■空亦復空
・すでにいわゆる「三諦偈」の考察において
⇒この詩句が、縁起、空、仮名、中道という
⇒四つの概念が同義であることを意味しているにほかならず、
⇒ヘーゲル流の否定の否定の考えは述べられていないということを論じたが、
⇒しかし、『中論』においては空見を排斥している箇所がみられるし、
⇒「空亦復空(くうやくぷくう)」は『中論』の中心思想の一つであるとされているから、
⇒いまこれからその意義を論じたい。
・「空亦復空」とは、
⇒クマーラジーヴァの訳した青目(しょうもく:ピンガラ)釈において処々に散見する文句であるが、
⇒チャンドラキールティ註をみてもこれにそのまま適合する文句は見当たらない。
⇒この思想はすでに『般若経』の中に認められる。
⇒十八空または二十空の中の一つである空空はこれを意味しているし、
⇒そのほか空見の排斥は各処に説かれている。
⇒「中道」もこれを受けているが、中でも次のもろもろの詩句は最も明瞭にこれを説いている。
⇒「もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という或るものが存在するであろう。
⇒しかるに不空なるものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するであろうか」(第一三章・第七詩)
⇒「一切の執着を脱せんがために勝者(仏)により空が説かれた。
⇒しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を〔何ともしょうのない人〕と呼んだのである」(第一三章・第八詩)
⇒「不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇あるいは未完成の咒術のごとくである」(第二四章・第一一詩)
⇒「それ故にその法が鈍いものどもによってよく領解されないことを考えて、聖者(ブッダ)が教えを説示しょうとする心はやんだ」(第二四章・第一二詩)
⇒と上のように論じているが、その詳細はやはり諸註釈によって補って解するよりほかにしかたがないと思う。
⇒チャンドラキールティは第一三章の第八詩を解釈していう。
⇒「一切の執見によってつくられた執着の脱すること、すなわち、はたらかないことが空である。
⇒そして執見によってつくられたものの止息のみは有ではない。
⇒しかるにその空においてさえも有の執着をもっている人々に対してはわれわれは答えない。
⇒・・・もしも甲の人が〔私はあなたに何も商品を与えないであろう〕といった場合に、
⇒乙の人がもしもその〔何ら商品ならざること〕ということを与えよ、といったとしたならば、
⇒その人(甲)はいかなる手段によって〔商品の無いこと〕をとらえさせることができるであろうか。
⇒同様に、誰にでも空においてまた有の執着が存するならば、
⇒いまや何によってほの人々の、空における有の執着が破られるであろうか」(『プラサンナバダー』247-248ページ)
■二種の空見
・すなわち、空は一切の見を滅すことであるにもかかわらず、
⇒その空を有と解することであり、他にもこのような解釈がみられる(同書247ページ)
⇒ところがこれに反して空見とは空を無の意味に解すること、
⇒すなわち「無に執着すること」であると説かれている場合もある(同書248ページ)。
⇒『大智度論』をみると方広道人の説が挙げられ、またこれに類いした説明もみられ、中国においては非常に重要視されているが、
⇒これも空を無または断滅の意味に解釈しているものである。
・したがって空見とは、
⇒本来非有非無の意味であるべきはずの空を誤解して、
⇒それを有の意味に解するか、また無の意味に解するか、いずれかであり、
⇒普通「空見」または「空に執着すること」といわれているものも、さらに突きつめて考えれば、この二種が存することがわかる。
⇒チャンドラキールティは第二四章の第一一詩を解釈して、
⇒「しかるにこのように〔二つの真理〕(二諦)の区別を見ないで諸行の空を見るところのその人は、
⇒空を見つつ諸行の無を妄りに想定(遍計:へんげ)するであろう。
⇒あるいはまた空を何らか有として存するもの〔とみなし〕、
⇒かつその空の依りどころを意味している有の本性をもまた妄りに想定するであろう〔その二者のうちのいずれかであろう〕。
⇒しかるにどちらの場合でも、その人の不完全に見られた空は空は必ず〔鈍根の人を〕滅すであろう」(同書495ページ)。といって、
⇒次に「一切皆空」を「一切皆無」と解する説を誤った見解(邪見)であるとして、
⇒空を無の意味に解する空見を破し(同書495ページ)、
⇒次に空を有の意味に解して空に基礎づけられているもろもろの事物の有を主張しようとする空見を論破している(同書496ページ)
⇒このようにチャンドラキールティは空見に二種あることを明瞭に示している。
⇒ピンガラの註釈においても同様のことをいう(大正蔵、三〇巻、18ページ下)。
⇒故に空自身は有でもなく無でもなく、非有非無の中道と同義であり、
⇒ニルヴァーナ(涅槃)に至る道であるにかかわらず、
⇒空見とはその空を有または無のいずれかに解することである。
⇒すなわち空そのものは
⇒対立を絶しているにもかかわらず、
⇒これを対立の立場において把捉しようというのが空見である。
⇒そうしてあらゆる対立に中で最も根本的な対立は
⇒有と無との対立であるから、
⇒空見には、空を有と解するものと無と解するものとの二種類があるのも当然である。
■空という原理を想定する空見
・このように空見には二種類あるのみならず、
⇒それと同時に空見はこの二種類のみに限られるということに注意せねばならない。
⇒何となればもしもこれ以外に第三の空見があって、
⇒空を甲という概念の意味に解したとしても、
⇒空はもろもろの事物の成立するための根拠であるから、
⇒空は最も根源的なものであらねばならぬはずである。
⇒したがってその甲という概念は、
⇒内包のより少なく外延のより大きな概念によって説明せられねばならない。
⇒この論理的経過をたどっていくならば、
⇒われわれは結局有と無との対立に突き当たる。
⇒甲と非甲との対立よりも有と無との対立のほうが一層根底的なのである。
⇒したがって空を甲であるとする説明も結局は有または無とする執見に帰着せねばならないから、
⇒空見がこの二種以外にありえないことも当然である。
・このように空見には二種類あるのみならず、
⇒一般には二種に分かたないで、
⇒空見という一語の中にまとめて取扱わかれている。
⇒これは何故であろうか。元来二であるべきものが一つのものとしてみなして論ぜられている理由が問題となる。
⇒しかしこれも有と無との存在論的対立の特殊な構造によって容易に理解されうると思う。
⇒空を「有」と解する見解と、空を「無」と解する見解との本質的差異は何であるか。
⇒この差異は
⇒被規定的概念である空の中に求めることは不可能であるから、
⇒規定的概念である「有」と「無」との中に求むべきであるが、
⇒しからば「有」と「無」との本質的差異は何であろうか。
⇒この問題に対してもしもわれわれが何らかの解答を与えたとしても、
⇒その解答はさらに根本的な「ありかた」としての有と無との対立によって解釈されねばならない。
・有と無との差異を決定するために
⇒さらに有と無とによらねばならぬこととなるが、
⇒第一次の「有」と「無」との対立と、第二次の「有」と「無」との対立との間には、
⇒「第一次」「第二次」ということ以外には何ら本質的な差異を見出しえないから、
⇒有と無との本質的差異を概念的に決定することは全く不可能である。
⇒したがって空を有と解する空見と空を無と解する空見との概念的に定義をもって区別することは不可能である。
・ところがこれに反して空観においては、
⇒有と無との間に或る共通点がみられる。
⇒有と無とは互いに対立しつつもさらに空と相対している。
⇒空とは
⇒有無を超越し、相互依存、中道などと同義であり、
⇒対立を打ち切る立場である。
⇒これに反して有と無とは対立を存続する立場である。
⇒「空」対「有無」は
⇒「超対立」対「対立」の関係である。
⇒したがって空を有とみなすのも無とみなすのも、
⇒ともに本来超対立的であるべきはずの空を
⇒対立の立場おいて把捉しようとすることである。
⇒故に空見が
⇒二種あるにもかかわらず二種として把捉されず、
⇒常に「空見」という一つの概念の下に理解されているゆえんが明かであると思う。
⇒結局、空見とは
⇒空という原理を想定する考えであるといえるであろう。
・では何故に空というもの、または原理を考えてはならないのであるか。
⇒『中論』においては既述の第一三章の第七詩が最も明瞭に説いているが、
⇒それに対するピンガラの註釈では、
⇒不空法と空法とは相関概念であるから、
⇒もしも不空法が有るならば空法も有るはずであるが、
⇒すでに不空法の成立しえないことが証明されているから、
⇒それと相関関係にる空法なるものも存在しない、と説明している(大正蔵、三〇巻、18ページ下)。
⇒故にこの説明をみてもその基調となっているのは相互依存、相互限定の概念であり、
⇒『中論』においてはこの問題に関してもこのような意味の縁起説が支配していることがわかる。
■誤解されやすい「空」
・しかるにこの縁起説の真意を体得しないで、
⇒空を
⇒特殊なもの、あるいは原理とみなしやすいのが凡夫の立場である。
⇒故に中観派は種々の比喩を用いて空見に陥ることを警戒している。
⇒『中論』においては空見は
⇒「不完全に捕らえられた蛇」あるいは「未完成の咒術」にたとえられているが(第二四章・第一一詩)、『大智度論』およびピンガラの註釈は薬毒の喩によって表現している。
⇒すなわち薬は病を療するために飲むのであるが、
⇒もしも病が癒えて後にもなお薬が体内にとどまっていて外に出ないならば、
⇒かえって目的とは逆な結果を生ずることとなるといって、
⇒「空見に陥るなかれ」と説いている(『大智度論』三巻、大正蔵、二五巻、288ページ上)。
⇒またピンガラの註釈はさらに、
⇒煩悩の火は空の水をもって消すことができるけれども、
⇒もしも水から火が出たならばこれを消す手段がないように、
⇒空見に陥っている者に対してはいかんともしがいたいといい(大正蔵、三〇巻、18ページ下)、
⇒またチャンドラキールティの註釈は『大宝積経(だいほうしゃくきょう)』の中の、
⇒空見を論破しているので有名な一節を引用して論じている(『プラサンナバダー』248ページ)。
⇒これれらをみても、当時、空を誤解した人々が非常に多かったということが明らかであるとともに、
⇒中観派が極力空見の排斥に努めたこともわかる。
・要するに空見とは
⇒空が縁起の意味であり、
⇒有と無との対立を絶しているにもかかわらず、
⇒これを対立の立場に引き下ろして考えることである。
⇒「空亦復空(くうやくぷくう)」とは
⇒この空見を排斥しているのであるから、
⇒通常いわれている否定、たとえばスピノーザのnegatio negationisあるいはヘーゲルのNegation der Negationとかなり相違しているというべきであろう。
⇒それとナーガールジュナの思想とには著しい類似があるにもかかわらず、
⇒無限に否定を継続し、
⇒正反合の過程を経て窮極目的に向かって発展するという思想は、
⇒これを『中論』のうちに見出すことは困難である。
⇒『中論』における「空亦復空」は
⇒相互依存の説と切り離して考察することは不可能である。
<参考情報>
■ヘーゲルの正反合
・物事の発展や変化を説明するための思考法「弁証法」の中心的な構造。
⇒3つのステップで世界を捉える

このように、対立する意見や状態がぶつかり合うことで、より高次の新しい状態が生まれるという考え方。
◆哲学的なキーワード:「止揚(アウフヘーベン)」
「止揚」とは、単なる妥協ではなく、対立する要素を「否定しつつ保存し、より高次に昇華する」ことです。つまり、古いものを捨てるのではなく、良い部分を活かしながら新しい形に進化させるのです。
◆なぜ重要なのか?
- 対立を恐れず、建設的な議論ができる
- 問題解決において、より良いアイデアが生まれる
- 歴史や社会の発展を理解する枠組みになる
(出典:Microsoft Copilot回答)
■無と空
・以上、有・無・空という三概念の関係を処々に散説したが、
⇒なお最後に問題が残されている。
⇒無と空とは十分区別する必要があるにもかかわらず、
⇒ことに『般若経』をみると、諸法の無を説いているような文句も少なくない。
⇒では『般若経』は諸法の空を説いているけれどもそれは無の意味であり、
⇒一般に空と無とを区別する必要がないのではないか、という疑問が起こる。
⇒たとえその無は無自性の意味であり、
⇒空と同義であるとしても、
⇒「無自性」という語はやはり「無」という概念規定を含んでいる。
⇒しかしこの疑問も
⇒『般若経』の文句自身によって解決されると思う(たとえば『大般若経』三七二巻、大正蔵、六巻、926ページ上)
⇒それによれば一切法は無であるが、しかも有と無とを離れているという。
⇒故にここに示されている無は二種あることを知らねばならない。
⇒後者の無は有と対立した無であり、
⇒前者の無はその対立を打ち切った無である。
⇒そうして無という概念は必ず有という概念を予想し、
⇒それと対立しているから、後者の無が、真の意味の無であり、
⇒前者の無は対立を打ち切ることに仮に命名したものである。
⇒すなわち前者は不可説であるのに仮に「無」と名づけたのであり、空と同義である。
⇒「無所得」という語もこの意味に解すべきである。
⇒また「無自性」という語の中の「無」の意味も同様に考えられると思う。
・故に「般若経』の中にたびたびもろもろの事物の無が説かれているけれども、
⇒それは対立のうちに終始している凡夫の立場を脱せしめるために
⇒仮に説かれたのであって、空と同義であり、
⇒有と対立した無とは
⇒区別する必要がある。
・この究極の空は
⇒否定を契機としたものである。
⇒だから「空を説く」ということも
⇒実は一つの方便である。
⇒空を絶対視するならば、
⇒その瞬間に空は失われてしまうのである。
<参考情報>
■時間概念が否定
因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる。
まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。
時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋している。ところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。
過去や未来がたとえ無であったとしても、その名前や概念が成立していること自体が重要であり、概念や名前、即ち「仮名」があることによって「現在」も把握できる、ということである。しかもそのような「仮名」という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた「現在」だから、結局、その「現在」も空虚である、という論証の仕方である。
同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである。
つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである。
これが龍樹の「戯論」という語の背後に隠れている「仮名」の積極的意味であると思われる。つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故。「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである。
このように施設や仮名に積極的な意味を持たせることが可能である。
それどころか、仮名がなければ因果も時間も把握できないのである。我々の持つ、確かであるとされる知識の、そのほとんどは因果関係や所属関係の事柄である。
しかしそれは、実は概念構成による定義や公理といった、約束事即ち仮名によって成り立ち、それらを用いた証明によって知識の確実さを主張していたのである。
その約束事が当たり前のようになってしまえばそれらの知識は暗黙の了解事項になるだろうが、その「約東」の決め事という枠を取り外せば、自分に都合の良い勝手な現実の切り取りでしかないことが曝け出されるだろう。
このような批判的見方によって知識の不確実さを暴き、その果てに「諸法実相」(dharmata)が拓かれるとするのが龍樹の立場であると考えられるが、残念ながら、それ以上の「諸法実相」の詳しい説明は『中論』においては見いだせない。
出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~
<参考情報>





出典:華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
この「仮名」を正当に評価し採用しているのが、天台智顗(ちぎ)の教学である。
天台では仮名を単純にして「仮」と称するのだが、「仮」は前述のように、無でもあり有でもある。それはちょうど、「可能性」の概念が。無でもあり有でもあるのと同様である。また、そのように捉えることが「中」である。
つまり、有り得ることは有ること、有ることは有り得ること、という連関をわきまえて一切を「亦有亦無」の論理の中に包摂すること、これが「中」である。
同時にその「捉える」ということがまた、一種の「有」となり、有の限界を究めればそれは空となる。
このように、「空」と「仮」と「中」は、それぞれ独自の機能を持ちつつ、相互に関連し合うという論理を展開するのが、三諦円融の理である。
この論理は龍樹の「空」説や「仮」説をなくしては存在し得ないと言ってよい。
時間が成立しないことは天台智顎の『摩訶止観』にある「四運心」の説明にも出てくる。『業、若し未来ならば、未来は未だ有らず、如何ぞ業あらん。業、若し現在ならば、現在は念念住せず、念若し已に去らば即ち過去に属す、念若し未だ至らざるは即ち未来に属す、起に即して即ち滅す、何者が現在ならん。」このよう未来は無い、過去も無い、起と滅の間には微塵の刹那も無く、現在もない、という徹底した三世否定は龍樹から受け継がれたものである。
出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学講師)~
<参考情報>
■天台智顎
・真実の仏教を求めて – 天台宗を開く
天台大師は今から1400余年前に霊山天台山にこもられ『法華経』の精神と龍樹の教学に基づき 教理と実践の二門を兼備した総合的な仏教を確立され、新しい中国独自の仏教、真実の仏教である天台宗を開かれました。
隋晋王広(煬帝)の尊崇篤く、隋代第一の学匠として「智者大師」の号を賜わり、 わが国では高祖天台智者大師とお呼びし、篤く尊崇され、伝教大師(最澄)により伝えられた。
・天台三大部
48歳の時、陳の皇帝に請われて天台山を下山、 金陵の名刹光宅寺で『法華経文句』を開講されました。 その後、陳は隋により滅ぼされ、首都金陵も戦場となります。 大師は戦乱を避け故郷の荊州に帰郷されました。 ここで玉泉寺を建立され、『法華玄義』と『摩訶止観』を 講説されました。これらは天台宗の聖典として弟子の章安灌頂により筆録され、天台三大部と称されています。
出典:http://www.shiga-miidera.or.jp/doctrine/tendai/index.htm 三井寺
■諸法実相
・ところで空に関連して問題とされるのは
⇒「諸法実相」の観念である。
⇒ナーガールジュナおよびその系統の人々は「諸法実相」を説くと昔からいわれていた。
⇒そこで最後にその意味を検討してみよう。
・クマーラジーヴァは『中論』の翻訳の中にこの語を用いた。
⇒しかしその原語を調べてみると、クマーラジーヴァはかならずしも同一の原語をこのように訳しているわけではない。
⇒そこで、『法華経』『八千頌般若』『十万頌般若』の中で、
⇒「諸法実相」または「実相」の原語を検出してみると、五類に分類することができる。
・第一類は「法性(ほつしょう)dharmatā(ダルマター)とも訳される原語のグループで、「法たること」を意味する。
⇒法性とは縁起の理法の定まったことを意味している。
・第二類は「真如(しんにょ)tathatā(タターター)」とも訳されるで、その意味は「斯(か)くあること」の意味である。
⇒これも、無自性、空などの同義語であるとされる。
第三類は「実際(じつさい)bhūtakoṭi(ブータコーティ)」と同義か、それに近い意味のものである。
⇒これも法性、真如と同義語で、諸法実相の異名である、空の同義語であるともされる。
⇒「実際」とは、法がそれによって成立している根拠であると同時に、衆生がそれに悟入し復帰する根拠でもある。
・第四類は「法の自性 dharmasvabhāva」または「自性 prakṛti(プラクリティ)」のグループである。
⇒中観派においては、法は互いに相依って成立していると説かれる。
⇒したがって法の自性とは、諸法の相依、すなわち空であるとされるに至った。
⇒したがって、それは縁起の如実相、すなわち、相依あるいは相互限定を意味している。
・第五類は「真性の特徴 tattvasya lakṣaṇa」のグループがあげられる。
⇒ここで「真性」(tattvasya)の意味が問題となるが、その文字通りの意味は「それたること」であり、
⇒チャンドラキールティの註釈によれば、空と同義であり、また「諸法の自性」であるとされる。
⇒したがって、これも縁起の如実相を意味するはずである。
<参考情報>



出典:Microsoft Copilotの回答
・以上きわめて簡単にみてきたように、「諸法実相」の原語は多数であるが、
⇒結局は同一の概念、
⇒すなわち、諸法が互いに相依り相互に限定する関係において成立している如実相を意味し、「縁起」と同義である。
⇒ところで『中論』のうちで「諸法実相」を最も明瞭に説いているのは第一八章(アートマンの考察)であろう。
⇒そこにおいては、チャンドラキールティの註およびクマーラジーヴァの訳に照らしても、
⇒「縁って生ずること」がそのまま諸法実相としてとらえられ(第一八章・第一〇詩)、
⇒縁起について八不が説かれるように
⇒諸法実相は不生不滅不一不異不常不断であると説かれる(第一八章・第一、七詩)。
⇒また「他のものによって知られるのではないーこれが真理の特質(実相)である」(第一八章・第九詩)と説かれるその内容も、
⇒『中論』の帰敬序にみられる「戯論が寂滅して幸いである縁起」と内容的に一致する。
⇒したがって諸法実相は「他のものによって知られるのではなく」(第一八章・第九詩)であり、
⇒すなわち、言語によっては表現されえないものだということになる。
・このように諸法実相の意義の説明は、
⇒結局のところ「縁起」の説明にはかならないということになるのである。
⇒とこで、『華厳経』にあらわれる「実相」あるいは「諸法実相」に対して、
⇒以上検討したところをあてはめると、そのまま通用しうるようである。
⇒なお従来中国、日本の仏教教学においては縁起と諸法実相は
⇒互いに対立する概念であるかのごとく取り扱われてきたけれども、
⇒その両者は本来同一趣意のもであることは十分留意されるべきであろう。
<参考情報>

出典:https://www.youtube.com/watch?v=NV-obUf-kso&ab_channel=KEGONZEN




■『唯心』と『空観思想』は究極的には同じ
・アプローチが異なる

例:空観思想(=中道:龍樹/ナーガールジュナ)を基盤にして
『天台思想』と『華厳思想』









■仏教(釈尊)は
・あらゆるものに実体は無いとする



■法界縁起とは



■法界とは

■法界縁起
・円融無碍と性紀のアプローチがある

■円融無碍






■華厳経は『一乗』と名乗る根拠
・仏の教えは一つ














<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>
■同じパターンが繰り返される系とは
・あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。
⇒つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。
















<参考情報>

仏教の悟りの要件の一つに、『重々帝網』という言葉があります。『インドラの網』、『重々無尽』、『事事無碍』ともいわれます。
これは帝釈天の宮殿を覆う網の結び目に宝玉が付いていて、全体を照らす、同時に全体は個々の宝玉の中に反映されている、部分は全体を表わし,全体は部分に集約されています。すなわち相互依存性の理解が大切という教えです。
出典:https://www.health-research.or.jp/library/pdf/forum24/fo24_selector01.pdf
■唯識所変のIndra’s Net

出典:https://hironobu-matsushita.com/%E5%94%AF%E8%AD%98%E6%89%80%E5%A4%89%E3%81%AEindras-net/


■相即と相入





■反対の視点


■六つの側面から観察する瞑想

■十種類の側面から重重無尽を示した

■2つを併せて






<参考情報>

出典:https://studiogooda.hatenablog.com/entry/20170719/1500427832 18 不確定性原理 【宇宙とは】宇宙との対話




■個と全体の関係
・四法界




出典:サブプライムローン/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~