NN2-5-4.『中論』:『論争の意義』~不断不常~

元来ブッダは

仏教以外の諸派の説を

断または常の見解に堕するものとして排斥した。

かりそめにも仏経徒たるものは

けっして断滅と常住との偏見を持つことは立場上許されない。

すなわちいかなる個人存在もまたいかなる事物も

永久に存在する(常住)と考えてはならない。

また反対にただ消え失せてしまうだけである(断滅)と考えてはならない。

この両方の見解はともに排斥されねばならない。

「不断不常」は仏教徒にとっては絶対の真理である。

■不断不常を主張し合う<法有(説一切有部)>と<法空(中観派)>

・次に不断不常の証明を検討してみると、

⇒これを他の不来、不去、不一、不異、不生、不滅の証明の場合と比べると

⇒著しい相違があるのに気がつく。

⇒<法有>の立場は、

⇒生、滅、一、異、去、来を認めているのに対し、

⇒<法空>の立場はこれを承認ぜず、

⇒不生、不滅、不一、不異、不来、不去を主張している。

⇒しかるに断滅と常住とに関しては

⇒両方の立場が共にこれを排斥して、

⇒両者とも自説が不断不常を明らかにしているということを主張し合っている。

・説一切有部のような学派といえども

⇒自説は断常の見に堕することはないと主張している。

⇒しかしながら有部(説一切有部)のように

⇒ダルマ(法)を独立の実体とみなし、

⇒これが過去現在未来の三世に恒有であるならば、

⇒著しく集積説に近くなるから、

⇒これははたして「不断不滅」を説いたブッダの最初の思想に忠実であるといいうるのであろうか。

・有部と対立する学派であった経部(上座部仏教の一派)の主張

⇒すでにこの点に着目して、もしも説一切有部が主張するような「三世実有法体恒有」の説を許すならば、

⇒常住という理論的欠点に堕するのではないか、といって有部を攻撃している。

⇒これに対して、有部は

⇒ダルマ(法)それ自体(法体)は恒有するけれども、

⇒「世を経」から、すなわち過去現在未来という時間的規定を受けるから

⇒「常住」の理論的欠点には陥らない、といって極力弁解している。

⇒しかしならが依然として有部にはこの弱点がつきまとっている。

■ナーガールジュナの主張

・ナーガールジュナもまさしくこの弱点を突いたのである。

⇒いま『中論』についてみるに、

⇒法有(説一切有部)の立場の人は極力自己の説が「断」または「常」の理論的欠点に陥らないということを証明しているのに対して、

⇒ナーガールジュナは、たとえ相手がそのように証明するにしてもやはり「断」と「常」との理論的欠点に陥るといって攻撃している。

⇒たとえば第一七章第一七詩において「法有」の立場に立つ人々は、

⇒「そうして心から個人存在の連続が〔起こり〕。

⇒また個人存在の連続から果報の生起が有り、果報は業に基づいているから、断でもなく、また常でもない」といいい、また第二〇詩において、

⇒「仏によって説かれた<業が消失しないという原理>は、

⇒空であって、しかも断絶ではなく、輪廻であってしかも常住ではない」と説いているのに対して、

⇒ナーガールジュナは

⇒「何故に業は生じないのであるか。それは本質をもたいないもの(無自性)であるからである。

⇒またそれが不生であるが故に(生じたものではないから)、滅失することはない」(第二一詩)と答えている。

⇒その意味は、仏<業が果報を受けないで消失することはないという原理>を説いたとしても、

⇒それは業が本体のないもの(無自性)であるから不生なのであり、

⇒したがって不滅(不失)であるというのであり、

⇒相手(正量部:上座部仏教の一派)の理解するような意味ではないというである。さらに次の第二二詩によると、

⇒「もしも業がそれ自体として(自性上)存在するならば疑いなく常住であろう。

⇒また業は作られたものではないことになるであろう。

⇒何となれば常住なるものは作られることがないからである」と答え、

⇒以下さらに反駁(はんぱく)を続けているが、要するにナーガールジュナは

⇒業がそれ自体(自性上)有るならば、「常住」という理論的欠点に陥るが、

⇒業が自体の無いもの(無自性)であるからこそ、「常住」という理論的欠点に陥らないと主張している。

⇒また第二一章第一五詩において法有の立場の人が、

⇒「有〔の立場〕を承認している人にとっては、

⇒断滅ということも無いし、また常住ということも無い。

⇒〔われわれの〕この生存というものは結果と原因との生起、消滅の連続であるからである」と主張するのに対して、

⇒ナーガールジュナは、

⇒「もしも結果と原因との生起と消滅との連続が生存であるならば、

⇒消滅がさらに生ずることは無いから、原因の断滅が堕(したが)い起こる」(第二一章第一六詩)

■「断滅」に堕ったとして論破

・以上からみてもわかるように、

⇒<法有(説一切有部)>の立場も<法空(中観派)>の立場も共に、

⇒「不断不常」を真の仏教であるとみなして、

⇒自己の説においては断常の理論的欠点が無いことを互いに主張し合っている。

・どちらがブッダの真理に近いかという問題に関しては、なお独立の研究を要するが、

⇒ナーガールジュナによれば、

⇒実有なる法(ダルマ)を認めようとすると

⇒それが存続すれば「常住」という理論的欠点に堕し、

⇒滅すれば「断滅」という理論的欠点に陥るから、

⇒法有(説一切有部)の立場においては「不断不常」ということは不可能である。

⇒反対にダルマ(法)が実体の無いもの(無自性)であるからこそ「不断不常」といいうる、と解するのである。

⇒すなわち、一、異、去、来、生、滅を論破したように「断」「常」を論破したのではなく、

⇒「不断不常」であると自ら称する相手の説を、

⇒実は「断常」に陥ったものであるとして、それを論破したのであるから、

⇒他の「論難」(破邪)の論法とは幾分内容を異にしている。

<参考情報>

■釈尊の悟り=中道

・両極を排する中道

⇒「有」と「無」のどちらにも実体を見ない

⇒「空の教え」こそが

⇒釈尊の真意である中道

◆縁起による「空の教え」=中道における「空の教え」

・縁起=中道

■龍樹が重要視した原始経典の一説

・中道によって法を説くのである

⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが

⇒それが中道である

⇒無自性=空=中道

■空が根底にあるので

・釈尊は中道を説いた

■『空』を例える

・口の中にツバが出来れば、自然とツバを飲み込む(下図の右側)

⇒そのツバを一旦コップに出して、それを飲み込む事は出来ない(下図の左側)

⇒「ツバ」そのものは変わらない

■縁によって本体は変わる

・口の中にあるツバ(縁)は自然と飲める(汚くないツバと心で思う)

⇒一旦、口の中にあるツバをコップに出したツバ(縁)は飲めない(汚いツバと心で思う)

⇒固定的な汚いツバは永遠に存在しない

■八千頌(はちせんじゅ)般若経(紀元前後~50年)

・キーワード

⇒本体がない

⇒固定的に永遠に存在する本体はない

⇒無自性=空

■空が仏説であることを論説(『根本中頌』第24章第18偈(げ))

◆縁起=空=中道

・縁起は

⇒何かを因として

⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること

⇒そういうものを「因施設」と呼んでいる

・空

⇒名付けられた諸々が「空」

・中道

⇒汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない

⇒本体がない(固定的に永遠に存在する本体はない)

⇒つまり実体がない=空

⇒ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない)

⇒つまり両極(名付けられた)を排した(執着から離れる)のが

⇒それが中道である

■縁起とは

・名付けられた「兄」と「弟」の関係は

⇒お互いに相手がいなければ成立しない

⇒それ自体としては成立しない

⇒つまり自性を持たない=空(相依性の否定)

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~

<参考情報>

■時間概念が否定

 因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる。

 まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。

 時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋している。ところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。

過去や未来がたとえ無であったとしても、その名前や概念が成立していること自体が重要であり、

概念や名前、即ち「仮名」があることによって「現在」も把握できる、ということである。

しかもそのような「仮名」という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた「現在」だから、結局、その「現在」も空虚である、という論証の仕方である。

同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである。

つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである。

これが龍樹の「戯論」という語の背後に隠れている「仮名」の積極的意味であると思われる。

つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故。「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである。

出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~