらん。業、若し現在ならば、現在は念念住せず、念若し已に去らば即ち過去に属す、念若し未だ至らざるは即ち未来に属す、起に即して即ち滅す、何者が現在ならん。」このよう未来は無い、過去も無い、起と滅の間には微塵の刹那も無く、現在もない、という徹底した三世否定は龍樹から受け継がれたものである。

<参考情報>

出典:華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

<参考情報>

■唯識の肝:八識

清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分」で「識」の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけですよ。

出典:サブタイトル/「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|前編

・前五識 (眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)

・第六 意識

⇒上記六識に以下2識を加える(認識の深化)

第七 未耶識(マナシキ:自己中心化⇒外界から入る情報を自分の都合の良いように解釈する)

第七 未耶識マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く

◆第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置(ハードディスク)=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識

・個々人の見聞、経験等の情報が全て書き込まれ、ため込まれる

良くも悪くも「ため込まれた情報」は更新される

次第に個々人の倫理観が形成される「心の働き」の領域

■禅観

・入力情報を屈折させない仕掛け

⇒呼吸を整えて

仏の教え(何を第八 阿羅頼耶識に蓄えるか)

第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置(ハードディスク)=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識

自らその意をき浄めよ

出典:第741回花ホテル講演会 タイトル:「法相宗は面白い ~こころを観る唯識~」 講師: 高次 喜勝 氏(YouTube)

■双非(非有非無)のさらなる展開

 有と無の両方を否定する双非は、多くの論書において縁起や空のレトリックな説明に用いられる場合も多い。

 先に引いた『摩訶止観』をざっと見ても、例えば、不入不出、非真非俗、不縦不横、不権不実、不優不劣、不前不後、不並不別、不大不小、等の形でさまざま文脈で現れる

 しかしそれらはいずれも不生不滅に集約され、また論理的には不有不無に帰着する。

 因果否定や時間否定で使われた結合関係に現れる関係性や仮設は生滅論の次元ないし概念操作の思考レヴェル3から批判される。

 さらにその生滅論も、常断、一異の論理的次元や思考レヴェルにおいて批判されることになる。その批判の観点は論理的にはおおよそ次の四つになるだろう。

 第一に、不有不無を不有と不無の選言とすれば、一切肯定の方式である

 第二に、不有不無を、不有と不無の連言とすれば、矛盾の関係にある。矛盾するものは存在し得ない。この論法は一切を否定する方式である

 第三に、「不有不無である」というように表現ないし主張するならば、その命題自体が有に回帰する

 第四に、「言葉では表現できない」と表現すれば、それ自身、パラドックスである。このパラドックスに圧倒され思考停止や思考放となれば思考レヴェル0ということであり、「表現できない」ことを以て単純に「無明」に帰してしまう場合もあり得る。

 このように「八不」を論じることは、さまざまな発展の可能性をもつものだが、それは龍樹の思想の枠を越えていくことになるだろう。

■八不の意義とその構造化

問題の所在

 般若思想の「空」理解の手掛かりとなる特異な命題としてよく挙げられるのは、『金剛般若経』にある次のような文言である

 「須菩提よ、言う所の一切の法は、即ち、一切の法に非ず、それに故に一切の法である。」このような言い回しはこの短い経典の中十数回も現れる鈴木大拙はこの文言から、いわゆる「即非の論理」を考案したと言われる。

 しかしこの命題は、哲学の伝統から言えば、明らかに思考の根本原則の矛盾律に抵触していて、決して認められるものではない。従ってこの命題に意味があるとすれば、それだけで伝統的哲学に大問題を投げかけているということになる。

 思考の原則を脅かすこの論法は八宗の祖、龍樹において如何なく発揮されている。その有名な句が『中論』の冒頭にある「八不」の偈である。曰く、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出。能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅し給ふ、我は稽首して仏に礼す、諸説中第一なり。」こうして龍樹は畢竟空と無所有を説いた。

 龍樹は『中論』において因果を否定し、時間を否定する。例えば「観因果品第二十」の十二偈から十九偈にかけて、過去に原因を立てることを否定し因果律否定)未来に原因を立てることを否定し目的論否定)、現在に原因を立てることを否定する

 従って、「観因縁品第一」において四縁因縁、次第縁、縁縁、増上縁のすべてが否定されるのは当然である。また原因と結果の連関を成り立たしめる時間でさえも、観時品第十九では否定してしまう。曰く、「時は住するも不可得、時は去るも亦た得べからず。時若し不可得ならば、如何が時相を説かん。」

 このような徹底的否定の遂行によって、初期仏教より受け継がれてきた「常・楽・我・浄」の四顛倒を破すという単純な空観は、大乗仏教の徹底した空観へと導かれた

 これは我々の知性的展開の究極の地点まで至り着いたと言ってよいかも知れない。しかし余りに究極的、極端に過ぎて、我々の知性、論理がついていっていないのではないか。少なくとも文言の上では、思考の原則である同一律や矛盾律を破壊し、さらに因果を否定して根拠律を解体し、時間さえ否定し去るということ、これほど重大で深い問題提起はないだろうと思われる。もっと我々は龍樹の提出した問題を真剣に、かつ深刻に受け止めなければならないと思う。

 即非の論理」や「八不」は論証的問題提起で、因果否定や時間否定は事象領域の問題提起だとすると、それは西洋哲学の文脈で言えば、ちょうどライプニッツの言う二つの真理、つまり。論証によって明らかにされるところの理性の真理と、充足理由律によって明されるところの事実の真理とに分けたのと対応する。さらに、アリストテレスにおけるアポディクシス(論証法)とディアレクシス(弁証法)の区別や、カント認識論における分析論と弁証論の区別も、この問題設定に当てはまる。

 般若経や龍樹の立場では、この二つの真理のどちらも根本から破壊してしまう。同時に、それだからこそ、龍樹の批判によって却ってこの二つの真理を近づけた、ないしは結合させる道筋をつけた、ということにもなるのではないか、というのがこの論文の趣旨である。

 創造神のような絶対者を立てない仏教においては、この両領域をつなぐその役目は、無や空であると推察される

■思考のレヴェル化

 ところでこの「八不」は、それぞれ「不」を付されて否定されているが、それぞれ独自の対立軸を表示していた。この対立する両概念は、反対概念の場合もあれば、矛盾する概念もある。反対概念とは中間を許す対立関係であり、矛盾概念は中間を許さない両立不可能な対立関係にあることを示す。上述の六つの次元において「一異」の方向への展開は矛盾対立の方向であり、「垢浄」への展開は反対概念の方向であって、しかもその反対の関係の緊張度合も低くなる。

 この観点から六つの次元を見ると、「一と異」は両立し得ない関係であり。その反対に「垢と浄」の関係は、中間を許すばかりか、垢でもない浄でもない無記の状態も実際には多くを占めるという、非常に緩い反対関係である。従って「垢浄」の次元、あるいはそれに近い方では各々が対立した形で並置されてもそんなに命題破壊的な感じはしない。

 ところが一と異については、非一は異であり、非異は一でしかあり得ない。だから「不一不異」は堂々巡りの論理となる危険を孕んでいる。

 さて、この矛盾と反対の関係に着目しつつ否定のあり方を検討してみょう。というのも八不は対立する両概念を否定することによって真実の相を浮び上がらせるという手法を採っているからである従ってこれは論理的側面からのアプローチということになる。

 ここで改めて、八不の対立する両概念を有と無に代表させて考察してみたい。最も鋭い対立の矛盾的関係は、有をそのまま否定した非有である。有と非有は決して並び立たない。この対立は思考の根本原則である矛盾律に関わる純粋な論理的レヴェルである。
これをレヴェル1としよう。

 次に有に対立する「無有」だが、「在ること無し」と表記されるような「無有」の場合、それは単に有を否定したのではなく、有るところの場所が前提されて、かつ、あるべきもの、あってもよいものがそこにはないということを意味する。いわゆる「不在」という言葉に相当する。不在とはあるべきところにあるべきものが今はない、ということである。この例としてよく使われるのが、無室と空室の違いである。つまり部屋が無い、というのと、部屋には何も無いとはまったく意味が違う。或いはそれは、所有の「有」と所在の「在」の違いとも言える。「有」は「もつ」とも読ませるように所有関係であり、これに対して「いつ、どこで」のような在処は、直接、この所有関係に影響を及ぼすものではない。つまり、「在」は、所在が定まっており、「いつ、どこで」ということが重要な関心事である。この「無有」ないし「不在」をレヴェル2としよう。

 この「非有」と「無有」の意味的区別は、表現上では同じ形になる場合があって分かりにくいこともあるが、その違いは、「非有」(有るに非ず)は単純な否定であるのに対し、ここで言う「無有」(有ること無し)は有の存立を前提にしてその有を否定するというところにある。立川武蔵氏の『「空」の構造』によると、否定には、定立的否定と非定立的否定とがあるといわれるが、ちょうどそれに当てはまる。  つまり、「非有」は、「有る」こと、そのことだけを単純に否定する非定立的否定であり、それに対して
「無有」では、有と無の補集合的配分がまず設定され、そのうちの一方を選択し一方を排除するという点で、「非有」とは異なるということである。

 簡略にして言えば、命題そのものが否定的であることと、名詞や名詞句を否定することとの違いというように説明できる。つまり命題における否定は否定すること自体に重点があるが、「無A」のような形の否定はAという存在の有無をあらかじめ想定していてそこから改めてその一方を否定する、ということである。

 ところが命題でもその意味するところのその反対を想定することはできる。例えば、命題そのものを名詞句にして肯否を表示する方法は、例えば、アリストテレスの「四種のオン(存在)」の説明のうちの、第三の「存在」の意味に見られる。

 ここでは例えば、「『SはPである』は偽ではなく真である」、とすれば、S-P命題も名詞句として、立川氏の定立的否定の部類に入れなければならないだろう。それはpないし非p(pは命題)と表示でき、レヴェル2に移行したということを意味する。その場合にレヴェルーを固執すれば、ある命題が真である、というそのことも一つの命題として、そこにさらに「偽でなく真である」と付け加えることができる。そうすると無限背進してしまう。これがレヴェル1の特徴であり、レヴェル2との違いである。

 次に、有に対して、有とは別に「無」を立てる形である。これをレヴェル3としよう。有と無は一般に矛盾概念とされるが、それぞれ概念化の出処が別であるとすれば有と無は矛盾概念ではなく、並立も中間も可能である反対概念と考えられる。そのように有に対して別に立てられて存立する「無」は、有とは無関係の独立した一つの概念である。するとその「無」の概念はどこから出てきたのかということが問題となる。

 その答えとしては例えば、ヘーゲルの論理学に出てくる「定有としての無」がある。即ち、「無も思惟され、表象されるのであり、言葉で言い表される。それ故に無は有るのである。」即ちそれは何らかの規定を受けて確かに存在する「無」である。また、カントの『純粋理性批判』「分析論」の末尾に四つの無が挙げられているが、そのうちの第一、「皆無」Keinesの概念もそれに該当する。「全体、数多、単一の概念に対立する概念は、一切を否定する概念、即ち皆無の概念である。」これはヌーメナという本質態であるが、しかしそれが経験不可能という意味では先験的仮象となり得るものである。

 また、「無」が普通の概念であるとするならば、一般的な概念形成の過程を経て単独に創出されたものとも考えられる。というのも「無い」という概念は、大切なものを失った、とか、見失ったという体験から抽象されて成立した一つの概念とも言えるからである。そしてこの場合には、「無い」という体験的に形成された概念と、論理操作の否定性から来る「無」とが相俟って、先の体験的に形成された概念が論理によって誘導され、論理に概念内容を充当するという関連づけにおいて「無」の概念が確定される
に至ったと考えられる。いずれにしてもレヴェル1のように有と非有が相互に鋭く排除し合う関係ではなく、また、レヴェル2のように眼前にあったりなかったりするようなものでもなく、有と無が対等に対置されているのがレヴェル3である。

 有と無では抽象的で分かりにくいというならぱ、仏教では苦しみをよく問題にするから、その「苦」を取って説明してみよう。

 レヴェル1で言えば、同一時、同一場所における「苦しい」と「苦しくない」の肯定と否定の命題は並置し得ない矛盾の関係にある。

 次に、レヴェル2の「無苦」、即ち「苦しみはない」とは、「苦しみ」があって然るべきところだが、今ここではたまたま苦しみがない、という対立関係である。ここでは空間的、時間的な広がりと余裕があり、苦と無苦とは並置する。

 これに対してレヴェル3においては、「苦」の反対は「楽」である、というような場合の「苦楽」の関係である。この場合は、苦の概念を知り、かつ楽(不苦)の概念も知った上で、苦と楽を対置、並存させている。さらに、苦をまったく意識しない状態も当然、ある。その状態においては、苦は意識されないのだから「無苦」とも「非苦」とも言えない。これをレヴェル0として、一応設定しておく必要があろう。

 さらにまた、現実の脈絡の中で考えられる有と無、あるいは苦と楽の関係性がある。これは事実の領域、青目の言う「眼見」の領域である。これを、経験的に関係づけられた「有無」や「苦楽」の現実脈絡でのレヴェル、つまりレヴェル4としておこう。

 このレヴェルは、人生に苦もあれば楽もある、とか、苦を克服すれば楽を得ることができる、とか言われるような関係性である。ここに因果の関係や所属の関係が設定される。この関係は概念同士の結合、即ち、必然的と言われる結合から偶然的結合、あるいは恣意的結合まで含めて、数多の経験に裏打ちされた結合である。つまり見る者の都合に合わせた経験的な結合である。龍樹が「戯論」と称し批判するのは主にこの部分であろう。事実の真理というのもこの領域である。

 しかし「戯論」とは言っても、現実生活において無用というわけではない。それどころか、概念結合はさまざまな経験、体験の上に立てられた有意義な関係性である。我々の健全な日常生活はこれによって成り立っている。思えば我々は日頃、「どうしたら目的を実現できるだろうか」と考え実行して何らかの結果を得れば、「手段-目的」の体験を獲得し、その体験を蓄積していき、また、「こんな結果になったのはなぜだ」と問い掛け追及して「理由-帰結」の連関を獲得し、その積み上げから「原因-結果」という抽象的な命題や知識を獲得してきたのである。

 また、支配―依存、能動―受動などの体験は日常的に頻繁にあるが、その体験を蓄積しその関連を固定化すれば、それは「実体―属性」の抽象的命題や知識を獲得することになる。この、「原因―結果」や「実体―属性」はカントの範疇表の中の関係のカテゴリーに当たる。龍樹はこの範疇の先験性を否定してしまったのである

 これを、有と無の単純な論理に引き直してみると、「原因―結果」の関係性ならば、原因が有であるときは結果は無、結果が有であるときは原因が無、というように、有から無へ、無から有へ、と表記でき、また、関係性そのものが有なら、無から無へ、関係性が無なら、有から有へ、という具合に表記できるのである。

 これが龍樹が矛盾を犯してまでも全否定するように見える議論の構造である。そうであるならちょうど真反対に、それこそどれもこれも肯定されることになる。全肯定の命題は、例えば観法品第十八の八偈にある。「一切は実なり、非実なり、亦実亦非実なり、を非実非非実なり、是れを諸仏の法と名づく。」こうして四句分別用いた議論が大きく開かれてくると考えられる。

出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学

■空の論理

『中論』の否定の論理の目的としての縁起の解明

・最終目的は

もろもろの事象が互いに相互依存または相互限定において成立相因持しているということを明らかにしょうとするものである。

⇒すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして存在するから

もしもその相関関係を取りさるならば

何ら絶対的な、独立なるものを認めることはできない、というのである

ここで<もの>という場合には、

インドの諸哲学学派が想定するもろもろの形而上学的原理や実体をも意味しうるし

また仏教の説一切有部が規定する五位七十五法の体系のうちのもろもろダルマを含めて意味しうる。

⇒例えば『中論』の第二章(運動の考察)において、

去るはたらき、去る主体、去っておもむくところを否定した

「かくのごとに思惟観察せば去法(去るはたらき)も去者(去る主体)も所去処(去っておもむくところ)も、

これらの法は皆な相因持す

去法(去るはたらき)に因って去者(去る主体)有り。去者(去る主体)に因って去法(去るはたらき)有り。

この二法に因らば則ち去るべき処あり。定(さだ)んで(決定的に)有りと言うを得ず、定(さだ)んで無しと言うを得ず」(大正蔵、三十巻、50ページ)

縁起を明かす中論

この<相因持せること>を別の語で「縁起」とよんでいる。

チャンドラキールティの註によると

⇒「不来不去なる縁起の成立のために世間に一般に承認された去来の作用否定することを目的として」、

第二章における否定の論理が説かれているという(『プラサンナパダー』92ページ)。

故に不来不去を説くのは実は縁起を成立させるためなのである

⇒ことごとく縁起を明かすために述べられている

・『中論』の本来の詩句は

詩句だけでも大体理解しうるほど、主語・述語・客語がみなそなわっていてほとんど註釈を必要としない。

また『中論』における論破排撃破邪の論理は

概念や判断内容の実在性を主張する論理(法有の立場:説一切有部)排斥しているのであり

概念や判断内容を説明しているのではないから、著しく異なった解釈をされるということはなかったであろう。

法有の立場を攻撃

『中論』が「法有」の立場を相手にしているという歴史的連関を考慮するならば、

容易にこの主張を理解しうる。

すでに述べたように法有とは

経験的事物としての「もの」が有る、という意味ではない

自然的存在として「もの」をして、

それぞれの特性においてものとして有らしめるためのかた」「本質」としての「ものが有る、という意味である。

「・・あるありかた」が有る、と主張するのである

essentiaessentiaとしてとどめずに

より高き領域におけるexistentiaとして把握しようという立場である。

より低き領域において存在する(bestehen)ものはより高き領域おいて有る(sein)。

したがって法有の立場では

作用をたんに作用としてみないで、

作用を作用としてあらわし出す「かた」「本質」が形而上学的領域において実在していると考える

たとえば註釈書の第二章の始めにおいては法有の立場の人は、

作(作用)あるをもっての故に、まさに諸法ありと知るべき」といって

「去る」という「かた」「本質が実在することを主張している

⇒「去りつつあるものもわれわれによって考えられ、または志向されいる「あり方かた」であるから、

たんに意識内容たるにととまらず背後の実在界に根拠を有するものとみなされる

したがって「去りつつあるものは去る」という場合には、

「去りつつあるもの」という一つのあり方としての形而上学的実在に関して

「去る」という述語を附与する判断であらねばならぬ

ところが法有の立場は

それぞれの「あり方をそのまま実在とみなすから

「去りつつあるもの」という「あり方」と「去る」という「あり方」とは全く別のものとされ

「去りつつあるものは去る」といえばそれは拡張的判断であり

二つの去るはらきを含むことになる

■ナーガールジュナの論点

この二つの去るはたらきを綜合する根拠はいずれに求むべきか。

⇒「あり方そのもの(法のみ)であり

他のいかなる内容をも拒否している二つの実体がいかにして結合しうるのであろうか

論敵のもっているこの困難は全く「法有」という哲学的態度から由来している。

もちろん『中論』の主要論敵である有部は

「去ること」というダルマ(法)を認めていたのではなく

いわゆる運動を否定して言われる

しかしならが「去ること」も一つのあり方であるから、

一般に法有の立場に立てば去ることをも実体視せねばならず

そうだとすると種々の困難が起こることをナーガールジュナは強調したのである

この点は経部(上座部仏教の一派)という学派が有部に対して、

もしも法有の立場を国執するならば七十五法以外のすべての「あり方」をも実体視せねばならぬでないか、という種々のその弱点を攻撃しているのと同一態度である。

運動の否定の論理(『中論』の論法の基礎)

自然的存在の領域における運動を否定してのではなく、

法有の立場を攻撃した

「去りつつあるものは去る」の論理について

「〔すでに第二章において〕<いま現に去りつつあるものすでに去ったもの未だ去らないものとによって、すでに排斥されてしまった(第三章・第三詩後半)

⇒「いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものについて、このように説明されている。(第七章・第一四詩後半)

いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものについての考察によって説明されおわった。(第十章・第一三詩後半、第十六章・第七詩後半)という。

・ナーガールジュナは第二章の論法を極めて重要視していたらしい、

まず第二章の第一詩をみると

まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない

さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた現在去りつつあるもの>も去らない

(「先ず已去(いきょ)は去らず。未去も去らず。已去と未去とを離れたる去時も去せず」クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳)

とあるが、厳密にいえば、「已(すで)に去られた<時間のみち>(世路)は去られない。未だ去られない<時間のみ>(世路)も去られない。現在去られつつある<時間のみち>(世路)も去られない」という意味である。

今ここでは不明瞭であるが、便宜上クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳語を参照しつつ上記のように訳し、以下も同様にする

(したがってこの第二章は直接には行くこと(「去」)を否定し、ひいては作用を否定する

⇒また時間のみち>(「世路」または「を問題としているから現象的存在である有為法>全体の問題にもなってくる

・その理由を諸註釈についてみるに、

⇒まず「已去」とは已(すで)に去られたものであり

すなわち「行く作用の止まったもの」であるから

作用を離れたものに作用のあるはずはない。

したがって、すでに去ったものが、さらに去られるということはありえない。

また、<未去>も去らない

<未去>とは行く作用の未だ生ぜざるものであり、去るという作用をもっていないからである。

「未去が去る」ということは常識的にはわかりやすいかもしれないが、

「去る」とは現在の行く作用と結合していることを意味しているのであり、

両者は全く別なものであるから、

「未去が去る」ということは不可能である。

さらに<現在去りつつあるもの>(去時)なるものが存在すると思っているが、

⇒<現在去りつつあるものを追究すれば

已去(いきょ)とか未去いずれかに含められてしまう。

チャンドラキールティはここのとを強調している

「去りつつあるものは去る」が去る」の論理

已去(いきょ)とか未去とが去らないということは誰でも常識的に理解しうるものであるが、

しかし現在の<去りつつあるもの>(去時)が去らないということはいえないはずでないか、

という疑問が起こる。

第二詩に問うていう。

「動きの在するところには去るはたらきがある

そうしてその動きは<現在去りつつあるもの>(去時)にあって

<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないが故に

⇒<現在去りつつあるもの(去時)のうちに去るはたらきがある

これに対してナーガールジュナは答える

「<現在去りつつあるもの>(去時)のうちにどうして<去るはたらきがありえようか

<現在去りつつあるもの>(去時)のうちに二つの<去るはたらきはありえないのに(第三詩)

われわれが「去りつつあるもの」というときには、

すでに「去るという作用」と結びついている。

もしも「去りつつあるものが去る」というならば、

その「去りつつあるもの」がさらに「去るはたらき」と結びつくことになる。

それは不合理である

もちろん「去りつつあるもの」というだけならば、

それはさしつかえない。

しかしながら「<現在去りつつあるもの>(去時)が去る」とはいえないと主張する

さらに、「<去りつつあるもの>に去るはたらきが有ると考える人には、

去りつつあるものが去るが故に、去るはたらきなくして

しかも<去りつつあるもの>があるという(誤謬)が付随して来る」(第四詩)

もしも「去りつつあるものが去る」という主張を成立させるためには、

<去りつつあるもの>が<去るはたらき>を有しないものでなければならないが、

このようなことはありえない

次に

「<去りつつあるもの>に<去るはたらき>が有るならば、

二種の去るはたらきが付随して来る。

{すなわち}<去りつつあるもの>をあらしめる去るはたらきと、

⇒また、<去りつつあるもの>における去るはたらきとである」(第五詩)

すなわち、もしも「去りつつあるものが去る」というならば、

主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と

あらたに述語として附加される「去」と二つの<去るはたらき>が付随することになる。

二つの去るはたらきを認めるとすると、さらに誤謬が付随する。

⇒「二つの去るはたらき付随するとならば

(さらに)二つの<去る主体>(去者)が付随する

何となれば、去る主体を離れて去るはたらきありえないから(第六詩)

すなわち<去る主体>と<去るはたらき>とはお互いに相い依って成立しているものであり

去るはたらき>があるとすれば必ず<去る主体>が予想される

故に<去るはたらき>が二つあるとすると

<去る主体>も二つあらねばならぬことになる

このように全くありうべからざる結論を付随してひき起こすから

⇒「去りつつあるものが去る」ということはいえないと主張している

この議論は真にプラサンガ(『中論』の論理)の論法の面目を最も明確に示しており、

第二章の論理の中心は上述のところで尽きている。

「三時門破」の論法

⇒『中論』の第七詩から第十一詩までは去者去法とを対比せしめて、これを論破し、

⇒第十二詩から第十四詩までは去の発(ほつ:はたらきを始めること)を論破し、

⇒第十五詩から第十七詩までは住(とどまること)を論破している。

⇒第七詩から第十七詩まではただ問題を取替えただけで、

みな、上述の六詩までと同じ論法が用いられてある

嘉祥大師吉蔵はこの論法を一括して「三時門破の論法と名付けている。

上述の論法と似た議論は『中論』のうちの各所に散見する。

■論争の意義

◆「」の主張に対する批判

・「破邪」の意味の考察

⇒『中論』は論争の書である。

⇒東アジアの伝統的な表現では「破邪(はじゃ)」をめざしているという。

『中論』の「破邪」すなわち否定の論理

⇒あらゆる概念の矛盾を指摘して、事実に反してまでも概念を否定した、と西洋の学者によって一般に解釈されている。

⇒しかしながらはたして『中論』は「概念の矛盾」を指摘したのでああろうか。

一方的断定的な主張は何も述べられていない

空観から出発する大慈大悲の利他行が何故成立するのか

⇒その意義は理解されないこととなりはしないであろうか。

⇒『中論』のいわゆる「破邪」とはどのような意味であるかを考察しよう。

・破邪の論法の解釈

⇒ナーガールジュナはこのプラサンガ(帰謬(きびゅう)論法)といういわゆる「破邪」の論法によって、

⇒当時の諸学派によって論議されていた種々の哲学的問題を縦横自在に批判したのである。

⇒その破邪の論法

各章において各問題を扱う態度は非常に類似している

すなわちごくわずかの基本形式が種々に形を変えて適用されている

⇒故に『中論』の論法を説明するには、

⇒ただその代表となるべき論法についてその特質を明らかにすれば

⇒『中論』の論法全体を説明するための鍵を与えることになると思う。

『中論』における否定的表現の代表的なものは

「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」という八種の否定である

⇒東アジア諸国ではこれを「八不(はっぷ)」と呼んでいる。

⇒八不を論じていく。

そのうちで最も基本的なものと思われる「不来不去」にういては既に<運動の否定>として解明した。

◆不一不異

一異門破

⇒『中論』の第二章(運動の考察)おいては、

⇒運動というものは過去にも未来にも現在にも存在いえないという議論(三時門破、第一~第一七詩)の次に

⇒第一八詩から第二一詩によって去るはたらき去る主体との不一不異を証明している

⇒嘉祥大師吉蔵はこれを「一異門破(いちいもんぱ)」と名付けている。

⇒一異門破の代表としてこの部分のチァンドラキールティ註を訳出してみよう(『プラサンナパダー』101~105ページ)

⇒「また、もしも去るはたらき去る主体を離れて存するとしても、あるいは離れないで存するとしても

いかように考察されようとも去るはたらきは成立しえない、とといことを述べていわく

⇒「去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるというのは正しくない

また、去る主体去るはたらきからも異なっているというのも正しくない」(第一八詩)

⇒それでは、どういうわけで正しくないのでのあるか。答えていわく。

⇒「もしも去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるならば

作る主体作るはたらきとが一体であるあることになってしまう」(第一九詩)

もしもこの去る作用去る主体と離れていない(すなわち去る主体と)異ならないのであるならば、

その時には作る主体作用との同一なることが有るであろう

それ故にこれは作用であり、これは作者作る主体)であるという区別はないであろう

しかるに切断作用切断者との同一であることはありえない

それ故に去るはたらきがすなわち去る主体であることは正しくない

また去る主体去るはたらきの別異なることもまた存しないということをあきらにしよとしていわく

「また、もしも去る主体>は<去るはたらき>から異なっている分別するならば

去る主体>がなくても<去るはたらき>があることになるのであろう

また<去るはたらき>がなくとも<去る主体>があることになるのであろう」(第二〇詩)

何となればもしも去る主体去るはたらきの別異であることが有るならば、

その時には去る主体去るはたらきと無関係であろう。

また去るはたらき去る主体と無関係であると認めらるであろう

あたかも布が瓶とは別に成立しているようなものである

しかるに去るはたらき去る主体とは別に成立しているとは認められない。

また去る主体去るはたらきとは異なっているということは正しくない。

⇒といったことが証明された。それ故にこういうわけであるから、

「一体であるとしても別体によっても成立することのないこの〔<去るはたらき>と<去る主体>との〕二つはどうして成立するのだろうか」(第二一詩)

上述の理論によって一体だとしても、あるいは別体であるとしても成立しないところの去る主体去るはたらきの両者がいまどのように成立するのであろうか

⇒それ故にいわく

「この二つはどうして成立するのであろうか」と

去る主体去るはたらきとは成立することはない、という趣意である(『プラサンナパダー』104~105ページ

五求門破(ごぐもんは)

⇒『中論』における他の論法、たとえば五求門破

⇒チァンドラキールティのいったよう(『プラサンナパダー』212ページ)

一異門破」から論理的必然性をもって導き出されたものである。

⇒すなわち甲と乙とが、

⇒(1)<同一のもであること>と

⇒(2)<別異のもであること>と、

⇒(3)甲が乙を有することと、

⇒(4)甲が乙のよりどころであることと、

⇒(5)乙が甲の上に依っているものであることを

否定するのが

「五求門破」(五つの見方による論破)であるが

(1)と(2)とを否定する

(3)(4)(5)はおのずから否定されることになるという

⇒したがってこの「一異門破」の及ぼした影響は非常に大きいとなねばならない。