『摩訶止観』(まかしかん)は、中国・隋時代の天台宗の祖師、智顗(ちぎ)が594年に講義し、弟子の灌頂(かんじょう)がまとめた10巻の書物です。仏教の瞑想修行である「止(サマタ)」と「観(ヴィパッサナー)」を体系化し、円頓止観(即座に究極の理を体得する法)を説いた天台三大部の一つで、天台教学の極意とされる実践書です。
『摩訶止観』のポイント
・止観の定義:「止」は雑念を止めて心を集中すること、「観」は正しい智慧で対象を正しく観ることを意味します。
・特徴・目的:低い段階から順に登る「次第禅門」とは異なり、初めから円頓(円満・頓速)な実相の理を明らかにし、日常のすべてが中道であると悟ることを説きます。
構成:天台三大部(法華玄義、法華文句、摩訶止観)の1つで、具体的な修行の方法を提示しています。
出典:Google AI 回答
天台のさとり
出典:天台寺門宗 http://www.tendai-jimon.jp/author/1/1.html
■天台の「さとり」 (その一)
一
「円頓とは、初めより実相を縁ず、境に造るにすなはち中(道)にして、真実ならざることなし。縁を法界に繋け、念を法界に一うす、一色一香も中道にあらざることなし。
己界および仏界、衆生界もまたしかり。陰入みな如なれば苦の捨つべきなく、無明塵労即ちこれ菩提なれば集の断ずべきなく、辺邪みな中正なれば道の修すべきなく、生死即ち涅槃なれば滅の証すべきなし。苦なく集なきが故に世間なく、道なく滅なきが故に出世間なし。純ら一実相にして実相のほかさらに別の法なし。法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づく。初後をいうといえども二なく別なし。これを円頓止観と名づく」(「摩訶止観」)
これは、いわゆる「円頓章」といわれるもので、仏教のあらゆる修行の仕方のなかでも、もっともすぐれた修行方法とされる天台の摩訶止観、すなわち円頓止観をもっとも簡単に説明した文章である。ここには、大乗仏教のさとりの内容が要領よくまとめられており、天台系のどの宗派においても、僧俗ともに朝夕の勤行のおりには必ず読誦しているのは適当なことで、かつ大いに奨励されるべきであろう。
この文章は、もとは六世紀末に天台大師智顗が講説し、章安尊者灌頂がそれを筆記してなった「摩訶止観」の序章とでもいうべき箇所に述べられているものであるが、このなかの「一色一香も中道にあらざることなし」とか「無明即菩提」「生死即涅槃」という思想は、大乗仏教が窮めたもっともすぐれたさとりである。天台は華厳とならんで、大乗仏教の哲学的発展の可能性をすべて開花させたものであると讃えられているが、そのはじめは、法華経の行者たる天台大師の天台山中における激烈な止観の実修によって体得されたさとりにおこるものであって、華厳がたんなる哲学的な思索の所産であることと異なるところである。この大乗仏教のさとりを天台大師はいろんな角度から説明している。教理的には「諸法実相」とか「十界互具」とかいい、また止観の実践という面からは「一念三千」、「一心三観」などとよんでいる。この他、いろいろと説明する観点から、ことばはさまざまあるが、その内容をいえば、「諸法は実相である」つまりあらゆるものごと、どのような生きかたもすべてそのまま本性を発現している真実のすがたであるということである。まさにものごとはすべてあるようにあるしかないのである。だから中国天台の中興者であり天台の正統思想を守りぬいた第一の人であられた知礼尊者なども「当体全是(ものが存在している、そのままのすがたがそのもののすべてをあらわしている)」ということを強調しているわけである。
二
ところで、よく仏教では「無」とか「空」とかいうが、これはなにも「ない」とか「空虚」とかいう意味ではなく、ものごとのありかたを説明しているのである。それは、あらゆるものがそれ自体として孤立独立して自立しているものではないということを説明しているのである。だから「無自性(すべてのものに実体はない)」ともいわれる。これは、もとは釈尊の菩提樹下のさとりにはじまることはいうまでもないが、その時釈尊は「あれあるによりてこれあり、これあるによりてあれあり」と自分の体得したさとりを表現したといわれている。「縁起」の思想がこれであり、だから仏教においては「空」というのも「無」というのも、この釈尊のさとり、「縁起」の思想から由来するものである。
天台のさとりの内容も同じである。天台の思想の根底には、釈尊のさとりとのつながりがあるのである。『摩訶止観』の冒頭において、いろいろの相承が説かれているのは、そのためである。天台は実相論であって、縁起的考え方が稀薄であるなどとよくいわれるが、それは表面的な分類であって、むしろ実相論というのも、すぐれた意味での縁起論であることを見のがしてはならない。
さて、天台のさとりをもっとも特長的に説明している「空仮中三諦円融」によってみてみよう。「一境三諦」、「一心三観」というのも、この空・仮・中の三諦円融の論理によってなりたつものである。
さきにも述べたように「空」というのはものが縁り由ってあり、そのものがそのものとしてだけあるということを超えているという、そういうありかたである。だから、その当処において、ものがないとか虚無ということではない。さながらに種々様々の事情事態においてあっている。このところを抑えて「仮」というのである。しかし、いってみれば「空」といっても「仮」といっても、それはそれととりとめ、あたかも実体あるものをとらえたことになる。すべてのものは本来とりとめられるような実体的ありかたはしていないはずである。したがって「空」といっても「仮」といっても、もののありかたをそのままに伝えているとはいえない。そこで、この当処のありのままをそのあっているとおりに伝えようとして「中」というのである。
もの(人)があるというとき、そのものがある場所は、一切それととりきめることを超えたところに、それととりきめられないように存在しているわけである。それが「中」という意味において示されるのであるが、もちろん、そこはまた「空」なるありかた、「仮」なるありかたにおいて存在しているのである。「中」の当処において「空」や「仮」のありかたが別々に存在しているのではなく、また「空」の当処に「仮」や「中」のありかたが没しているのでもない。もののありかた、つまりその存在の当の場面である各自の現実のありのままのありかたが、そのままに「中」においてあり、「空」においてあり、「仮」においてあるのである。この当処がそれととりとめられる一切の相待的存在者の範囲を超えている。その当のありかたが「空」であり、しかも「ない」のではなくてさながらにあり、ありのままにあるのが「仮」であり「中」のありかたである。したがって「空」といっても「空」といい切るのではない。如実のありかたは、「空」でないのではないが、同時に「仮」であり「中」である。だから「空」といっても「仮」を具え、「中」を具えていることになる。ここを「不但空」とか「不但中」とかいい、とくに「即空」とか「即仮」、「即中」というのである。いずれにしても相待を超えた絶待の、ということは相待を包みこんだ絶待の、ありようを、意にこめていっているものである。
空仮中の三諦円融の論理は、きわめて難解であるが、わかりやすく説明すれば以上のようになろう。
三
「仏の成就したまへるところは、第一稀有難解の法なり。ただ仏と仏のみ、いましよく諸法実相を究尽したまへり。」これは、いうまでもなく『法華経』の方便品のことばであるが、この意味は仏のさとりの内容は深く高くして、凡夫の容易に理解し得るところではない。それは、ただ仏だけが解りあうことができるということである。「稀有難解の法」と嘆じているのも、この辺の機微を指し示しているのである。
天台においても、さとりにおいてとらえられたものの如実のありようを「妙」とのべて、「妙」とは絶言絶思、不可思議のありかたであるといっている。これを、また「絶待」ともいう。もちろん相待と対比されるような、いわば相対比された「絶待」というのではない。さとりの境地というものは、したがって言葉による概念で表現することは不可能である。言語道断とか不立文字とかいわれるのはこのためで、『摩訶止観』の中心部分である正修止観章においては「玄妙深絶にして識の識るところにあらず、言の言うところにあらず、ゆえに称して不可思議の境となす」とのべている。
どんな宗教も同じであるが、宗教の本質的な特長は、日常的な価値や考え方を逆転させて、それを超越することである。仏教で、「出家」とか「出世間」というのはこのことをいっている。「無我」というのも同じことで、いわゆる「我」をとおして生きぬくのが凡夫の日常普通の生きかたであるが、このような我執我見を捨てて、とらわれなく生きることが「無我」的生きかたである。いったい「我」などというものは実在するのかといえば、たんなる幻化にすぎないものであって、鏡にうつる映像みたいなもの、これに固執すれば必ず不如意におわるのである。ここに人生の苦悩の原因があるとみるのが、仏教である。釈尊は、ものみな「縁り由ってある」という「縁起の法」をさとり、「我」を否定した。これが「無我」である。最近の宗教哲学において、宗教の特性を「超自然」とか「他者性」「拒否性」ということばで説明しているのも、さとりの世界が凡夫の世界を超越して絶対異質であること、凡夫からみれば全く不可思議境であることを指摘しているのである。
四
このように、三諦円融の弁証法的論理によって示された天台のさとりの世界も、容易に近づけるところではない。それを体得し、その不思議の境地に住するには、それなりの努力が必要となる。この努力が仏教の修行であり、そのもっともすぐれた方法といわれているものが『摩訶止観』によって示される、いわゆる「十乗観法」である。天台止観は、すべての仏教修行のなかでもっとも体系的で、精密なしくみになっており、いろんな宗派の修行方法もみな天台止観から発生しており、それらの規範となっているのである。
天台では、学問のみをもって事足れりとするものを「文字の法師」と呼んで軽蔑する。しかし、学解を否定するものを「暗証の禅師」として、また斥けるのである。天台のたてまえは「教観双美」あるいは「解行一致」ということである。学問は案内地図のようなものであるから、いくら道順を悉知していても目的地に達することはできない。しかし、この地図がなければ、とんでもないところにいってしまうだろう。このようにして、「解行一致」ということが強調されるのである。天台系の宗派では「論議」が尊重されながらも、必ず修行を怠らないとはこのたてまえにもとづくのである。
■天台の「さとり」 (その二・天台の修行の特色)
一
仏教は八万四千の法門をもつといわれているが、そのなかでもっとも組織的な修行方法として讃えられている天台止観は、教観双美をもって特長としている。教理をたよりに観行をおこし、観によって教をたしかめてゆく。中国天台の中興として仰がれる荊溪尊者湛然(唐中期)は「理によって解を生ず、ゆえに名づけて智となす、智は解行を導き、行は解理に契ふ」とのべて、実相の境と智と行とは一致しなければならないと強調しているが、この教観双美、解行一致こそは、天台の修行(止観)の構造の特色であり、比類をみないものである。
教理の理解にいかに詳しくとも、それはいわば他人の金銭を算えているのに等しく、身につくことはない。いわば登山地図を百読しても山を知ることができないのと同じである。しかし教相の理解もなく修行をしても、真のさとりに達することは困難である。のみならずその深浅についての自覚もできない。せいぜい増上慢に堕することであろう。教相というのは、登山地図のようなものである。登山者にとっては必須のものである、よき登山者の手にわたって、はじめて登山地図は効力を発揮し、山の全貌をあきらかにすることができるのである。
このように教理と観行とは鳥の両翼のごとく車の両輪のごとく助けあっているものである。天台において、修行を重視しながらも、さかんに論議をおこなって教理上の鍛練をおこたらないのは、このためである。
二
天台の教観について詳しく知ろうとするならば、できれば天台三大部(法華玄義、法華文句、摩訶止観)を閲読実修すべきである。このうち、前者は主として教相についてのべている。後者『摩訶止観』では、止観の実修について精緻をつくした説明がなされている。『摩訶止観』十巻は、天台大師が隋の開皇十四年四月、荊州の玉泉寺において講読したものを、弟子の章安尊者灌頂が筆記してまとめたものである。この書の序章に「この止観は、天台智者が己心中に行ぜしところの法門を説きともふ」とのべてあるように、天台山における激烈な修行の結果体得したさとりの境地とそれにいたる方法を、止観の実修という立場からあきらかにしたもので、一つの修行体験談である。しかし、仏教に法門多しといえども、これほど体系的な修行論を展開したものは、他にみられない。仏教のあらゆる修行方法を「止観」の立場から体系的に位置づけをし、いわゆる「五略十広」という組織にしたがって説明をくわえているのである。「止観は明静なり、前代にいまだ聞かず」とあるように、これまた大師の体験的独創であり、後世の修行論の多くがこの影響をうけているのである。
三
ところで、天台止観といっても、それには三種類ある。『摩訶止観』序章に「天台は南岳より三種の止観を伝えたまえり。一には漸次(止観)、二には不定、三には円頓なり。みなこれ大乗にして、ともに実相を縁じ、同じく止観と名づく」とのべているとおりである。そして、この三種の止観は、どれがすぐれているというものではなくて、修行者がみずからに、もっとも適合すると思われるものを選んで、これを実修すればよいというのである。行相はことなるも、そのさとりの内容は三者とも同一である。だから、荊溪尊者は「頓人は行解ともに頓、漸人は解は頓で行は漸、不定の人はその解は頓にして行はあるいは頓あるいは漸につく」といっている。
なお、漸次止観については『次第禅門』という著作にくわしく、また不定止観については『六妙門』、そして円頓止観については『摩訶止観』に詳しく説かれている。そして、一般に止観というとき、それは円頓止観をさしているのであり、これからあきらかにしようとしているのも、これである。そして、朝夕に読誦している、いわゆる『円頓章』は、円頓止観のことを端的に要約したものである。
さて、禅と止観について、教学上、両者は別個のものであるとか、同じものだとかいう議論もあるが、同一のものの両面と理解していただきたい。物指にたとえればよい。同一の物指の目盛のついている表が天台止観で、なにもない裏が禅である。禅宗は不立文字、教外別伝をたてまえとして、禅の思想についての教理的な説明はしない。これにたいして、この禅の思想に整然とした体系づけをし、禅のさとりの内容に大きな目盛をつけ、さらに小さく詳しく目盛をほどこして、あたかも物指の表をみせるような方法で禅を教えているのが、天台止観の体系なのである。禅も止観も内容は同一である。天台大師著の『次第禅門』は、名のとおり「禅」をもって仏教の修業を体系づけているのである。それが『摩訶止観』になって「止観」をもって修行を体系化し説明するように発展してきた。そして、両者はどこで異なるかといえば、天台止観の体系によって禅を修するとき、教観双美というたてまえから、つねに確かに合理的に有効に修行を深めてゆくということであろう。それは登山地図によって、山道を登攀してゆくようなものである。この点、禅宗においては、ややもすれば「暗証の禅師」に堕しかねないという危険性があり、また迷路に、はまりこむこともありうるのである。
四
ついでながらふれておくが、坐禅と止観についてである。坐禅というのは、端坐してする禅行ということであって、禅をするときの行儀(修行の形式)である。修行の形式といえば、天台止観でこれを論じているのは四種三昧である。止観を実修するときの行儀は、常坐(端坐)、常行、半行半坐、非行非坐の四種類にまとめられるが、これもどれがすぐれているかということではなく、あくまで修行者の機根(能力や性格)によって、適当な行儀をとればよいということである。
ここで注意しておきたいことは、天台止観では、あくまで行者自身の機根をつねに尊重し、その環境にもっとも適した方法をつねに勧めているということである。整然とした体系をうちたてながらも、つねに現実に即した処置ということを強調していることである。
さて、天台においてはどの行儀をもっとも勧奨しているかということであるが、あくまで修行者自身の環境、能力によってことなるのであるが、実相論のたてまえからいえば、いつ、どこにおいても、どんなふうにしてでも止観はできるということになる。すなわち非行非坐三昧ということになる。食事をしながらでも、散歩しながらでも、労働しながらでも、それはできるはずである。では現実に本当にそのようなことは可能なのだろうか。天台大師は、一応はそれを認めつつもやはり相当に困難で、なかなか効果は期待できないと反省している。そして、できれば他の三つのどれかを選ぶように勧めている。
しかし、さらによく『摩訶止観』を読んでみると、その講説の中心である「正修章」の心を観じる方法をのべるところは、端坐の行儀の場合を例にしてのべているのである。ここから、やはり天台大師は止観の実修においては、論理的には非行非坐で、どんなときにでも止観はできるといっても、実際的には坐禅形式(常行三昧)の止観を尊重し、他にもこれをすすめていたと理解されるのである。そういえば、天台宗系の祖師像はすべて坐像形式になっており、伝教大師、智証大師の御坐像などは瞑想端坐の典型をしめしているのに気がつくのである。
■天台の「さとり」 (その三・止観の条件と観心のしかた)
一
天台止観は、解行一致をもって特長としている。その概要は、前二十五方便を準備し、四種三昧のうちの自分とってもっとも適当と思われる行儀を一つえらんで、これを助縁として、陰入界等の十境にたいして、観不思議境等の十乗の観法を修するというのである。しかし、これらはとくに形式的にあらたまったものではない。止観の実修も実相論にその根拠をもつ以上、修行者は、いつどこにおいても、その能力性格に応じて、つねに止観成就することができるわけである。したがって、止観のしくみは、あくまでも修行者の止観実修とその成就の便宣によせているのである。このように、あくまでも修行者中心にしくまれているというのが、天台実相論にたつ止観の重要なところである止観を効果的に実修するには、実際には、いつどこにおいてもという具合にはいかない。そこにおのずと止観のしやすい環境なり条件、また身体の状態というものが求められなければならない。この止観のしやすい環境、条件を、天台大師はみずからの体験から指摘し整理したものが、前二十五方便である。したがって、行者は必ずしもこの二十五の条件を準備しなければならないわけではないが、そなえれば便宣であろうということになる。
また精神と身体は不可分といわれるように、止観は約心主義すなわち心のありかたを転回するということに観法の中心があるが、けっして身体を軽視することはできない。ここに身体のおきかたが、止観実修上の重要な関門になってくる。端坐、行歩、半行半坐、そして行住坐臥といったぐあいに、それぞれの行儀から、自分にふさわしいものをえらんで行者は止観する。この身体のおきかたについて、整理されたものが四種三昧である。
二
修行には、それにふさわしい環境や条件が必要である。天台止観では、二十五の加行方便をあげている。この二十五方便とは、つぎのとおりである。
まず五縁を具すことである。五縁とは、戒を清浄にたもつこと、衣食が適切であること、山間の静処に住すること、雑務はすべて捨てさること、そしてすぐれた指導者、同志をうることの五である。つぎは五欲を呵止する。行者の五根が眼のまえにある五塵の境にとらわれて、色、声、香、味、触の五欲を生ぜるものをおさえ捨てることである。第三は五蓋をすてる。すなわち貪欲、瞋欲、睡眠、掉悔、疑惑という煩悩心を棄捨することである。以上の十五は修行者の外的環境にかかわる条件を準備することであるが、つぎの十は行者の内的環境に関する条件の整理である。第四は五事を調える。食、眠、身、息、心の五事を調節して修観がうまくゆくようにする。第五は五法を行ずることである。前の二十が整っても行者自身の勇猛な心がなければ駄目である。よって行者の善心を発動して、欲、精進、念、巧慧、一心の五法を行ずるわけである。とくに、この行五法は加行方便の焦点であるといわれる。
この二十五の条件は止観の遠方便ではあるけれども、しかしたとえば調身によって豁然と実相の理を体現できたならば、それでよいわけであって止観の行者の発悟は一概には定めがたいことは、先述のとおりである。 身体のおきかた、すなわち行儀については四つにまとめられている。四種三昧がそれである。これも天台大師が円頓止観の実修の体験からいろんな禅修の立場を整理したものである。一つは常坐三昧で、坐禅の形で九十日を一期におこなう。二は常行三昧で、もっぱら繞旋行道し歩々に阿弥陀仏の名号を称するもので、やはり九十日を一期とする。三は半行半坐三昧である。これは方等三昧と法華三昧との二種ある。あるときは立ちあるときは坐すというやりかたで方等は七日、法華は三十七日を一期とする。さいごの非行非坐三昧は、とくに行儀を一定にさだめず、日常茶飯資生のなかでおこなうものである。したがって随自意三昧ともよばれている。ここでは前の二十五方便も必要としないのはいうまでもない。実相論のたてまえからいえば、本来この三昧こそが特長的なものであるはずである。いつどこにおいても、だれによってでも止観は成就されなければならないはずだからである。しかし天台大師によって止観実修に際しては、できるだけ前二十五方便ならびに前三の三昧を助縁とすべきであると観修されているが、この非行非坐三昧のみは観修されていない。これは行者の心理的経験的な反省によってとらえた立場であって、あくまでも行者が効果的に止観を成就するというねらいがみられる。
三
『華厳経』に「心はたくみなる画師の種々の五陰を造るがごとし。一切世間の中、心より造らざるはなし」と説かれているが、天台もまた唯心主義の立場をとる。そして観法においても、この心をとらえて、「心はこれ不可思議境なり」と観ずるのである。心といっても、特別のものではなく、日常あたりまえの意識のことであって、一瞬間にふと念頭に浮かんだ陰妄の一念のことである。こうした意識は、いつもわたしたちに去来しているものである。このように日常近要であるがゆえに、公安を課されるまでもなく、一念はとらえやすい。
さてこの心をとらえて、いかような観法をとるかといえば、いわゆる四句推検という方法である。「鐘の音はどこから生じたか。鐘か、棒か、両者からは、また両者とは無関係にか」と推究して、その不可思議をさとるといった方法である。たとえば一念三千について三千の法は(1)心に具するのであろうか、(2)縁に具するのであろうか、(3)心と縁の両者に具するのであろうか、(4)心と縁を離れているのであろうか、というように、自生、他生、共生、離生の四性四句について推究してゆき、結局四性の計はあやまちであるとする。この推究をあらゆる角度からおこなうことによって、分別的思考を徹底させ、その矛盾を露呈させる。それによって分別を棄捨したとき、機熟をまって深い不可思議実相の境が彼岸から示現してくることになる。
この機微は『摩訶止観』正修章の観不思議境を説くところに簡潔にのべられているので、つぎに引用して観心の説明のしめくくりにしたい。
「それ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り。若し心無くんば而巳なん。介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。相、物の前に在らばまた遷されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし。もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す。」
そして、この不可思議境とは、縁起の場所であり、実相のところである。まさに、この境位に身を処することこそが、円頓章が表現するところの 煩悩即菩提というさとりの世界なのである。
四
ところで、天台止観は、禅などに比較すればどのようにみることができるか、以下いささか蛇足ながらふれてみたい。
仏教諸派のなかでさまざまな修行論が展開されている。修行の形態としていろいろの形をとっているが、人為的な工夫を最小限に止める行きかたを巧みに活かして、そのまま組織立てたと見なされるものは曹洞風の黙照禅である。非行非坐三昧が、加行方便にこだわらず、また行儀も問題にしないところは、ややこれに近いといえよう。もちろん黙照禅にも結跏趺坐あるいは半などの姿勢のとりかたをはじめとして、種々の工夫を設けてはいるが、その中心は只管打坐にある。一切の人為的努力を中心した心の底に、一つの悟境を把握しようとする。そこでは、心を鎮静せしめる方法として静かに待つという態度がとられる。行の工夫としてはやや消極的な受身的すぎるように思われる。自然のままに心をまかせていて、ついに雑念を払った無想境に入ることはむずかしいだろう。天台が非行非坐三昧をとくに勧めない意図がこのあたりの機微にあるように思われる。意識集中を工夫の根幹とする行が少ないのは、こうした心理的な事情によるのである。曹洞禅に対立する臨済風の看話禅は、積極的に行を工夫しているといえよう。心を自然の鎮静に任せる代わりに、修行者に一定の問題を課する。公案がそれである。「隻手の声をきけ」とか、「狗子仏性ありや」というような、概念的な命題に似た外観を示しながらも概念分別では解決できないようなものである。行者は公案を知的に解決しようとするが、なかなか解けない。疑いが生じる。疑いはさらに心を公案に向けて追いこむ。
こうして心は公案に集中しきった状態の絶頂に押しあげられ、機が熟すと心が展開して、深く新しい体験の世界が顕現してくる。見性、悟りである。数息観とか、観経に記されている日想観、水想観等の十六観法、唱題、念仏なども行の積極的工夫によるものである。そして天台の止観もまたこの典型であることは、前述したことによって理解しえたと思う。しかも天台大師の体験を中心にして組織されていて、修行の指南としては仏教中の随一である。
<参考情報>
■聖徳太子の根本思想
◆仏教受容の最初期の聖徳太子の立ち位置(認識)
・「勝鬘経」「維摩経」「法華経」の三教を選んで注釈(解説書=三教義疏)した姿勢
⇒世俗生活を肯定する立場から三教を選定し、注釈をした。
⇒太子はいうまでもなく、摂政という最高政治に携わる世俗の人であり、
⇒人間が生きていくうえの倫理の指針として、
⇒また統治の根本原理として
⇒仏教を採択したのである。
⇒したがって仏教の理想は
⇒僧侶(出家)によって実現されるだけではなく、
⇒社会的な実践課題でなければならなかった。
注)義疏(ぎそ)とは:伝統的な中国文化において、経典の本文(または注釈を含む)の内容を詳細に解説した書物を指す。「義」は意義を示し、「疏」は疏通の意味。経義を疏通することを目的としている。
尚、「疏通」は、直訳すると「通じること」を意味する。一般的には、コミュニケーションや理解が円滑に行われることを指す。 例えば、人々が意見を交換し、理解し合うプロセスは疏通の一例。
<参考情報>
■法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)
■法華経とは、アジアの至る所で尊崇されている経典
⇒南アジアは伝統的保守的仏教の国、いわゆる小乗仏教(上座部仏教)の国であるから違うが、
⇒その他のネパール、チベット、蒙古、シナ、朝鮮、日本という国々では「法華経」は尊崇されている。
⇒聖徳太子から始まり、最澄、日蓮、今日のいわゆる新興宗教とつながっている。
注)「法華経」
- 成立と特徴:
- 大乗仏教の初期に成立した経典であり、法華経絶対主義、法華経至上主義が貫かれている。
- 28章から成り立っており、あらゆる仏教のエッセンスが凝縮されています。
- 名前の意味:
- 梵語での原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』で、「正しい・法・白蓮・経」という意味。
- 「白蓮華のように最も優れた正しい教え」とも訳される。
- 内容:
- 法華経は、人々が平等に成仏できるという新しい仏教思想を説いている。
- 菩薩(悟りへの修行者)や如来(悟りを得た人)の存在が描かれており、密教にも影響を与えた。
・これは何を頼りしているかというと
⇒ただひたすら「南無妙法蓮華経」を唱え、ここに日蓮の生命があると考えている。
⇒このように、「法華経」は現在に生きている教典である。
・聖徳太子(574年~622年)の「法華経」に対する捉え方
⇒シナの長水(ちょうずい)という学者が、その文句を少し書き変えて伝えたものに、
⇒「治生産業はみな実相に違背せざるを得」という有名な言葉がある。
⇒一切の生活の仕方、産業、これはみな仏法に背かない。
⇒どんな世俗の職業に従事していようとも、みな仏法を実現するためのもので、
⇒山の中にこもって一人自ら身を清うするのが仏法ではない。
⇒聖徳太子は「ここだ!」と思ったわけである。
⇒こういう考え方が、日本の仏教においては顕著に生きている。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~④万巻の経典から選んだ三経とその解説書(三経義疏)~中村元著より転記
■共同体の原理としての『和』
■ある文化圏全体にわたっての統一を図るということになると、
・そこで『和』の精神が協調される。
⇒諸国において和の思想がとくに強調されるようになったのは、
⇒やはり人類も社会的生活の発展におけるある段階においてであり、
⇒それはつまり普遍的な国家の確立を目ざす帝王が、
⇒いろいろの部族を統一したときに強調したことである。
⇒もろもろの部族的対立を超克したところに普遍的国家が成立したのであるから、
⇒そこにおいて、まず第一に力説されるのは、
⇒共同体の原理としての『和』である。
・「西蔵(チベット)王統記」に伝えられている十六条によると
⇒第一条として「争う者は罰すること重し」という。
⇒アショーカ王も和の精神を強調している。
⇒もとの言葉でいうと、サマヴァーヤ(samavāya)ということを、アショーカ王も尊んでいる。
⇒これだけを第一にとりあげているということはないけれども、
⇒アショーカ王の詔勅はいろいろであるが、その中で和の精神を強調している。
⇒サマヴァーヤ(samavāya)というのは、ヴァイシェーシカ哲学の術語で『和合』と漢訳する。
⇒属性とか運動が、一つの実体に内蔵している、従属しているー英語ではinherenceというが、
⇒その関係をヴァイシェーシカ哲学では、『和合』という。
⇒インド哲学の教科書では、これだけ出てくるから、それが「和合」という語の意味かと思うけれども、そうではない。
⇒もともとインドでは、サマヴァーヤ(samavāya)という言葉が使われたのは、『仲良くする』という意味である。
⇒それが元の意味なのである。
⇒それがたまたま哲学のほうに取り入れられて、少し専門的な意味に使われるようになったのが、ヴァイシェーシカ哲学のサマヴァーヤ(samavāya)なのである。
⇒だからこの言葉を、玄奘三蔵は「勝宗十句議論(しょうしゅうじっくぎろん)」の中で、『和合』と訳している。これは直訳である。そして正しい訳である。ただ、inheren(属性とか運動が、一つの実体に内蔵している、従属している)という意味は伝えていない。
⇒このサマヴァーヤ(samavāya)ー和合、仲良くするということを、アショーカ王のが強調した。
⇒これは仏教にもとづいていることは、いうまでもない。
■和の思想が
・憲法十七条全体を通じて強調されている根本のものである。
⇒『和』が説かれているのであって、単なる従順ではない。
⇒ことを論じて事理を通ぜしめる。議論そのものが、互いに会話というか、協和というか、その気分の中で行われる。
⇒『和』の概念が
⇒儒教から受けたものであるという解釈もなされており、「論語」に「和するを貴しと為す」という句がある。
⇒ただ、「論語」のその個所では、主題が『礼』であり、和ではない。
⇒ところが聖徳太子の場合には、人間の行動の原理としての『和』を唱えている。
⇒つまリ、太子が、礼とは無関係に、真っ先に『和』を原理として揚げている。
⇒これは実は、仏教の慈悲の立場の実践的展開を表しているものだといえる。
■仏教でも
・和合とか和敬とかいう語がしばしば用いられている。
⇒あるいは儒教で伝えられた言葉かもしれないが、
⇒仏教における原理的なものを表現するのに適した語であると思われたために、
⇒シナの仏教徒がこの和という字を用いて訳した。
⇒この観念を聖徳太子がとり上げて、仏教的な精神で生かそうとしたのであろう。
■共同体の紛争を止める(紛争の否定⇒怒りを捨てる):聖徳太子は第一条に和を唱えている
【十七条憲法 一に曰く】
「和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず。隣里に違(たが)う。しかれども、上和(かみやわら)ぎ、下睦(しもむつ)びて、事を、論(あげつら)うときは、事理(じり)おのずから通ず。何事か成らざらん。」
【口訳】
おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心が有り、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。
・太子の人間観と「十七条憲法」
⇒人はともかく偏頗(へんぽ)なものであり、したがって、共同体の内部において、あるいは団体と団体とのあいだに、つねに争いをひき起こしがちなものであるが、
⇒このような抗争を克服して和を実現すること、共同体を真に共同体として形成すべきことを強調している。
⇒そうして、和の思想は「十七条憲法」全体を通じて強調されている。
⇒『和』をそこなうような行動言語を遠ざけねばならない。
⇒アショーカ王はいう、「粗暴・乱暴・憤怒・高慢・嫉妬のような、これらのことがらは、汚れに導くものである」と。
■仏教的精神と和
・聖徳太子は『和』を重んじて、当時の社会生活の基調にしょうとしたが、
⇒調和を重んずる思想はすでに原始仏教(釈尊の教え)において表明されている。
⇒それはまた中道の理想につながるものである。
⇒聖徳太子は、さらに、事を討論する場合に怒りを捨てるということが、
⇒「ともにこれ凡夫のみ」という人間の相対性の自覚によってのみ可能であることを説いている。
【十七条憲法 十に曰く】
こころのいかり<忿>を絶ち、おもてのいかり<瞋>を棄てて、人の違(たが)うことを怒らざれ。
人みな心あり。心おのおの執(と)るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれ非とする。われからなずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫(ぼんぶ)のみ。是非の理、詎(たれ)かよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきごとも。
ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。
【口訳】
心の中で恨みに思うな。目に角(かど)を立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。
人にはみなそれぞれ思うとろがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、自分が正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。しかし自分がかならずしも聖人なのではなく、また他人が必ずしも愚者なのでもない。両方ともに凡夫(ぼんぶ)にすぎないのである。正しいとか、まちがっているとかいう道理を、どうして定められようか。おたがいに賢者であったり愚者であったりすることは、ちょうどみみがね<鐶>のどこが初めでどこが終わりだか、端のないようなものである。
それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人びとの意見を尊重して同じように行動せよ。
■解決点に落とし込む術と「十七条憲法」
⇒いかりを去って平静に和の気持ちをもって論ずるならば、事理はおのずから通ずる。
⇒かくしてこそ、会議による決定ということも可能になる。
⇒和の精神というものをもっていなければ、違った意見は決して解決点に到達しない。
⇒果ては狭い範囲で人と人とが、あるいは集団と集団とが深刻に対立するにいたる。
・アショーカ王もまた自己反省の必要を説いている。
⇒ひとは一般に「われはこの善い事をなしとげた」といって、(自己の)善いことのみを見るのが常である。しかるに「われわれはこの悪いことを行った」とか、あるいは「これこそ(われの有する)汚れなるものである」といって、(自己の)悪事を見ることをしない。一方では、このことは実に自省しがたいことで有るが、他方では実にかくのごとく観察しなければならない。
⇒すなわち「粗暴・乱暴・憤怒・高慢・嫉妬のような、これらのことがらは、汚れに導くものである。ねがわくは、実にわれわれはこれらのために亡ぼされないように」と
■これらの帝王が抱いている普遍的な法の観念
・法はインドのダルマ(dharma)である。
⇒つまり、謙虚な反省にもとづく共同体活動の基準には、
⇒宗教がなければならぬと考えられた。
⇒だから、その宗教を、法ーダルマーという言葉で呼んでいる。
⇒今日でもインドあるいは南アジア諸国では、このダルマという言葉を使っている。
⇒例えば仏教のことは、バウダ・ダルマと呼び、キリスト教のことをクリスティ・ダルマと呼んでいる。
⇒聖徳太子(574年~622年)の場合には、いうまでもなく仏法である。第二条におい「篤く三宝を敬え」といい、
⇒さらに、もっとさかのぼって、アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)の場合を見ると、
⇒一般人民に対して述べた岩石詔勅および石柱詔勅のなかでは、信仰の自由を表明していて、
⇒とくに仏教だけを尊崇すべきことは教えていないが、
⇒仏教教団の人びとに対する詔勅のなかでは、「ブッダと法とサンガ」すなわち三宝に対する帰依を表明している。
・「何故仏教にたよらねばならぬか」という理由について、聖徳太子はいう。
【十七条憲法 二に曰く】
三宝とは、仏と法と僧なり。すなわち四生(ししょう)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん。人、はなはだ悪しきもの少なし。よく教うるをもて従う。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。
【口訳】
まごころをこめて三宝をうやまえ。三宝とはさとれる仏と、理法と、人びとのつどいとのことである。
それは生きとして生けるものの最後のよりどころであり、あらゆる国々が仰ぎ尊ぶ究極の規範である。
いずれの時代でも、いかなる人でも、この理法を尊重しないということがあろうか。人間には極悪のものはまれである。教えられたれたらば、道理に従うものである。それゆえに、三宝にたよるものでなければ、よこしまな心や行いを何によって正しくすることができようか。
・「十七条憲法」のこの第二条の二つのポイント
⇒一つは、仏教の教えというものは、普遍的な理を述べるものであるという。だからいかなる人でも従うべきであるというこである。
⇒もう一つは、徹底的な悪人はいないという思想で、これは仏教では非常に重要である。そしてまた、東洋思想の一つの特徴である。東洋思想とは、南アジアと東アジアのことである。西アジアになると、だいぶ違ってくる。
⇒西洋では悪人は絶対に救われない。神に背いたものは地獄に落ちてしまう。そこには永遠の罰が待ち受けている。
⇒ところが、東洋には徹底的な悪人に対する憎しみという観念はない。
⇒悪人も悪の報いを受ければ、いつかは救われる。
⇒東洋思想と西洋思想との根本的な相違が、こういうところに表れているのであり、聖徳太子の言葉は非常に意義が深い。
<参考情報>

注)システィーナ礼拝の最後の審判:中央に君臨したイエス・キリストが死者に対して裁きを下しており、向かって左側には天国に昇天する人々が、右側には地獄へ堕ちる人々が描かれている、神に背いた者は地獄へと落ちていく姿が描かれている一方で、悔い改めたことで復活の可能性が生じた人々も存在する。(1994年6月に訪問済み)
注)「笑い閻魔と笑い鬼」:日本庭園「徳明園(高崎市)」でも洞窟観音の観音像と同様「高橋楽山」による石彫作品を沢山見ることができます。その中の云わば“らしい”作品の代表がこの「笑い閻魔と笑い鬼」と言えます。なぜ閻魔と鬼が酒を飲んで笑っているのか??決してふざけて徳蔵と楽山が制作した作品ではないようです。その答えが、閻魔像の反対側に立つ石碑(石文)の中に、徳蔵の言葉として彫り込まれております。
「吉は逆に成りけり 仏笑わず 鬼笑う」
滝見観音を右手に拝観し三途の川を渡り短い洞窟を抜けると「笑い鬼と笑い閻魔」に会うことができます。洞窟を堺に、手前が観音の居られる極楽の世界、洞窟を潜り抜けると閻魔と鬼の地獄の世界が表現されています。仏の世界と閻魔の世界では「めでたさや喜び」は逆となります。
観音信仰に厚かった洞窟観音創設者「山田徳蔵」の戒めの言葉であったと共に、彼の回遊式庭園づくりの一つの趣向だったのでしょう。
人それぞれの解釈があって良い「石文」です。ご来園の際にはぜひこちらをご参拝頂き、ゆっくりと流れる時間の中で、ご自分なりの解釈に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。(2024年3月訪問済み)
出典:https://www.facebook.com/100067682917062/posts/176114090581548/
■普遍的な理法の観点
■聖徳太子およびその下にある一連の官僚群によっては
・仏教は、なんびとも遵守すべきところの普遍的な教説という自覚のもとに摂取され受容された。
⇒仏教のことを「四生(四種類のあらゆる生けるもの」の終帰(よりどころ)、
⇒万国の極宗(おおむね)なり」と評価し、
⇒仏・法・僧(教団のつどい)の三宝のうちでも
⇒とくに法すなわち教法を重要視した。
⇒したがって、「いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん」と説いてる。
⇒聖徳太子によれば、あらゆる生きとして生けるものの「規範」となっているものが「法」であり、
⇒仏というものは実は「法としての身体(法身)であり、それが「理と和合すること」がサンガであるという。
⇒その内実においては、「法」という一つの原理に帰一しているのである。
<参考情報>

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出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)
■仏教の特性
・聖徳太子もソンツェンガンポ王も、ともに仏教を尊崇しそれに帰依したにもかかわらず、民族固有の信仰を禁止したりすることがなかった。
⇒それぞれの土着の信仰として、日本では神道が、チベットではボン教が、今日にまで依然として存続している。
⇒ミャンマーでは精霊の信仰が民衆のあいだではなお行われている。
⇒シナでは仏教と道教とが融合している。
⇒こういう仏教文化圏の動きを考慮すれば、
⇒推古天皇の十五年にいたって「今、朕が世に当たりて、神祇を祭祀(いわ)うこと、豈に怠りあらんや。故(か)れ群臣ともにために心を竭(つく)して、よろしく神祇を拝(うやま)いまつるべし」という詔の発せられた理由も理解することができるであろう。
⇒総じて、古来日本人のあいだでは寛容・宥和の精神が顕著であるが、その成立しうる論理的根拠はいかなるものであろうか。
⇒日本人のあいだには現象界のすべてのものにその絶対的意義を認めようとする思惟方法が働いているが、
⇒それによるならば、人間の現実世界におけるすべての思想にいちおうはその存在意義を認めることになる。
⇒そうすれば、それらすべてに対して寛容・宥和の精神をもって対することになる。
⇒こういう思惟方法は聖徳太子の場合にも明らかに表れている。
⇒太子によれば、仏教の究極の趣旨を説いたと見なされる「法華経(ほけきょう)」は
⇒一大乗教を教えるものであり、「万善同帰」を語るものである。
⇒それゆえ「法華経」の趣旨のことを「万善同帰」道とも称するのである。
注)法華経の「万善同帰」の概念:あらゆる善行が実相に帰結するとされ、悟りに至るために欠かせない善行を実践することを意味する。
法華経は大乗仏教の代表的な経典であり、中国や日本などで広く信仰されており、この経典は28品から成り、前半の迹門では、仏教の教えや実践方法が詳しく説かれ、例えば方便品では、一つの真実へ導くための方法が説かれている。経典の中で「万善同帰」の理念が述べられており、善行を積み重ねて成仏への道を歩むことを意味している。
法華経は、諸経の王とも称され、日本に仏教が伝わった初期に聖徳太子が解説書(法華経義疏(ほっけきょうぎしよ)を書いたことでも知られている。中国の智者大師は法華経によって天台宗を開き、日本の最澄はこれを伝えて天台法華経を創設した。
法華経は「一仏乗」の思想を強調しており、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便として、一仏乗こそが真実であることを明にしている。
注)一仏乗とは:特に大乗仏教で、仏と成ることのできる唯一の教えを指す。この概念では「一」は唯一無二を意味し、「乗」は衆生を乗せて仏果に運ぶ教法を表す。一仏乗(一乗や仏乗とも呼ばれる)は、すべての人が成仏できると説く教法である。
出典:サブタイトル/聖徳太子(地球志向的視点から)~②普遍的国家への建設と十七条憲法~中村元著より転記
<参考情報>
法華経は大きく前半部の「迹門(しゃくもん)」と後半部の「本門」に分かれている。迹門では三乗(声聞・縁覚・菩薩)それぞれの悟りは唯一の一乗に帰着するということを歴史上の釈尊が説いたと説明し、本門では歴史上の釈尊は実は方便であって、真実の釈尊は歴史を超えた永遠の存在のブッダであることを説くというふうに解釈されてきた(1300夜、千夜千冊エディション『仏教の源流』参照)。
<参考情報>
この構成が大きくは前半と後半に巧みに分かれるのである。前半の1~14品までを「迹門」(しゃくもん)、後半の15「従地湧出品」からを「本門」(ほんもん)というのだが、ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。図解をすると次のようになる。

法華経の構成
図で示してあるように、このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」だ。そのほかいろいろ複雑な“幅タグ”がついているけれど、いまはこれらの区分けは無視しておかれたい。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっているということだ。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。ブッダ存在学になる。
こうすることによって、前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは理念的永遠のブッダだというふうになった。そこがまことにうまくできている。これがもし詭弁的構成でないのなら、まさに超並列処理というものだ。
かくて西暦50年ころ、奇しくもキリスト教が確立していった時期にちょうどあたるのだけれど、今日の法華経構成でいう2「方便品」から9「授学無学人記品」までの3分の1くらいが書かれ、いったん流布していったのだ。
しかしこれだけでは、小乗から大乗への転換はまだまだうまくはたせない。折しも時代状況の変化やヒンドゥイズムとブッディズムの確執もあった。そのため西暦100年前後に、さらに10「法師品」から22「嘱累品」と「序品」が加わり(ここに15「従地湧出品』や16「如来寿量品」が入る)、最終的には150年前後あたりで23「薬王菩薩本事品」から28「普賢菩薩勧発品」が添加編集されて、ほぼ今日の構成にできあがった。途中さまざまな書き換えも着替えもあったろう。
ざっとはこういう多様な編集プロセスがあったのだが、これらのなかでの最も重要な転換は、なんといっても「菩薩行」としての大乗思想を提案することだった。これを法華教学では「一仏乗」の思想達成というのだが、ただしその達成がおこるには、思想だけを提案していてもダメなのだ。その担い手の仏法的な意味をあきらかにする必要がある。
こうしてここに登場したのが「地湧の菩薩」だったのである。総称して菩薩群、あるいは菩薩団。その一般化。
これよって声聞・縁覚の小乗的ブッディズム理解を「一仏乗」に向かって一挙に止揚することにした。大乗仏教以前と大乗仏教以降は、まさに菩薩行の関係的介在によってなんとかつながりそうになる。
しかしながら、それだけではまだ不具合もおこる。副作用がおこる。たとえば、なぜブッダが教えを説いたときからそのような菩薩たちは登場していないのか。なぜ声聞や縁覚は出遅れたのか(つまり自己発見プログラムの開発ばかりに向かったのか)。どうしたら自分の自覚と他者の救済を同時にできるのか。それらについての説明はできてない。なにより、このままでは経典中でのブッダの教えが小乗時代の説法と大乗時代の説法とで変節しているように見える。実際に変節しているのだとしても、その理由を説明できない。
では、どうするか。ここにおいて「ブッダの方便」という格別の編集術が披露されるのだ。あるいは「法華の七喩」(法華経には有名な7つの譬喩が用いられている)といわれる数々のメタファーが駆使されたのである。ここからが法華経編集独特のアブダクションになっていく。
空より花降り地は動き 仏の光は世を照らし
弥勒文殊は問ひ答へ 法華を説くとぞ予(かね)て知る
よく知られているように、法華経にはいろいろのレトリックがある。メタファーがある。それを総じて「方便」という。現在の日本人には方便は「嘘も方便」というようにあまりいい言葉と映っていないようだけれど、ぼくはそれを編集思想のたいへんよくできたラディカルきわまりない概念工事だと思っている。
方便のない思想なんてありえない。アナロジーのない編集はなく、メタファーのない表現はない。法華経は早くもそこを存分に活用した。なかでも方便活用の最大の編集思想の妙は、ブッダの歴史性と永遠性とをどのように関係づけて説明するかというところにあらわれた。
ブッダの教えが永遠なものだと伝えるために、人手をつかい時間を費やして法華経が書かれたのは当然である。しかし、その生身(なまみ)のブッダ自身には永遠性はない。ブッダは80歳で死んだのだ。だからこそ信徒もふえたのである。一方、壮年期にたどりついたブッダの悟りはまさしく成仏・成道であるのだから(これを疑ったら何も始まらない)、そこには「仏としての永遠」もあるはずである。
では、この、いささか接ぎ木のようになっている二つのことを、うまくつなげて説明するにはどうするか。そこで、ブッダが菩提樹のもとで成仏したというのは方便であって、ほんとうのことをいえばブッダはずっと昔の久遠のときに成仏していたのだというふうに、法華経は後半部に進むにしたがって説き方を変えるようにしたわけだ。
衆生(しゅじょう)を救済するために、私(=ブッダ)はいったん涅槃に入る姿を示すけれど、実は実態としての涅槃に入るのではありません。それが証拠に、この法華経をいま説いているリアルワールドの霊鷲山(りょうじゅせん)にあって(法華経の序品はこの霊鷲山でブッダが説法をしている場面に始まっている)、ほれ、ブッダはいまもなおこのように説教しつづけているのですよ、というふうにした。

霊鷲山上の法会
(「法華経曼荼羅」第一軸部分)
これは驚くべき解釈視点の転換だ。いわば“意図のカーソル”とでもいうものを大きく動かした。法華経はその文脈が進むにつれて、説得のコンテンツが相転移をおこすようになったのだ。それを法華経は、15「従地湧出品」に続く16「如来寿量品」のところで説明してみせるのである。しかも、その方便活用のメソドロジカルな下地は、2「方便品」や3「譬喩品」でちゃんと用意されていた。かくしてここに、「久遠仏」としてのブッダの存在学が確立していくことになる。
三身仏性 珠(たま)はあれど 生死(しょうじ)の塵にぞ汚れたる
六根清浄(ろっこんしょうじょう)得てのちぞ ほのかに光は照しける
いささか教学的な用語をつかうけれど、歴史上のブッダは生身(しょうじん)という。これに対して永遠のブッダは「法身」(ほっしん)である。しかし、ブッダは生存中に成仏・成道し、偉大な智慧を獲得した者でもあったのだから、その、至高の智慧となったブッダという覚醒の内容は生身でも法身でもない。これを「報身」という。
他方、生身でなくなったブッダとは何者か。たしかに死んで涅槃に入ったようだった。けれどもそれはまた、たんなる死ではないはずだ。悟ったまま涅槃に入ったからである。そこで、そのブッダを「応身」というふうにする。
そうすると、ブッダは法身・報身・応身の三身にわたって過去・現在・未来をまたぐ時空を変化していたということになり、そのように変化するためには、もともとそのような変化を見せる永遠性がすでにどこかで準備されていたということになる。そう、法華経は編集的相転移を進めていったのだ。それで、どうなったのか。久遠仏としてのブッダという、フィクショナルではあるけれど、しかしとんでもないアクチュアリティをともなって巨変しつづけるブッダ像がつくられた。
もっとも、こんなアクロバティックな説明はすぐには納得できないだろうとも予想された。実際にも、この説明を聞いていた者たちはなんとなく疑問をもった。いや、法華経のテキストはそういうふうに、法華経を読む者たちが疑問をもつ場面があるだろうことも先取りをする。
想定される疑問は、こうだ。釈尊が菩提樹のもとで悟りを開いてから教えを広めて、そこから数えて40年程度にしかならないのに、どうして久遠の昔から教えを説けるということになるのでしょうか。
そこで当のブッダがいよいよその意味を証していくというのが、法華経の後段になったわけである。「従地湧出品(じゅう・じゆしゅつほん)」とそれに続く「如来寿量品」は、そのブッダ存在学の核心部にあてられる。かくて法華経はみごとに前半部と後半部を並列処理できるように構成されて、いよいよ大乗仏典の「万善同帰教」として君臨することになったのである。
法華経八巻は一部なり 拡げて見ればあな尊(とうと) 文字ごとに
序品第一より 受学無学(じゅがくむがく)作礼而去(さらいにこ)読む人聴く人皆(みな)仏(ほとけ)
法華経は28品で構成されている。品は「ほん」と読む。ただし28品であることにはそれほどの意味がない。あれこれ書き換えや着替えをして入念に仕上げてみたらこうなったというものだ。
ぼくはこの絶妙を知ったときには、心底、感嘆した。キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと、どうにも釈然としないところがのこるのだが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それをはるかに勝るものがある。なにより、語り手のブッダが聞き手の菩薩たちにこのことを自身で説いているというドラマトゥルギーとしての根性がいい。
いったい誰がこういう文巻テキスト編集作業ができたのか。もはやその当初の着手者の名はのこらないけれど、おそらくは当初の文巻というものが下敷きになって、そこに多くの“加上”と“充填”が加わっていったにちがいない。
仏は霊山浄土にて 浄土も変へず身も変へず
始めも遠く終はりなし されども皆これ法華なり
こうして、菩薩行の本来とブッダの永遠の性格を説明する後半は「本門」に集中させることができ、それにあたって使われる方便は前半部の「迹門」でも存分にアイドリングしておけるようになったわけである。
その前半のアイドリングを示す恰好なところはいくつもあるのだが、そのひとつ、ふたつを示しておきたい。
4「信解品」に、仏弟子たちが“あること”を告白している注目すべき一節がある。仏弟子たちが、私たちは世尊が説いた教理をすべて「空・無相・無願」というふうにあらわしてきたが、私たちは耄碌したのかもしれない。そう言っている一節だ。

四人の仏弟子がブッダを前に懺悔し、礼拝する図
(「法華経曼荼羅」第四軸 信解品)
この仏弟子たちというのは小乗の教徒たちである。「空・無相・無願」というのは、悟りにいたる三つの門のことを、すなわち「三解脱門」をさす。三つの門はのちに寺院の「三門」(山門)に擬せられたものでもあるが、無限定・無形相・無作為にいたることをいう。ところが、これを小乗教徒たちがどうやら虚無的に理解したらしい。だから耄碌したのかもしれないなどと自分たちのことをニヒルに語った(法華経の編者がわざとそう語らせた)。“あること”の告白とはこのことだ。
そこでブッダは有名な「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもって、窮子たる小乗的ニヒリズムの徒たちの迷妄を解き、大乗の可能性をひらく。この一節は、そのような小乗から大乗へのメタファーによる転換を示している。
つまり法華経の編者たちは、ブッダの教えが声聞・縁覚にとどまる小乗教徒(部派仏教徒)によって曲解されていることをもって、これを新たな展開の契機にもっていきたかったのである。ただしその説明はすこぶるメタフォリカルだった。そのことが4「信解品」の書きっぷりに浸み出したのだ。

屋敷で働く窮子(貧しい子)に、長者が全財産を贈与するという喩話
またたとえば、2「方便品」には、舎利弗が3回にわたってブッダに説法を願う場面がある。それに応じてブッダは説法を始めようとするのだが(三止三請)、そのときちょっと意外な場面になっていく。5000人の出家者・在家者がその場から一斉に立ち去ってしまったのだ。これから始まる法華経的説法を聞こうとしない。いったい「5000人の退席」(五千起去)とは何なのか。最高のブッダにおいて、どうしてそんなことがおこるのか。
大乗仏教の真髄に向かえそうもない連中の、その増上慢をあらかじめ戒めたというのがフツーの解釈だ。しかしもう少し深読みすると、法華経を侮ってはいけない、わかったつもりで聞くのなら、文脈から去りなさい。編者たちはそう言っておきたかったのだ。それにしてもわざわざ5000人もの退席を見せておくというのは、なんとも大胆な演出だった。

真理は語ることができないとして
説法を拒否したブッダ
法華経にはこういうふうに、「引き算」から入る文脈が少なくない。そのうえで「足し算」をする。引けばどうなるかというと、アタマの中に空席ができる。そこへ新たなイメージの束を入れるのだ。そういうことを随所で巧みにやっている。イメージの束だから、ついついメタフォリカルになるけれども、それを怠らない。これは法華経に一貫した際立つ特徴なのである。
それゆえ、ここは肝腎なところになるのだが、完成した法華経を読みこんでみると、方便や比喩はたんなるレトリックではなかったことがしだいにわかってくる。方便やレトリックによって聞き手に空席や空隙をつくり、そこに新しい文脈の余地を立ち上げること、それこそが法華経にひそむ根底の“方法の思想”だとも言えたのである。
だからこそ法華経は前半部でこそ声聞や縁覚の「二乗作仏」(にじょうさぶつ)を説くのだが、後半部では「久遠実成」(くおんじつじょう)を説いて、これをメビウスの輪のごとくに統合してみせられたのだ。
法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。そのきっかけが、これまで述べてきた大勢の「地湧の菩薩」たちの出現だった。
つまりこの「一品二半」の蝶番には、前半の「二乗作仏」の説明を後半の「菩薩行」の勧めに切り替えるデバイスがひそんでいたわけである。そのため、ここで自力と他力が重なっていく。現実的な迹仏(しゃくぶつ)と理想的な本仏(ほんぶつ)が重なっていく。その重なりをおこす蝶番が、ここに姿をあらわすわけなのである。地涌の菩薩はそのためのバウンダリー・コンディション(境界条件)だったのだ。
この蝶番の機能のことを法華経学では「開近顕遠」(かいこんけんのん)、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)、「開権顕実」(かいこんけんじつ)などという。近くを開いて遠きを顕わし、形になった迹仏から見えない本仏を見通し、方便とおぼしい例の教えから真実の教えを導く、ということだ。
ともかくもこのように、法華経はなんとも用意周到に編集構成されていた経典だったのである。やっぱりハイパーテキストだったのだ。なぜそうなったかといえば、理由は明白だ。そもそも大乗仏教のムーブメントは西暦前後に萌芽したものだけれど、法華経はまさにそのムーブメントの渦中においてそのコンストラクションを編集的に体現したからだった。
それをあらためて思想的に一言でいえば、次のようになろう。ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と
我が身ひとつは界(さか)ひつつ 十方界には形(かたち)分け
衆生(しゅじょう)あまねく導きて 浄光国には帰りたし
ふりかえってみると、そもそもブッダはバラモンの哲学や修行の批判から出発した。宇宙の最上原理であるブラフマン(梵)と内在原理であるアートマン(我)への帰入を解いたバラモンから、自身のありのままをもって世界を見ることによって離脱することを考えた。道は険しかったけれど、ブッダはついに覚悟してバラモン社会から離れていった。
覚悟したブッダが気がついたことは、世界を「一切皆苦」とみなすことだった。それによって、人間が覚醒に向かってめざすべきものは「諸行無常」の実感であって、「諸法無我」の確認であり、そのうえでの「涅槃寂静」という境地になることだろうと予想した。
これはむろんたやすいことではない。ブッダはみごとに悟りをひらいたけれど、その精神と方法がそのまま継承できるとはかぎらない。継承者がいなくて縮退することは少なくない。そういう宗教なんて歴史上にはゴマンとあった。そこで、ブッダが説いた方法をもっと深く検討し、どのように継承すればいいかということが議論され、そうとうに深く研究されてきた。その方法が「縁起」によって相互の現象を関係させつつも、それらを次々に空じていくという「空」の方法だったのである。
「空」や「縁起」がどういう意味をもっているかは、ここに話しだすとさすがにキリがないので、846夜にとりあげた立川武蔵『空の思想史』などを見てもらうこととして、しかし、ここでブッダ継承者たちのあいだで予想外の難問が生じてしまった。「空」と「縁起」を感じるにあたって、当時の多くの信仰者たちは自分の覚醒ばかりにそれをあてはめていったのだ。
それはあとからみれば、それこそが声聞・縁覚の二乗の限界だった。しかしこれを切り捨てることなく、二乗作仏の試みをして、さらに菩薩行をもってその流れに投じさせるには、ひとまずは声聞・縁覚に菩薩を加えた三乗のスキームによって、これを大乗に乗せていかなくてはならない。当初の大乗ムーブメントは、その難関にさしかかったのである。その「2+1」を進めるには、どうすればいいのか。三乗を方便としつつ、これを一乗化していく文脈こそが必要とされたのだ。
これを法華教学では「三乗方便・一乗真実」の教判という。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗もろとも、一仏乗にしていこうというスキームだ。「2+1=10」という方法だ。
さてさて、ところで、こういう言い方をするのは、なんとなく気がついただろうけれど、インド的な見方というより、実は中国仏教が得意とするハイパーロジカルな表現力なのである。実はこれまで述べてきた迹門と本門という分け方も、中国法華学によっている。天台智顗の命名だった。中国仏教はこういう議論が大好きなだったのである。ついでにその話をしておきたい。
古童子(いにしえどうじ)の戯れに 砂(いさご)を塔となしけるも
仏と成ると説く経を 皆人(みなひと) 持(たも)ちて縁結べ
法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本ののち、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に届いた。ここで法華経が漢訳されると、これには中国的解釈が徹底して加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していった。

宋版『妙法蓮華経』
さて、この鳩摩羅什の法華経が一挙に広まると、その弟子の道生(どうしょう)はさっそく注釈書をあらわし、それを法雲がうけつぎ、さらに随の天台智顗が徹底的に分析を始めた。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』などが著述され(これを天台三大部という)、漢訳法華経にひそむ迹門・本門の構造がこのとき発見されたのだ。智顗はそのうえ、かなりハイパーロジカルな思索をもって、法華経こそが大乗仏教最高の経典であるとのお墨付きをつけた。
こうして中国法華経学が起爆した。ちなみにぼくは工作舎で「遊」を編集しているあいだじゅうずっと、親しいスタッフには『摩訶止観』を読むように勧めつづけたものだった。
出典:サブタイトル/日本仏教入門 末木文美士~松岡正剛の千夜千冊より転記~