出典:https://hagamag.com/uncategory/11043
アニミズムと仏教思想と西洋人文知を貫通し、古くて新しい知の展望を切り拓いてみせた話題の書『今日のアニミズム』。その共著者である奥野克巳と清水高志がそれぞれ異なるゲストと際会して行う対談シリーズの第二弾、今回は哲学者の清水高志と編集者で文人の松岡正剛が初となる対談を行った。
松岡正剛が主宰するISIS編集学校事務所の本楼を舞台に行われた、あたかも知とイメージの濁流のような本対談の話題はインド哲学、仏教思想、西洋近代哲学、現代思想、果ては文学、国学、民俗学にも展開し、極めて多岐にわたっている。不世出の碩学たちによる曼荼羅模様のように複雑に入り組んだ全3万字に及ぶ対談を、前後編に分けてお届けしよう。
はじまりのニューエイジャー
松岡正剛(以下、松岡) (ISIS編集学校事務所にて)やぁ、やっとお会いできましたね。
清水高志(以下、清水) はじめまして。松岡さんは在野の知の巨匠なので、学会などで気安くお目にかかることが出来ない。いい機会がないかとずっと以前から思っていたんです。実は、僕は昔から松岡さんのファンの一人なんです。
松岡 へえ、そうなの? 昔というと……
清水 タモリと対談していた頃から知っています。(笑)僕が見たときはさすがに古本になっていましたが。松岡さんが監修したテレビの『極める』も見ていましたし、その後、2000年前後に『日本流』、『山水思想』、『フラジャイル』といった著作が、連峰をなすように出てきたときにも影響を受けましたね。
松岡 『今日のアニミズム』では、仏教とか、もちろんアニミズムもそうだけど、だいぶ日本の話が出てきましたよね、禅も出てくるし。清水さんは、あんまりそういうの書いてなかったんじゃないのかな。
清水 結局、イン哲(*インド哲学)が僕は好きなんですよね。最初から好きなんですよ。中学に入った頃から好きなんです。
松岡 へえ、早熟だなぁそれは。
清水 僕はニューエイジャーなんですよ。中沢新一さんとか松岡さんには青年期にニューエイジの波が来たと思いますけど、子供の頃にそれをもろにかぶったんですね。
松岡 そうすると、ニューエイジってことはパンクやニューウェイブとか?
清水 僕はむしろすっかりインドに傾倒してましたね。行動はパンクでしたが。(笑)
松岡 インドか。シタールのラヴィ・シャンカールとか?
清水 僕は書物からですね。阿部知二さんが翻訳した『ラーマーヤナ』、あれにガーンとやられて。あれは練達の名訳ですよね。当時は異星のまったく違う文明とか、人類学っぽい設定のSFが流行った時代でもあって、僕もル・グィンなんかを読んだりしていたんですが、次第にもはや現代人が描いたフィクションですらないものに強く惹かれていったんです。
松岡 そうか。あっちは? 土取利行が音楽をやっていた…
清水 ピーター・ブルックの芝居『マハーバーラタ』。あれはずっと後で大学生の頃でしたが、もちろん大興奮で観にいきました。『ウパニシャッド』を読んだり…、『バカヴァッド・ギーター』を読んだのが中一の九月くらい、あれにも相当感化されましたね。それで神隠しにあったように、変な世界に行ってしまったような感じです。(笑)
松岡 なるほどねぇ。じゃあ、ミシェル・セールとかは後から?
清水 セールは20歳の頃からです。サーンキヤ学派が好きだったり、自分で理論を作ろうとしていたんですが、インド哲学の用語で語っても、誰にも分かってもらえないだろうと思ったんです。それで概念や素材をヨーロッパに寄せていこうと。
松岡 僕はサーンキヤとヴァイシェーシカに憧れた。木村泰賢の『印度六派哲学』が最初です。イン哲は取り違えられやすいし、当時だとオカルトに捉えられたりするよね。あんまりパンパン書くと。
清水 書きようもないんですけどね、まぁ中学二年とかだから(爆)。それで、最初はショーペンハウアーやニーチェのいるドイツの方に寄せようと思ったんですが、インドとドイツでは全然違うぞと思った。生に対する肯定というものがまるで違うと。
松岡 それは確かにそうですね。
清水 むしろ向かうべきはフランスなんじゃないかと思ったのが10代半ばくらいです。そこから色んな試行錯誤があって、セールに出逢いました。ところで僕は育ちは名古屋なんですけど、母方は香川なんです。
松岡 じゃ、空海だ。
清水 そうなんですよ。なんとなく空海にはずっとシンパシーがあって、それで仏教に関心が強いところもありますね。
松岡 そこからセールに辿り着いたのが面白いね。煙草吸っていいかな? (と、優雅に紫煙をくゆらせ始める)
清水 それでセールをやり出したんですけど、彼はそうそう手をつけられない謎の人じゃないですか。学部、修士とずっと研究し続けて論文も書いてましたが、やっとちゃんと論じられると思えるようになったのは、27くらいのときでしたね。西田幾多郎につながる京都学派的な解釈でライプニッツを読み直し、西田、ライプニッツ、セールと並べて補完し合うように読解していく、というスタイルになったんです。今でも僕は大体そういう手法ですね。
松岡 それも大事な着眼点だし、あんまりやれる人はいなかったよね。ライプニッツは、僕も下村寅太郎さんのところに通うようになって、工作舎から『ライプニッツ著作集』を出させるようにしたんですが、僕自身にとってもライプニッツは大きかったですね。僕の場合はセールではなく、ホワイトヘッドから錯交する形でライプニッツにいったんですけどね。
交錯する内と外――『声字実相義』と唯識の認知哲学
清水 松岡さんは若い頃から、仏教やイン哲にも関心を持たれていましたよね。
松岡 そこらへんへの関心は最初からちらちらあったんですよ。イン哲や仏教は言語観とか価値観がまったくヨーロッパの哲学とは違うので、それこそショーペンハウアーのミットライト・ペシミズム(*共苦、厭世主義)が届かない何かを最初から持ってるんですよね。それと、今いわれたライプニッツとか西田とか。ただ、僕は西田に対してはずーっと、いまだに不満があるんです。
清水 表現やスタイルといった点についてですか?
松岡 いや、彼の生き方は好きですね。悩み方も好きなんですが、ただ西田の場所論が果たして完成しているのかという点にはずっと疑問がある。僕としては西田には絶対矛盾的自己同一とかの解明にもっといってもらいたかったんですよ。好意はすごく持っているんだけど、どうも物足りないんです。もっと「無の場所論」に向ったほうがよかった。中沢くんも一時田辺元(*西田の弟子で京都学派を代表する哲学者の一人)に行ったね。
清水 そうですね、最近それで西田とか華厳にも触れられるようになりましたね。今回の僕の本にも、西田の影響がやはりあるんです。西田が語っていたようなことを形を変えて語っているところがある。西田は西洋哲学をガーッと吸収した上で華厳へと向かったじゃないですか。ただ、僕はそこをもう一歩進めて密教まで向かいたいという欲求が昔からずっとあって。
松岡 それは一番いいコースだね。華厳から密教へというのは明恵上人が辿った道でもある。ただ、意外に現代哲学や現代思想ではその道があまり追われていない。
清水 どうもそうですね。
松岡 法蔵(*華厳宗第三祖)とか澄観(*華厳宗第四祖)以降、禅もそうで、華厳から禅と密教が二つながら出てくる、これを捉える人があまりいない。中国でもいないんですよ。ヨーロッパでは仏教学や東洋学が今は大したことなくて、アメリカン・スピリチュアリズムにみんないっちゃってるけど、そこはぜひやられた方がいいです。
清水 僕はアニミズムと華厳的なものを接続していくことが、その道を復元していく一つの方法になるんじゃないかと思うんです。ただダイレクトに空海とかに接続するのが難しいのは、空海は彼なりにサイエンスというものを肯定しようとしているんですが、その肯定しようとしているサイエンスが古代のものなんですよね。だから今日の我々からするとちょっと分かりにくい。
松岡 それは仕方ないよ。当時は錬丹術とかの時代ですから。丹生(にゅう、水銀を含む鉱物)を煎じて服餌するとか、硫化水銀をちょっとずつ吸って仙人になるとか、そういう術でしかなかった。サイエンスと言っても錬金術的な錬丹術です。でもそれはしょうがないよね当時は。中国の葛洪(かっこう)の錬丹術に近いものを空海や玄昉(げんぼう)や、役行者のような連中はやっていたわけです。神農主義というか本草学ですね。それが少しロジカルになり、サイエンティフィックになるのは、三浦梅園や稲生若水(いのうじゃくすい)とか、江戸時代の国学が起こった裏側でやっている中国的サイエンスがおこり、それに加えて志筑忠雄のようにヨーロッパのものを入れている人のころになると、サイエンスがぐっとでてくる。梅園の反観合一の条理学なんてのは、けっこうロジカルで、かつアナロジカルです。空海や玄昉の時代では無理です。ただ、ライプニッツとかのもっと奥にあるプロティノスとか、グノーシスなんかを見てみると、あれもサイエンスと言えばサイエンスなんだよね。そういうものを取り出していけば空海についてももっと書きようがあるかもしれない。
清水 僕は空海は『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』から分け入っていくのがいいんじゃないかと思ってますね。空海の中ではあれが最も華厳っぽい。

松岡 ああ、いいですよ。『吽字義』とともにね。

清水 華厳には「主伴依正」のような思想があるじゃないですか。ディペンダントなもの(依)とインディペンダントなもの(正)が、相互に立場を入れ替えるという。道元だと「身心依正」、あるいは『声字実相義』だと「内外の色は互いに依正にして」なんていう言葉も出てきますね。最澄なんかは、この「依正」という語を輪廻転生における「正報」と、その拠りどころとなる環境「依報」の二つの略語であるとして解釈しているようで、「依正」という言葉に注がつくと必ずそれがでてきて分かりづらくなってしまう。輪廻がどうとかではなく、これは唯識から相互入れ子の華厳が出てくるあたりの論理を密教的に展開してるところですね。そして空海も『声字実相義』では、それを内と外が入れ替わるという風に表現しているんです。
これは松岡さんの関心とも近いですよね。今回、対談前に松岡さんの『擬』という本を読み直したんですが、多和田葉子のエクソフォニー(*母語の外に越境した言語のあり方を考える)という主題に触れつつ、内と外の問題がやはりしっかり語られていた。ここは大きな問題なんだろうと思うんですね。
松岡 大きいですね。『声字実相義』というと、あれは書き方もすごいよね。スタイルをパッパッと切り替えて変化していく。がらっと偈に入ったり頌に入ったり。突然スローガンが「五大にみな響きあり」という風にでてきたり。普通の仏教学ではない。
清水 面白いですよね。空海は地・水・火・風・空の「五大」に識大も並べて「六大」としているわけですけど、「識」のようなものがマテリアルなものと同列に並べられているんですよね。これは深い。
松岡 認知哲学です。
清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分」は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分」である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分」で「識」の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけですよ。
<参考情報>

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
共に、合流する――偶有性について
松岡 華厳も出てくるし、一方に阿頼耶識(あらやしき)の方へ向かっていく道もあります。阿頼耶識についてはまだ誰もちゃんとやれていないんじゃない?
清水 踏み込んでやってないですね。比較思想学会なんかでは、ベルクソンと結びつけて阿頼耶識を論じている人なんかがいますね。ただ、そういう話になるとイン哲の先生たちが「じゃあ輪廻はどうするんだ」という風に食いついてきて、ぶち壊しちゃう。(笑)ああいうのを見ると、僕はちょっと違う方向に向かいたくて、この本でも仏教にラトゥールを接続したりしてるんです。
ラトゥールの議論というのは要するに、研究者のさまざまなアプローチのような、複数の主体のエージェンシーがあって、ある一つの軸に向かって競合していくと、それに対するフィードバックの繰り返しによって科学の対象というものが立ち上がってくる、というものですよね。唯識で、眼識とか耳識とかをずらっと並べて「相分」との間のフィードバック・ループで考えるというのと発想としては近いんです。ただ、ラトゥールはセールから出てきた人で、僕は好きなんだけども彼が見ていたのはそこまでで、それはあくまでもネットワークの網の目の一部に過ぎないんです。仏教で言ったら唯識から華厳に行く展開がない。