空海と永遠の仏法~はじめに-空(くう)の論理:北尾克三郎/空海論遊より転記~

■はじめに-空(くう)の論理

 紀元前5世紀頃、人生における生老病死の苦を克服しようと出家したインドのガウタマ・シッダールタ(釈尊)は、肉体を痛めつけることによって精神力を鍛える修行を試みた。

 だが、肉体が弱ると精神までもが萎え、納得のいく結果は得られなかった。そこで、その苦行を中止し、川に入って体を清め、村娘が差し出した牛乳粥を食し、体力を回復させることにした。

 そうして体調を整えた後に、菩提樹の下に座り、長い瞑想に入った。
 まず、息の出入りを数えることに意識を集中させたシッダールタは、そのことによって瞑想中に起きる雑念を封じた。

 次に体内を流れる気(プラナ:生命エネルギー)をイメージすることによって、それを制御することを覚えた。

 そのことによって身体の各部位がエネルギーを得て活性化することを知った。

 そうして、長い間、瞑想に耽った後にシッダールタは過去・現在・未来の時空と自他を超える事象を自在に捉える意識に目覚めた。

 その目覚めこそがさとりであった。

 シッダールタはそのようにしてさとりを得た後、改めて静かに坐り直し、今度は思索した

 そこで、人に苦をもたらしているのが煩悩であると気づき、それが「十二因縁によって起きその煩悩は縁起の法」「縁滅の法によって消し去ることができるとの論理を得た

 どのようなことかと言うと、物事すべてが相対的に展開していて、結果は原因によって生じるのだから、その原因がもし無かったとしたら、結果も生じていなかったことになる

 シッダールタはこの因果論を法として用い、人を苦しめている煩悩の本質を解き明かし、その煩悩苦から人びとを解放する説法を始める

 それがブッダ(目覚めた人)の説く教え、仏教となった

 それから後の紀元2、3世紀頃、

 この因果論にインドの思想家ナーガールジュナ(龍樹)が様々な存在状況を当てはめて考察し、存在は「生起しないし消滅しない」「断絶しないし常住しない」「同一でなく異なりもせず」「去ることはなく来ることもない」という「八不(はっぷ)」の説を立てた

 存在には固定した実体がないということを論証したのだ

 そうなると存在を証明する相対的な存在はないことになり、有りとする苦の存在状況そのものが成立していないのだから、その苦の原因も成立しない

 「有ることも無いこともない」

 その中間に人が立っている

 それが大乗仏教の説く「空(くう)の論理」の論拠となった

 そのナーガールジュナの唱える論理を踏まえて

・空海は自著『十住心論』第七住心「覚心不生心(かくしんふしょうしん)」の章の冒頭において、次のような世界観を綴っている

 「何と宇宙はひろびろとして静かなのだろう
 そこに潜むエネルギーが万象を充たし
 (地球という星の)深く澄みとおる大海では
 水の元素が限りない物質を孕(はら)む

 その潜むエネルギーと水の元素の存在によって人は知ることができる
 元素がすべての母であり
 空(くう)が存在現象の根本であると


 なぜ、空なのかすべての存在現象は常に移り変わり

 固有の実体を持つことなく

 それぞれが瞬間毎に

 あるがままの形相を成しているものに過ぎないからだ

 その存在を絶空(絶対の空)と呼ぶ
 絶空はナーガールジュナの中論による相対的な存在とならない存在であり
 だからと言って、存在しない存在ではない

 すべての存在は実体を持たないから
 現象が起きてもすべてはそのままに空であると言うのだ

 そのように空なることが存在の本質であるから

 現象する形相に固定した実体がなくても

 そのようなものがそのままに存在する

 だから存在のすべては空であり、空なるものが存在する(色即是空、空即是色)
 現象して来るすべての存在がそうである」と。

 以上の記述によって、空海の示す空(くう)は大乗仏教の唱える観念的な空とは異なり実在する空間と物質を捉えた上での空であると理解できよう

 まず初めの数行において、空間と物質の存在が物理学的視点と生物学的視点とによって一気に捉えられており、次にそれらの存在はナーガールジュナの相対の論理によってその固有性を否定されるものであると述べる

 そのような空なるものがあるがままに存在しているということが空論の本質なのだ。

 しかし、ナーガールジュナの説いた空の論理は大乗仏教の中観派によって曲解されてしまった

 「存在そのものが存在しない」と

※中観派(ちゅうがんは):ナーガールジュナ(龍樹)を祖とする学派

<参考情報>

第七住心(覚心不生心)ー三論宗・中観思想の立場(顕教

・さとった心の立場から見ると、

何ものも新たに生ずるということは無い

⇒心も対象も不生、すなわち空あると観ずる段階。

⇒三論宗がこれに相当する。

⇒つまり前の段階である唯識説では、心の対象は空であるが、認識作用の主体である心は実在すると考えていたのに、

この段階では心も空であると考えるのである

⇒「覚心」という語についての説明は序文には出ていない。

⇒しかし空海は「大日経」の住心品(大正蔵。18巻3ページ中)の文章を引用しているので、その文句と符合するから、

「さとりを開いた心」または「本来さとっている心」の意に解する

注)三論宗:大乗仏教宗派の一つで、インドの中観派の龍樹の著作「中論」「十二門論」、及びその弟子である提婆(だいば)の著作「百論」を組み合わせて「三論」としている。この宗派は空を唱えることから「空宗」とも呼ばれ、無相宗、中観宗、無相宗大乗宗とも言われている。日本仏教においては、何都六宗の一つとされている。

以上はインドで成立した思想体系であるが、

シナにおいてはさらに、上記のものを凌駕する思想体系が成立した

出典:サブタイトル/空海『十住心論』の思想~空海につづけ!#03(種智院大学オンライ講座より転記~

■中観派(ちゅうがんは)と密教の間

 さて、空海『十住心論』第七住心の絶空を土台にしてその上に空海密教がある

 しかし、空海はいきなり第十住心の密教へと行かずに、

その間に第八住心の法華一乗「あるがままの存在」と

第九住心のあるがままに存在している世界の構造「蓮華蔵(れんげぞう)」の教えを挿入している

 つまり、第七住心で立証された固有の実体を持たないあるがままの存在(絶空)

我が身が一体であることによって、自らもその空なる存在としての万物、例えば泥田に美しく咲く蓮の花のように実在していることを説く「法華経」を第八住心として配置し、

そのあるがままに展開している存在は、素材は同じだが、その都度、変化・集合して様々な形相を呈するから、それを蓮華蔵(蓮の花の生態系)の喩えにして説く「華厳経」を第九住心に配置する

 また、それらの仏法はナーガールジュナによって、論理では物事の存在を証明することはできないとした後の教えであるから、その教えは論理ではなく、行為とイメージが主体となって説かれるのである

 その為、天台では数年から十数年に亘って山中をただひたすら日夜駆けて、天地自然と身心とが一体であることをさとらせる修行をさせ、

 華厳では善財童子がさとりへと向かう旅の物語の門口において「わがいのちをわがいのちとして引き受けること自体がさとりの世界を望み見る入口である」とさとりへの旅をもってさとりを諭す

■第十住心 実在する知