■「世界と日本の関係を新たに観相するための8つほどの視軸」
ぼくも『日本仏教史』から読み始めた。とくに天台本覚については末木さんのものをずっと追った。しばしば目から鱗が落ちた。あのころは後に「失われた十年」と言われたほど不毛の時期で、世界は湾岸戦争が、日本はバブル崩壊がおこったあとの十年で、グローバリズムに擦り寄る日本の姿があまりに醜悪だったので、ぼくはできるかぎりメディアから遠ざかり、ひたすら沈潜して「世界と日本の関係を新たに観相するための8つほどの視軸」をたて、それらを解読するにあたって読み込むべき数十冊のキーブックにとりくんでいた。
文化人類学系のもの、複雑系に関するもの、遺伝科学や脳科学の本、チューリングマシンもの、グノーシスから神秘主義に及ぶもの、いろいろな著作や問題作を選んだが、そのうちの一冊が『日本仏教史』だった。サブタイトルは「思想史としてのアプローチ」。日本思想史を日本仏教のボラタリティでフィルタリングするという見方だ。『図説日本の仏教』全6巻(新潮社)の思想解説を担当執筆したものも散りばめられていた。論考版は『日本仏教思想史論考』(大蔵出版)にまとまっている。
その後、多くの著作をものされたが、末木さんの本はできるだけいろいろ読んだほうがいいように思う。仏教思想の網目が歴史的かつ俯瞰的に見えてくるだけではなく、日本思想の骨法がわかる。シンタクスとセマンティクスの両方がわかる。『草木成仏の思想』(サンガ)、『日本仏教の可能性』(新潮文庫)、『浄土思想論』(春秋社)、『中世の神と仏』(山川出版社)、『近代日本と仏教』(トランスビュー)など、お勧めだ。
出典:サブタイトル/日本仏教入門 末木文美士~松岡正剛の千夜千冊より転記~
■近江ARS 第8回「還生の会」ダイジェスト
「近江ARSでは一人一人がいろんなところから集まって、力を組み合わせることによって、ゆくゆくは祝祭的な場作りができたらと思っています。単なるイベントではなく、日本を貫いている仏教を学んでいきたいです」(和泉佳奈子)
第1部 伝え
福家俊彦「別所から別日本へ」
福家は菩薩という難解なテーマを理解するためのキーワードとして、「ロゴス的知性」と「レンマ的知性」を挙げた。文化人類学者の中沢新一氏による分類である。前者は、二項対立で考える二分法や論理学をもとに構築された西洋の科学や思想を指す。これに対して、後者は、古代インドからの論理学や思考様式である。ジレンマという言葉がある。2つのうちどちらかを選ばなければならない状況を指すが、レンマ的知性においては、選択肢が3つある「トリレンマ」や選択肢が4つに及ぶ「テトラレンマ」もある。ロゴス的知性の外にはレンマ的思考が広がっていると言える。ちなみに、テトラレンマは大乗仏教を大成した龍樹(サンスクリット名:ナーガールジュナ。2世紀のインドの僧侶)が駆使した論法でもある。
<参考情報>
■テトラレンマ:Google AIの解答
テトラレンマ(四句分別)は、2世紀のインドの僧龍樹(ナーガールジュナ)が主著『中論』(根本中頌)で駆使した論理的枠組み。
ある事象に対し「Aである」「Aでない」「AでもありAでもない」「AでもなくAでもない」という4つの可能性を全て否定し、固定的な実体を認めない「空(くう)」を説くための手法。
テトラレンマ(四句)の基本構造
龍樹は、あらゆる存在や概念が固定的な実体(自性)を持つという考えを否定するために、以下の4つの局面を否定(非)します。
- 「ある」(是):実体があるという主張の否定
- 「ない」(非):実体がないという主張の否定
- 「あるでもあり、ないでもある」(亦是亦非):両方を認める考えの否定
- 「あるでもなく、ないでもない」(非是非非):両方とも否定する考えの否定
これら4つのいずれの立場にもとらわれない(四句を否定する)ところに、実体のない「空」という真理が明らかになると『中論』は説きます。
中論における目的
- 空(くう)の確立:すべての事象は「縁起」(相互依存)によって存在しており、不変の自己本質を持たないことを示す。
- とらわれの否定:実在(有)や虚無(無)という極端な思考から離れ、中道(ちゅうどう)に立つ。
テトラレンマは矛盾を指摘するだけではなく、言葉や論理の限界を超えた空の真理を、逆に論理(否定)を使って論証する「空の時代」の強力なツールとして中観派(中論の思想を継承する人々)に受け継がれました。
⇒実体視を否定し、固定観念を超越する思想です。
1. テトラレンマ(四句分別)の定義:具体例(『中論』第一章)
物事は「自ら生じる(自生)」「他から生じる(他生)」「自他から生じる」「原因なく生じる(無因)」のいずれでもない。
2. 『中論』における「空」の論理
- 龍樹の目的:認識の対象となるあらゆるもの(縁起)に、固定的な不変の実体(自性)を認めない。
- 二項対立の超越:存在と無存在という極端な見方(二見)を離れ、中間(中道)に立つ。
- 機能:言語や思考で捉えられる「有」「無」を排し、真実の姿(如実知見)に到達する手法。
3. テトラレンマの特徴
- 否定の否定:3つ目、4つ目の選択肢を含むことで、単純な排中律を回避し、思考の限界を超えようとする。
- パラコンシステント論理:現代では、矛盾を排斥せずに真理を追究する「矛盾許容論理」としても注目されている。
- 絶対矛盾的自己同一:観察主体と対象の分離を無境界にする論理として扱われる。
『中論』では、この四句分別を27の章にわたって展開し、時間、運動、感覚、自己といったあらゆる事象が「実体としては存在しない(空である)」と帰結させています。
出典:Google 検索
■■『文化人類学』&『複雑系』情報収集■■
<参考情報:「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|後編より抜粋>
清水 その一方で仏教は、繁茂しすぎてもはや原型が分からなくなってしまったと思うんですよ。
松岡 それも問題だよね。
清水 議論を絞って刷新したのは、ナーガールジュナだけなんじゃないか。
松岡 その意味ではとっくに仏教の方がヨーロッパを批判するにあたらないぐらいひどい歴史を進めてますからね。ただ法然や道元からはおもしろい。
清水 『中論』を読むと、最初に帰敬序(ききょうじょ)があって、八不が出てくる。そのあと四句分別をしていくけれど、全部否定していくんですね。第十八章の第八偈、あれだけが肯定していて。僕はあれには意味があって、オッカムの剃刀だと思うんですね。東洋的な剃刀。四句分別の第四レンマは、そこにむやみやたらと何かの主語を代入して語ってはいけないもので、それによって否定される構造そのものを表わすごく限られた二項対立だけがそれを語るにふさわしいのだ、という。だけど仏教がその後発展した状況から見ると、八不でチョイスした四種の二項対立、不生不滅とか不来不去とかですが、それで良かったのかとも思うんです。法華一乗や華厳の展開を考えれば「一と多」とか、そういう二項対立の方が本質的だったのではないか。また西洋哲学ともより接続しやすいのではないかと思って、今度の本ではその「絞り直し」をしたというところがある。
<参考情報>





出典::東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
松岡 空海が、読んだんだろうけど一切記述していないものがあります。華厳から密教へ変化していくときに、不空とか一行とかが登場し、宗密の『原人論(げんにんろん)』なんていうのが出てきて、華厳の大きな体系が崩れていくんですよ。華厳が密教に吸収され、行為や即身というものが重視されて、金胎両部(*金剛界と胎蔵界)の二つのシステムを一対で動かし、しかも華厳の事事無礙や理事無礙法界の「理」や「事」のように融和するのではなく、二つに分けてしまう。そこで空海がヒントにしたであろう何かが気になっているんですよね。特に『原人論』というのが僕には、分かるようで分からないですね。阿頼耶識の問題を解くにあたって、金剛界、胎蔵界という言葉は使っていないけれど、一対のシステムのなかで同時にプロセッシングするという操作をしている。密教というのはプロセッサー(*ITなどで、一定の手順でデータを変換、演算、加工する機能を持ったシステムやソフトウェア、装置のこと)を作るんだね。
それとはまったく違うんだけど、三浦梅園までくると、紙の表と裏に同時に複数の円の図を描いて、「物/気」とか「天/地」というように概念を一対で配して、それらの関係を順々に切り替えていくということをやっている。
出典:サブタイトル/「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|後編
<参考情報:法界縁起とは>





出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
<参考情報:最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~>
大乗グループはその後も大乗経典のヴァージョンをいろいろ編纂し、しだいに大乗仏教という大きな仕組みをつくりあげた。アショーカ王やカニシカ王がこれを採用し、大乗仏教は菩薩乗を広げるムーブメントになっていった。
やがて時代がたって、大乗仏教にもいくつかの考え方の差異が出て、宗派がいくつも分立していくと、新たな問題が出来(しゅったい)してきた。いったい『法華経』に語られた「三乗は方便、一乗が本当」というメッセージは文字通り受け取っていいのかどうかということだ。とくに中国に入って経典が次から次へと漢訳されていったことで、解釈のちがいや混乱が錯綜した。
漢訳経典に混乱が出てきたのは致し方がなかった。インドでの経典成立の順に漢訳されたわけではないからだ。ただし混乱したままではまずい。どの経典を原型とみなし、どの経典がそれに続いたのかを判定する必要が出てきた。これを仏教史では「教相判釈」(きょうそうはんじゃく、略して教判)という。
竺道生や慧観による教判が試みられ、天台智顗の「五時八教」説でおよその流れが確立した。ブッダは「華厳→阿含→方等→般若→法華」という5段階で説いていったとみなすのがいい、それが仏教を最も深く理解していくのにふさわしい順番であるという説だ。これは歴史的な経典成立の順ではなく、仏説を理解する認識の順によるもので、そこがユニークだった。
智顗の五時八教説によって、『法華経』を学修するすべての信仰者が「法華一乗」になっていくというスコープが提出されたのである。智顗はそのように認識するためのベーシック・テキストにあたる『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』も書いた。天台三大部だ。ここに天台法門が確立した。
この見方が日本にも踏襲され、最澄はこの説に従って日本の天台をまとめたいと決断した。法華一乗である。しかし法相宗では、それとは別に「五姓各別説」を唱えて、一乗でまとめるのではなく、あくまで三乗それぞれの悟りを追求するべきだとした。ここにおいて法相の徳一から「天台の法華一乗の解釈は納得できない」というクレームが投げかけられたのである。
論争のいきさつは猖獗をきわめるのでここでは省くけれど(師茂樹『最澄と徳一』を読まれたい)、最澄は徳一の掲げた疑問にかなり対応して、自身の天台教学の形成に与かった。それは、青年最澄が仏教に向かうにあたって発願した思いと一致するものだった。

「三乗が方便、一乗が本当」ということを説明する物語では、【一乗】は「大白牛車」(大きな白牛が引く牛車)によって喩えられる。この白牛はコブウシと考えられ、古い時代からインド周辺で神聖視されてきた。バビロニア南部のウルの遺跡の記録や、インダス文明の印章(図版)にもコブウシの姿が見える。

「五時」とは、教化方法などを判釈した順序に従って、華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五期に分類したものである。「八教」は、理解の仕方で分類された「化儀の四教」と、教えの内容と対象を示した「化法の四教」を指す。例えば「化儀の四教」の「頓」は一瞬で理解することで、「漸」は段階を経ての理解にあたる。また「化法の四教」の「蔵」は、二乗(声聞と縁覚)の教えであり、「別」は菩薩乗の教えを示した。
出典:サブタイトル/最澄と天台教団 木内堯央~松岡正剛の千夜千冊より転記~
<参考情報>
■談 no.130 トライコトミー…二項対立を超えての概要
清水高志 × 奥野克巳 × 護山 真也 公益財団法人 たばこ総合研究センター編
出典:https://note.kohkoku.jp/n/n389b844691d2
二元論や二項対立の克服もしくは調停という課題は、そもそも東洋の思想的営為においても古くから問われていました。
西洋の形式論理では、古代ギリシャ以来矛盾率(「Aは非Aではない」といった論理)による議論、二元論的なロジックはむしろ常套でしたが、インドで発達したのはテトラレンマ(四区分別)と呼ばれる独自の論法です。たとえばインドのナーガルジュナ(龍樹)が『中論』で駆使しているテトラレンマは、①すべては真実(如)である、②すべては真実(如)ではない、③すべては真実(如)であり、かつすべては真実(如)でない、④すべては真実(如)であるわけでなく、かつすべては真実(如)ではないわけでもない、といったものです。
二項対立の調停という分脈のなかで、なぜ④を必要としたのでしょうか。それは、端的に「多即一」、「一即多」の世界観に超出するためだといわれています。このテトラレンマに、東洋の思想的営為の極限を探ります。
〈西洋哲学と東洋哲学〉
「二項対立を調停する」
清水高志(東洋大学教授、井上円了哲学センター理事)
「主体と対象」「一と多」に、さらに「内と外」(ないしは「含むと含まれる」)という二項対立を加える。二項対立の種類を限定しつつも増やすことによって、構造をより直感しやすくするわけです。このように三種類の二項対立を組み合わせることによって、媒介と縮約の循環的構造をつくり、原因となる始点がどこにもないあり方を示す方法が、トライコトミー(trichotomy)です。西洋的発想の基底にある二項対立をいかに回避するか、トライコトミーから考察します。
〈アニミズムとメビウスの帯〉
「縁起あるいはアニミズムの他力性」
奥野克巳(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)
自己の非=存在性を説く仏教の観点から見れば、マルチスピーシーズ民族誌は、人類学が長らく無意識のうちに想定していた、固有性・単一性・実体性・普遍性をもった人間的自己を、複数種の絡まりあいのなかへと投げ入れて、瞬間瞬間に生成する、個体としての本性をもたない自己のイメージを再提起したといえるでしょう。その意味で、複数種のエンタングルメント=絡まりあいとは、相依相関する「縁起」のことです。「縁(よ)って生起すること」を意味する縁起とは、精神的・物質的な要素としての法(ダルマ)が、他の法に依存して生じるという道理を指しています。民族誌において、文化や社会といった枠組みのなかで語られてきた、ある事物と他の事物との「関係性」とは、まさしくこの縁起的な働きを別の言葉で置き換えたものです。むしろ、仏教の最も基本的な思想ともいえる縁起の道理は、「関係性」として描かれるメカニズムを、より深層から理解するための糸口となるのです。
一方アニミズムは、自分と自分の周囲の世界の連絡通路をつねに開いておく、言い換えれば、モノや他生にも注意を払うことで、モノや他生や世界の側から働きかけに対しても私が応じるという機序で成立するようにも思われます。だとすれば、自力のみに頼るのではなく、あちら側からもたらされる他力を感じて、あるがままの自然を受け入れるアニミズムと「縁起」は、近傍に位置する二種の思想的営為といえそうです。
〈逆向きの因果論〉
「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
護山真也(信州大学人文学部教授)
原因は結果に時間的に先行する。われわれの多くが当然のように前提とするこの考えに、異議を唱えたのが、インド仏教の論師ブラジュニャーカラグプタです。たとえば、明日、恋人とのデートが約束されている場合、その未来の出来事が現在の心に幸福感をもたらすとします。あるいは逆に、明日に控えた手術が現在の心に暗い影を落としているとしましよう。われわれは過去の積み重ねのうえに現在があるという考えにとらわれていますが、現在はまた未来からの影響の下に成り立っています。因果のベクトルは過去から現在へという方向性だけではなく、未来から現在へも向けられているとしたら…。ブラジュニャーカラグプタによれば、過去と未来は対称性の関係にあり、過去のものが結果を生み出す作用をもつのならば、同様に未来のものも結果を生み出す作用をもつと考えても、なんら不都合はないと主張したのです。
果たしてこの考えを屁理屈として退けることは可能でしょうか。一見奇妙に見える未来原因説を〈今ここ〉を生きる哲学の文脈とすり合わせることから再検討します。


出典:https://suiyosha.hondana.jp/book/b649954.html
<参考情報>
■続・虚実と世界 〜 アニミズムと世界認識 一部抜粋
哲学者 清水高志× 『広告』編集長 小野直紀 『広告』虚実特集号イベントレポート
『今日のアニミズム』発刊後に見えてきたもの
小野:「まえがき」で、このタイトルはレヴィ=ストロースの名著『今日のトーテミズム』にあやかって題されたと書かれていたので、レヴィ=ストロースへの興味を深くもたれたうえで執筆されたのかなと思ったのですが。
清水:『今日のアミニズム』を書いたことで、さらに興味は深まっています。レヴィ=ストロースが神話や無文字文化の意味体系を解釈するために用いた「構造分析」という方法をミニマムに圧縮して、哲学やほかの領域をまたいで現れてくる普遍構造をごくシンプルに分析してみたかったんです。
清水:はい。自分で書きながら光を当てたい欲求をすごく持ちましたし、そうすべきだとも思いました。レヴィ=ストロースを介して、2世紀のインド仏教僧で中観派の祖・ナーガールジュナ(龍樹)が書いた『中論』がやっとわかる。さらにプラトンの思想なども踏まえてぐるぐる回していくと、人類が考えてきたことが東洋でも西洋でもわかってくるんです
小野:おもしろいです。清水さんは20世紀の思想を引き継ぎながら、現代哲学を更新していこうとされるなかで、文化人類学と哲学を掛け合わせる試みをされていて、その入り口にレヴィ=ストロースがあるという印象を持っています。なぜ、文化人類学と哲学を掛け合わせようとされたのでしょうか。
清水:虚実特集号の対談でお話した内容とも重なるのですが、異分野を掛け合わせる背景には、いろんな分野で多世界論が共有されはじめているというのがあります。多世界論とは、異なるパースペクティブで見る世界が重なり合い、しかもひとつに統合されていないという世界観です。
仏教の唯識という考え方では、同じ水を見ても天人には「宝石で飾られた池」に見え、人間には「水」、餓鬼には「血膿」、魚には「住みか」と、それぞれに異なる認識を持つことを「一水四見(いっすいしけん)」とたとえます。今日の人類学は、これをパースペクティブ主義や多自然主義というテーマで書き起こしてきました。
レヴィ=ストロースから解釈する世界の構造
小野:いろんなジャンルの世界が同時にあるという世界認識は一般的なものになりつつある。それを踏まえて、清水さんがつくろうとしている「全部を統一した哲学」について聞いてみたいです。
清水:僕がやろうとしたのは、二項対立をいくつもつくって一巡させるということです。レヴィ=ストロースは、神話のなかに二項対立があったら、それをいくつも増やして複雑にそれらの関係を読み解いていきました。神話の思考では、「男と女」という二項対立があるなら、「両性具有」「無性者」と両者を媒介するような中間のものを「第三項」としてとりながら、最初にあった「男と女」の起源を説明するように、ぐるっと一巡するんですね。それによって構造ができて、差異の体系ができているのが神話だと、レヴィ=ストロースは言っていたんです。
たとえば、「火にかけたものは文化的で食べられる」「生のものは自然のままのもので食べられない」という考えがあるとします。しかし、タバコは火にかけても食べたら死んでしまうし、ハチミツは火にかけなくても食べられる。こういうものを「媒介」、ぐるっと回って永遠に原理を遡行しなくてもいい構造をつくっているものを「縮約」と言います。「媒介」と「縮約」によって神話を考えることができるんです。
小野:『今日のアミニズム』では、レヴィ=ストロースの「縮約」と仏教を関連づけて論じられています。
清水:ナーガールジュナは『中論』などで、「《A》がなければ《非A》がない」「《非A》がなければ《A》がない」という構造を、縁起にまつわる「相依性(そうえしょう)」というあり方で説きましたが、あれも実は「縮約」をつくっているんです。

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
インド論理学では、「《A》がある」「《非A》がある」「《A》かつ《非A》」「《A》でも《非A》でもない」という、第一レンマ、第二レンマ、第三レンマ、第四レンマと呼ばれるものを駆使するんですが(四句分別)、それは構造の論理なんですね。十二支縁起(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死→無明……の繰り返し)でも、重要なのはそれぞれの構成要素ではなく、実はループ構造なんです。



出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
<参考情報>

出典:https://www.eel.co.jp/aida/lectures/s4_4/ Season 4 第4講「脳科学×ブッダ」から見えて来たもの 2024.1.13 編集工学研究所
縁起で語られていることは、人間の煩悩の増大、生成の局面です。「無明があるから行がある……」といったように。しかしナーガールジュナは、縁起の本質がこのループ構造そのものであることに気づいた。そうすると、「《A》があるから《非A》がある。《非A》があるから《A》がある」という関係になるんですが、これは《A》と《非A》をまたいだ第三レンマな「中」にあたるものです。実際には、そのループのなかでは、すべての要素が順々にこうした第三レンマになる。
しかも逆観といって、このループ構造を「《A》がないから《非A》がない。《非A》がないから《A》がない)という風に逆転させることを仏教では説きますから、原因においては・・・・・・・「《A》でも《非A》でもない」という第四レンマが成り立つ。
非常にミニマムで抽象系ですが、釈迦が縁起と「離二辺の中道」というかたちで「どちらの極にも行かない」第四レンマを最初から語っている背景には、レヴィ=ストロースが「第三項による媒介」とか、「縮約」とか読んだものがあるのです。
たぶん、仏教以前の神話の思考、野生やアニミズムの思考を、仏教がそういうかたちで抽象化したんです。だからこそ、その構造にいろんな地域のいろんな「野生の思考」が融和して、むしろ温存されたところもあると思います。たしか、レヴィ=ストロースも、仏教が早くに成立したからそれらが融和されたということを言っていました。ある意味、日本も聖徳太子の時代に仏教を採用したからこそ、各地の宗教やシャーマニズムを統合できたところがあると思うんですね。
僕は「文化の核心部分は何でできているか」という理屈を考えてみたかったんです。
たとえば、「人間と自然の関係(主体/対象)」「一/多」「含む・含まれる(内/外)」という三種類の二項対立「トライコトミー(trichotomy、三分法)」を考えるとします。多くの場合、こうした二項対立は、「主体」に「一」というバイアスがかかっていたり、対象に「多」というバイアスがかかっていたりしますし、その逆パターンもあります。
三種類の二項対立を混ぜ合わせツイストさせて解くと、永遠に原因を遡るわけでもなく構造ができるのではないかというアイデアだったんです。最近は、プラトンをレヴィ=ストロース的に読んでいます。プラトンも二項対立を複雑化しているのですが、レヴィ=ストロースを補助線にすると「あ、これは野生の思考だな」とわかる。むしろそう読まないとわからないところがいっぱいあるんですよ。

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
人間は生理学レベルで複雑で多様なものを見分けることができる
小野:清水さんは哲学と人類学を結びつけるなかで、初期の仏教者やギリシャの哲学者も同じようなことを考えようとしていたと発見されました。しかし、西洋では循環させて二元論を超えていくことはできなかったため、ギリシャの二項対立、二元論にもとづいて、客観的な唯一の世界があるというような思想がかたちづくられていき、キリスト教のような一神教も生まれ、人間中心主義が西洋思想の主流になっていきました。
虚実特集号の対談では、こうした人間が主体でそれ以外は客体であるというような関係を批判というか、否定したというのが非常におもしろいなと思いました。その根幹にあるのが、仏教やソクラテスの思想より以前にあったアニミズムだということでしょうか。
清水:アニミズムがあるし、二項対立を組み合わせて世界を複雑に弁別するというのがあるんです。レヴィ=ストロース以前に、ロマン・ヤコブソンというロシア生まれのアメリカの言語学者は、人間の言語の最小単位「音素」の研究をしました。ヤコブソンは、トルコ語には8つの音素があり、そのひとつの音素がそもそも3種類の二項対立の組み合わせでできていると考えました。舌を奥のほうで盛り上がらせるか前のほうで盛り上がらせるか、唇を丸くするか尖らせるか、口を開くか閉じるか。それを組み合わせていくと8つの音素ができます。つまり人間は生理学レベルで、二項対立の組み合わせの多様性で、複雑なものを見分けるようにできているんです。
漢字にも表意文字と表音文字がありますね。スペルの組み合わせで複雑さを出す言語と、文字そのものが多様な言語があります。組み合わせで多様性を出すほうに人間の生理があるのだとすると、いちばん単純なのは「プラスか、マイナスか」です。プラス・マイナスで弁別して、その種類が有限箇の二項対立で母音ができ、子音も同じようにできて、組み合わせると無限かつ複雑になる。その区別をしているのはおそらく人間の無意識なんですよね。
フランスの哲学者 ジャック・ラカンは「無意識は言語として(のように)構造化されている」と言いましたが、無意識は「人類の無意識」によって言語のように共有されているんです。二項対立の組み合わせだけでなく、隣接性や含む/含まれる関係などによって、修辞学でいうところの比喩「メタファー(metaphor)」「メトニミー(metonymy、換喩)」などを駆使することで、世界の様々な具体物が複雑に弁別され、日常的な推論も多くはこうしたものによって成り立っています。
たとえば、フランスの詩人 シャルル・ボードレールの「猫」という詩を分析すると、こうした組み合わせでできていることがわかります。神話というのは、世界を説明したくて世界をひとつのものに還元するのではなく「世界って複雑だよね」と感じたくて、こうした組み合わせを駆使してつくられていると思います。還元せずに、伸縮自在なフリーハンドをいかに存続させるかということをやろうとするんですね。だから、一見すると不合理なことを語るのですが、神話のなかではオチがついていて解決されている。それが、神話を語る人たちにとっての倫理だったりするんです。
小野:なるほど。
清水:レヴィ=ストロースが南米の先住民に見出した、「自然と文化が分離している」という考えも、ギリシャ人の「イデアと感性的世界が分離する」という考えも、何種類かの要素をたどっていくとわかるのは、「含む/含まれる」関係をどう考えるかということが人類にとって実に大きいんですね。これについて、僕は『今日のアニミズム』で「トライコトミー」という方法論を用いて語りました。
二項対立に「第三項」を増やして無意識を掘り起こす
小野:世界の捉え方としての「トライコトミー」の考え方ですから、キリスト教を除外する必要はないですよね。でも、二項対立から脱却するためと言いながら、どうしても二項対立を用いてしまうのはどうしてなのでしょう。
清水:世界の弁別が二項対立的なので用いざるを得ないんです。ただ、神話に両性具有が出てくるように、「第三項」が両方を兼ねるという「調停」をもって一巡すればいいんですよ。ただし、それが無限遡行にならないようにはしなければいけません。
小野:なるほど。20世紀のポストモダンにおいても、二項対立を乗り越えようとしたところはあります。デリダの脱構築やヘーゲルの弁証法は不十分であったということも『今日のアニミズム』には書かれていましたね。
清水:脱構築主義も弁証法も、ある二項対立の解決法を別の二項対立に当てはめていくけれど、一巡しないのがダメだなと思います。
小野:物事を理解するには、あえて二項対立を増やしていくという行為がいいんだなと思いました。『広告』の次号特集は「文化」なのですが、「文化/自然」「文化/科学」「文化/経済」とどんどん二項対立をつくることによって、考えるヒントが生まれてきます。
清水:それはありますね。ひとつの色を見ているとその補色が見えてくるように、人間の弁別機能自体がそのようになっていますから。
音楽も、ラヴェルの『ボレロ』などは、「縮約」しながら繰り返して、変奏しながら縮約形をとって終わります。
レヴィ=ストロースは、神話もそのようにしてあると言っていて、なるほどと思いました。
小野:『今日のアニミズム』に書かれていた、画家のマックス・エルンストが座右の銘にしていたという、ロートレアモンの詩の一行「解剖台の上でのミシンと洋傘の偶然の出会い」のお話もおもしろかったです。「洋傘/ミシン」という対立を置いたときに、「先端に突起がついている洋傘」「腕木の下に針が付いているミシン」など対立と対比が見えてきます。「第三項」を加えてぐるぐる回す感じがすごくイメージできたなと思いました。
清水:「解剖台」という第三項と結びつくことによって、「洋傘/ミシン」の有縁性が見えてくるんです。
解剖台の上でミシンと洋傘が出会うから、ツイストする場ができるわけですね。そういうことが大事なんでしょうけれど、いまは単純になっていて。
そういう意味では、アート系の人などは無意識を掘り起こすことが「縮約」ですよね。美術も建築もそうかもしれない。

小野:アートも単純になっている気がしますね。芸術や神話には、二項対立を「調停」していく役割があり、二項対立を乗り越えていくというお話をされていましたが、いまの芸術でそれができているのか。もしくは、ほかの分野で「調停」できるんでしょうか。
清水:先ほど千利休の話が出ましたが、利休は不均衡で不完全なものに美を見出していて、そこには「トライコトミー」の要素があります。アートでそういうことを表現していくのもそうですし、すでに表現されたものの読み方を変えることで、無意識に表現されたものを見つけることもできますよね。いかにコントラストを出すかということですね。
出典:続・虚実と世界 〜 アニミズムと世界認識 一部抜粋
<参考情報:『今日のアニミズム』から『空海論/仏教論』へ~清水高志+奥野克巳 対談転記~>
■『今日のアニミズム』から『空海論/仏教論』へ 一部抜粋
加藤学 × 奥野克巳 × 清水高志
【レヴィ=ストロースによる構造の発見】
レヴィ=ストロースがブラジルでのフィールドワークの体験を思い出して書いた『悲しき熱帯』のなかでも述べています「構造」はブラジルのいわゆる「未開社会」での経験によって、最初に発見されたものだということです。
『悲しき熱帯』の「交差イトコ婚」の話のなかに、レヴィ=ストロースによって「構造」の糸口が見出された出発点のようなものをうかがうことができます。ナンビクワラという、「地べたに寝る人たち」と呼ばれている先住民たちは、幼い頃から、交差イトコ同士が「夫」と「妻」と呼び合います。交差イトコ同士は将来結婚する候補者です。結婚する相手があらかじめ決まっているのです。誰が決めたわけでもなく、昔からそうなっているとしか説明されないのですが、そのなかにレヴィ=ストロースが「構造」を見出すのです。それは、後に、言語学者ローマン・ヤーコブソンと出会って、「構造」の概念を深めるなかで再発見し、後付け的に書いたのではないかと私は考えていますが。
ヨーロッパを歴史の主体として考えるような考え方、進歩の概念なんかもそうですし、マルクス主義なんかもそうだと思いますけれども、ヨーロッパの進歩する主体、弁証法的な論理のなかで、正-反-合と辿りながら進歩していくような主体に対して、レヴィ=ストロースは、「未開社会」の側に立って、反論を突き付けた。
第一次世界大戦では850万人もの人々が亡くなったと述べています。ヨーロッパで850万人ですから、本当にすごい数です。ヨーロッパが、人類初の総力戦で戦ったわけですね。ヴァレリーは、ヨーロッパが積み上げてきた知というのは、戦争を止めるには役に立たない、無力であるということが証明されたのと述べています。まさにそうした戦争の時代に、ヨーロッパの外部に人間精神や本性を探りに行こうとして生まれたのが、人類学だったのだと言えると思います。
彼自身は、「構造」の概念を発見して嬉々としていた。最初は、親族関係のなかに「構造」を見出し、その後、トーテミスム、そして神話へとテーマを順に変えていきます。
京都大学のシンポジウムで私は、ヨーロッパの歴史的な主体を主張したカイヨワやサルトルではなくて、人類の思考はあらかじめ完成されていたと説いたレヴィ=ストロースから反人間主体の思想が始まって、それが、今日の人類学の存在論的転回につながってくるという図を描きました。
レヴィ=ストロースを仮に反人間主体的な思想の端緒として捉えるならば、それは、仏教でいうところの「諸法無我」ではないかということでした。まさにそうだと思います。仏教的に言うならば、「諸法無我」。我がないわけです、あらゆるものに実態などないわけです。「無自性」と言ってもいいですけれども、自己あるいは自我などあらかじめ存在しないとして、2500年前に成立したのが仏教であり、仏教の観点から見ていけば、より鮮やかな形で、レヴィ=ストロース以降の人類学というものも捉えられるのではないか。そんな話になったのです。
【『今日のアニミズム』に戻る】
清水 『今日のアニミズム』に戻ると、アニミズムが語る世界では、さまざまな生物やモノとの汎生命的なインタラクションがあって、多自然的に世界やパースペクティヴがあって、そしてまた個人を超えた、さきほど述べたいわば「天の理」のようなものが直覚される瞬間があり、それらと棲み分けながら共存しているとか、それらからメッセージを受け取ると感じることがある。とはいえ仏教もまた、ほぼ似たような境地にあってそれを徹底的に論証しようとしている。
たとえば『中論』の二章では、いわゆる遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」を徹底的に論駁(ろんばく:相手の説に反対して、論じ攻撃するこ)しています。「去るものが去る」という風に、「去る」という動きから「去るもの」という主体を作って、「去るもの」だから「去る」と、こういう同じものを原因にも結果にもして実体化する論理を作ってはいけないということを、執拗に論じていますね。だから現在「去りつつあるもの」ですら「去らない」と言うんです(笑)。
また、その前の『中論』の一章では縁起の話が述べられています。縁起というのは他因aによって結果bが生じるという、ボトムアップの議論ではないということが執拗に述べられている。もちろん自己原因でもなく、無因論でもない。縁起というものがあり、無限遡行にも陥らず、無因論にもならないとすると、「Aがあるから非Aがある」「非AがあるからAがある」といった、循環する全体構造こそがあり、苦の原因には特定の始点がないということこそが、縁起によって語られたことなのだというのが、ナーガールジュナの考えです。先に述べた第四レンマ的な「縮約」が、この大きな構造のなかでは語りうる。
「離二辺の中道」という断見・常見のどちらでもないものは、あえて「原因についての問い」を展開する「縁起」の思考によって、初めて帰謬法的に見出される。初期仏教のこの二つのテーゼは、そう考えてこそ噛み合う。縁起を作る要素である「それぞれの縁」には自性もなく、むろん依他起性も否定され、ばらばらのそれらがさまたげ合うことなくあるという「相依性」や空の考え方が、『中論』においてすでに出てくる。先のインタラクション(インタラクションしない脱去した部分も含めた他との関係)は「相依性」になるわけですね。ナーガールジュナは原因の無限遡行を否定するにしても、西洋のように初期近代のサイエンスが発展する余地がないくらいあっという間に見切ってしまうんですが、その先の展開についてはむしろ早く掴んでいるのは不思議です。
注:遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):「本当は存在しないのに、私たちが勝手に思い込んで作り上げてしまう性質」 という意味。仏教、特に唯識(ゆいしき)思想で使われる専門用語で、三性説(さんしょうせつ)のひとつ。
もっと平たく言うと、
- あるがままの姿ではなく
- 自分の心が勝手に「こうだ」と決めつけてしまう
- その「思い込みによって作られた世界」
を指す。
注:依他起性(えたきしょう)」:「すべてのものは、原因と条件が集まって生じている」 という性質を指す。唯識(ゆいしき)思想の三性説のひとつ。
簡単に言うと、
・ひとりで独立して存在するものは何もない
・すべては縁(原因・条件)の集まりで成り立っている
・固定した実体はない
という考え方。
出典:Microsoft Copilot回答
実は、仏教も同じようなことを言っています。仏教には「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」というものがあります。それはもののあり方から逆算して、そうしたあり方を実現しようとする主体があるとする考え方です。これも変化を自己原因的に捉えています。つまり自性(じしょう)があるという考え方について、それは誤りである述べています。自性があるのではなく、無自性なのです。
その次に、「依他起性(えたきしょう)」といって、他のものが原因で起こる他因による説明を、これは『空海論/仏教論』でも述べたのですが、吉蔵が言うようにもとより「無限遡行になるから間違いである」とも指摘されます。こうして、「円成実性(えんじょうじっしょう)」ということが言われるようになるわけですけれども、この2つの否定は、実は近代科学がずっとやってきていることだと思うんです。
――近代以降の仏教について考えると、ある種の大乗否定論というものが出てきますよね。『空海論/仏教論』でも冒頭で、その点について指摘されていたとも思いますが。
清水 そうなんですよね。大乗非仏論に対して、僕には反論があるわけです。ここ10年くらい、初期仏教以外は仏教じゃないという論調がありますね。初期仏教の考え方に則れば、生産も結婚もしてはいけなくてそれが許されたら仏教でないとか、ものすごく不毛なことを言う人までいる。
とはいえ先ほども述べたように、もともと縁起の思想があって、ことさら他因の作用を連ねているように見えながら、循環する構造としてしか考えられないとか、離二辺のテトラレンマを語って、有(常)でも無(断)でもないといった主張が仏教の最初からあることを思えば、初期仏教から大乗まで含めて、すべて仏教だと思いますね。
そもそも同時代の六師外道にも唯物論的な人とか、テトラレンマを操る懐疑論者とか色んな思想の人がいるのだから、初期からそんなに単純な教えだったわけがないんですよ。仏教を大学的なポジティヴィズムで見ているわけです。ポジティヴィズムの弊害の一つは、こういう風に時系列でズダズダに断裂させて物事を捉え、それで詳しく分かった気になるところです。
その縁起説の解釈のバージョンアップが例えばナーガールジュナでも起こるし、縁起説で語られることを対象世界と認識主体との循環的なインタラクションとして精緻にしていくと唯識になります。
詳しくは『空海論/仏教論』を読んでいただきたいと思いますが、「識」のなかの《循環構造》と、華厳でいう《一と多の相互包含》という思想が仏教を発展させます。
<参考情報>

出典:東洋哲学の精華『中論』完全解説!(YouTube cureチャンネル)
清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分」は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分」である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分」で「識」の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけですよ。
出典:サブタイトル/「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|前編
<参考情報>




■法界縁起
・円融無碍と性紀のアプローチがある

■円融無碍










出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~
循環だけを強調していると、同じところで堂々巡りをしている印象なので、「一と多」というバイナリーを出してきて、それについても離二辺である、ということが明確に主張されるようになる。一と多の相互包含は、複数の「識」どうしがお互いに含み合うところからそう言われるわけです。
空海だと《循環構造》を「相応」、《一と多の相互包含》を渉入と言いますね。渉入自在と言ったりする。それがまさに一即多なんです。「相応」というのは「識」のなかの見分(≒認知主体)と相分(≒対象世界の現れ)が循環的に対応しているということです。空海は、それはヨーガyogaだとも言っている。英語のyokeと同じでヨーガには「くびき」という意味があり、牛が二頭繋がれるように、「つなぐ」意味あいがあるわけですよね。これがヨーガであり、即だという言い方を空海はしている。
奥野 なるほど。その辺りの話は『空海論/仏教論』では、203〜204ページあたりのことですね。
清水 井上円了も、循化(輪化)と言いますが、世界の因果関係は直線的に雨が降って川になって泉になって海になるというふうに見るのではなく、丸くないといけないという。海の水が蒸発して雲が出て、また雨が降るというように丸く捉えないといけないと図まで書いている。すべては縮約するし、かつ「一と多」でも相互包含するから、「即」であってまた多自然なわけです。

奥野 循環構造ですか。
清水 ええ。世界はまず循環構造として捉えられねばならない。そしてまた、特定の始点があるのはいけないとも言っている。『大乗起信論』は少しそうなっているところがあり、天台などの思想もあわせて補わないといけないとも言っている。円了は循化・輪化の話と合わせて、相含ということも語っています。仏教を論じるとき彼がよく対比で出してくるバイナリーがあるんですが、それは「真如と万法」というものです、「真如」は真理としての世界そのもののありかたとしての「一なるもの」。「万法」は雑多なこの世のあり方。万法是真如で、一と多が相互包含しているという風にも彼は語っています。先に述べたような、循環と相互包含の二種のダイナミズムをうまく押さえていますよね。
これは空海で言えば、相応と渉入ですよ。これがわかっていれば、仏教の構造の核心が理解できる。こういうことを明治の初年頃までは日本の知識人は普通に分かっていたらしい。しかし、一世代・二世代後になると、まるっきりわからなくなる。仏教の世界観とそのダイナミズムが、まったく理解不能になってしまい、それを反知性的な超論理の思想だと思い込んでしまう。
『空海論/仏教論』を書いているときはとにかく理論的に仏教を捉えようとしていたんですが、最近では最初期の原始仏典の『スッタニパータ』を読んでいても、これはわかっていなければできない表現だろうなと思うことがたくさんあります。
禅籍でも、悟ったからこう表現したのだろうと真面目に偈頌を読みますよね。なぜこんな奇妙な表現を採っているのかと。『スッタニパータ』も偈頌なのだから、そのように読まないといけない。「蛇の毒が身体のすみずみにひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」という有名な言葉がある。「この世とあの世をともに捨てる」というのは、明らかにテトラレンマ的な発想がなければ言えない。それに蛇の毒を薬でと言っているけれども、これは血清なんですよね。毒を使って作った血清以外に薬が効くわけがないので。血清は古代ローマとか古代エジプトでも知られていたので、古代インドでも知られていたのでしょう。そうすると、パルマケイアというか、毒がまた薬になるという第三レンマ的な発想と第四レンマ的な発想がここですでに出ているわけですね。蛇というのもさっきの循環ではないけれども、巻いていく印象がある。脱ぐというのには内と外をひっくり返すイメージもある。ある境界の内部から、開かれる感じです。
初期仏教の頃は、教えは口伝で禅定や戒律を守ることで身体的にそれを分かることが大事だったんでしょう。それがだんだん教理が精緻になってきて、複雑なものになっていくわけだけれども、それらは全部つながっていると思います。
出典:サブタイトル/『今日のアニミズム』から『空海論/仏教論』へ~清水高志+奥野克巳 対談転記~
<参考情報>
■アニミズム、レヴィ=ストロース、構造主義から一部抜粋
春日直樹 × 奥野克巳 × 清水高志
トライコトミーと二項対立、そして圏論
春日:本書『今日のアニミズム』にまとめられた論考は、いずれも力のある論考で、とりわけ宗教について深い場所から取り出そうとしている。やはり今日の世界状況で、人間や社会、世界を考えていくためには、私たちのあり方や知識のあり方を含めて、どのように生きていけばいいのか、その全てを見直さざるを得ないようなところに差し掛かっている、ということを感じさせられました。それをやり始めたら当然、宗教的な次元へ向かうし、アニミズムの話を含むことになるでしょう。これはタイムリーなトピックであるし、私たちのあり方の根源を考えさせるための手掛かりになる書物だと積極的に評価します。
清水:ありがとうございます。
清水:哲学者の僕がなぜ、アニミズムについて考えるようになったのか、簡単にお話ししますと、それはもちろん現代性があるということもそうなのですが、僕は哲学における《幹-細胞》的なもの、つまり多様な細胞に分化していく前の、ちょうどニュートラルな核になるものを取り出すということを、『実在への殺到』(水声社)を書いた頃から試みていました。さまざまな宗教がおこり、これだけ人類の文化が多様に繁茂した中でその《幹-細胞》のようなものを考えられるとしたら何かというところで、それはアニミズムではないかと思ったのです。
ヨーロッパの哲学、思想というのは古い時代から非常に一貫性があり、聖典的なテキストを定め、ニュートラルな形や一般的な解釈をもとめて、無駄な概念を削ぎ落として議論していくわけですが、それとは逆に、仏教や東洋思想というものは、さまざまな聖典や解釈のバリエーションを際限なく増殖させていきますよね。そこをヨーロッパの人々がやったように、いったん絞って考えたほうが、われわれの現代の文明だけじゃないものも深くまでわかるのではないか、ということなんです。
それともうひとつ、僕自身の思考の傾向なのですが、大体三つくらいのことを三題噺のように同時に考えるというのが、なぜか僕は好きらしいんです(笑)。処女作の『セール、創造のモナド』(冬弓舎)では、ミシェル・セールと西田幾多郎、ライプニッツを同時に扱っていた。あるいは、「ヴィヴェイロス論」を書いているのに、その中でヴィヴェイロス・デ・カストロだけではなく、ブリュノ・ラトゥールやライプニッツが出てきてしまったりします。そのように三つくらいを回しながら考えるという発想のパターンがあり、それでとうとうトライコトミーという方法論を『今日のアニミズム』で考えるに至ったのです。
今回、春日さんとお話しすることになり、レヴィ=ストロースの著作などあらためて自分なりに読み返してみました。人類がいろんな形で物事と物事の関係をつける、春日さんの圏論を導入した最近の考察もそうだと思うのですが、その中で二項対立ということが非常に重要な思考の鍵になっている――レヴィ=ストロースも、色々な文化の内部で考えられてきた二項対立を、複雑に読み解いて考察していますよね。――ところで、21世紀になって明らかになってきたのは、そもそもヨーロッパの文明自体も、そのように二項対立を複雑に結びつけて人類が世界を意味づけてきたことのバリエーションのひとつだったのではないかということです。フィリップ・デスコラの仕事が示唆しているのもまさにそうしたものです。レヴィ=ストロースはあくまでも異文化を理解するために深く踏み込んでいったわけですが、気がついたらヨーロッパの文化もその探究の範囲に入っていたというようなところがあると思います。
それで、もっと哲学の側からもそれを真剣に受け止めて考えなければならないと思い、何種類かの二項対立を、あらかじめ絞ったうえでお互いに結びつけたり、媒介させたり、第三項的な媒介者の位置を循環させたり、そうした循環の縮約されたモデルをミニマムで考察し、その哲学的な意味を解き明らかにしようとした。それがここで提示された、三種類の二項対立の組み合わせからなるトライコトミーというものです。
春日:『今日のアニミズム』では、清水さんは「主体/対象」「内/外」「一/多」とされていますが、トライコトミーとはこの三種類の二項対立だと考えていいのでしょうか。
清水:二項対立を複数扱い、二種類の二項対立でなくさらにもう一種類を組み合わせるというのは、ある意味では古くからある考え方で、たとえばライプニッツのモナドロジーは「一/多」、「内/外」(含まれる、含む)、「形相/質料」の三種類の組み合わせによって成っていると理解することができます。このうち特に「一/多」、「内/外」(含まれる、含む)は重要で、二項対立の中ではある種「王者」なんですよね。三つ目はむしろさまざまなものを代入できるのではないかと思っています。
二項対立の問題は、西洋哲学ではイデア的世界と感性的世界が分離してしまうことをどう克服したらいいのか、という課題があって、そこからその重要性が前景化してきた歴史があるんです。二項対立はだからイデアと関わるものなのですが、「内/外」(含まれる、含む)は、分有されるものであるあらゆるイデアに共通した普遍的性質であり、重要ですがそれだけだと抽象的過ぎる。それをもう少し感性的なものにした二項対立が「一/多」で、後期プラトン、たとえば 『パルメニデス』や『ティマイオス』は、こうしたものに他の二項対立を組み合わせるという議論ばかりやっています。
僕はミシェル・セールの学問に多年傾倒しているんですが、彼自身にはジョルジュ・デュメジルの神話学の影響が強くあり、そこでは「聖なるもの」と「戦闘」と「豊穣」という、別の三機能がとても重視されている。聖なる神としてのジュピター、戦の神としてのマルス、豊の神クィリヌスといった機能ですね。これらは三位一体であるようで、互いに順繰りに前景化してくるものとしてあります。よく知られているようにデュメジルは、レヴィ=ストロースに先駆けて、ある種の構造的思考を神話のうちに見出した人です。それらの機能の咬ませ方や崩し方は、トライコトミーで僕が考えたこととも重なってきます。今回仏教を読み解くという意味で、「主体/対象」「内/外」「一/多」の三種類を取り上げましたが、くっつけたり、ひっくり返したり、相互包摂したりする関係をつくり、多極化するというのは、元来さまざまなものに応用できるものです。こうした操作を経なければ、ひとつのオブジェクトに集中するような社会構造がすぐにできあがってしまう。それは貨幣経済などもそうでしょうし、ヨーロッパの近代的と呼ばれる政治的システムもまた同じ偏りを持っています。そのようなものも含めて文明を再考する際には、一度、シンプルな形に戻す必要があり、その中でアニミズムを考えるということを、民族誌的な事例も含めて奥野さんから刺激を受け、それを吸収しながら本書にまとめたという感じですね。
二項対立を考えるということについて、今一度、ここであらためて人類学者の方々にうかがってみたいと思うのですが、人類学ではさまざまな民族の文化を調査研究していくわけですが、なぜそこでは二項性というものを重視しがちなのか、あるいは異なる二つのものを関連づけるということが、ある文化を考える上でなぜ本質とみなされるのでしょうか。哲学ではこうだという理由については述べましたが、人類学の側からはどう説明されるのでしょうか。
春日:必ずしも二項対立を本質的なものと考えるわけではないと思いますが、私の知るところの二項対比を押し出した議論といえば、1920〜30年代にロベール・エルツというフランスの社会学・人類学者が『右手の優越』(ちくま学芸文庫)という本を書き、それが70年代に入って再考されたという流れです。当時はオクスフォードのロドニー・ニーダムが中心となって『右と左』という本が編集され、そこには綺麗に右/左、男/女、乾いたもの/湿ったもの、太陽/月といったものが並べられ、二項対比的に整理されていった。そんな時代でした。最終的には右側は社会構造へとまとめられて、左側は象徴構造へというような綺麗な対比によって社会的なものと文化的なものが節合して、整合性を持たせるというような分析を行う、いわゆる機能主義人類学の末期の時代でした。そのような議論には私も馴染みがあります。
もちろん、清水さんの指摘されるように、レヴィ=ストロースを忘れるわけにいきません。ただし、私にとってレヴィ=ストロースはどうしても数学と不可分です。彼は彼なりに数学を自在に使い、活用していった人だと思います。圧巻はやはり『神話論理』(みすず書房)で、特に3巻と4巻です。「食卓作法の起源」から最後の「裸の人」までにかけてのところは、非常に複雑な構造が出てきます。そこでは二項対比が当然使われるわけですが、いかに対応を見出していくかが重要になってきます。レヴィ=ストロースはこのような言い方はもちろんしませんが、たとえば、主体と対象があるとしましょう。そして、一と多があります。すると主体と対象の関係を、一と多の関係に関連づけることができます。さらにその関連づけた対応性が、内と外の関係へと対応づけられます。そしてその対応は今度は別の方へ、たとえば『神話論理』の1巻で述べられた「生のもの」と「火にかけたもの」の対応へ、さらには火と灰へと対応をつくることができます。このように対応関係を入れ込みながら、どんどんと増殖させて構造化していく。そこには感覚的なものも入ってくる。いわゆるレヴィ=ストロースの言う感覚的にして論理的なものの生成であって、その論理が何かというと、対応関係の構築ということだと思います。
彼の構造化がどこまで正しいかはともかく、そのように言語化して提示できるというのは、私としては非常に魅力的です。感性を働かせて、深い意識、ないし無意識のギリギリのところから論理をつかみ出している。フロイトの精神分析は私にはあまり合わない感じがするのですが、レヴィ=ストロースの『神話論理』にかかると、もっていかれてしまうところがありますね。

清水:僕も自分の論考の注に書きましたが、そのようにレヴィ=ストロースが鮮やかに読み解いていく複雑な関係づけがあり、またそれに対する、彼自身によるメタ言説もありますよね。――有名な論文で、彼は神話変換の「公式」というものを出してくる。神話の中ではなんらかの関係が描かれ、その関係をつくる複数の項があるわけですが、項と項によってつくられたはずの関係が、また項と同じレベルのステージに立つ、その位置に繰り込まれるということが神話というものを成立させているという。その表現が神話変換の「公式」なんですね。これは非常に面白いと思う。
そもそもモナドロジーというものはアトミズムに対する転倒なんですね。アトミズムとは何かと言えば、部分からボトムアップで全体がつくられていく、理論もエビテントなものをつないでつくっていった果てにあるものが合理的であり、そうやって最後に外在的な対象にアプローチするのが正しいという考え方です。これを転倒させるためのものがモナドロジーだったし、だからライプニッツも「諸部分からの構成に先立つ」単一体としてのモナドというものを持ちだして世界を考えようとしているんですが、レヴィ=ストロースが神話公式でやろうとしていることもやはり同じ転倒だと思うのです。諸部分と全体がフラットになるというのが、ここでは一番重要なわけです。
春日:最近の言葉で言えば、フラクタルを想起します。数学をやっている人がどこまで考えているかは知りませんが、数字で1、2、3、4と増えていく反復の関係があり、「べき」乗というか、一度出したものをまた入力して出力し、また入力して、と同じことをずっと繰り返していくわけですよね。あれは方向性があると言えばあるし、ないと言えばない。どっちにも同じように戻っていける。
『今日のアニミズム』の議論の中では、奥野さんが指摘をされているシンクロニシティにつながります。時間がないということ、「無時」の時間です。因果というものをそのように考えるならば、実は数学で表していることも結局は同じではないかとも思います。
■■複雑系(スケールフリー)■■
<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>
■同じパターンが繰り返される系とは
・あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。
⇒つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。(スケールフリー)


<参考情報:ベキ分布が観測される現象>
出典:サブタイトル/⑩ 想定外を想定する~統計手法(帰無仮説を含む)も活用した避難判断に関する各種情報収集~
・有名なのは地震のマグニチュードの大きさと頻度の関係(グーテンベルグ・リヒター則)
⇒火山噴火、雪崩等の自然災害の規模と頻度の関係
・ベキ関数とは
⇒現象の2つの観測値(規模と頻度)が、ベキ乗で比例するという関係
⇒\(y=x^{-b}\)
⇒\(x\)現象の規模(サイズ)
⇒\(y\)現象の頻度(数)
⇒\(b\)をマイナスにしたのは、「規模」が大きなものは「頻度」が少なる関係(反比例)を表す為に。

出典:https://takun-physics.net/4615/
・指数関数
⇒\(y=e^{-x}\)
⇒\(x\)(規模)が指数となっており、
⇒底がネピアの数\(e\)となっている。
◆ベキ分布の数式
\(y=ax^{-b}\)
・両辺で対数(\(\log\))を取る(\(x\)軸、\(y\)軸を対数)
⇒\(\log _{10}y=\log _{10}\left( ax^{-b}\right)\)
⇒\(\log _{10}y=\log _{10}a+\log _{10}x^{-b}\)
⇒\(\log _{10}y=log _{10}a-b\log _{10}x\)

とおくと

となり、\(x\)軸、\(y\)軸共に対数の場合に一次式(線形)になる。

■グーテンベルグ・リヒター則(G-R則)
・地震の規模(\(x\))と発生頻度(\(y\))の間に見られる経験則
⇒小さい地震は多数発生するが、大被害が生じるような大きな地震は稀にしか発生しない。
・「マグニチュード」と『その発生個数の対数』との間には直線的な関係(直線で近似出来る)が成り立つ。
\(\log n\left( M\right) =a-bM\)
の式で表される。
⇒Mはマグニチュード、n(M)はマグニチュードMの地震の発生個数、
⇒N(M)はマグニチュードM以上の地震の総数(積算地震数)
⇒aとbは定数で
⇒bは直線の傾きを表しており、
⇒地下の応力状態を表す重要なパラメータの一つであると考えられている。
⇒尚、bは地域性などに違いがあり、
⇒bが大きいほど相対的に小さな地震が多くなる。



出典:http://namazunokai.starfree.jp/pdf/lecture_03.pdf 地震の規模別頻度分布 梅田 康弘 京大名誉教授

出典:https://slidesplayer.net/slide/11572045/ 首都圏および東葛地域の地震について 瀬野徹三(東京大学地震研究所) 2012.09.29布施新町二自協ふれあいセミナー
■再記載:アニミズム、レヴィ=ストロース、構造主義から一部抜粋
清水:そうですね。先ほども触れた春日さんが圏論を導入された論考では、繰り返される関係づけの変換の中で、フィードバック構造が描かれているわけですよね。哲学者の田口茂さんが数学者の西郷甲矢人さんと一緒に、哲学と圏論とで何年にもわたる理論的対話を行い、その成果をまとめた『〈現実〉とは何か』(筑摩選書)という本が先年出ましたが、非常に面白くて僕は感心して読みました。その本の中で、圏論の構造というのは最初任意の非-基準的な選択というものがまずあり、そうした選ばれたものについてもろもろの要素による変換のフィードバック・ループができあがり、そしてそのループの中で法則性が定義されてくるものであるという機序が丁寧にたどられていました。これがひとつには圏論のあり方で、サイエンスも広く見ると、皆そのようにしてつくられてくるのだと述べられていたのが印象的でした。呪術の実践という主題が扱われた春日さんの論文でも、A(生者の領域において呪術を構成する集合)からB(霊の領域において呪術を構成する集合)へ行き、またBからAへと戻ってくるという関連づけが、変換とフィードバックを通じて、圏論でいうカテゴリーを形成していくさまが分析されていますね。
外的対象として、たとえばサイエンスの対象が厳然としてあるのではなく、人間との関与の中でできてくるというのは、ラトゥールもしばしば指摘していることですが、圏論がやっているのは、そのような形で変換操作と介入を通じて生まれてくるものとして、数学的対象の成立を一々定義してやることなんじゃないか。科学技術論(STS)においても、技術のイノベーションは、人間からの関与とつくられる物からくる独立した作用(agency)のフィードバック・ループで起こってくるという議論が一般的になってきています。双方にフィードバックがあるからこそ、かえってモノにエージェンシーがあることがはっきりするということなのですが、数学の対象を生みだしながら、圏論がやっていることもまさにそうですよね。圏論的なテーマを展開すること自体がそういうことなのだろうと思います。圏論的なカテゴリーの形成と、ある習俗の中で呪術として行われていることを重ねていくのが、なんらかのエージェンシーを持った対象創造が行われるあり方を、非自然言語をも用いて明確に定義するためなのだとすると、なるほど面白いと思いました。
自然言語を超えて記述すること
春日:宗教の話から入りましたが、他方で科学を考えるとどうしてもシステム的と言いますか、システム化を必然にしていくところがあります。知識の方向づけという点では、人文系、社会系のいずれの学問も一応は科学に従っている形をとっていますね。これに対しての宗教には科学に対するメタシステム的なところがあるのですが、それをどのように論理化して表現するかが大きなテーマになると思います。科学の場合には、論理と言っても基本的に記号論理やブール代数の次元にとどまるので、文系の議論ではたとえば論理を内破する形での論理的な運びで、論理のアポリアを明らかにするという手法がよくとられます。いわゆる否定神学的な構造化であって、ドゥルーズ=ガタリあたりも私は同様だと思っているのですが、一言でいえば二項対比を通じて二項対比を無効化するスタイルです。もうひとつの方向性は、メタ論理を最初からメタ論理の原則をさだめた上で展開するというもので、それならば独特の論理を持ってきてもいいし、独特の言語をつくってもいい。清水さんの議論ではその二つが両方とも使われている気がします。
要するに『今日のアニミズム』には、通常の記号の論理、言い換えるならば「手堅い」論理で読んでいくと読めないところがある一方で、そうではない部分もある。私は論理が辿れないと言いたいのではなく、逆に関係を自分流に定義づけているように読めると指摘したいのです。つまり、定義づけを通じて、新しい論理の使用方法を示していくという論法です。それは何も清水さんに限った話ではなくて、現象学をのぞいて大陸系の哲学者に認められる書き方なんですよね。最近はカンタン・メイヤスーやマルクス・ガブリエルというようなとてもわかりやすい哲学が登場していますが、私は論理演算を使うと計算間違いがチェックできるような哲学というのは、本当の哲学ではないと思っています。そうすると哲学というのは、もともと清水さんスタイルの議論からつくられているものだと思います。
で、ここからは私が少し違和感を持つところに入ります。『今日のアニミズム』で行われる哲学的な議論というのは、全て自然言語で行われています。自然言語でメタシステム的な思考のできることは、どうしても隠喩や逆説、アナロジー、というような文芸的なものになりがちです。奥野さん、清水さんお二人とも文学への言及もされているし、文芸のセンスがあるから、そういう意味ではぴったりなわけですけれども。
もともと、私はたとえば岩田慶治に対しても偏見がありまして、あまりいい言い方ではないけれども、エンドルフィンが分泌して、知的に低い水準で多幸感が得られるところに収まっていくような、そんな先入観があったのです。けれども、奥野さんや清水さんの議論を読み、そこに複雑な構造を読み取っていこうと努力をすると、確かに一定の説得力がある。岩田は理解しにくい構造をなるべく簡潔な自然言語の表現を通じて理解しようとしているのかと改めて読み返すと、確かにそう読めることに気づきました。これは『今日のアニミズム』を通じて、学ばせていただいたひとつです。
しかし、お二人の論じ方にはそれでも少し違和感があります。議論の出発点は面白いのですが、「相互包摂」や「相依」というような表現に落とし込まれていって、いつも同じ論理が繰り返されて、その先にどこへどのように展開できるかがわからない。本書の中で、岩田の文章は何を読んでも同じようなことが書いてあると述べていたように思いますが、結局、少しずつ解釈の対象を変えて、同じ議論を反復していくだけではないか。率直に申し上げると、そのようなまどろっこしさが感じられなくありません。
では、「お前はどうするんだ」と言われると、自然言語でなかなかつかまえることができないのだったら、手近なところにあるのは数学的な言語なので、それを使いながら議論を組み立てていいのではないかと思っています。もちろん、数学的な言語の限界はあるわけですし、数学に全て従う必要もないわけですから、たとえば、それを一種の、否定神学的に示していくという手法もあってもいいわけです。私だったら、そのような方向を目指すだろうというところです。今回の論文も、数学の論理を貫きながらその論理を逸脱する側面をあぶりだしてみました。
清水:記号の「手堅い」論理では繋がっていないという指摘がありましたが、実際にはまさにこれがライプニッツ的哲学の構造なんです。デカルトみたいにエビデントなものが鎖のように繋がっていない。そのために、ざっくりと似た構造をとってきてそれらの照応を考えるという形になっているわけですが、これはミシェル・セールもやはりそうです。彼の時代は、数学じたいがそういう方向に向かっていた。ヒルベルト流の公理主義が破綻して、高等師範でアンドレ・ヴェイユらのグループ、ブルバキが活躍していた時代で、集合論に基礎を置きながら新しい数学のあり方を模索していた時代です。そこではややつまみ食い的に、あちらこちらで見出された数学的構造が別の対象についても語れるということが、手がかりとしてきわめて大事だった。
それともうひとつはトポロジーから、位置解析の考案者であったライプニッツに遡行していったのがセールです。科学を体系的に説明するというようなことは、たとえばデカルトなら幾何学から代数へ、代数幾何から物理へといったものが延々とある。そのように体系づけるというのはオーギュスト・コントくらいまではやっていたのですが、現代においてはもろもろの学問の全体をそんな風に体系づけることはできず、照応とモデルの貸し借りから考えていかないといけないようになっていますよね。
春日:いえ、体系づけるということではなく、自然言語とは別の言語を用いることで、今の議論をさらに進めて新しい議論の展開ができるということです。勝手なイメージで話しますと、たとえば圏論でいうトポスに置き直してみると、論理学と幾何学が結ばれていく構造に出会います。あるいは、奥野さんが「メビウスの帯」を扱ってらっしゃるけど、トポロジー幾何学そのものを積極的に活用するとか、ライプニッツに入って無限の話や超準解析から出発するとか。そうすると、現在、生成中の数学的な議論がもっとふさわしいのかもしれないけれども、どこか余裕を持ちながらそれを活用する議論をしていけば、私からすればもっと面白くなる、というような感想なんです。
清水:中沢新一さんが『レンマ学』(講談社)で数学を用いているように、自然科学がもっと入ってきたほうがいい、ということなんですね。それについて言えば、それは本当にそうだと思います(笑)。セール自身、自然学の人であり人文学の人でもあった。それはそうだとしか言えないけれど、どちらかというと自然科学と人文科学の対話というのは、セールがやった仕事なので。その重要さはもちろんなのですが、一方で彼があまりやらなかった部分もあって、それはやはり「東洋」と「西洋」との対話、またいわゆるプリミティブな文化とヨーロッパの文化との対話だと思うんですね。僕はそういうことをもっとやりたい。
デスコラについてセールが書いたときに、デスコラは分析する諸文化のバリエーションのひとつとしてヨーロッパの文化を含めたんですが、さらにそれをセールが推し進めるようなことをしたんですよ。西洋の文化を代表する幾人もの天才たちを採り上げ、デスコラがナチュラリズム、アニミズム、アナロジズムといった四象限で考察した性質を彼らが個人で複数体現していることを分析し、そこから文化創造の問題を考えたんです。読んでいて惹かれるとともに、変わったことを始めたなという印象だったのですが、最近セールは最初からそうだったんじゃないかという風に思い直したんです。一番初期に、みずからの手法として「ロゴス分析」という言い方をしていたときから、つまりプラトンやミシュレについて書いていたあの時点から、セールはギリシア以来の西洋の自然科学的、人文的な文物を扱いながら、それが生成する背後にある、レヴィ=ストロース的な意味での「無意識」を読もうとしていたのではないか。つまり西洋文明に潜流する野生の思考を読もうとすることが、「ロゴス分析」だったのではないかと思うようになりました。
そこに淵源する人類学的な方法は今、ラトゥールたちを経由して、あらゆるところへ散らばっています。個別的なイノベーションの場というのは、ラトゥールがやったようにそこではうまく分析できているのですが、その全体のつながりを見るためには、先ほども話したようにメタ論理が必要だろうと思います。それは特定の出発点から演繹するものではなく、多数のアプローチがあって対照できるけれども、それによってつくられたものもまた別の結節点に動員される、そうした構図があるというものです。これは西田哲学でいうと、「作られたものから作るものへ」という、裏返しの操作ですよね。先程のレヴィ=ストロースの話に戻ると、項と関係が同じスケールフリーになって神話ができているということと同じです。これはメタ的にも言えるんですが、それについて言及する場合には、個別の項から離れた普遍的な縮約モデルをつくらなければいけないため、かなり抽象になっていく。その抽象の形を理論化したのが、一面でまた仏教でもあって、先ほども出た「相依性」とかテトラレンマというのもそうした意味での縮約のモデルだったのではないかと思っています。
感性的なものを自然言語ではない形でロジカルに表現したいという衝動はわかりますし、当然、僕にもあります。じつは以前、圏論で西田をすっかり語れるんじゃないかという企画が持ち上がったことがあって、ある人が数学者の森田真生さんを紹介してくれて、一度京都まで行って、対話をしたことがあります。僕は僕で自分の論理を展開して話したのですが、森田さんは「いや、それは別に圏論にしなくていいのでは?」と言うんですよね。こちらの論理展開のほうが「それはそれで筋が通っているし、変にやらないほうがいい」と言われて帰ってきたことがあります(笑)。また、僕自身、そこまで数学でできるのかというと、自然言語よりはるかに難しいでしょうね。

<参考情報:『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』>
■同じパターンが繰り返される系とは
・あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。
⇒つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。(スケールフリー)

科学を含み込む普遍的なものとしてのアニミズム
奥野:春日さんから頂戴した草稿は、日本文化人類学会の機関誌『文化人類学』に掲載される予定の論文ですね。非常に面白かったです。かつて浜本満さんらが40年前に呪術研究の新機軸となるような論文を発表されてから(浜本満・加藤泰、1982年、「妖術理解の新展開についての試論」『東京大学教養学部人文科学科紀要』)、かなりの年月が経ちましたが、この論文は呪術論としては、それ以来の衝撃です。結語として書かれている「21世紀の構造主義」を名乗るのにふさわしい論文として展開されていると思いました。
春日:ありがとうございます。
奥野:圏論について私は明るくないですが、春日さんの草稿に書かれている内容は、本書でやったこととそんなに隔たっていないのではないかと感じています。そこで二項対立的に語られているのは、「目に見える世界」と「目に見えない霊的な世界」です。そのような二項対立が、中沢新一さんが、二項の対称性や非対称性の観点から探られている「バイロジック(複論理)」的なものに通じるのではないかと理解しました。また、レヴィ=ストロースに言及しながら関係論的に論じていらっしゃいます。春日さんの論考は、『今日のアニミズム』で、私のパートで扱った「メビウスの帯」、あるいは仏教で言えば、吉本隆明が「還相論」と呼んでいる、「穢土」と「浄土」を往き来する浄土思想、つまり二項対立を無効化する無始無終の往還運動でやっていることにも似ているのではないかと思いました。
こんな丸め方は失礼かもしれませんが、向かっているところは、『今日のアニミズム』で論じたことのある種の相似であるように思います。先程のお話では手段や手がかりにするものは確かに異なっていますが、よく似た部分を探っているように思います。
ところで、この鼎談の冒頭でおっしゃったように、清水さんと私のアプローチはまったく違っているというのは、その通りだと思います。私の場合、「未開人」たちが考えていることを「一と多、同と異は、その一方を肯定する場合、他を否定する必然を含まない」と表現し、それを「融即律」と呼んだ、ルシアン・レヴィ=ブリュルを導きの糸として、アニミズムを考えました。これが表と裏があって、表と裏がないという「メビウスの帯」という、私のアニミズムのモデルを引き出してくる元々の流れにあります。
他方、清水さんは、この2500年という人類の思想の系譜から辿っておられます。古代ギリシアの二項対立の問題検討を踏まえ、それを大乗仏教哲学の集大成としてのナーガールジュナの『中論』と対比しながら語られています。融即律とは、一でもあり多でもあるという意味で「第三レンマ」的ですが、そこからその先に、一でもないし多でもない「第四レンマ」にまで踏み込んで、二項対立の問題を解こうとされている。二項対立に第三レンマを繰入れて、第四レンマを生み出す地点にまで進んで行って、一と多が、もうひとつの二項である主体と客体とツイストするだけでなく、含まれるものと含むものという内と外をさらに交差させることによって、ダイコトミーではなく、トライコトミーという考えを導き出されています。そのことによって、清水さんの言葉を借りれば、《幹-細胞》が、より明確な形で捉えられるようになったと思います。
ここまで述べてきて何なんですが、どちらかというと、二項対立、さきほど春日さんが述べられた人類学の主題として重要なのは、自然と人間の二元論ですが、それを乗り越える切り札のひとつこそが、アニミズムなのだろうと私は考えています。清水さんも述べられたように、《幹-細胞》の正体はアニミズムなのではないかと思います。
清水:春日さんの論文では、圏論とパプア・ニューギニアがいきなり繋がっている。それはとても凄いことだと思うのですが、アニミズムのあり方そのものも本来じつに多様なので、僕の場合仏教という形での縮約モデルをワンクッション挟んでおかないと手に負えないなと思って、『今日のアニミズム』ではそうなっています。仏教は仏教のほうで、仏教学者との対話を続けていて、仏教論理学と比較哲学の研究という形で正式に発表しようということになっています。科研費も得て、仏教というものを現代の思想としてアップデートするという試みです。
春日:なるほど、以前に『モア・ザン・ヒューマン』(以文社)の中で、清水さんは仏教学者の師茂樹さんと対談されていますね。元々は禅の話が主だと思いますが、やはり最初は、超論理とかいうスタイルで済ませていたのでしょうか? 自然言語の体系を、さらに自然言語によって崩していくというような形で。
清水:ずっとそうですね。言ってしまえば、井筒俊彦までずっとそうなんですね。僕からすると「一/多」の問題がクリアされていない。二項対立の問題を、あらゆるものが分節する以前の「不二」という、「一」のほうで解いてしまっている。そうすると、その「多」の問題が後から宿題になって残ってくる。ポストモダンまでずっとそうです。
春日:ポストモダンについては本書でも書いてあったけれども、そのとおりだと思います。
清水:井筒もそういうところがあるので、そこを本当に組み替えないと「禅というのは知性じゃない」みたいな話になってしまうので、ちゃんとそれもロジックなんだと言いたい。先程、自然言語だけでは駄目だというような話がありましたが、仏教などの東洋思想があまりにも非理性の側に割り振られているので、そこをもっと復権したい。復権して形をつくっていくと、それに絡まり合っていたアニミズムがもっと浮上してきて、はっきりとつかめるのではないかと思うのです。
春日:数学の話をしましたが、そもそも科学とは何かというのは大変難しいけれども、やはり数学と繋がれているところがある。数学に近い関係にある。数学的な思考と比較的、近い関係にあるというふうに私は考えています。それを踏まえてアニミズムとは何かと考えたときに、奥野さんはアニミズムとは「西洋の理性と科学的な知識では捉えきれない何かだ」というようなことを述べていたと思いますが、私はむしろ、西洋の理性や科学的な知識が立脚する原初的な思考様式として、アニミズムを考えてみたい。これはお二人とも反対するところではないと思います。
私にとって、レヴィ=ストロースはこの点でもよい見本です。お二人が本書でテーマとしているように、人間の思考そのものの差異を超えて普遍性に向かうところ、しかもそれが時間や空間の枠を超えて、意識や反意識の水準を押さえて広がるところに、おのずと宗教的な話やアニミズムというものが出てくるというのはよくわかります。しかし、それだけではなくアニミズムが、広い意味での「構造」――私はそれを「構造」と呼びたいのですが――として語り得る水準というものがあって、それは清水さんにとっての論理と無縁でない、と思えるんです。「構造」は科学の記述を生むだけでなく、タンポポの花や鉱物の結晶や猫の瞳を結びつけるし、神話を語る人も、さらに神話を分析する人も一緒につなげていきます。関係性を描く本人がその一部として入っていくときに見出すものとしての「構造」です。
もうひとつ。アニミズムと他力という奥野さんの主張につながるのですが、アニミズムは私たちの根底的な無力さが染み入るような場で現れる思考だという気がします。宇宙もそこにあるはずの実在も、そして実在するはずの自分も、ことごとく捉え難い対象であるという無力な認識があって、それでも大切な実在について言語化していいというか、言語化し対象化ができるという思いが否定できないときに、その感覚の保証人となるのが「構造」ではないでしょうか。外から与えられる、授かりものとしての「構造」です。アニミズムとか宗教的なものはそこにこそ現れる、と私は思うのです。
「神」とか「霊」とかの観念は、私にとっては「構造」から見て二次的なものです。実在と記述は別なので、記述できたといっても実在を示す保証はないのだけれども、それでも記述ができて、それなりにありがたみを感じることができるというところが、私にとっては出発点です。その証をよく示してくれるのが、レヴィ=ストロースの提示する「構造」なんです。それが正しいか間違っているかはわかりませんし、数学だって正しいか間違っているかはわかりませんが、私にとってはそういうものとしてあります。科学を傍流として含む大きな普遍としての構造の中にアニミズムがあるんだという認識です。
ノーベル物理学賞やノーベル生理学賞を受賞した著名な科学者たちが、宗教的な感情を本にまとめて出版したりしていますが、大抵の場合、キリストの神のように至上の存在を前提とするのだけれども、やはり脱主体とか脱個体と呼ぶべき変換と結びつけて書いています。そうした変換によって人間という存在を周りの諸物との関係の内部に溶解させていくし、諸事諸物が不可思議な力を持つような世界を浮かび上がらせるという点で、アニミズムに通底しているなあと思います。
この本の中では科学というものはどちらかといえば仮想敵のようになっているけれども、こう考えるとアニミズムの中で成り立っているのでないか、という気がするわけです。
清水:そうですね。サイエンスとの融和は非常に大事だと僕も思っています。アニミズムと仏教的な世界観や自然の捉えかたとサイエンス。南方熊楠ではないけれども、そこまで含めた体系をつくらないといけないと思っています。
レヴィ=ストロースの神話公式や「構造」というものを考えたとき、最近僕はよくプラトンを読むのですが、じつは『ティマイオス』の時点で、人類はそうした公式化や記述の試みをすでに何度もやっているんですよね。たとえば火や土などといった元素を挙げて、「二つのものは、第三のものなしにはうまく結びつかない」、第三項が媒介として必要だということを主張しながら、その役割を一番うまく果たすのは比であるという。そして等比数列を例に挙げて、初項と中項と末項の位置を順繰りに入れ替えても等しいという関係が成立することに注意を促したりしている。そこで語られているエンペドクレスのような人も、風土水火というように複数の対立二項に注目し、それらは反対物なんだけれども、乾と湿とか、熱と冷とか、もう少し感性的な対立二項を採っていくとそれらが第三項的な媒介を行い、全体がつながるということを考えている。この第三項の位置も一巡するわけで、これはまさにレヴィ=ストロースのいう縮約のモデルです。プラトン以前の自然哲学、西洋の自然科学的思考の基礎にも、野生の思考が脈々と息づいている。これが分からなかったら、逆にプラトンも分からない。
エンペドクレスは「愛」と「憎しみ」と四大元素で世界を説明したと言われるけれども、対立二項と、中間的な第三項によるその融和の両方を織り込むことによって、マリリン・ストラザーンではありませんが、間接的で部分的なつながりをつくっている。それを当時の言葉で「愛」とか「憎しみ」とか呼んでいるわけです。
そんな風に、本当に古くから人類とともにイデアリズムの思考とか二元論的思考とかが存在し、イデアそのものと感性的な世界が分離しないように世界をどう捉えるかということが、あらゆる地域でずっと試みられてきたわけですから、春日さんがおっしゃるように現代科学もまたその中のひとつの傍流、その一部と位置づけられるような、個人や個々の文化を超えた巨大な「無意識」や、「構造」というものがあるはずだ。それを記述しきれない無力さというものとも、当然それは表裏一体なわけですが、ひとつにはそこで深く感じられているのがアニミズムでもある、というのは話をうかがっていて本当に共感しますね。
出典:サブタイトル/NN2-4-4.『中論』:『空の論理』~2項対立の調停構造(『空』が架け橋)/テトラレンマ(四句分別)とは~『清水高志先生の視点から読み解く』
<参考情報:南方曼荼羅>

南方マンダラと呼ばれる図は、主に二つあり、いずれも後に高野山真言宗管長となる土宜法龍に宛てた書簡の中に描かれている図である。
一つは、1903年7月18日付書簡の中に描かれており、真言密教のマンダラの思想をヒントにして、それを自身の思想に読みかえて絵図を交えて説明したものである。熊楠はこの図について、「この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりでも、それを敷衍追及するときは、いかなることをもなしうるようになっておる」と解説している。
もう一つは、1903年8月8日付書簡の中に描かれており、熊楠が「小生の曼陀羅」と呼んだ、真言密教でいわれる両界(金剛界・胎蔵界)マンダラの発想をもとに描かれた絵図である。熊楠は、この両界マンダラを記し、金剛界大日如来の心より物が生じ、その心と物がお互いに反応し合うことで、さらに事が発生し、さらにはそれが名・印といったかたちに生成していく複雑な現象を説明している。
出典:https://www.minakata.org/facility/collections/minakatamandala/
<参考情報>

清水 そうなんです。それで言うと、唯識思想は色んな人が研究されていて、僕も好きでよく読むんです。すごく面白いですね。唯識においては識の中に「見分」と「相分」という区別があって、主体と対象らしきものがある。「見分」は主体側、つまり見ている側なんだけど、そこには眼識とか耳識とか鼻識とか五感に相当する前五識というものがあり、それによって「相分」である対象に関与しているとされる。また、それをさらに第三者的に包摂しているものがあり、それが自証分である、と言うんですね。古くはこの「三分」で「識」の構造を考えた。そして、その「識」もまた相互入れ子的に他の誰かの相分になっていく。そこから華厳的なネットワークが出てくるわけですよ。
共に、合流する――偶有性について
松岡 華厳も出てくるし、一方に阿頼耶識(あらやしき)の方へ向かっていく道もあります。阿頼耶識についてはまだ誰もちゃんとやれていないんじゃない?
出典:サブタイトル/「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛|『続・今日のアニミズム』|TALK❷|前編
<参考情報:原始仏教(釈尊)が考えた心の動き:六識説>
・六境(対象物)・六根(感覚器官)・六識(感覚作用)・意識(こころ)に収険される

■唯識の肝:八識
・前五識 (眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
・第六 意識
⇒上記六識に以下2識を加える(認識の深化)
・第七 未耶識(マナシキ:自己中心化⇒外界から入る情報を自分の都合の良いように解釈する)
■第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)

◆第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ:記憶情報を詰め込む領域=記憶媒体装置=種子:未耶識の働きによる記憶領域)=経験認識
・個々人の見聞、経験等の情報が全て書き込まれ、ため込まれる
⇒良くも悪くも「ため込まれた情報」は更新される
⇒次第に個々人の倫理観が形成される「心の働き」の領域

・何を第八 阿羅頼耶識(アラヤシキ)にため込む事が大事か
⇒七仏通誡偈(ひちぶつつうかいげ)
⇒自らその意を浄めよ(第七 未耶識との衝突(矛盾))
※第七 未耶識(マナシキ:自己中として外部情報を屈折させるプリズムの如く)

■禅観
・入力情報を屈折させない仕掛け
⇒呼吸を整えて

出典:第741回花ホテル講演会 タイトル:「法相宗は面白い ~こころを観る唯識~」 講師: 高次 喜勝 氏(YouTube)
<参考情報:日本における比較思想の展開ー弘法大師から始まる(中村元先生 秋季特別大会公開講演より)>
■空海の比較思想の体系学は
・さらに発展を示すことになる
⇒かれは804年に遣唐使(第19次)の一行に従って長安に入り、
⇒805年に青龍寺の恵果に師事し、806年10月帰国した。
⇒ときに空海は33歳であった。
⇒すばらしく大規模な活動を展開したのち830年に勅命により
⇒『秘密曼荼羅十住心篇』10巻を撰述して献上した。
⇒ときに空海は57歳であった。
⇒ただこの書はあまりにも膨大であったため、
⇒多くの引用文を省いて3巻にまっとめたのが『秘蔵宝鑰(ほうやく)』である。
⇒撰述年代はさほど隔っていなかったらしい。
⇒ここには、かれの多年の研鑽が盛り込まれて、体系的に詳論されている。
⇒段階的な比較思想論である。
⇒かれの知り得たあらゆる思想類型を十種にまとめ、
⇒それらが逐次、後のものが前のものを凌駕優越しているという構造をも持っている。
⇒それらを【十住心(じゅうじゅうしん)】と呼ぶ。
⇒心の境地の十種類のあり方で、空海が定めたものである。
⇒それらを順次に経由して高い境地に達するという。
■十住心(じゅうじゅうしん)
(1)異生羝羊心(いしょうていようしん)
⇒異生(凡夫のこと)や羝羊(おひつじ)のように動物的な本能に支配されている愚かな者の段階
(2)愚童持斎心
⇒愚かな童子のように人倫の道を守り、五戒・十善戒をたもつ。善いことをしょうとする段階
(3)嬰童無畏心(ようどうむいしん)
⇒嬰児にも似た凡夫や外道が人間世界の苦悩を厭って、天上の楽しみを求めて天上に生まれたいと思って修行をする段階。
⇒凡夫や外道はいかにすぐれていても、偉大な仏に比べれば劣弱で愚かであることは、あたかも嬰児のごとくである。
以上は、仏教外の教えを奉じている人々の段階である。
・次に、仏教内部の人々が奉ずる異なった思想段階が登場する。
唯蘊無我新
⇒五蘊(ごうん)の諸法は実在するが。固体としての人間は仮のものであり、我は存在しないと考える段階。
⇒法有無我の説を奉ずる声明がこれに相当する。
⇒つまり小乗仏教のうちの最大の学派である切一切有部の思想である。
注)五蘊(ごうん)とは:色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つを指します。色は肉体、物質のこでです。あとの四つは、人間の精神作用です。人間存在のありようを、からだとこころに分けて見すえて、端的に示したものです。煩悩のおこるもととということです。(出典:温かなこころ 東洋の理想 (仏教の四つの真理)中村元:春秋社)
(5)抜業因種心
⇒悪業を抜き去ってのがれて、煩悩の原因である無明の種子(潜在的な可能性)を断ち切る心。
⇒すなわち十二因縁の相を観じ。生死の苦しみを離れる段階。
⇒縁覚がこれに相当する。つまり山林に籠って修行している孤独な修行者の思想である。
(6)他縁大乗心
⇒「他」とは、自分の主観に対する他のものであり、法界(宇宙)のあらゆるものを縁(対象)とする。
⇒教化の対象とする。
⇒一切衆生をさとりに連れて行く乗りものであるから、大乗という。
⇒人無我と法無我をさとる段階。
⇒いかなる固定的なものも認めないのであるが、
⇒まだ対象を見る認識主観というものを認めている。
⇒大仏教の初門。法相宗がこれに相当する。つまり唯識説の立場である。
注)法相宗の総本山は奈良県奈良市にある薬師寺と興福寺。
(7)覚心不生心
⇒さとった心の立場から見ると、
⇒何ものも新たに生ずるということは無い。
⇒心も対象も不生、すなわち空あると観ずる段階。
⇒三論宗がこれに相当する。
⇒つまり前の段階である唯識説では、心の対象は空であるが、認識作用の主体である心は実在すると考えていたのに、
⇒この段階では心も空であると考えるのである。
⇒「覚心」という語についての説明は序文には出ていない。
⇒しかし空海は「大日経」の住心品(大正蔵。18巻3ページ中)の文章を引用しているので、その文句と符合するから、
⇒「さとりを開いた心」または「本来さとっている心」の意に解する。
注)三論宗:大乗仏教宗派の一つで、インドの中観派の龍樹の著作「中論」「十二門論」、及びその弟子である提婆(だいば)の著作「百論」を組み合わせて「三論」としている。この宗派は空を唱えることから「空宗」とも呼ばれ、無相宗、中観宗、無相宗大乗宗とも言われている。日本仏教においては、何都六宗の一つとされている。
以上はインドで成立した思想体系であるが、
・シナにおいてはさらに、上記のものを凌駕する思想体系が成立した
(8)一道無為心
⇒宇宙には唯だ一つの道理があるだけであり、無為である。
⇒「無為」とは、あさはかな人間の智慧によって何ものかが人為的につくり出されることは無いさとる心の境地である。
⇒一実中道を説く一乗思想の段階。天台宗がこれに相当する。
⇒この立場においては、仏教の種々の実践方法がみな仏と成るための道であるということを認める。
注)天台手宗の総本山は比叡山延暦寺。伝教大師最澄によって開かれた。延暦寺は日本仏教の母山とも称され、多くの祖師がここで学び、出家得度している。本尊は薬師如来。
(9)極無自性心
⇒「無自性」とは孤立した実体は無いということである。
⇒究極においては無自性・縁起であるということをさとる段階。
⇒華厳宗がこれに相当する。
⇒この立場によると、宇宙における一切の事物は互いに依存し条件づけ合って成立しているのあり、
⇒宇宙の中に孤立して存在するものあり得ないということを明らかにする。
注)華厳宗の総本山は東大寺。東大寺は日本仏教の歴史的な寺院であり、華厳思想を伝える重要な場所。本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘慮遮那仏(びるしゃなぶつ=大日如来の別名)と一体になっている。華厳宗の教学には「十地品」や「入法界品」などが含まれており、修行者の階梯を説いている。
注)華厳思想の上に空海の「密教」が重なる説もある(松岡正剛:編集工学者)
(10)秘密荘厳心
⇒「荘厳」とは美しく飾られ、みごとにととのえられているということである。
⇒秘密の隠れた究極の真理をさとった境地。
⇒真言宗の立場。
⇒それはまた空海自身の説く真言密教の究極の立場である。
⇒ここにおいては宇宙の一切の事物が密教浄土のすがにほかならぬということになる。
⇒すばらしい浄土であるというのである。
<参考情報>




※インドの外道(仏教以外の思想)。インドで仏教の事を『内道』という。
■第四段階から第十段階の心のあり方:仏教のあり方

■九顕一蜜:密教との対比

■後世の空海思想の評価:九顕十蜜
・九っの顕教もまた密教
⇒九顕もまた悟りの境地である
⇒よって九蜜+密教で十密
※密の定義:最も優れたもの


■九顕十密
・九顕一密があっての『九顕十密』
⇒まず一密が基盤となって
⇒九顕が九密に転じて
⇒十密になる

■九顕とは砥石、一密は優れた刃物
・一密(優れた刃物)は九顕(砥石)を必要とする
⇒砥石は優れた刃物に転じる

出典:サブタイトル/空海『十住心論』の思想~空海につづけ!#03(種智院大学オンライ講座より転記
■このように仏教の諸思想(『十住心論』)をも含めて、
・一切の諸思想体系全体に渡って比較思想論の論述した人は、
⇒西洋人にはいなかった。
⇒僅かに近世になってヘーゲルとかディルタイに見られるだけである。
⇒ウインデルバンの「哲学史教科書」には思想を類型化しようとする試みは見られるが、
⇒弘法大師のように段階的に把握しようとする試みは見慣れない。
⇒ことにヘーゲルの弁証法においては、基本的原理はアウフヘーベンということであるが、それは止揚または揚棄と訳されように、
⇒次の発展段階においては、前のものは棄てられることになる。もはや顧みられない。
⇒いわんや史的唯物論の立場に立つと、
⇒もはや古いものは捨てて顧みられない。
⇒いわゆる「文化大革命」なるが、その適例である。
・ところが空海の場合には
⇒前の発展段階が人間にとってはやはりそれなりに意味をもっている。
⇒完全に棄てられることはない。
⇒いかなる思想をも全体系のうちに生かすのである。
⇒かれは人間のいただく誤った見解、煩悩に対しても温かい同情を示している。
・これに似たものとしてインドのマーダウ”ァ(14世紀)の「全哲学綱要」には
⇒諸体系を段階的に見なすという思想はあるが、
⇒弘法大師ほどに体系化されていない。
⇒だからわれわれは比較思想は弘法大師に始まるというわけなのである。
■空海の今日的意義
・人間が生きて安心立命を求める道を
⇒体系的に把捉しようとしている点に存在する。
⇒今日、宗教を重んぜよ、という声がある。
⇒しかし宗教をどこまでに限ったらよいか?はっきりしない。
⇒儒教は宗教であるか、ないか、議論されている。
⇒神道が宗教であるか、ないかということは、今の日本人にとって非常に重要な意味をもっている。
⇒共産主義の運動は、非常な情熱を伴い、排他的になるという点でしばしば宗教的であると評されている。
⇒しかし共産主義を宗教と呼ぶことはできないであろう。
⇒マルクス・レーニン主義は宗教に対して敵対的であった。
⇒だから、儒教や神道やマルクス・レーニン主義に一顧も与えないで宗教だけを論ずるならば、
⇒それは人間論として決して十全なものではない。
・では、哲学が人間の問題を解決してくれるのか?
⇒しかし、記号論理学による論理計算をいかに精緻に行っても人間の悩みは解決されない。
⇒また認識論からは価値の基準は出て来ない。
⇒だから学校で、限られた意味の哲学だけを教えるといことは、無意味である。
・philosophiaという語を
⇒最初に用いたのはギリシャのオルフェウス教の共同体であったといわれているが、
⇒かれらにとって、「哲学」とは?人生の「生き方」であった。
⇒ところが今日の日本では、哲学の原義が忘れられているのではないか?
⇒今日、日本諸大学では哲学の講義が盛んになされているが、
⇒「人生論」に関する講義が一つもない。
⇒人間の「生きる道」を教えてくれない。
⇒ただ西洋の哲学書に書かれていることの羅列と紹介だけだといった言い過ぎだろうか。
⇒今や日本の諸大学ではチグハグな、統一性のない、宗教や哲学に関する知識の切り売りがされているだけではないか。
⇒「生きる」という問題と無関係な知識の断片的取得だけだというならば、
⇒けっきょく精神分裂的症状が見られるだけである。
⇒思想の学問が混迷をつづけているということは
⇒現代日本における道徳の頽廃(たいはい)、教育の荒廃という恐るべき事実と決して無関係ではない。
⇒この点で思想の学問をしている人間は大きな責任を感ずるのである。
●こういう実情を考えるとき、弘法大師が
⇒あらゆる人間の生き方に理解を示し、それらを位置づけ、意義を段階的に認めて、
⇒全体系的な体系を示したということは、大きな意義がある。
⇒そこには哲学だ、宗教だというようなケチな縄張り争いは見られない。
⇒人間のもつあらゆる欲望、要求、悩み、期待と希望に正面切って、
⇒まともに取り組んでいる。
⇒人間の生きるべき道を示している。
⇒これがまさにわれわれ比較思想学会のめざすところである。
●「比較哲学」という語を用いないで、「比較思想」としたわけは、
⇒哲学の奥にあるもっと根源的なものをめざしたのである。
⇒世間には「哲学というものは無用である」と主張する人もいる。
⇒それも一つの思想である。
⇒われわれは哲学なしで生きることがはできるが、
⇒思想なしで生きることはできない。
⇒それと同じ理由により、われわれは「比較宗教」よりもさらに根源的なものをめざしている。
⇒むろん弘法大師からいきなり現代のわれわれにまで跳ぶわけではない。
⇒中間に立派な学者があった。富永仲基の「誠の道」も、同じようなものをめざしていたが、
⇒西周の「百一新論」も同じような思惟にもとづいている。
⇒「哲学」という語を初めて用いたのは西周であるが、かれの哲学は、重箱の隅を楊枝でほじくるようなものではなかった。
⇒だから弘法大師のような精神はのちの時代にも生きているのであるが、
⇒われわれはその根源を弘法大師のうちに見出すのである。
⇒弘法大師は、いかなる思想をも捨てなかった。
⇒いかなる異端邪説をも、その由って来る所以を見定めて、それぞれ適当な位置に位置付けた。
⇒その上で、完き人間が進むべき道を示したのである。
⇒そうしてその努力を継承し発展させることを、われわれ比較思想学会の氏使命であると確信する。
出典:サブタイトル/日本における比較思想の展開ー弘法大師から始まる(中村元先生 秋季特別大会公開講演より)
■■『グノーシスから神秘主義』情報収集■■
<参考情報:禅の世界思想史的位置づけ~禅研究所紀要 第04・05号 中村元~転記>
◆このような立場から道徳が成立しうるかという問題がつぎにでてくる。
・西洋の神秘家は人間の本性は善あり清らかであることを認めている。
・大乗仏教では本来自性清浄ということを申します。
⇒人間の内には仏性があり、現に生きている人がどうであろうと、内には清らかな仏性が存在するというのです。
⇒白隠禅師も「衆生本性仏なり」といっておられます。
⇒エックハルト(神秘家:1260?~1327年)は「神の本質は善の衣の下に覆われている」ことをいっています。
⇒キリスト教は罪を説くとよくいわれますが、
⇒しかし神秘家の立場は違います。
⇒人間の本性は清浄であるという前提に立っています。
⇒もともとキリスト教の中には二つの対立があったのです。
⇒ペラギウス(345年頃~420年)とアウグスチヌス(350年~430年)の対立です。
⇒二人の対論でアウグスチヌスが勝ち、ペラギウスの思想は異端とされていましったのです。
⇒しかし彼の思想は西洋思想史から完全に消されたわけではないのです。
⇒アウグスチヌスは罪の意識を強調しましたが、
⇒ペラギウスは人間の性は善であるという立場をとったのです。
⇒だから西洋にも仏教的思想がいろいろあるのです。
⇒それが異端として弾圧されたわけです。
⇒東洋人は異端に対して寛容でありますが西洋人は違います。
⇒この問題を追究しますと人間に通ずる普遍的理法があるかどうかとい問題に突き当たります。
⇒仏教ではダルマということをいいます。
⇒三世に通じ十万に行きわたるダルマがあるはずだと考えます。
⇒ところがキリスト教の考え方は多くの学者が説くようにキリストに始まるのです。
⇒それ以外の宗教は場合によっては禁止されるわけです。
⇒この考え方はカソリックやプロテスタントの学者の解釈を通じて伝えられてきたのです。
注)コンスタンチヌス帝(272年~337年):ローマ帝国の初のキリスト教徒皇帝として知られているが、彼の治世において異教徒に対する迫害が行われた。
313年発布されたミラノ勅令により、キリスト教が公認され、キリスト教徒への迫害は終わったが、その後、キリスト教を優遇する政策が進められ、この過程で、異教の神殿の破壊や異教の儀式を禁止するなどの政策を実施し、異教徒の財産を没収し、キリスト教会に寄付させる等により異教徒の弾圧が行われた。
これにより、異教徒たちは社会的に圧迫され、キリスト教への改宗を余儀なくされることが多かった。
このような政策は、キリスト教をローマ帝国の主要な宗教とするためのものであり、異教徒にとっては非常に厳しいものだった。
注)ニケ―ア公会議(325年)の開催理由:当時、キリスト教内ではイエス・キリストの神性についての解釈が分かれており、これが教会内の対立を引き起していた。
特に、アリウス派とアタナシウス派の間で激しい論争があり、アリウス派は「イエスは神ではなく、神に従属する存在」と主張し、一方でアタナシウス派は「イエスは神と同質である」と主張していた。
コンスタンチヌス帝は、ローマ帝国の統一と安定を図るために、キリスト教の教義(ドグマ)を統一する必要があると考え、その為、全教会の代表者を集めて会議を開き、最終的にアタナシウス派の主張が正統とされ、アリウス派は異端とされた。
この会議の結果、ニカイア信条が採択され、キリスト教の基本的な教義が確立された。
※映画「ダ・ヴィンチ・コード」の中でこの会議のシーンがある。

コンスタンチヌス帝の洗礼(ラファエロ作) ニケーア公会議(キリスト教の解釈の統一)
出典:左図)Wikipedia コンスタンティヌス1世 右図)https://gusyakensekaishitankyu.com/?p=16197
・初期のキリスト教にはもっと違った思想がいくつもありました。
⇒とくにアレキサンドリアの教父の書いたものをご覧になると面白いと思います。
⇒クレメンス(2世紀の人物)とかオリゲネスなどの人はキリストの道はロゴスであることを主張しています。
⇒ロゴスは何もキリスト教だけに現れるはずのものではないといいます。
⇒つまりキリスト以前にキリスト教があったということをいっています。
⇒クレメンスは仏陀に言及して、
⇒インド人の間では仏陀を信じているものがいるが、
⇒その仏陀の教えはロゴスに基づいて現れるというのです。
⇒だからキリスト以前に真理を説いた人が多くいるのであり、
⇒最後に出たのがイエスであったというなるのです。
⇒こんな考え方においては異端というものはなくなります。
⇒宗教的真理を説いた人を歴史的人物としてのキリストだけに限る考え方は維持できなくなりましよう。
⇒だからさきに挙げた「キリストがたとえこの世に千回現れてこようとも」という表現もでてくるわけです。
⇒禅で無功用ということを申しますが、
⇒この境地になることだと思います。
⇒チベットの詩人ミラレーバ(1040年~1123年)も「正しさということは信者の直接の目的というよりはむしろ悟りの副産物である」といっています。
⇒そこで現実肯定の考え方が出てくるのです。
注)アレキサンドリアの教父であるクレメンスの解釈
世界の根本にロゴス(logos)がある
これはダルマ(法)と非常に似ているが、宇宙の真理であるロゴスが現れて聖者になる。
その現れがキリストだという。
キリスト以前にもロゴスが現れがあり、ロゴスを明らかにした人がいる。
たとえばソクラテスがそうであり、ヘラクレイトスがそうである。
それから、インドではBoutaという偉い聖者がいたと書いてある。
キリストという一人の人を特別に偉くみるのではなくて、
偉大なロゴスというものがあって、
その現れだという解釈で、非常に仏教的である。
こういう思想(ロゴスの現れが聖者)は、
後代のキリスト教によると、異端、邪教として退けられてしまうが、
初期にはそういう思想があった。
【クレメンスの思想の特徴】
ギリシャ哲学と文学がキリスト教へ人々を導くために存在したと考え、その思想的な遺産をキリスト教へ継承しようとしたことにある。特にロゴス=キリストであるとした「ロゴス・キリスト論」は、ギリシア思想とキリスト教神学を結びつけた。
注)ロゴス(logos):古代ギリシア哲学において「言葉」「理性」「論理」などを意味し、さまざまな文脈で使われてきた。
【古代ギリシャ哲学におけるロゴス】
- ヘラクレイトス: ヘラクレイトスは、ロゴスを宇宙の根本原理とし、すべてのものが変化しつつもロゴスによって秩序づけられていると考えた。
- ソクラテスとプラトン: ソクラテスは対話を通じて真理を探求し、プラトンはロゴスを理想的な形而上学的実体と結びつけた。
【キリスト教におけるロゴス】
ヨハネの福音書: 新約聖書のヨハネの福音書では、ロゴスは神の言葉として描かれ、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されている。ここでロゴスはイエス・キリストを指し、神の啓示としての役割を果たす。
【インド哲学における視点】
ブッダ: 仏教では、絶対的な存在を否定し、無常や縁起の教えを重視します。ブッダは悟りを通じて真理を見出し、ロゴスに相当する概念として「ダルマ(法)」を説きました。ダルマは宇宙の法則や真理を意味し、個々の存在がそれに従っているとされる。
注)ダルマ:仏教の中心的概念であり、私達の信仰と人生に大きな影響を与える。
- 仏陀の教え:
- ダルマはブッダ(釈尊)の教えを指す。
- 真理と法則:
- サンスクリット語の「dharma」は「保つこと」「支えること」を意味し、それより「法則」「正義」「真理」「最高の実在」「宗教的真理」の意味にもなる。
- ダルマは、人生と宇宙の法則を示し、私たちが歩むべき道を指す。
出典:サブタイトル/禅の世界思想史的位置づけ~禅研究所紀要 第04・05号 中村元~転記
<参考情報:聖徳太子(地球志向的視点から)~①ロゴス(logos)の現れが「聖者」と宗派(教義=ドグマ)を超える「信仰」~中村元著より転記>
・寛容の精神と非寛容の精神の出現
⇒異なった思想、異なった宗教に対しても、寛容の精神をもって見るという東洋の考え方と、
⇒他の宗教を片っ端から禁止、抑圧する西洋の行き方
⇒との相違が、成立するにいたった。
⇒これは宗教だけの問題ではない。
⇒現代においては、中世的な宗教は、それほど争いをしなくなった。
⇒そのかわり、イデオロギーという新しい宗教がおこって、
⇒また血は血をもって洗われるという、非常な憎しみをこめた迫害が、あちこちで行われた。
⇒これはやっぱり西洋の伝統に由来すると思われる。
⇒哲学者バートランド・ラッセルが。『西洋哲学史』の中でマルクスを論じているが、
⇒マルクスの教条というものは、ユダヤ的な宗教の現代版だという。
⇒つまり理想の天国がまもなく来る。
⇒そのときに、ある人びとはすべて救われ、そうでない者は全部地獄へやられていまう。
⇒そのためにはどんなことをしてもかまわない。
⇒そしてはっきりした教義を立て、それに背いた者は粛清されるといっている。
⇒ユダヤに由来する宗教の場合と、現代の、いわゆるマルクス主義に由来するイデオロギーの場合とを対比しているのであるが、非常によく似ている。
⇒マルクス主義というものは、突然出てきたものではないので、
⇒西洋における特殊な宗教的伝統の変形した現代版であるということをいっている。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~①ロゴス(logos)の現れが「聖者」と宗派(教義=ドグマ)を超える「信仰」~中村元著より転記
<参考情報>
■東洋と西洋の相違
■東西の思想対決の場合
・キリシタンが日本に最初に来たときに、仏教徒と互いに論議をした。
⇒その場合に仏教の僧侶も参加した。
⇒どちらも普遍宗教であるあるから、非常に似た教えがあるが、
⇒日本人がどうしても理解してくれないことがあったことを、
⇒カトリックの宣教師が、その当時に書いている。
⇒何を理解しなかったというと、『永遠の罰』という観念である。
⇒これはやっぱり西洋的である。
⇒ドグマ(教義)を立てて、
⇒神と人を絶対に離すのがキリスト教だと理解されているけれども、
⇒わたくしは素人であるから、素人なりに非常に大胆な発言をすると、
⇒これはカトリックとかプロテスタントで確立した教義で理解するから
⇒そういうことになるので(神と人を絶対に離す)、
⇒キリスト教の歴史というのは、もっと豊かで、広い、長いものだと思う。
・アレキサンドリアの教父たちの書いているものを読むと、
⇒非常に仏教的であることに気づく。
⇒これはわたしが勝手にいっているのではなくて、ドイツの有名な宗教学者たちがいっている。
⇒たとえばエルンスト・ベンツ(Ernst Benz)という学者は、マーブルヒ大学の教授で、日本へも来て、同志社大学で教えていたこともある。
⇒かれが『初期キリスト教神学に及ぼした仏教の影響』という本を書いて、
⇒初期のキリスト教神学には仏教の影響があるということを指摘している。
⇒これはドイツのウィーズバーデンの学士院から出ている本であるから、まんざらでたらめだとはいえないであろう。
⇒このことをどう考えるかと、ドイツの有名な宗教学者であるフィードリッヒ・ハイラー博士に聞いてみた。
⇒ハイラ—博士は、そこに書いてあることは全部本当だという。仏教の影響はまだまだあるという。
■アレキサンドリアの教父であるクレメンスの解釈によると
・世界の根本にロゴス(logos)がある
⇒これはダルマ(法)と非常に似ているが、宇宙の真理であるロゴスが現れて聖者になる。
⇒その現れがキリストだという。
⇒キリスト以前にもロゴスが現れがあり、ロゴスを明らかにした人がいる。
⇒たとえばソクラテスがそうであり、ヘラクレイトスがそうである。
⇒それから、インドではBoutaという偉い聖者がいたと書いてある。
⇒こえはブッダのことである。
⇒インド人はブッダの骨を、偉大なピラミッドの下に納めてあたかも神に対するかのごとく崇拝しているとも書いている。
⇒これはストゥーパ崇拝のことである。

出典:https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/v-buttou-1.htm
⇒わたくしが知っている限りでは、ギリシャ語の文献の中で、仏教に言及しているのはこの箇所だけであるが、
⇒でたらめに言及しているのはなくて、かれの思想の論理的必然性に従って言及している。
⇒インドにはブッダがいて、エウダイオスの中にも聖者がいたという。
⇒エウダイオスというのはユダヤ人のことである。
⇒そうなると、キリストという一人の人を特別に偉くみるのではなくて、
⇒偉大なロゴスというものがあって、
⇒その現れだという解釈で、非常に仏教的である。
・こういう思想(ロゴスの現れが聖者)は、
⇒後代のキリスト教によると、異端、邪教として退けられてしまうが、
⇒初期にはそういう思想があった。
⇒だいたいわたくしが見るところでは、素人の考えであるが、同じキリスト教でも、
⇒東よりのほうは、多分に仏教的である。西よりは西洋的である。
⇒例えばギリシャ正教を奉するアトス山の修行者たちは、しょっちゅうジーザスの名前を唱えるとか、念仏に相当することを行う。
⇒ギリシャ正教の人びとは、聖壇を右回りに三べん回る。これは明らかにインドからきた右繞三匝(うにょうさんぞう)であり、現在でもギリシャ正教の人は行っている。

出典:左図)https://www.gentosha.jp/article/19106/アトス山修行者(女人禁制) 中図)https://arayaja.exblog.jp/25973264/ 右図)https://www.cocolocala.jp/spots/11255
注)アレクサンドリアのクレメンス:2世紀の人物で、初期キリスト教を代表する神学者の一人。エジプトのアレクサンドリアで活躍したためこの名で呼ぼれるが、エジプト出身ではなくギリシャのアテネの出身と考えられている。
クレメンスの思想の特徴
ギリシャ哲学と文学がキリスト教へ人々を導くために存在したと考え、その思想的な遺産をキリスト教へ継承しようとしたことにある。特にロゴス=キリストであるとした「ロゴス・キリスト論」は、ギリシア思想とキリスト教神学を結びつけた。
注)ロゴス(logos):古代ギリシア哲学において「言葉」「理性」「論理」などを意味し、さまざまな文脈で使われてきた。
古代ギリシャ哲学におけるロゴス
- ヘラクレイトス: ヘラクレイトスは、ロゴスを宇宙の根本原理とし、すべてのものが変化しつつもロゴスによって秩序づけられていると考えた。
- ソクラテスとプラトン: ソクラテスは対話を通じて真理を探求し、プラトンはロゴスを理想的な形而上学的実体と結びつけた。
キリスト教におけるロゴス
ヨハネの福音書: 新約聖書のヨハネの福音書では、ロゴスは神の言葉として描かれ、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されている。ここでロゴスはイエス・キリストを指し、神の啓示としての役割を果たす。
インド哲学における視点
ブッダ: 仏教では、絶対的な存在を否定し、無常や縁起の教えを重視します。ブッダは悟りを通じて真理を見出し、ロゴスに相当する概念として「ダルマ(法)」を説きました。ダルマは宇宙の法則や真理を意味し、個々の存在がそれに従っているとされる。
注)ダルマ:仏教の中心的概念であり、私達の信仰と人生に大きな影響を与える。
- 仏陀の教え:
- ダルマはブッダ(釈尊)の教えを指す。
- 真理と法則:
- サンスクリット語の「dharma」は「保つこと」「支えること」を意味し、それより「法則」「正義」「真理」「最高の実在」「宗教的真理」の意味にもなる。
- ダルマは、人生と宇宙の法則を示し、私たちが歩むべき道を指す。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~①ロゴス(logos)の現れが「聖者」と宗派(教義=ドグマ)を超える「信仰」~中村元著より転記
<参考情報>
●以上弘法大師の思想を主軸としていろいろ考えを述べたが、
⇒もちろん弘法大師の多数の著作のうちには現代において適切でない立言もいろいろ見られるであろう。
⇒しかしかれのめざした意図というもは、
⇒新しい人類の思想形成のために大きな意義をもっているのである。
⇒そのほか弘法大師の思想のうちには、西洋にもその対比を求め得るものが多い。
⇒陀羅尼を唱え、霊験を求めるということは、
⇒西洋においてもの呪術にたより、奇蹟を信じた信仰に対比される。
⇒信徒のあいだでは四国八十八ヶ所巡礼が行われて来たが、
⇒西洋でも恩籠を蒙り、贖罪の目的をはたすために聖地巡礼が行われてきた。
・弘法大師は
⇒「仏はわれに入り、われは仏に入る」(入我我入)と説いたが、
⇒これに対応する体験は、新プラトン派を中心にする神秘主義のうちに見られる。
⇒エクスタシス(Exstasis)とエントゥシアスモス(Enthoussiasmos)に相当する。
⇒キリスト教の神秘主義にも同様の神人合一の体験が見られる。
⇒絶体者の顕現の視覚的具現化(マンダラ)は西洋にもその志向を認めることができる。
⇒自然万物が救済され得るかどうかということも大きな問題とされた。
⇒これに対応する体験は、新プラトン派を中心とする神秘主義のうちに見られる。
⇒西欧における神秘宗教は東邦のオルブェウスの信仰やミトラ信仰に由来する。
⇒例えばギリシャ末期の新プラトン学派のプロティノスに見られるように、神たる一者から万物が発源することを説くことに始まり、それは精神・霊魂・物質という過程をとって発出する(光源から光の発するように、あるいは源泉から水の流出するように)と説く。
⇒この精神・霊魂・物質という過程を逆行して
⇒人間の場合には物質即ち意識に集中し更に観念の場所たる精神に遡及するこによって、
⇒やがては一者たる神との合一を成就し得るものである。
注)オルブェウスの信仰とは:古代ギリシャにおける密儀宗教であり、冥界を往還した伝説的な詩人オルブェウスを開祖としている。以下はオルブェウス教の特徴。
- 教義:
- 魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱などが基本的な教義とされている。
- 人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず、輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされていると信じられていた。
- 神話:
- オルペウスによる神話によれば、ディオニューソス(バッコス)の心臓が一時的にゼウスの脚に縫い込まれ、その後セメレーの母胎に生まれ変わったとされている。
- 人間の霊魂は「再生の輪廻(因果応報の車輪)」に縛られた人生へと繰り返し引き戻されると考えられていた。
- 終末論:
- オルペウス神話によれば、死後にはレテの水(忘却)ではなくムネーモシュネーの泉の水(記憶)を飲むべきであり、祝福された来世への信仰が存在した。
オルブェウス教は、秘儀と同様に来世における優位を約束し、秘儀的な通過儀礼や禁欲的な道徳律を定めていた。
注)ミトラ信仰とは:古代ローマで隆盛した密儀宗教であり、太陽神ミトラスを主神として崇拝していた。以下はミトラ教の特徴。
- 信者組織:
- 信者は下級層で、主に男性で構成されていました。
- 7つの位階を持つ組織がありました(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)。
- 入信には試練を伴う入信式が行われました。
- 起源と発展:
- ミトラス神は古代インド・イランのミスラ信仰に由来し、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に広まった。
- ミトラス教は紀元前1世紀に地中海世界に現れ、紀元後2世紀までには広く知られる密儀宗教となった。
- 宗教形態の違い:
- ミトラス教は公的でなく、信者以外には信仰の全容が秘密にされた宗教でした。
- 古代イランのミスラ信仰とは宗教形態に大きな相違点があった。
ミトラ教は、ローマ帝国内で約300年間信仰され、キリスト教との類似点からも注目されている。
・プロティノスの弟子たるポルフュリオスのプロティノス伝によれば
⇒プロティノス自身がその生涯において5年間に4度恍惚の状態において神との合一を達成したといわれる。
⇒新プラトン学派は既にギリシャの末期においてキリスト教の起って来る時代にあって宗教的色彩を最も強くもつものであるが、
⇒プロティノス以外は一般にヘルメス祈禱書(きとう)の中に示される合一の体験は最も原始的な前ヘラス的なものへと向かう反動であった。
⇒そしてそれらの人々と神との間におこる合一の手段は、
⇒いつもエクスタンス(霊魂が肉体から脱すること)とエントゥシアスモス(神が礼拝者の中にはいって来ること)とを通じて起るのである。
・このExstasisとEnthoussiasmosが真言の入我我入と
⇒全く同一の体験の少しく異なった表現であることに人は気付くであろう。
⇒そして「汝が吾のあるところのものとなり、吾が汝のあるところのものとなるよう、
⇒花嫁としてその花嫁を迎える準備をなすべし」とか
⇒「吾は汝の中に、汝は吾の中に」「みどり児の女の腹に宿るごとく吾のうちに入り給え」
⇒という祈りとなるのである。
注)新プラント派とは:後3世紀に成立し、西洋古代哲学の棹尾を飾った潮流で、始祖とされるプロティノスは、プラトンのイデア論を徹底させ、万物は一者から流出したもの(流出説)と捉えた。この思想はプラトン主義の伝統を継承し、後世の哲学やキリスト教的な世界観に影響を与えた。
新プラトン主義は一者からの流出の観念を重視し、中世ヨーロッパのキリスト教思弁哲学の基盤の一つとなった。プロティノスやその後継者たちは、キリスト教徒にとっては異教徒であったが、中世哲学にも影響を与えた。ルネサンス期にはプラトンの思想とし新プラトン主義は区別されていないが、その後も文芸や美術に大きな影響をあたえた。

上図:イタリアの画家サンドロ・ボッティチェッリの作品。「プリマヴェーラ(春)」美しい春の光景を描いており、中央には春の女神「プリマヴェーラ」が立っている。周囲には三美神や風神などが絵がかれいる。この作品は親プラトン主義の影響を受けており、美と愛を中心的なテーマとして取り扱っている。
出典:サブタイトル/日本における比較思想の展開ー弘法大師から始まる(中村元先生 秋季特別大会公開講演より)
<参考情報>
■中世の神秘思想
・大乗仏教の<空>の思想を理論づけた
⇒ナーガールジュナおよびその後の中観派(ちゅうがんは)の思想は、
⇒<世界思想史>を
⇒「古代思想」「普遍思想」「中世思想」「近代思想」の四段階ととらえたときに、
⇒<中世>に位置づけられる(わたくしのいう<世界思想史>については『中村元選集「決定版」別巻一『古代思想』三ページ以下を参照。またこの四段階の区分法については、同書四〇ページ以下を参照)。
⇒ここで<中世>というのは、
⇒ほぼ普遍的宗教の興起したのち、近代的思想の始まるまでの時期をいう。
⇒政治史的社会史的視点からみるならば、
⇒古代末期の「世界国家」または「普遍的国家」の消失から「近代国家」の出現に至るまでの中間の時期であるということができよう。
⇒西洋でいえば、ほぼキリスト教が興起し、ローマ帝国が崩壊し、教権の支配が確立し、のちに宗教改革が起こるまでの時期をいう。
⇒東洋諸国でも、年代的に多少のずれはあってもこういう意味での<中世>を限ることはできるであろう。
・中世において
⇒新たに形成された社会的基盤の上に宗教の権威が確立した。
⇒まず聖典が定められ、
⇒それが権威をもって後の時代に伝えられた。
⇒それが註解され説明されて、神学・教養学成立し、中世の主流となった。
⇒まず早くは、西洋ではアウグスチヌス(354-430年)、南アジアではブッダゴーサ(415-450年ころ)、北方仏教(大乗)ではヴァスバンドゥ(世親:320-400年ころ)がほぼ同時代である。
⇒この時代以後学派が成立した。
⇒インドではバラモン教の系統ではいわゆる六派哲学、仏教のほうでも諸哲学学派において根本の原典がつくられ、それらが後の学者によって解釈敷衍(ふえん)された。
⇒中国では後漢以後こういう傾向が現れて、鄭玄(じょうげん:127-200年)は儒学の典籍を註解し、王弼(おうひつ:226-249年)は老子をそれぞれ独自の立場で註解した。
・ところでこれに対立するものとして、
⇒西洋では否定神学とよばれるものが成立した。
⇒その顕著な現われはキリスト教神秘主義の源流であるディオニシウス・アレオパギタに帰せられる『ディオニシウス偽書』である。
⇒この書の著者は、
⇒神についての積極的言説から成る肯定神学が第一の道であるのに対して、
⇒それは、第二の道である高次の否定神学によって補われなばならず、
⇒それによって超本質的な光のうちに神秘的に沈潜し神と合する恍惚境にはいる第三の道が開けると主張した。
⇒この思想は中世の神秘家に深い影響を及ぼした。
⇒アジアにおいて、
⇒ちょうどそれに対応するものとして、
⇒われわれは空の理論を説いた大乗仏教の神秘家たちに眼をむけねばならない。
■<空>ー実体の否定
・大乗仏教、ことにナーガールジュナは、
⇒もろももろの事象が相互依存において成立しているという理論によって
⇒<空>の観念を理論的に基礎づけた。
⇒この実体を否定する<空>の思想に対して
⇒西洋では全面的な実体否定論はなかなか現われなかった。少なくとも一般化しなかった。
⇒アリストテレスの<実体>の観念が長年月にわたって支配していたのであるから。
⇒それは当然のことであろう。
⇒この点でラッセルの<実体>批判は注目すべきである。
⇒かれは西洋で長年月にわたって優勢であったアリストテレスの<実体>の観念を手厳しく批判している。
・「『実体』という概念は、
⇒真面目に考えれば、さまざまな難点から自由ではあり得ない概念である。
⇒実体とは、
⇒諸性質の主語となるもので、そのすべての性質から区別される何物かである、と考えられている。
⇒しかし諸性質をとり去ってみて、
⇒実体そのものを想像しょうと試みると、
⇒われわれはそこに何も残っていないことを見出すのである。
⇒この問題を別な方法で表現すれば、
⇒ある実体を他の実体から区別するものは何であるか、ということになる。
⇒それは、性質の相違ではないという。
⇒なぜなら実体の論理によれば、
⇒諸性質の相異ということは、当の諸実体の間に数的多岐性を前提していることになるからだ。
⇒したがって二つの実体は、それ自身どのようにも区別し得ることなしに、
⇒ただ単に二つでなければならないという。
⇒それではどのようにしてわれわれは、それらのものが二つであることを見出し得るのであろうか?
・実際には『実体』とは、
⇒さまざまな出来事を束にして集める便宜的方法に過ぎない。
⇒それは、その諸生起がひっかかっているはずの単なる空想上の吊りかぎに過ぎない。
⇒地球がよりかかるための象を必要としないように、
⇒それらの諸生起も実際には吊りかぎを必要としてはいない。
⇒地理的な地域という類似の事例にあっては(例えば)「フランス」というような語が単なる言語的便宜であり、その地域のさまざまな部分を超越して「フランス」と呼ばれるような事物は存在しない。
ということは誰にだって理解できるのである。
⇒同じことが、「スミス氏」にも当てはまる。それは、多数の出来事に対する一つの集合的な名称なのである。もしわれわれが、それ以上のものだと解釈すれば、それはまったく知り得ない何物かは必要でなくなるのである。
⇒一言にしていえば、『実体』という概念は
⇒形而上学的な誤謬であり、
⇒主語と述語とから成る文章の構造を、世界の構造にまで移行させたことにその原因があるのだ」(『西洋哲学史』市井三郎訳、上巻、205ページ)
・かれは<実体>という観念は成立しないというものである。
⇒この議論は
⇒ナーガールジュナやアーリヤデーヴァの実体批判にちょうど対応するものである。
⇒ヘレニズム時代の西洋に<空><空性>に対応する観念を見出そうとするならば、
⇒諸法実相(事物の真相)の異名である実際(bhūta-koṭi)がPleroma(full, perfect nature)に相当し、kenomaやPhiloのvacuuがこれに相当するであろうといわれている。
⇒さらに<空>に体甥するものを西洋中世に求めるならば、「神の沙漠」、ロイスブルータ(1293-1381年ころ)の「怠惰な空虚」、エックハルト(1260-1337年)の言った「何人も落ち着くことのできない静かな曠野(こうの)」「赤裸なる祈り」「神に至らんとする赤裸なる志」ーそれは完全な自己帰投によって可能となるのであるが、ーまたロイスブルークやタウラー(1300-1361年)の説くはかりなき深淵などであろう。
⇒この「深淵」は、
⇒自己否定と自己滅却に専念せる人々によって心から歓迎された。
⇒これは仏教の「無我」の教えに相当するものである。
■絶対の否定
・インドで『リグ・ヴェーダ』以来、ことにウパ二シャッドにおいて
⇒絶対者は否定的にのみ把捉されうると説いていた。
⇒これはとくに般若経典が繰り返し説くところであるが、
⇒ナーガールジュナはこの点を『中論』で明言している。
⇒「心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである」(第一八章・第七詩)
⇒古代西洋の哲学者たちは実体を何らかの意味で承認していたけれども、
⇒究極の実体は概念作用をもって把捉することができないという見解は、
⇒非常に古く、おそらくナーガールジュナ(2世紀中頃)からあまり遠く隔られない時代に現れている。
・新プラトン派およびグノーシス派の思想形態、
⇒殊にプロフロスやダマスキオスのような後代の新プラトン主義者たち、
またそれらがキリスト教的な形態をとったものとしてオリゲネースやディオニシウス・アレオバギタなどの諸著作がそれである。
⇒とくに後者の『神秘神学』は『般若心経』のキリスト教版であるとさえいわれている。
⇒ウイリアム・シェームズの指摘した事実であるが、
⇒ディオニシウス・アレオバギタは、絶対の真理を否定的なことばでのみ叙述した。
⇒何となれば万有の原因は霊魂でもなく、知性でもなく、また説いたり考えたりすることのできないものなのである。
⇒絶対者は、
⇒数もなく、順序もなく、大いさもない。
⇒その中には、微小性、平等、不平等、相似、不相似は存在しない(ーまさに般若経典の文句であるー)。
⇒ディオニシウスはこれらの限定をすべて否定する。
⇒それは、真理はそれらの上にあらねばならぬ。
⇒絶対者を認識する否定的方法が、
⇒ニコラウス・クザーヌス、ジォルダノ・ブルーノーなどによって唱導されたことも、これに関連して考慮されねばならない。
・究極の原理としての<空>に対応する思想を、
⇒古代中国にも見出すことができる。
⇒老子はいう。
⇒「道はつねに何事もしない。だが、それによってなされないことはない」(『老子』第三七章)
⇒そこで<空>の観念と老荘思想の「虚無」との関係が問題となる。
⇒仏教が中国に移入されたころの指導者は、『空」と「虚無」とを同一視して考えていた。
⇒ただし中国で仏教が盛んになると、
⇒仏教を老荘思想に近づけて説く必要がなくなったので、
⇒仏教徒たちのあいだでは「虚無」という語はおのずから使われなくなった。
■否定の否定ー無立場の立場
・ナーガールジュナはさらに進んで主張する。
⇒<空>の原理さえもまた否定されねばならない。
⇒すなわち否定そのものが否定されねばならないのである。
⇒否定の否定が要求されるのである。
⇒一般に大乗仏教では否定の否定を説く(「空亦復空(くうやくぷくう)」)。
⇒ナーガールジュナは『中論』でいう。
⇒「もしも何か或る<不空>なるものが存在するならば、
⇒<空>という或るものが存在するであろう。
⇒しかるに<不空>なるものは何も存在しない。
⇒どうして<空>なるものが存在するであろうか」(第一三章・第七詩)
⇒ところでもしも<空>というものが存在しないのであるならば、
⇒<空>はもはや<空>ではありえないことになる。
⇒この観念を継承して、中国の天台宗は
⇒三重の真理(三諦)が融和するものであるという原理をその基本的教義として述べた。
⇒この原理によると、
⇒(Ⅰ)一切の事物は有機的な実在性をもっていない。すなわち空である(空諦)。
⇒(Ⅱ)それらは一時的な仮の存在にほかならないたんなる現象である(仮諦)。
⇒(Ⅲ)それらが非実在であってしかも一時的なものとして存在しているという事実は中道としての真理である(中諦)
⇒存在するいかなる事物もこの三つの視点から観察されねばならない、と説く。
・否定の否定(二重の否定)という思想は、
⇒西洋ではマイステル・エックハルトによって表明された(F・ドイセン)『一般哲学史』第一巻第二編、136ページ参照)。
⇒さらにまた<空>の哲学は定まった教義なるものをもっていない(129ページ参照)。
出典:サブタイトル/NN1-2.比較思想からみたナーガールジュナ(龍樹(ナーガールジュナ)/中村元著から転記)
<参考情報:Google chrome AI回答>
三諦(さんだい)
天台宗で説かれる「空諦(くうたい)」、「仮諦(けたい)」、「中諦(ちゅうたい)」の三つの真理を指します。
- 空諦:一切のものは実体がない、空であるという真理です。
- 仮諦:一切のものは、因縁によって仮に存在しているという真理です。
- 中諦:空でもなく、仮(有)でもない、空と仮を共に受け入れる中道の実相を示す真理です。
天台宗では、これらの三つの真理はそれぞれ別々に存在するのではなく、互いに融け合い、一念の中に全てが顕現している「円融三諦(えんゆうさんだい)」として説かれます。
<参考情報>
◆このような立場から道徳が成立しうるかという問題がつぎにでてくる。
・西洋の神秘家は人間の本性は善あり清らかであることを認めている。
・大乗仏教では本来自性清浄ということを申します。
⇒人間の内には仏性があり、現に生きている人がどうであろうと、内には清らかな仏性が存在するというのです。
⇒白隠禅師も「衆生本性仏なり」といっておられます。
⇒エックハルト(神秘家:1260?~1327年)は「神の本質は善の衣の下に覆われている」ことをいっています。
⇒キリスト教は罪を説くとよくいわれますが、
⇒しかし神秘家の立場は違います。
⇒人間の本性は清浄であるという前提に立っています。
⇒もともとキリスト教の中には二つの対立があったのです。
⇒ペラギウス(345年頃~420年)とアウグスチヌス(350年~430年)の対立です。
⇒二人の対論でアウグスチヌスが勝ち、ペラギウスの思想は異端とされていましったのです。
⇒しかし彼の思想は西洋思想史から完全に消されたわけではないのです。
⇒アウグスチヌスは罪の意識を強調しましたが、
⇒ペラギウスは人間の性は善であるという立場をとったのです。
⇒だから西洋にも仏教的思想がいろいろあるのです。
⇒それが異端として弾圧されたわけです。
⇒東洋人は異端に対して寛容でありますが西洋人は違います。
⇒この問題を追究しますと人間に通ずる普遍的理法があるかどうかとい問題に突き当たります。
⇒仏教ではダルマということをいいます。
⇒三世に通じ十万に行きわたるダルマがあるはずだと考えます。
⇒ところがキリスト教の考え方は多くの学者が説くようにキリストに始まるのです。
⇒それ以外の宗教は場合によっては禁止されるわけです。
⇒この考え方はカソリックやプロテスタントの学者の解釈を通じて伝えられてきたのです。
注)コンスタンチヌス帝(272年~337年):ローマ帝国の初のキリスト教徒皇帝として知られているが、彼の治世において異教徒に対する迫害が行われた。
313年発布されたミラノ勅令により、キリスト教が公認され、キリスト教徒への迫害は終わったが、その後、キリスト教を優遇する政策が進められ、この過程で、異教の神殿の破壊や異教の儀式を禁止するなどの政策を実施し、異教徒の財産を没収し、キリスト教会に寄付させる等により異教徒の弾圧が行われた。
これにより、異教徒たちは社会的に圧迫され、キリスト教への改宗を余儀なくされることが多かった。
このような政策は、キリスト教をローマ帝国の主要な宗教とするためのものであり、異教徒にとっては非常に厳しいものだった。
注)ニケ―ア公会議(325年)の開催理由:当時、キリスト教内ではイエス・キリストの神性についての解釈が分かれており、これが教会内の対立を引き起していた。
特に、アリウス派とアタナシウス派の間で激しい論争があり、アリウス派は「イエスは神ではなく、神に従属する存在」と主張し、一方でアタナシウス派は「イエスは神と同質である」と主張していた。
コンスタンチヌス帝は、ローマ帝国の統一と安定を図るために、キリスト教の教義(ドグマ)を統一する必要があると考え、その為、全教会の代表者を集めて会議を開き、最終的にアタナシウス派の主張が正統とされ、アリウス派は異端とされた。
この会議の結果、ニカイア信条が採択され、キリスト教の基本的な教義が確立された。
※映画「ダ・ヴィンチ・コード」の中でこの会議のシーンがある。

コンスタンチヌス帝の洗礼(ラファエロ作) ニケーア公会議(キリスト教の解釈の統一)
出典:左図)Wikipedia コンスタンティヌス1世 右図)https://gusyakensekaishitankyu.com/?p=16197
・初期のキリスト教にはもっと違った思想がいくつもありました。
⇒とくにアレキサンドリアの教父の書いたものをご覧になると面白いと思います。
⇒クレメンス(2世紀の人物)とかオリゲネスなどの人はキリストの道はロゴスであることを主張しています。
⇒ロゴスは何もキリスト教だけに現れるはずのものではないといいます。
⇒つまりキリスト以前にキリスト教があったということをいっています。
⇒クレメンスは仏陀に言及して、
⇒インド人の間では仏陀を信じているものがいるが、
⇒その仏陀の教えはロゴスに基づいて現れるというのです。
⇒だからキリスト以前に真理を説いた人が多くいるのであり、
⇒最後に出たのがイエスであったというなるのです。
⇒こんな考え方においては異端というものはなくなります。
⇒宗教的真理を説いた人を歴史的人物としてのキリストだけに限る考え方は維持できなくなりましよう。
⇒だからさきに挙げた「キリストがたとえこの世に千回現れてこようとも」という表現もでてくるわけです。
⇒禅で無功用ということを申しますが、
⇒この境地になることだと思います。
⇒チベットの詩人ミラレーバ(1040年~1123年)も「正しさということは信者の直接の目的というよりはむしろ悟りの副産物である」といっています。
⇒そこで現実肯定の考え方が出てくるのです。
注)アレキサンドリアの教父であるクレメンスの解釈
世界の根本にロゴス(logos)がある
これはダルマ(法)と非常に似ているが、宇宙の真理であるロゴスが現れて聖者になる。
その現れがキリストだという。
キリスト以前にもロゴスが現れがあり、ロゴスを明らかにした人がいる。
たとえばソクラテスがそうであり、ヘラクレイトスがそうである。
それから、インドではBoutaという偉い聖者がいたと書いてある。
キリストという一人の人を特別に偉くみるのではなくて、
偉大なロゴスというものがあって、
その現れだという解釈で、非常に仏教的である。
こういう思想(ロゴスの現れが聖者)は、
後代のキリスト教によると、異端、邪教として退けられてしまうが、
初期にはそういう思想があった。
【クレメンスの思想の特徴】
ギリシャ哲学と文学がキリスト教へ人々を導くために存在したと考え、その思想的な遺産をキリスト教へ継承しようとしたことにある。特にロゴス=キリストであるとした「ロゴス・キリスト論」は、ギリシア思想とキリスト教神学を結びつけた。
注)ロゴス(logos):古代ギリシア哲学において「言葉」「理性」「論理」などを意味し、さまざまな文脈で使われてきた。
【古代ギリシャ哲学におけるロゴス】
- ヘラクレイトス: ヘラクレイトスは、ロゴスを宇宙の根本原理とし、すべてのものが変化しつつもロゴスによって秩序づけられていると考えた。
- ソクラテスとプラトン: ソクラテスは対話を通じて真理を探求し、プラトンはロゴスを理想的な形而上学的実体と結びつけた。
【キリスト教におけるロゴス】
ヨハネの福音書: 新約聖書のヨハネの福音書では、ロゴスは神の言葉として描かれ、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されている。ここでロゴスはイエス・キリストを指し、神の啓示としての役割を果たす。
【インド哲学における視点】
ブッダ: 仏教では、絶対的な存在を否定し、無常や縁起の教えを重視します。ブッダは悟りを通じて真理を見出し、ロゴスに相当する概念として「ダルマ(法)」を説きました。ダルマは宇宙の法則や真理を意味し、個々の存在がそれに従っているとされる。
注)ダルマ:仏教の中心的概念であり、私達の信仰と人生に大きな影響を与える。
- 仏陀の教え:
- ダルマはブッダ(釈尊)の教えを指す。
- 真理と法則:
- サンスクリット語の「dharma」は「保つこと」「支えること」を意味し、それより「法則」「正義」「真理」「最高の実在」「宗教的真理」の意味にもなる。
- ダルマは、人生と宇宙の法則を示し、私たちが歩むべき道を指す。
出典:サブタイトル/禅の世界思想史的位置づけ~禅研究所紀要 第04・05号 中村元~転記
<参考情報>
・寛容の精神と非寛容の精神の出現
⇒異なった思想、異なった宗教に対しても、寛容の精神をもって見るという東洋の考え方と、
⇒他の宗教を片っ端から禁止、抑圧する西洋の行き方
⇒との相違が、成立するにいたった。
⇒これは宗教だけの問題ではない。
⇒現代においては、中世的な宗教は、それほど争いをしなくなった。
⇒そのかわり、イデオロギーという新しい宗教がおこって、
⇒また血は血をもって洗われるという、非常な憎しみをこめた迫害が、あちこちで行われた。
⇒これはやっぱり西洋の伝統に由来すると思われる。
⇒哲学者バートランド・ラッセルが。『西洋哲学史』の中でマルクスを論じているが、
⇒マルクスの教条というものは、ユダヤ的な宗教の現代版だという。
⇒つまり理想の天国がまもなく来る。
⇒そのときに、ある人びとはすべて救われ、そうでない者は全部地獄へやられていまう。
⇒そのためにはどんなことをしてもかまわない。
⇒そしてはっきりした教義を立て、それに背いた者は粛清されるといっている。
⇒ユダヤに由来する宗教の場合と、現代の、いわゆるマルクス主義に由来するイデオロギーの場合とを対比しているのであるが、非常によく似ている。
⇒マルクス主義というものは、突然出てきたものではないので、
⇒西洋における特殊な宗教的伝統の変形した現代版であるということをいっている。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~①ロゴス(logos)の現れが「聖者」と宗派(教義=ドグマ)を超える「信仰」~中村元著より転記