NN2-2.『中論』:『空の考察』~縁起→無自性→空の三概念の関係(論理的・歴史的関係)~(龍樹:中村元著より転記)

■三概念の論理的関係

■縁起と無自性と空という

三つの概念の意味するところは

結局同一であるということは既に明らかであるが、

この三者の関係はどうであろうか。

すなわちどの概念が基本的であり、どれが派生的であるか、

その論理的基礎づけの関係如何、という問題がある。

この問題を解決するには、

この三者を二つずつ組み合わせて、すなわち縁起と空、縁起と無自性、無自性と空、の三つに分けて考察しよう

まず、縁起と空との関係をみると、

いつも「縁起せるが故に空である」と説明されている(『プラサンナパダー』591、512ページ)。『大智度論』第一七巻、大正蔵、二五巻、198ページ中)。

ところがこれに反して、「空なるが故に縁起している」という説明は見られない。

すなわちつねに縁起が理由であり、空は帰結である。

・第二に縁起と無自性との関係をみると、

つねに「縁起せるが故に無自性である」と説明されている(『プラサンナパダー』440ページ)。この趣意の説明はうこぶる多い。(同書88、455ページ。『無畏論』国訳、152ページ、『大智度論』第六一巻、大正蔵、二五巻、491ページ中。『十二門論』大正蔵、三〇巻、159ページ下。『入大乗論』上巻、大正蔵、三二巻、41ページ中)。

これに反して、「無自性なるが故に縁起している」という説明はいっこう見出されない。

⇒すなわち縁起が理由であり、無自性は帰結である。

・第三に無自性と空との関係をみると、

つねに「無自性の故に空である」と説明されている

⇒その一例を挙げると、「そしてそれは無自性なるが故に空である」(『プラサンナパダー』500ページ)とあり、これと同様の説明は各処にみられる(同書504ページなど、『中論』479ページ下)。また空と同義である「不生」(『プラサンナパダー』239ページ)も無自性の故にのべられている(同書323ページ)。

これに反して、「空なるが故に無自性である」という説明はいっこう見出されない。

⇒したがって無自性が理由であり、空は帰結である。

故にこれを要約すれば、

縁起はつねに理由であり、空は常に帰結である。

無自性は縁起に対して帰結であるが、空に対しては理由である。

すなわち縁起という概念から無自性が必然的に導きだ出され、

さらに無自性という概念からまた空が必然的に導き出される

「縁起→無自性→空」という論理的基礎づけの順序は定まっていて

これを逆にすることはできない。

いま中観派の諸書を見ると、はたして上の順序に説明されている。

「若し法、因縁和合より生ぜば、是の法、定性(本性)有ることなし。

「若し法、定性無くば、即ち是れ畢竟(ひっきょう)空なり」(『大智度論』第八〇巻、大正蔵、二五巻、622ページ上)

⇒「是の法皆因縁和合より生ずるが故に無性なり。無性なるが故に自性空なり」(『大智度論』第四四巻、大正蔵、二五巻、382ページ中)

「若し衆因縁より生ぜば、即ち自性なし、自性なきは即ち是れ空なり」(『十二門論』大正蔵、三〇巻、166ページ下)

⇒その他、これと同趣意の説明はきわめて多く、実に枚挙に暇がない。

⇒また『菩提資糧論釈』四巻においては、縁起→無自性→空→無相→無願という順に系統を立てて説明している(大正蔵、三二巻、532ページ上)。

・とにかく、第一段階として、

もろもろの存在は

相依って、相互限定により成立しているのであるから、

法有の立場において主張するようなそれ自体自性想定することはできないということが説かれ、

⇒次いで第二の段階として

それ自体自性無いからもろもろの存在は空でなければならぬといわれる

この論理的基礎づけの順序は一方向であり、可逆的ではない

このように縁起・無自性・空の三概念は同義であるけれども、

その中で縁起が根本であり

他の二つは縁起から論理的に導き出されるものであるから、

中論』が空および無自性を説くにもかかわらず、

⇒ナーガールジュナが『中論』(および『六十頌(じゅ)如論』)の帰敬偈において

「縁起を説く」と宣言したのもおのずから明らかであり、

そうして『中論』の中心思想は縁起であるという主張がいよいよもって確かめられることになる。

■三概念の歴史的関係

『般若経』を題材にして検討

現在残存している『般若経』の諸本には

⇒必ず或る原則があったに相違なく、

それが拡大され、あるいは変化して今日のような種々のテクストを残すに至ったのであろう

⇒しかしながらその原型といえどもすでに諸学者が想定したように(梶芳光運「般若経に現れたるその原始形態について」『宗教研究』新書10巻、第五号。塩見徹堂「般若経の原形に就いて」『宗教研究』新書10巻、第六号)、同時に成立したものではなくて、しだいに前から順を追って附加されていったものであろう。

⇒そうだとすると、その間にどのような思想的変遷があったか。

⇒それには種々検討すべきことがあるであろうが、

ここでは縁起無自性の三概念に関して調べたい。

・まず「八千頌般若(はつせんじゅはんにゃ)』サンスクリット原本についてみるに

⇒(品(ぼん)の教え方はサンスクリット本に従う)、

⇒第一品から第七品まで般若空観のたんなる説明と『般若経』護持の功徳の讃嘆(さんだん)とに終始している。

ところが第八品に至って始めて、『無自性なるが故に空である」として

空観を無自性によって基礎づけようという試みがみられる(荻原本、405ページ)。

⇒続いてそれ以後にも同様の説明がみられる(第十二品および第一九品。荻原本、538、736ページ)。

『般若経』には嘱累品(ぞくるいぼん:教えを伝える章)が二つあるが、

最初の嘱累品以前においては空観を無自性によって基礎づけようとしている

⇒ところが最初の嘱累品以後になると、さらに縁起が問題とされている

⇒もちろん最初の嘱累品以前(第二七品以前)においてもまれに言及されているが、それは決して重要なものではなく、

⇒いわんや『中論』の縁起説と関係づけることは困難である。

ところが第二七品以後になると、これに反して縁起が中心問題とされている

<参考情報>

八千頌(はちせんじゅ)般若経(紀元前後~50年)との出会い

七宝の箱に入った教典

(龍樹:150年~250年頃)

・八千頌(はちせんじゅ)般若経

本体がない

固定的に永遠に存在する本体はない

無自性

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~

これを『大品般若(だいぼんはんにゃ)』についてみれば一層明瞭である。

⇒いまクマーラジーヴァ訳の『大品般若』によると、最初の嘱累品(第六六品)以前をみるに、

空観を基礎づけるに当たっては

常に「自性空の故に」「性空の故に」「自相性、不可得の故に」「自相空の故に」「自性、無なるが故に」などの説明が用いられている

どれも法が自性を欠いていいるからという意味に解することができる。

⇒もちろんまれに縁起に言及しているところがあるが、ほとんどいうにたりない。

ところが第六六品以後になると

縁起の故に無自性である」という説明がみられる。

⇒すなわち第六六品以前においては空観を無自性によって基礎づけていたが

第六六品以後になるとその無自性をさらに縁起によって基礎づけている。

いまや縁起が中心問題となり、縁起に関説することがきわめて多く(たとえば善達品第七九、大正蔵、八巻、399ページ下、畢定品第八三、大正蔵、八巻、410ページ下)、

般若波羅蜜(最高の智慧の完成)を行する菩薩は縁起を観ずべきであるといい、

また縁起は独り菩薩のみの法であり、

諸辺の顚倒(てんとう:誤った考え)を除くものであり

縁起を観ずるならば声聞辟支仏地(しょうもんびゃくしぶつじ)に堕せず、

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい:このうえない最も高度なさとり)に住するに至るであろうとさえも極言している。

従来縁起は

辟支仏(独覚)に関連して述べられることが多かったのに、

ここでは縁起は声聞辟支仏地とは無関係な菩薩のみの法であるというから、

『般若経』の後の部分の作者は

小乗の縁起に対して

大乗独自の縁起を充分に意識して主張していたことが明らかである

この部分には一般に縁起に関係のある説明が非常に多い。

さらに『勝天王般若』についてみるならば、

この傾向は一層顕著である。

ここにおいては「縁起を説く」「縁起観を修す」という文句がしばしば見受けられる。

そうしてあらゆる存在は縁起せるものであるということを強調し

あらゆる存在は相関的に成立しているから、法の生滅は実はありえないと説く

そしてこの「甚深(じんじん)なる縁起は空と同義であるから、

縁起を観ることによって一切皆空を体得すべきであると説いている。

⇒このように『勝天王般若』においても『般若経』の終わりの部分を受けついで、

縁起によって空観を基礎づけている。

・故に『般若経』の初期においては「空」を説くのみであったが、

後には「空」を「無自性によって説明するようになり

さらに『般若経』の末期においては

これを「縁起によって基礎づけるようになった。

この三概念の論理的基礎づけの順序はすでに述べたように

縁起無自性(およびその同義語)であるが、

初期大乗仏教における歴史的発展の順序はこれに反して

(およびその同義語)無自性縁起であり、

両者における関係ないし順序は全く正反対である。

■三概念の順序が正反対の理由

元来空観は

仏経の根本思想であり

たんに大乗においてのみこれを説くのではない

仏経成立の当初から空の立場は一貫して存続している

⇒すでにドイツのO・フランケや横尾弁匡博士など二、三の学者は

⇒原始仏教聖典の中における空観を研究し、

『般若経』の思想はすでに原始仏教聖典の中に含まれていると主張し、その事実を指摘している

⇒さらに近年の研究(宇井伯寿博士や西義雄博士)もよれば、

⇒小乗においてさえも法空(ほつくう)が説かれているという。

⇒通常いわれるように小乗は個人存在の空(人空:にんくう)のみを説いていたのではなく、

⇒法空をもすでに説いていた。

したがって小乗の空観と大乗の空観とに強いて差別をつける必要はないと主張されている。

『般若経』がどのような系統を受けついで成立したかということは

⇒独立に研究すべき問題であるが、とにかく、

⇒以前から存するこの空観を受けているということだけはいえると思う。

『般若経』が何故に空という語をたびたび用いているかという理由は不明であるが、

当時説一切有部などの小乗諸派が

法の実有を唱えていたのに対して、

それを攻撃するために特に否定的にひびく「空」という概念を用いたのであろう

すなわちあらゆる存在は互いに相依って成立していて独立には存在しえないから

存在するものはそれ自体の中に否定の契機を蔵することによって成立している。

したがって空という否定的な語がよく適合したのであろう。

そうしてこの「」を「無自性なるが故に」という理由をもって説明している。

ところが『般若経』の始め部分が成立したころに、

反対派の人々はその主張を聞いて、

空を無の意味に解し

空観を虚無論であるとして非難するに至ったのであろう。

『般若経』の中間の辺りを読むと、

反対者が空観を非難していたという事実が記されていることを知る。

⇒そこで後になると、すなわち『般若経』の終わりの部分および『勝天王般若経』においては

空の意味を一層明らかにし誤解を防ぐために

最初期の仏教以来重要であった縁起」という語をもってきて、

それを「相互限定」「相互依存の意味に解して

および無自性とは縁起の意味であると説明するに至ったのであろう。

すなわち縁起によって

および無自性を基礎づけたのである

このように解するならば、縁起無自性の三概念の

論理的基礎づけの順序と歴史的に現れた順序とが

正反対である理由もおのずから了解しうと思う

■『中論』の歴史的・思想的位置

『般若経』全体が

空観を基礎づける

運動の一つの歴史を示している。

そして『般若経』原型成立の末期において

縁起を中心思想としたのを受けついだのが

ナーガールジュナの仏教である

したがって『中論』においてはすでに述べたように縁起が全編の主題とされ

しかもナーガールジュナはこれを独自の天才的論理によって基礎づけている

この歴史的連結は『中論』の註釈からみても明瞭である

故に『中論』が著されるよりも遥か以前にすでに大乗仏教は空を説いていたのであるが

に対して「疑見を生じ」る人が現われ、種々の過ちを生ずるに至ったので

そこでナーガールジュナは『何の因縁の故に空であるから」を説明するために、

空とは縁起の意味であり

決して反対者の誤解するような意味ではないということを『中論』によって闡明したのである

すなわちに関して疑見が行われていたから

これを縁起によって基礎づけのである

・したがって『中論』は

歴史的には、『般若経』の各層を通じてみられるような

空観を基礎づける運動の終わりであるとともに

思想的には、『般若経』理解のための始まりである。

『中論』は空観の入門書であり、アサンガがいったように

「中論の解釈に順じて『般若経』の初品法門に入る」べきである

すなわち『般若経』の初品

すなわち端的に空を宣言している部分の内容を明らかにするために

『般若経』は一部一部と附加増大されていったのであるが

新たに中観派を成立せしめるもととなったのがまさしく『中論』である