■縁起を見ることで凡夫から覚者へ
・この「縁起を見ること」ということは種々に説明されている。
⇒それはとりも直さず空を体得することであるとか(『大乗縁生論』、大正蔵、三二巻、482ページ)、諸法実相に入ることであるとかいわれる(『プラサンナバダー』559ページ、そのほか)、
⇒そうして縁起で見るならば一切の戯論(けろん)が滅するとも説かれている(同書11ページ)。
⇒またすでに原始仏教聖典のうちに、「縁起を見るならば前際中際後際(過去・現在・未来)に関して愚感に陥ることなし」(『維阿含経』一二巻、『俱舎論』九巻、一二枚以下など)と説かれているが、
⇒『中論』はこれを受けて第二七章(誤った見解の考察)において詳しく説明している。
⇒これらの諸説明は異なった点に着目しているけれども結局同一趣旨のものであろう。
・要するに縁起説の意味する実践とは、
⇒われわれの現実生存の如実相である縁起を見ることによって
⇒迷っている凡夫が転じて覚者となるというのである。
⇒故に、何人であろうとも縁起を正しく覚る人は必ず等正覚者(ブッダ)となるであろうという趣意のもとに、
⇒無上等正覚者を成ぜんがためにこの縁起説が説かれたのであると説かれている(『稲幹経』)。
⇒したがって大乗の『大般涅槃経』(南本、二五巻、三〇巻)においては、ついに、十二因縁は仏性であると説かれるに至った。
⇒さらに等正覚者(ブッダ)を成ずることがニルヴァーナであるから、
⇒縁起を見ることがただちにニルヴァーナに入ることである。
⇒したがってブッダバーリタは縁起の教えを「一切の戯論(けろん)を滅したニルヴァーナの都に至る正しくめでたい道」と説明している(ブッダバーリタ註、2ページ)。
■縁起の如実相を見る智慧
・この縁起の如実相を見る智慧が<明らかな智慧>(Prajñā 般若)である(『さとりの行いへの入門』パンジカー、344ページ)。
⇒『大智度論』においては、諸法実相を知る智慧が般若波羅蜜であると説明されている(一八巻、大正蔵、二五巻、109ページ上)、
⇒結局縁起を見る智慧を意味していることに変わりはない。
⇒したがってチャンドラキールティは自著『入中観論』のなかで、「相依性の真意を見る人は、般若に住するが故に滅を得る」といい、
⇒あるいは「甚深なる縁起の真性を見る菩薩は般若波羅蜜清浄によって滅を得る」ともいう。
・般若波羅蜜に関しては古来種々に説明されているけれども、
⇒要するに諸法が互いに相依って起こっているという縁起の如実相を見る(さとる)ところの智慧であるといってさしつかえないであろう。
⇒このように解することによって、『中論』のもとの詩句の中には一度も「般若」という語が現われていないにもかかわらず、
⇒縁起を説く『中論』の詳しい名称に「般若」(Prajñā)という語が含まれているゆえんもおのずから明らかであろう。
■無明の断滅と縁起の逆観
・この般若によって縁起を見るならば、無明が断ぜられる。
⇒「この縁起の如実無顚倒なる修習(じゅうじゅう)の故に無明(無知)は断ぜられる」(『プラサンナバダー』559ページ)とチャンドラキールティはいう。
⇒諸法実相を見るならば無明が断ぜられるともいうが(同書559ページ)これも同じ意味である。
・無明が断ぜられるためには、
⇒無明は実有であることはできない。
⇒もしも実有であるならば、それを断ずるということは不可能である。
⇒ナーガールジュナは『中論』の第二三章(顚倒した見解の考察)において、
⇒誤った見解(顚倒)なるものが一般に成立しないことを主張している。
⇒さらに『大智度論』においては一層積極的にこのことを説明している。
⇒すなわち十二因縁を説いた後で、「また次に菩薩が無明の体(本質)を求むるに、即時に是れは明らかなり。
⇒いわゆる諸法実相を、名づけた実際(究極の根拠)と為す(九〇巻、大正蔵、二五巻、697ページ上)という。
⇒すなわち、「無明」をそのものは「明」に基礎づけられている。
・無明とは「諸法実相を解しないこと」(『さとりの行いへの入門』パンジカー、352ページ)である。
⇒無明を断ずるというのは、人間存在の根源への復帰を意味する。
⇒したがって無明を断ずることが可能なのである。
⇒ここにおいて縁起の逆観が基礎づけられていることを知る。
無明が滅するが故に十二因縁の各項がことごとく滅しうることなる。
⇒『中論』の第二三章(顚倒した見解の考察)においては誤った見解(顚倒)を論破した後で、
⇒「このように顚倒が滅するが故に、無明が滅する。無明が滅したときに形成力(行)なども滅する」(第二三詩)といい、
⇒第二六章においても、
⇒「無明が滅したときもろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない。
⇒しかるに無明の滅することは、知によってかの(十二因縁)修習(連続的念想)からくる」(第一一詩)
⇒「〔十二因縁のもろもろの項目のうちで〕
⇒それぞれの(前の)ものの滅することによって、
⇒それぞれの(後の)ものが生じない。
⇒このようにして、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する」(第一二詩)という。
⇒したがって『中論』は縁起の逆観を成立せしめていることがわかる。
■最初期の仏教の正統な発展
・そこで問題が起こる。
⇒縁起を見ることによって無明が滅することは了解しやすいが、
⇒何故に、無明が滅することによって十二因縁の各項がことごとく滅することになるのであろうか。
⇒ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。
⇒しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。
⇒この矛盾をナーガールジュナはどのように解していたのであろうか。
⇒『中論』にはこの解答は与えられていない。
⇒しかしながら、われわれが自然的存在の領域と法の領域を区別するならば、
⇒縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。
⇒自然的存在の領域は必然性によって動いているから、
⇒覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。
⇒ブッダも飢渇もまぬがれず、老死をまぬがれなかった。
⇒ブッダも風邪をひたことがある。
⇒しかしながら法の領域においては
⇒諸法は相関関係において成立しているものであり、
⇒その統一関係が縁起とよばれる。
⇒その統一関係を体得するならば
⇒無明に覆われていた諸事象が全然別ものとして現れる。
・したがって覚者の立場から見た諸事象は、
⇒凡夫の立場に映じている諸事象のすがたの否定である。
⇒したがって自然的存在としての覚者には
⇒何らの変化が起こらなかったとしても、
⇒十二因縁の各項がことごとく滅するという表現が可能であったのであろう。
・この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観は
⇒すでに最初期の仏教において説かれている。
⇒ナーガールジュナはこれを受けて、
⇒その可能であることを非常な努力をもって論証したのであるから、
⇒この点においてナーガールジュナの仏教は、
⇒意外なことには、
⇒或る意味で最初期の仏教の正統な発展であると解してもさしつかえないであろう。
出典:サブタイトル/NN2-8-3.『中論』:『否定の論理の実践』~縁起を見る~
<参考情報>
■原始仏教経典一般ならび小乗の十二因縁の説
⇒『中論』においては二種の縁起説が説明されている。
⇒すなわち第一章から第二五章までに出てくる縁起は
⇒全く論理的な「相依性のみの意味なる縁起」であり、
⇒第二六章において初めて小乗のいわゆる「十二因縁」を説明している。
・この第二六章の説明は全く十二支を
⇒時間的生起の前後関係を示すものとみなしている。
⇒今その時間的生起関係を示す語に傍点を附してみる。
1)無明(むみょう / avidya) – 無知(真理に対する無理解)
⇒「無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)をみずから為し、その業によって迷いの領域(趣)に行く」
2) 行(ぎょう / samskara) -潜在的形成力( 意志、行動の形成力)
⇒「潜在的形成力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る。そうして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する(第二詩)。
3) 識(しき / vijnana) – 識別作用(意識)
4)名色(みょうしき / namarupa) – 身心(心と物質:精神と肉体)
5)六処(ろくしょ / ṣaḍāyatana) – 心作用の成立する六つの場(六つの感覚機能:眼、耳、鼻、舌、身、意)
⇒名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。
6) 触(そく / sparśa) – 感覚器官と対象との接触
⇒六入が生じてのち、感官と対象との接触(触)が生ずる」(第三詩)。
「眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意:さい)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる」(第四詩)
7) 受(じゅ / vedana) – 感受作用(感覚)
⇒「色と識と眼との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生ずる」(第五詩)
8)愛(あい / tṛṣṇā) – 盲目的衝動(渇愛、欲望)
⇒「受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するとき四種の執着(取)を取る」(第六詩)
9)取(しゅ / upādāna) – 執着(取り込む)
⇒「取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである」(第七詩)
10)有(う / bhava) -生存( 存在、存在状態)
⇒その生存はすなわち五つの構成要素(五陰:ごおん)である。生存から<生>が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望ーこれらは<生>から生ずる。このようにして、このたん〔に妄想のみ〕なる苦しみのあつまり〔苦陰:くおん〕が生ずるのである」(第八詩・第九詩)
11)生(しょう / jāti) – 生まれること
12)老死(ろうし / jāramaraaṇa) – 無常なすがた(老化と死)
・このように全く時間的生起の関係に解釈され、
⇒チャンドラキールティの註釈においては一つの項から次の項が生ずることを説明するために、
⇒いつも「それよりも後に」という説明が付加されている。
⇒またナーガールジュナは他の書おいて十二因縁を三世両重の因果によって説明しているし、
⇒中観派は極めて後世に至るまで三世両重の因果による説明に言及している。
・しかしながらナーガールジュナが真に主張しようとした(第二五章まで)縁起が
⇒十二有支(うし)でないことは明らかである。第三章八詩に、
⇒「<見られるもの>と<見るはたらき>とが存在しないから、識(3:識別作用)などの四つは存在しない。
⇒故に収(9:執着)などは一体どうして存在するのであろうか」というが、
⇒各註釈についてみると「識などの四つ」とは識と触と受と愛とを指し、
⇒さらにピンガラの註釈には「見と可見との法が無き故に、
⇒識と触と受と愛という四法は皆な無し。愛等が無きを以ての故に、四取等の十二縁分もまた無し」と説明しているから、
⇒『中論』の主張する縁起が十二有支の意味ではなくて、相依性の意味であることは疑いない。
⇒さらに注目すべきことには『無畏論』においては第二六章は十二有支を観ずるの章とあり、またチャンドラキールティの註釈においては第二六章のなかに、「縁起」(またはそれに相当する語、例えば衆因縁生法)という語が一度も使用されていない。
⇒故に最も古いこの二つの註釈においては、ただ縁起とのみいう場合には常に相依性を意味していて、十二有支の意味を含んでいなかったといいうる。
出典:サブタイトル/NN1-3.『中道』と『縁起』(Ⅱ)~『中論』は諸行無常を『縁起』によって基礎づけている~(龍樹:中村元著より転記)
<参考情報>
ナーガールジュナの縁起観である。先に引用した第15 章冒頭の「因と縁によって生じる」「[あるものが]他に関係する」「[あるものが何かによって]作られる」というのもナーガールジュナがいう「縁起」の関係と理解されよう。
同様に、第8 章「行為者と行為の考察」にみる、「行為者は行為に縁(よ)り、行為もまたその行為者に縁って生じる。われわれは、それ以外の[行為者と行為の]成立の根拠を見ない。」「行為者と行為とによって、残りの[原因と結果、火と燃料、性質と性質主体、特徴と特徴づけられるもの等の]関係も認識しなければならない。」9 という言明もまた、相互に縁(よ)って成立する諸事物の関係を、広く縁起関係として捉えるナーガールジュナの縁起観をもの語っている。
「『存在する』というのは常住への執着、『存在しない』というのは断滅の見解。それゆえ賢者は存在するということと存在しないということに依存すべきでない。」(15.10)
「固有の本質をもって存在するものは非存在ではない、といっては常住[への執着]が、前にはあったが今は存在しない、といっては断滅[の見解]が付随することになる。」(15.11)19
ナーガールジュナが「固有の本質をもって存在するものは非存在ではないといっては常住[への執着]が[付随する]」というのはこのような意味である。
一方また、非存在についてナーガールジュナは、「前にはあったが今は存在しないといっては断滅[の見解]が付随する」と語る。つまり、以前にはあり続けていたが、今は存在しない、というような見方が断見であるという。非存在は存在を前提にしてはじめて成立するというのがナーガールジュナの理解で、『中論偈』の同じ章のなかで、
「もしも存在が不成立であるなら、非存在は成立しない。人々は存在が変異したものを非存在と言うのであるから。」(15.5)20
このように、ナーガールジュナにとっても、中道の意味するところは基本的に非有非無であり、それはまた不常不断に連動するという。このばあい、ナーガールジュナ自身による規定で重要なのは、存在(有)や常住の見解(常見)のいずれも固有の本質(自性)の観念に根ざしていると意味づける点である。
以上のような趣意で、ナーガールジュナは「それ(空[=縁起])こそが中道である。」という。したがって、先のような「固有の本質は作られたものでなく、他に関係することがない」という固有の本質(自性)の定義を介して、空は縁起と指し示すところを同じくし、そのような空はまた、ものが固有の本質をもってあり続けることはなく(非有)、それゆえまた、存在(有)を前提にして成り立つ、存在(有)の変異と意味づけられる非存在(無)でもないということ(非無)、ーこのことを含意するという。
つまり、先にも論及したように、「依っての表示(仮名)」は縁起と補完しあう原理で、
縁(よ)って生じる主語と縁(よ)られる原因(質料因等)とに対して仮に名称を付与することをさす。
とくにナーガールジュナにとっては「空」もまた、概念化(戯論prapañca)をしずめ、すべての[概念的]見解を捨て去り、これによって煩悩の根源を断つために「空」と説かれたということ、この点はきわめて重要な意味をもつ。
煩悩の根源に概念化があり、それは空において断たれるということについては、
ナーガールジュナが、
「行為と煩悩が尽きることによって解脱がある。行為と煩悩は分析的思考(vikalpa 分別)による。それら[の分析的思考]は概念化(戯論)にもとづく。しかし、概念化は空において滅する。」(18.5)23
「空」をふくむすべてを概念化の網、概念的な見解から解放することに「空」を説くことの目的があるという。
もちろん、先にふれたように、概念化こそを煩悩の根源とみるナーガールジュナにとっては解脱、つまり苦悩からの完全な解放の鍵は、日常的なことばの習慣にしたがった適切な教説によって、この概念化からの解放をめざすところに狙いがある。このことは、『中論偈』の以下の詩頌からもうかがえよう。
「もろもろの勝利者(=ブッダ)は、空とはすべての[概念的]見解を捨て去ることであると説かれた。これに対して、空見をもつ人々は不治であると述べられた。」(13.8)25
「すべての[概念的]見解を断つために、哀愍に依って正法を説かれたガウタマ(=ブッダ)に、私は敬意を表します。」(27.30)26
このように、縁起と意味が重なるとされる空は、すべての概念的見解を断つために、ひいては煩悩からの完全な解放のために「空」という表示(仮名)をもって説かれるとナーガールジュナはいう。
その意味でも、「依っての表示」という原理をここに置くのも、「空」がブッダ自らの哀愍に
「依っての表示」として説かれたということを強調する意図からであったと理解されよう。
このような文脈から当該偈は、空は縁起と同義、すなわち縁起と指し示す対象が同一であり27、それゆえまた存在と非存在をはなれた中道とも重なるということ、そのような道理を初期の般若経典は「空」と表示(仮名)したという。
そのような「空」の表示はまた、
煩悩からの解放を目的とし、固有の本質(自性)の観念と表裏になった概念化(戯論)、あるいは概念的諸見解を断つためであるというのが『中論偈』の著者であるナーガールジュナの意図することころであった。
したがって、当該偈は、われわれが「空」と呼ぶ教説は、伝統的に縁起として受け入れられてきた道理と同体異名なのであり、それゆえ、それ(縁起である空)は、依っての表示(仮名)として「空」と表現され、存在(有)と非存在(無)への固執から解放された中道として理解されるべきであることを示す28。
このように理解するとき、第24 章が「縁起を見る者は、この苦・集・滅・道[という四種の聖なる真理]を見る。」という一文を結論として置く理由もうなずけるであろう。
ブッダと等質の縁起ーイコール空としてのー理解があってはじめて四聖諦が理解されうるという趣旨といえよう。
そこにはまた、第24 章の文脈が語るように、有部アビダルマに代表される、精神的・物質的な諸要
素(法dharma)は固有の本質をもって存在するというような伝統的な法(ダルマ)解釈への厳しい批判が込められていると考えられる。
ブッダの本来的な意図を甦らせたいというナーガールジュナの強い意思を感じることもできよう29。
出典:サブタイトル/Nāgārjuna における空と縁起/斎藤明著より転記~『中論偈』第24 章・第18 偈の解釈をめぐって~
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