道元:『正法眼蔵』「現成公案」を読む~昔このまちで道元が座っていたーはじめっての仏教/塚原典央著より転記ー

出典:https://www.fpu.ac.jp/news/d153809_d/fil/booklet_2.pdf

<参考情報>

■釈尊の悟り

縁によって本体は変わる

・口の中にあるツバ()は自然と飲める(汚くないツバと心で思う)

一旦、口の中にあるツバをコップに出したツバは飲めない汚いツバと心で思う

「ツバ」そのものは変わらない

固定的な汚いツバは永遠に存在しない

物質的存在としての本体がない固定的に永遠に存在する本体はない無自性

・汚い「ツバ」は存在しない

⇒「汚い」と思うの(=「の原因妄執

妄執を離れるのが

物質的存在としての本体がない

固定的に永遠に存在する本体はない

無自性

・中道

汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない

本体がない固定的に永遠に存在する本体はない

つまり実体がない

ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない

つまり両極(名付けられた)を排した執着から離れる)のが

それが中道である

無自性中道

■縁起とは

・名付けられた「兄」と「弟」の関係は

⇒お互いに相手がいなければ成立しない

それ自体としては成立しない

つまり自性を持たない相依性の否定

相依性の否定

<参考情報>

■『中論』は

空あるいは無自性を説くと一般に認められているが

それも実は積極的な表現をもってするならば、

少なくとも中観派以後においては「縁起」(とくに「相互限定」)「相互依存」の意味にほかならないということがわかる。

・ただこの相互限定ということは、

二つ以上の連関のあるものが、一方から他のものに対して否定的にはたらくことである

相互依存というも、

一つのものが、それ自体では成立しえないが故に

他のものの力をまつのであるから、

やはりそれ自体のうちに否定的契機を蔵しているといいうるであろう。

・「縁起」というと

⇒肯定的積極的にひびくけれども、

実は否定を内蔵した概念であるといわねばならぬ

出典:サブタイトル/NN2-1.『中論』:『空の考察』~空と無自性/縁起(=相互依存)それ自体に否定を内蔵した概念~(龍樹:中村元著より転記)

執着から離れる

・名付けることを排する

■我々が勝手に昆虫というカテゴリを付けた名付けた

実体はない

無自性

名付けられたも有為

昆虫とそれ以外の相互依存関係自体が成立しない

無自性空であるから

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~

<参考情報>

概念戯論からの解放

 また空の立場からは、ものごとは役割に応じて名前が変わるので、いま仮に「空」ということばで「ものごとは空である、すなわち固有の本質を持たない」と表現しているが、「空」という表現そのものが究極(=勝義)であるわけでもない、とも言います

 つまり、本来は言語表現されえない、いいかえれば、概念によって間接的に指し示すことはできても、「空であること」は直接に体得されることが期待されるということです。

 とはいえ、ブッダの悟りであるその勝義的な真理(第一義諦)が人々に理解されるためには、「空」などの世間の言語表現が必要不可欠で、それを世俗真理(世俗諦)とも呼びました

 もとより、事物に固有の本質はないが、そこに固有の本質があるかのような錯覚はある。それが錯覚にすぎないこと気づかせるために、「空」という否定的な響きのある言葉が選びとられたとナーガールジュナは言います

 ただし、空が正しく理解されるというのは錯覚を錯覚であると気づくことそれによって煩悩の根源に巣くう概念化(戯論)という心のはたらきから解放されることを意味しています

出典:サブタイトル/龍樹(ナーガールジュナ)~大乗仏教の基盤を整えた空観(=中道)/大乗仏教徒が安心して修行できる根拠をザックリ知る~中項目:■空とは何でしょう? ―中観派(ちゅうがんは)の教えを学ぶ/第16回 愛宕薬師フォーラム(東京大学教授 斎藤 明 先生)

<参考情報>

時間概念が否定

 因果論や縁起論はもちろんのこと、カントの認識論も、ヘーゲルの自己展開する弁証法も崩壊させるような根本的問題を突きつけることになる。

 まず、観時品では直接的に「時相の不可得」と言い、「時有るべきや」と反語的に時間把握の不可能を言っているが、このことをもう少し具体的に展開している去来品で検討してみよう。

 時間論と言えば多くの論者がこの去来品を取り上げるものの、已去(過去)と未去(未来)については明快に否定できるのだが、「去時」、即ち「去りつつある時」の「現在」については、どれもこれもその説明に難渋しているところが先の思考の次元化を適用すると、これについての次のような解き方が可能となる。

 過去や未来がたとえ無であったとしてもその名前や概念が成立していること自体が重要であり

 概念や名前、即ち仮名があることによって「現在」も把握できる、ということである

 しかもそのような「仮名という空虚な趣をもつ過去や未来によって立てられた「現在」だから、結局、その「現在」も空虚である、という論証の仕方である

 同時にそれが意味するところは、たとえそれらが「仮名」だとしても、現在が過去と未来の繋がりの上に立てられている限り、そしてその限りにおいては現実的なのである。

つまり施設された仮名によって現在も「有る」と言われるとともに、単に仮名によって「現在」は成立しているのだからそれは空虚なものである

これが龍樹の「戯論」という語の背後に隠れている「仮名」の積極的意味であると思われる

つまり、「現在」は、有でもない無でもない、且つ、有でもあり無でもある、という論理によって成立する現実的なものなのである。それ故。「観時品」の第六偈に言うように、物に因るが故に時間が存在するとされ、物が無とされれば時間も無だとされるのである。

出典:サブタイトル/仮名/仮の働き:三時否定のからくり~龍樹の八不と思考の次元化より転記(渡辺明照 大正大学

<参考情報>

出典:空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)

<参考情報>

仏教(釈尊)は

あらゆるものに実体は無いとする

■法界縁起

・円融無碍と性紀のアプローチがある

円融無碍

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

<参考情報>

■華厳の特性

・性起

本来に備わっている(具)いるだけでなく

今、現在の現れている

働きが起きている

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

<参考情報>

仏教(釈尊)は

・あらゆるものに実体は無いとする

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

<参考情報>

■相依性の否定

<参考情報>

■『中論』は

空あるいは無自性を説くと一般に認められているが

それも実は積極的な表現をもってするならば、

少なくとも中観派以後においては「縁起」(とくに「相互限定」)「相互依存」の意味にほかならないということがわかる。

・ただこの相互限定ということは、

二つ以上の連関のあるものが、一方から他のものに対して否定的にはたらくことである

相互依存というも、

一つのものが、それ自体では成立しえないが故に

他のものの力をまつのであるから、

やはりそれ自体のうちに否定的契機を蔵しているといいうるであろう。

・「縁起」というと

⇒肯定的積極的にひびくけれども、

実は否定を内蔵した概念であるといわねばならぬ

出典:サブタイトル/NN2-1.『中論』:『空の考察』~空と無自性/縁起(=相互依存)それ自体に否定を内蔵した概念~(龍樹:中村元著より転記)

龍樹

相依性の否定

空であるから

相互依存は成立しないと論証した

執着から離れる

名付けることを排する

無自性空であるから

釈尊の悟り中道

両極を排する中道

⇒「有」と「無」のどちらにも実体を見ない

⇒「空の教え」こそが

釈尊の真意である中道

縁起による「空の教え」=中道における「空の教え」

縁起中道

■龍樹が重要視した原始経典の一説

中道によって法を説くのである

つまり両極名付けられた)を排した執着から離れる)のが

それが中道である

無自性中道

空が根底にあるので

釈尊は中道を説いた

出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~

空海の回答

2種類の成仏がある

出典:サブタイトル/空海の死生観-生の始めと死の終わり-(土居先生講演より転記:仏陀と大乗仏教&密教の見取り図)

<参考情報>

縁起中道

縁起は

⇒何かをとして

⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること

そういうものを「因施設」と呼んでいる

一例

・口の中にツバが出来れば、自然とツバを飲み込む(下図の右側)

そのツバを一旦コップに出して、それを飲み込む事は出来ない(下図の左側)

ツバそのものは変わらない

物質的存在としての本体がない固定的に永遠に存在する本体はない無自性

⇒名付けられた諸々が「空」

中道

汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない

本体がない固定的に永遠に存在する本体はない

つまり実体がない

ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバに実体はない

つまり両極(名付けられた)を排した執着から離れる)のが

それが中道である

無自性中道

出典:サブタイトル/出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~

■ 2024年10月2日 總持寺(横浜市鶴見区)に参拝

<参考情報>

■法界縁起

・円融無碍と性紀のアプローチがある

円融無碍

『フラクタル次元(=複雑性の度合い)』

・同じパターンが繰り返される系とは

あるパターンを見てもその大きさ(スケール)が分からないことを意味する。

つまり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じように見える。

出典:サブタイトル/華厳経と華厳思想 No.2(法界縁起)~吉田叡禮(臨済宗妙心寺派牟禮山観音寺住職)転記~

<参考情報>

■縁起とは

・名付けられた「兄」と「弟」の関係は

⇒お互いに相手がいなければ成立しない

それ自体としては成立しない

つまり自性を持たない相依性の否定

⇒つまり本体がないと言える

固定的に永遠に存在する本体はない

無自性

自性(もし「若者:名付けられた」という)があって

変わらない本体がある)としたら

自性

固定的に永遠に存在する本体

空の教え

すべての執われを離れる

空の教えが仏教として真実(仏説)であることを証明することであった

・龍樹がした証明

⇒釈尊が説いた「縁起」と「中道」から明らかにしていく

縁起中道

縁起は

⇒何かを因として

⇒何かが概念設定(=名前付けられる:汚いツバ等)されること

そういうものを「因施設」と呼んでいる

一例

・口の中にツバが出来れば、自然とツバを飲み込む(下図の右側)

そのツバを一旦コップに出して、それを飲み込む事は出来ない(下図の左側)

ツバそのものは変わらない

物質的存在としての本体がない固定的に永遠に存在する本体はない無自性

⇒名付けられた諸々が「空」

・中道

汚いツバ (縁によって外に出た)vs 綺麗なツバ(縁によって口の中にある)と名付けられているに過ぎない

本体がない固定的に永遠に存在する本体はない

つまり実体がない

ツバはツバである(名付けられた汚いツバ 、 綺麗なツバ実体はない

つまり両極(名付けられた)を排した執着から離れる)のが

それが中道である

善・悪を超えた悟りの境地

相依存の否定

・継時的な因果関係

言葉(名付け)からの開放執着を離れる

無分別

出典:サブタイトル/出典:サブタイトル/「龍樹菩薩の生涯とその教え(縁起=無自性=空=中道)」~2022年度 仏教講座⑪ 光明寺仏教講座『正信偈を読む』の転記~